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最後の審判 24

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24
(1)創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界あるいは地獄の中にいることは、「前章の中で言われ、示されたこと、すなわち、天界と地獄は人類からであること」から説明なしに明らかです。今まで、人間は霊魂がその身体の中に帰り、このように身体に固有であるようなものを享受すると信じられる時である最後の審判の日よりも前に天界または地獄の中にやって来ることはない、という一般の信仰がありました。
この信仰の中へ単純な者は、知恵があると表明され、人間の内的な状態について探究したと表明された者により引き寄せられました。
これらの者は自然界についてだけで霊界については、そのように霊的な人間についても何も知りませんでした。ここから、それぞれの人間の自然的な人間の中にある霊的な人間を、自然的な人間のように等しく人間の形をしていることを知りませんでした――ここから、彼らには自然的な人間が自分の人間
の形を自分の霊的な人間から得ていることが、たとえ、意のままに霊的な人間が自然的な人間のすべてると個々のものの中で働くこと、自然的な人間が自分自身からはまったく何も働かないことを見ることが
できたにしても心に浮かびません。
[2]考え、意志するのは霊的な人間です、なぜなら、自然的な人間は自分自身からはできないからです。思考と意志は自然的な人間のすべてのものの中のすべてです、というのは、自然的な人間は霊的な人間が欲するように行動し、そしてまた彼が考えるように話すからであり、行動が意志以外の何ものでもなく、話すことが思考以外の何ものでもないように、これほどに完全にです。なぜなら、もしあなたが思考と意志を取り去るなら、その瞬間に話すことと行動は止むからです。
これらから、霊的な人間は真に人間であることと自然的な人間のすべてと個々のものの中にいることが明らかです。そのようにその似姿は似ています、なぜなら、自然的な人間の部分または小部分では、すその中で霊的なものは働かないし、生きないからです。
しかし、霊的な人間は自然的な人間の前に見られることはできません、なぜなら、自然的なものは霊~的なものを見ることができないからです、しかし、霊的なものは自然的なものを見ることができます。というのは、このこと〔霊的なものが自然的なものを見ること」は秩序にしたがっているけれども、そのこと〔自然的なものが霊的なものを見ること」は秩序に反しているから、というのは、自然的なものの中への霊的なものの流入があり、視覚もそのようであるから、なぜなら、視覚もまた流入です、けれども、逆ではないからです。
人間の霊と呼ばれる者が霊的な人間であり、その者は完全な人間の形の中で霊界の中で見られ、その者が死後、生きます。
[3]前に言われたように、知的な者は霊界について何も、それで、人間の霊についても何も知らなかったので、それゆえ、人間は彼の霊魂が身体の中に戻り、その感覚を再び着る前に生きることができないという考えを得ました。ここから、人間の復活についてこれほどに空虚な考えが生じました、すなわち、「たとえ身体が虫や魚により食い尽くされ、ちり・・ へとまったくこなごなになっても、全能の神により再び集められ、霊魂に再結合される、このことは、目に見える全世界が滅びる時である世の終わりの中でしか起こらない」という考えです。ほかに似た多くのこと、それらのすべては理解力を越えています、それらは一目で、不可能なこと、神的な秩序に反していることが心に浮かびます。ここからもまた多くの者の信仰を弱めます。なぜなら、賢明さから考える者は、何らかの方法で理解できないなら、また不可能という信念、すなわち、人間がそれらは不可能なものであると考えるような信念があるとき、信じることができないからです――ここからもまた、死後のいのち(生活)を信じない者は否定的な論証を引き出します――しかし、人間は死後、直ちによみがえること、またその時、完全な人間の形の中にであることは、著作『天界と地獄』の中に、そこの多くの章の中に見られます。
これらは、天界と地獄が人類からであり、そのことから、創造の最初から生まれ、死んだ人間がどれほど多くてもすべての者は天界の中あるいは地獄の中にいる、ということがさらに確信されるために言われました。