続 霊界について 46
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私は、数年前に出版した本によって称賛されたあるイギリス人をしばしば見ました。その者はその〔本の〕中で聖霊の内的な流入と働きによって信仰と仁愛の結合を確立することに努めました。「その流入は言い表わせない方法で、人間に気づかれないで働きかける。しかし影響を及ぼさず、許されないなら、自分自身からのように何かを行なうことへ、ましてはっきりと動かさない、または人間の思考を刺激しないで、神の許しによらないなら、人間に神的な摂理の中の何らかのものが一緒に入らないためである。なお、このように悪は神の前に見られない」と述べています。そのように何らかの救いのための外なる仁愛の実践を締め出しています、しかし、公共の善のためのそれらに賛同しています。
彼の論証は才気があり、草の中にヘビが見られなかったので、彼の本は最も正統的なもののように受け入れられました。
[2] その著者は世から去った後、同じような教義を保持し、自分自身のもとで確信したのでそれから去ることができませんでした。
天使は彼と話し、「それは〝真理〟ではなく、しかし、単なる能弁と一種の才気です。人間は自分自身からのように、それでも主からであることの承認とともに、悪を避け、善を行なわなければならないことが〝真理〟です。信仰は、ましてなおさら信仰と呼ぶその思考は〔それ〕以前にありません」と言いました――このことは彼の教義に抵触したので、このような知られていない流入と内なる働きが、人間の外なる働きなしに存在するかどうか、彼に自分の賢明さから、さらに探究することが許されました。
その時、彼は、「人間はそうでなければ回復されず、救われない」と常に確信しながら、その思考の道を進むことが見られました。しかし、道の終わりにやって来るたびごとに、彼に目が開かれ、自分がさ迷っているのを見、居合わせた者の前で告白もしました。
私は二年間にわたって彼がそのように歩き回り、道の終わりで、外なる人間の中で悪が遠ざけられていないかぎり、このような流入は与えられないこと、このことは自分自身からのように悪を罪として避けることによって起こることを認めるのを見ました。私は彼がついに、「その異端を確信するすべての者はプロプリウムの知性の高慢から狂う」と言っているのを聞きました。