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天界と地獄348

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348 「多くの者を義とする者」によって賢明である者が意味され、天界で善の中にいる者は賢明な者と呼ばれます。神的真理を直ちに生活の中に取り入れる者は、そこの善の中にいます――なぜなら、神的真理は生活に属すものになるとき善となるからです。それは意志と愛に属すものになり、何であれ意志と愛に属すものは善と呼ばれるからです――それゆえ、これらの者は賢明な者と呼ばれます、なぜなら、知恵は生活に属すものであるからです。
けれども、神的真理を直ちに生活に取り入れないで、最初に記憶に取り入れ、その後、そこから真理を取り出し、生活に適用する者は知性のある者と呼ばれます。
前者と後者が天界の中で、どのように、またどれほど異なっているかは、天界の天的な王国と霊的な王国の二つの王国について扱われている章に(20-28)、また三つの天界について扱われている章に(29-40)見ることができます。
主の天的な王国にいる者は、したがって第三または最内部の天界にいる者は、義(公正)を自分自身には何も帰さないで、すべてを主に帰すことから、正しい者と呼ばれています。天界で、主の義(公正)とは主からの善です(*2)。それゆえ、ここの彼らは「義とする者」によって意味されています。主が次のように言われている者もまた、これらの者です、

正しい者たちは、わたしの父の王国で太陽のように輝きますマタイ13:43)。

太陽のように輝くことは、主からの主への愛の中にいるからであり、その愛が「太陽」によって意味されています(前の116-125番参照)。さらにまた、彼らは愛の善を天界の太陽としての主から直接に受けているので、彼らのもとの光は炎のようであり、彼らの思考の観念は炎のようなものから得られています。


*2 主の功績と公正(義)は天界を支配している善である(9486, 9983)。
「正しい者」と「義とされた者」に主の功績と公正(義)が帰せられ、「不正な者」にはプロプリウム(固有のもの)の公正(義)と自分自身の功績がある(5069, 9263)。
公正(義)を自分自身に要求する者らは来世でどんなものであるか(942, 2027)。
みことばで、「公正(義)」は善について、「判断(審判)」は真理について言われ、ここから「公正(義)と判断(審判)を行なうこと」は善と真理を行なうことである(2235, 9857)。