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天界と地獄 535

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535 私は、敬虔で信心深く生きるために、世の職業から遠ざかった者と、来世で話し、さらにまた、自分自身をいろいろな手段で苦しめることが世を棄てて肉の欲望を抑制することであると信じたので、そのようにした者とも、来世で話すようになりました。しかし、彼らの大部分の者は、このことから悲しい生活を引き寄せてしまい、世の中でしか、なし遂げられることのできない仁愛の生活を自分自身から遠ざけたので、天使と仲間になることができませんでした。天使の生活は幸福からの喜ばしいものであり、仁愛の働きである善を行なうことにあるからです――さらに、世俗のものから引き離された生活を送った者は、功績を熱望し、ここから絶えず天界を望み、天界の楽しみについては報酬として考えて、天界の楽しさが何であるかをまったく知りません――彼らは、天使の間で、功績ではないその楽しさの中に入れられるとき、その楽しさは役立ちの実践と〔これを〕示すことであって、それを実行する善からの至福の中にいるのですが、その楽しさを〔自分たちの〕信念とは異質なものを見るかのように驚きます――彼らは、その楽しさを受け入れることができないので、立ち去り、世で似た生活を送った者と仲間になります。
[2]けれども、外面的に信心深く生きて、絶えず神殿で祈って、自分の魂を苦しめ、同時に常に自分自身について、こうして他の者たちにまさって尊重され、尊ばれ、ついには死後、聖徒と見なされると考えた者は、このようなことを自分自身のために行なったので、来世では天界にいません。神的真理を自己愛で汚し、自己愛に浸したので、彼らのある者は自分自身を神々であると考えるほどに狂っています。それゆえ、地獄の中のこのような者の間にいます。
欺きの地獄に、詐欺的で狡猾な者がいます。その者は外なる形でこのようなことを策略と欺瞞によって行ない、そのことによって一般の人々に自分たちには神の信心深さがあると信じ込ませたのです。
[3]このような者の多くは、ローマカトリック教の聖徒からです。彼らともまた話すようになり、その時、彼らの生活が世でどのようなものであったか、その後どのようなものであるか明らかに見られました。
これらのことを述べたのは、天界へ導く生活は世から切り離された生活ではなく、世での生活であること、仁愛の生活は世にだけに存在しますが、その仁愛の生活のない敬虔な生活は天界へ導かないことが知られるためです。仁愛の生活は、内的なものから、このように天界を起源として、すべての職務・仕事・働きで、誠実に、公正に行なうことです。人間が、神的な律法にしたがうことであるからと誠実で公正に行なうとき、この起源が彼の生活に内在します。
この生活は困難ではありません。しかし、仁愛の生活から切り離された敬虔な生活は困難です。しかもその生活は、天界へ導かれると信じれば信じるほど、それだけ天界から引き離されます(*2)


*2 仁愛の生活のない敬虔な生活は何も有効ではない、しかし、仁愛とともに、すべてのものに益する(8252, 8253)。
隣人に対する仁愛は、すべての働きとすべての職務の中で、善・公正・正義を行なうことである(8120-8122)。
隣人に対する仁愛は、人間が考え、意志し、行なうすべてと個々のものに広がっている(8124)。
仁愛の生活は主の戒めにしたがう生活である(3249)。
主の戒めにしたがって生きることは、主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10578, 10645)。
本物の仁愛は、内的な情愛からのものであり、ここからの快さのものであるので、功績的ではない(2371, 2380, 2400, 3816, 3887, 6388-6393)。
人間は、彼の仁愛の生活が世の中でどのようであったかによって、死後、そのような生活を続ける(8256)。
天界の至福は主から仁愛の生活の中に流入する(2363)。
だれも、ただ善を考えることだけによって天界に入れられない、しかし、同時に善を意志し、行なうことによって入れられる(2401, 3459)。
善を行なうことが、善を意志し、善を考えることと結合しないなら、救いはなく、内なる人は外なる人と結合もしない(3987)。