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天界と地獄 508

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508 悪い者がこの状態の中でどんなであるか、わずかなもので述べられることはできません。なぜなら、その時、それぞれの者は自分の欲望にしたがって狂い、そしてそれらの欲望はいろいろであるからです。それゆえ、私はただいくつか特別なものを提示しましょう、それらから他のものを結論することができます。
すべてにまさって自分自身を愛し、職務や任務で自分自身の名誉に目を向けて、役立ちのために役立ちを果たさず、役立ちも楽しまず、しかし、名声のために、職務や任務によって他の者よりもさらに値すると評価され、このように自分自身の名誉の評判を喜んだ者は、この第二の状態にいるとき、他の者よりも愚鈍です。なぜなら、だれでも自分自身を愛するほど、それだけ天界から遠ざけられ、天界から遠ざけられるほど、それだけ知恵から遠ざけられるからです。
[2]けれども自己愛の中にいて、同時に詐欺的であり、自分自身を策略によって名誉へと高めた者は、最悪の者と仲間となり、神的な秩序の濫用である魔法の技術を学んで獲得し、それによって自分たちを尊敬しないすべての者を苦しめ、悩ませます。彼らは陰謀をたくらみ、憎しみを抱き、復讐に燃え立ち、自分たちに服従しないすべての者に激怒しようとします。悪意ある群衆がそれらすべてのものに賛同すればするほど、それだけ突進し、ついには、どのようにして天界に上るかを心の中で考えます、それを破壊するため、あるいはそこに神々として礼拝されるためです――彼らの狂気はそれほどに高ぶります。
[3]ローマカトリック教からやって来ているこのようであった者は、他の者よりも、さらに狂っています。自分たちの権限の下に天界と地獄があり、そして思いのままに罪を赦すことができる、という性質を抱いているからです。彼らは、すべての神性を自分自身に要求し、自分自身をキリストと呼びます。彼らの確信はこのようなものであって、例えば、それが流入するどこでも、心を混乱させ、苦しむほどの暗やみをひき起します――彼ら自身にとって、〔第一と第二の〕両方の状態はほとんど似ています、しかし、第二の状態の中では、理性がありません。
小著『最後の審判と滅ぼされたバビロニア』で、彼らの狂気について、そしてこの状態の後の彼らの運命について、特にいくつか述べてあります。
[4]創造を自然に帰し、神性を、したがって教会と天界のすべてのものを、たとえ口でなくても、心で否定した者は、この状態の中で似た者と互いに仲間となり、欺くことに力のある者をだれでも神と呼び、さらにまた神性の誉れとともに礼拝します。
私は、このような者が、集会の中で魔術師を崇拝し、自然について思いめぐらし、人間の形をした獣であるかのように愚かに振る舞っているのを見ました。彼らの間には、世で要職に任命された者が、また世で学識のある者や賢明な者と信じられた者もいました。
他の者は他の状態にいました。
[5]これらのわずかなものから、神性の承認によって、また信仰の生活によって、天界からの何らかの流入を受けなかったすべての者のように、その心が天界に向かって閉ざされている者の内的なものがどんなものであるか、結論することができます。
だれでも自分自身で、もし自分に法律と生命の恐れがなく、外なる束縛なしに行動することが許されるなら、どのようになるか判断することができます。その外なる束縛とは、名声を傷つけられないだろうか、名誉や利益、そこからの快楽を奪われないだろうかという恐れです。
[6]しかしそれでも、彼らの狂気は主により役立ちの限度を超えて突進しないように制限されます。なぜなら、このような者によっても、それぞれの役立ちが生じるからです。
善い霊は彼らの中に、何が悪か、またそれがどんなものか、もし主により導かれないなら人間がどんなものかを見ます――彼らによって似たような悪い者が集められ、善い者から分離されることもまた役立ちです。さらに、悪い者が外なるものの中に見せ、装った善と真理が彼らから取り去られ、自分の生活の悪の中に、悪からの虚偽の中に導かれ、こうして地獄へ向けて準備されることも役立ちです――
[7]なぜなら、だれも自分の悪の中に、そして悪からの虚偽の中にいる以前に、地獄にやって来ないからです。そこのだれにも、分割された心(mens)をもつことは、すなわち、あることを考え、話しながらも、他のことを意志することは許されません。そこの悪い者はだれでも、悪からそこの虚偽を考え、悪の虚偽から話します。その二つとも意志から、そのように自分のプロプリウムの愛から、その快さと心地よさからです。世でも、自分自身の霊の中のとき、すなわち、内的な情愛から考えた時、自分自身の中でそのように考えたのです。
その理由は、意志は人間そのものであり、意志から得ないかぎり思考はなく、そして、意志は人間の性質そのものまたは性格であるからです。それゆえ、自分自身の意志に、自分自身の性質または性格に、そしてまた自分自身の生活に戻されます、なぜなら、人間は生活によって性質を身につけるからです。人間は死後、世で生活によって自分自身に獲得したそのような性質にとどまり、それは悪い者のもとで、もはや思考または真理の理解力という方法では矯正され、変えられることはできません。