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天界と地獄 526

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526 私は時々、慈悲について天使と語り、「悪の中に生きた世の大部分の者は、他の者たちと、天界について、また永遠のいのちについて、天界に入ることはただ慈悲だけから入るのを許されることであるとしか知らないで、そのこと以外に話しません。また、信仰が唯一の救いの手段となることを信じている者は、特にそのことを信じています――なぜなら、彼らは自分の宗教の原理から生活に、生活をつくる愛の行為に、したがって主が人間に天界を植え付け、天界の楽しさを受け入れることができるようにする他の手段に目を向けないからです。このように実際にある介在的なものをすべて退けてしまい、その原理から必要とされ、定めていることは、父なる神が御子の執り成しによって心を動かされ、その慈悲だけから人間は天界にやって来る、と信じることです」と言いました。
[2]これらのことに、天使は、「信仰のみについて理解された原理から、そのような教義が必要とされ、帰結されることは知っています。その教義はその宗教の主要な部分であって、真理ではないので、その中へ天界からの光は何も流入することができず、ここから主、天界、死後の生活、天界の楽しさ、愛と仁愛の本質、全般的に善について、また真理とのその結合について、それゆえ、人間の生活について、どこからであるのか、またどのようなものであるのか、無知が存在し、その中に今日の教会があります。それでも、生活はだれのもとにも思考からは決して存在せず、意志から、意志からの行為から存在し、どれだけ思考が意志から得たものであるかによって、それだけ思考が存在し、したがって信仰は、愛から得たものでないかぎり、信仰ではありません」と言いました。
天使は、「その無知である者が、信仰のみは愛の起源をもたない信仰なので、単に知識であり、ある者のもとに〔信仰で〕ありえないこと、またある者のもとでは信仰を装う(前の482番参照)何らかの間違った信念であることを知らない」ことを悲しんでいます。間違った信念は人間の生活(いのち)の中になく、その外にあります、なぜなら、もし愛と密着しないなら人間から分離されるからです。
[3]さらに天使は、「人間のもとの救いの手段の本質的なものについてこのような原理の中にいる者は、自然的な光から、また視覚による経験からも知覚するので、直接の慈悲しか信じることができません。愛から分離した信仰は人間の生活をつくりません、悪の生活を送った者も同様に考え、自分自身に確信することができるからです。ここから、ただ死の時に、執り成しについて、またそれらによって慈悲について信頼から話すだけで、悪い者も善い者と等しく救われることができると信じられています」と言いました。
天使は、悪く生きた者が、直接の慈悲から、どんな方法でも信頼または信任から――すぐれた意味ではそれらによって信仰が意味されますが――今までだれも天界の中に受け入れられるのを見たことがないことを認めています。
[4]「アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、そして使徒たちは、直接の慈悲から天界に受け入れられたのではないか」という質問に答えて、「そのようなことは彼らのだれにもなく、それぞれの者は、世での自分自身の生活にしたがって受け入れられます。彼らがどこにいるか知っており、そこでは、他の者よりも尊重されていません――みことばの中に彼らが名誉とともに記されているのは、彼らによって内意では主が意味されることがその理由です。「アブラハム、イサク、ヤコブ」によって、神性と神的人間性に関する主が、「ダビデ」によって、神的王に関する主が、「使徒たち」によって、神的真理に関する主が意味されています。みことばが人間により読まれているとき、彼らの名前は天界に入ってこないので、彼らについてまったく何も把握しません。しかし、彼らの代わりに、すぐ前に言われたように主を知覚します。それゆえ、天界の中にあるみことばの中に(それについては前の259番)、そのみことばは、世にあるみことばの内意であるので、どこにも彼らの名前は記されていません」と言いました*2。

*2 みことばの内意で「アブラハム」、「イサク」、「ヤコブ」によって、神性そのものと神的人間性に関する主が意味される(1893, 4615, 6098, 6185, 6276, 6804, 6847)。
アブラハムは天界の中で知られていない(1834, 1876, 3229)。
「ダビデ」によって、神的な王権に関する主が意味される(1888, 9954)。
十二使徒は、教会のすべてのもの、したがって信仰と愛に属すすべてのものに関する主を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397)。
ペテロは信仰に関する主を、ヤコブは仁愛に関する主を、ヨハネは仁愛の働きに関する主を表象した(3750, 10087)。
十二使徒が十二の王座に座り、イスラエルの十二部族を裁くことは、主が信仰と愛に属す真理と善にしたがって裁くであろうことを意味する(2129, 6397)。
みことばの中の人物や場所の名前は天界に入らないで、物事と状態に変化する。天界の中では名前を口にすることもできない(1876, 5225, 6516, 10216, 10282, 10432)。
さらにまた、天使は人物から抽象して考える(8343, 8985, 9007)。