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天界と地獄360

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360 私は、世で生きていた時、世を放棄し、ほとんど孤独の生活を送った者と死後に話しました。彼らは世俗の思いを取り除いて敬虔な瞑想に専心するために、そうしたのであり、こうして天界への道へ入ることを信じました――しかし、彼らは来世でゆううつな性質であり、自分と似ていない他の者を軽蔑し、自分が幸福に値すると信じて、他の者にまさって幸福を割り当てられないことに憤慨しています。他の者を思いやることもなく、天界と結合をもたらす仁愛の役立ちから自分自身を退けています。
彼らは他の者にまさって天界を望みます、しかし、天使がいるところに上げられるとき、不安をひき起し、天使の幸福を乱します。それゆえ、引き離されます。引き離されてから見捨てられた場所に行き、そこで世にいたときと似たような生活を送ります。
[2]人間は、世によらないなら、天界へと形作られることはできません。世に最終の結果があり、その結果の中にそれぞれの者の情愛が終結しなくてはなりません。情愛を社会の多くのものの中で働かせるかまたはそこの活動の中に注ぎ出されなければ、それは窒息させられて、ついには、人間はもはや隣人に目を向けないで、自分自身にだけ目を向けるようになります。
ここから、すべての働きと職務の中で公正と正義を行なうことである隣人に対する仁愛の生活は天界へ導きます。けれども、仁愛のない敬虔な生活は導かないことが明らかです(*3)――したがって、仁愛を実践し、そこからそのいのちが増大することは、人間が職業に就いていれば、それだけ与えられ、遠ざかれば、それだけ与えられません。
[3]そこで、このことについて経験から話します。
世で取引や商業の仕事をし、そのことによって富をなした多くの者が天界にいます。しかし、称賛される地位にいて、職務を通して富をなした者はそれほどいません。その理由は、これらの者は公正と正義を割り当てることで生じた利益と名誉を自分自身にもまた与え、自分自身と世を愛するようになり、そのことによって思考と情愛を、天界から遠ざけ、自分自身に向けたからです――なぜなら、人間が自分自身と世を愛し、すべてのものの中で自分自身と世に目を向けるほど、それだけ神性から自分自身を追い出し、天界から遠ざかるからです。


*3 隣人に対する仁愛は、すべての働きとすべての職務の中で善・公正(義)・正義を行なうことである(8120-8122)。
ここから、隣人に対する仁愛は、人間が考え、意志し、行なうすべてと個々のものに広がっている(8124)。
仁愛の生活のない敬虔な生活は何にも効力がない、しかし、敬虔な生活は仁愛の生活とともになるとき、すべてに益する(8252, 8253)。