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天界と地獄472

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472 しかし、行為と働きによって単に外なる形の中に現われるような行為と働きだけでなく、内なるものの中にあるようなものもまた意味されます。だれもが、すべての行為と働きは人間の意志と思考から発出することを知っているからです。なぜなら、そこから発出しないなら、自動人形や彫像から生じるような単なる運動となるからです――それゆえ、本質的に眺められた行為または働きは、その霊魂といのちを意志と思考から得ている単なる結果であり、結果の中の意志と思考でもあり、したがって、外なる形の中の意志と思考です。

ここから、行為または働きを生む意志と思考がどんなものであるかによって、行為と働きもそのようなものであることがいえます――思考と意志が善いものであるなら、その時、行為と働きは善いものです。けれども、思考と意志が悪であるなら、その時、行為と働きは、たとえ外なる形の中で同じように見えても悪です。
千の人間が同じように行なうことが、すなわち、同じような行為を示すことができます。外なる形に関してほとんど見分けることができないほど、それほど同じようにです。それでも、それぞれが本質的に見られたとき、同じではありません、意志が同じではないからです。
[2]仲間に、誠実にまた公正に行なうことを例にします――ある者は、自分自身と自分の名誉のために、誠実と公正であると見られようとする目的のために、彼らに誠実で公正に行なうことができます。第二の者は世と利益のために、第三の者は報酬と功績のために、第四の者は友情のために、第五の者は法律を恐れ、名声と職業を失うことを恐れるために、第六の者は他の者を自分の側に、悪の側にすら引き寄せるために、第七の者は欺くために、このように他の者に異なる理由で誠実にまた公正に行ないます――しかし、これらすべての行為は、たとえ善に見えても、なぜなら、仲間に誠実で公正に行なうことは善であるからです、それでも悪です、誠実と公正のために、それらを愛するためでなく、自分自身と世のために、それを愛するからです。誠実と公正は、召使いが主人に仕えるようにこの愛に仕えますが、主人は召使いが自分に役立たない時、さげすみ、追放します。
[3]誠実で公正なものへの愛から行なう者もまた、外なる形で同じように外観からは、仲間に誠実にまた公正に行ないます。彼らのある者は、みことばの中にこのように命じられているので、信仰の真理または従順から行ないます。ある者は、宗教的信念から、信仰の善または良心から行ない、ある者は、隣人の善を思いやらなくてはならないので、彼に対する仁愛の善から行ない、ある者は、主への愛の善から、善のために善を行なわなくてはならないので、このようにまた誠実と公正のために誠実と公正を行ないます。それらの誠実と公正は主からのものであるので、主から発出する神性がそれらの中にあるので、それらを愛します。ここからそれらは本質そのものの中に神性が見られます。
これらの行為と働きは内的に善であり、それゆえ、外的にもまた善です。なぜなら、前に言われたように、思考と意志がどんなものであるかによって、それらから発出する行為または働きはそのようなものであるからです。これらがなくては行為と働きはなく、いのちのない単なる運動です。
これらから、みことばの中の「働き」と「行為」よって何が意味されるか明らかです。