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天界と地獄312

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312.  教会の人間がこのように信じているさらなる理由は、〝最後の審判の時よりも前に、人間はだれも天界または地獄に行くことはない〟と信じているからです。最後の審判について受け入れられている見解は、〝その時、目の前のすべてのものが滅んで、新しいものが存在し、霊魂はその時、自分の身体の中に戻り、人間はその結合から再び生きる〟というものです――この見解は、〝天使は始めから創造された〟という天使についての信仰を含みます。なぜなら、世が終わるよりも前に、人間はだれも天界や地獄に行かないことが信じられるとき、天界と地獄は人類から存在することが信じられないからです。
[2]しかし、そのようでないことを人間が納得するために、私は天使との交わりを持ち、そしてまた地獄の中にいる者と話すようになり、このことが今や多くの年月の間、時々は朝から晩まで絶えず続き、このように天界と地獄について教えられることが与えられました。この理由は、教会の人間が、審判の時の復活について、そしてその間の霊魂の状態について、さらに天使や悪魔について、自分の間違った信仰の中にこれ以上とどまらないためです――その信仰は虚偽の信仰であるので、暗やみを含み、それらについて自己の知性から考える者のもとでは、疑いを、ついには否定をひき起します。なぜなら、彼らは心(cor)で、「どのようにして、これほど大きな天がこんなにも多くの星座とともに、また太陽と月とともに、破壊され、消滅することが可能なのか? どのようにして、その時、天から星が、それは地より大きいのに、地に落ちることができるのか? どのようにして、虫によって食い尽くされ、腐敗して滅び、すべての風で散らされた身体が、自分の霊魂へ再び集められることができるのか? その間、霊魂はどこにいて、身体にあった感覚がなくなってしまったとき、どんな状態であるのか?」と言い、他にも多くの同じようなことを言うからです。
[3]それらは、理解できないことなので信仰の中に入り込まないで、多くの者のもとで死後の霊魂のいのちについての信仰を、また天界と地獄についての信仰を、またそれらとともに教会の信仰に属するその他のものを破壊します。
彼らが信仰を滅ぼしたことは、「だれが天界から私たちのところに来て、そのようであると語ったか? 地獄とは何か? 存在するのか? 人間が永遠に火で苦しめられることとは何か? 審判の日とは何か? それは数世紀の間、むなしく期待されなかったか?」と言う者がいることから明らかです。その他にも多くのことが言われますが、それらはすべて否定です。
[4]そこで、世俗的なものから賢明であり、博学で学問があると呼ばれている者に多いことがよくありますが、このように考える者が、さらに信仰と心で単純な者を混乱させ、惑わせて、神・天界・永遠のいのちについて、またこれらから他のものについて、地獄の暗やみをひき起すことがないように、私の霊である内的なものが主により開かれ、こうしてかつていのちが身体の中にあったときに私がよく知っていたすべての者と死んだ後に語るようになりました。ある者とは数日の間、ある者とは数か月の間、ある者と一年の間です。また他の者と、十万人と言っても少ないくらいの、このように多くの者とです。それらの多くの者は天界の中に、また地獄の中にいました。
さらにまた、死んで二日後のある者たちと話し、私は、「今、あなたがたの埋葬のために、葬儀と葬式が行なわれています」と語りました。そのことについて彼らは、「われわれに世で役立つためのものであった身体は捨てるほうがよいであろう」と言いました。そして、「われわれは死んでいない。今や人間として以前のように等しく生きている。一つの世界からもう一つの世界へ移住しただけである。身体とその感覚の中に以前のようにいるので、また以前のように理解力と意志の中に、世であったような同じような思考と情愛、同じような感覚、また同じような願望の中にいるので、何かを失ったとは思っていない」と私が言うよう望みました。
[5]死から間もない大部分の者は、自分が人間として以前のように生きて、同じような状態の中にいるのを見るとき(なぜなら、死後、それぞれの者の最初のいのちの状態は、彼にとって世であったようなものであるからです。しかし、それは彼のもとで連続的に天界または地獄に変わります)、生きていることに新しい喜びで感動し、「このことを信じていなかった」と言います――自分たちの死後のいのち状態について、このような無知と盲目の中にいたことに大いに驚き、また、教会の人間が、地球全体の中ですべての者にまさってそれらについて光の中にいることができるのに、そのような状態の中にいることにさらに驚きます(*3)
その時、彼らは盲目と無知の理由をはじめて知ります。それは、世と身体である外なるものが、自分たちの心を占め、満たしたからであり、占め、満たすほど、それだけ天界の光の中に揚げられることができないで、教会の事柄を教えを超えて熟視することができないことです。身体的なものと世的なものが今日のように愛されるほど、〔教えを超えて〕さらに熟視を突き進めても、そこからはますます暗やみだけが流入するからです。


*3 今日、キリスト教界の中で、人間が死後、直ちに復活することを信じる者は少ない(「創世記」16章への序文、それと4622, 10758番)。しかし、最後の審判の時、目に見える世界が滅びるときに〔復活すると信じている〕(10595)。
このように信じられていることの理由(10595, 10758)。
それでも、人間は、死後、直ちに復活し、その時、すべてと個々のものに関して人間である(4527, 5006, 5078, 8939, 8991, 10594, 10758)。
死後に生きる霊魂は人間の霊であり、それは人間の中で人間そのものであり、そしてまた来世でも完全な人間の形である(322, 1880, 1881, 3633, 4622, 4735, 5883, 6054, 6605, 6626, 7021, 10594)――経験から(4527, 5006, 8939)――みことばから(10597)。
聖なる都の中で見られた死人によって(マタイ27:53)何が意味されるか、説明されている(9229)。
どのように人間は死から復活するか、経験から(168-189)。
復活後のその状態について(317-319, 2119, 5079, 10596)。
霊魂とその復活についての間違った見解(444, 445, 4527, 4622, 4658)。