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続 霊界について 49

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 オランダ人は他の者よりも自分の宗教の原理に固執し、他の者によって動かされません。あれこれが一致しないことを納得させられても、それでも肯定しません、後ろへ向きを変え、不動のままにとどまります。そのように、真理の内的な熟考からもまた引き下がります。というのは、霊的なものについて自分の理性を従順の下に服従させるからです。
彼らはこのような者であるので、それゆえ、死後、霊界の中にやって来る時、神的な真理である天界の霊的なものを受け入れるために、他の者とはまったく異なって準備されます――彼らは受け入れないので、教わりません。しかし、彼らに天界がどんなものであるか述べられ、その後、彼らにそこに上ること、そしてそれを見ることが与えられ、その時、彼らの性向に一致するものが何でも注ぎ込まれます。このように下げられて、自分のところへ、天界への願いに満たされて戻ります。
[2]もしその時、神は位格と本質で一つであり、その神は主であり、その方の中に三一性があるという真理を、また思考と会話での信仰と仁愛は、それらの生活なしに何もつくらないで、悪を罪として避ける時、それらが主から与えられるという真理を受け入れないなら――もしそれらが教えられるとき、背き、それでも神について位格に関して三つであると考え、宗教についてもそうしたものがあるとだけ考えるなら――悲惨さの中に追いやられ、彼らから商業が取り去られ、その時、自分たちが窮地に追いやられているのを見ます。その時、すべてのものに満ち、彼らのもとで商業が栄えている者のもとへ連れて行かれ、そこで彼らに教えられます。天界の考えから、彼らがこのようであるのはどこからなのか、同時に主についての彼らの信仰を、悪を罪として追い払う彼らの生活について熟考します。
さらにまた、少し探究し、自己の思考や熟慮と一致することを知覚します。このことが交互に行なわれます。
最後に、悲惨さから去るために、彼らと同様に信じ、同様に行なわなければならないと自分自身から考えます。
その時、その信仰を受け入れ、その仁愛の生活を生きるほど、彼らに富と生活の快さが与えられます。
この方法で、世の中で何らかの仁愛の生活を送った者は、他の者からでなく自分自身により正され、そして天界へ準備されます。
[3]これらの者は、その後、「志操堅固」〔の典型〕と呼ばれるほどにまでも、他の者よりも不変な者となり、何らかの(誤った)推論・欺き・詭弁により引き起こされた不明瞭さから、また単なる確信からの逆さまの幻覚からも、自分自身が連れ去られることを被りません。