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最後の審判 46

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 しかし、最後の審判は主の時からこの日まで生きた者の上に行なわれ、それ以前に生きた者に行なわれたのではないことを知らなくてはなりません。
というのは、この地球上に最後の審判は、以前、2度存在したからです。一つは、みことばの中で「洪水」によって描かれているもの、もう一つは、主ご自身により世の中で行なわれたものであり、主のことばによってもまた意味されています、

今がこの世のさばきです、今、この世の君主が外へ投げ出されます(ヨハネ12:31)。

また他のところに、

あなたがたがわたしにあって平和を持つように、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました……信頼しなさい。わたしは世に勝ちました(ヨハネ16:33)。

そしてまた、「イザヤ書」のこれらによって、

エドムからやって来る者……自分の大いなる力の中で進んで行く……救うに力強い、この者はだれか?わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ….このために、わたしはわたしの怒りの中で彼らを踏んだ……ここから彼らの勝利〔の血〕がわたしの衣の上に降りかかった。なぜなら、わたしの心の中に復讐の日が[あり]、わたしのあがないの年がやって来るから。……それゆえ、救い主となられた(イザヤ63:1–8)。

またもっと多く他のところに。
[2]この地球上に、以前、二度、最後の審判が存在した理由は、(前の章の中で示されたように)すべての審判は教会の終わりの中で存在するようになるからです。この地球上に二つの教会がありました。第一の教会は洪水前、第二の教会は洪水後です。
洪水前の教会は「創世記」第一章の中に、天と地の新しい創造と楽園によって、その終わりは知識の木から食べることによって、そしてその後、詳細に描かれています。また、最後の審判は洪水によって、そのすべてのものは純粋な対応によってみことばの文体にしたがって、その内意、すなわち、霊的な意味で描かれました。「天と地の創造」によって、新しい教会の設立が意味されます(前の第一章に見られます)。「エデンの中の楽園」によってその教会の天的な知恵が、「知識の木」によっての教会を破壊した記憶知が、似たものがそこの「ヘビ」によって、「洪水」によってその教会からの者の上の最後の審判が意味されます。
[3]けれども、洪水後にあった第二の教会は、みことばの箇所の中の何らかのものによってもまた描かれています(例えば、「申命記」32:7–14、また他の箇所に)――これがアジアの多くの世界を通して広がり、またヤコブからの子孫のもとに続きました。その終わりは、主が世の中にやって来たときでした。その方により、その時、その教会の設立の最初からのすべての者の上に、また一緒に、その時、最初の教会からの残りの者の上に最後の審判が行なわれました。
主は、天界の中のすべてのものを、天界によって地のすべてのものを秩序づけ、同時に、ご自分の人間性を神的なものにする目的のために世に来られました。それが行なわれなかったなら、だれも救われることができませんでした。
主の来臨の前に、この地球の中に二つの教会があったこ*1 、主が世の中に、天界の中のすべてのものを秩序づけ、それによって地のすべてのものを、そしてご自分の人間性を神的なものにするためにやって来られたこ*2は『天界の秘義』の中のいろいろな箇所に示されており、それらからの抜粋がこの章の終わりに見られま**
この地球の第三の教会は、キリスト教の教会です。この教会の上に、また同時に、主の時から最初の天の中にいたすべての者の上に最後の審判が行なわれ、そのことについて今から扱います。


*1 この地球上にあった最初で最古代の教会は、「創世紀」の最初の数章の中に描かれており、天的な教会であり、すべての教会の主要なものであった(607, 895, 920, 1121–1124, 2896, 4493, 8891, 9942, 10545番)。
その教会からの者は、天界の中でどんなものであるか(1114–1125番)。
彼らはそこの最高度の光の中にいる(1117番)。
洪水後にいろいろな教会があり、それは一つの言葉で古代教会と呼ばれた(1125–1127, 1327, 10355番)。
古代教会そのものが、どれほど多くのアジアの王国を通してひろまったか(1238, 2385番)。
古代教会の人間はどんなものであったか(609, 895番)。
古代教会は表象的な教会であった(519, 521, 2896番)。
古代教会は、わきへ逸れることが始ったときどんなものであったか(1128番)。
最古代教会と古代教会との間の相違(597, 607, 640, 641, 765, 784, 895, 4493番)。
エベルから始まった教会について、それはヘブル教会と呼ばれた(1238, 1241, 1343, 4516, 4517番)。
古代教会とヘブル教会との間の相違(1343, 4874番)。
ヤコブの子孫、すなわち、イスラエル民族のもとに設立された教会について(4281, 4288, 4310, 4500, 4899, 4912, 6304, 7048, 9320, 10396, 10526, 10535, 10698番)。
イスラエル民族のもとに命じられた法令・判決・法は、一部に関して古代教会の中のものと似ていた(4449番)。
イスラエル民族のもとに設立された教会の表象的な儀式は、古代教会の表象的な儀式から、どのように異なったか(4288, 10149番)。
最古代教会では天界から直接の啓示があった。古代教会では対応によって、イスラエル民族のもとの教会では生きた声で、キリスト教会では、みことばによって啓示があった(10355番)。
主は最古代教会の、そしてまた古代教会の神であり、エホバと呼ばれた(1343, 6846番)。

*2 主は世におられたとき、天界の中と地獄の中のすべてのものを秩序づけられた(4075, 4287, 9937番)。
その時、主は霊界を洪水以前の者から解放された(1266番)。
彼らはどのようなものであったか(310, 311, 560, 562, 563, 570, 581, 586, 607, 660, 805, 808, 1034, 1120, 1265–1272番)。
主は試練と勝利を通して地獄を征服し、そしてすべてのものを秩序づけ、同時にご自分の人間性を栄化された(4287, 9937番)。
主はご自分から、すなわち、プロプリウムの力から、それを行なわれた(1692, 9937番)。
主おひとりが戦われた(8273番)。
ここから主おひとりが義(公正)と功績になられた(1813, 2025–2027, 9715, 9809, 10019番)。
主はこのようにご自分の人間性を神性と結合された(1725, 1729, 1733, 1737, 3318, 3381, 3382, 4286番)。
十字架の受難は最後の試練と完全な勝利であり、それによって、ご自分を栄化された、すなわち、ご自分の人間性を神性にされ、そして地獄を征服された(2776, 10655, 10659, 10828番)。
主は神性それ自体に関して誘惑されることはおできにならなかった(2795, 2803, 2813, 2814番)。
それゆえ、〔主は]母から人間性をとられ、その中に試練を許された(1414, 1444, 1573, 5041, 5157, 7193, 9315番)。
母から受け継いだすべてのものを追い出し、ついにその息子でなかったようにまで、それらからの人間性を脱ぎ捨て、神的人間性をまとわれた(2159, 2574, 2649, 3036, 10830番)。
主は、地獄の征服によって、またご自分の人間性の栄化によって、人間を救われた(4180, 10019, 10152, 10655, 10659, 10828番)。

** これらの抜粋(*1と*2)はこの部分に移しました。