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主とその方の神的人間性について『天界の秘義』からの抜粋

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[2]主の神性は受胎そのものから存在した(4641, 4963, 5041, 5157, 6716, 10125)。
主おひとりに神的な種が存在した(1438)。
その方の霊魂はエホバであった(1999, 2004, 2005, 2018, 2025)。
このように主の最内部は神性それ自体であり、包んでいるものは母から発した(5041)。
神性それ自体は、主のいのちのエッセ(存在)であり、そこからその後、人間性が発生し、そのエッセ(存在)からエキシステレ(実在)となった(3194, 3210, 10269, 10372)。

[3]みことばがあり、それによって主が知られている教会内では、主の神性も、その方から発出する聖性も否定されてはならない(2359)。
教会内で主を認めない者に神性との結合はない。教会外にいる者は異なる(10205)。
主の神性と、父とその方との合一性を認めることは、教会の本質的なものである(10083, 10112, 10370, 10730, 10738, 10816-10820)。

[4]主の栄化について、みことばの中に多くのことが扱われている(10828)。
みことばの内意には、どこでも扱われている(2249, 2523, 3245)。
主は、ご自分の人間性を栄化されたのであって神性を栄化されたのではない、神性は本質的に栄化されていたからである(10057)。
主は、ご自分の人間性を栄化するために世に来られた(3637, 4287, 9315)。
主は、受胎のときからあったご自分の人間性をご自分の中の神的愛によって栄化された(4727)。
全人類に対する主の愛は、世での主のいのちであった(2253)。
主の愛は、人間のすべての理解力を超えている(2077)。
主は、ご自分の人間性を栄化することによって、人類を救われた(4180, 10019, 10152, 10655, 10659, 10828)。
そうでなければ、全人類は永遠の死のうちに滅んでしまった(1676)。
主の栄化の状態と卑下の状態について(1785, 1999, 2159, 6866)。
栄化は、主について述べられているところでは、神性とその方の人間性の結合であり、栄化することは、神的なものにすることである(1603, 10053, 10828)。
主は、ご自分の人間性を栄化されたとき、母からのすべての人間性を、ついにその息子ではないまでに脱ぎ捨てられた(2159, 2574, 2649, 3036, 10830)。

[5]永遠からの神の子は、天界の中の神的真理であった(2628, 2798, 2803, 3195, 3704)。
主もまた、世におられたとき、ご自分の中の神的善からその人間性を神的真理とされた(2803, 3194, 3195, 3210, 6716, 6864, 7014, 7499, 8127, 8724, 9199)。
その時、主は神的真理にしたがっているご自分のすべてのものを天界の形に配列された(1928, 3633)。
それゆえ、主はみことばと言われ、それは神的真理である(2533, 2813, 2859, 2894, 3393, 3712)。
主おひとりに、ご自身からの知覚と思考があられ、それらは天使的なすべての知覚と思考にまさっていた(1904, 1914, 1919)。
主は、ご自身である神的真理を、ご自分の中の神的善と結合された(10047, 10052, 10076)。
結合は交互的であった(2004, 10067)。

[6]主は世から立ち去るとき、ご自分の人間性もまた神的善とされた(3194, 3210, 6864, 7499, 8724, 9199, 10076)。
これが、父から出て、また父へ戻られることによって意味されることである(3194, 3210)。
このように父と一つとなられた(2751, 3704, 4766)。
結合の後、神的真理は主から発出している(3704, 3712, 3969, 4577, 5704, 7499, 8107, 8241, 9199, 9398)。
どのように神的真理は発出しているか、その説明(7270, 9407)。
主は、ご自分に固有の力から人間性を神性に結合された(1616, 1749, 1752, 1813, 1921, 2025, 2026, 2523, 3141, 5005, 5045, 6716)。
ここから、主の人間性は、受胎が神性そのものからであったので、他の人間の人間性のようではなかったことを明らかにすることができる(10825, 10826)。
父からその方の霊魂が存在し、父とその方の結合は、ふたりの間のようなものではなく、霊魂と身体の間のようなものであった(3737, 10824)。

[7]最古代人は神的エッセ(存在)を崇拝できず、神的人間性である神的エキシステレ(実在)を崇拝できた。それゆえ、主は神的エッセ(存在)からの神的エキシステレ(実在)になるために、世に来られた(4687, 5521)。
古代人は、彼らに〔神性が〕人間の形で現われたので、〔その〕神性を認め、これが神的人間性であった(5110, 5663, 6846, 10737)。
無限のエッセ(存在)は、神的人間性によってでないなら、天界の中の天使のもとにも、人間のもとにも流入することはできない(1676, 1990, 2016, 2034)。
天界では、神的人間性以外の神性は何も受け入れられない(6475, 9303, 9267, 10067, 10267)。
永遠からの神的人間性は、天界の神的真理であり、天界を通って通り過ぎ、こうして神的エキシステレ(実在)であった。その後、主の中でそれ自体から神的エッセ(存在)となり、そこから天界の中に神的エキシステレ(実在)となった(3061, 6280, 6880, 10579)。
主の降臨の前、天界の状態はどんなであったか(6371-6373)。
神性は、天界を通り過ぎたときでないなら、知覚できるものでなかった(6282, 6996, 7004)。

[8]すべての地球の住民は、神性を人間の形の下に、このように主を崇拝する(6700, 8541-8547, 10736-10738)。
彼らは神が実際に人間となられたことを聞くとき喜ぶ(9361)。
主は、善の中にいる者を、また神性を人間の形の下に崇拝するすべての者を受け入れられる(9359)。
人間の形でないなら、神について考えることはできず、理解できないものは、何の観念にも、そのように信仰の中にも落ち込まない(9359, 9972)。
人間は何らかの観念をもつものについて礼拝できるが、何も観念をもたないものについて礼拝できない(4733, 5110, 5663, 7211, 10067, 10267)。
それゆえ、全地球の大部分の者から、神性は人間の形の下に礼拝され、このことは天界からの流入によっている(10159)。
生活に関して善の中にいるすべての者は、主について考えるとき、神的人間性について考え、神性から分離した人間性について考えない。生活に関して善の中にいない者は異なる(2326, 4724, 4731, 4766, 8878, 9193, 9198)。
今日、教会の中で、生活に関して悪の中にいる者は、なおまた仁愛から分離した信仰の中にいる者は、神性のない主の人間性について考え、さらにまた神的人間性とは何か理解しない。その原因(3212, 3241, 4689, 4692, 4724, 4731, 5321, 6872, 8878, 9193, 9198)。
主の神性は、その方の霊魂である父のエッセ(存在)からのものであるので、神的である。父に類似のものが子の中にあることによる説明(10269, 10372, 10823)。
また、神的愛からのものなので、それは受胎から、その方のいのちのエッセ(存在)そのものであった(6872)。
それぞれの人間は、その愛のようなものであり、その者の愛である(6872, 10177, 10284)。
主は、外なるものと同じく内なるものもすべての人間性を神的なものとされた(1603, 1815, 1902, 1926, 2803, 2093)。
それゆえ、主は、どの人間とも異なり、全身に関して復活された(1729, 2083, 5078, 10825)。

[9]主の人間性が神的なものであることは、聖餐の中にその方が遍在されることから認められる(2343, 2359)。
また、三人の弟子たちの前でのその方の変容からも(3212)。
また、旧約聖書からも、そこでは神と呼ばれている(10154)。
また、エホバと呼ばれている(1603, 1736, 1815, 1902, 2921, 3035, 5110, 6282, 6303, 8864, 9194, 9315)。
文字どおりの意味では、父と子の間は、すなわち、エホバと主の間は、区別されている、しかし、みことばの内意では区別されていない、その〔内意の〕中に天界の天使たちがいる(3035)。
キリスト教界で、主の人間性は神性と認められていない、そのことは法王がその方の代理人として認められるために、法王のための会議でなされた(4738)。

[10]キリスト教徒たちは、来世で、唯一の神についてどのような観念をもっているか調べられ、三つの神の観念をもっていることがわかった(2329, 5256, 10736-10738, 10821)。
三一性は、すなわち、三つの位格の中の神性ではなく、一つの位格の中の三つの神性は、このように唯一の神の考えは、抱かれることのできるものである(10738, 10821, 10824)。
主の中の神的三一性は、天界の中で認められている(14, 15, 1729, 2004, 5256, 9303)。
主の中の三一性は、父と呼ばれる神性そのもの、子と呼ばれる神的人間性、聖霊と呼ばれる発出する神性であり、この神的三一性は一つのものである(2149, 2156, 2288, 2319, 2329, 2447, 3704, 6993, 7182, 10738, 10822, 10823)。
主ご自身が、父とご自分は一つであることを教えられた(1729, 2004, 2005, 2018, 2025, 2751, 3704, 3736, 4766)。神的な聖性はその方から発出し、その方のものである(3969, 4673, 6788, 6993, 7499, 8127, 8302, 9199, 9228, 9229, 9264,  9407, 9818, 9820, 10330)。

[11]神的人間性が天界に流入し、天界をつくる(3038)。
主は天界の中のすべてであられ、天界のいのちであられる(7211, 9128)。
主は天使のもとのご自分のものの中に住まわれる(9338, 10125, 10151, 10157)。
ここから、天界の中にいる者たちは主の中にいる(3637, 3638)。
天使との主の結合は、その方からの愛と仁愛の善の受け入れにしたがっている(904, 4198, 4205, 4211, 4220, 6280, 6832, 7042, 8819, 9680, 9682, 9683, 10106, 10810)。
全天界は主と関係する(551, 552)。
主は天界の共通の中心であられる(3633, 3642)。
そこのすべての者は、自分自身を天界の上方へ、主へ向ける(9828, 10130, 10189)。
それでも、天使が自分自身を主へ向けるのではなく、主が彼らをご自分へ向けられる(10189)。
主のもとに天使が現在するのではなく、天使のもとに主が現在される(9415)。
天界の中に、神性そのものとの結合はなくて、神的人間性との結合がある(4211, 4724, 5663)。

[12]天界は主の神的人間性に対応する。ここから天界は全般的にひとりの人間のようであり、それゆえ、天界は〝最大の人〟と呼ばれる(2996, 2998, 3624, 3649, 3636-3643, 3741-3745, 4625)。
主はひとりの人間であられ、その方から神的なものを受ける者だけが人間である(1894)。
彼らは受ければ受けるほど、それだけ人間であり、その方の映像である(8547)。
それゆえ、天使は人間の形の愛と仁愛の形であり、このことは主からのものである(3804, 4735, 4797, 4985, 5199, 5530, 9879, 10177)。

[13]全天界は主のものである(2751, 7086)。
天界の中と地上のすべての力はその方にある(1607, 10089, 10827)。
主は全天界を支配されるので、それに依存するすべてのものを、したがって世のすべてのものをもまた支配される(2026, 2027, 4523, 4524)。
主おひとりに、地獄を遠ざけ、悪を押しとどめ、善の中に保ち、このように救う力があられる(10019)。