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天界と地獄271

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271  第三の天界の天使がこのようなものであることは、彼らが主への愛の中にいて、その愛により心のものである内的なものが第三の段階にまで開かれ、その愛が知恵のすべてのものの容器であるからです。
さらに、最内部の天界の天使はそれでも絶えず知恵を完成させられており、このこともまた最外部の天界の天使とは異なることを知らなくてはなりません。
最内部の天界の天使は神的真理を記憶の中に蓄えないで、したがってそれらから何らかの知識をつくることもしないで、それらを聞くと直ぐに、それらを知覚し、生活に適用します。ここから、神的真理は彼らのもとに刻み込まれたかのようにとどまります、なぜなら、生活に適用されるものは、このように内在するからです。
けれども、最外部の天界の天使に事実は異なっています。彼らは神的真理を最初、記憶の中に蓄え、そして知識の中にしまい込み、そこからそれらを取り出し、それらによって自分の理解力を完成させ、真理であるかどうかを内的に知覚しないで、それらを意志し、生活に適用します――ここから、彼らにとって〔神的真理は〕相対的に不明瞭なものです。
第三の天界の天使が知恵を完成させられるのは聴覚によるのであって、視覚によるのではないことは話しておく価値があります。彼らが説教から聞くものは、記憶の中に入らないで、直接に知覚と意志の中に入り、生活に属すものになります。けれども、目で見るものは彼らの記憶に入り、それらについて推論し、話します。ここから、彼らにとって聴覚の道が知恵の道であることが明らかです。
このこともまた対応によります、なぜなら、耳は従順に対応し、従順は生活に属すからです。しかし、目は知性に対応し、知性は教えに属すものです(*6)
天使のこれらの状態は、みことばの中のあちこちにもまた記述されています。 例えば「エレミヤ書」に――

わたしはわたしの律法を彼らの精神に植え付け、彼らの心にそれを書きつける。……これからはだれも 、「エホバを知れ」と言って、自分の友に教えず、自分の兄弟にも教えない。なぜなら、彼らの最小の者から彼らの最大の者まで、それほどの数の者がいて、わたしを知るからである31:33, 34)。

また「マタイ福音書」に、

あなたがたのことばは、「そう、そう」、「いいえ、いいえ」でありなさい。これらを超えるものは、悪からのものです5:37)。

これらを超えるものが悪からであることは、主からのものではないからです。なぜなら、第三の天界の天使に内在する真理は、主への愛の中にあるので、主から存在するからです――その天界の中の主への愛は、神的真理を意志し、行なうことです、なぜなら、神的真理は天界の主であるからです。


*6 耳と聴覚の対応について(4652-4660)。
耳は知覚と従順に対応し、ここからそれらを意味する(2542, 3869, 4653, 5017, 7216, 8361, 9311, 9397, 10061)。
耳は真理の受け入れを意味する(5471, 5475, 9926)。
目とその視覚の対応について(4403-4421, 4523-4534)。
ここから、目の視覚は信仰に属す知性そしてまた信仰を意味する(2701, 4410, 4526, 6923, 9051, 10569)。