新しいエルサレムとその天界の教え 23
23 真理の中にいて、真理によって善を眺め、善へ向かう者について――そのように善の手段となる真理について
人間は愛するものを、これを欲する。愛しまたは欲するものを、これを考え、いろいろと確信する――人間が愛しまたは欲するものは、これは善と呼ばれる。そこから人間が考え、いろいろと確信するものは、これは真理と呼ばれる(4070番)。
そこでここから、真理が愛または意志のものとなるとき、または人間が真理を愛し、欲するとき、真理は善となる(5526, 7835, 10367番)。
また愛または意志は人間のいのちそのものであるので、真理は、人間が単にそれを知って、それを考えているとき、人間のもとで生きてはいない、しかし、それを愛し、欲するとき、愛と意志からそれを行なう(5595, 9282番)。
真理はそこからいのちを、そのように善からいのちを受ける(2434, 3111, 3607, 6077番)。
それゆえ、真理のいのちは善からであり、善のない真理のいのちは何もない(1589, 1947, 1997, 3180, 3579, 4070, 4096, 4097, 4736, 4757, 4884, 5147, 5928, 9154, 9667, 9841, 10729番。説明、9154番)。
真理がいのちを得たと言われる時(1928番)。
真理が善に結合されるとき、人間のいのちのものとなるので、人間に専有される(3108, 3161番)。
真理が善と結合されるために、理解力と意志からの同意がなければならない。意志からもまた同意があるとき、その時, 結合がある(3157, 3158, 3161番)。
人間は再生するとき、真理を行なうことを愛するので、真理は情愛の快さとともに入ってくる。また真理は同じ情愛とともに再び生み出される、〔その二つのものが〕密着しているから(2474, 2487, 3040, 3066, 3074, 3336, 4018, 5893, 7967番)。
愛に属する情愛は常にいのちの役立ちにしたがって真理に結合し、その情愛は真理とともに再び生み出され、そして真理は情愛とともに再び生み出される(3336, 3824, 3849, 4205, 5893, 7967番)。
善は愛に属する情愛に一致するもの以外に何も真理として認めない(3161番)。
真理は〔人間の自然的なものに〕適合した快さと楽しさによって導き入れられる(3502, 3512番)。
真理へのすべての純粋な情愛は善からであり, それにしたがっている(4373, 8349, 8356番)。
このように真理の中へ善の注ぎ込みと流入が、そして結合がある(4301番)。
またこのように真理にいのちがある(7917, 7967番)。
愛に属する情愛は常にいのちの役立ちにしたがって真理に接合するので、善はそれ自体の真理を、そして真理はそれ自体の善を認める(2429, 3101, 3102, 3161, 3179, 3180, 4358, 5407, 5835, 9637番)。
ここから真理と善との結合がある(これについては、3834, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623–7627, 7752–7762, 8530, 9258, 10555番)。
さらにまた真理は互いに認め、相互に仲間となる(9079番)――これは天界の流入からのものである(9079番)。
善はいのちのエッセ(存在)であり、そして真理はそこからのいのちのエキシステレ(実在)である。このように善は真理の中にそれ自体のいのちのエキシステレをもち、真理は善の中にそれ自体のいのちのエッセをもつ(3049, 3180, 4574, 5002, 9154番)。
そこからすべての善はそれ自体の真理をもち、すべての真理はそれ自体の善をもつ、善は真理なしに生じないし、真理は善なしに存在しないから(9637番)。
なおまた、善は真理からそれ自体の形と性質をもち、そのように真理は善の形と性質である(3049, 4574, 6916, 9154番)。
また、このように真理と善は何らかものであるために、結合していなければならない(10555番)。
ここから善はそれ自体に真理を結合しようとする永久の努力と願望の中にある(9206, 9495番。説明、9207番)。
また真理は逆に(交替に)それ自体を善と〔結合しようとする〕(9206番)。
結合は相互的なものであり、善は真理に、真理は善に〔結合する〕(5365, 8516番)。
善は作用し、真理は反応する、しかし善から〔反応する〕(3155, 4380, 4757, 5928, 10729番)。
真理はそれ自体の善を始めと終わりとして眺める(4353番)。
善との真理の結合は幼児期からの人間のいのちの発達(経過)のようである。まず真理を記憶知として、その後に理性的に吸収し、最後にそれらを自分のいのちに属するものにする(3203, 3665, 3690番)。
さらにまた、みごもり、子宮内に存在し、生まれ、成長し、賢明になる子のようである(3298, 3299, 3308, 3665, 3690番)。
さらにまた種子と土地のようである(3671番)。
それはパンに対する水のようである(4976番)。
真理への最初の情愛は純粋ではない、しかし、人間が完全になるに応じて、それは清められる(3040, 3089番)。
それでも純粋でない善と真理は、純粋な善と真理とを導入するのに役立ち、後に、前のものは残される(3665, 3690, 3974, 3982, 3986, 4145番)。
さらに、人間は真理によって善へ導かれ、真理なしに導かれない(10124, 10367番)。
人間は真理を学んで獲得するかまたは受け入れるのでないなら、善は流入することはできない、したがって人間は霊的なものになることができない(3387番)。
善と真理との結合は知識の増加にしたがって生ずる(3141番)。
真理は理解(把握)にしたがって、だれにでも受け入れられる(3385番)。
自然的な人の真理は記憶知である(3293, 3309, 3310番)。
記憶知と知識とは容器のようなものである(6004, 6023, 6052, 6071, 6077番)。
真理は善の受器である、受け入れるものであるから(1496, 1900, 2063, 2261, 2269, 3318, 3365, 3368番)。
善は、内なる道、すなわち、霊魂の道を通って人間に流入する、しかし真理は外なる道、すなわち、聞いたり、見たりする道を通って人間に流入し、それらは主により人間の内なるものの中で結合される(3030, 3098番)。
真理は自然的な人から高揚され、霊的な人の中の善に植え付けられ、このように真理は霊的なものとなる(3085, 3086番)。
その後、そこから自然的な人の中に流入する。霊的な善は自然的な人の善の中へ直接に、けれども、自然的な人の真理の中へ間接的に〔流入する〕(3314, 3573, 4563番。説明, 3314, 3576, 3616, 3969, 3995番)。
一言でいえば、人間はいのち(生活)に関して善の中に、またどのようにか、いればいるほど、それだけ、そのように真理は人間のもとの善に結合する(3834、3843番)。
結合は、天的な者のもとで異なり、霊的な者のもとで異なる(10124番)。
善と真理との結合についてさらに多くのもの、またどのように生ずるか(3090, 3203, 3308, 4096, 4097, 4345, 4353, 5365, 7623-7627番)。
どのように霊的な善は真理によって形作られるか(3470, 3570番)。