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新しいエルサレムとその天界の教え

まえがき◀︎目次▶︎2

新しい天と新しい地について、「新しいエルサレム」によって何が意味されるか

1 黙示録に述べられています——

「私は新しい天と新しい地とを見た。というのは、最初の天と最初の地とは過ぎ去り……また……私は聖なる都、新しいエルサレムが、夫の前に……花嫁のように……整えられて、神より出て、天から降って来るのを見た。……都には大きく、高い壁があり、これに十二の門があった。門には十二人の天使がいて、その上に名前が記されていた。……これはイスラエルの十二の種族の名前である。そして都の壁には十二の土台があって、その中には小羊の十二人の使徒の名前があった。……都そのものは正方形で、長さは幅に等しい。彼がこの都を葦で測ると、十二千スタディオあった。その長さと幅と高さとは等しかった。また彼がその都の城壁を測ると、百四十四ペーキュ✻✻あった。これは人間の尺度であり、それは天使の尺度である。……その城壁は碧玉からなり、都そのものは純粋な金で、純粋なガラスに似ていた。また都の壁の土台はあらゆる宝石からなっていた。……十二の門は十二の真珠であった。……また都の街路は純粋な金で、あたかも透明なガラスのようであった。……神の栄光がこれを照らし、そのあかりは小羊であった。……救われた国民はその光の中を歩み、地の王たちはそこに自分の栄光と自分の名誉を携えてくる」(第21章1, 2, 12–24)。

これらを読む人間は、それらを文字通りの意味にしたがってだけ理解します。すなわち、目に見える天と地が滅びて、新しい天が出現し、聖なる都エルサレムが地上に降り、その都はその尺度について叙述にしたがっているであろう、と理解します。しかし、天使はそれらとまったく異なって理解します。すなわち、人間が自然的に理解する個々のものを霊的に理解します。また天使の理解するものがそれらの意味するものです。これがみことばの内なるまたは霊的な意味です。内なるまたは霊的な意味では——その中に天使がいます——「新しい天と新しい地」によって、天界と同じく地上の新しい教会が意味されます。両方の教会についてはあとで述べます。「神より出て天から降って来る都エルサレム」によって、その天界的な教えが意味されます。等しい「長さ」「幅」「高さ」によって、統一体となったその教えのすべての善と真理が意味されます。その「壁」によって、それを守る真理が意味されます。「人間、すなわち、天使の尺度」である「百四十四ペーキュス」の「城壁の尺度」によって、統一体となった守っているすべての真理とそれがどんなものか意味されます。真珠の「十二の門」によって、導き入れる真理が、「門の十二人の天使」によっても同じことが意味されます。「あらゆる宝石」からなっている「城壁の土台」によって、その教えの基礎となっている知識が意味されます。「イスラエルの十二の種族」と同じく「十二人の使徒」によって、教会のすべてのものが全般的に、また個別的に意味されます。「純粋なガラスに似た金」からなっている都と街路によって、透明なその真理とともに、その教えからの愛の善が意味されます。救われた「国民」によって、またその中へ栄光と名誉を携えてくる「地の王たち」によって、善と真理の中にいる教会のすべての者が意味されます。「神」と「小羊」によって、神性そのものと神的人間性に関する主が意味されます。このようなものが、みことばの霊的な意味であり、文字通りの意味である自然的な意味はその土台として仕えます。しかしそれでも、これらの二つの霊的と自然的な意味は対応によって一つとなっています。これらのすべてにこのような霊的な意味が内在することをここに示す時間はありません。本書の目的ではないからです、しかし『天界の秘義』の以下の個所に示されているものを見てください。

みことばの中の「地」によって、特にその地によってカナンの地が意味されるとき、教会が意味される(662, 1066, 1067, 1262, 1413, 1607, 2928, 3355, 4447, 4535, 5577, 8011, 9325, 9643番)——霊的な意味では「地」によってその民族とその礼拝とが意味されるからです(1262番)。「地の民」は霊的な教会に属する者たちである(2928番)。
「新しい天と新しい地」は、善と真理に関する、このように〔天界と地上の〕両方の場所にある教会に属するものに関する天界と地上の新しいものを意味する(1733, 1850, 2117, 2118, 3355, 4535, 10373番)。
(過ぎ去った「最初の天と地」によって何が意味されるかは小著『最後の審判とバビロンの滅亡』の最初から最後まで参照。特にそこの65から72番。)
「エルサレム」によって、教えに関する教会が意味される(402, 3654, 9166番)。「都や都市」によって、教会と宗教とに属する教えが意味される(402, 2449, 2712, 2943, 3216, 4492, 4493番)。「都の城壁」によって、〔冒涜を〕防ぐ教えの真理が意味される(6419番)。「都の門」によって、教えへ、また教えによって教会の中へ導き入れる真理が意味される(2943, 4477, 4492, 4493番)。
「イスラエルの十二の種族」によって表象され、そこから意味されることは、全般的に、また個別的に教会の真理と善のすべて、したがって信仰と愛のすべてである(3858, 3926, 4060, 6335番)。
「十二人の主の使徒」によって、同じことが〔意味される〕(2129, 3272, 3354, 3488, 3858, 6397番)。
使徒たちについて、「イスラエルの十二の王座の上にすわり、十二の種族を裁く」と言われるとき、すべての者は教会の善と真理とにしたがって、このようにそれらの起源であられる主により裁かれることが意味される(2129, 6397番)。
「十二」によって、統一体となったすべてのものが意味される(577, 2089, 2219, 2130, 3272, 3858, 3913番)。「百四十四」の数によって同じことが〔意味される〕、なぜなら、その数は十二の十二倍であるから(7973番)——「十二千」によってもまた同じことが〔意味される〕(7973番)。
みことばの中のすべての数は物事を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 6175, 9488, 9659, 10217, 10253番)。掛けられた数は、掛けてできるその数の元の単純な数と同じことを意味する(5291, 5335, 5708, 7973番)。
「尺度」によって、真理と善に関する物事の性質が意味される(3104, 9603, 10262番)。
「城壁の土台」によって、真理の知識が意味され、教えはその上に基礎づけられる(9643番)。
「四角形」または「正方形」によって、完全なものが意味される(9717, 9861番)。
「長さ」によって善とその広がりが意味され、「幅」によって真理とその広がりが意味される(1613, 9487番)。
「宝石」によって、善からの真理が意味される(114, 9863, 9865番)。ウリムとトンミムの中の「宝石」によって、全般的また個別的に何が〔意味されるか〕(3862, 9864, 9866, 9891, 9895, 9905番)。壁となった「碧玉」によって何が(9872番)。
「都の街路」によって、善からの教えの真理が意味される(2336番)。
「金」によって、愛の善が意味される(113, 1551, 10552, 5658, 6914, 6917, 9510, 9874, 9881番)。
「栄光」によって、天界の中にあるような神的な真理と、そこからの知性と知恵が意味される(4809, 5068, 5922, 8267, 8427, 9429, 10574番)。
「国民」によって、善の中にいる教会の者たちが、またここから抽象的には教会の善が意味される(1059, 1159, 1258, 1261, 1285, 1416, 1849, 4574, 7830, 9255, 9256番)。
「王」によって、真理の中にいる教会の者たちが、また抽象的には教会の真理が意味される(1672, 2015, 2069, 4575, 5044番)。王の戴冠式に関する儀式は神的な真理(それらについて)に属するようなものを含む。しかしこれらについての知識は今日では滅びてしまった(4581, 4966番)。

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✻ 1スタディオンは185メートル
✻✻ 1ペーキュスは45センチ

新しいエルサレムとその天界の教え

1◀︎目次▶︎3

2 新しいエルサレムとその教えについて扱う前に、新しい天と新しい地についていくつか述べます。過ぎ去った「最初の天と最初の地」によって何が意味されるかは小著『最後の審判とバビロンの滅亡』に示されています。それらが過ぎ去った後、このように、最後の審判が成就された後、新しい天(天界)が主により創造され、すなわち、形成されました。この天界は主の来臨から今まで、信仰と仁愛の生活を送ったすべての者により形成されました。その者たちだけが天界の形であったからです。なぜなら、天界の形は、それにしたがって天界の交わりと伝達とが行なわれ、主から発出する神的な善からの神的な真理の形であり、この形を人間は自分の霊に関して神的な真理にしたがって生活によって取り入れるからです。(天界の形がそこから存在することは著作『天界と地獄』の200~212番、すべての天使は天界の形であることは51~58番と73~77番参照。)これらから、新しい天界はだれからつくられるか、ここからまたどんなものかを、すなわち、完全に和合していることを知ることができます。なぜなら、信仰と仁愛の生活を送る者は、他の者を自分自身のように愛し、愛によって彼を自分に、こうして交替にまた相互に結合するからです——なぜなら、愛は霊界では結合であるからです。それゆえ、すべての者が同じように行動する時、多くの者からの、それどころか無数の者からの天界の形にしたがった交わりが、和合が生じ、一人の者のようになります。というのは、〔彼らを〕切り離し、分けるものは何もなく、すべてのものが結合し、一つとなるからです。

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2◀︎目次▶︎4

3 この天界は、主の〔来られた〕時代から現在の時まで、このような者であったすべての者から形成されたので、キリスト教徒からと同様に異邦人からも形成されることが明らかです。しかし、〔天界の〕ほとんど大部分については、主の〔来られた〕時代以来、幼児のときに死んだ全世界のすべての者から〔構成されています〕、なぜなら、これらすべて〔の幼児〕は、主により受け入れられ、天界で教育され、天使により教えられ、その後、他の者たちとともに新しい天界を構成するために保たれたからです——ここからその天界はどれほど大きいかを結論することができます。(幼児で死んだすべての者が天界で教育され、天使となることは著作『天界と地獄』329〜345番、また天界はキリスト教徒から以外に異邦人からも形成されることは318〜328番参照。)

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4 さらに、この新しい天界に関しては、古代の天界と区別されることを知らなくてはなりません、なぜなら、それは主の来臨の前に存在したからです。しかしそれでも、その天界はこの新しい天界といっしょになって一つの天界を構成するように配列されています。この新しい天界が古代の天界と区別されている理由は、古代教会には愛と仁愛の教え以外に他の教えはなく、当時は〔愛と仁愛から〕分離した信仰の教えは何も知られていなかったからです——またここから古代の天界は高い広がりを、しかし新しい天界はその下の広がりを構成します。なぜなら、天界は一つが他の上にある〔重なった〕広がりであるからです。最高の広がりの中には天的な天使と呼ばれる者がいて、その多くは最古代教会からの者です。そこにいる者たちは、主への愛である天的な愛から天的な天使と呼ばれます——その下の広がりには霊的な天使と言われる者がいて、その多くは古代教会からの者です。そこにいる者たちは、隣人に対する仁愛である霊的な愛から霊的な天使と言われます——これらの者の下に信仰の善の中にいる天使がいます、信仰の生活を送った者です。信仰の生活を送ることは、自分の教会の教えにしたがって生きることであり、生きることは意志し、行なうことです。しかしそれでも、すべてこれらの天界は主からの間接また直接の流入によって、一つとなっています。(しかし、この天界についての十分な観念は、著作『天界と地獄』の中に、天界を全般的に分けているそこの二つの王国についての項目20〜28番の中に、また三つの天界について29〜40番の項目の中に、そこから得ることができる。間接また直接の流入については、『天界の秘義』からの抜萃個所、603番以降、また最古代教会と古代教会とについては小著『最後の審判とバビロンの滅亡』の46番〔参照〕。)

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5 これらは「新しい天界」についてでした。これから「新しい地」についていくつか述べます。「新しい地」によって地上の新しい教会が意味されます、なぜなら、前の教会が存在を終えるとき、その時、主により新しい教会が設立されるからです——というのは、教会によって、主は人類と、天界は世と結合するため、地上に常に教会が存在するように、主から配慮されているからです。なぜなら、教会に主が知られ、また教会に神的な真理が存在し、それによって人間は〔主と〕結合されるからです——、新しい教会が設立されることは、小著『最後の審判』に見られます(74番)。新しい教会が「新しい地」によって意味される理由は、みことばの霊的な意味からです。というのは、その意味では「地」によっては何ら地が意味されないで、そこの国民(民族)自身とその神礼拝が意味されていて、これが「地」としての霊的な意味であるからです——さらに、みことばの中の「地」によって、その語に地域の名前が接合されていないなら、「カナンの地」が意味されます。また「カナンの地」には最古代から教会が存在していました。そこから、みことばに述べられている、そこ〔カナンの地〕の、またそれに境を接するすべての場所は、山や川とともに、教会の内なるものを、その霊的なものと呼ばれるものを表象し、表意するようになりました。ここから、〔すでに〕述べたように、みことばの中の「地」によって、カナンの地が意味されるので、教会が意味され、同じくこれは「新しい地」によっても意味されます。そこから、教会内で「天のカナン」と言われることが受け入れられ、またそれによって天界が意味されたのです。

「カナンの地」によって、みことばの霊的な意味では、教会が意味されることは、『天界の秘義』のいろいろなところに示されていますが、その中から以下のものを提示します——

洪水以前に存在した最古代教会と洪水以後に存在した古代教会とはカナンの地にあった(567, 3686, 4447, 4454, 4516, 4517, 5136, 6516, 9325番)。
やがて〔その地の〕すべての場所は主の王国と教会の中にあるといったものの表象となった(1585, 3686, 4447, 5136番)。
それゆえ、アブラハムは、表象的な教会がヤコブから出たその子孫のもとに設立されるために、またその最も低い意味によってそこ〔カナンの地〕の表象的なものと表意的なものから成り立つみことばが書かれるために、そこに行くことを命じられた(3686, 4447, 5163, 6516番)。
ここからみことばの中の「地」によって、また「カナンの地」によって、教会が意味される(3038, 3481, 3705, 4447, 4517, 5757, 10567番)。

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6 みことばの中の「エルサレム」によって、その霊的な意味で何が意味されるかもまた簡潔に述べます。「エルサレム」によって、教えに関する教会そのものが意味されます。カナンの地に、そこに神殿があり、祭壇があり、いけにえ、このように神の礼拝そのものが行なわれ、その他のところにはなかったからです。それゆえ、また、毎年三回、そこで祭りが挙行され、全地のすべての男はそこへ行くように命じられました——ここから「エルサレム」によって霊的な意味で礼拝に関する教会が、また同じことですが、教えに関する教会が意味されます。なぜなら、礼拝は教えに規定され、それらにしたがって行なわれるからです。「神より出て天から降って来る聖なる都、新しいエルサレム」と言われているのは、みことばの霊的な意味では、「都」や「都市」は教えを意味し、「聖なる都」によって、神的な真理が意味されるからです。なぜなら、みことばで「聖なるもの」と呼ばれているものであるからです——「新しいエルサレム」と呼ばれるのは、「地」が「新しい」と呼ばれるのと同じ理由からです。なぜなら、すぐ前に述べたように「地」によって教会が意味され、「エルサレム」によって教えに関する教会が意味されるからです——それが「神より出て天から降って来る」と呼ばれるのは、教えのもとであるすべての神的な真理は主より天界から降るからです。「エルサレム」によって都は意味されませんが、それでも都として見られたことは、〔以下のように〕言われていることにはっきりと明らかです——

その高さはその長さと幅のように、十二千スタディオンあった(〔黙示録第21章〕16節)。
そして百四十四ペーキュスあったその壁の尺度は、人間の、すなわち、天使の尺度であった(17節)。

さらに〔以下のように〕言われています——

「夫の前に花嫁のように整えられた」(2節)。

その後、天使は言いました——

「来よ、私はあなたに小羊の妻である花嫁を示そう。……そして彼は私に都を、……聖なるエルサレムを示した」(9, 10節)。

みことばの中で教会は主の「花嫁」や「妻」と呼ばれます。結合の前には「花嫁」、結合の後は「妻」と呼ばれます(『天界の秘義』3103, 3105, 3164, 3165, 3207, 7022, 9182番参照)。

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7 特に今から以下に続く教えに関して、この教えもまた天界からであるのは、みことばの霊的な意味からであり、みことばの霊的な意味は天使にある教えと同じものであるからです——というのは、地上と等しく天界にも教会が存在するからです。そこに、みことばとみことばからの教えがあり、そこに神殿が存在し、その中で説教がなされています、なぜなら、そこには教会と国家の統治が存在するからです。一言でいえば、天界にあるものと地上にあるものとの間には、天界に住む者はすべて霊的であり、霊的なものは完全さでは自然的なものを無限に越えているので、天界の中のものがすべてさらに完全な状態にあること以外の相違は何もありません。(このようなものが天界にあることは、著作『天界と地獄』のどこにでも、特に「天界の統治」についての章213〜220番の中に、またそこの「神の礼拝」についての章221〜227番に見られます。) ここから「聖なる都、新しいエルサレムが神より天から降って来るのが見えた」ことによって何が意味されるか知ることができます。しかし、私は、新しい教会のための教えそのものに向けて急ぎます。それは天界から私に啓示されたものなので、天界の教えと呼ばれます——これを与えることがこの著作の意図であるからです。

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7◀︎目次▶︎9

教えへの序説

8 仁愛が存在しないので、信仰も存在しないとき、教会が終わることは小著『最後の審判とバビロンの滅亡』に示されています(33~39番など)。今では、キリスト教世界の中の教会は、単に信仰に属するようなものによって互いに区別されてきており、それでも仁愛のないところに信仰はないので、それゆえ、私はここで、この教えそのものの前に、古代人の仁愛の教えについていくらか序説します。「キリスト教世界の中の教会」と言いましたが、これによって意味されるのは改革派または福音派のもとの教会であって、教皇派のもとにキリスト教会は存在していないので、これは意味されません。なぜなら、教会のあるところで主は拝され、みことばが読まれるからです――彼ら〔教皇派〕のもとでは異なっています。そこでは主に代わって彼ら自身が拝され、みことばは民衆に読まれることが妨げられ、教皇の教令はみことばにも等しいもの、それどころかそれ以上のものであると見なされています。

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7◀︎目次▶︎10

9 生活の教えである仁愛の教えは古代教会の教えそのものでした。(これらの教会については『天界の秘義』1238, 2385番参照)。またその教えがすべての教会を結合し、したがって多くの教会から一つの教会をつくったのです。というのは、彼らは今日、信仰の事柄と呼ばれている真理ではどれほど異なっていても、仁愛の善の中に生きているすべての者を、教会の人間として認め、これを兄弟と呼んだからです。このことを彼らは互いに教えたのであり、そのことが彼らの仁愛の働きの間にありました。彼らはまた、だれも善の中にいればいるほど、それだけ真理を受けることを知っており、もしある者が他の者の意見に賛同しなくても怒りませんでした。古代教会はこのようなものであったので、それゆえ彼らは内的な人でした。また内的な人であったので、さらに知恵がありました――なぜなら、愛と仁愛との善の中にいる者たちは、その内なる人に関して天界にいて、またそれ〔内なる人〕に関してそこの似た善の中にいる天使の社会の中にいるからです。ここから彼らは内的なものに向けて心が高揚されており、彼らに知恵がある、といえます――なぜなら、知恵は天界以外の〔他のものから〕、すなわち、主から天界を通って〔来る〕以外の他のものから来ることはできないからです。そして天界には知恵が存在します、そこでは彼らは善の中にいるからです。知恵は真理の光から真理を見ることであり、真理の光は天界に存在する光です。しかし、時が経つにつれてその古代の知恵は減じました。というのは、人類は主に対する愛の善と仁愛と呼ばれる隣人に対する愛の善から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ天界から遠ざかったので、知恵からも遠ざかったからです――ここから人間は内的なものから外的なものとなり、これが継続しました。また人間が外なるものになったとき、さらにまた世のものと肉体的なものになりました。このようなものであるとき、天界に属するものを少しも考慮しません、なぜなら、その時、地的な愛の喜びがそれらの悪とともに彼を全面的に占め、人間にはそれらの愛からの喜びがあるからです――またその時、彼が死後のいのち(生活)について、天界と地獄について、一言でいえば、霊的なものについて聞くことは、いわば彼の外にあって内にはありません、それでも存在しなくてはならないものです。ここからまた、古代人のもとでこれほど高い価値のある仁愛の教えは、今日では失われた事柄の間にあります――なぜなら、今日、純粋な意味で何が仁愛か、また純粋な意味で何が隣人かだれが知っているでしょうか。それでもその教えは単にそのことだけでなく、それに加えて無数のことを教えていますが、今日ではその千分の一も知られていません。聖書全体は「愛と仁愛の教え」以外の何ものでもありません。主もまた以下のように語られて、教えられています――

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛さなくてはならない。これは第一の大きな戒めです。第二も……それに等しいものです。あなたは自分自身のように隣人を愛さなくてはならない。この二つの戒めに……律法と預言者がかかっています」(マタイ22:37, 38, 39)。

『律法と預言者』はみことばのすべてと個々のものです。

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9◀︎目次▶︎11

10 以下の教えのそれぞれのものに『天界の秘義』からの抜萃を付加します、それらの中に同じことがさらに説明されているからです。

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10◀︎目次▶︎12

善と真理

11 全世界の中のすべてのものは、神的な秩序にしたがっており、善と真理に関係します。この二つに関係しないものは、何も天界に、何も世に存在しません――その理由は、善も真理も両方とも、すべてのもののもとである神性から発出するからです。

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11◀︎目次▶︎13

12 ここから、人間にとって、何が善かまた何が真理か、一方はもう一方をどのように眺めているか、また一方はもう一方にどのように結合しているかを知ること以上に必要なものは何もないことが明らかです――けれども〔これは〕教会の人間には最も必要です。なぜなら、天界の善と真理は教会の善と真理でもあるので、天界のすべてのものは善と真理に関係するように、教会のすべてのものもまたそのように善と真理とに関係するからです。これが善と真理から始めた理由です。

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12◀︎目次▶︎14

13 善と真理は結合して、分離されてはならず、こうして、二つでなくて一つであることが神的な秩序にしたがっています。なぜなら、その結合は神性から発出し、天界で結合し、それゆえ、教会の中でも結合すべきものであるからです。天界での善と真理の結合は、天界の結婚と呼ばれます。なぜなら、そこのすべての者はこの結婚の中にいるからです。ここから、みことばの中で天界は結婚に比較され、主は「花婿」や「夫」と呼ばれ、そして天界と同様に教会は「花嫁」や「妻」と呼ばれます――天界と教会がこのように呼ばれるのは、そこにいる者は真理の中に神的な善を受けるからです。

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13◀︎目次▶︎15

14 天使にあるすべての知性と知恵は、その結婚からであり、真理から分離した善からは、また善から分離した真理からは何もありません。教会の人間も同様です。

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14◀︎目次▶︎16

15 善と真理の結合は結婚のようであるので、善は真理を愛し、互いに真理は善を愛し、一方はもう一方と結合されようと熱望することが明らかです。このような愛とこのような願望のない教会の人間は、天界的な結婚の中にいません。したがって、なおさら彼の中に教会は存在しません。なぜなら、善と真理の結合が教会をつくるからです。

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15◀︎目次▶︎17

16 善はさまざまです。全般的には霊的な善と自然的な善とがあって、両方とも純粋な道徳的な善の中に結合しています。善がさまざまであるように、真理もそのようです。なぜなら、真理は善に属し、善の形であるからです。

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16◀︎目次▶︎18

17 善と真理のように、対立から悪と虚偽もそのようです。すなわち、神的な秩序にしたがっている全世界のすべてのものは善と真理に関係するように、そのように神的な秩序に反しているすべてのものは悪と虚偽に関係します。さらに、善は真理と、また互いに〔真理は善と〕結合することを愛するように、そのように悪は虚偽と、また互いに〔虚偽は悪と〕結合することを愛します。またすべての知性と知恵はすべて善と真理の結合から生まれるように、そのように狂気と愚鈍とはすべて悪と虚偽の結合から生まれます。悪と虚偽の結合は地獄の結婚と呼ばれます。

新しいエルサレムとその天界の教え

17◀︎目次▶︎19

18 悪と虚偽は善と真理に対立することから、真理は悪と結合することはできず、善も悪の虚偽と結合することはできないことが明らかです。真理が悪に接合されるなら、それはもはや真理ではなく、虚偽化されるので虚偽です。また善が悪の虚偽に接合されるなら、それはもはや善ではなく、不純化されるので悪です。しかし、悪に属さない虚偽は善に結合されることができます。

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18◀︎目次▶︎20

19 確信と生活から、悪とそこからの虚偽の中にいる者はだれも、何が善と真理か知ることができません、自分の悪は善であると信じ、そしてそこから自分の虚偽を真理であると信じるからです。しかし、確信と生活から、善とそこからの真理の中にいるすべての者は、何が悪と虚偽か知ることができます。その理由は、すべての善とその真理は、その本質では天界的であり、その本質では天界的でないものも、それでも天界の起源からのものであるからです。しかし、悪とその虚偽のすべては、その本質では地獄的であり、その本質では地獄的でないものも、それでもそこからの起源から存在します――そして天界的なものはすべて光の中にあります、しかし、地獄的なものはすべて暗やみの中にあります。

新しいエルサレムとその天界の教え

19◀︎目次▶︎21

『天界の秘義』から

20 全世界のすべてと個々のものは、善と真理に、また悪と虚偽に関係する。神的な秩序にしたがって存在し、生ずるものは善と真理に〔関係する〕。けれども、神的な秩序に反して〔存在し、生ずるものは〕悪と虚偽に〔関係する〕(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122番)。
人間の理解力は真理または虚偽の容器であり、意志は善または悪の容器であるので、そのように人間のもとの理解力と意志に関係する(10122番)。
今日、何が真理かその純粋な本質では、ほとんどの者に知られていない。何が善かほとんど知られていないからである。そのとき、それでもすべての真理は善からであり、すべての善は真理によって存在する(2507, 3603, 4136, 9186, 9995番)。

四種類の人間がいる――。
(1)悪からの虚偽の中にいる者と悪からでない虚偽の中にいる者。
(2)善のない真理の中にいる者。
(3)真理の中にいて、真理によって善を眺め、善へ向かう者。
(4)善からの真理の中にいる者。
しかし、〔この〕個々〔の者〕について、特に〔以下に述べよう〕。

新しいエルサレムとその天界の教え

20◀︎目次▶︎22

21 悪からの虚偽の中にいる者と悪からでない虚偽の中にいる者について――そのように悪からの虚偽と悪からでない虚偽について
無数の種類の虚偽がある、すなわち、悪〔と同じ〕ほど多く。また悪の起源は、またここから虚偽は数多い(1188, 1212, 4729, 4822, 7574番)。
悪からの虚偽、すなわち、悪の虚偽があり、そして虚偽からの悪、すなわち、虚偽の悪があり、そして再びそこからの虚偽があり、そのように派生的な虚偽がある(1679, 2243番)。
一つの虚偽から、特にもしそれが原理の位置にあるなら、虚偽が絶え間なく連続して流出する(1510, 1511, 4717, 4721番)。
自己と世への愛の欲望からの虚偽があり、感覚の欺きからの虚偽がある(1295, 4729番)。
宗教の虚偽があり、無知の虚偽がある(4729, 8318, 9258番)。
その中に善のある虚偽とその中に善のない虚偽がある(2863, 9304, 10109, 10302番)。
虚偽化されたものがある(7318, 7319, 10684番)。
すべての悪はそれ自体に虚偽をもつ(7577, 8094番)。
自己への愛の欲望からの虚偽は悪の虚偽そのものであり、そこから最悪の種類の虚偽がある(4729番)。

悪は重く、それ自体から地獄へ下って行く。けれども、虚偽は悪からでないなら、そうでない(8279, 8298番)。
天界から地獄に下って行くとき、善は悪に、真理は虚偽に変わる、このようにあたかも濃い不純な大気の中へ入るからである(3607番)。
悪からの虚偽は地獄の上にもやのように、汚れた水のように見える(8137, 8138, 8146番)。
地獄の中にいる者は悪からの虚偽を話す(1695, 7351, 7352, 7357, 7392, 7699番)。
悪の中にいる者は、自分自身から考える時、虚偽以外に考えることができない(7437番)。
虚偽の悪についてさらに多く(2408, 4818, 7272, 8265, 8279番)――また悪の虚偽についても(6359, 7272, 9304, 10302番)。

すべての虚偽は確信されることができ、確信されるとき、真理として見られる(5033, 6865, 8521, 8780番)。
それゆえ、確信される前に真理であるかどうか調べられるべきである(4741, 7021, 7680, 7950, 8521番)。
宗教の虚偽が確信されないよう警戒されるべきである、そこから虚偽の信念が〔生じ〕、死後, その人間のものとなるからである(845, 8780番)。
虚偽の信信念はどれほど有害か(794, 806, 5096, 7686番)。

人間は悪の中にいるかぎり、善は真理の中に流入することができない(2434番)。
人間が悪の中と、そこからの虚偽の中にいるかぎり、善と真理はそれだけ彼から遠ざかっている(3402番)。
真理が悪に、悪の虚偽が善に結合しないように、主によりどれほど最大に多く用心されているか(3110, 3116, 4416, 5217番)。
それらの混合から冒涜が〔生ずる〕(6348番)。
真理は虚偽を、虚偽は真理を追い払う(5207番)。
不信が支配しているかぎり、真理は深く受け入れられることができない(3399番)。

どのように、真理は虚偽化されることができるか(例から、7318番)。
悪い者は真理を虚偽化することが許されている。その理由(7332番)。
真理は悪い者により、悪に適用され、このように悪へ導かれることによって虚偽化される(8094, 8149番)。
真理は悪に適用されると、虚偽化されると言われ、これは特に外なるものにおける欺きと外見によって行なわれる(7344, 8062番)。
悪い者は真理を襲うことが許されている、けれども善を〔襲うことは許されてい〕ない、真理はいろいろな解釈と適用によって虚偽化されることができるからである(6677番)。
悪により虚偽化された真理は、真理と善に反している(8062番)。
悪により虚偽化された真理は、来世ではひどい悪臭を放つ(7319番)。
真理の虚偽化について多くのもの(738, 7319, 10648番)。

善に一致する宗教の虚偽が存在し、一致しないものが存在する(9258, 9259番)。
宗教の虚偽は、もし善に不一致のものでないなら、悪の中にいる者を除いて、悪を生まない(8318番)。
宗教の虚偽は善の中にいる者に帰せられない、しかし、悪の中にいる者に帰せられる(8051, 8149番)。
純粋でない真理は、そしてまた虚偽は善の中にいる者のもとで純粋な真理と仲間となることができる、けれども、悪の中にいる者のもとではできない(3470, 3471, 4551, 4552, 7344, 8149, 9298番)。
虚偽と真理は、みことばの文字通りの意味からの外観によって仲間となる(7344番)。
虚偽は善により真理とされ、柔らかくなる、善へ適用され、導かれて、悪が遠ざけられるからである(8149番)。
善の中にいる者のもとにある宗教の虚偽は、真理として主により受け入れられる(4736, 8149番)。
宗教の虚偽からその性質をもつ善は、もし無知があって、その無知の中に無垢があり、また善の目的があるなら、主により受け入れられる(7887番)。
人間のもとの真理は、欺きを吸収した真理と善の外観をしている、しかしそれでも、主はそれを善の中に生きる人間のもとで純粋な真理の養子とされる(2053番)。
その中に善が存在する虚偽は、教会の外に、またここから真理の無知の中にいる者のもとに、さらにまた、そこに教えの虚偽のある教会の内にいる者のもとに存在する(2589-2604, 2861, 2863, 3263, 3778, 4189, 4190, 4197, 6700, 9256番)。
その中に善のない虚偽は、教会の外にいる者のもとよりも、教会の内にいる者のもとではさらにひどい(7688番)。
真理と善は、来世では悪い者から取り去られ、善い者に与えられる、主のことばにしたがって――

「持った者は与えられて、溢れる。持たない者は持っているものも取り去られる」(マタイ25:29)(7770番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

21◀︎目次▶︎23

22 真理の中にいて、善の中にいない者について、そのように善のない真理について
善のない真理はいのちをもっていないので、本質的に真理ではない、というのは、真理のいのちはすべて善からであるから(3603番)。
そのように、あたかも霊魂のない肉体のようである(8530, 9154番)。
単に記憶の中にあって、いのちの中にない真理と善の知識が、彼らに真理であると信じられている(5276番)。
自己と世への愛から発出する原因から、単に知り、認めるだけの真理は、人間に専有されないし、彼のものともならない(3402, 3834番)。
しかし、真理と善そのもののために認めるものは専有される(3849番)。
善のない真理は主に受け入れられない(4368番)――救いもしない(2261番)。
善のない真理の中にいる者は、教会からのものではない(3963番)。
彼らは再生することもできない(10367番)。
善を通してでないなら、主は真理に流入されない(10367番)。

善からの真理の分離について(5008, 5009, 5022, 5028番)。
善のない真理がどんなものか、善からの真理がどんなものか(1949、1950, 1964, 5951番)――比較から(5830番)。
善のない真理は難くせをつける(1949–1951, 1964番)。
霊界ではそれは固く見える(6359, 7068番)。またとがって〔見える〕(2799番)。
善のない真理は、その中では地のすべてのものは無活動となり、何も生み出されない冬の光のようである―― しかし、善からの真理は、その中ではすべてのものが花開き(栄え)、生み出される春と夏の光のようである(2231, 3146, 3412, 3413番)。
このような冬の光は、天界から光が流入するとき、濃厚な暗やみに変わる。その時、その真理にいる者は盲目と、愚鈍の中にやって来る(3412, 3413番)。

善から真理を分離する者は暗やみの中に、真理への無知と虚偽の中にいる(9186番)。
彼らは虚偽から悪の中へ自分自身を投げ込む(3325, 8094番)。
彼らがその中に自分自身を投げ込む誤りと虚偽(4721, 4730, 4776, 4783, 4925, 7779, 8313, 8765, 9222番)。
みことばは彼らに閉ざされている(3773, 4783, 8780番)。
彼らは主が愛と仁愛について、したがって善について語られたことのすべてを見ない、また留意しない(2051, 3416番)。
彼らは何が善か、そのように何が天界的な愛と仁愛か知らない(2471、3603, 4136, 9995番)。
信仰の真理を知り、悪の中に生きる者は、来世では支配に向けて真理を誤用する。彼らがどんなものか、そこでの彼らの運命がどんなものか(4802番)。
神的な真理は地獄へ断罪する、しかし、神的な善は天界へ高揚する(2258番)。
神的な真理は恐れさせるが、神的な善は恐れさせない(4180番)。
何が真理から裁かれることと善から裁かれることなのか(2335番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

22◀︎目次▶︎24

23 真理の中にいて、真理によって善を眺め、善へ向かう者について――そのように善の手段となる真理について
人間は愛するものを、これを欲する。愛しまたは欲するものを、これを考え、いろいろと確信する――人間が愛しまたは欲するものは、これは善と呼ばれる。そこから人間が考え、いろいろと確信するものは、これは真理と呼ばれる(4070番)。
そこでここから、真理が愛または意志のものとなるとき、または人間が真理を愛し、欲するとき、真理は善となる(5526, 7835, 10367番)。
また愛または意志は人間のいのちそのものであるので、真理は、人間が単にそれを知って、それを考えているとき、人間のもとで生きてはいない、しかし、それを愛し、欲するとき、愛と意志からそれを行なう(5595, 9282番)。
真理はそこからいのちを、そのように善からいのちを受ける(2434, 3111, 3607, 6077番)。
それゆえ、真理のいのちは善からであり、善のない真理のいのちは何もない(1589, 1947, 1997, 3180, 3579, 4070, 4096, 4097, 4736, 4757, 4884, 5147, 5928, 9154, 9667, 9841, 10729番。説明、9154番)。
真理がいのちを得たと言われる時(1928番)。
真理が善に結合されるとき、人間のいのちのものとなるので、人間に専有される(3108, 3161番)。
真理が善と結合されるために、理解力と意志からの同意がなければならない。意志からもまた同意があるとき、その時, 結合がある(3157, 3158, 3161番)。

人間は再生するとき、真理を行なうことを愛するので、真理は情愛の快さとともに入ってくる。また真理は同じ情愛とともに再び生み出される、〔その二つのものが〕密着しているから(2474, 2487, 3040, 3066, 3074, 3336, 4018, 5893, 7967番)。
愛に属する情愛は常にいのちの役立ちにしたがって真理に結合し、その情愛は真理とともに再び生み出され、そして真理は情愛とともに再び生み出される(3336, 3824, 3849, 4205, 5893, 7967番)。
善は愛に属する情愛に一致するもの以外に何も真理として認めない(3161番)。
真理は〔人間の自然的なものに〕適合した快さと楽しさによって導き入れられる(3502, 3512番)。
真理へのすべての純粋な情愛は善からであり, それにしたがっている(4373, 8349, 8356番)。
このように真理の中へ善の注ぎ込みと流入が、そして結合がある(4301番)。
またこのように真理にいのちがある(7917, 7967番)。

愛に属する情愛は常にいのちの役立ちにしたがって真理に接合するので、善はそれ自体の真理を、そして真理はそれ自体の善を認める(2429, 3101, 3102, 3161, 3179, 3180, 4358, 5407, 5835, 9637番)。
ここから真理と善との結合がある(これについては、3834, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623–7627, 7752–7762, 8530, 9258, 10555番)。
さらにまた真理は互いに認め、相互に仲間となる(9079番)――これは天界の流入からのものである(9079番)。

善はいのちのエッセ(存在)であり、そして真理はそこからのいのちのエキシステレ(実在)である。このように善は真理の中にそれ自体のいのちのエキシステレをもち、真理は善の中にそれ自体のいのちのエッセをもつ(3049, 3180, 4574, 5002, 9154番)。
そこからすべての善はそれ自体の真理をもち、すべての真理はそれ自体の善をもつ、善は真理なしに生じないし、真理は善なしに存在しないから(9637番)。
なおまた、善は真理からそれ自体の形と性質をもち、そのように真理は善の形と性質である(3049, 4574, 6916, 9154番)。
また、このように真理と善は何らかものであるために、結合していなければならない(10555番)。
ここから善はそれ自体に真理を結合しようとする永久の努力と願望の中にある(9206, 9495番。説明、9207番)。
また真理は逆に(交替に)それ自体を善と〔結合しようとする〕(9206番)。
結合は相互的なものであり、善は真理に、真理は善に〔結合する〕(5365, 8516番)。
善は作用し、真理は反応する、しかし善から〔反応する〕(3155, 4380, 4757, 5928, 10729番)。
真理はそれ自体の善を始めと終わりとして眺める(4353番)。

善との真理の結合は幼児期からの人間のいのちの発達(経過)のようである。まず真理を記憶知として、その後に理性的に吸収し、最後にそれらを自分のいのちに属するものにする(3203, 3665, 3690番)。
さらにまた、みごもり、子宮内に存在し、生まれ、成長し、賢明になる子のようである(3298, 3299, 3308, 3665, 3690番)。
さらにまた種子と土地のようである(3671番)。
それはパンに対する水のようである(4976番)。
真理への最初の情愛は純粋ではない、しかし、人間が完全になるに応じて、それは清められる(3040, 3089番)。
それでも純粋でない善と真理は、純粋な善と真理とを導入するのに役立ち、後に、前のものは残される(3665, 3690, 3974, 3982, 3986, 4145番)。

さらに、人間は真理によって善へ導かれ、真理なしに導かれない(10124, 10367番)。
人間は真理を学んで獲得するかまたは受け入れるのでないなら、善は流入することはできない、したがって人間は霊的なものになることができない(3387番)。
善と真理との結合は知識の増加にしたがって生ずる(3141番)。
真理は理解(把握)にしたがって、だれにでも受け入れられる(3385番)。

自然的な人の真理は記憶知である(3293, 3309, 3310番)。
記憶知と知識とは容器のようなものである(6004, 6023, 6052, 6071, 6077番)。
真理は善の受器である、受け入れるものであるから(1496, 1900, 2063, 2261, 2269, 3318, 3365, 3368番)。

善は、内なる道、すなわち、霊魂の道を通って人間に流入する、しかし真理は外なる道、すなわち、聞いたり、見たりする道を通って人間に流入し、それらは主により人間の内なるものの中で結合される(3030, 3098番)。
真理は自然的な人から高揚され、霊的な人の中の善に植え付けられ、このように真理は霊的なものとなる(3085, 3086番)。
その後、そこから自然的な人の中に流入する。霊的な善は自然的な人の善の中へ直接に、けれども、自然的な人の真理の中へ間接的に〔流入する〕(3314, 3573, 4563番。説明, 3314, 3576, 3616, 3969, 3995番)。
一言でいえば、人間はいのち(生活)に関して善の中に、またどのようにか、いればいるほど、それだけ、そのように真理は人間のもとの善に結合する(3834、3843番)。
結合は、天的な者のもとで異なり、霊的な者のもとで異なる(10124番)。
善と真理との結合についてさらに多くのもの、またどのように生ずるか(3090, 3203, 3308, 4096, 4097, 4345, 4353, 5365, 7623-7627番)。
どのように霊的な善は真理によって形作られるか(3470, 3570番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

23◀︎目次▶︎25

24 善からの真理の中にいる者について、このように善からの真理について
善へ導く真理と善から発出する真理、その相違(2063番)。
真理は、善から発出するもの以外に本質的に真理ではない(4736, 10619番)。真理はそれ自体のエッセ(存在)を善からもつからである(3049, 3180, 4574, 5002, 9144番)――またそれ自体のいのちを〔もつから〕(2434, 3111, 6077番)――真理は善の形、またはその性質であるからである(3049, 4574, 5951, 9154番)。
真理は人間のもとにまったく善のように存在する、同じ割合で、同じ段階の中に(2429番)。
真理が真理であるためには、その本質を仁愛の善と無垢から得なければならない(3111, 6013番)。
善からの真理は霊的な真理である(5951番)。

真理は善から発出するとき, 善と一つとなり, 同時に二つは一つの善であるほどにまでなる(4301, 4337, 7835, 10252, 10266番)。
理解力は真理を、意志は善を受け入れるものであるので、理解力が意志から発出するとき、理解力と意志とは一つの心と一つのいのちをつくる。けれども、人間が欲する以外のことを異なって考え、語るとき、つくらない(3623番)。
善からの真理は、意志と行為における真理である(4337, 4353, 4385, 4390番)。
真理が善から発出するとき、善は真理の中に自分の映像をもつ(3180番)。

全天界と世の中に、またその個々のものの中に、結婚に似たものがある(54, 718, 747, 917, 1432, 2173, 2516, 5194番)。
特に善と真理の間に(1904, 2173, 2508番)。
全世界のすべてのものは何らかのものであるためには、善と真理とに関係し、何らかのものが生み出されるためには、それらの結合に関係するからである(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122, 10555番)。
古代人もまた真理と善との間に結婚を制定した(1904番)。
結婚の法則は、主のことばにしたがって、二人が一つとなるためのものである(10130, 10168, 10169番)。
さらにまた真の結婚愛は、真理と善との結婚から、天界から降り、存在するようになる(2728, 2729番)。

人間は善とそこからの真理の中にいればいるほど、それだけ賢明である、けれども、真理を知っても善の中にいないかぎり賢明ではない(3182, 3190, 4884番)。
善から真理の中にいる者は、実際に世の光から天界の光の中へ、そのように暗さから明るさの中へ高揚される。けれども逆に、真理を知っても善の中にいないかぎり、世の光と暗さの中にいる(3190, 3192番)。
人間は、善の中にいて、善から〔行動する〕前には、何が善か知らない(3325, 3330, 3336番)。
真理は善から発出するとき、無限に増大する(2846, 2847, 5345番)――その増大について(5355番)。
この増大は、木からの結実、また種子からの繁殖、それらから庭園が完成されるようなものである(1873, 2846, 2847番)。
知恵もまたそれだけ増大し、またこれが永遠に〔増大する〕(3200, 3314, 4220, 4221, 5527, 5859, 10303番)。
善からの真理の中にいる人間もまた、それだけ照らされ、みことばを読むときもそれだけ照らされる(9382, 10548–10550, 10691, 10694番)。
愛の善は火の外観をしていて、またそこからの真理はその火から発した光の外観をしている(3195, 3222, 5400, 8644, 9399, 9548, 9684番)。
さらにまた天界の中では善からの真理は光っている(5219番)。
知恵の源泉である善からの真理は、善の愛の質と量とにしたがって増大し、そして反対に悪からの虚偽は、悪の愛の質と量とにしたがって増大する(4099番)。
善からの真理の中にいる人間は天使的な知性と知恵にやって来る、それらはその人間が世で生きている間は、その内部に隠れている、しかし、来世で開かれる(2494番)。
善からの真理の中にいる人間は、死後、天使になる(8747番)。

善からの真理は生殖のようである(9079番)。
それらは連続して配列される(5339, 5343, 5530, 7408, 10303, 10308番)。
善からの真理の配置は、身体の中の繊維と血管に〔比較され〕、いのちの役立ちにしたがってそこからの構造と形に比較される(3470, 3570, 3579, 9154番)。
善からの真理は、あたかも都市を形作り、これは天界の流入から〔生じている〕(3584番)。
主要な愛に属する真理は中心にあって、残りのものは〔主要な愛に属する真理に〕一致していない段階にしたがってそこから遠ざかってい る(3993, 4551, 4552, 5530, 6028番)。
悪い者にはこの逆である(4551, 4552番)。
真理は善から発出するとき、天界の形に整えられる(4302, 4904, 5339, 5343, 5704, 6028, 10303番)。そしてこれは天使たちの社会の中の秩序にしたがっている(10303番)。
すべての真理は善から発出するとき、ある姻戚関係によって互いに結合しており、それは一人の父から一族が派生することに似ている(2863番)。
さらにまた、すべての真理はもととなる善の質と量とにしたがって天界へひろがるスフェアをもつ(8063番)。
善と真理との結婚は人間のもとの教会と天界である(2731, 7752, 7753, 9224, 9995, 10122番)。
真理の中に善が存在する者のもとの快さと幸福について(1470番)。

善からの真理は結合するとき、人間の映像を示す(8370番)。
人間はその人間自身の善とそこからの真理以外の何ものでもない、または悪とそこからの虚偽以外の何ものでもない(10298番)。

要約――
真理によって信仰がある(4353, 4997, 7178, 10367番)。
真理によって隣人に対する仁愛がある(4368, 7623, 7624, 8034番)。
真理によって主への愛がある(10143, 10153, 10310, 10578, 10645番)。
真理によって良心がある(1077, 2053, 9113番)。
真理によって無垢がある(3183, 3494, 6013番)。
真理によって悪からの清めがある(2799, 5954, 7044, 7918, 9088, 10229, 10237番)。
真理によって再生がある(1555, 1904, 2046, 2189, 9088, 9959, 10028番)。
真理によって知性と知恵がある(3182, 3190, 3387, 10064番)。
真理によって天使の美があり、このように人間に〔美がある〕彼の霊である内的なものに関して (553, 3080, 4985, 5199番)。
真理によって悪と虚偽に反対する力がある(3091, 4015, 10488番)。
真理によって天界の中にあるような秩序がある(3316, 3417, 3570, 4104, 5339, 5343, 6028, 10303番)。
真理によって教会がある(1798, 1799, 3963, 4468, 4672番)。
真理によって人間に天界がある(3690, 9832, 9931, 10303番)。
真理によって人間は人間となる(3175, 3387, 8370, 10298番)。
しかしながら、これらすべてのものは善からの真理によってであり、善のない真理によってではない。善は主から〔である〕(2434, 4070, 4736, 5147番)。
すべての善は主からである(1614, 2016, 2904, 4151, 9981番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

24◀︎目次▶︎26

25 すべての善と真理とは主からである
主は善そのもの、真理そのものであられる(2011, 4151, 10336, 10619番)。
主は、神性と人間性の両方に関して、神的な愛の神的な善であられ、その方から神的な真理が発出する(3704, 3712, 4180, 4577番)。
主の神的な善から神的な真理が発出する、比較して〔言えば〕太陽からの光のように(3704, 3712, 4180, 4577番)。
主から発出する神的な真理は天界の中で光として見られ、天界のすべての光をもたらす(3195, 3223, 5400, 8694, 9399, 9548, 9684番)。
神的な善に結合した神的な真理である天界の光は、天使と霊たちの視覚と理解力とを照らす(2776, 3138番)。
天界は真理と善の中にあるので、光と熱の中にある。神的な真理はそこの光であり、神的な善はそこの熱であるからである(3643, 9399, 9400番。また著作『天界と地獄』126–40番)。
主の神的な善から発出する神的な真理は天使たちの天界を形作り、秩序づける(3038, 9408, 9613, 10716, 10717番)。
神的な真理に結合した神的な善は、天界の中に存在し、神的な真理と呼ばれる(10196番)。

主から発出する神的な真理は唯一の実在である(6880, 7004, 8200番)。
神的な真理によってすべてのものはつくられ、創造された(2803, 2894, 5272, 7678番)。
さらにまた神的な真理はすべての力である(8200番)。

人間は自分自身からは善の何も行なうことは〔できず〕、真理の何も考えることができない(874–876番)。
人間の理性的なものはそれ自体から神的な真理を知覚することができない(2196, 2203, 2209番)。
主からのものでない真理は、人間のプロプリウム(固有のもの)からであり、真理ではなく、単に真理のように見られるものである(8868番)。

すべての善と真理は主からであり、何も人間からではない(1614, 2016, 2904, 4151, 9981番)。
善と真理は、それ自体の中に主をもつかぎり、それだけ善と真理である(2904, 3061, 8480番)。
主から直接に発出している神的な真理について、天使を通して間接に発出している神的な真理について、また人間のもとへのそれらの流入について(7055, 7056, 7058番)。
主は人間のもとにある善の中へ〔流入され〕、善によって真理の中へ流入される(10153番)。
主は善によってすべての種類の真理に流入される、ことに純粋な真理の中へ(2531, 2554番)。
主は善から分離した真理の中へ流入されない。そしてそれら〔善から分離した真理〕に関し、主と人間との間に類似は存在しない、しかし善に関し〔存在する〕(1831, 1832, 3514, 3564番)。

善と真理とのために善と真理を行なうことは、主を愛し、隣人を愛することである(10336番)。
みことば、教会、礼拝の内なるものの中にいる者は、善と真理のために善と真理を行なうことを愛する。けれども、内なるもののないそれらの外なるものの中にいる者は、自分自身と世とのために善と真理を行なうことを愛する(10683番)。
何が善と真理のために善と真理を行なうことか(例によっての説明、10683番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

25◀︎目次▶︎27

26 いろいろな善と真理について
無限の変化(多様性)があり、他と何らかの同一のものは決してない(7236, 9002番)。
天界の中にもまた無限の変化がある(684, 690, 3744, 5598, 7236番)。
天界の中の変化は善の変化である、そこからそこのすべてのものに区別がある(3519, 3744, 3804, 3986, 4005, 4067, 4149, 4263, 7236, 7833, 7836, 9002番)。
これらの変化は他種多様な真理から存在し、それ〔真理〕によってそれぞれの者に善がある(3470, 3519, 3804, 4149, 6917, 7236番)。
そこから、天界の中のすべての天使の社会と、社会の中のそれぞれの天使は相互の間に区別がある(690, 3241, 3519, 3804, 3986, 4067, 4149, 4263, 7236, 7833, 7836番)。
しかしそれでも、彼らは主からの愛によって一つのものとして活動し、そのことによって一つの目的を眺める(457, 3986番)。

全般的に、善と真理は段階にしたがって、自然的なもの、霊的なもの、天的なものに区別される(2069, 3240番)。
全般的に三つの天界にしたがって、善とそこからの真理の三つの段階がある(4154, 9873, 10270番)。
内なる人の中の善とそこからの真理は三重の種類であり、外なる人の中でもそれだけある(4154番)。
自然的な善、市民的な善、道徳的な善がある(3768番)。
自然的な善は、ある者はその中へ生まれているが、霊的な善にならないなら、来世での善ではない(2463, 2464, 2468, 3408, 3469, 3470, 3508, 3518, 7761番)。
霊的自然的な善について、また霊的でない〔善について〕(4988, 4992, 5032番)。
理解力からの真理がある、記憶知からの真理がある(1904, 1911, 2503番)。

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26◀︎目次▶︎28

27 知恵は真理によって善からである
どのように理性的なものが人間にみごもり、生まれるか(2094, 2524, 2557, 3030, 5216番)。
〔これは〕人間のもとの認識と知識の中へ、天界を通しての主の流入によって〔生まれ〕、そこから高揚がある(1895, 1899–1901番)。
〔その〕高揚は役立ちとそれらの愛にしたがっている(3074, 3085, 3086番)。
理性的なものは真理を通して生まれる。ここから真理があるように、このように理性的なものもある(2094, 2524, 2557番)。
理性的なものは善からの真理によって開かれ、形作られ、悪からの虚偽によって閉じられ、滅ぼされる(3108, 5216番)。
どんな事柄についても推論することができること、そのことによって人間は理性的であるのではなく、〔何かが〕真であるかあるいはないかを見、また知覚することができることによって理性である(1944番)。
人間は善の中へ生まれていないので、何らかの真理の中へも生まれていない。しかし、すべてを学び、吸収しなくてはならない(3175番)。
感覚の欺き、虚偽の信念、そこからの推論と疑いのために、人間は、純粋な真理を受け入れ、こうして賢明になることがほとんどできない(3175番)。
人間は、真理に反する推論を退け、疑いを追い返し始めるとき、その時、賢明になり始める(3175番)。
照らされていない人間の理性的なものは内的な真理をあざわらう(例から、2654番)。
人間のもとの真理は、彼のいのち(生活)に植え付けられるとき、内的な真理と呼ばれる。またここから、たとえ内的な真理と呼ばれていても、それを知っていること〔はいのちに植え付けられること〕ではない(10199番)。

善には賢明になる能力がある。ここから世で善の中に生きた者は世を去った後、天使の知恵にやって来る(5527, 5859, 8321番)。
それぞれの善の中には無数のものが内在する(4005番)。
無数のものを善から知ることができる(3612番)。
善からの真理の増加について(5345, 5355, 5912番)。
幼児の善は、真理によって、そして真理にしたがった生活によって、知恵の善となる(3504番)。

真理への情愛と善への情愛がある(1904, 1997番)。
真理への情愛の中にいる者がどんなものか、また善への情愛の中にいる者がどんなものか(2422, 2429番)。
だれが真理への情愛に入ることができ、だれができないか(2689番)。
すべての真理は全般的な情愛の下に秩序づけられている(9094番)。
真理への情愛と善への情愛は、自然的な人間の中で兄弟と姉妹のようなものである、けれども、霊的な人間の中では夫と妻のようなものである(3160番)。

純粋な真理は、人間のもとに、また天使のもとにさえ与えられておらず、主のもとにだけある(3207, 7902番)。
人間のもとにある真理は真理の外観である(2053, 2519番)。
人間のもとで最初の真理は感覚の欺きからの真理の外観であるが、それでも知恵に関して完成させられるほど、連続的に捨てられる(3131番)。
善の中にいる人間のもとにある真理の外観は、主により真理として受け入れられる(2053, 3207番)。
何が真理の外観か、またどんなものか(3207, 3357-3362, 3368, 3404, 3405, 3417番)。
みことばの文字通りの意味はしばしば外観にしたがっている(1838番)。
同一の真理が、ある者のもとでさらに真理であり、他の者のもとで少なく、また他の者には、虚偽化されているので、虚偽である(2439番)。
さらにまた真理は、自然的な人と霊的な人の間の対応にしたがって真理である(3128, 3138番)。
真理はそれについてのいろいろな概念と認識とにしたがって相違する(3470, 3804, 6917番)。

真理は善に結合するとき、その時、いのちのものとなるので、記憶から消える(3108番)。
真理は、自由な状態の中にないなら、善と結合されることができない(3158番)。
真理は試練によって善と結合される(3218, 4572, 7122番)。
善には、真理を秩序づけ、そのことによってそれ自体にその状態を回復しようとする絶え間ないコナトゥス(努力)が内在する(3610番)。
真理は、善との伝達がさえぎられるとき、不快なものに見える(8352番)。
人間は、考えることと欲することを区別することがほとんどできないので、真理と善を区別することがほとんどできない(9995番)。
みことばの中で善は真理の「兄弟」と呼ばれる(4267番)。
さらにまたある観点からは、善は「主」と呼ばれ、真理は「僕」と呼ばれる(3409, 4267番)。

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27◀︎目次▶︎29

意志と理解力

28 人間には彼のいのちをつくる二つの能力があります。一つは「意志」、もう一つは「理解力」と呼ばれます。これらの能力は相互の間で区別されますが、一つのものとなるように創造されており、それが一つのものとなるとき、「心」と呼ばれます。それゆえ、これらのものが人間の心であり、人間のすべてのいのちはそこに存在します。

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28◀︎目次▶︎30

29 神的な秩序にしたがっている全世界のすべてのものは善と真理に関係するように、そのように人間のすべてのものも意志と理解力に関係します、なぜなら、人間の善は彼の意志に属し、その真理は彼の理解力に属するからです。というのは、この二つの能力は、すなわち、人間のこの二つのいのちは、それら〔善と真理〕の容器や主体(対象)でもあるからです。意志は善のすべてのものの容器や主体であり、理解力は真理のすべてのものの容器や主体です。人間の善と真理は他のところに存在しません――人間のもとの善と真理は他のところに存在しないので、したがって、愛と信仰も他のところに存在しません、愛は善に、善は愛に属し、信仰は真理に、真理は信仰に属するからです。

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29◀︎目次▶︎31

30 それで、全世界のすべてのものは善と真理とに関係し、教会のすべてのものは愛の善と信仰の真理とに関係するので、また人間はその二つの能力によって人間であるので、その能力もまたこの「教え」で取り扱われます。そうでなければ、人間はその能力について明確な観念を、また基礎となる思考をもつことはできないでしょう。

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30◀︎目次▶︎32

31 意志と理解力もまた人間の霊をつくります。なぜなら、彼の知恵と知性は、また全般的に彼のいのちは、それらのものに宿るからです。身体は単に〔意志と理解力に〕服従するものです。

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31◀︎目次▶︎33

32 どのようにして意志と理解力が一つの心をつくるかを知ることよりも大切なことはありません。それらは、善と真理とが一つのものとなるように、一つの心をつくります。というのは、意志と理解力の間には善と真理の間にある結婚と似たものがあるからです――その結婚の性質がどのようなものであるかは、善と真理について、前に述べたことから十分に明らかにすることができます。すなわち、善は物事のエッセ(存在)そのものであり、真理はそこからの物事のエキシステレ(実在)であるように、人間の意志は彼のいのちのエッセそのものであり、理解力はそこからのいのちのエキシステレです、なぜなら、意志に属するものである善はそれ自体を理解力の中に形作って、目に見えるものにするからです。

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32◀︎目次▶︎34

33 善と真理の中にいる者に、意志と理解力があります。しかし、悪と虚偽の中にいる者に、意志と理解力はなく、彼らには意志の代わりに欲望が、理解力の代わりに知識があります――なぜなら、真に人間的な意志は善の容器であり、理解力は真理の容器であるからです。それゆえ、意志は悪について述べられることはできないし、理解力も虚偽について述べられることはできません、なぜなら、それらのものは対立したものであり、対立したものは〔互いに他を〕破壊するからです。そこから、悪の中にいて、またそこから、虚偽の中にいる人間は、理性的、賢明、知性的であると呼ばれることができません。また悪い者のもとでは、おもに意志と理解力が住む心の内的なものは閉じられています。悪い者も、意志する(欲する)、理解すると言っているので、彼らにも意志と理解力があると信じることができます。しかし、彼の意志することは単に欲望することであり、彼の理解することも単に知ることです。

 

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33◀︎目次▶︎35

  『天界の秘義』から

34 霊的な真理は、以下の「普遍的なもの」が知られないなら、理解されることはできない――

(1)全世界の中のすべてのものは、それが何らかのものであるためには、善と真理に、またそれらの二つのものの結合に関係しており、したがって愛と信仰に、またそれらの二つのものの結合に関係している。
(2)人間には意志と理解力があり、意志は善の〔容器〕、理解力は真理の容器であり、そしてすべてのものは善と真理に、またそれらの二つのものの結合と関係するように、人間のもとにあるすべてのものもそれらの二つのもの〔意志と理解力〕とそれらの二つのものの結合に関係する。
(3)内なる人と外なる人があり、それらは天と地のように互に区別されているが、それでも、人間は真に人間となるためには、それらの二つのものは一つのものとならなくてはならない。
(4)天界の光は内なる人がその中にいるものであり、世の光は外なる人がその中にいるものである。そして天界の光は神的な真理そのものであり、そこからすべての知性が発する。
(5)内なる人の中にあるものと外なる人の中にあるものの間には対応がある。そこからそれらのものは各々の中に異なった形の下に現われており、それらのものは対応の知識によらないなら決して識別されないほどのものである。

これらやまた他の多くことが知られないなら、霊的なものや天的なものについてはつじつまの合わない観念以外に、理解し、形作ることができない。このように外なる人に属する記憶知と知識とはこれらの普遍的なものがなくては、理性的な人の理解と成長にほとんど役立つことができない。ここからどれほど記憶知が必要であるか明らかである。
その普遍的なものについて、多くの事柄が『天界の秘義』の中に取り扱われている。

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34◀︎目次▶︎36

35 人間には二つの能力があり、一つは意志と呼ばれ、もう一つは理解力と呼ばれる(35, 641, 3539, 3623, 10122番)。
その二つの能力は人間そのものをつくる(10076, 10119, 10210, 10264, 10284番)。
人間のもとのそれら二つの能力がどのようなものであるかによって、彼はそのようなものである(7343, 8885, 9282, 10264, 10284番)。
またそれらのものによって人間は獣から区別される、その理由は、人間の理解力は主により高揚されて、神的な真理を見、同じく意志も〔高揚されて〕、神的な善を知覚し、このように人間は人間をつくる自分の二つの能力によって主に結合されることができるからである。けれども、獣は異なる(4525, 5114, 5402, 6323, 9231番)。
また、人間はこのように主に結合されることができるので、彼の霊である自分の内的なものに関して死ぬことはできない、しかし、永遠に生きる(5302番)。
人間は形からではなく、彼の意志と理解力に属するものである善と真理から人間である(4051, 5302番)。

全世界のすべてのものは善と真理に関係するように、そのように人間のもと〔のすべて〕のものは意志と理解力に関係する(803, 10122番)。
なぜなら、意志は善の容器、理解力は真理の容器であるから(3332, 3623, 5232, 6065, 6125, 7503, 9300, 9930番)。
あなたが真理と言うも、あるいは信仰と言うも、同じことである、信仰は真理に属し、真理は信仰に属するからである。またあなたが善と言うも、あるいは愛と言うも、同じことである、愛は善に属し、善は愛に属するからである。人間は信じるものを真理と言い、また愛するものを善と言うからである(4353, 5997, 7178, 10122, 10367番)。
ここから、理解力は信仰の容器、意志は愛の容器であること、また信仰と愛は、それらが彼の理解力と意志の中に存在する時、人間の中に存在することがいえる。人間のいのちは他のところに存在しないからである(7179, 1022, 10367番)。
また、人間の理解力は主への信仰を受け入れ、意志は主への愛を受け入れることができるので、信仰と愛によって主に結合することができる。また、信仰と愛とによって主に結合することのできる者は永遠に死ぬことができない(4525, 6323, 9231番)。
愛は霊界では結合させるものである(1594, 2057, 3939, 4018, 5807, 6195, 6197, 7081–8086, 7501, 10130番)。

人間の意志は善の容器であるので、人間のいのちのエッセそのものであり、理解力は真理の容器であるので、そこからいのちのエキシステレである(3619, 5002, 9282番)。
このように意志のいのちは人間の主要ないのちであり、理解力のいのちはそこから発出する(595, 590, 3619, 7342, 8885, 9282, 10076, 10109, 10110番)。それは火または炎からの光として比較される(6032, 6314番)。
理解力に入ると同時に意志に入るものは人間のものとされるが、単に理解力に入るものは、〔そうなら〕ない(9009, 9069, 9071, 9133, 9182, 9386, 9393, 10076, 10109, 10110番)。
意志に受け入れられ、そこから理解力に受け入れられるものは、人間のいのち(生活)に属するものとなる(8911, 9069, 9071, 10076, 10109, 10110番)。
さらにまた人間はだれでも彼の意志の善とそこからの理解力の善にしたがって他の者から愛され、尊重もされる。善く意志し(欲し)、善く理解する者は愛され、尊重もされるが、善く理解はするが、善く意志しない(欲しない)者は拒否され、さげすまれるからである(8911, 10076番)。
人間は死後もまた彼の意志とそこからの理解力のあるがままにとどまっている(9069, 9071, 9386, 10153番)――理解力に属するが、同時に意志に属さないものは、人間の霊の中に存在しないので、その時、消える(9282番)。
あるいは、同じことになるが、人間は死後、彼の愛とそこからの信仰のあるがままに、または彼の善とそこからの真理のあるがままにとどまる。また真理に属し、同時に善に属さないものは、人間の中になく、このように人間に属さないので、消える(553, 2363, 10153番)。

人間は、意志から行なわないものを理解力で把握することができる、すなわち、彼の愛に反するので、意志しないものを理解することができる(3539番)。

意志と理解力は一つの心を構成する(35, 3623, 5835, 10122番)。
人間が人間であるためには、いのちのその二つの能力は一つのものとして活動しなくてはならない(3623,5835, 5969, 9300番)。
理解力と意志が一つのものとして活動しない者は、どれほどゆがんだ状態であるか(9075番)。
偽善者、欺く者、追従者、偽る者はそのような状態にいる(2426, 3573, 4327, 4799, 8250番)。
意志と理解力は来世では一つのものにさせられ、そこで分割された心を持つことは許されない(8250番)。

教会の教えのすべてはそれに属する観念をもっており、それによってどのようなものであるか知覚される(3310番)。
彼〔その教会の者〕の理解力はそれら〔教え〕にしたがっており、知的な観念がないなら、人間には言葉からの観念だけで、物事からの観念はまったくない(3825番)。
理解力からの観念は周囲の霊と天使との社会に広がる(6599, 6600–6605, 6609, 6613番)。
人間の理解力からの観念は来世で開かれ、どのようなものであるかは生き生きと目に見えて示される(1869, 3310, 5510番)。
何らかの観念がどのように見えるか(6200, 8885番)。

善の意志と真理の理解力のすべてものは主からである。したがって、善の意志から分離した真理の理解力は〔主からでは〕ない(1831, 3514, 5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153番)。
主から照らされるものは理解力である(6222, 6608, 10659番)。
照らされている者に、主は真理を見ることと理解することを与えられる(9382, 10659番)。
理解力を照らされることは、人間のいのちの状態にしたがって異なっている(5221, 7012, 7233番)。
理解力は人間が真理を意志に受け入れるほど、すなわち、人間が真理にしたがって行動しようと意志する(欲する)ほど照らされる(3619番)。
真理への愛から、また生活の役立ちへの愛からみことばを読む者の理解力は照らされる、けれども、名声、栄誉、利益への愛から〔それを読む者の理解力は照らされ〕ない(9382, 10548, 10549, 10551番)。
照らされることは天界の光の中へ心が実際に高揚されることである(10330番――経験から、1526, 6608番)。
世からの光が視覚へ〔の照らし〕であるように、天界からの光は理解力への照らしである(1524, 5114,6608, 9128番)。
天界の光は神的な真理であり、そこからすべての知恵と知性がある(3195, 3222, 5400, 8644, 9399, 9548, 9684番)。
その光により照らされるものは人間の理解力である(1524, 3138, 3167, 4408, 6608, 8707, 9218, 9399, 10569番)。

理解力はその理解力を形作っている善からの真理のようなものである(10064番)。
理解力は善からの真理によるものである、けれども、悪からの虚偽によるものではない(10675番)。
理解力は、経験と知識に属するものから、真理、物事の原因、関連、連鎖の中で、結果を見ることである(6125番)。
理解力は、確信する前に、真理かどうかを、見、また知覚することである、けれども、どんなものでも確信することができることではない(4741, 7012, 7680, 7950, 8521, 8780番)。
真理に先行する知覚なしに確信する光は自然的な光であって、賢明でない者のもとにもまたありうる(8780番)。
確信する前に、それが真理かどうかを、見、また知覚することは、真理のために真理に感動する者だけに与えられ、したがって、霊的な光の中にいる者だけに与えられる(8780番)。
すべての教義は、虚偽もまた、真理のように見えるまでにも、確信されることができる(2385, 2490, 〔4741〕, 5033, 6865, 7950番)。

どのように人間のもとに理性的なものがみごもり、生まれるか(2094, 2524, 2557, 3030, 5126番)。
それは内なる人を通して外なる人の中にある認識と知識の中へ、主からの天界の光の流入からであり、それゆえ、高揚〔されること〕である(1895, 1899, 1900, 1901, 1902番)。
理性的なものは真理によって生まれ、虚偽によっては生まれない。それゆえ、真理がどのようなものであるかによって, 理性的なものはそのようである(2094, 2524, 2557番)。
理性的なものは善からの真理により開かれ、形作られ、悪から発する虚偽によって閉ざされ、破壊される(3108, 5126番)。
悪からの虚偽の中にいる人間は理性的ではない。それゆえ、どのような事柄についても推論することができるので理性的であるのではない(1944番)。

人間は考えることと意志すること〔の区別〕をほとんど知らないので、理解力と意志の間を区別することをほとんど知らない(9995番)。

「善」に代わって「意志」が、「真理」に代わって「理解力」が認められるだけで、「善」と「真理」についてこの直前に述べた事柄から、「意志」と「理解力」についてさらに多くを知り、結論づけることができる。なぜなら、意志は善に属し、理解力は真理に属するから。

新しいエルサレムとその天界の教え

35◀︎目次▶︎37

内なる人と外なる人

36 人間は霊界と同時に自然界にいるように創造されています。霊界は、そこに天使がいて、自然界は、そこに人間がいます。そして人間はこのように創造されているので、それゆえ、彼に内なるものと外なるものが与えられています。内なるものは、それによって霊界に、外なるものは、それによって自然界にいます。彼の内なるものとは内なる人と呼ばれるものであり、外なるものとは外なる人と呼ばれるものです。

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36◀︎目次▶︎38

37 それぞれの人間に内なるものと外なるものがあります、しかし、それらは善い者のもとと悪い者のもとでは異なります。善い者のもとで、内なるものは天界とその光の中にあり、外なるものは世とその光の中にあります。後者の光は彼らのもとで天界の光から照らされており、このように内なるものと外なるものとは動因(作用因)と結果のように、または前のものと後のもののように、彼らのもとで一つのものとして活動します。しかし、悪い者のもとで、内なるものは世とその光の中にあり、外なるものもまた同じもの〔光〕の中にあります。それゆえ、天界の光からは何も見ないで、ただ世の光だけから見て、それは彼らにより自然の光と呼ばれます。ここから、彼らに天界のものは暗黒の中にあり、世のものは光の中にあります。ここから、善い者には内なる人と外なる人がいますが、悪い者には内なる人がいないで、ただ外なる人だけしかいないことが明らかです。

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37◀︎目次▶︎39

38 内なる人は、天界の光の中にいて、その光は霊的なものであるので、霊的な人と呼ばれます。また外なる人は、世の光の中にいて、その光は自然的なものであるので、自然的な人と呼ばれます。内なるものが天界の光の中にあり、外なるものが世の光の中にある人間は、その両方に関して霊的な人です。しかし、内なるものが天界の光の中になく、世の光の中だけにあり、外なるもまたその中にある人間は、その両方に関して自然的な人です。霊的な人は、みことばの中で「生きている」と呼ばれます。しかし、自然的な人は「死んでいる」と呼ばれます。

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38◀︎目次▶︎40

39 内なるものが天界の光の中にあって、外なるものが世の光の中にある人間は、霊的に、また自然的に考えます。しかし、その時、彼の霊的な考えは彼の自然的な考えへ流入し、そこに知覚されます――しかし、彼の外なるものとともに内なるものが世の光の中にある人間は、霊的にではなく、自然的に考えます。なぜなら、彼はそのすべてが物質的である世の自然界の中にあるものといったものから考えるからです。霊的に考えることは物事そのものを本質的に考え、真理を真理の光から見、善を善の愛から知覚し、それで物質から抽象して物事の性質を見、それらへの情愛を知覚することです。しかし、物質的に考えることは、物事を物質とともに、また物質の中で考え、見、また知覚することであり、このように相対的に粗野で暗いものです。

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39◀︎目次▶︎41

40 内なる霊的な人は、それ自身で(本質的に)見られるなら、天界の天使です。そしてまた、身体の中に生きている間、たとえその時、そのことを知らなくても、天使との社会の中にいて、身体から解放された後は、天使の間にやって来ます。けれども、単に自然的な内なる人は、本質的に見られるとき、霊であって、天使ではありません。そしてまた、身体の中で、社会の中で生きている間、霊とともにいますが、その霊は地獄にいる霊です。身体から解放された後、彼らの間にやって来ます。

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40◀︎目次▶︎42

41 霊的な人間のもとの内的なものは、さらにまた実際に天界に向かって高揚されます、というのは、彼らは最初に天界を眺めるから――けれども、単に自然的なものである者のもとの心[メーンス]の内的なものは、実際に世に向けられています、彼らは最初に世を眺めるからです。心[メーンス]に属する内的なものは、それぞれの者のもとで、〔その者が〕すべてにまさって愛するものに向けられます。アニムス(外的な心)に属する外的なものは、内的なものに向けられます。

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41◀︎目次▶︎43

42 内なる人と外なる人について全般的な観念だけしかもたない者は、考え、欲することが内なるものであり、話し、行なうことはそこからの外なるものであるので、考え、欲する者が内なる人であり、話し、行なう者が外なる人であると信じます。しかし、人間は知的に考え、賢く意志するとき、その時、霊的な内なるものから考え、意志することを知らなくてはなりません、しかし、人間が知的に考えず、賢く意志しないとき、自然的な内なるものから考え、意志します――したがって、人間は、主について、また主に属するものについて、また隣人について、隣人に属するものについて善く考え、その者たちに善いことを意志するとき、その時、真理の信仰からと善の愛から、したがって天界から考えるので、霊的な内なるものから考え、意志します。しかし、人間はそれらのものについて悪く考え、また悪く意志するとき、その時、虚偽の信仰からと悪の愛から、したがって地獄からなので、自然的な内なるものから考え、意志します。一言でいえば、人間は主への愛と隣人に対する愛の中にいればいるほど、それだけ霊的な内なるものの中にいて、そこから考え、意志し、またそこから語り、行動します。しかし、人間は自己愛の中に、また世俗愛の中にいればいるほど、それだけ自然的な内なるものの中にいて、そこから考え、意志し、またそこから語り、行動します。

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42◀︎目次▶︎44

43 人間は天界から考え、意志すればするほど、それだけ内なる霊的な人が開かれ、形作られるように、そのように主により配慮され、秩序づけられています。天界の中へ主までも開かれ、天界に属するものにしたがって形作られます――けれども逆に、人間は天界からでなく、世から考え、また意志すればするほど、それだけ内なる霊的な人は閉ざされ、外なる人が開かれます。世の中へ開かれ、世に属するものへと形作られます。

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43◀︎目次▶︎45

44 内なる霊的な人が天界の中へ主に向けて開かれている者は、天界の光の中に、主から照らしの中にいて、そこから知性と知恵の中にいます。これらの者は真理であるので真理を見、善であるので善を知覚します。けれども、内なる霊的な人が閉ざされている者は、内なる人が存在することを、まして内なる人が何かを知りません。彼らはまた神的なものが存在することも、死後のいのち(生活)も、したがって天界と教会とに属するものも信じません――そして、単に世の光の中にだけ、そこから照らしの中にいるので、自然を神性として信じ、虚偽を真理として見、悪を善として知覚します。

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44◀︎目次▶︎46

45 彼の内なるものが、目で見、手で触れることができないなら何も信じないほどに外なるものになっている者は、感覚的な人間と呼ばれます――彼は最も低い自然的な人間であって、教会の信仰に属するすべてのものについて欺きの中にいます。

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45◀︎目次▶︎47

46 ここに扱った内なるものと外なるものは、人間の霊の内なるものと外なるものです。彼の身体は単にさらに加えられた外なるものであり、その中にそれらが存在するようになります――というのは、身体はそれ自体では何も活動しないで、その中の霊から活動するからです。人間の霊は、肉体から解放された後、〔以前と〕等しく考え、意志し、また話し、行動しており、考え、意志することは彼の内なるものであり、話し、行動することは彼の外なるものであることを知らなくてはなりません。(これについては、著作『天界と地獄』234-245, 265-275, 432-444, 453-484番参照。)

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46◀︎目次▶︎48

『天界の秘義』から

47 人間のもとの内なるものと外なるものについて
キリスト教世界で、人間に内なるものと外なるものがある、すなわち、内なる人と外なる人がいることが知られている、しかし、その一つともう一つのものの性質はほとんど知られていない(1889, 1940番)。
内なる人は霊的であり、外なる人は自然的である(978, 1015, 4459, 6309, 9701–9709番)。
どのように、霊的である内なる人は天界の映像に形作られ, 自然的である外なる人は世の映像に形作られるか。またここから人間は古代人により小宇宙と言われた(3628, 4523, 4524, 6057, 6314, 9706, 10156, 10472番)。
このように人間の中で霊界と自然界は結合されている(6057, 10472番)。
ここから人間は天界に向かって上方を、地に向かって下方を眺めることのできるというような者である(7601, 7604, 7607番)。
上方を眺めるとき、天界の光の中にいて、そこから見る。けれども、下方を眺めるとき、世の光の中にいて、そこから見る(3167, 10134番)。
人間に霊界から自然界への下降が与えられている(3702, 4042番)。

霊的である内なる人と自然的である外なる人は完全に区別されている(1999, 2018, 3691, 4459番)。
その区別は、原因と結果の間にあるような、先のものと後のものとの間のような区別であって、そこに連続はない(3691, 4154, 5145, 5146, 5711, 6275, 6284, 6299, 6326, 6465, 8603, 10076, 10099, 10181番)。
したがって、その区別は天界と世の間の、または霊的なものと自然的なものの間の区別のようである(4292, 5032, 5620, 5639番)。
人間の内側と外側とは連続していなくて、段階にしたがって区別され、どの段階にも限界がある(3691, 4145, 5114, 6326, 6465, 8603, 10099番)。
段階にしたがった人間の内側と外側の区別を知覚せず、段階がどんなものか理解しない者は人間の内なるものと外なるものを把握することができない(5146, 6465, 10099, 10181番)。
上位の段階の中にあるものは低い段階の中にあるものより完全である(3405番)。
人間の中に三つの天界にしたがった三つの段階がある(4154番)。
人間のもとで、外的なものは神性からはさらに遠くにあり、それゆえ相対的に暗い(不明瞭である)。また全般的なものである(6451番)。そしてまた、相対的に無秩序である(996, 3855番)。
内的なものは、神性にさらに近いので、さらに完全である(5146, 5147番)。
内なるものの中には無数(数千また数千)のものが存在するが、それは外なるものの中で一つの全般的なものとして見られる(5707番)。
ここから思考と知覚とはそれが内的なものであればあるほどますます明瞭なものになる(5920番)。
ここから人間は内なるものの中にいなくてはならないことがいえる(1175, 4464番)。

愛と仁愛とにいる人間のもとで、心の内的なものは実際に主により高揚される、またそうでなければ、下方を眺めてしまう(6952, 6954, 10330番)。
人間のもとへの天界からの流入と照らしは、内的なものへの主による実際の高揚である(7816, 10330番)。
人間は霊的なものに向かうとき、高揚される(9922番)。
人間は外なるものから内的なものに向けて高揚されればされるほど、それだけ光の中へ、したがって知性の中へ入る。このことが、古代人により言われたように、感覚的なものから引き出されることである(6183, 6313番)。
外なるものから内的なものへの高揚は、もや(霧)から光の中へのようである(4598番)。

主からの流入は内なる人を通って外なる人へである(1940, 5119番)。
内的なものは外的なものへ流入することができる、その逆ではない。そのように流入は霊的であって、物質的ではない。すなわち、それは霊的な人から自然的な人へであり、自然的な人から霊的な人へではない(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5477, 6322, 9109, 9110番)。
主は、内なるもの――そこには平和――から、外なるもの――そこには騒動――を支配されている(5396番)。

内なるものは外なるものの中のすべてのものを見ることができる、しかし逆ではない(1914, 1953, 5427, 5428, 5477番)。
人間は世に生きるとき、内なるものから外なるものの中で考える。そのように彼の霊的な思考は自然的な思考の中へ流入し、そしてそこにそれ自体を自然的に示す(3679番)。
人間は善く考えるとき、〔その思考は〕内なるものまたは霊的なものから外なるものまたは自然的なものの中にある(9704, 9705, 9707番)。
外なる人は、内なる人との結合にしたがって考え、意志する(9702, 9703番)。
内的な思考と外的な思考とがある。あるものともう一つのものがどんなものか(2515, 2552, 5127, 5141, 5168, 6007番)。
内なるものの中の思考と情愛とは、世に生きている間、人間に知覚されない、しかし、そこからの外なるものの中にあるもの〔は知覚される〕(10236, 10240番)。
しかし、来世では外なるものは取り去られ、人間はその時、自分の内なるものの中へ入れられる(8870番)。
その時、〔彼の〕内なるものがどのようであるかが明らかとなる(1806, 1807番)。

内なるものは外なるものを生む(994, 995番)。
またその時、内なるものはそれ自体に、それによって外なるものの中に結果を起こすことのできるようなものを着る(まとう)(6275, 6284, 6299番)――またそれによって外なるものの中で生きることのできるものを〔着る〕(1175, 6275番)。
主は、内なる人または霊的な人を、外なる人または自然的な人と結合される、後者〔外なる人または自然的な人〕を再生されたときに(1577, 1594, 1904, 1999番)。
外なる人または自然的な人はその時、内なる人または霊的な人によって整えられ、また従属させられる(9708番)。

外なるものは内なるものに従属し、服従するべきである(5077, 5125, 5128, 5786, 5947, 10272番)。外なるものは内なるものに仕えるように、そのように創造されている(5947番)。
内なるものが主人となり、外なるものがそれに仕える者と、ある観点で、しもべとなるべきである(10471番)。

結合が存在するために、外なるものは内なるものとの対応の中に存在しなくてはならない(5427, 5428, 5477番)。
外なるものが内なるものに対応するときの性質と対応しないときの性質(3493, 5422, 5423, 5427, 5428, 5477, 5511番)。
外なる人の中には、内なる人に対応し、一致するものがあり、また対応も一致もしないものがある(1563, 1568番)。

外なるものは内なるものからその性質をもつ(9912, 9921, 9922番)。
外なる人が内なる人に結合するとき、その美しさはどれほど大きいか(1590番)。
また結合しないとき、その醜さはどれほど大きいか(1598番)。
主への愛と隣人に対する仁愛は外なるものを内なるものに結合する(1594番)。
内なる人が外なるものに結合しないなら、決して実を結ぶことがない(3987番)。

内的なものは連続的に、外的なもの、最も外なるものまたは最後のものにまで流入し、そこに同時に存在するようになり、存続する(634, 6239, 9215, 9216番)。
単に連続的に流入するだけでなく、最後のものの中に同時に形成する。どんな順序で(5897, 6451, 8603, 10099番)。
内的なものはすべて、最初のものから、最後のものによって関連の中に保たれる(9828番)。
そこからまた最後のものの中に強さと力とが存在する(9836番)。
なおまた、それゆえ、それで応答と啓示とは最後のものから〔であった〕(9905, 10548番)。
そこからまた究極的なものは内的なものよりも聖なるものである(9824番)。
そこから、みことばでは「最初と最後」はすべてと個々のものを、そのように全体を意味する(10044, 10329, 10335番)。

内なる人は、神的な秩序の中にいる者に開かれている、しかし、神的な秩序の中にいない者に閉ざされている(8513番)。
内なる人のない外なる人に天界は結合しない(9380番)。
悪と悪からの虚偽は内なる人を閉ざし、人間を単に外なるものの中にだけにいるようにする(1587, 10492番)――特に自己愛からの悪は〔そうする〕(1594番)。
もし神的なものが否定されるなら、内的なものは、最後のものである感覚的なものまでも閉ざされる(6564番)。
知識から天界と教会に属する事柄に反するものを確信する世の知識人と学者のもとで内なるものは、そのようなものに〔ついて〕単純な者のもとよりもさらに閉ざされている(10492番)。

内なる人は天界の光の中にあり、外なる人は世の光の中にあるので、内なるもののない外なるものの中にいる者は、すなわち、内なるものが閉ざされている者は、天界と教会の内なるものに関心をもたない(4464, 4946番)。
来世では彼らは内なるものに決して耐えられない(10694, 10701, 10707番)。
彼らは何も信じない(10396, 10400, 10411, 10429番)。
彼らはすべてにまさって自己と世とを愛する(10407, 10412, 10420番)。
彼らの内的なもの、すなわち、思考と情愛に属するものは、外なるものの中ではどのように見えても、醜く、不潔で、汚れている(1182, 7046, 9705, 9707番)。
彼らの思考の観念は物質的であり、まったく霊的ではない(10582番)。
さらに, 天界を眺める内なるものが閉ざされている者がどんなものであるか(4459, 9709, 10284, 10286, 10429, 10472, 10492, 10602, 10683番)。

霊的なものである内なるものが開かれれば開かれるほど、それだけ真理と善は増大する。また霊的なものである内なるものが閉ざされれば閉ざされるほど、それだけ真理と善は消える(4099番)。
内なる霊的な人は天界の中にいるので、彼の中に教会が存在し、それ〔内なる霊的なもの〕のない外なる人の中にはない(10698番)。
ここから、外なる教会は人間のもとでは内なるものなしに無意味である(1795番)。
内なる礼拝のない外なる礼拝は、決して礼拝ではない(1094, 1175番)。
教会の、礼拝の、またみことばの内なるものの中にいる者について。内なるものを含む外なるものの中にいる者について。また内なるもののない外なるものの中にいる者について(10683番)。
内なるもののない外なるものは固い(10683番)。

単に自然的な人間は、再生によって霊的なものとならないなら、地獄の中にいる(10156番)。
内なるもののない外なるものの中にいる、すなわちその者のもとに霊的な内なるものが閉ざされているすべての者は、地獄の中にいる(9128, 10483, 10489番)。

人間の内的なものは実際に〔その者の〕愛にしたがって向きを変えている(10702番)。
すべてと個々のものの中には、〔それが〕存続するために、内なるものと外なるものが存在しなくてはならない(9473番)。

みことばの「上にある」と「高い」は内なるものを意味する(1725, 2148, 4210, 4599番)。
そこから、みことばの中の「高いもの」は内なるものであり、「低いもの」は外なるものである(3084番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

47◀︎目次▶︎49

48 自然的なものと霊的なものについて
世界が今日、こんなにも多くのものを自然に帰し、こんなににもわずかなものを神的なものに帰していることは、どれほど転倒していることであろう(3483番)。
なぜ、このようなことが行なわれるのか(5116番)。
それでも、自然のすべてと個々のものは神性から生ずるだけでなく、また絶えず存続している。またこのことは霊界を通してである(775, 8211番)。
神性、天的なもの、霊的なものは、自然の中で終わる(4240, 4939番)。
自然はそこにそれらのものが立つ最後の面である(4240, 5651, 6275, 6284, 6299, 9216番)。
天的なもの、霊的なもの、自然的なものはその順に生じ、また続く。このようにそれらのものは神性からのものであるので、神性はそれらのものとともにある(880, 4938, 4939, 9992, 10005, 10017, 10068番)。
天的なものは頭、霊的なものは身体、自然的なものは足である(4938, 4939番)。
〔それらのものは〕順序で同時に生じ、続き、さらにまた流入する(4938, 4939番)。
最も内なるまたは第三の天界の善は天的と呼ばれ、真ん中のまたは第二の天界の善は霊的と呼ばれ、最後のまたは第一の天界の善は霊的自然的と呼ばれる。そこから、天的、霊的、自然的なものとは何かを知ることができる(4279, 4286, 4938, 4939, 9992, 10005, 10017, 10068番。また著作『天界と地獄』20–28, 29–40番)。

自然界のすべてのものは霊界を通って神性からである(5013番)。
ここから霊的なものは自然的なもののすべての中に存在する、動因が結果に内在するように(3562, 5711番)。なおまたあたかもコナトゥス(努力)が運動に内在するかのように(5173番)。あたかも内なるものが外なるものに内在するかのように(3562, 5326, 5711番)。
また原因が結果の中の本質的なものそのもの、同様に、コナトゥス(努力)が運動の中の、また内なるものが外なるものの中の本質的なものそのものなので、ここから霊的なものは、したがって神性は自然的なものの中の本質的なものそのものである(2987-3002, 9701–9709番)。
霊的なものは自然的なものの中に示される。また示されたものは表象であり、対応である(1632, 2987–3002番)。
ここから全自然は霊界を、すなわち、天界を表象する劇場である(2758, 2999, 3000, 4939, 8848, 9280番)。
自然のすべてのものは目的にしたがって、順序と連続の中で配列される(4104番)。
このことは霊界から、すなわち、天界からである、そこでは役立ちである目的が支配しているからである(454, 696, 1103, 3645, 4054, 7038番)。
人間は、秩序にしたがって自然の中へ下降している神的なものが、彼のもとで知覚されるように創造されている(3702番)。

神的な秩序の中にいるそれぞれの人間のもとには、内なるものと外なるものがある。彼の内なるものは霊的なものまたは霊的な人と呼ばれ、彼の外なるものは自然的なものまたは自然的な人と呼ばれる(978, 1015, 4459, 6309, 9701–9709番)。
霊的な人は天界の光の中にいて、自然的な人は世の光の中にいる(5965番)。
自然的な人は、自分からは何も見通すペルスキピオー 〔5286番では「用心するプロスキピオー 」〕ことができない、しかし、霊的なものから〔見通すことができる〕(5286番)。
自然的なものはあたかも顔のようであり、その中にそれ自体の内的なものを見る、このように人間は考える(5165番)。
霊的な人は、〔物事を〕感覚的に把握するかぎり、自然的なものの中で、このように自然的に考える(3679, 5165, 6284, 6299番)。
自然的なものはその中に霊的なものが終わる面である(5651, 6275, 6284, 6299, 9216番)。
霊的なものは, 自然的なものが対応しないなら、何も見ない(3493, 3620, 3623番)。
霊的なまたは内なる人は、自然的なまたは外なる人の中で何が起こっているか見ることができる。けれども逆ではない、霊的なものは自然的なものの中に流入し、自然的なものは霊的なものの中に流入しないからである(3219, 4667, 5119, 5259, 5427, 5428, 5477, 6322, 9109, 9110番)。
自然的な人は、自然の光と呼ばれる自分の光からは、神について、天界についても、そして死後のいのちについて何も知らないし、もし聞いても信じない、天界からのルークス である霊的なルーメン がその〔自然的な〕 光に流入しないなら(8944番)。

自然的な人は自分自身から霊的な人に対立する、生来から〔そのようなもの〕であるから (3913, 3928番)。
それゆえ、〔そのニつのものが〕対立するかぎり、人間は霊的なことと天的なことについて考えることを煩わしく、しかし、自然的なことと身体的なことについて考えることを快く感じる(4096番)。
天界に属するものに、また霊的なことの名前が挙げられるだけで、吐き気を催す(経験から、5006, 9109番)。
単に自然的な人は、霊的な善と真理をしもべのように眺める(5013, 5025番)。
そのとき、それでも自然的な人は霊的な人に従属し、それに仕えなければならない(3019, 5168番)。
霊的な人は自然的な人に仕えると言われる、後者〔自然的な人〕が知的なものから〔自分の〕欲望するようなものについて、特にみことばから、確認するものを集める時である(3019, 5013, 5025, 5168番)。
単に自然的な人は来世ではどんなふうに見られるか、また彼らの状態とそこでの運命はどのようか(4630, 4633, 4940–4952, 5032, 5571番)。

自然的な人の中にある真理は、記憶知や認識と呼ばれる(3293番)。
本質的に眺められた自然的な人には、物質的なものである想像力があり、また獣にあるような情愛がある(3020番)。
しかし、内なるまたは霊的な人から純粋な思考や想像力が存在する、その時それ〔内なるまたは霊的な人〕から自然的な人は見、活動し、生きる(3493, 5422, 5423, 5427, 5428, 5477, 5510番)。

自然的な人の中にあるものは、霊的な人の中にあるものに比較すれば、全般的なものである(3513, 5707番)。
またこのように相対的に暗い(不明瞭である)(6686番)。

人間には内的な自然的なものと外的な自然的なものがある(3293, 3294, 3793, 5118, 5126, 5497, 5649番)。
さらにまたそれらの間に手段がある(4570, 9216番)。
霊的な人が荷を降ろすことは、自然的な人の中へ、また自然的な人によってなされる(9572番)。

単に自然的な生来の性質から善を行なって、宗教からでない者は、天界の中に受け入れられない(8002, 8772番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

48◀︎目次▶︎50

49 天界の光について、霊的な人はその中にいる

天界には大きな光がある(1117, 1521, 1533, 1619–1632番)。
天界の光は地上の真昼の光を多くの段階で超えている(1117, 1521, 4527, 5400, 8644番)。
その光は私にしばしば見られた(1522, 4527, 7174番)。
最も内なるまたは第三の天界の天使たちのもとの光は太陽からの光に似ている、しかし、第二の天界の天使たちもとの光は月からの光に似ている(1529, 1530番)。
最も内なる天界の中の光は炎のようである、しかし、第二の天界の中の光は白光りしている(9570番)。

天界の中のすべての光はそこの太陽としての主からである(1053, 1521, 3195, 3341, 3636, 3643, 4415, 9548, 9684, 10809番)。
主は天使の天界の太陽であられ、その太陽はその方の神的な愛である(1521, 1529, 1530, 1531, 1837, 4321, 4696, 7078, 7083, 7173番)。
天界の主から発出する神的な真理は光として見られ、天界のすべての光をもたらす。そこからその光は霊的な光である(3195, 3322, 5400, 8644, 9399, 9548, 9684番)。
それゆえ、主はみことばで光と言われる(3195番)。
その光は神的な真理であるので、その光の中には神的な知恵と知性とが存在する(3195, 3485, 3636, 3643, 3993, 4302, 4413, 4415, 9548, 9684番)。
主からの光はどのように天界の中に流入するか、太陽の周りにある光線の環によって説明される(9407番)。
(主は天界の太陽であられ、そこのすべての光がその方からであることは、著作『天界と地獄』参照、116–125番――またその太陽からの光は神的な真理であり、その太陽からの熱は神的な愛の神的な善である、126番から140番まで)。

天界の光は天使と霊の視覚と理解力を照らす(2776, 3138番)。
そこの光は彼らの知性と知恵とにしたがっている(1524, 3339番)。
みことばからの証明(1529, 1530番)。
天界の光には天使たちの社会と同数の相違がある(4414番)――天界の中では善と真理に関して、したがって知恵と知性に関して、絶え間ない変化があるからである(684, 690, 3241, 3744, 3745, 5598, 7236, 7833, 7836番)。
天界が光と熱の中にあることは、知恵の中と愛の中にあることを意味する(3643, 9399, 9400番)。

天界の光は人間の理解力を照らす(1524, 3138, 3167, 4408, 6608, 8707, 9128, 9399, 10569番)。
人間は、感覚的なものから高揚されるとき、穏やかな光の中へ、ついには天界的な光の中へやって来る(6313, 6315, 9407番)。
人間は知性の中へ〔やって来ると〕、天界の光の中への高揚がある(3190番)。
私は世俗的な観念から引き出されたとき、どれほど大きな光を知覚したか(1526, 6608番)。
内なる人の視覚は天界の光の中にあり、それゆえ人間は分析的に、また理性的に考えることができる(1532番)。
主からの天界の光は常に人間のもとに現存する。しかし、それは人間が善からの真理の中にいればいるほど、それだけ流入するものである(4060, 4214番)。
その光は善からの真理にしたがっている(3094番)。
真理は霊界の中で輝く(5219番)。
霊的な熱と霊的な光とは人間の真のいのちをつくる(6032番)。

世の光は外なる人のため、天界の光は内なる人のためのものである(3223, 3324, 3337番)。
天界の光は自然的な光に流入し、また自然的な人はその光を受け入れれば入れるほど、それだけ賢明である(4302, 4408番)。
それらの光の間に対応がある(3225番)。
天界の光の中にあるものは、自然的な光と呼ばれる人間のもとの世の光から見られることはできない、しかし逆に〔世の中にあるものは天界の光から見ることができる〕(9577番)。
ここから、自然的な光と呼ばれる世の光だけの中にいる者は、天界の光に属したものを知覚しない(3108番)。
悪からの虚偽の中にいる者のもとの天界の光は暗黒である(1783, 3337, 3413, 4060, 6907, 8197番)。悪人のもとで世の光は赤く光る。赤く光れば赤く光るほど、それだけ天界の光に属したものは、彼らに暗やみである(6907番)。
世の光は天使に見られない(1521, 1783, 1880番)。

天界の中のすべての光は主からであり、またすべての陰は天使と霊の無知とプロプリウム(固有のもの)からである。ここから光と影の加減と多彩なものがある、これはそこの色である(3341番)。
ウリムとトンミムによる光の多彩なものについて(3862番)。

仁愛から分離した信仰の中にいる者の光は、雪〔のよう〕であり、冬の光のようである(3412, 3413番)。
その光は、天界からの光の流入で、暗やみそのものに変わる(3412番)。
間違った信念の信仰の中と悪の生活の中にいる者の光について(4416番)。
プロプリウム(固有のもの)からの知性の中にいる者のもとの光はどのように見られるか、また主からの知性の中にいる者のもとの光はどのように見られるか(4419番)。

地獄の中に光があるが、しかし弱々しい(1528, 3340, 4214, 4418, 4531番)。
そこの光は炭火からの光のようである(1528, 4418, 4531番)。
地獄にいる者は、彼自身の光の中では人間のように彼ら自身に見られる、しかし、天界の光の中では悪魔や怪物のように〔見られる〕(4532, 4533, 4674, 5057, 5058, 6605, 6626番)。
天界の光の中ですべてのものは〔それが〕あるがままに見られる(4674番)。
地獄は暗黒や暗やみの中にあると言われる、悪からの虚偽の中にあるからである(3340, 4418, 4531番)。
「暗やみ」は虚偽を、「暗黒」は悪の虚偽を意味する(1839, 1860, 7688, 7711番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

49◀︎目次▶︎51

50 最も低い自然的な者、感覚的な人間について(これについては「教え」の中の前述45番)
感覚的なものは人間のいのちの最後ものであり、その身体的なものに付着し、定着している(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730番)。
身体の感覚からすべてのものを判断し、結論し、また目で見、手で触れることのできるもの以外に何も信じないで、これらのもの〔目に見え、手で触れるもの〕に意味があると言って、その他のものを投げ出す者は感覚的な人間と呼ばれる(5094, 7693番)。
このような人間は最も外なるものの中で考え、自分自身の中で内的に考えない(5089, 5094, 6564, 7693番)。
彼の内的なものは閉ざされている、そこに真理を何も見ないように(6564, 6844, 6845番)。
つまり、粗野な自然的な光[ルーメン] の中にいて、このように天界の光からのものを何も知覚しない(6201, 6310, 6564, 6598, 6612, 6614, 6622, 6624, 6844, 6845番)。
ここから、彼は天界と教会に属したものに内的に対立している(6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949番)。
教会の真理に反することを確信した学者は感覚的である(6316番)。
感覚的な人間は、鋭く、また巧みに推論する、彼らの思考はほとんど発言の中にあるほどにもその近くにあるから、また記憶だけからの発言の中にすべての知性を置いているからである(195, 196, 5700, 10236番)。
しかし、彼らは感覚の欺きから推論し、これに大衆は捕えられる(5084, 6948, 6949, 7693番)。

感覚的な人間は他の者よりも狡猾であり、悪意がある(7693, 10236番)。
貧欲な者、姦淫する者、快楽にふける者、欺く者は特に感覚的である(6310番)。
彼らの内的なものは醜く、不潔である(6201番)。
それらを通して地獄と連絡する(6311番)。
地獄にいる者は、そこの深みにいればいるほどますます感覚的である(4623, 6311番)。
地獄の霊のスフェアは人間の感覚的なものに背後から結合する(6312番)。
感覚的なものから推論し、そこから信仰の真理に対立した者は、古代人から知識の木のヘビと呼ばれた(195–197, 6398, 6949, 10313番)。

人間の感覚的なものと感覚的な人間が、さらに描かれている(10236番)。また人間のもとの感覚的なものの拡大(9731番)。
感覚的なものは、最初の位置でなく、最後の位置になくてはならない。また賢明で知的な人間のもとでは最後の位置にあって、内的なものに服従する。しかし、賢明でない人間のもとでは最初の位置にあって、支配する。これらの者はまさしく感覚的な者と呼ばれる(5077, 5125, 5128, 7645番)。
もし感覚的なものが最後の位置にあって、内的なものに服従するなら、それらを通して理解力への道が開かれ、そして真理はあたかも抽出のような方法によって精練(引き出)される(5580番)。

人間の感覚的なものは世に最も近く存在し、世からやって来るものを入れて、あたかもそれらをふるい分ける(9726番)。
外なるまたは自然的な人はそれらの感覚的なものによって世と、理性的なものによって天界と連絡する(4009番)。
このように感覚的なものは人間の内的なものに役立つものを供給する(5077, 5081番)。
理解力の部分に供給すると意志の部分に供給する感覚的なものがある(5077番)。

思考が感覚的なものから高揚されないなら、人間はほとんど賢明ではない(5089番)。
賢明な人間は感覚的なものを越えて考える(5089, 5094番)。
人間は、彼の思考が感覚的なものの上に高揚されるとき、明るい光の中に、ついには天界の光の中にやって来る(6183, 6313, 6315, 9407, 9730, 9922番)。
感覚的なものの上に高揚されることとそこから引き出されることは、古代人に知られていた(6313番)。
人間は、もし身体からの感覚的なものから引き出され、主により天界の光へ高揚されることができるなら、自分の霊で霊界の中にあるものを見ることができる(4622番)。
その理由は、感じるのは身体ではなく、身体の中の人間の霊であるからである。〔霊が〕身体の中にいればいるほど、それだけ粗野で、暗黒の中に、このように暗やみの中にいると感じる。肉体の中にいないほど、それだけ明るく、光の中に〔いると感じる〕(4622, 6614, 6622番)。

理解力の最後のものは感覚的な記憶知であり、意志の最後のものは感覚的な快さである(そのことについて、9996番)。
獣と共通な感覚的なものと、獣と共通でない感覚的なものの間の相違は何か(10236番)。
悪くはない感覚的な人間がいる、その内的なものがそのように閉ざされていないからである。来世における彼らの状態について(6311番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

50◀︎目次▶︎52

51 知識と認識について、それらによって内なる霊的な人が開かれる
外なるまたは自然的な人とその記憶の中にあるものは記憶知と呼ばれる。しかし〔それは〕内なるまたは霊的な人の中にあるものではない(3019, 3020, 3293, 3309, 4967, 9918, 9922番)。
記憶知は、外なるまたは自然的な人に属するので、相対的に仕えるものである。外なるまたは自然的な人は、世が天界に仕えるように、内なるまたは霊的な人に仕えるようにつくられているからである(5077, 5125, 5128, 5786, 5947, 10272, 10471番)。
世にある神的な秩序の法則は外なる人に刻まれているので、外なる人は相対的に世である。天界にある神的な秩序の法則は内なる人に刻まれているので、内なる人は相対的に天界である(4523, 4524, 5368, 6013, 6057, 9278, 9279, 9283, 9709, 10156, 10472番。また著作『天界と地獄』の中の51-58番)。

自然的なものに関係する記憶知がある。それらは市民的な状態と生活に属するもの、道徳的な状態と生活に属するもの、霊的な状態と生活に属するものである(5774, 5734番)。
しかし、区別のために、霊的な状態と生活に関わるものは、それらは特に教えの事柄であり、認識と呼ばれる(9945番)。

人間は知識と認識を教え込まれなくてはならない。それらによって考えること、その後、何が真理と善か理解すること、ついには賢明になること、すなわち、それらにしたがって生きることを学ぶからである(129, 1450, 1451, 1453, 1548, 1802番)。
記憶知と認識は、それらの上に人間の市民的と同様、道徳的な、また霊的な生活を積み重ねられ、基礎づけられる最初のものである。しかし、それらは生活(いのち)での役立ちを目的として学ばれなくてはならない(1489, 3310番)。
記憶知は内なる人への道を開き、そしてその後、それを役立ちにしたがって外なる人に結合する(1563, 1616番)。
理性的なものは知識と認識によって生まれる(1895, 1900, 3086番)。しかし、それは知識と認識そのものによってではなく、それらからの役立ちへの情愛によって、またその情愛にしたがって生まれる(1895番)。
もし人間が目的として善い役立ちを、特に永遠の生活(いのち)を眺める役立ちをもつなら、知識と認識によって内なる人が開かれ、連続的に完成される(3086番)。
その時、自然的な人間の中に存在する記憶知と認識は、天的また霊的な人からの霊的なものに出会い、適合するものを採用する(1495番)。
その時、天界的な生活(いのち)の役立ちは、自然的な人の中の記憶知と認識から、内なる人を通して、主により引き出され、精練され、高揚される(1895, 1896, 1900-1902, 5871, 5874, 5901番)。
また不適当で対立する記憶知はわきへ投げやられ、根絶される(5871, 5886, 5889番)。
内なる人の視覚は、その愛に属するもの以外に、外なる人の記憶知と認識から何も呼び出さない(9394番)。
記憶知と認識は束となって配列され、それによって導き入れられた愛にしたがって結合される(5881番)。
その時、愛に属するものは、内なる人の視野の下に、中心にあり、明るい。愛に属さないものはわきに置かれて暗い(6068, 6084番)。
人間のもとで記憶知と認識は彼の愛の中に連続的に植え付けられ、またその中に住む(6325番)。
人間は、もし主への愛と隣人に対する愛の中へ生まれたなら、すべての知識とそこからの知性の中へ生まれたであろう。しかし、彼は自己と世への愛の中へ生まれているので、完全な無知の中へ生まれている(6323, 6325番)。
知識、知性、知恵は、主への愛と隣人に対する愛の息子である(1226, 2049, 2116番)。

記憶知と認識は、外なるまたは自然的な人に属するので、世の光の中にある。けれども、愛と信仰のものとなって、このようにいのちを得た真理は、天界の光の中にある(5212番)。
それでも、このようにいのちを得た真理は、人間により自然的な観念を通して把握される(5510番)。
霊的なものは内なる人を通して外なる人の中の記憶知と認識の中へ流入する(1940, 8005番)。
記憶知と認識は容器であり、内なる人の、あたかも真理と善の器である(1469, 1496, 3068, 5489, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077, 7770, 9922番)。
それゆえ、みことばでは「器」によって霊的な意味で記憶知と認識が意味される(3068, 3069, 3079, 9394, 9544, 9723, 9724番)。
記憶知はあたかも鏡のようなものである、その中に内なる人の真理と善が映像のように見られ、知覚される(5201番)。
〔内なる人の真理と善は〕そこにそれらの最後のものの中にいっしょに存在する(5373, 5874, 5886, 5901, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077番)。
記憶知は、世の光の中にあるので、天界の光の中にあるものに比べると、からみ合っていて暗い。外なる人の中にあるものは内なる人の中にあるものと比べると、このようである(2831番)。
さらにまたみことばの中で「からみ合った」によって記憶知が意味される(2831番)――「雲の暗さ」によってもまた〔同じことが意味される〕(8443, 10551番)。

原理は、みことばからのものである教えの真理から引き出され、その真理が最初に認められなくてはならない。そしてその後、その真理を確かめるために記憶知と相談することが許される。このように〔真理は〕強化される(6047番)。
このように信仰の真理について肯定〔の状態〕にいる者には、記憶知によってそれらを知的に確かめることが許される。けれども、否定〔の状態〕にいる者には〔許され〕ない。先行する肯定がすべてのものを自分の側に引き寄せ、また先行する否定がすべてのものを自分の側に引き寄せるからである(2568, 2588, 3913, 4760, 6047番)。
肯定的な疑いと否定的な疑いがある。前者はある種の善い者のもとに、後者は悪い者のもとにある(2568番)。
信仰の真理から記憶知に入ることは秩序にしたがっている、しかし逆に、記憶知から信仰の真理に入ることは秩序に反している(10236番)。
流入は霊的であって、物質的または自然的ではないので、信仰の真理は霊的であり、記憶知は自然的であるので、このように信仰の真理が記憶知に流入する(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5478, 6322, 9109, 9110番)。

本質的には否定である否定的な疑いの中にいて、記憶知によって説得される以前には信じないと言う者は、決して信じない(2094, 2832番)。
このことを行なう者は、教会と天界に属するものに関して気が狂う(128-130番)。
彼らは悪の虚偽に陥る(232, 233, 6047番)。来世では、彼らは霊的なものについて考えるとき、あたかも酔いどれのようになる(1072番)。
彼らがどのようであるかさらに多く(196番)。
もし霊的なものに逆の順序で入るなら、それは把握することができないことの説明例(233, 2094, 2196, 2203, 2209番)。
多くの学者は霊的なことでは単純な者よりも狂っている。なぜなら、彼らは否定的なものの中にいて、彼らに記憶知が豊富にあり、それらによって否定的なものを確信するからである(4760番)。
霊的ないのちについては何も理解できなかった学者の例(8629番)。
記憶知から信仰の真理に反して推論する者は、感覚の欺きから〔推論する〕ので、鋭く推論する、それ〔感覚の欺き〕は把握させ、説得させる〔ものである〕、ほとんど追い散らすことができないから(5700番)。
真理を何も知らない者、そしてまた悪の中にいる者は、信仰の真理と善について推論することはできるが、それでも決して照らされていない(4214番)。
単に教理を確信することは知的ではない、真理と等しく虚偽も確信されることができるから(1017, 2482, 2490, 4741, 5033, 6865, 7012, 7680, 7950, 8521, 8780番)。
教会の真理について、そのようであるか、そのようでないかと推論する者は、真理についてまったく暗さの中にいる、まだ霊的な光の中にいない(215, 1385, 3033, 3428番)。

神的な真理を入れることを許す記憶知がある、また許さないものがある(5213番)。
空虚な記憶知は滅ぼされなくてはならない(1489, 1492, 1499, 1500番)。
自己と世への愛を目的としてもち、それを確信し、主へと隣人に対する愛から引き離すものは空虚な記憶知である、このような記憶知は内なる人を閉ざし、その後、彼は天界からは何も受け入れることはできないほどにまでなるから(1563, 1600番)。
記憶知は賢明になる手段であり、また狂う手段である。それによって内なる人は開かれるかまたは閉ざされる。このように理性的なものは耕されるかあるいは滅ぼされる(4156, 8628, 9922番)。

死後、知識は無となる、しかし、人間は知識を通して理解力と生活(いのち)に吸収したものは〔無とならない〕(2480番)。
それでもすべての記憶知は死後も存続する、しかし休息してしまう(2476-2479, 2481-2486番)。

同じ記憶知が、悪い者のもとでは悪に適用されるので、虚偽となり、善い者のもとでは善に適用されるので、真理となる(6917番)。
悪い者のもとの記憶知からの真理は、その内部に悪があり、そこから虚偽化されているので、それが話される時、どれほど真理のように見えても、真理ではない。そしてその者のもとの知識はいのちがないので、決して知識と呼ばれるに値しない(10331番)。

賢明になること、理解すること、知ること、行なうことは別ものである。しかし、それでも霊的な生活(いのち)の中にいる者たちのもとでは、それらは秩序正しく続いて起り、また対応しており、行ないの中に、または働きの中に同時に存在する(10331番)。
さらにまた、知ること、認めること、信仰を持つことは別ものである(896番)。

霊たちにある知ろうとする欲望がどんなものであるか、その例(1973番)。
知識、理解、知恵は霊的な食物であるので、天使たちには、知ることと賢明になることとの無限の願望がある(3114, 4459, 4792, 4976, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 558に, 5588, 5655, 6277, 8562, 9003番)。

古代人に主要な知識は対応の知識であった、しかし、それらは今日、忘れられている(3021, 3419, 4280, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252番)。
対応の知識は、東洋人のもとに、またエジプトに存在した(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407番)。
彼らの象形文字はそこからである(6692, 7097番)。
古代人は対応の知識によって霊的なものの認識へ導き入れられた(4749, 4844, 4966番)。
みことばは純粋な対応によって書かれている。その内的なまたは霊的な意味はそこからである。対応の知識がなしにその存在は、またみことばの性質も知られることはできない(3131, 3472-3485, 8615, 10687番)。
対応の知識は他の知識にどれほど大きくまさるか(4280番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

51◀︎目次▶︎53

52 外なる人に属する自然的な記憶について、また内なる人に属する霊的な記憶について
人間には外的と内的な、すなわち、自然的と霊的な二つの記憶がある(2469–2494番)。
人間は自分に内的な記憶があることを知らない(2470, 2471番)。
内的な記憶は外的な記憶よりもどれほどすぐれていることか(2473番)。
外的な記憶の中にあるものは自然的な光の中にある。けれども、内的な記憶の中にあるものは霊的な光の中にある(5212番)。
人間が知的に、また理性的に考え、話すことができるのは内的な記憶からである(9394番)。
人間が考え、話し、行なったこと、また彼が聞き、見たすべてと個々のものは、内的な記憶の中に書きつけられる(2474, 7398番)。
その記憶は人間の「いのちの書」である(2474, 9386, 9841, 10505番)。
内的な記憶の中に信仰のものとなったもの(真理)と愛のものとなった善がある(5212, 8067番)。
習慣的となった事柄と、いのち(生活)に属するものとなったものは、内的な記憶の中に存在する(9394, 9723, 9841番)。
記憶知と認識とは外的な記憶に属する(5212, 9922番)。
それらは内的な記憶に属するものに比べると、非常に陰の多い、もつれ合ったものである(2831番)。
人間は世では外的な記憶から言語を話す(2472, 2476番)。
霊と天使は内的な記憶から話しており、ここからその言語は普遍的であり、どんな地から〔の出身者〕でも、すべての者が彼らの間で話すことのできるようなものである(2472, 2476, 2490, 2493番。その言語については、著作『天界と地獄』234–245番参照。死後も人間のもとに残る驚くべき内的な記憶については同書の463番〔参照〕)。

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52◀︎目次▶︎54

53 感覚の欺きについて、単なる自然的で感覚的な人間はその中にいる(その者についてはこの「教え」の中の前述45番)

単なる自然的で感覚的な人間は感覚の欺きから考え、推論する(5084, 5700, 6948, 6949, 7693番)。
感覚の欺きはどんなものであるか(5084, 5094, 6400, 6948番)。

これにこれら〔以下のこと〕を付加しよう――自然的なものの中に、社会的なものの中に、道徳的なものの中に、霊的なものの中に、多くの個々のものの中に、感覚の欺きが存在する。しかし、ここに私は霊的なもの〔の欺き〕をいくつか列挙したい。
感覚の欺きから考える者は〔以下のことを〕理解できない。

(1)人間は死後も人間として見られることも、前のように感覚を楽しむこともできる。したがって天使たちも〔それらを楽しむこと〕も。
〔そうして次のように〕考える。
(2)霊魂は単に生命力の何らかのもの、純粋なエーテルのようなものであり、それについては何らの観念も持つことができない。
(3)身体だけが、感じ、見、聞くものである。
(4)人間は獣に似ている、ただ人間は思考から話すことができるだけである。
(5)自然がすべてであり、最初であり、そこからすべてのものが存在する。
(6)人間は、内的なものとその秩序の流入によって考えることを教わり、学ぶ。
(7)霊的なものは存在しない。もし存在しても、それは純粋に自然的なものである。
(8)人間は、栄誉、名誉、または利益を求める愛の快さを奪われて、何らの幸福を楽しむことはできない。
(9)良心は、身体の弱さからの、また成功しないことからの単なる心の病気である。
(10)主の神的な愛は称賛(栄光)への愛である。
(11)摂理は存在しない、しかし、すべてのものはプロプリウムの思慮分別と知性から流出する。
(12)名誉と富とが神から与えられる真の祝福である。

そのほかに同様の多くのこと〔がある〕。このようなものが霊的なものにおける〔感覚の〕欺きである。ここから、天界的な事柄は単に自然的な感覚的な者により把握されることができないことを知ることができる。その内なる霊的な人が閉ざされている人間は、単に自然的で感覚的であり、自然的なものだけが開かれている。

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53◀︎目次▶︎55

愛全般

54 人間のいのちそのものは彼の愛であり、愛がどのようであるかによって、いのちはそのようであり、それどころか、人間全体もそのようなものです――しかし、人間をつくるものは〔その人間を〕統治しているかまたは支配している愛(支配愛)です。その愛はそこから派生してそれに従属する多くの愛をもちます。これらは他の姿で見られていますが、それでもそれらの個々のものはその支配愛の中にあって、それらとともに一つの王国をつくっています。その支配愛は、それらの王、頭のように存在し、それはそれら〔の愛〕を指示し、それらによって、中間の目的によるかのように、それ自体の目的を眺め、意図しており、それがすべての主要な、また最終の目的となっており、そのことを直接にまた同じく間接に行ないます。支配愛に属するものが、すべてにもまさって愛されるものです。

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54◀︎目次▶︎56

55 人間がすべてにまさって愛するものは、常に彼の思考の中に、また彼の意志の中に現在していて、彼のいのちそのものをつくります。例えば――金銭であれ、あるいは財産であれ、富をすべてにまさって愛する者は、どのようにそれらを自分に得ようかと絶えず心(アニムス)を向けており、得るとき内部で喜び、失うとき内部で悲しみ、彼の心(コル)はその中にあります。自分自身をすべてにまさって愛する者は個々のものの中に自分自身を思い浮かべ、自分自身について考え、自分自身について語り、自分自身のために行動します、というのは、彼の生活(いのち)は自分自身の〔ための〕生活(いのち)であるからです。

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55◀︎目次▶︎57

56 人間はすべてにまさって愛するものを目的としてもちます。彼はそれをすべてと個々のものの中に眺めます――それは彼の意志の中に隠れた水脈の流れのように存在しており、彼が他のことを行なっているときも、彼を引き寄せ、運び去ります。なぜなら、それは生命(いのち)を吹き込むものであるからです。〔すべてにまさって愛するものは〕ある人間が〔それを〕別の人間の中に探り出し、また見て、それにしたがって他の者を導くか、またはその別の者とともに行動するようなものです。

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56◀︎目次▶︎58

57 人間のいのちを支配しているものがどのようなものであるかによって、完全に彼はそのようなものです。これによって彼は他の者から区別されます。これにしたがって、彼が善い者であるなら、彼の天界が生じ、悪い者であるなら、彼の地獄が生じます。それは彼の意志そのもの、彼のプロプリウム(固有のもの)、彼の性質です、なぜなら、彼のいのちのエッセそれ自体であるからです――それは人間そのものであるので、死後、変わることはできません。

新しいエルサレムとその天界の教え

57◀︎目次▶︎59

58 すべての快さ、幸せ、幸福は、それぞれの者に彼を支配している愛から存在し、またそれにしたがっています、というのは、人間は愛するものを快く感じるので、それを快いものと呼ぶからです。けれども、考えても愛さないものを、これもまた快いものと呼ぶことができます、しかし、それは彼のいのちの快さではありません。愛の快さは人間にとって善であることです、そして快くないものは彼にとって悪です。

新しいエルサレムとその天界の教え

58◀︎目次▶︎60

59 二つの愛があって、そこからすべての善と真理が、その源泉そのものからのように生じます。また二つの愛があって、そこからすべての悪と虚偽が存在します。すべての善と真理のもとである二つの愛は、主への愛と隣人に対する愛です――そしてすべての悪と虚偽のもとである二つの愛は、自己への愛(自己愛)と世への愛(世俗愛)です。後者の二つの愛は前者の二つの愛と完全に対立しています。

 

新しいエルサレムとその天界の教え

59◀︎目次▶︎61

60 すべての善と真理のもとである二つの愛は、〔すぐ前に〕述べたように、主への愛と隣人に対する愛であって、人間のもとに天界をつくります。それゆえ、それらはまた天界を支配します。また、それらは人間のもとに天界をつくるので、彼のもとに教会もまたつくります。すべての悪と虚偽のもとである二つの愛は、〔すぐ前に〕述べたように、自己愛と世俗愛であって、人間のもとに地獄をつくります。それゆえ、それらはまた地獄を支配します。

新しいエルサレムとその天界の教え

60◀︎目次▶︎62

61 すべての善と真理のもとである二つの愛は、述べたように、天界の愛であり、内なる霊的な人を開き、形作ります。そこに住むからです――けれども、すべての悪と虚偽のもとである二つの愛は、それらが支配するとき、内なる霊的な人を閉じ、破壊し、その支配する量と性質にしたがって、人間を自然的で感覚的なものにします。

新しいエルサレムとその天界の教え

61◀︎目次▶︎63

『天界の秘義』から

62 愛は人間のいのちのエッセである(5002番)。
人間、霊、天使は完全に彼らの愛のように存在する(6872, 10177, 10284番)。
人間は愛するものを目的としてもつ(3796番)。
人間が愛し、目的としてもつものは、彼をあまねく、すなわち、〔彼の〕すべてと個々のものを、支配する(3796, 5130, 5949番)。
愛は霊的な熱であり、人間の生命力そのものである(1589, 2146, 3338, 4906, 7081–7086, 9954, 10740番)。
人間の理解力と意志に属する彼のもとのすべての内的なものは、彼の支配愛にしたがって、形に配列されている(2023, 3189, 6690番)。
愛は霊的な結合である(1594, 2057, 3939, 4018, 5807, 6195, 6196, 7081-7088, 7501, 10130番)。
ここから霊界のすべての者は彼の愛にしたがって交わっている(同前)。
情愛は愛の連続したものである(3938番)。
すべての快さ、快楽、至福、幸福、すべての心の楽しさは愛に属する。それがどんなものかは愛がどんなものかにしたがっている(994, 995, 2204番)。
快さと快楽の種属と種類とは、愛に属する情愛と同数である(994, 995, 2204番)。
愛の快さはそれが外的なものであればあるほどますます卑しい(996番)。
死後、人間にどのような愛があるかによって、そのような生活(いのち)がある(2362番)。

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62◀︎目次▶︎64

63 愛とその本質と性質について多くのことは、善と真理について前に述べ、引用されたことから知ることができる――さらにそれらについて前に述べ、引用されたことから、また内なる人と外なる人について前に述べられ、引用されたことからも知ることができる――愛に属するものはすべて、同様にその意志に属するすべてものも善と悪に関係するからである。また天界の二つの愛は内なる霊的な人間を開き、形作る、しかし、地獄の二つの愛はそれを閉じ、破壊するからである。ここから、全般的にまた個別的に愛がどのようなものであるか、適用され、結論されることができる。

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63◀︎目次▶︎65

64 著作『天界と地獄』にもまた、愛について扱われている。すなわち、天界の中の主の神性はその方への愛と隣人に対する愛である(13–19番)。
地獄にいるすべての者は自己と世への愛から悪の中に、またそこからの虚偽の中にいる(551–565番)。
それぞれの愛の快さは来世でそれに対応するものに変えられる(485–490番)。
霊的な熱はその本質では愛である(133–140番)。

 

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64◀︎目次▶︎66

自己と世への愛

65 自己愛は、自分ひとりに善を欲して、自分自身のためでないなら、他の者に善を欲しないことです。教会、祖国、何らかの人間社会または仲間に、決して善を欲しません――また自分自身の評判、名誉と称賛のためにだけ、それらに善を行なうことです。行なう善の中にそれら〔世評など〕を見ないなら、自分の心の中で、「何の関係があるのか、なぜそれを〔行なわなくてはならないのか〕、そこから私に何が〔得られるのか〕?」と語り、このようにやめてしまいます。ここから、自己愛の中にいる者は、教会も祖国も社会も仲間も、何らかの善も愛さず、自分自身だけを愛することが明らかです。

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65◀︎目次▶︎67

66 自己愛の中にいる人間は、その時、考え、行なっていることの中に、隣人を、したがって公けのことを、まして主を顧みないで、単に自分自身と自分のものを顧みます。その結果として、その時、行なうすべてのものは自分自身と自分のもののためです。そしてもし公けのことと隣人のためであるなら、それは単に見られるためです。

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66◀︎目次▶︎68

67 自分自身と自分のもののために、と言われます。なぜなら、自分自身を愛する者は、自分のものもまた愛するからです。自分のものとは特に自分の子と孫であり、全般的には自分と一つになっているすべての者であり、その者を自分のものと呼びます。これらやそれらの者を愛することもまた自分自身を愛することです、なぜなら、彼は彼らをあたかも自分自身の中に、また自分自身を彼らの中に眺めるからです――彼が自分のものと呼ぶ者らの間にはまた、彼をほめ、賞賛し、崇拝するすべての者もいます。

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67◀︎目次▶︎69

68 自己愛の中にいる人間は、自分自身と比べて隣人を軽蔑し、もし〔その者が〕自分に好意を持たないなら、また自分を尊敬し、崇拝しないなら、敵意を抱きます――さらになお、自己愛の中にいる者は、そのために隣人に憎みを抱き、迫害します――またさらになお、そのために彼に対して復讐心を燃やし、彼の破滅を欲します――このような者はついには残酷を愛します。

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68◀︎目次▶︎70

69 己愛の性質は、天界的な愛との比較から知ることができます。天界的な愛は役立ちのために役立ちを、すなわち、善のために善を愛することであり、それをその人間は、教会、祖国、人間の社会、仲間に実行します。しかし、自分自身のためにそれらを愛する者は、それらを召使いとしてしか愛しません、自分に役立つからです――ここから、自己愛の中にいる者は、教会、祖国、人間の社会、仲間が自分に仕えることを欲して、自分がそれらのものに仕えることを欲しない、といえます。自分自身をそれらの上に、自分自身の下にそれらを置きます。

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69◀︎目次▶︎71

70 さらに、だれでも天界的な愛の中にいて、役立ちと善とを愛し、それを実践するとき、心の快さを感じれば感じるほど、それだけ主により導かれます、なぜなら、それは主がその中におられ、またその方からの愛であるからです――しかし、だれでも自己愛の中にいればいるほど、それだけ自分自身により導かれます。自分自身により導かれれば導かれるほど、それだけ自分のプロプリウム(固有のもの)により導かれ、そして人間のプロプリウム(固有のもの)は悪以外の何ものでもありません、なぜなら、彼の悪は遺伝によるものであり、それは神よりも自分自身を、天界よりも世を愛することであるからです。

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70◀︎目次▶︎72

71 自己愛はまた、抑制がゆるめられればゆるめられるほど、すなわち、法律とその罰に対する恐怖と、名声、名誉、利益、職務、いのち(生活)を失うことに対する恐怖という外なる束縛が、遠ざければ遠ざけられるほど、それだけ彼は全世界だけでなく、天界と神性そのものの支配を欲するまでに突進します。彼に何らかの限界または終わりはどこにもありません。これは自己愛の中にいるそれぞれの者の中に隠れています、たとえ前述の抑制や束縛が彼をそこで押しとどめている世の面前では明らかではないにしてもです。そしてこのような者はまた、不可能なことに出会っているところでは、可能になるまでそこにとどまります。ここから、またこのような愛の中にいる人間は、このような狂った限界のない欲望が自分の中に隠れていることを知りません。それでも、そのようなものであることは、だれでも支配者や王に見ることができ、彼らにこのような抑制や束縛、また不可能なことがなく、彼らは成功するかぎり、〔他の〕領土、国に突進し、征服し、制限を超えて権力と栄誉とを得ようと努力します。自分の支配を天界にひろげ、主の神的な力をすべて自分自身に移し、さらに多くのものを絶えず欲する者はさらにそうです。

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71◀︎目次▶︎73

72 種類の支配があります。一つは隣人に対する愛からの支配であり、もう一つは自己愛からの支配です。この二つの支配はその本質では完全に対立しています。隣人に対する愛から支配する者は、すべての者に善を欲し、役立ちを実践することを、このように他の者に仕えること以上に愛するものは何もありません(他の者に仕えることは他の者に善から善を行なうことを欲し、役立ちを実践することです)。これが彼の愛であり、これが彼の心の快さです。彼もまた〔高い〕地位に上げられれば上げられるほど、それだけ喜びます、けれども、地位のためではなく、その時に彼がさらに豊かに、またさらに重要な段階で実践することのできる役立ちのためです――このようなものが天界の中の支配です。しかし、自己愛から支配する者はだれの善も欲しないで、ただ自分自身と自分の善を欲します。彼が実践する役立ちは自分自身の名誉と称賛のためであり、それが彼にとって唯一の役立ちです。彼にとって他の者に仕えることは自分自身が仕えられ、尊敬され、支配しようとの目的のためです。彼が地位を求めようと努めるのは、その実行する善のためでなく、秀でることと称賛の中にあって、そしてそこから自分の心に善びがあるためです。

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72◀︎目次▶︎74

73 支配への愛はそれぞれの者のもとに世での生活の後にもまた存続します。しかし、隣人に対する愛から支配した者は、天界でもまた支配を任されます。しかしその時、彼らではなく、彼らの愛する役立ちと善とが支配します。役立ちと善とが支配するとき、主が支配されます――けれども、世で自己愛から支配した者は、世での生活の後、地獄の中にいて、そこでは卑しい奴隷です。

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73◀︎目次▶︎75

74 そこで、これらから、だれが自己愛の中にいるか知られます。しかし、彼らが、傲慢であれ、従順であれ、外なる形でどのように見えるかは関係ありません。なぜなら、このようなものは内的な人の中にあって、その内的な人は大部分の者により隠され、そして外的な人は、公けのものと隣人に対する愛に属するものへ、このように反対のものへ偽るよう教えられています。このこともまた自分のためです――というのは、彼らは、公けのものと隣人に対する愛は内的にすべての者に働きかけ、それだけ〔自分自身が〕愛され、尊敬されることを知っているからです。働きかけるのは、天界がその愛の中へ流入するからです。

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74◀︎目次▶︎76

75 自己愛の中にいる者にある悪は、全般的に、他の者への軽蔑、嫉妬、自分に好意をもたない者に対する憎悪、そこからの敵意、いろいろな種類の憎しみ、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷です。また、このような悪があるところには、神と教会の真理と善である神的なものへの軽蔑もあります。もし〔彼らがこれらのものを〕賞賛するなら、それは口先だけであり、心からではありません。またこのような悪はそこから存在するので、それに似た虚偽もまた存在します、なぜなら、悪から虚偽が存在するからです。

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75◀︎目次▶︎77

76 けれども、世俗愛は、どんな策略によってでも他の者の富を自分に欲すること、富裕に心を置くこと、世に引き戻されることを許し、隣人に対する愛である霊的な愛から、このように天界から連れ去ります。いろいろな策略によって他の者の財産を自分自身に得ようとする者は、特に隣人の善を何も行なわないで、狡猾と詐欺によってそれを行なう者は、世俗愛の中にいます。その愛の中にいる者は、他の者の財産を欲望し、利益のために、法律を、また名声を失うことを恐れないかぎり、〔他の者の財産を〕奪い、それどころか略奪します。

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76◀︎目次▶︎78

77 しかし、世俗愛は自己愛ほどに天界的な愛と対立していません。そのように大きな悪がその中に隠れていないからです。この愛は多種多様です――名誉を高めるための富への愛、富を得るための名誉と地位への愛、世で楽しむいろいろな役立ちのために富への愛があり、単に富のための富への愛があります(このような愛が貪欲です)、その他。

目的は、そのために富が手段とされますが、役立ちと呼ばれます。そして、目的または役立ちは、愛がそれ自体の性質を目的または役立ちから引き寄せます。なぜなら、どのような目的があるかによって、その目的のままに、そのように愛もあるからです。残りのものは手段としてそれに役立ちます。

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77◀︎目次▶︎79

78 一言でいえば、自己愛と世俗愛は主への愛と隣人に対する愛に完全に対立しています。それゆえ、自己愛と世俗愛は地獄の愛であり、さらにまたそれらは地獄を支配し、そしてまた人間のもとに地獄をつくります。けれども、主への愛と隣人に対する愛とは天界の愛であり、さらにまたそれらは天界を支配し、そしてまた人間のもとに天界をつくります。

 

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78◀︎目次▶︎80

79 そこで、述べられたこれらのことから、すべての悪はこの二つの愛の中にあり、またそれらからであることを見ることができます。なぜなら、数え上げられた悪(75番)は全般的なものであるからです。数え上げなかった残りのもの〔悪〕は、特殊なものであり、それら〔の悪〕から派生し、流出します。ここから、人間はこの二つの愛の中へ生まれているので、あらゆる種類の悪の中へ生まれていることを知ることができます。

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79◀︎目次▶︎81

80 人間は悪を知るために、それらの起源を知らなくてはなりません。また悪を知らないなら、善を知ることはできないで、そのように〔自分自身の〕性質を知ることができません。それゆえ、これらの二つの愛の起源について、ここで扱いました。

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80◀︎目次▶︎82

『天界の秘義』から

81 自己と世への愛
 主への愛と、隣人に対する愛、すなわち、仁愛が天界をつくるように、自己愛と世俗愛が支配しているところでは、地獄をつくる。それゆえ、それらは対立している(2041, 3610, 4225, 4776, 6210, 7366, 7369, 7489, 7490, 8232, 8678, 10455, 10741–10743, 10745番)。
自己と世への愛からすべての悪が〔ある〕(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7488, 7489, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742番)。
自己と世への愛から他の者への軽蔑、憎悪、憎しみ、復讐、残酷、欺きが、このようにすべての悪とすべての悪意が〔ある〕(6667, 7372–7374, 9348, 10038, 10742番)。
これらの愛は、抑制がゆるめられるほど突進する。自己愛は神の御座へまでも(7375, 8678番)。
自己愛と世俗愛は人間の社会と天界の秩序を破壊する(2045, 2057番)。
人類はそれらの愛のために統治を始め、安全のために支配の下に置いた(7364, 10160, 10814番)。
それらの愛が支配するところで、愛の善と信仰の善は追い払われるか、あるいは窒息させられるか、あるいは歪曲させられる(2041, 7491, 7492, 7643, 8487, 10455, 10743番)。
これらの愛の中にいのちはなく、しかし、霊的な死がある(7494, 10731, 10741番)。
これらの愛がどんなものか、述べられている(1505, 2219, 2363, 2364, 2444, 4221, 4227, 4948, 4949, 5721, 7366–7377, 8678番)。
すべての欲求と欲望とは自己と世への愛に属する(1668, 8910番)。

自己と世への愛は手段として仕える、決して目的として〔仕え〕ない(7377, 7819, 7820番)。
人間は改心されるとき、これらの愛は、目的としてでなく手段として存在するために逆さにされる。このように頭のようにではなく、足の裏のようになる(8995, 9210番)。
自己と世への愛の中にいる者のもとに、内なるものはなく、内なるもののない外なるものがある。内なるものが天界へ向って閉ざされ、しかし外なるものが世へ向って開かれるからである(10396, 10400, 10409, 10411, 10422, 10429番)。
自己と世への愛の中にいる者は、何が仁愛か、何が良心か、何が天界のいのちか知らない(7490番)。
人間は自己と世への愛の中にいればいるほど、それだけ信仰の善と真理を受けない、それらは主から人間のもとに絶えず流入する (7491番)。
自己と世への愛の中にいる者は、内なる束縛でなく、外なる束縛にいる。それゆえ、外なるものが取り去られると、すべての邪悪の中へ突進する(10744–10746番)。
霊界の中のすべての者は愛にしたがって自分の向きを変えている。主への愛の中と隣人に対する愛の中にいる者は主へ〔向いている〕。しかし、自己愛の中に、また世俗愛の中にいる者は、主に後ろを〔向けている〕(10130, 10189, 10420, 10742番)。
自己愛の中にいる者の礼拝、どんなものか(1304, 1306–1308, 321, 322番)。
 主は、自己愛と世俗愛に関係するプロプリウム(固有のもの)の愛によって悪い者を導くことにより、悪い者を通して世を支配される(6481, 6495番)。
 善い者と同様に悪い者も、職務を果たすこと、役立ちと善を実践することができる、彼らは名誉と利益を報酬として眺め、そのため、それらを外なる形では同様に行動するからである(6481, 6495番)。

(地獄にいるすべての者が、自己と世への愛から悪とそこから虚偽の中にいることは著作『天界と地獄』551–565番〔参照〕)

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81◀︎目次▶︎83

82 人間のプロプリウム(固有のもの)(これについては〔この〕「教え」の中の前述70番)、それは自己と世への愛である
人間のプロプリウム(固有のもの)は頑固な悪以外の何ものでもない(210, 215, 731, 874-876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731番)。
人間のプロプリウムは彼の意志である(4328番)。
人間のプロプリウムは自分自身を神よりも、世を天界よりも愛し、隣人を自分自身に対し相対的に何ものでもないとする。そのように自己と世への愛である(694, 731, 4317, 5660番)。
人間のプロプリウムからすべての悪だけでなく、すべての虚偽もまたわき出ており、この虚偽は悪の虚偽である(1047, 10283, 10284, 10286番)。
人間のプロプリウムは彼のもとにある地獄である(694, 8480番)。
そのために、自分のプロプリウムにより導かれる者は、救われることができない(10731番)。
人間がプロプリウムから行なう善は、それは自分自身のためと世のためであるので、善ではなくて悪である(8478番)。

主が〔人間のもとに〕現在されるために、人間のプロプリウムは分離されなくてはならない(1023, 1044番)。
また人間が改心するとき、それは実際に分離される(9334-9336, 9452-9454, 9938番)。
このことは主だけにより行なわれる(9445番)。
人間は再生によって天界的なプロプリウムを受ける(1937, 1947, 2881, 2883, 2891番)。
これは人間に自分のプロプリウムのように見える、しかし、人間のものではなくて、人間のもとにある主のものである(8497番)。
このプロプリウムの中にいる者は、自由そのものの中にいる、主により、また主のプロプリウムにより導かれることは自由であるからである(892, 905, 2872, 2886, 2890-2892, 4096, 9586, 9587, 9589–9591番)。
すべての自由はプロプリウムからであり、それがどんなものかはプロプリウムにしたがっている(2880番)。
天界のプロプリウムがどんなものか(164, 5660, 8480番)。
どのように天界のプロプリウムは植え付けられるか(1712, 1937, 1947番)。

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82◀︎目次▶︎84

83 人間の遺伝(これについては〔この〕「教え」の中の前述70-79番)、それは自己と世への愛である
 人間はどれほど数多くても、そのプロプリウムは悪以外の何ものでもないほど、すべての種類の悪の中へ生まれている(210, 215, 731, 874–876, 987, 1047, 2307, 2308, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731番)。
それゆえ、人間は主から新しいいのちを受けるために、生まれ変わらなければ、すなわち、再生しなければならない(3701番)。

遺伝悪はこれまでに長く続く両親と祖先から導かれ、増大し、積み重ねられている。また信じられているように、最初の人間が知識の木から食べたことのためではない(313, 494, 2910, 3469, 3701, 4317, 8550番)。
それゆえ、今日の遺伝悪は、以前よりもさらに悪質である(2122番)。
幼児で死に、天界で育てられる幼児も、遺伝からの悪以外の何ものでもない(2307, 2308, 4563番)。
それゆえ〔彼らに〕いろいろな〔生来の〕性質と性向がある(2300番)。
それぞれの者の内的な悪は父から、外的な悪は母からのものである(1815, 3701番)。

人間は, 遺伝悪に自分自身から新しいものを積み重ねている、それは実行された悪と呼ばれる(8551番)。
来世ではだれも遺伝悪のために罰をうけない、しかし、実行された悪のために罰を〔うける〕、それは戻ってくる(966, 2308番)。
さらに悪質な地獄は、人間と霊のもとにある遺伝悪に働きかけないように、分離が保たれている(1667, 8806番)。

遺伝悪は自己と世への愛の悪である。それは人間が自分自身を神よりも、世を天界よりも愛すること、また隣人を何ら価値のない者とすることである(694, 4317, 5660番)。
またこれらの悪は天界の善に対立し、また神的な秩序に対立しているので、人間はまったくの無知の中へ生まれるしかない(1050, 1902, 1992, 3175番)。
ある者は自然的な善といっしょに生まれる、しかし、それでもそれは容易にすべての悪と虚偽へ〔傾く〕ので、善ではない。またその善は霊的な善とならないなら、天界で受け入れられない(2463, 2464, 2468, 3304, 3408, 3469, 3470, 3508, 3518, 7761番)。

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83◀︎目次▶︎85

隣人に対する愛、すなわち、仁愛

84 最初に「隣人」とは何かを述べなくてはなりません。というのは、それは愛され、またそれに対し仁愛が実践されなくてはならないから――というのは、隣人とは何かが知られないなら、仁愛は善人に対しても悪人に対しても等しく、区別なしに同様の方法で実践されることができ、そこから仁愛は仁愛でなくなるからです。というのは、悪い者は〔見かけの〕親切から〔実際には〕隣人に悪を行ないます、しかし、善い者は〔真の〕善を行なうからです。

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84◀︎目次▶︎86

85 すべての人間は等しく隣人であって、援助を必要とするそれぞれの者によくしてやらなくてはならないことが今日の一般的な見解です。しかし、人間の生活(いのち)の性質をよく調べ、それにしたがって仁愛を実践することがキリスト教徒の思慮に重要です。内なる教会の人間は、区別とともに、このように知性とともに、それ〔仁愛〕を行ないます。しかし、外なる教会の人間は、そのようにものごとを見分けることができないので、無差別に行ないます。

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85◀︎目次▶︎87

86 教会の人間が一般に知っておくべき隣人の相違は、それぞれの者のもとにある善にしたがっていることです。またすべての善は主から発出するので、主は最高の意味で、また卓越した段階の隣人であり、〔隣人の〕起源はその方からです。ここから、自分自身のもとに主からの何らかのものがあればあるほど、それだけその者が隣人となることがいえます。まただれも主を、すなわち、その方から善を同じようには受け入れていないので、それゆえ、だれも他の者と同じ隣人ではありません――というのは、天界にいるすべての者と地上で善にいるすべての者は、善で相違しているからです。二人のもとに完全に同じ善は決して存在しません。それぞれ〔の善〕はそれ自体によって存続するためには変化がなくてはなりません。しかし、これらのすべての変化は、そのように隣人のすべての相違は、それは主の受け入れにしたがっており、すなわち、その方からの善の受け入れにしたがっており、単に全般的なものだけしか、このように種属とその種類だけしか、人間のだれにも、また天使にも決して知られることができません。主もまた教会の人間に、知っていることにしたがって生きる以上のことは求められません。

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86◀︎目次▶︎88

87 善はそれぞれの者のもとでいろいろであるので、ここから、だれかが、どのような段階で、またどのような割合で隣人であるか、善の性質が決定する、といえます。このようであることは、強盗に出会った者についての主のたとえから明らかです。祭司は、またレビ人も、この半ば死にかかっている者を〔顧みずに〕通り過ぎました。しかし、サマリア人は、その傷に包帯をし、油とブドウ酒を注いだ後、自分の獣に乗せ、宿屋に連れて行き、彼の介抱をするよう命じました――この者は仁愛の善を実践したので、隣人と呼ばれています(ルカ10:29–37)。ここから善にいる者が隣人であることを知ることができます――サマリア人が傷に注いだ「油とブドウ酒」もまた善と真理を意味します。

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87◀︎目次▶︎89

88 今述べたことから、普遍的な意味で、善が隣人であることが明らかです。人間は、主から発する人間のもとにある善の性質にしたがって隣人であるからです。また善は隣人であるので、愛もまた隣人です。なぜなら、すべての善は愛に属するからです。このようにだれでも人間は、主から彼にある愛の性質にしたがって隣人です。

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88◀︎目次▶︎90

89 隣人であるようにするものが愛であること、まただれもがその愛の性質にしたがって隣人であることは、自己愛の中にいる者からはっきりと明らかです。彼らは、自分たちを最も愛する者を、すなわち、その者が自分自身のものであるかぎり、隣人として認めます。その者を抱擁し、その者にキスし、親切にし、その者を兄弟と呼びます。それどころかその者が悪であるので、その者は他の者以上に隣人であると言います。他の者は、その者が彼らを愛するかぎり、このようにその者の愛の性質と量とにしたがって、隣人と見なします――このような者は自己から隣人の起源を引き出しますが、その理由は愛が〔隣人を〕つくり、定めるからです。けれども、主の王国に属するすべての者のように、自分自身を他の者よりも愛さない者は、すべてにまさって愛さなくてはならない方から、そのように主から隣人の起原を引き出します。またその方への、またその方からの愛の性質にしたがって、だれでも隣人と見なします。これらから、隣人の起源は教会の人間から引き出されなくてはならないことが、そこから明らかです。また、だれもが主からの善にしたがって〔隣人であり〕、そのように善そのものが隣人です。

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89◀︎目次▶︎91

90 このようであることを、主もまた「マタイ福音書」で教えられています。
というのは、主は、善の中にいた者たちに、「わたしに食物を与え、わたしに飲ませ、わたしを泊め、わたしに着せ、わたしを訪ね、牢にいるわたしのもとへ来た」――またその後、「わたしの兄弟からの最も小さい者たちの一人に行なったかぎり、わたしに行なったのである」と語られたからです(25:34–40)。
これらの六つの善の中に、それらが霊的な意味で理解されるとき、隣人のすべての種類が包含されます。ここから、善が愛されるとき、主が愛されることもまた明らかです。というのは、善は主からのものであり、その方は善の中におられ、善そのものであられるからです。

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90◀︎目次▶︎92

91 けれども、個々の人間だけではなく、複数の人間もまた隣人です。なぜなら、大であれ小であれ、社会、祖国、教会、主の御国は隣人であり、すべてにまさって主ご自身は隣人であられるからです――これらは愛から善を行なわなければならない隣人です。さらにまたこれらのものは上昇する段階の隣人です。というのは、個々の人間よりも多くの者の社会は上位の段階の隣人であるからです。祖国はそれよりもさらに上位の段階にあり、教会はそれよりもさらに上位の段階にあり、主の王国はそれよりもさらに上位の段階にあります。けれども、主は最高の段階にいる隣人です。この上昇する段階は、はしごの階段に似ており、その頂点に主がおられるのです。

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91◀︎目次▶︎93

92 社会はより多くの者から成り立っているので、個々の人間よりも上位の段階の隣人です――それ〔社会〕に対して仁愛は個々の人間に対するのと同様に、すなわち、それ〔社会〕のもとにある善の性質にしたがって実践されなくてはなりません。このように正しい〔者たちの〕社会に対するのと、正しくない〔者たちの〕社会に対するのとではまったく異なります。社会は、その〔社会の〕善が善の愛〔善を求める愛〕から配慮されるとき、愛されます。

新しいエルサレムとその天界の教え

92◀︎目次▶︎94

93 祖国は両親のようであるので、社会よりも隣人です。というのは、人間はそこで生まれ、養育され、また危害から守られるからです。祖国には、特にその食物とそこにいる者の市民的な生活と霊的な生活とを考慮して、その必要にしたがって、愛から善行がなされなくてはなりません。祖国を愛し、それへ親切から善を行なう者は、来世では主の王国を愛します。なぜなら、そこでは主の王国がその者の祖国であるからです。主の王国を愛する者は、主はご自分の王国のすべてにおけるすべてであるので、主を愛しています。

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93◀︎目次▶︎95

94 教会は祖国よりも隣人です。なぜなら、教会を思いやる者は、祖国の中にいる人間の霊魂と永遠の生活(いのち)とを思いやるからです。それゆえ、愛から教会のものを思いやる者は、上位の段階の隣人を愛します、なぜなら、彼は他の者に天界と永遠の生活(いのち)の幸福を求め、欲するからです。

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94◀︎目次▶︎96

95 主の王国はそれよりさらに上位の段階の隣人です、なぜなら、主の王国は善にいるすべての者、地上と同様に天界にいる者たちから存在するからです。このように主の王国は統一体としての善の性質すべてがいっしょになったものです。それが愛されるとき、善の中にいる者一人ひとりが愛されます。

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95◀︎目次▶︎97

96 これらは隣人の段階であり、愛はこの段階にしたがって隣人に対する愛にいる者たちのもとで上昇します。しかし、これらの段階は連続的な順序の中の段階であり、その中では前のものまたは上のものは、後のものまたは下のものよりも優先されなくてはなりません。また主は最も高くにおられ、個々の段階の中でその段階の目的としてそこに目を向けなくてはならないので、このように主はすべての人物以上に、すべてのもの以上に愛されなくてはなりません。そこで、ここから主への愛が隣人に対する愛にどのようにして結合しているか知ることができます。

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96◀︎目次▶︎98

97 通常の会話で、「だれもがその者自身の隣人である、すなわち、だれもが最初に自分自身を思いやるべきである」と言われます。しかし、仁愛の教えは、このことがどのように理解されるべきかを教えます。それぞれの者が、例えば、食物、着物、住居のようなその者の市民的な生活の中で必然的に要求される多くのものといった、生活で必要とするものを自分自身に備えなくてはなりません。そのことを単に自分自身のためだけでなく、自分のもののためにも、また単に現在の時のためだけでなく、将来〔の時〕のためにもしなくてはなりません――なぜなら、だれかが生活に必要なものを自分自身に得ないなら、仁愛を実践する状態にいることができないからです。というのは、彼はすべてのものに欠乏するからです。

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97◀︎目次▶︎99

98 しかし、それぞれの者がどのようにその者自身の隣人でなくてはならないかは、次の例から知ることができます――それぞれの者が自分自身の身体に食物と着物を備えなくてはなりません。これは最初のものです、しかし、それは「健全な身体の中に健全な心があるように」という目的のためです。またそれぞれの者が自分自身の心の糧を、すなわち、知性と知恵に属するようなものを備えなくてはなりません、それはその心がそこから同胞、人間の社会、祖国や教会に、そのように主に仕える状態にあるようにという目的のためです。これを行なう者は永遠に向けて自分自身をよく備えます――ここから最初のものに、そのための目的があることが明らかです、なぜなら、すべてのものがその目的に目を向けるからです。このことはまた家を建てる者の場合に似ています。最初に土台を据えますが、しかし、土台は家のためであり、家は住むためのものです――自分自身が最初の場所を占めるべき隣人であると信じる者は、家やそこに住むことでなく、目的として土台に目を向ける者に似ています。しかし、住むことが最初の、また最終の目的そのものであって、土台とともに家はその目的への単なる手段です。

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98◀︎目次▶︎100

99 目的はどのようにそれぞれの者が自分自身の隣人でなくてはならないか、また〔どのように〕最初に自分自身を思いやらなくてはならないかを宣言します。もし目的が単に富裕のために、または快楽のために、または秀でるかまたは同様のことのために、他の者よりも富もうとすることなら、それは悪い目的であり、その者は、隣人でなく自分自身を愛します――しかし、もしその目的が、自分がその同胞、人間の社会、祖国や教会を思いやる状態にいるために、自分自身に富を得ることなら、同じく、もし彼が同じ目的のために自分自身に職務を得るなら、その者は隣人を愛しています。そのために行動する目的そのものがその人間をつくります、なぜなら、その目的が彼の愛であるからです。というのは、それぞれの者がすべてにまさって愛するものを、最初の、また最終の目的としてもつからです。
これらのことが「隣人」について述べられました。そこで、隣人に対する愛について、すなわち「仁愛」について述べます。

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99◀︎目次▶︎101

100 隣人に対する愛は、貧しい者に与えること、欠乏する者を援助すること、だれにでも善を行なうことである、と多くの者に信じられています。しかし、仁愛は、善があるように、この目的のために、慎重に行動することです。貧しい、または欠乏する邪悪な者を援助する者は、邪悪な者を通して隣人に悪を行ないます。なぜなら、その与える援助を通して、彼の悪を強め、他の者に悪を行なう機会を与えるからです。善い者を援助する者は異なります。

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100◀︎目次▶︎102

101 しかし、仁愛は貧しい者や欠乏する者よりもさらに遠くひろがっています。というのは、仁愛はすべての働きで正しいことを、すべての任務で義務を行なうことであるからです。もし裁判官が公正のために公正を行なうなら、彼は仁愛を実践しています。もし彼が罪のある者を罰し、無罪の者を放免するなら、仁愛を実践しています。なぜなら、このように同胞を思いやり、祖国を思いやるからです。真理と善のために、真理を教え、善へ導く聖職者は、仁愛を実践しています。けれども、自己と世のためにこのようなことを行なう者は、隣人でなく自分自身を愛するので、仁愛を実践していません。

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101◀︎目次▶︎103

102 何らかの職務にあろうと、あるいはなかろうと、その他のことも同様です。たとえば、両親に対する子供、子供に対する両親も、主人に対する召使い、召使いに対する主人も、王に対する臣民、臣民に対する王も〔同様です〕――これらの者のうち、義務から義務を、公正から公正を行なう者は仁愛を実践しています。

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102◀︎目次▶︎104

103 これらのことが隣人に対する愛または仁愛に属するのは、前に述べたように、それぞれの人間が隣人であるからです、しかし、異なった方法で〔隣人です〕。大小の社会はさらに隣人です。祖国はそれよりもさらに隣人です。主の王国はそれよりもさらに、主はすべてにまさって隣人です――普遍的な意味では、主から発出する「善」が隣人です。したがって、誠実と公正もまた隣人です――それゆえ、善のためにどんな善でも行なう者、また誠実と公正とのために誠実で公正に行動する者は、隣人を愛し、仁愛を実践しています。なぜなら、彼は、善、誠実、公正への愛から、そこで善、誠実、公正の存在する者への愛から、行なうからです。

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103◀︎目次▶︎105

104 そこで、仁愛は内なる情愛であり、そこから人間は善を行なうことを欲し、またそれは報酬なしのものです。彼のいのち(生活)の快さはそれを行なうことです。内なる情愛から善を行なう者には、考え、語り、意志し、行なう個々のものの中に仁愛が存在します。人間と天使とは、善が彼に〔とって〕隣人であるとき、彼の内部に関して仁愛であると言われることができます。このように仁愛は遠くひろがっています。

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104◀︎目次▶︎106

105 自己と世への愛を目的とする者は、決して仁愛の中にいることができません。何が仁愛か決して知りません。彼らは報酬の目的なしに隣人に善を欲し、行なうことが人間の中にある天界であり、その情愛には天界の天使の幸福のように大きな幸福が内在し、それは言葉にできないことをまったく理解しません。なぜなら、彼らはもし称賛の名誉と富からの楽しさが奪われるなら、もはや何の楽しさも与えられないと信じるからです、それでもその時初めて〔他の楽しさを〕無限に超えた天界的な楽しさが始まります。

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105◀︎目次▶︎107

『天界の秘義』から

106 天界は二つの王国に区別され、それらの一つは天的な王国、もう一つは霊的な王国と呼ばれる。天的な王国の中の愛は主への愛であって、天的な愛と呼ばれ、霊的な王国の中の愛は隣人に対する愛または仁愛であって、霊的な愛と呼ばれる(3325, 3653, 7257, 9002, 9835, 9961番)。
(天界はこれら二つの王国に区別されていることは著作『天界と地獄』20–28番、また天界における主の神的なものは主への愛と隣人に対する仁愛であることは、同書13–19番参照)。

何が主への愛と隣人に対する愛か知られないなら、何が善で、何が真理か知られない、すべての善は愛のもの、すべての真理は善のものであるから(7255, 7366番)。
真理のために、すなわち、真理であるので、真理を知ること、真理を欲すること、真理に感動することは仁愛である(3876, 3877番)。
仁愛は真理を行なうことの内なる情愛にあり、それらのない外なる情愛にはない(2429, 2442, 3776, 4899, 4956, 8033番)。
したがって、仁愛は役立ちのために役立ちを実践することにある(7038, 8253番)。
仁愛は人間の霊的ないのち(生活)である(7081番)。
みことば全体は愛と仁愛の教えである(6632, 7262番)。
今日、何が仁愛か知られていない(2417, 3398, 4776, 6632番)。
それでも、人間は自分の理性の光から「愛と仁愛が人間をつくること」を知ることができる(3957, 6273番)。
さらに善と真理とは一致し、一つはもう一つのものに属し、愛と信仰もそのようである(7627番)。
主は最高の意味における隣人である、なぜなら、その方は何ものにも勝って愛されなくてはならないからである。それゆえ、主からのもの、主がその中におられるすべてのものは、このように善と真理は、隣人である(2425, 3419, 6706, 6819, 6823, 8124番)。
善の性質にしたがって、このように主の現在にしたがって、隣人の相違がある(6707-6710番)。
すべての人間は、またすべての社会は、さらに祖国と教会は、また普遍的な意味で、主の王国は隣人であり、それらの状態の性質にしたがって愛の善からそれらに善を行なうことは、隣人を愛することである。このように隣人とはそれらの善であって、それに意を用いなくてはならない(6818–6824, 8123番)。
さらにまた市民的な善と、それは公正であり、道徳的な善は、それは社会の生活の善であって、誠実と呼ばれ、隣人である(2915, 4730, 8120–8122番)。
隣人を愛することは人物を愛することではなく、彼のもとにあって、そこからその人物〔が隣人〕となっているものを、したがって善と真理とを愛することである(5028, 10336番)。
人物を愛して、その人物のもとにあって、そこからその人物〔が隣人〕となっているものを愛さない者は、善と等しく悪も愛する(3820番)。
また、彼らは善い者と等しく悪い者にも善を行なうが、そのときそれでも悪い者に善を行なうことは、善い者に悪を行なうことであって、それは隣人を愛することではない(3820, 6703, 8120番)。
悪い者が矯正されて、善い者が悪い者に汚されないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛する(3820, 8120, 8121番)。

隣人を愛することはすべての働きとすべての職務で、善、公正、正直を行なうことである(8120–8122番)。
ここから、隣人に対する仁愛は人間が考え、欲し、行なっているすべてと個々のものにひろがっている(8124番)。
善と真理を行なうことは隣人を愛することである(10310, 10336番)。
このことを行なう者は、最高の意味における隣人であられる主を愛する(9210番)。
仁愛の生活(いのち)は主の戒めにしたがった生活(いのち)であり、神的な真理にしたがって生きることは主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10578, 10645番)。

純粋な仁愛は功績を求めるものではない(2027, 2343, 2400, 3887, 6388–6393番)。
なぜなら、それは内なる情愛から、したがって善を行なう生活(いのち)の快さからのものであるから(2373, 2400, 3887, 6388–6393番)。
仁愛から信仰を分離する者は、来世で、信仰を、また外なる形で行なった善い働きを功績を求めるものにする(2373番)。
自己または世への愛から悪にいる者は、報酬なしに善を行なうことが何か、このように功績を求めない仁愛が何かを知らない(8037番)。

古代教会の教えは生活(いのち)の教えであった、それは仁愛の教えである(2385, 2417, 3419, 3420, 4844, 6628番)。
そこから、彼らに知性と知恵があった(2417, 6629, 7259–7262番)。
世で仁愛の生活に生きた者たちのもとにある知性と知恵は、来世で無限に増大する(1941, 5859番)。
主は、人間のいのち(生活)そのものへ流入されるので、仁愛の中へ神的な真理とともに流入される(2036番)。
仁愛と信仰の結合した者のもとでは、人間は庭園のようである。しかし、結合していない者のもとでは荒地のようである(7626番)。
人間は仁愛から去れば去るほど、それだけ知恵から去る。また仁愛にいない者は、どんなに自分を賢明であると考えても、神的な真理については無知の中にいる(2417, 2435番)。
天使の生活は役立ちである仁愛の善を実践することにある(454番)。
仁愛の善にいる霊的な天使は仁愛の形である(553, 3804, 4735番)。

すべての霊的な真理は仁愛をその始めと終わり(目的)として眺める(4353番)。
教会の教義的なものは、仁愛を目的として眺めないなら、何にもならない(2049, 2116番)。

人間と天使のもとの主の現在は、彼らの愛と仁愛の状態にしたがっている(549, 904番)。
仁愛は神の映像である(1013番)。
主への愛は、したがって主は、仁愛の内部に存在する、それでも人間はそのことを知らない(2227, 5066, 5067番)。
仁愛の生活を送る者は、世でも天界でも市民として迎え入れられる(1121番)。
仁愛の善は害されてはならない(2359番)。

仁愛の中にいない者は、偽善からでないなら、主を認め、礼拝することができない(2132, 4424, 9833番)。
憎しみと仁愛の形は同時に存在することはできない(1860番)。

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106◀︎目次▶︎108

107 これらに、「主への愛の教え」についてと「仁愛の教え」についていくつかのものを付加しなければなりません。それらがどんなものか古代人に存在して〔知られていて〕、彼らのもとに教会が存在しました。それらの教えがどんなものか知られるためであり、それらは前には存在しましたが、今日では存在しません。さらにまた『天界の秘義』(7257–7263番)から――
主への愛に属する善は、天的な善と呼ばれる。隣人に対する愛すなわち仁愛に属する善は、霊的な善と呼ばれる。最内部または第三の天界の中にいる天使は、主への愛の善の中にいて、そこから彼らは天的な天使と呼ばれる。けれども、中間または第二の天界の中にいる天使は、隣人に対する愛の善の中にいて、霊的な天使と呼ばれる。
主への愛からのものである天的な善の教えは、最も広いと同時に、最も隠されたもの(秘密なもの)であり、さらにまた、最内部または第三の天界の天使の教えであり, 例えば, 彼らの口から述べられるなら, ほとんどその千分の一も理解されないようなものである。そこに含まれているものもまた言葉にできない。この教えは, みことばの最も内なる意味の中に含まれる。けれども, 霊的な愛の教えは内なる意味の中に含まれる。
隣人に対する愛からのものである霊的な善の教えもまた, 広くて隠されたもの(秘密なもの)である。しかし, それは, 主への愛からのものである天的な善の教えより, はるかに少ない。隣人に対する愛の教え, すなわち, 仁愛の教えは, 広くて, ここから人間が考え, 欲するすべてと個々のものに, そのように人間が話し, 行なうすべてのものにひろがっていることを知ることができる。さらに仁愛はある者のもとと同じように他の者のもとには存在しない。またある者は他の者と同じようには隣人ではない〔ことも知ることができる〕。
このように仁愛の教えは広いので、それゆえ、仁愛の教えが自分たちのもとで教会の教えそのものであった古代人は、隣人に対する仁愛を多くの部類に分け、さらにそれを細分した。そして個々の部類に名を与えた。ある部類の者たちに対してどのように、また他の部類の者たちに対してどのように仁愛が実践されなければならないかを教え、こうして仁愛の教えと仁愛の実践を順序づけ、それらを区別して理解力に入り込むようにしたのである。
彼らが仁愛を実践しなければならない者に対して与えた名前は多い――ある者を「盲目の者」、ある者を「びっこの者」、ある者を「不具の者」、ある者を「貧しい者」、さらに「あわれな者」や「苦しむ者」、ある者を「孤児」、ある者を「やもめ」と呼んだ――けれども、全般的に、食べさせなくてはならない「飢えた者」、飲ませなくてはならない「渇いた者」、迎え入れなくてはならない「在留異国人(旅人)」、着せなくてはならない「裸の者」、訪問しなくてはならない「病んでいる者」、その者のもとに来なくてはならない「牢獄に拘束された」者と呼んだのである。

これらの個々のものによって意味された者がだれであったかは、『天界の秘義』の中に説明にされている。例えば、「盲目の者」によってだれが(2383, 6990番)。「びっこの者」によってだれが(4302番)。「貧しい者」によってだれが(2129, 4459, 4958, 9209, 9253, 10227番)。「あわれな者」によってだれが(2129番)。「苦しむ者」によってだれが(6663, 6851, 9196番)。「孤児」によってだれが(4844, 9158–9200番)。「やもめ」によってだれが(4844, 9198, 9200番)。「飢えた者」によってだれが(4958, 10227番)。「渇いた者」によってだれが(4958, 8568番)。「在留異国人」によってだれが(4444, 7908, 8007, 8013, 9196, 9200番)。「裸の者」によってだれが(1073, 5433, 9960番)。「病んでいる者」によってだれが(4958, 6221, 8364, 9031番)。「牢獄に拘束された者」によってだれが(5037, 5038, 5086, 5096番)。仁愛の教え全体が、主から「飢えた者」、「渇いた者」、「在留異国人(旅人)」、「裸の者」、「病んでいる者」、「牢獄に拘束された者」と呼ばれている者たちに対する義務(マタイ25:34–36以降)に含まれていることが見られる(4954–4959番)。
これらの名前は教会に属した古代人に天界から与えられ、このように名づけられた者によって、彼らは霊的にそのような者を理解した――彼らは彼らの仁愛の教えにより〔このような者が〕だれであるかを教えられただけでなく、それぞれの者に対する仁愛の性質もまた教えられたのである。ここから、同じそれらの名前がみことばの中にあって、霊的な意味でそのような者を意味している。主もまた〔以下のように〕教えられているように、みことばは本質的に、主への愛と隣人に対する仁愛の教え以外のものではない。

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、あなたの神、主を愛さなくてはならない。これは第一の、そして大きな戒めです。第二も……それに等しいものです。あなたは自分自身のようにあなたの隣人を愛さなくてはならない。この二つの戒めに……律法と預言者がかかっています」(マタイ22:37–40)

「律法と預言者」はみことば全体である(2606, 3382, 6752, 7643番)。

同じそれらの名前がみことばの中にあることは、みことばは本質的に霊的なものではあるが、その最外部のものでは自然的であったためである――そして外なる礼拝にいる者は、〔文字通り〕そのように呼ばれている者に対して、しかし内なる礼拝にいる者たちは、霊的に理解されているそのような者に対して、仁愛を実践しなければならない。このように単純な者は単純に、賢明な者は賢明に、みことばを理解して、行なわなければならないためである。さらにまた単純な者は、仁愛の外なるものによって、その内なるものを除々に導入されるためである。

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107◀︎目次▶︎109

信 仰

108 愛のないところにそこに信仰はないので、何が仁愛かを知らないなら、だれも何が信仰か本質的に知ることはできません。なぜなら、善が真理と一つとなっているように、仁愛は信仰と一つとなっているからです。というのは、人間が愛するかまたは貴重と思うものは、これは彼にとって善であり、人間が信じるものは、これは彼にとって真理であるからです――ここから、仁愛と信仰にも、善と真理にあるのと同じような結合があることは明らかです。その結合がどのようなものであるかは「善と真理」について前に述べたことから明らかにすることができます。

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108◀︎目次▶︎110

109 人間のもとに意志と理解力の結合が存在するように、そのように仁愛と信仰の結合もまた存在します――というのは、意志と理解力は善と真理を受け入れる二つの能力であって、意志は善を、理解力は真理を受け入れるからです。このようにまたこの二つの能力は、善は仁愛に属し、真理は信仰に属するので、仁愛と信仰を受け入れます。人間のもとに、また人間の中に仁愛と信仰があることを知らない者はいません。仁愛と信仰は人間のもとに、また人間の中にあるので、それらは彼の意志と理解力の中にもなくてはなりません。というのは、人間のすべてのいのちは、その中にあり、またそこから存在するからです。人間には記憶もまたあります。しかし、これは単なる前庭であって、そこに理解力と意志に入るべきものが集められています。ここから、意志と理解力が結合しているのと同じように仁愛と信仰も結合していることが明らかです。その結合の性質は、「意志と理解力」について前述したことから知ることができます。

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109◀︎目次▶︎111

110 人間が、知り、知覚していることを意志するとき、仁愛は人間のもとで信仰と結合します。意志することは仁愛に属し、知り、知覚することは信仰に属します。知り、知覚していることを意志し、愛するとき、信仰は人間に入って、彼のものとなります。その間、彼の外にあります。

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110◀︎目次▶︎112

111 信仰は霊的なものとならないなら、人間のもとで信仰となりません。また愛に属するものとならないなら、霊的なものとなりません。人間が真理と善に生きることを愛するとき、すなわち、みことばに命じられていることにしたがって生きることを愛する時、〔信仰は〕愛に属するものとなります。

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111◀︎目次▶︎113

112 信仰は、真理であるので真理を意志することからの真理への情愛です。真理であるので真理を意志することは人間の霊的なものそのものです。というのは、〔霊的なものは〕真理を真理のためではなく、自分への称賛や名声、または利益のために意志する自然的なものから引き離されているからです――こうしたものから引き離された真理は、神性から発するので、霊的です。神性から発出するものは霊的であり、これは愛によって人間に結合させます。なぜなら、愛は霊的な結合であるからです。

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112◀︎目次▶︎114

113 人間は多くのことを知り、考え、理解することができます。しかし、自分一人だけが残されて熟考するとき、自分の愛と一致しないものを自分自身から追い返してしまいます――それゆえ、身体のいのちの後、霊の中にいるときもまた、それを追い返してしまいます。なぜなら、人間の愛の中に入ったものだけが彼の霊の中に存続するからです。その他のものは、死後、異質なものとして見られ、それは彼の愛に属さないので、家から追い返してしまいます。人間の霊の中に、と言われるのは、人間が、死後、霊として生きるからです。

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113◀︎目次▶︎115

114 仁愛に属する善について、また信仰に属する真理についての観念は、太陽の光と熱から形成されることができます。太陽から発出する光は、春と夏の時、熱に結合する時、地のすべてのものは発芽し、花咲きます。しかし、冬の時のように、光の中に熱がない時、地のすべてのものは麻痺し、死滅します――さらにまた、霊的な光は信仰の真理であり、霊的な熱は愛です。ここから、教会の人間について、彼のもとで信仰が仁愛に結合するとき、彼はどのようになるか、すなわち、庭園と楽園のようであり、また彼のもとで信仰が仁愛に結合しないとき、彼はどのようになるか、すなわち、砂漠や雪の対象となる地〔雪に埋もれた地〕のようである、という観念が形成されることができます。

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114◀︎目次▶︎116

115 信仰に属すると言われ、また救う信仰そのものと呼ばれる信頼または信用は、それが信仰のみに属するとき、信頼または信用は、霊的ではなく自然的です。霊的な信頼または信用は、その本質といのちを愛の善から得ます。けれども、分離した信仰の真理からは得ません。分離した信仰の信頼は死んだものです。それゆえ、真の信頼は悪の生活を送っている者に与えられることはできません――人間の生活がどんなものであったにしても、父に対する主の功績ゆえに救いがあるという信頼もまた真理からではありません。霊的な信仰にいるすべての者は〔自分たちは〕主により救われるという信頼をもちます。というのは、彼らは、主は〔ご自分の〕教えられた戒めにしたがって信じ、生きる者に永遠のいのちを与えるために世に来られたこと、また主は彼らを再生させ、天界に適した者とされること、またその方だけがそのことを純粋な慈悲から人間の助けもなしに行なわれることを信じるからです。

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115◀︎目次▶︎117

116 みことばの教えが、すなわち、教会の教えが教えることを信じることは、それらにしたがって生きなくても、信仰であるように見えます。そしてまた、それによって救われると主張する者もいます――しかし、それだけによってはだれも救われません。というのは、それは説得的な信仰であるからです。それがどんなものか、今から述べます。

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116◀︎目次▶︎118

117 みことばと教会の教えが、真理と真理にしたがった生活のためではなく、目的として利益、名誉、博学の名声のために信じられ、愛されるとき、信仰は説得的なものとなります。それゆえ、その信仰の中にいる者は、主と天界とを眺めないで、自分自身と世を眺めます。世で大きなことを志し、多くのものを欲望する者は、大きなことを志さず、多くのものを欲望しない者よりも、教会の教えが教えることは真理であるというさらに強い説得的なものの中にいます。その理由は教会の教えは前者にとっては単に自分自身の目的への手段であり、目的が欲望されればされるほど、それだけ手段は愛され、また信じられもするからです。しかし、ものごとは本質的にこのようなものです。彼らは自己と世を求める愛の火の中にいて、その火から語り、説き、行動すればするほど、それだけその説得的なものの中にいます。そしてその時、それがそうであるとしか知りません――けれども、その愛の火の中にいない時、ほとんど信じておらず、多くの者は信じていません。ここから、説得的な信仰は口先の信仰であって、心の信仰ではなく、このように本質的に信仰でないことが明らかです。

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117◀︎目次▶︎119

118 説得的な信仰の中にいる者は、彼らの教えていることが真理かまたは虚偽であるか、何らかの内なる照らしからか知りません。それどころか、彼らはそれが大衆から信じられるなら、〔そうしたことは〕気にしません。というのは、彼らに真理のための真理への情愛はないからです。それゆえ、彼らはもし名誉と利益を奪われるなら、単に世評が損なわれないなら、信仰から遠ざかってしまいます。なぜなら、説得的な信仰は人間のもとの内部にはなく、外に、記憶の中だけにあって、教えられるとき、そこから取り出されるからです。それゆえまた、その信仰はその真理とともに、死後、消えてしまいます。なぜなら、その時、人間の内部にある信仰だけが、すなわち、善の中に根づき、このように生活(いのち)のものとなった信仰だけが存続するからです。

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118◀︎目次▶︎120

119 説得的な信仰の中にいる者は、「マタイ福音書」の次の者によって意味されます――

 「その日、多くの者がわたしに、『主よ、主よ、私たちはあなたの名前によって預言し、あなたの名前によって悪鬼を追い出し、あなたの名前の中に多くの力あるわざをなしたではありませんか』と言います。しかしその時、わたしは彼らにはっきり告げます、『わたしはあなたがたを知らない……不正を働く者どもよ』」(7:22, 23)。

さらに「ルカ福音書」に――

 「その時、あなたがたは言い始めます。『私たちは、あなたの前で食べ、飲み、またあなたは私たちの街路で教えられました』。しかし彼は言います。『私はあなたがたに言います。私はあなたがたがどこからの者なのか知らない。私から離れよ、すべて不正を働く者どもよ』」(13:26, 27)。

彼らはまた、「マタイ福音書」の、灯に油を持たなかった5人の愚かな処女たちによっても意味されます――

 「ついに……その処女たちは来て、言った。『主よ、主よ、私たちに開けてください』。しかし、彼は答えて言います。『私はあなたがたに言う、私はあなたがたを知らない』」(25:11,  12)。

「灯の中の油」は信仰の中の愛の善です。

新しいエルサレムとその天界の教え

119◀︎目次▶︎121

『天界の秘義』から

120 全世界のすべてのものは「真理と善」に、また何かが生み出されるためにその二つのものの結合に関係することを知らない者は、教会が人間のもとに存在するために、教会のすべてのものは「信仰と愛」に、またその二つのものの結合に関係することを知らない(7752–7762, 9186, 9224番)。
神的な秩序にしたがっている全世界のすべてのものは、善と真理に、またその二つのものの結合に関係する(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122, 10555番)。
真理は信仰に属し、善は愛に属する(4352, 4997, 7178, 10367番)。

これが、「善と真理」についてこの「教え」に扱われている理由である。それゆえ、そこに〔善と真理について〕述べたことから、信仰と愛について結論されることができる。また善に代わって愛を、真理に代わって信仰を置き、適用することによって、〔信仰と愛とは〕結合したときどのようであるか、また結合しないときは、どのようであるかを知ることができる。

人間が人間となるために、人間のすべてと個々のものは「理解力と意志」に、またその二つのものの結合に関係することを知らない者は、教会が人間のもとに存在するために、教会のすべてのものは「信仰と愛」に、またその二つのものの結合に関係することをはっきりとは知らない(2231, 7752–7754, 9224, 9995, 10122番)。
人間には二つの能力があり、その一つは理解力、そのもう一つは意志と呼ばれる(641, 803, 3623, 3539番)。
理解力は真理を受け入れ、このように信仰のものを受け入れるように割り当てられ、意志は善を受け入れ、このように愛のものを受け入れるように割り当てられている(9300, 9930, 10064番)。

これが「意志と理解力」がこの「教え」の中に扱われている理由である。なぜなら、そこに述べたことからもまた、信仰と愛について結論されることができ、また意志の中の愛と理解力の中の信仰を考えることによって、〔信仰と愛とが〕結合したときはどのようであるか、結合していないときはどのようであるかを知ることができるからである。

人間には「内なるものと外なるもの」が、また「内なる人と外なる人」があり、天界のすべてのものは内なる人に関係し、世のすべてのものは外なる人に関係しており、それらの結合は霊界と自然界の結合に似ていることを知らない者は、霊的な信仰と霊的な愛が何かを知らない(4292, 5132, 8610番)。
内なる人と外なる人がいる。内なる人は霊的な人であり、外なる人は自然的な人である(978, 1015, 4459, 6309, 9701–9709番)。
信仰は、内なる人の中にあるほど霊的となり、したがって信仰となり、愛も同様である(1594, 3987, 8443番)。
また、信仰に属する真理は愛されれば愛されるほど、それだけ霊的になる(1594, 3987番)。

これが「内なる人と外なる人」が扱われた理由である。なぜなら、そこに述べられたものから、信仰と愛について、それらが霊的なとき、どのようであるか、霊的でないとき、どのようであるか、したがって、どれほどそれらは教会のものであるか、またどれほど教会のものでないか結論することができるからである。

新しいエルサレムとその天界の教え

120◀︎目次▶︎122

121 愛または仁愛から分離した信仰は、冬の光のようであり、その中では地のすべてのものが麻痺し、収穫も、実もなく、花も生じない。しかし、愛または仁愛とともになった信仰は、春と夏の光のようであり、その中ではすべてのものが花咲き、また生み出される(2231, 3146, 3412, 3413番)。
仁愛から分離した信仰のものである冬の光は、天界から光が流入するとき、濃い暗やみに変わる。またその信仰の中にいる者は、その時, 盲目と愚鈍が生ずる(3412, 3413番)。
教えと生活の中で、仁愛から信仰を分離する者は、暗やみにおり、したがって真理の無知の中に、虚偽の中にいる、なぜなら、これらは暗やみであるから(9186番)。
彼らは自分自身を虚偽の中に、そこから悪の中に投げ込む(3325, 8094番)。
誤りと虚偽、その中へ自分自身を投げ込む(4721, 4730, 4776, 4783, 4925, 7779, 8313, 8765, 9224番)。
みことばは彼らに閉ざされている(3773, 4783, 8780番)。
彼らは主が愛と仁愛について、また行為におけるその実と善について、しばしば語られたことのすべてを見ないし、注意もしない(それについては 1017, 3416番)。
彼らは何が善かを、したがって何が天界的な愛かも、また何が仁愛かも知らない(2517, 3603, 4136, 9995番)。

仁愛から分離した信仰は信仰ではない(654, 724, 1162, 1176, 2049, 2116, 2343, 2349, 2417, 3849, 3868, 6348, 7039, 7342, 9783番)。
このような信仰は来世で滅びる(2228, 5820番)。
信仰のみが原理として見なされる時、真理はその原理の虚偽に汚される(2435番)。
〔その〕原理に反するので、自分自身も〔他から〕説得されることに耐えられない(2385番)。
信仰のみについての教えは仁愛を滅ぼす(6353, 8094番)。
信仰を仁愛から分離する者は、カインによって、ハムによって、ルベンによって、エジプトの初子によって、ペリシテ人によって表象された(3325, 7097, 7317, 8093番)。
信仰のみが救うとする者は、悪の生活を許す。また悪の生活にいる者には、仁愛がないので、何も信仰がない(3865, 7766, 7778, 7790, 7950, 8094番)。
彼らは内部で自分自身の悪の虚偽の中にいる、たとえこれを知らなくても(7790, 7950番)。
それゆえ、彼らに善は結合されることができない(8981, 8983番)。
さらにまた、来世で彼らは善に反対し、また善にいる者に反対する(7097, 7127, 7317, 7502, 7545, 8096, 8313番)。
心で単純な、それでも賢明な者は、何が生活の善か、したがって何が仁愛か知っており、何が分離した信仰か知らない(4741, 4754番)。

教会のすべてのものは善と真理に関係し、したがって、仁愛と信仰に関係する(7752–7754番)。
教会は真理が人間のいのち(生活)の中に植え付けられ、このように仁愛の善となるより以前に人間のもとに存在しない(3310番)。
仁愛は教会をつくるが、仁愛から分離した信仰はつくらない(809, 916, 1798, 1799, 1834, 1844番)。
教会の内なるものは仁愛である(1799, 7755番)。
ここから、仁愛のないところに教会は存在しない(4766, 5826番)。
たとえ信仰の教えに関して、また礼拝の儀式に関して相違しても、もしすべてのものが仁愛から眺められるなら、教会は1つとなるであろう(1285, 1316, 1798, 1799, 1834, 1844, 2385, 2982, 3267, 3451番)。
もし仁愛が最初の場所に眺められ、信仰が第二〔の場所に眺められる〕なら、どれほど多くの善が教会の中に〔あるであろう〕(6269, 6272番)。
すべての教会は仁愛から始まる、しかし、時の経過につれて信仰へそれ、ついには信仰のみへそれてしまう(1834, 1835, 2231, 4683, 8094番)。
教会の最後の時には、仁愛が何もないので、信仰は何もない(1843番)。
主の礼拝は仁愛の生活から成り立つ(8254, 8256番)。
礼拝の性質は仁愛の性質にしたがっている(2190番)。
外なる教会の人間は、もし仁愛の中にいるなら、内なるものをもつ(1100, 1102, 1151, 1153番)。
古代教会の教えは生活の教えであった。それは仁愛の教えであり、〔仁愛から〕分離した信仰の教えではない(2385, 2417, 3419, 3420, 4844, 6628, 7259–7262番)。

主は、人間を再生させられるとき、仁愛の善の中に真理〔の種〕を蒔かれ、植え付けられる(2063, 2189,3310番)。
そうでなければ、信仰の真理である種は根を伸ばすことができない(880番)。
その後、善と真理とは、受け入れられた仁愛の質と量とにしたがって増大する(1016番)。
再生した人間の光は信仰からでなく、信仰を通して仁愛からである(854番)。
人間が再生するとき、信仰の真理は、彼がその真理を行なうことを愛するので、情愛の快さとともに入り、また〔その真理はその情愛と〕密着するので、その同じ情愛とともに再現される(2484, 2487, 3040, 3066, 3074, 3336, 4018, 5893番)。
主への愛の中に、また隣人に対する仁愛の中に生きる者は、主に結合しているので、永遠に何も失わない。分離した信仰の中にいる者は異なる(7506、7507番)。
人間はその仁愛の生活(いのち)のあるようにとどまり、分離した信仰のあるようにはとどまらない(8256番)。
仁愛の中に生きた者は、来世で彼らのすべての快さの状態が戻ってきて、果てしなく増える(823番)。
天界の幸福の状態は、主から人間のいのちそのものへ流入するので、仁愛の中へ流入するが、仁愛のない信仰の中へは流入しない(2363番)。
天界ではすべてのものは仁愛から眺められ、分離した信仰からは何も眺められない(1258, 1394番)。
さらにまた天界ではすべての者は愛にしたがって仲間となる(7085番)。
だれも善を考えることによって天界に入れられない、善を意志することによって入れられる(2401, 3459番)。
善を行なうことが善を欲することと善を考えることに結合しないなら、何も救いはなく、内なる人と外なる人との結合もない(3987番)。
主は、またその方への信仰は、来世では仁愛の中にいる者によってしか受け入れられない(2343番)。

善はそれ自体を真理に結合させようとする永久の願望とそこからのコナトゥス(努力)の中にある、そのように仁愛は信仰に〔結合させようとする〕(9206, 9207, 9495番)。
仁愛の善はそれ自体の信仰の真理を認め、信仰の真理もそれ自体の仁愛の善を認める(2429, 3101, 3102, 3161, 3179, 3180, 4358, 5807, 5835, 9637番)。
ここから、信仰の真理と仁愛の善との結合がある(それについては3834, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623–7627, 7752–7762, 8530, 9258, 10555番)。
それらの結合は結婚のようである(1904, 2173, 2508番)。
結婚の法則は、主のみことばにしたがって、二人が一人になることである(10130, 10168, 10169番)。
信仰と仁愛もこのようである(1094, 2173, 2503番)。
それゆえ、信仰である信仰は、その本質に関して仁愛である(2228, 2839, 3180, 9783番)。
善は物事のエッセであり、真理はそこからのエキシステレであるように、そのように仁愛は教会のエッセであり、信仰はそこからのエキシステレである(3049, 3180, 4574, 5002, 9145番)。
信仰の真理は仁愛の善から生きる、そのように信仰の真理にしたがった生活は仁愛である(1589, 1947, 2571, 4070, 4096, 4097, 4736, 4757, 4884, 5147, 5928, 9154, 9667, 9841, 10729番)。
信仰は仁愛の中になくては存在することができない。もし仁愛の中にないなら、信仰の中に善はない(2261, 4368番)。
単に信仰に属するものを知って、それらを考えているとき、信仰は人間のもとで生きてはいない、しかし、それらを意志し、それらを行なおうと意志することから生きる(9224番)。

信仰によって救いは何もなく、信仰の真理にしたがった生活によって救いがあり、その生活は仁愛である(379, 389, 2228, 4663, 4721番)。
教会の教えから信仰のみが救うと考える者であっても、もし公正のために公正を、善のために善を行なうなら救われる、なぜなら、このように彼らはそれでも仁愛の中にいるからである(2442, 3242, 3459, 3463, 7506, 7507番)。
もし単なる思考だけの信仰が救うなら、すべての者は救われるであろう(2361, 10659番)。
仁愛は人間のもとに天界をつくるが、仁愛のない信仰はつくらない(3513, 3584, 3815, 9832, 10714, 10715, 10721, 10724番)。
天界ではすべてのものは仁愛から眺められて、信仰からは眺められない(1258, 1394, 2361, 4802番)。
人間との主の結合は信仰によってではなく、信仰のものである真理にしたがった生活によってである(9380, 10143, 10153, 10310, 10578, 10645, 10648番)。
主は、いのちの木であられ、仁愛の善は実であり、信仰は葉である(3427, 9337番)。
信仰は「小さな光源」であり、善は「大きな光源」である(30–38番)。
主の天的な王国の天使は何が信仰か知らない、それで彼らはそれを決して言わないほどである。しかし、 主の霊的な王国の天使は、真理について推論するので、信仰について話す(202, 203, 337, 2715, 3246, 4448, 9166, 10786番)。
主の天的な王国の天使は単に、「そうです、そうです」または、「いいえ、いいえ」としか言わない。しかし、主の霊的な王国の天使は信仰に属するものである霊的な真理について語るとき、それが「そうであるか、そうでないか」と推論する(2715, 3246, 4448, 9166, 10786番)、そこに〔10786番〕主のことばが説明されている――

 「あなたがたのことばは、『そうです、そうです』、『いいえ、いいえ』でありなさい。それ以上のものは悪からのものです」(マタイ5:37)。

天的な天使がこのような者である理由は、彼らは信仰の真理を直ちに〔自分の〕生活に取り入れて、霊的な天使のように、最初にそれを記憶の中へ入れないからである。ここから、天的な天使は信仰に属するすべてのものを知覚の中に取り入れる(202, 585, 597, 607, 784, 1121, 1387, 1398, 1442, 1919, 5113, 5897, 6367, 7680, 7877, 8521, 8780, 9936, 9995, 10124番)。

すぐれた意味で救う信仰と呼ばれる信用または信頼は、生活に関して善の中にいる者にしか、したがって、仁愛の中にいる者にしか与えられない(2982, 4352, 4683, 4689, 7762, 8240, 9239–9245番)。
その信頼が何かは, わずかな者しか知らない(3868, 4352番)。

神からのものを信じることと神を信じることの間にはどのような相違があるか(9239, 9243番)。
知ること、認めること、信仰を持つことは別のものである(896, 4319, 5664a番)。
信仰の記憶知、信仰の理性的なもの、信仰の霊的なものがある(2504, 8078番)。
最初のものは主を認めることである(10083番)。
主から人間のもとへ流入するすべてのものは、善である(1614, 2016, 2751, 2882, 2883, 2891, 2892, 2904, 6193, 7643, 9128番)。

説得的な信仰がある、それでもそれは信仰ではない(2343, 2682, 2689, 3427, 3865, 8148番)。

いろいろな推論から信仰は仁愛よりも前のものであるかのように見える、しかし、それは欺きである(3324番)。
善が、したがって仁愛が最初の場所に、真理が、したがって信仰が第二の場所にあることは、理性の光だけから知ることができる(6273番)。
善は、したがって仁愛は実際に最初の場所に、すなわち教会の最初のものであり、真理は、したがって信仰は第二のもの、すなわち、教会の第2のものであるが、それでも〔これと〕異なって見える(3324, 3325, 3330, 3336, 3494, 3539, 3548, 3556, 3570, 3576, 3603, 3701, 3995, 4337, 4601, 4925, 4926, 4928, 4930, 5351, 6256, 6269, 6272, 6273, 8042, 8080, 10110番)。
古代人のもとでもまた、教会の最初のものまたは初子について、〔それが〕信仰であるのか、または仁愛であるのかとの論争があった(367, 2435, 3324番)。

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122 主の十二弟子は、同様にイスラエルの十二の種族もまた、すべての信仰と仁愛の統1体としての教会を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397番)。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、その順序で、信仰、仁愛、仁愛の善を表象した(3750番)。
ペテロは信仰を〔表象した〕(4738, 6000, 6073, 6344, 10087, 10580番)。
ヨハネは仁愛の善を〔表象した〕(「創世記」第18章と第22章の序言)。
教会の最後の時には、仁愛がないので、主への信仰もないことは、にわとりが二度鳴く前に、ペテロが三度、主を否定したことによって表象された。なぜなら、そこのペテロは表象的な意味では信仰であるから(6000, 6073番)。
「夜明け」と等しく「おんどりの鳴く時」は、みことばでは教会の最後の時を意味する(10134番)。
また「三」または「三度」は終わりまで完成したものを意味する(2788, 4495, 5159, 9198, 10127番)。
同様のことがペテロが主に従ったヨハネを見たとき、主がペテロに言われたことによって意味される――

 「『ペテロよ、〔それは〕あなたにとって何か』。『ヨハネよ、あなたはわたしに従いなさい』。というのは、ペテロはヨハネについて、『これは何か〔この人はどうなのか〕』と言ったからである」(ヨハネ21:21,  22)(10087番)。

ヨハネは仁愛の善を表象したので、主の胸に寄り掛った(3934, 10081番)。
仁愛の善が教会をつくることは、十字架からヨハネへ向けた主のことばによってもまた意味される――

 イエスは、母を見られ、そばに立っている愛する弟子に言われた――また母に言われた。「女よ、見よ、あなたの息子を」。またその弟子に言われた。「見よ、あなたの母を」。その時から、その弟子は彼女を自分のもとに受け入れた(ヨハネ19:26, 27)。

「ヨハネ」によって仁愛の善が、「女」によって、また「母」によって教会が意味される。これらのすべてによって仁愛の善があるところに教会が存在することが意味される。みことばでは「女」によって教会が意味される(252, 253, 749, 770, 3160, 6014, 7337, 8994番)。
同様に「母」によって〔教会が意味される〕(289, 2691, 2717, 3703, 4257, 5580, 8897, 10490番)。
みことばの人物と場所のすべての名前は、それらから抽象されたものを意味する(768, 1888, 4310, 4442, 10329番)。

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122◀︎目次▶︎124

敬 虔

123 多くの者に、霊的な生活、すなわち、天界へ導く生活は、敬虔けいけん 、外なる聖なるもの、世の放棄から成り立つと信じられています。しかし、仁愛のない敬虔、内なる聖なるもののない外なる聖なるもの、世での生活のない世の放棄は、霊的な生活をつくりません。けれども、仁愛からの敬虔、内なる聖なるものからの外なる聖なるもの、世での生活を伴う世の放棄は、つくります。

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123◀︎目次▶︎125

124 敬虔とは、敬虔に考えることや話すこと、祈りのための多くの時間を持つこと、その時、謙遜に振る舞うこと、神殿をしばしば訪れること、そこの説教を信心深く傾聴すること、また毎年の聖餐にしばしばあず かり、教会の規則にしたがってその他の礼拝〔行為〕を同様に行なうことです。けれども、仁愛の生活は隣人に善く欲し、善く行ない、すべての働きを公正と平等から、善と真理から行ない、すべての職務においても同様に行なうことです。一言でいえば、仁愛の生活は役立ちを実践することから成り立ちます。神礼拝は第一には後者〔仁愛〕の生活から、第二には前者〔敬虔な生活〕から成り立ちます。それゆえ、一方をもう一方から引き離す者は、すなわち、敬虔な生活を送るけれども、同時に仁愛の生活を送らない者は、神を崇拝していません。確かに彼は神について考えます、けれども、神からでなく、自分自身から考えています。なぜなら、彼は常に自分自身について考え、隣人については何も考えないからです。隣人について考えても、もしその隣人もまた自分自身のようなものでないなら、その者を軽んじます――さらにまた彼は天界について報酬として考えます。そこから、その心の中には功績があり、そしてまた自己愛もあり、そのために役立ちを、このように隣人を軽蔑するかまたは無視し、同時に〔自分には〕非難されるところがないと信じます。ここから、仁愛の生活から分離した敬虔な生活は、神礼拝の中にあるべき霊的な生活がないことを明らかにすることができます(「マタイ」6:6, 7, 8と比較)。

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124◀︎目次▶︎126

125 外なる聖なるものは、こうした敬虔に似ており、特に人間がすべての神礼拝を教会堂(神殿)にいるときの聖なる振る舞いに置くことから成り立ちます、しかし、これは人間の内なる聖なるものでないなら、人間のもとで聖なるものではありません。なぜなら、人間は自分の内なるものがあるように、その外なるものもあるからです。というのは、行動がその精神から発出するように、後者は前者から発出するからです。それゆえ、内なる聖なるもののない外なる聖なるものは自然的であって、霊的ではありません。ここから、〔そうした聖なるものは〕善い者のもとにも悪い者のもとにも等しく存在します。こうしたものの中に礼拝のすべてを置く大部分の者は、空虚な者、すなわち、善と真理の認識を欠く者です。それでも、善と真理は神性から発しており、こうして神性はその善と真理の中にあるので、その善と真理は神聖そのものであり、知られ、信じられ、愛されなくてはならないものです。そこで、内なる聖なるものは、善と真理を善と真理のために愛し、公正と誠実のために公正と誠実を愛することです。このように人間はそれらを愛すれば愛するほど、それだけ霊的であり、またその礼拝も霊的です。なぜなら、それだけ彼はそれらを知り、それらを行なおうと欲するからです。しかし、人間はそのようにそれらを愛さなければ愛さないほど、それだけ自然的であり、その礼拝もまた自然的であり、またそれだけそれらを知ろう、それらを行なおうと欲しません。内なるもののない外なる礼拝は心臓の生命のない呼吸の生命にたとえることができますが、内なるものからの外なる礼拝は心臓の生命に結合した呼吸の生命にたとえることができます。

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125◀︎目次▶︎127

126 けれども、世の放棄については――世を放棄し、肉でなく霊に生きることは、特に富裕と名誉である世俗的なものを追い返すことであり、絶えず、神について、救いについて、永遠のいのちについて敬虔な瞑想にふけることであり、祈りと、みことばと宗教書を読む生活を送ることであり、また自分自身をしばりつけることであると多くの者から信じられています――しかし、これは世を放棄することではありません。真に世を放棄することは、神を愛し、隣人を愛することです。そして〔人が〕神の戒めにしたがって生きるとき、神は愛され、人間が役立ちを実践するとき、隣人は愛されます。それゆえ、人間は天界の光を受け入れるためには必ず、世に、そこの職務と仕事に生きなくてはなりません。世のものから引き離された生活は、愛と仁愛の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行なうことは滅んでしまいます。そしてこれが滅ぶ時、霊的な生活は、土台のない家のようなものになり、段々と沈むか、あるいは裂け目が生じるかまたは開くか、あるいは崩れるまで揺れるかします。

 

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126◀︎目次▶︎128

127 善を行なうことが主を崇拝することであることは、主のことばから明らかです――

 「すべて……わたしのことばを聞いて、……それを行なう者を、わたしは岩の上に家を建てた思慮深い人にたとえよう……しかしわたしのことばを聞いても……それを行なわない者を、わたしは砂の上に、または土台なしに地面の上に家を建てた愚な人にたとえよう」(マタイ7:24-27、ルカ6:47–49)。

新しいエルサレムとその天界の教え

127◀︎目次▶︎129

128 そこで、これらから、敬虔な生活は仁愛の生活が結合していればいるほど、それだけ有効であり、また主に受け入れられることが明らかです。というのは、後者〔仁愛の生活〕が第一にあって、後者があるように前者〔敬虔な生活〕もあるからです。なおまた外なる聖なるものは内なる聖なるものから発出すればするほど、それだけ有効であり、主に受け入れられます。なぜなら、後者があるように前者もあるからです。また世の放棄も、それが世で行なわれれば行なわれるほど、それだけ有効であり、主に受け入れられます。なぜなら、自己と世への愛を遠ざけて、すべての職務で、すべての業務で、すべての仕事で、内的なものから、このように天界的な起源から、正しく、誠実に行動する者は世を放棄しているからです。その起源は、人間が神の律法にしたがっているからと、善く、誠実に、正しく行動する時の生活に内在します。

新しいエルサレムとその天界の教え

128◀︎目次▶︎130

『天界の秘義』から

129 敬虔な生活は仁愛の生活がなくては効力がない。しかし、これ〔仁愛〕とともに〔なら〕役に立つ(8252番以下)。
内なる聖性のない外なる聖性は、聖なるものではない(2190, 10177番)。
内なる聖性からでなく、外なる聖性の中に生きた者について、来世でどんなものであるか(951, 952番)。

教会には内なるものと外なるものがある(1098番)。
内なる礼拝と外なる礼拝がある。それぞれどんなものか(1083, 1098, 1100, 1151, 1153番)。
内なるものがあり、それが礼拝をつくる(1175番)。
内なるもののない外なる礼拝は礼拝ではない(1094, 7724番)。
もし人間の生活に仁愛の生活があるなら、礼拝の中に内なるものがある(1100, 1151, 11253番)。
人間は愛と仁愛の中にいるとき、すなわち、生活に関して善の中にいるとき、真の礼拝の中にいる(1618, 7724, 10242番)。
礼拝がどんなものかは、善にしたがっている(2190番)。
礼拝そのものは、みことばからの教会の戒めにしたがった生活である(7884, 9921, 10143, 10153, 10196, 10654番)。

真の礼拝は人間のもとに主からあり、人間自身からではない(10203, 10299番)。
主は、人間による礼拝を、ご自分の栄光のためでなく、人間の救いのために望まれる(4593, 8263, 10646番)。
人間は、主が〔ご自分の〕栄光のために人間による礼拝を望まれると信じる。しかし、そのように信じる者は、何が神の栄光かを、また神の栄光は人類の救いにあって、その救いは人間が自分自身に何ものも帰さないとき、また自分のプロプリウム(固有のもの)を卑下によって遠ざけるとき、人間のものとなることを知らない。なぜなら、そのとき初めて神性が流入することができるからである(4347, 4593, 5957, 7550, 8263, 10646番)。
人間のもとの心からの卑下は、自分自身を悪以外の何ものでもなく、自分白身からは何も〔善を〕行なうことはできないと認めることから存在するようになる。またその時、主を認めることから、その方からは善以外の何ものもなく、主はすべてのことがおできになる〔という心からの卑下がある〕 (2327, 3994, 7478番)。
神性は卑下した心でなければ流入することができない。人間は卑下の中にいればいるほど、自分のプロプリウム(固有のもの)から、したがって自己愛から遠ざかっているからである(3994, 4347, 5957番)。
ここから、主は人間が神性を受け入れられる状態になるために、ご自分のためではなく、人間のために卑下を望まれる(4347, 5957番)。
卑下のない礼拝は礼拝ではない(2327, 2423, 8873番)。
内なるもののない外なる卑下は、どんなものか(5420, 9377番)。
内なるものである心からの卑下は、どんなものか(7478番)。
悪い者のもとに心からの自己卑下は存在しない(7640番)。

仁愛と信仰をもたない者は、内なる礼拝のない外なる礼拝の中にいる(1200番)。
もし、自己と世への愛が人間のもとの内なるものを支配するなら、その礼拝は、どれほど外なる形の中で見えても、内なるもののない外なるものである(1182, 10307–10309番)。
自己愛が内なるものを支配する外なる礼拝は、バビロンに属する者のもとにあるように、冒涜的である(1304, 1306–1308, 1321, 1322, 1326番)。
人間が自己愛からの悪にいるとき、礼拝の中で天界の情愛を模倣することは、地獄のものである(10309番)。

外なる礼拝について、内なるものからであるとき、どんなものか、また内なるものからでないとき、どんなものか、前に「内なる人と外なる人」について述べ、引用されたことから見られ、結論されることができる。

(世を放棄する者と放棄しない者について、どんなものであるか、来世での彼らの運命がどんなものかについては、著作『天界と地獄』の中に多くのことが、そしてそこの二つの章に見られる。一つは「天界の富める者と貧しい者」(357–365番)のところに、もう一つは「天界へ導かれる生活」(528–535番)のところに扱われている。)

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129◀︎目次▶︎131

良 心

130  良心は人間のもとに、彼が属する宗教から、自分自身の中にそれを内的に受け入れることにしたがって形作られます。

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130◀︎目次▶︎132

131  良心は教会の人間のもとに、みことばからの信仰の真理によって、またはみことばからの教えから、それを心に受け入れることにしたがって形作られます。なぜなら、人間は信仰の真理を知り、それを自分なりに理解し、そしてその後、それを意志し、行なうとき、その時、彼に良心が生ずるからです――心の中に受けることは意志の中に受けることです、なぜなら、人間の意志は心と呼ばれるものであるからです。ここから、良心をもつ者は、話す事柄を心から話し、行なう事柄を心から行ないます――彼らはまた分割されない心をもちます。なぜなら、彼らは、真理であり、善であると理解し、信じていることにしたがって行動するからです。

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131◀︎目次▶︎133

132  他の者よりも信仰の真理を照らされている者は、他の者よりも明瞭な知覚にいる者は、それほど照らされていないで暗い知覚にいる者よりも、さらに完全な良心を与えられることができます。

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132◀︎目次▶︎134

133  真の良心の中に人間の霊的ないのちそのものがあります。なぜなら、そこに彼の信仰は仁愛と結合しているからです。そのために、良心から行動することは彼らにとって自分の霊的ないのちから行動することであり、良心に反して行動することは彼らにとって自分のいのちに反して行動することです。ここから、彼らは良心にしたがって行動するとき、平安の静けさと内的な幸福の中にいて、それに反して行動するとき、不安と苦痛の中にいます――この苦痛が良心の痛みと呼ばれるものです。

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133◀︎目次▶︎135

134 人間には善の良心と公正の良心があります。善の良心は内なる人間の良心であり、公正の良心は外なる人間の良心です。善の良心は信仰の教えにしたがって内なる情愛から行動することです、公正の良心は市民的で道徳的な法律にしたがって外なる情愛から行動することです。善の良心をもつ者はまた公正の良心をもちますが、善の良心を受け入れる能力の中にいて、単に公正の良心だけをもつ者がいます。彼らもまた、教えられるとき、受け入れます。

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134◀︎目次▶︎136

135 隣人に対する仁愛にいる者のもとでは、良心は真理の信仰によって形作られるので、それは真理の良心です――けれども、主への愛にいる者のもとでは、真理への愛によって形作られるので、善の良心です――これらの者の良心はさらにすぐれた良心であり、善からの真理の知覚と呼ばれます。真理の良心をもつ者たちは主の霊的な王国からの者ですが、知覚と呼ばれるさらにすぐれた良心をもつ者は主の天的な王国からの者です。

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135◀︎目次▶︎137

136 しかし、良心が何であるか例で説明します。他の者の財産を自分のもとに持っており、〔そのことが〕他の者には知られないで、またこうして法律に対する恐れもなく、または名誉や尊敬を失う恐れもなしに、それをもうけることはできますが、それでも自分のものではないからと、もし〔それを〕他の者に返すなら、彼は良心をもちます。なぜなら、善を善のために、公正を公正のために行なうからです。さらにまた、ある職務につくことができる者がいて、しかし、同じくそれを得ようとするさらに国に役立つ他の者がいることを知り、もし彼が国の善のために、その地位を他の者に譲るなら、彼は善い良心をもちます。他の場合でも同じです。

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136◀︎目次▶︎138

137 これらから良心をもたない者の性質を結論することができます――彼らはその反対のことから知られます。例えば、利益のために不正なものを公正に見せ、悪を善に見せ、また逆のことをどのようなものでも行なう者は良心をもちません。彼らはまた良心が何〔である〕か知りません、もし何であるか教えられても信じないし、ある者は知ることも欲しません。自分自身と世のためにすべてのことを行なう者はこのような者です。

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137◀︎目次▶︎139

138 世で良心を受け入れなかった者は、それを来世で受け入れることができず、したがって救われることができません。その理由は、彼らには天界が流入し、働きかける面がないからです、すなわち、主が天界を通して〔流入され、働きかけられて〕、彼らをご自身のもとに導かれる面です。なぜなら、良心は天界の流入する面や容器であるからです。

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138◀︎目次▶︎140

『天界の秘義』から

139 良心について

良心をもたない者は何が良心か知らない(7490, 9121番)。
良心が何であるかを聞くとき、それを嘲笑する者がいる(7217番)。
良心などない、と信じる者がいる。それは身体の中の原因から、または世の中の原因からの、何らか自然的な悲しい、苦しみを引き起こすものであると信じる者がいる。ある者は宗教から一般の人々のもとに〔生ずるものであると信じる〕(950番)。
良心をもっていても、もっていることを知らない者がいる(2380番)。

善い者に良心がある、けれども、悪い者にはない(831, 965, 7490番)。
神への愛と隣人に対する愛にいる者に良心がある(2380番)。
良心は主により再生した者のもとに特に存在する(977番)。
真理だけの中にいて、それにしたがった生活の中にいない者に良心はない(1076, 1077, 1919番)。
自然的な善から善を行なうが、宗教からは行なわない者に良心はない(6208番)。

人間の良心は、その者の教会の教えまたは宗教から、それにしたがっている(9112番)。
人間のもとの良心は、彼の宗教のものであり、真理であると信じるものから形作られる(1077, 2053, 9113番)。
良心は内なる束縛であって、それにより人間は善を考え、語り、行なうように保たれ、またそれにより悪を考え、話し、行なうことを妨げられている。そしてこのことは自分自身と世のためでなく、善、真理、公正、正直のためである(1919, 9120番)。
良心は、人間が「そのようにかあるいはそのようにではなく行なうべきである」という内なる命令である(1919, 1935番)。
良心はその本質では真理と正直の良心である(986, 8081番)。
再生した霊的な人間のもとの新しい意志は良心である(927, 1023, 1043, 1044, 4299, 4328, 4493, 9115、9596番)。
人間の霊的ないのちは良心からである(9117番)。

真の良心、えせ良心、偽りの良心がある(それらについては、1033番)。
良心は純粋な真理により形作られれば形作られるほど、ますます真のものになる(2053, 2063, 9114番)。
全般的に、良心は内的と外的の二重のものである。内的な良心は、その本質では真理である霊的な善のもの、外的な良心は、その本質では誠実と公正、全般的には正直である道徳的で市民的な善のものである(514, 10296番)。

良心の苦痛は、人間が神に、また隣人の善に反すると信じる不正やふまじめ、またどんなものでも悪のために〔に生ずる〕心の不安である(7217番)。
人間が悪を考えるとき、もし不安が感じられるなら、それは良心からである(5470番)。
良心の苦痛は、人間の行なう悪のために、また善と真理の奪取のために引き起こされる(7217番)。
試練は人間の内側における真理と虚偽との争闘であり、また試練の中には苦痛と不安があるので、それゆえ、良心をもつ者以外にだれも霊的な試練に入れられない(847番)。

良心をもつ者は心から語り、行動する(7935, 9114番)。
良心をもつ者はいたずらに誓わない(2842番)。
良心をもつ者は、良心にしたがって善と正義を行なう時、内的な祝福にいる(9118番)。世で良心をもつ者は来世でも良心をもち、そこでは幸福な者の間にいる(965番)。
人間のもとの良心の中へ天界の流入がある(6207, 6213, 9122番)。
主は良心によって霊的な人間を支配される、それは彼に内的な束縛である(1835, 1862番)。
良心をもつ者は内的な思考をもつ。けれども、良心をもたない者は単に外的な思考をもつ(1919, 1935番)。
良心をもつ者は霊的なものから考える。けれども、良心をもたない者は単に自然的なものから考える(1820番)。
良心をもたない者は、単に外なる人間である(4459番)。主は良心をもたない者を外なる束縛によって支配される、それらは自己と世への愛のすべてのものと、そこから名声、名誉、職務、利益、富を失う恐れと、法律と生命の恐れである(1077, 1080, 1835番)。
良心をもたないが、それでも自分自身がこれらの外なる束縛によって支配されるのに甘んずる者は、良心をもつ者と同じように、世で高い職務を遂行し、善を行なうことができる。しかし、前者はそれを外なる束縛から外なる形で行なうが、後者はそれを内なる束縛から内なる形で行なう(6207番)。

良心をもたない者は、もつ者のもとの良心を滅ぼすことを欲する(1820番)。
世で良心をもたない者は、来世でも良心をもたない(965、9122番)。
ここから、地獄にいる者に、世で犯した自分の悪のための何らかの良心の責め苦はない(965, 9122番)。

あまりに良心的な者とはだれであり、またどのような者か、またどれほど厄介〔な存在〕であろうか、彼らは霊界で何に対応するか(5386, 5724番)。
主の霊的な王国にいる者は良心をもち、それは彼らの知的な部分の中に形作られる(863, 865, 875, 895, 927, 1043, 1044, 1555, 2256, 4328, 4493, 5113, 6367, 8521, 9596, 9915, 9995, 10124番)。
主の天的な王国にいる者には異なる(927, 2256, 5113, 6367, 8521, 9915, 9995, 10124番)。

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139◀︎目次▶︎141

140 知覚について
知覚は主からの流入によって何が真理と善であるか見ることである(202, 895, 7680, 9128番)。
知覚は主からの愛の善にいて、主の中にいる者にだけ与えられる(202, 371, 1442, 5228番)。
知覚は、世に生きていたとき、みことばからの教会の教えを直ちに生活に生かして、それ以前にそれを記憶に委ねなかった天界にいる者に与えられる。こうして彼らの心の内的なものは神性の流入の容器へと形作られた。それゆえ、彼らの理解力は天界で断えず照らしの中にある(104, 495, 503, 521, 536, 1616, 1791, 5145番)。
彼らは無数の事柄を知っており、測り知れないほどに賢明である(2718, 9543番)。
知覚にいる者は信仰の真理について推論しない。もし推論するなら、彼らに知覚は失われる(586, 1398, 5897番)。
自分自身から知り、賢明でもあると信じる者は、知覚をもつことができない(1386番)。
学問のある者たちは何がこの知覚を理解しない(経験から、 1387番)。

主の天的な王国にいる者は知覚をもつ。けれども、霊的な王国にいる者は知覚をもたない、しかしその代りに良心を〔もつ〕(805, 2144, 2145, 8081番)。
主の天的な王国にいる者は、主の霊的な王国にいる者のように、信仰から考えない。天的な王国にいる者は、主により信仰のものすべてのものの知覚の中にいるからである(202, 597, 607, 784, 1121, 1387, 1398, 1442, 1919, 7680, 7877, 8780番)。
それゆえ、天的な天使は信仰の真理について、それを知覚し、見てもいるので、単に、「そうです、そうです、いいえ、いいえ」と話す。しかし、霊的な天使は信仰の真理について、それが、「そうであるか、そうでないか」と推論する(2715, 3246, 4448, 9166, 10786番。そこに主の〔以下の〕ことばが説明されている)。

  「あなたがたのことばは、『そうです、そうです』、『いいえ、いいえ』でありなさい。それ以上のものは悪からのものです」(マタイ5:37)。

天的な天使は知覚から信仰の真理を知っているので、信仰のことを言おうとさえ欲しない(202、337番)。
天的な天使と霊的な天使の間の相違(2088, 2669, 2708-2715, 3235, 3240, 4788, 7068, 8521, 9277, 10295番)。
天的な教会であった最古代教会に属した者たちの知覚について(125, 597, 607, 784, 895, 1121, 5121番)。

内的と外的な知覚が存在する(2145, 2171, 2831, 5920番)。
世には公正と平等の知覚はある、しかし、霊的な真理と善の知覚はまれである(2831, 5937, 7977番)。
知覚の光は確信の光とは完全に異なっていて、似ていないものであるが、それでも、ある者には似たもののように見えることができる(8521, 8780番)。

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140◀︎目次▶︎142

自 由

141 すべての自由は愛に属します、なぜなら、人間は愛することを自由に行なうからです。ここからまた、すべての自由は意志に属します、なぜなら、人間は愛することもまた意志する(欲する)からです。そして愛と意志は人間のいのち(生活)をつくるので、自由もまたそれをつくります。これらから、何が自由か、すなわち、それらは愛と意志に属し、そこから人間のいのち(生活)に属するものであることを明らかにすることができます。ここから、人間が自由から行なうものは、彼に自分自身のプロプリウム(固有のもの)からのように見えます。

 

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141◀︎目次▶︎143

142 自由から悪を行なうことは自由のように見えます、しかし、それは奴隷(隷属)です。なぜなら、その自由は自己愛と世俗愛からであり、これらの愛は地獄から存在するからです。またこのような自由は、死後、実際に奴隷(隷属)に変化します。なぜなら、このような自由にいた人間は、その時、地獄で卑しい奴隷となるからです。しかし、自由から善を行なうことは自由そのものです。主への愛と隣人に対する愛からであり、これらの愛は天界からであるからです。この自由もまた、死後、残り、その時、真の自由になります。なぜなら、このような自由にいた人間は天界で家の子のようになるからです。このことを主はこのように教えられています――

「罪を犯す者はすべて罪の奴隷です。奴隷は……永遠に家にとどまりませんが、息子は永遠にとどまります。もし……息子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは真に自由になります」(ヨハネ8:34–36)。

それで、善はすべて主からであり、悪はすべて地獄からであるので、自由は主により導かれ、奴隷(隷属)は地獄により導かれることである、といえます。

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142◀︎目次▶︎144

143 法律により押しとどめられないかぎり、悪と虚偽を考え、またそれを行なう自由が人間にある理由は、彼が改心することができるためです。というのは、善と真理が彼のいのち(生活)に属するものとなるために、それらは彼の愛と意志の中に植え付けられなくてはならないからです。このことは彼に善と真理と同じく悪と虚偽も考える自由がないなら、行なわれることはできません――この自由は主により人間のだれにも与えられています。善と真理を考える時、悪と虚偽を愛さなければ愛さないほど、それだけ主は善と真理を彼の愛と意志に植え付け、したがって彼の生活に植え付け、このように彼を改心させます。自由の中で植え付けられたものは残ります、しかし、強制の中で植え付けられたものは残りません、強制は人間の意志からでなく、強制する者の意志からであるからです。ここからまた、自由からの礼拝は主に喜ばれます、しかし、強制からの礼拝は喜ばれません。というのは、自由からの礼拝は愛からの礼拝ですが、強制からの礼拝はそのようなものではないからです。

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143◀︎目次▶︎145

144  善を行なう自由と悪を行なう自由は、たとえ外の姿では同じものに見えても、天界と地獄のように互いに異なっており、また隔たっています。善を行なう自由は天界からであり、天界的な自由と呼ばれます。しかし、悪を行なう自由は地獄からであり、地獄的な自由と呼ばれます――また人間はその一方の中にいればいるほど、それだけもう一方の中にはいません。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです(マタイ6:24)――ここからまた、地獄的な自由にいる者は、随意に悪を欲し、虚偽を考えることを許されないことが奴隷(隷属)や強制である、と信じることが明らかです。しかし、天界的な自由にいる者は、悪を欲し、虚偽を考えることに戦慄し、もしそれらを強制されるなら、苦しめられます。

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144◀︎目次▶︎146

145 自由から行動することは、人間自身のプロプリウム(固有のもの)からのように人間に見えるので、ここから天界的な自由はまた天界のプロプリウム(固有のもの)と呼ばれることができ、地獄的な自由は地獄のプロプリウム(固有のもの)と呼ばれることができます。地獄のプロプリウムはその中へ人間が生まれてくるものであり、これは悪です。しかし、天界のプロプリウムはその中で人間が改心するものであり、これは善です。

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145◀︎目次▶︎147

146 これらから選択の自由が何であるか知ることができます。すなわち、それは選択または意志から善を行なうことです。また主により導かれる者がその自由の中にいることです――そして善と真理のために善と真理を愛する者は主により導かれます。

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146◀︎目次▶︎148

147 人間は、考え、話し、行ない、聞き、見る時の快さから、彼にとって自由がどのようなものか知ることができます。なぜなら、すべての快さは愛に属するからです。

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147◀︎目次▶︎149

『天界の秘義』から

148 すべての自由は愛または情愛に属する。人間は愛することを自由に行なうからである(2870、3158, 8987, 8990, 9585, 9591番)。
自由は愛に属するので、それはそれぞれの者のいのちである(2873番)。
天界的な自由と地獄的な自由がある(2870, 2873, 2874, 9589, 9590番)。
天界的な自由は善と真理への愛に属する(1947, 2870, 2872番)。
また善と真理への愛は主からのものであるので、主により導かれることは自由そのものである(892, 905, 2872, 2886, 2890–2892, 9096, 9586–9591番)。
人間は主により再生を通して天界的な自由へ導き入れられる(2874, 2875, 2882, 2892番)。
再生することができるために、人間に自由が存在しなくてはならない(1937, 1947, 2876, 2881, 3145, 3158, 4031, 8700番)。
そうでなければ、善と真理への愛は人間に植え付けられて、人間のものとなり、自分自身のもののように思われることはできない(2877, 2879, 2880, 2888, 8700番)。
強制の中で行なわれるものは何も人間に結合されない(2875, 8700番)。
もし人間が強制から改心されることができるなら、すべての者は救われる(2881番)。
改心における強制は有害である(4031番)。

自由からの礼拝は礼拝である、けれども、強制からのそれは〔礼拝では〕ない(1947, 2880, 7349, 10097番)。
悔い改めは自由な状態の中で行なわれなくてはならない。強制の状態の中で行なわれるものに効力はない(8392番)。強制の状態、それが何か(8392番)。

善が人間に備えられるために、人間は理性の自由から行動することが許されており、それゆえ、人間は悪もまた考え、欲し、また法律で禁じられないかぎり、それを行なう自由の中にいる(10777番)。
人間は、改心のために自由の中にいるように、主により天界と地獄の間に、このように均衡の中に保たれる(5982, 6477, 8209, 8987番)。
自由の中で植え付けられたものは存続する、けれども、強制の中で〔植え付けられたものは存続し〕ない(9588, 10777番)。
それゆえ、自由はだれからも決して取り去られない(2876, 2881番)。
だれも主により強制されない(1937, 1947番)。
どのように主は自由によって人間を善へ導かれるか。すなわち、主は自由によって人間を悪からそらし、善へ曲げられる。人間がすべてのものは自分自身から発出するとしか考えないほど、それほど穏やかに、また静かに導かれる(9587番)。

自分自身を強制することは自由からである、けれども、強制されることは〔自由からでは〕ない(1937, 1947番)。
人間は悪に抵抗するために自分自身を強制しなくてはならない(1937, 1947, 7914番)。
そしてまた自分自身からかのように善を行なわなくてはならない、しかしそれでも主からのものであることを認めなくてはならない(2883, 2891, 2892, 7914番)。
人間に試練の闘争の中でさらに強い自由があり、その中で勝利する。人間はその時、内的に自分自身を強制して悪に抵抗するからである、それでも異なって見える(1937, 1947, 2881番)。
すべての試練には自由がある、しかしこの自由は主から人間のもとに内的に存在しており、それゆえ、彼は闘争し、勝利することを、打ち敗られないことを欲する。これを彼は自由なしで行なわない(1937, 1947, 2881番)。
主は内なる人に刻みつけられている真理と善への情愛によってそのことを行なわれる、〔その〕人間に知られない〔うちに〕(5044番)。

地獄的な自由は、自己と世への愛とその欲望により導かれることである(2870, 2873番)。
地獄にいる者は、他の自由を知らない(2871番)。
天界的な自由は、天界が地獄から隔たっているほど、それほど地獄的な自由から隔たっている(2873, 2874番)。
地獄的な自由は、本質的に眺めると、奴隷(隷属)である(2884, 2890番)。
地獄により導かれることは奴隷(隷属)であるからである(9586, 9589–9591番)。

すべての自由はプロプリウム(固有のもの)のようであり、またそれにしたがっている(2880番)。
人間は再生によって主から天界的なプロプリウムを受ける(1937, 1947, 2882, 2883, 2891番)。
天界的なプロプリウムはどんなものか(164, 5660, 8480番)。
このプロプリウムは人間に自分のプロプリウムのように見える、しかし、それは自分のものではなく、彼のもとにある主のものである(8497番)。
このプロプリウムにいる者は自由そのものの中にいる。自由は主とその方のプロプリウムにより導かれることであるから(892, 905, 2872, 2886, 2890–2892, 4096, 9586, 9587, 9589–9591番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

148◀︎目次▶︎150

149 自由は天界と地獄の間の均衡からのものであり、彼に自由がないなら改心することができないことは、著作『天界と地獄』に示されている(均衡そのものについては589–596番、また自由については597番から終わりまで)――しかし、何が自由か、また人間が自由によって改心する理由を知ってもらうために、それゆえ、私は同書からここに引用します――
「均衡は天界からの善と地獄からの悪の間の均衡であること、したがって霊的な均衡であり、その本質は自由であることを示しました。霊的な均衡がその本質では自由であることは、善と悪の間の、また真理と虚偽の間の均衡であり、これらは霊的なものであるからです。それゆえ、善または悪を意志し、真理または虚偽を考え、そして他のものよりもあるものを選べることは自由です……。この自由は主により人間のそれぞれに与えられており、決して取り去られません。主からのものであるので、その起源から、確かに、人間のものでなく主のものですが、しかしそれでも、人間に、いのちとともに、自分自身のものであるかのように与えられています。このことの理由は、人間が改心し、救われることができるためです。なぜなら、自由がなくては、改心と救いはないからです。だれでも、理性的に熟慮すれば、人間の中に悪くまたは善く、誠実にまたは不誠実に、公正にまたは不正に考える自由が、そしてまた、善く、誠実に、公正に、話し、行動することができる自由があること、しかし、外なるものを抑制の中に保つ……道徳的で、市民的な法律のために、悪く、不誠実に、不正に、話し、行動することはできないことを知ることができます。これらのことから、考え、意志する人間の霊が自由の中にあることは明らかです。人間の外なるものは、それは話し、行動するものですが、前述の法律にしたがっていないなら、自由の中にはありません。〔『天界と地獄』597番〕

人間は自由がないなら、改心することができません、あらゆる種類の悪の中に生まれているからです。それでも救われることができるためには、それらの悪は遠ざけられなければなりません。もしそれらの悪を自分自身の中に見て、認め、その後、それらを望まないで、最後には退けないなら、遠ざけられることはできません。その時になって、初めて遠ざけられます。このことは、人間が悪と同じく善の中にいないなら、行なわれることができません。なぜなら、善から悪を見ることができますが、悪から善を見ることはできないからです。人間が考えることのできる霊的な善を、彼は幼児期から、みことばを読むことと説教から、そして道徳的で市民的な善を世での生活から学びます。このことが、なぜ人間が自由の中にいなくてはならないか、その第一の理由です。
もう一つの理由は、愛のものである情愛からなされるものでないなら、何も人間のものとされないことです。他の何らかのものが入ることができますが、しかし、思考の中へであって、それを超えて意志の中には入りません。人間の意志の中にまで入らないものは、彼のものとなりません。なぜなら、思考はそれ自身のものを記憶から得ます、しかし、意志は生活そのものから得るからです。意志からでないもの、すなわち、同じものですが、愛のものである情愛からでないものは、何ら自由なものではありません。何であれ、意志するかまたは愛するものを、人間は自由に行なうからです。ここから、人間の自由と、彼の愛のものまたは意志のものである情愛は一つです。そこで、人間が真理と善に働きかけられることができるように、すなわち、それらを愛し、こうしてそれらが彼のプロプリウム(固有のもの)のようになるために、人間に自由があるのです。
一言でいえば、何であれ自由のうちに人間のもとに入るものでなくては、彼の愛にまたは意志に属するものではないので、残りません。人間の愛または意志に属するものでないものは、彼の霊に属するものではありません。人間の霊のエッセ(存在)は、愛または意志であるからです。……。〔『天界と地獄』598番〕

改心するようにとの理由から、人間は自由の中にいます。それゆえ、人間は自分の霊に関して天界と地獄に結合しています。それぞれの人間のもとに、地獄からの〔悪〕霊、天界からの天使がいるからです。地獄からの霊によって人間は自分自身の悪の中にいます、けれども、天界からの天使によって主からの善の中にいます。このように、霊的な均衡の中に、すなわち、自由の中にいます。それぞれの人間に、天界からの天使が、また地獄からの霊が付き添っていることは「人類と天界の結合」の章に述べました(291–302番)。〔『天界と地獄』599番〕

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149◀︎目次▶︎151

150 功績を得るために善を行なう者は、善への愛〔善を求める愛〕から善を行なうのではなく、報酬への愛〔報酬を求める愛〕から善を行ないます。なぜなら、功績を得ようと欲する者は報いられることを欲するからです――このように行なう者は、喜びを善の中ではなく、報酬の中に認め、置いています。それゆえ、彼らは霊的ではなく、自然的です。

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150◀︎目次▶︎152

151 〔真に〕善である善は、善への愛から、こうして善のために行なわれなくてはなりません。その愛にいる者は功績について聞くことを欲しません。なぜなら、彼らは〔善を〕行なうことを愛して、その中に高慢を感じるからです。また逆に何かを自分自身のために行なっていると信じられるなら、悲しみます。これは友情のためから友に、兄弟であることのために兄弟に、妻と子供のために妻と子供に、国のために国に、善を行ない、こうして友情と愛から善を行なう者の場合とほとんど同じです。善く考える者もまた、「自分は自分自身のためにではなく、他の者のために善を行なう」と語り、説きつけます。

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151◀︎目次▶︎153

152 報酬のために善を行なう者は、主からでなく、自分自身から善を行ないます。なぜなら、彼らは自分自身の善を眺めるので、自分自身を第一位に眺めるからです。そして仲間、人間社会、祖国、教会の善である隣人の善を、目的への手段以外のものとしては眺めません。ここから、功績の善の中に自己と世への愛の善が隠れており、これ〔善〕は人間からであり、主からではありません。また人間からのすべての善は善ではありません。それどころか、自己と世がその中に隠れているかぎり、それは悪です。

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152◀︎目次▶︎154

153 純粋な仁愛と純粋な信仰に、すべて功績〔の思い〕はありません。なぜなら、善それ自体が仁愛の喜びであり、真理それ自体が信仰の喜びであるからです。そのために、その仁愛と信仰の中にいる者は何が功績〔の思い〕のない善か知っています、しかし、仁愛と信仰の中にいない者はそれを知りません。

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153◀︎目次▶︎155

154 報酬の理由で善が行なわれてはならないことを、主ご自身が「ルカ福音書」で教えられています――

「もし……あなたがたを愛する者をあなたがたが愛しても、あなたがたに恵みはあるでしょうか。……罪人つみびと も同じことを行なうからです。……むしろあなたがたの敵を愛し、善を行ない、何も……望まないで貸しなさい。その時、あなたがたの報いは大きく、また至高者の子となります」(6:32–35)。

人間は〔真に〕善であるような善を自分自身から行なうことはできないことを、主は「ヨハネ福音書」でもまた教えられています――

「人は天から与えられなければ、何も受けることはできません」(3:27)。

また他のところに――

 イエスは言われた。「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝です。……枝はその木に宿らないなら、それ自体では実を結ぶことができないように、あなたがたもまたわたしの中に宿らないなら、実を結ぶことはできません。……人がわたしの中に宿り、わたしもまた彼の中に宿るなら、多くの実を結びます。あなたがたはわたしによらなくては何ごともなすことができないからです」(15:4–8)。

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154◀︎目次▶︎156

155 善と真理はすべて主からのものであり、人間からのものは何もないので、また人間からの善は善ではないので、功績は人間に属さないで、主おひとりに属する、といえます。主の功績は、〔主の〕固有のものの力から人類を救われたこと、また主から善を行なう者を救われることにあります。ここから、みことばには、主の功績と公正を帰せられる者は「正しい者」と呼ばれ、〔自分自身に〕固有のものの公正と自己の功績を帰せられる者は「正しくない者」と呼ばれます。

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155◀︎目次▶︎157

156 報酬の目的なしに善を行なう愛の中にある喜びそれ自体が永遠に存続する報酬です。なぜなら、天界と永遠の幸福は主によりその善の中へ持ち込まれているからです。

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156◀︎目次▶︎158

157 善を行なう者は天界に入ります、また天界に入るためには善を行なうべきである、と考え、信じることは、報酬を目的として眺めることではなく、したがって働きに功績を置くことでもありません。なぜなら、主により善を行なう者もまた、このことを考え、信じるからです。しかし、そのように考え、信じ、行なっても、善のために善を求める愛にいない者は、〔報酬を目的として〕眺め、〔働きに〕功績を置きます。

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157◀︎目次▶︎159

『天界の秘義』から

158 主おひとりに功績と公正〔がある〕 (9715, 9979番)。
主の功績と公正は、〔主の〕プロプリウム(固有のもの)の力から人類を救われたことである(1813、2025–2027, 9715, 9809, 10019番)。
主の公正と功績の善は天界の中で支配する善であり、その善はその方の神的な愛の善であり、それにより人類を救われた(9486, 9979番)。
人間はだれも自分自身からは公正となることはできず、またそれを自分自身にだれも正当に要求することができない(1813番)。
自分自身に公正を要求する者は来世でどんなものか(942, 2027番)。
みことばでは、主の公正と功績を帰せられる者は「正しい者」と呼ばれ、自分自身のプロプリウム(固有のもの)の公正と功績を帰せられる者は「不正な者」と呼ばれる(5069, 9263番)。
一度、主により正しい者とされた者は、絶えずその方により正しい者とされる。なぜなら、公正は決して人間にプロプリウムのものとはならず、絶えずその方のものであるから(9486番)。
教会で〔教えられている〕義認を信じる者は、再生についてはほとんど知らない(5398番)。

人間は、善と真理のすべてを主に帰して、自分自身に帰さなければ帰さないほど、それだけ賢明である(10227番)。
〔真の〕善と真理であるすべての善と真理は、主からのものであり、人間からのものは何もないので、また人間からの善は善ではないので、ここから、功績は人間になく、主だけにある、といえる(9975, 9981, 9988番)。
天界に入る者は、自分自身のすべての功績を捨てる(4007番)。
また彼らは行なった善に対する報酬について考えない(6478, 9174番)。
功績から考える者は、それだけすべてのものは慈悲からのものであることを認めない(6478, 9174番)。
功績から考える者は、報酬と報いについて考える。それゆえ〔彼らにとって〕功績を欲することは報われることを欲することである(5660, 6392, 9975番)。
このような者は自分自身の中に天界を受けることができない(1835, 8478, 9977番)。
天界的な幸福は報いの目的なしに善を行なう情愛から成り立つ(6388, 6478, 9174, 9984番)。
来世ではだれも報いの目的なしに善を行なえば行なうほど、それだけ祝福は主から増大とともに流入する、また報いについて考えられるとき、それは直ちに散らされてしまう(6478, 9174番)。
善は報いの目的なしに行なわれるべきである(6392, 6478番。説明、9981番)。
純枠な仁愛はすべて功績のないものである(2343, 2371, 2400, 3887, 6388-6393番)――愛から、したがって善を行なう快さからのものであるから(3816, 3887, 6388, 6478, 9174, 9984番)。
みことばの中の「報酬」によって報酬の目的なしに、他の者に善を行なう快さと幸福が意味され、またその快さと幸福を純粋な仁愛の中にいる者は感じ、知覚する(3816, 3956, 6388番)。

報酬のために善を行なう者は、自分自身を愛し、隣人を愛さない(8002, 9210番)。
「雇われ人」によって、霊的な意味では、報酬のために善を行なう者が意味される(8002番)。
報いのために善を行なう者は来世では仕えられることを欲して、決して満足しない(6393番)。
彼らは隣人をあなど り、主その方を怒る、〔自分たちは〕報酬を受け取っていない、報いられるべきだと語って(9976番)。
自分自身のもとで信仰を仁愛から切り離した者は、来世では、信仰を、また自分が外なる形の中で行なった善い働きを、このように自分自身のために、功績的なものにする(2371番)。
働きに功績においた者は、さらに来世でどんなものか(942, 1774, 1877, 2027番)。
彼らは「低い地」にいて、自分自身が木を切っているように見える(1110, 4943, 8740番)――その理由は、特に「木」は、とりわけ「シッテムの木」は功績の善を意味するからである(2784, 2812, 9472, 9486, 9715, 10178番)。
報いのために善を行なった者は、主の王国では奴隷である(6389, 6390番)。
働きに功績を置く者は試練の中で屈服する(2273, 9978番)。
自己と世への愛の中にいる者は、報いなしに善を行なうことが何か知らない(6392番)。

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158◀︎目次▶︎160

悔い改めと罪の赦し

159 救われようと欲する者は自分の罪を告白し、悔い改めを行なわなくてはなりません。

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159◀︎目次▶︎161

160 罪を告白することは、悪を知り、それらを自分の中に見、それらを認め、自分を罪のあるものとし、それらのために自分自身を断罪することです――このことが神の前で行なわれるとき、それが罪を告白することです。

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161◀︎目次▶︎162

161 悔い改めを行なうことは、そのように罪を告白し、赦しについてへりくだった心から祈願した後、それらをやめ、仁愛と信仰との戒めにしたがって新しい生活をすることです。

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161◀︎目次▶︎163

162 罪人つみびと であることを一般的にだけ認め、また自分にすべての悪の罪があるとしても、自分自身を調べない者は、すなわち、自分の罪を見て、告白するだけの者は、悔い改めの告白をしていません――その者は自分の悪を知らないので、その後も以前のように生きます。

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162◀︎目次▶︎164

163 仁愛と信仰との生活を送る者は、日々に悔い改めを行ないます。彼は自分のもとにある悪を熟考し、それらを認め、それらを警戒し、主に助けを祈願します。というのは、人間は自分自身から絶えず〔罪に〕落ち込みます、しかし、主により絶えず引き揚げられて、善へ導かれるからです。善にいる者たちはそうした状態にいます。けれども、悪にいる者は、絶えず〔罪に〕落ち込み、そして主により絶えず引き揚げられています、しかし、単に最も重い悪へ落ち込まないよう導き出されているのであって、自分自身からはそれ(最も重い悪)へ向かってすべての努力を傾けています。

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163◀︎目次▶︎165

164 悔い改めを行なうために自分自身を調べる者は、自分の思考と自分の意志の意図を調べなくてはなりません。また、そこに、もし自分に許されるなら、すなわち、もし自分が法律をそして世評や名誉や利益を失う恐れがないなら、自分は何を行なうであろうかと調べなくてはなりません。そこ〔思考と意図〕に人間の悪があり、彼が身体で行なう悪はすべてそこから存在します。自分の思考と意志の悪を調べない者は、悔い改めを行なうことができません。なぜなら、その後も以前のように考え、意志するからです。それでもなお悪を意志することはそれらを行なうことです。このことが自分を調べることです。

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164◀︎目次▶︎166

165 生活の悔い改めではなくて口先の悔い改めは、悔い改めではありません。口先の悔い改めによって罪は赦されません、しかし、生活の悔い改めによって〔赦されます〕。罪は人間に主により絶えず赦されています、なぜなら、主は慈悲そのものであられるからです。しかし、赦されているとどれほど思っても、罪は人間に付着しており、またそれは真の信仰の戒めにしたがった生活によらないなら彼自身から遠ざけられません。それらにしたがって生きれば生きるほど、それだけ罪は遠ざけられ、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ赦されます。

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165◀︎目次▶︎167

166 罪は、赦されるとき、ぬぐいとられると信じられています、すなわち、汚物が水で洗い落されるかのように〔信じられています〕。しかし、罪はぬぐいとられないで、むしろ遠ざけられます。すなわち、人間は主により善の中に保たれるとき、それらを妨げられるのであり、善の中に保たれるとき、罪がないかのように、このようにぬぐいとられたかのように見えます。また人間は改心すればするほど、それだけ善の中に保たれることができます。どのようにして人間が改心するかは、次の再生についての教えで述べます。〔これと〕異なって罪が赦されると信じる者は、大いに欺かれています。

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166◀︎目次▶︎168

167 罪が赦されている、すなわち、遠ざけられているというしるしは、次のものです――〔罪を赦されている者は〕神のために神を崇拝し、隣人のために隣人に仕え、このように善のために善を行ない、真理のために真理を話すことに快さを感じます。仁愛と信仰の何らかのものによって賞に値することを欲しません。敵意、憎しみ、復讐、姦淫のような悪を、またそうしたことを意図する考えそのものを避け、しりぞけます。けれども、罪が赦されていない、すなわち、遠ざけられていないしるしは、次のものです――〔罪が赦されていない者は〕神のために神を崇拝せず、また隣人のために隣人に仕えません。このように善と真理のために、善を行なわず、真理も語らず、自己と世のためにそれを行ない、語ります。行為によって賞に値することを欲し、敵意、憎しみ、復讐、姦淫のような悪の中に不快を感じないで、それら〔の悪〕から、それら〔の悪〕について、すべて許されていると考えています。

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167◀︎目次▶︎169

168 自由な状態の中で行なわれる悔い改めは有効ですが、強いられた状態の中で行なわれる悔い改めは有効ではありません。強いられた状態とは病気の状態、不運からの心(アニムス)の沈んだ状態、死の差し迫った状態であり、同じくまた理性の働きをなくすすべての恐怖の状態です。強いられた状態にいる悪い者は、悔い改めを約束し、そしてまた善を行ないますが、その者は自由な状態に入るとき、その以前の悪の生活に戻ります――善い者は異なります。

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168◀︎目次▶︎170

169 人間は自分自身を反省し、自分の罪を認め、悔い改めを行なった後は、生涯の終わりまで善の中に確固としてとどまらなくてはなりません。というのは、もしその後、以前の悪い生活に戻り、それを抱くなら、その時、冒涜するからです、なぜなら、その時、悪と善を結合するからです。ここから彼の後の状態は、以前よりも悪くなります。主のことばにしたがって――

「汚れた霊が人を出て、乾いた場所を経めぐって休みを求めますが、それを見つけません。そこで、『私の出てきた家へ帰ろう』と言います。彼は来て、それが空いていて、掃き清められて、自分のために飾られているのを見いだすと、その時、立ち去って、自分よりも悪い他の七つの霊を自分に加えて、入って、そこに住みます。それでその人の後の状態は初めよりも悪くなります」(マタイ12:43–45)。

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169◀︎目次▶︎171

『天界の秘義』から

170 罪または悪について
無数の種類の悪と虚偽が存在する(1188, 2212, 4818, 4832, 7574番)。
虚偽からの悪があり、悪からの虚偽があり、そして再びそこから悪と虚偽がある(1679, 2243, 4818番)。
虚偽の悪とは何か、またどんなものか(2408, 4818, 7272, 8265, 8279番)。
悪の虚偽とは何か、またどんなものか(6359, 7272, 9304, 10402番)。
自分の責任とされる悪について、また自分の責任とされない悪について(4171, 4172番)。
理解力からの悪と意志からの悪について(9009番)。
そむきの罪、不正、罪、それらの相違(6563, 9156番)。

すべての悪は人間に付着している(2116番)。
悪は人間から取り除かれることができない、しかし、人間は単にそれを抑えられて、善の中に保たれることができるだけである(865, 868, 887, 895, 1581, 4664, 8206, 8393, 8988, 9014, 9333, 9447-9448, 9451, 10057, 10059番)。
悪を抑えられて善の中に保たれることは、主おひとりにより行なわれる(929, 2406, 8206, 10060番)。
このように悪と罪は単に遠ざけられる、またこのことは連続的に行なわれる(9334-9336番)。
このことは主により再生を通して行なわれる(9445, 9452-9454, 9938番)。
悪は主を切り離す(5696番)。
人間は、主から善を受けるために、悪をやめなくてはならない(10109番)。
善と真理は悪をやめればやめるほど、それだけ流入する(2388, 2411, 10675番)。
悪を抑えられ、善の中に保たれることが罪の赦しである(8391, 8393, 9014, 9444-9450番)。
罪が赦されているか、あるいはいないか、そのしるし(9449, 9450番)。
罪の赦しは善から見、悪から見ないことである(7697番)。

悪と罪は主からの分離と離反であり、このことは、みことばの中で「悪」と「罪」によって意味される(4997,5229, 5474, 5746, 5841, 9346番)。なおまたそれは善と真理からの分離と離反であり、それが意味される(7589番)。
それは神的な秩序に反したものであり、それが意味される(4939, 5076番)。
悪は断罪と地獄である(3513, 6270, 7155番)。
何が悪か知られないなら、何が地獄か知られない(7181番)。
悪はあたかも重いものであるかのように、それ自体から地獄に落ちる、また地獄からの虚偽も〔落ちる〕(8279, 8298番)。
何が自己愛と世俗愛か知られないなら、何が悪か知られない(4997, 7178, 8318番)。
それらの愛からすべての悪がある(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7488, 7489, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742番)。
人間はどれほど多くても、すべての種類の悪の中へ生まれており、これほどまでもそのプロプリウム(固有のもの)は悪以外の何ものでもない(210, 215, 731, 874~876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10731番)。
それゆえ、人間は善のいのちを受けるために、再び生まれ、再生されなくてはならない(3701番)。

人間は、同意から、その後、意図から、最後に快さから悪を行なうとき、自分自身を地獄へ投げ込む(6203番)。
生活の悪の中にいる者は自分自身の悪の虚偽の中にいる、そのことを知っていても知らなくても(7577, 8094番)。
すべての悪は地獄からのもの、またすべての善は主からのものであること、もし物事はこのようなものであると人間が信じるなら、悪は人間のものとされないであろう(4151, 6206, 6324, 6325番)。
来世で、悪は善い者から遠ざけられ、善は悪い者から遠ざけられる(2256番)。
来世で、すべての者は自分の内的なものへ入れられ、このように悪い者は自分の悪の中へ入れられる(8870番)。

来世で、悪にはそれ自体の罰が、また善にはそれ自体の報酬が内在する(696, 967, 1857, 6559, 8214, 8223, 8226, 9048番)。
人間は来世で遺伝悪のために罰を受けない、それら〔遺伝悪〕に責任がないから、しかし、自分の〔行なった〕実際の罪のために〔罰せられる〕 (996, 2308番)。
悪の内的なものは、外なる形がどれほど異なって見られても、不潔で醜い(7046番)。
みことばの中で悪は主に帰せられている、それでもその方からは善以外の何もない(2447, 6071, 6991, 6997, 7533, 7632, 7677, 7926, 8227, 8228, 8632, 9306番)。
怒りも同様である(5798, 6997, 8284, 8483, 9306, 10431番)。
なぜ、みことばの中でそのように語られているか(6071, 6991, 6997, 7632, 7643, 7679, 7710, 7926, 8282, 9010, 9128番)。
主について述べられているところで、「不法を負うこと」によって何が意味されるか(9937, 9965番)。
悩まされ、惑わされている善い者のもとで、主は悪を善に変える(8631番)。
人間をその者自身の自由から悪を行なうままに残すことは許すことである(10778番)。
悪と虚偽は主により許しの法則によって支配されており、それは秩序のために許されている(7877, 8700, 10778番)。
主による悪の許しは、欲して許すようなものではなく、欲しないが、目的に追い立てられて〔赦す以外に〕助けることができないようなものである(7877番)。

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170◀︎目次▶︎172

171 虚偽について
無数の種類の虚偽が、すなわち、悪と同数の虚偽がある。悪と虚偽は、多くの起源にしたがって存在する(1188, 1212, 4729, 4822, 7574番)。
悪からの虚偽または悪の虚偽があり、虚偽からの悪または虚偽の悪があり、そして再びそこから虚偽がある(1679, 2243番)。
原理として取られた虚偽から〔多くの〕虚偽が長く連続して流れ出る(1510, 1511, 4717, 4721番)。
自己と世への愛の欲望からの虚偽がある。感覚の欺きからの虚偽がある(1295, 4729番)。
宗教の虚偽があり、無知の虚偽がある(4729, 8318, 9258番)。
善のある虚偽があり、善のない虚偽がある(2863, 9304, 10109, 10302番)。
虚偽化されたものがある(7318, 7319, 10648番)。

悪の虚偽について、どんなものか(6359, 7272, 9304, 10302番)。
虚偽の悪について、どんなものか(2408, 4818, 7272, 8265, 8279番)。
悪からの虚偽は、地獄の上に、もや・・ のように、不潔な水のように見える(8138, 8146, 8210番)。
このような水もまた虚偽を意味する(739, 790, 7307番)。
地獄の中にいる者は、悪からの虚偽を話す(1695, 7351, 7352, 7357, 7392, 7699番)。
悪の中にいる者は、自分自身から考える時、虚偽しか考えることができない(7437番)。

善と調和する宗教の虚偽が存在し、調和しないものが存在する(9258番)。
宗教の虚偽は、もし善と調和しないなら、生活の悪の中にいる者以外のもとでは悪を生まない(8318番)。
宗教の虚偽は、善の中にいる者には帰せられない、しかし、悪の中にいる者に〔は帰せられる〕(8051, 8149番)。
すべての虚偽は確信されることができる, また確信されるとき、真理のように見える(5033, 6865, 8521, 8780番)。
宗教の虚偽は確信されないように警戒されなくてはならない、なぜなら、虚偽の説得は特にここからであるから(845, 8780番)。
虚偽の説得は、どれほど有害か(794, 806, 5096, 7686番)。
虚偽の説得は虚偽を確信させるものを絶えずひき起こす(1510, 1511, 2477番)。
虚偽の説得の中にいる者は、内的な束縛にいる(5096番)。
来世で、虚偽の説得の中に強くいる者が他の者に近づくとき、彼らの理性を閉ざし、あたかも窒息させる(3895, 5128番)。

純粋でない真理は、それとまた虚偽は、純粋な真理に結合されることができる。しかし、善のある虚偽〔が結合される〕、けれども、善のない虚偽は〔結合され〕ない(3470, 3471, 4551, 4552, 7344, 8149, 9298番)。
善のある虚偽は真理として主により受け入れられる(4736, 8149番)。
虚偽からその性質を得ている善は、もしそこに無知があり、その無知の中に無垢と善の目的があるなら、主により受け入れられる(7887番)。

悪は真理を虚偽化する、なぜなら、真理を悪へ導き、悪に適用するからである(8094, 8149番)。
真理は、確信によって悪に適用されると、虚偽化されると言われる(8062番)。
虚偽化された真理は、真理と善に反している(8062番)。
さらに、真理の虚偽化について(7318, 7319, 10648番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

171◀︎目次▶︎173

172 不信心と冒涜について(これについては〔この〕「教え」の中の前述169番)

冒涜は人間のもとでの、善と悪の、なおまた真理と虚偽の混合である(6348番)。
善と真理を、または教会とみことばの聖なるものを冒涜することは、最初にそれらを認め、それらを信じ、さらにまたもしそれらにしたがって生活するなら、そしてその後、信仰からから遠ざかり、それらを信じず、自分自身と世に生きる者以外に、だれにもできない(593, 1008, 1010, 1059, 3398, 3399, 3898, 4289, 4601, 8394, 10287番)。
少年期に真理を信じ、その後、信じない者はわずかに冒涜する。しかし、自分自身に真理を確信し、その後、それらを否定する者はひどく冒涜する(6959, 6963, 6971番)。
真理を信じて、悪く生きる者らもまた冒涜する。なおまた真理を信じないで、信心深く生きる者も〔冒涜する〕(8882番)。
人間は、もし心で悔い改めた後、以前の悪に返るなら、冒涜し、またその時、その後の状態は前よりも悪くなる(8394番)。
キリスト教世界で、みことばの聖なるものを不潔な考えと話しによって汚す者は冒涜する(4050, 5390番)。
いろいろな種類の冒涜がある(10287番)。

聖なるものを認めない者は、まして、それらを知らない者は、冒涜することができない(1008, 1010, 1059, 9188, 10287番)。
教会の内にいる者は、聖なるものを冒涜することができる、けれども外にいる者はできない(2051番)。
異邦人は、教会の外にいて、みことばを持っていないので、冒涜することができない(1327, 1328, 2051, 9021番)。
ユダヤ人もまた、みことばと教会の聖なる内的なものを認めていないので、冒涜することができない(6963番)。
それゆえ、内的な真理もまたユダヤ人に明かされなかった、なぜなら、もし明かさられて、承認されたなら、彼らはそれらを冒涜したであろうから(3398, 3479, 6963番)。

冒涜は前に(169番)引用した主のことばによって意味される、すなわち、

「汚れた霊が人を出て、乾いた場所を経めぐり、休みを求めますが、それを見つけません。そこで、『私の出てきた家へ帰ろう』と言います。彼は来て、それが空いていて、掃き清められ、自分のために飾られているのを見いだすと、その時、立ち去って、自分よりも悪い他の7つの霊を自分に加えて、入って、そこに住みます。それでその人の後の状態は初めよりも悪くなります」(マタイ12:43–45)。

「汚れた霊が人から出る」ことによって、悪の中にいる者の悔い改めが意味される。彼が「乾いた場所を経めぐるが、休みを見つけない」ことによって、彼には善の生活がそのようなものであることが意味される。空いていて、掃き清められ、自分のために飾られてもあるのを見いだし、そこに帰ってきた「家」によって、その人間自身とその意志が意味される。自分に加え、一緒に帰ってきた「七つの霊」によって、善に結合した悪が意味される。「前よりも悪いその時のその状態」によって、冒涜が意味される。この意味がこれらのことばの内意である。なぜなら、主は対応によって語られたから。似たことがベテスダの池でいやされた者への主のことばによって意味される――

 「見よ、あなたはいやされました。もはや罪を犯してはなりません。何かもっと悪いことがあなたに起こらないようにです」(ヨハネ5:14)。

なおまた次のことばによって――

「彼らの目を見えないようにされ、その心をかたくなにされた。それは彼らがその目で見、その心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやすことがないためである」(ヨハネ12:40)。

「回心し、いやされること」は冒涜することであり、そのことは真理と善とが認められ、その後、退けられるときに起こる。もし、ユダヤ人が回心し、いやされたなら、前に述べたように、そのようになったであろう。

冒涜する者の来世の運命はすべての中でも最悪のものである、彼らの認めた善と真理は、そしてまた悪と虚偽も存続するからである。それらは密着し、いのちを切り裂くことが起こるからである(571, 582, 6348番)。
それゆえ、冒涜が生じないよう、主により最大に備えがなされている(2426, 10287番)。
それゆえ、もし人間が生涯の終わりまで〔真理と善を〕認めることと信仰の中にとどまることができないなら、彼はそれらを妨げられる(3398, 3402番)。
それゆえ、人間はむしろ無知の中と外なる礼拝の中に保たれる(301-303, 1327, 1328番)。
主はまた、人間が認めて、受け入れた善と真理を彼の内的なものの中に隠される(6595番)。

内的な真理は、冒涜されないように、教会がその終わりになる時よりも前に啓示されない(3398, 3399番)。
それゆえ、主は教会が完全に荒廃したとき、世に来られて、内的な真理を開かれた(3398番。これについては小著『最後の審判とバビロンの滅亡』の73, 74番に述べたこと参照)。

みことばの中で、「バベル」によって善の冒涜が、「カルデア」によって真理の冒涜が意味される(1182, 1283, 1295, 1304, 1306–1308, 1321, 1322, 1326番)。
これらの冒涜は、みことばの中で〔語られている〕禁じられた段階の姦淫に、または不潔な姦淫に対応した(6348番)。
イスラエル教会とユダヤ教会の中で冒涜は血を食べることによって表象された。それゆえ、このことは厳格なほどにまでも禁じられた(1003番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

172◀︎目次▶︎174

173 霊的ないのち(生活)を受けない者、すなわち、主により新しく生まれない者は、天界に入ることはできません。そのことを主は「ヨハネ福音書」に教えられています、

「まことに、まことに、わたしはあなたに告げます。人は再び生まれないなら、神の国を見ることはできません」(3:3)。

新しいエルサレムとその天界の教え

173◀︎目次▶︎175

174 人間は、両親により霊的な生活の中へではなく、自然的な生活の中へ生まれています。霊的な生活はすべてにまさって神を愛すること、また隣人を自分自身のように愛することであり、そのことは主がみことばの中で教えられている信仰の戒めにしたがっています――けれども、自然的な生活は、自分自身と世を、隣人に以上に、それどころか神ご自身以上に愛することです。

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174◀︎目次▶︎176

175 それぞれ人間は、自分の両親から自己と世への愛の悪の中へ生まれています。習慣によってあたかも性質を得たかのようなすべての悪は、子孫に伝えられます。このように、両親から、祖父から、先祖からと、遠く以前から連続しており、ここから悪の派生物はついに人間のプロプロウム(固有のもの)のすべての生活(いのち)が悪でしかないような、それほどに大きなものとなっています。この連続的な派生物は主からの信仰と仁愛との生活による以外に、砕かれないし、変えられません。

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175◀︎目次▶︎177

176 人間は遺伝から伝えられているものに、絶えずこれに傾き、またこれに陥ります――ここから彼は自分自身のもとでその悪を確信し、そしてまた自分自身からなお多くのものを加えています。これらの悪はまったく霊的ないのちに対立しており、それを滅ぼします。それゆえ、人間は主から霊的ないのちである新しいいのちを受け取らないなら、このように新たにみごもり、新たに生まれ、新たに育てられないなら、すなわち、新たに創造されないなら、断罪されます。なぜなら、彼は、地獄にいる者と同様に、自己と世に属するもの以外のものは、何も欲しないし、それゆえ、何も考えないからです。

新しいエルサレムとその天界の教え

176◀︎目次▶︎178

177 このような新しい生活(いのち)、すなわち、霊的ないのちに属するものを知らないなら、だれも再生することはできません。新しいいのちに、すなわち、霊的ないのちに属するものは、信じるべき真理と行なうべき善です。前者は信仰に、後者は仁愛に属します。

これらのものはだれも自分自身から知ることはできません。なぜなら、人間は感覚で出会う以外のものを把握することができないからです。それらのものから彼は自然的な光と呼ばれる光を自分自身に得て、その光から世と自己に属するもの以外には、天界と神に属するものは、何も見ません。これらは啓示から学ばなければなりません。
例えば、永遠から神であられる主が人類を救いに世に来られたこと、天地におけるすべての力はその方にあること、信仰のすべてと仁愛のすべては、したがって真理と善のすべてはその方からのものであること、天界と地獄の存在すること、人間は、もし善く行なったなら天界で、もし悪く行なったなら地獄で永遠に生きることです。

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177◀︎目次▶︎179

178 これらやまた〔その他〕多くのことは信仰に属しており、再生すべき人間が知らなくてはならないことです。なぜなら、それらを知る者は、それらを考え、その後それらを欲し、ついにそれらを行ない、こうして新しいいのち(生活)をもつことができるからです。そのため、主が人類の救い主であられることを知らない者は、その方への信仰をもち、その方を愛することはできず、こうしてその方のために善を行なうことはできません。
すべての善はその方からのものであることを知らない者は、自分の救いはその方からのものであることを考えることはできず、ましてそれがそのようであることを欲することはできず、したがってその方から生きることはできません。地獄と天界があることを、また永遠のいのちがあることを知らない者は、決して天界の生活について考えることはできないし、またそれらを受け入れるように自分自身を向けることもできません。その他もこのようなものです。

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178◀︎目次▶︎180

179 それぞれの者に内なる人と外なる人がいます。内なる人は霊的な人と呼ばれ、外なる人は自然的な人と呼ばれます――人間が再生するためには、それぞれが再生しなくてはなりません。再生しない人間のもとでは、外なるまたは自然的な人が支配し、内なる人が仕えます。しかし、再生する人間のもとでは、内なるまたは霊的な人が支配し、外なる人が仕えます。そこから人間のもとでは出生からいのちの順序が逆であることが明らかです、すなわち、支配しなければならないものが仕え、仕えなければならないものが支配しています。人間は救われることができるために、この順序が逆にならなくてはなりません。そしてこの逆転は主による再生によらなくては決して生ずることができません。

新しいエルサレムとその天界の教え

179◀︎目次▶︎181

180 内なる人が支配し、外なる人が仕えること、またその反対が何であるかは、このことによって説明されます――もし人間がそのすべての善を快楽に、利益に、高慢に置き、憎しみと復讐に喜びを抱き、自分の内部にそれを確信する論拠を捜し求めるなら、その時、外なる人が支配し、内なる人が仕えます。けれども、人間が、善く、誠実に、正しく考え、また意志する〔欲する〕ことに、また外的にも同様に、話し、行なうことに善と喜びを感じるとき、その時、内なる人が支配し、外なる人が仕えます。

新しいエルサレムとその天界の教え

180◀︎目次▶︎182

181 最初に、内なる人が主により再生し、その後、外なる人が、また後者は前者によって再生します――なぜなら、内なる人は信仰と仁愛に属するものを考えることによって再生します、けれども、外なる人はそれらにしたがった生活によって再生するからです。このことが主のことばによって意味されています、

「人は水と霊から生まれないなら、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)。

霊的な意味で、「水」は信仰の真理であり、「霊」はそれにしたがった生活です。

新しいエルサレムとその天界の教え

181◀︎目次▶︎183

182 再生した人間は、自分の内なる人に関して天界の中にいて、そこの天使といっしょにいる天使であり、死後もまた彼らの間にやって来ます。その時、天界の生活を送り、主を愛し、隣人を愛し、真理を理解し、善を味わい、そこからの幸運を知覚することができます。

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182◀︎目次▶︎184

183 再生とは何か、なぜ生ずるか
今日、再生についてほとんど知られていない、その理由(3761, 4136, 5398番)。
人間はあらゆる種類の悪の中へ生まれており、ここから、彼は自分のプロプリウムに関して、出生の時から悪以外のものではない(210, 215, 731, 874~876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8549, 8550, 8552, 10283, 10284, 10286, 10731番)。
人間の遺伝するものは悪以外のものではない(この「教え」の中で前に集めた83番参照)。
人間のプロプリウムもまた悪以外のものではない(「教え」82番)。
人間は、自分自身から、遺伝とプロプリウムからであるかぎり、獣のような動物よりも悪い(637, 3175番)。
それゆえ、自分自身からは絶えず地獄を眺める(694, 8480番)。
そのために、もし人間はその人間自身のプロプリウムから導かれるなら、決して救われることができない(10731番)。

人間の自然的ないのちは霊的ないのちに対立している(3913, 3928番)。
人間が自分自身から、またはプロプリウムから行なう善は、自分自身のためと世のために行なうので、善ではない(8480番)。
主と天界とが現在することができるために、人間のプロプリウムは遠ざけられなくてはならない(1023, 1044番)。
人間のプロプリウムは、人間が主によって再生するとき、実際に遠ざけられる(9334-9336, 9452, 9454, 9938番)。
それゆえ、人間は新たに創造されなくては、すなわち、再生しなくてはならない(8548, 8549, 9452, 9937番)。
みことばの中で、人間を「創造すること」によって、彼を再生させることが意味される(16, 88, 10634番)。

人間は再生によって主に結合される(2004, 9338番)。
さらにまた天界の中の天使の仲間とされる(2474番)。
人間は、主により善を通して導かれるような状態の中にいる時よりも以前に、天界へやって来ない、それは再生したときに生ずる(8516, 8539, 8722, 9139, 9832, 10367番)。

再生しない人間のもとでは、外なるまたは自然的な人が支配し、内なる人が仕える(3167, 8743番)。
そのように、人間のいのちの状態はその出生から逆転しており、それゆえ、人間は救われることができるために、それは完全に逆転しなくてはならない(6507, 8552, 8553, 9258番)。
再生の目的は、内なるまたは霊的な人が支配し、外なるまたは自然的な人が仕えることである(911, 913番)。
人間が再生した後、またこのようにもなる(5128, 5651, 8743番)。
再生の後、もはや自己と世への愛は支配しないで、主へと隣人に対する愛が支配するからであり、このように人間でなく主が支配される(8856, 8857番)。
ここから、人間は再生しないなら、救われることができないことが明らかである(5280, 8548, 8772, 10156番)。

再生は人間のいのちを永遠に完成させるための面である(9334番)。
さらにまた、再生した人間は永遠に完成される(6648, 10048番)。
再生した人間と再生しない人間はどんなものか(977, 986, 10156番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

183◀︎目次▶︎185

184 だれが再生するか

人間は信仰の真理と仁愛の善を教えられないなら、それ以前に再生することができない(677, 679, 711, 8635, 8638-8640, 10729番)。
真理の中にだけいて善の中にいない者は、再生することができない(6567, 8725番)。
仁愛を備えていないなら、だれも再生しない(989番)。
良心をもった者でないなら、再生することができない(2689, 5470番)。
だれもが、みことばからのものである教会の教えからの信仰の真理によって、主への愛の善と憐人に対する仁愛の善を受ける能力にしたがって再生する(2967, 2975番)。
だれがさらに再生することができ、まただれが再生することができないか(2689番)。
信仰と仁愛との生活を送って、世で再生しなかった者は、来世で再生する(989, 2490番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

184◀︎目次▶︎186

185 再生は主おひとりによる

主おひとりが人間を再生させられ、人間は、また天使もまったく〔それに関わら〕ない(10067番)。
人間の再生は主の栄化の映像〔主の栄化を映し出している像〕である。すなわち、主はご自分の人間性を神的なものにされたように、そのように再生させられる人間を霊的なものにされる(3043, 3138, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688, 10057, 10076番)。
主は再生させられる人間の一部分でなく全体を得ようと望まれる(6138番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

185◀︎目次▶︎187

186 再生についてさらに多くのこと
人間は信仰の真理とそれにしたがった生活によって再生する(1904, 2046, 9088, 9959, 10028番)。このことが〔次の〕主のことばによって意味される、

「人は水と霊から生まれないなら、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)。

「水」によって信仰の真理が、「霊」によってそれにしたがった生活が意味される(10240番)。
「水」によって、みことばでは信仰の真理が意味される(2702, 3058, 5668, 8568, 10238番)。
さらにまた霊的な清めは、悪と虚偽からの清めは、信仰の真理によって行なわれる(2799, 5954, 7044, 7918, 9088, 10229, 10237番)。
人間が再生するとき、真理は善の中に、生活(いのち)のものとなるように種を蒔かれ、植え付けられる(880, 2189, 2574, 2697番)。
善に植え付けられるために、真理はどんなものでなくてはならないか(8725番)。
再生の中で、真理は善へ導入され、善に結合され、また相互に、善は真理へ〔導入され、真理に結合される〕(5365, 8516番)。
相互の導入と結合とはどのように行なわれるか(3155, 10067番)。
真理が意志のものとなるとき、その時、愛のものとなるので、それは善に植え付けられる(10367番)。

再生する人間には二つの状態があり、第一のものは真理によって善へ導かれるときであり、第二のものは善から行動し、善から真理を見るときである(7992, 7993, 8505, 8506, 8510, 8512, 8516, 8643, 8648, 8658, 8685, 8690, 8701, 8772, 9227, 9230, 9274, 9736, 10048, 10057, 10060, 10076番)。
真理が第一位に、善が第二位にあるときの人間の状態はどんなものか(3610番)。
ここから、人間は再生するとき、真理から善を眺める、しかし、再生したときは、善から真理を眺めることが明らかである(6247番)。
そのようにあたかも回転が生じる、その中で人間の状態は逆転させられる(6507番)。

しかし、人間が再生するとき、真理が第一位に、善が第二位に、実際にあるのではなく、単に〔そのように〕見えるのである。しかし、人間が再生したとき、善が第一位に、真理が第二位にあることを、実際にまた知覚できるものであることを知っておくべきである(3324, 3325, 3330, 3336, 3494, 3539, 3548, 3556, 3563, 3570, 3576, 3603, 3701, 4243, 4245, 4247, 4337, 4925, 4926, 4928, 4930, 4977, 5351, 6256, 6269, 6273, 8516, 10110番)。
そのように善は再生の最初のものであり、また最後のものである(9337番)。
人間が再生するとき、または同じことであるが、人間が教会となるとき、真理は第一位に、善は第二位にあるように見えるので、その外見のために、古代人の間で教会の長子は、信仰の真理かまたは仁愛の善か争われた(367、2435番)。
仁愛の善は実際に教会の長子である、しかし信仰の真理は単に〔そのように〕見えるだけである(3325, 3494, 4925, 4926, 4928, 4930, 8042, 8080番)。
みことばの中の「長子」によってもまた教会の最初のものが意味され、それに優先権と優越性がある(3325番)。
それゆえ、主は教会の「長子」と呼ばれている。なぜなら、その方の中に、またその方から、愛、仁愛、信仰の善のすべてがあるからである(3325番)。

人間は、善から真理を眺めるときである後の状態から、真理から善を眺めるときである前の状態へ戻ってはならない。その理由(2454, 3650~3655, 5895, 5897, 7857, 7923, 8505, 8506, 8510, 8512, 8516, 9274, 10184番。そこ〔10184番〕に主のことばが説明されている、

「その時、畑にいる者は、自分の着物を取りに後ろへ引き返してはなりません」(マタイ24:18)。

さらに、

 「その時、畑にいる者はだれであろうと自分の後にあるものの中へ引き返してはなりません。ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:31, 32)。

なぜなら、それらはこれらの言葉によって意味されるから)。

人間の再生の過程が、〔それが〕どのように行なわれるかが述べられている(1555, 2343, 2490, 2657, 2979, 3057, 3286, 3310, 3316, 3332, 3470, 3701, 4353, 5113, 5126, 5270, 5280, 5342, 6717, 8772, 8773, 9043, 9103, 10021, 10057, 10367番)。
再生のアルカナは無数である、再生は人間の全生活の間、続くからである(2679, 3179, 3584, 3665, 3690, 3701, 4377, 4551, 4552, 5122, 5216, 5398, 5912, 6751, 9103, 9258, 9296, 9297, 9334番)。
これらのアルカナからの何らかのものも、ほとんど人間の知識や知覚にやって来ない(3179, 9336番)。このことが主のことばによって意味されるものである、

「風は欲するところを吹き、あなたはその音を聞きます。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知りません。霊から生まれるだれもがこのようです」(ヨハネ3:8)。

霊的な教会の人間の再生の過程について(2675, 2678, 2679, 2682番)。
また、天的な教会の人間の再生について、その相違(5113, 10124番)。

再生する人間と幼児に同様な関係がある。〔幼児は〕最初に話すことを、次いで考えることを、その後、善く生きることを学ぶ、その時すべてのことが自発的にあたかも彼自身から流出するかのようにまで(3203, 9296, 9297番)。
このように再生する者は、最初に幼児のように、次いで少年のように、その後、成人のように主により導かれる(3665, 3690, 4377-4379, 6751番)。
人間は、主により再生しているとき、最初に外なる無垢の状態にいる、それは幼児の状態である。次いで連続的に内なる無垢の状態へ導き入れられる、それは知恵の状態である(9334, 9335, 10021, 10210番)。
幼児の無垢とは何か、どんなものか、知恵の無垢とは何か、どんなものか(1616, 2305, 2306, 3494, 4563, 4797, 5608, 9301, 10021番)。
人間の再生と子宮内の胎児の受胎と形成との比較(3570, 4931, 9258番)。
それゆえ、みことばでは「生殖」と「出生」は霊的な「生殖」と「出生」を意味する、すなわち、それは再生に属するものである(613, 1145, 1255, 2020, 2584, 3860, 3868, 4070, 4668, 6239, 10204番)。
植物界の発芽によって説明された人間の再生(5115, 5116番)。
虹の中に表象された人間の再生(1042, 1043, 1053番)。

内なるまたは霊的な人も外なるまたは自然的な人も両方の人間が再生しなくてはならない、そして1方はもう1方を通してである(3868, 3870, 3872, 3876, 3877, 3882番)。
内なる人は外なる人よりも前に再生しなくてはならない、内なる人は天界の光の中にあり、外なる人は世の光の中にあるからである(3321, 3325, 3469, 3493, 4353, 8746, 9325番)。
外なるまたは自然的な人は、内なるまたは霊的な人によって再生する(3286, 3288, 3321番)。
外なるまたは自然的な人が再生する前に人間は再生しない(8742-8747, 9043, 9046, 9061, 9325, 9334番)。
自然的な人が再生しないなら、霊的な人は閉ざされる(6299番)。
また信仰と愛の真理と善に関して、あたかも盲目のようである(3493, 3969, 4353, 4588番)。
自然的な人が再生する時、人間全体が再生する(7442、7443番)。
このことが「弟子たちの足を洗うこと」によって、またこれら〔以下〕の主のことばによって意味される、

「洗われた者は足を除いて洗われる必要はありません、全身が清潔です」(ヨハネ13:9, 10) (10243番)。

みことばの中で「洗うこと」は霊的に洗うことを意味し、それは悪と虚偽から清められることである(3147, 10237, 10241番)。また「足」は自然的な人に属するものを意味する(2162, 3761, 39
86, 4280, 4938~4952番)。このように「足を洗うこと」は自然的な人を清めることである(3147, 10241番)。

どのようにして自然的な人は再生するか(3502, 3508, 3509, 3518, 3573, 3576, 3579, 3616, 3762, 3786, 5373, 5647, 5650, 5651, 5660番)。
自然的な人が再生したときどんなものか、また再生しないときどんなものか(8744, 8745番)。
自然的な人が霊的な人と闘わなければ闘わないほど、それだけ人間は再生している(3286番)。
人間が再生しているとき、自然的な人は流入によって霊的なものを感じる(5651番)。

自然的な人の最外部のものである感覚的なものは、今日では再生しない、しかし、人間はそれ〔感覚的なもの〕から高揚される(7442番)。
再生した者は、感覚的なものから天界の光の中へ実際に高揚される(6183, 6454番)。
感覚的な人間がだれで、どんなものか(前の抜粋50番参照)。

人間は、彼のもつ善と真理の知識の中への流入によって再生する(4096, 4097, 4364番)。
人間は再生するとき、手段となる善と真理とを通して純粋な善と真理へ導き入れられ、その後、手段となる善と真理は見捨てられ、純粋なものがその位置に代わる(3665, 3686, 3690, 3974, 4063, 4067, 4145, 6384, 9382番)。
その時、真理と善の間に他の秩序が導き入れられる(4250, 4251, 9931, 10303番)。
それらは目的にしたがって配列される(4104番)。
そのように、霊的な生活(いのち)の役立ちにしたがって配列される(9297番)。
再生する者は多くの状態の下へ入る、そして、常に天界の中の内的なものへ、このようにさらに近く主へ導かれる(6645番)。
再生した者は天界の秩序の中にいる(8512番)。彼の内部は天界へ向って開かれている(8512, 8513番)。
人間は再生によって天使たちの知性へやって来る、しかし、それ〔知性〕は、世に生きるかぎり、彼の内側にひそかに隠れている。しかし、それは来世で開かれ、その時、彼には天使にあるのと同じような知恵がある(2494, 8747番)。
照らしに関して、再生した者の状態(2697, 2701, 2704番)。
人間は再生を通して新しい理解力を受ける(2657番)。
再生した者のもとで、善の結実と真理の増加がどのように関係するか(984番)。
再生した者のもとで、善からの真理は、連続的な派生物によって星のようなものをつくり、絶えず周囲に増大する(5912番)。
再生した者のもとの善からの真理は、善の純粋な真理としてその秩序の中に配列されており、そこから他の〔残りの〕ものが両親からのように発出し、〔その真理は〕真ん中にあって、次いで親族関係と姻戚関係にしたがって、そこに暗いものがある最外部にまで順に続く(4129, 4551, 4552, 5134, 5270番)。
再生した者のもとの善からの真理は天界の形に配列されている(3316, 3470, 3584, 4302, 5704, 5709, 6028, 6690, 9931, 10303番。また著作『天界と地獄』の中の「天界の形、その形にしたがってそこに交わりと伝達がある」200-202番、それと「天界の天使の知恵」265-275番の章の中に)。

再生した人間のもとで、霊的なものと自然的なものとの間に対応がある(2850番)。
再生した者のもとで、いのちの秩序は完全に逆転している(3332, 5159, 8995番)。
再生した人間は、霊に関して完全に新しい(3212番)。
外なるものに関して再生しない人間に似て見える、けれども、内なるものに関してそうでない(5159番)。
霊的な善は、善の愛の情愛から善を意志し、善を行なうものであり、再生によらないなら人間に存在しない(4538番)。
情愛とともに入ってくる真理もまた再現される(5893番)。
真理は、人間のプロプリウムからのいのちを奪われれば奪われるほど、それだけ善に結合し、霊的ないのちを受ける(3607、3610番)。
自己と世への愛からの悪が遠ざければ遠ざけられるほど、それだけ真理にいのちがある(3610番)。

再生する人間のもとの真理への最初の情愛は、純粋ではない、しかし、連続的に清められる(3089, 8413番)。
再生する人間のもとの悪と虚偽は、ゆっくり遠ざけられる、またすぐにではなく(9334, 9335番)。
人間のプロプリウムである悪と虚偽は、それでも残っており、ただ再生によってだけ遠ざけられる(865, 868, 887, 929, 1581, 2406, 4564, 8206, 8393, 8988, 9014, 9333~9336, 9445, 9447, 9448, 9451~9454, 9938, 10057, 10060番)。
人間は完全と言われるほどには決して再生することができない(894, 5122, 6648番)。
悪い霊は再生した者をあえて襲おうとしない(1695番)。
教会で〔教えられている〕義認を信じる者は、再生についてほとんど知らない(5398番)。
再生することができるために、人間に自由がなくてはならない(1937, 1947, 2876, 2881, 3145, 3146, 3158, 4031, 8700番)。
人間は再生によって天界的な自由の中へ導き入れられる(2874, 2875, 2882, 2892番)。
強制によって善と真理の結合はない、したがって再生はない(2875, 2881, 4031, 8700番)。
(再生に関する自由について他のことは、〔この〕「教え」の中の前述自由について参照)

再生する者は、必然的に試練の下に入らなくてはならない(3696, 8403番)。
試練は、善と真理が結合するために、なおまた内なる人と外なる人が結合するために生ずるからである(4248, 4272, 5773番)。

 

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186◀︎目次▶︎188

試 練

187 再生する者だけが霊的な試練を受けます。なぜなら、霊的な試練は善と真理の中にいる者のもとに悪霊によりひき起こされる心の苦痛であるからです。その者のもとにある悪をその悪霊が刺激するとき、試練の不安が生じます。人間はこの起源を知らないので、どこから来るか知りません。

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187◀︎目次▶︎189

188 というのは、人間のだれのもとにも悪霊と善霊がいるからです。悪霊は彼の悪の中に、善霊は彼の善の中にいます。悪霊は近くに来るとき、彼の悪を引き出します、しかし、善霊は反対に彼の善を引き出します。ここから衝突と闘争とがあり、そこから人間に内的な不安があり、それが試練です。ここから、試練は天界からではなく、地獄からひき起こされること、さらにまた教会の信仰からのものであることが明らかです、その信仰とは、神はだれも誘惑されない(試練を受けさせない)ことです。

 

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188◀︎目次▶︎190

189 内的な不安はまた善と真理の中にいない者にもあります、しかし、それは自然的な不安であり、霊的なものではありません――次のことによって識別されます。自然的な不安は世のものを対象とします、しかし、霊的な不安は天界のものを対象とします。

 

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189◀︎目次▶︎191

190 試練では、善が悪を支配するか、または悪が善を支配するかが問題となります。支配しようと欲する悪は自然的な人または外なる人の中にあり、善は霊的な人または内なる人の中にあります。もし悪が勝つなら、その時、自然的な人が支配します。もし善が勝つなら、その時、霊的な人が支配します。

 

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190◀︎目次▶︎192

191 これらの闘争は、みことばからの信仰の真理によって行なわれます――この真理から人間は悪と虚偽に反対して闘わなくてはなりません。もしそれ以外の他のもの〔真理〕から〔闘う〕なら、その他のものの中に主はおられないので、勝ちません。この闘争は信仰の真理によって行なわれるので、それゆえ、善と真理の知識の中にいて、そこから何らかの霊的ないのちを得るまでは、その闘争の中へ入れられません。そのために、人間のもとにその闘争は彼が成人期まで存在しません。

 

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191◀︎目次▶︎193

192 もし人間が屈服するなら、試練の後、彼の状態は前よりも悪くなります。確かにその時、悪は善を支配する力を得、虚偽は真理を支配する力を得るからです。

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192◀︎目次▶︎194

193 今日、仁愛がないので信仰がまれであり、というのは、教会はその終わりにあるからであり、それゆえ、今日、何らかの霊的な試練に入れられる者はほとんどいません。ここから、〔試練が〕何であるか、また何に役立つかほとんど知られていません。

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193◀︎目次▶︎195

194 試練は、悪に対する善が、虚偽に対する真理が支配を得るために役立ちます。なおまた、真理を確信し、それを善に結合させ、同時に、悪とそこからの虚偽を追い払うのに役立ちます。さらにまた内なる霊的な人を開いて、それに自然的な人を従わせます。なおまた自己と世への愛を粉砕し、そこから存在する欲望を支配するのに役立ちます。これらのことが行なわれると、何が真理と善か、また何が虚偽と悪か、その照らしと知覚が人間に生じます。ここから人間に知性と知恵が生じ、それらはその後、日々に増します。

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194◀︎目次▶︎196

195 試練では主おひとりが人間のために闘われます――もし、主おひとりが人間のために闘われ、また彼のために勝たれることを人間が信じないなら、その時、単に外なる試練に入るだけで、それは彼に役立ちません。

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195◀︎目次▶︎197

『天界の秘義』から

196 『天界の秘義』の中に試練について何が記されているか要約した形で述べる前に、それがどこからなのかさらに明らかに知るために、それらについて何らかのものが前もって述べられなくてはならない。人間が心で信じ、それにしたがって生きることを愛している信仰の真理が彼の内部で攻撃されるとき、特に彼がその中に自分の霊的ないのちを置いている愛の善が攻撃されるとき、それは霊的な試練と呼ばれる。その攻撃はいろいろな方法で行なわれる――〔例えば〕思考の中へ、また意志の中へ真理と善に反対する反感を与える流入によって。なおまた人間が犯した悪と考えた虚偽を絶えず浮かび上がらせ、思い出させることによって、そのようにそうしたものの氾濫によって。また同時に、心の内側との、このように天界との伝達を中断する外観によって、そのことによって自分自身の信仰から考え、自分自身の愛から意志することがさえぎられることによって〔行なわれる〕。これらは人間のもとの悪い霊から起こる。それが起るとき、それは内的な不安と良心の苦痛の姿の下に見られる。なぜなら、このようなものは人間にそれが悪い霊からでなく、自分自身の内側から発していると信じさせて、人間の霊的ないのちに働きかけ、苦しめるからである。人間はこれらのことが悪い霊から存在することを知らない。その理由は霊が自分のもとに存在することを、悪い霊が自分の悪の中に、善い霊が自分の善の中にいることを、また自分の思考と情愛の中にいることを知らないからである。これらの試練は身体に加えられる苦痛と結合しているときは最もきびしい。もしその苦痛が長く続くなら、さらにきびしく、神の慈悲を切願しても、〔それでも〕解放はない、ここから絶望〔が起こり〕それは最後の〔ものである〕。

ここで最初に、『天界の秘義』から「人間のもとにいる霊について」何らかのものを引用しよう、試練は彼らからであるから――

それぞれの人間のもとに霊と天使がいる(697, 5846-5866番)。
彼らは人間の思考と情愛の中にいる(2888, 5846, 5848番)。
もし霊と天使が取り去られるなら、人間は生きることができない(2887, 5849, 5854, 5993, 6321番)。
なぜなら、霊と天使によって人間に霊界との伝達と結合があり、それらなしに彼にいのちがないからである(697, 2796, 2886, 2887, 4047, 4048, 5846-5866, 5976-5993番)。
人間のもとの霊は彼の愛の情愛にしたがって換えられる(5851番)。
地獄からの霊は人間のプロプリウム(固有のもの)の愛の中にいる(5852, 5979-5993番)。
霊は人間のすべての記憶の中に入る(5853, 5857, 5859, 5860, 6192, 6193, 6198, 699番)。
天使は〔人間の〕目的の中へ〔働きかけ〕、人間はその目的から、またその目的のために、そのように考え、欲し、行動して、〔これと〕異なっては〔考えも、欲しも、活動もし〕ない(1317, 1645, 5844番)。
人間は霊に見えない、霊も人間に見えないように(5885番)。
ここから、霊は私たちの太陽系の中にあるものを人間を通して見ることができない(1880番)。
霊と天使が人間のもとで彼の思考と情愛の中にいても、それでも人間は考え、欲し、行動する自由の中にいる(5982, 6477, 8209, 8307, 10777番)。
(さらにまた著作『天界と地獄』の中で、そこの「人類と天界の結合」で扱われている、291-302番)。

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196◀︎目次▶︎198

197 試練はどこからか、どんなものか
試練は人間のもとの悪い霊から生ずる。そして彼らは人間が愛し、信じる善と真理とに対する反感を持ち込み、そして彼の行なった悪と彼の考えた虚偽もひき起こす(741, 751, 761, 3927, 4307, 4572, 5036, 6657, 8960番)。
その時、悪い霊はすべての欺瞞と悪意を利用する(6666番)。
試練の中の人間は、地獄の近くにいる(8131番)。
試練の中で二つの力が働く, 主からの内側の力と地獄からの外側からの力であり、人間は中央にいる(8168番)。

試練の中で人間の支配愛が攻撃される(847, 4274番)。
悪い霊は、人間の信仰と愛に属するものだけを、このように人間の霊的ないのちに属するものを襲う。それゆえ、その時、彼の永遠のいのちについて問題とされる(1820番)。
試練の状態は盗賊の間にいる人間の状態に比較される(5246番)。
試練の中で、主からの天使は人間を彼のもとの真理と善の中に保つ、けれども、悪い霊は彼のもとの虚偽と悪の中に保つ。ここから衝突と闘争〔が生ずる〕(4249番)。

試練は、内なるまたは霊的な人と外なるまたは自然的な人との間の闘争である(2183、4256番)。
このように内なる人の快さと外なる人の快さの間の闘争であり, それらはその時、互いに対立している(3928, 8351番)。
〔闘争は〕それらの快さの間の分離のために生ずる(3928番)。
このように一方がもう一方を支配することについて問題とされる(3928, 8961番)。

真理と善とを認め、それらの情愛の中にいないかぎり、だれも誘惑される(試練を受ける)ことができない。そうでなければ闘争はないからである。というのは、自然的なものに働く霊的なものはなく、このように支配についてもないから(3928, 4299番)。
何らかの霊的ないのちを得ている者は誘惑される(試練を受ける) (8963番)。
試練は良心をもつ者のもとに、そのように霊的な愛の中にいる者のもとに存在するようになる。けれどもさらにきびしい試練は知覚をもつ者のもとに、そのように天的な愛の中にいる者のもとに存在するようになる(1668, 8963番)。
死んだ人間は、すなわち、神への信仰と愛の中に、また隣人に対する仁愛の中にいない者は、〔試練の中で〕倒れるので、試練を受けない(270, 4274, 4299, 8964, 8968番)。
それゆえ、今日では霊的な試練を受ける者はわずかである(8965番)。
しかし、将来に生じ、現在あり、過去にあった世のいろいろな理由から、不安をもつ者がいる。その理由は心(アニムス)の弱いことと身体の病気の結合であることがよくある。それは試練の不安ではない(762, 8164番)。
霊的な試練には身体の苦痛と結合していることがよくある、また結合がない〔こともある〕(8164番)。
試練の状態は、悪と虚偽が、そしてまた善と真理についての疑いが持ち込まれるので、不潔で、よごれている(5246番)。
なおまた、試練には憤り、心(アニムス)の苦痛、善でない多くの情愛があるからである(1917, 6829番)。
さらにまた目的についても不明瞭なものと疑いがある(1820, 6829番)。
そしてまた、神の摂理〔と祈り〕を聞かれることについても〔不明瞭なものと疑いがある〕。試練の中で祈りは、その〔試練の〕外にあるかのように、聞かれないからである(8179番)。
また、人間が試練の中にいるとき、断罪〔の状態〕にいるように自分自身に見えるからである(6097番)。
そのようである理由は、人間がその外なる人の中に起こることを明らかに感じ、そのように悪い霊が注ぎ出し、呼び起こしているものを感じ、さらにまた人間がそれにしたがって自分の状態を考える、けれども、その内なる人の中に起こることを感じ、そのように主から天使を通して流入するものを感じるからである。それゆえ、それらから自分の状態を判断することができない(10236, 10240番)。

試練の大部分はその最後のものである絶望にまでも導かれる(1787, 2694, 5279, 5280, 6144, 7147, 7155, 7166, 8165, 8567番)。
その理由(2694番)。
試練それ自体の中にもまた絶望がある、しかし、それは全般的なもので終わる(8567番)。
絶望の中で人間はにがにがしいことを語る、しかし、それらは主に受け入れられない(8165番)。
試練が起こると、最初、真理と虚偽の間に動揺がある(848、857番)。
しかしその後、真理は輝き、明るく、喜ばしいものとなる(3696, 4572, 6829, 8367, 8370番)。

再生する者は、一度でなく、たびたび試練を受ける。より多くの悪と虚偽が遠ざけられなくてはならないからである(8403番)。
何らかの霊的ないのちを得た者は、世で試練を受けないなら、来世で受ける(7122番)。
どのように来世で試練が起るか、またどこで(537-539, 699, 1106-1113, 2694, 4728, 4940-4951, 6119, 6928, 7090, 7122, 7127, 7186, 7317, 7474, 7502, 7541, 7542, 7545, 7768, 7990, 9331, 9763番)。
試練から出てきて、天界へ上げられる者の照らしの状態について、またそこに彼らが受け入れられることについて(2699, 2701, 2704番)。
真理の欠乏による試練、またその時の真理への願望がどんなものか(2682, 8352番)。
来世での幼児の試練がどんなものか、そのことによって彼らは悪に抵抗することを学ぶ(2294番)。
試練、攻撃、荒廃の間の相違がどんなものか(7474番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

197◀︎目次▶︎199

198 試練はどのように、またいつ〔起るか〕
霊的な闘争は、特に信仰の真理によって起る(8962番)。
真理は闘争の最初のものである(1685番)。
霊的な教会の人間は信仰の真理に関して試練を受け、それゆえ、彼らのもとに真理による闘争がある。しかし、天的な教会の人間は愛の善に関して試練を受け、それゆえ、彼らのもとに善による闘争がある(1668, 8963番)。
霊的な教会に属する者の大部分は、純粋な真理から闘争しないで、彼らが自分の教会の教えから真理であると信じているものから闘争する。それでもその教えは善と結合することのできるようなものでなくてはならない(6765番)。

再生する者は試練を受けなくてはならない、また試練なしに再生することはできない(5036、8403番)。
それゆえ、試練は必要である(7090番)。
再生する人間は, 悪が善を支配し、自然的な人が霊的な人を支配しようと試みる(努力する)時、試練にやって来る(6657, 8961番)。
また、善が主要な役割を演じなければならないとき、それにやって来る(4248, 4249, 4256, 8962, 8963番)。
再生する者は最初、静けさの状態へ、次いで、試練へ、その後、平安の静けさの状態へ戻る、それが終わりである(3696番)。

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198◀︎目次▶︎200

199 試練は善に何をもたらすか
試練は何をもたらすか(要約、1692, 1717, 1740, 6144, 8958-8969番)。
試練によって霊的なまたは内なる人に、自然的なまたは外なる人への支配が得られる、したがって善が悪に、真理が虚偽にまさる。善は霊的な人の中に存在する、なぜなら霊的な人は善がなくては存在することはできず、そして悪は自然的な人の中に存在するからである(8961番)。
試練はそれらの間の闘争であるので、支配について問題とされる。すなわち、霊的な人が自然的な人にまさるか、したがって善が悪にまさるか、またはその逆である。したがって主が人間を、または地獄が〔人間を支配するか問題とされる〕(1923, 3928番)。
外なるまたは自然的な人は、試練によって内なるまたは霊的な人に、真理への情愛に対応する真理を受ける(3321, 3928番)。
内なる霊的な人は試練によって開かれ、外なる人に結合する、それは人間がこの両者に関して高揚されて、主を眺めるためである(10685番)。
内なる霊的な人が試練によって開かれ、外なる人に結合する理由は、主は内側から働きかけ、そこから外なる人に流入し、その中で悪を遠ざけ、征服し、外なる人を内なる人に屈服させ、従属させられるからである(10685番)。

試練は、善と真理の結合のために、真理と善に付着している虚偽を追い散らすために存在する(4572番)。
そのように試練によって善は真理と結合する(2272番)。
真理を受け入れる器は試練によってやわらかにされ、善を受ける状態へ導き入れられる(3318番)。
真理と善は、そのように信仰と仁愛に属するものは、試練によって確信され、植え付けられる(8351, 8924, 8966, 8967番)。
また、悪と虚偽が遠ざけられ、このように善と真理の場所が与えられる(7122番)。
試練によって自己と世への愛が粉砕される、それらからすべての悪と虚偽がある(5356番)。
またこのように人間は卑下させられる(8966, 8967番)。
悪と虚偽は試練によって支配され、分離され、遠ざけられる、しかし滅ぼされない(868番)。
試練によって、身体的なものは、またその欲望は、征服される(857、868番)。
人間はこれらによって何が善と真理か、さらにまたその反対の関係から何が悪と虚偽であるか学ぶ(5356番)。
さらにまた自分には悪以外の何ものでもないことを、自分のもとにあるすべての善は主からのもの、その方の慈悲からのものであることを学ぶ(2334番)。

人間が試練の中で征服することによって、悪い霊は彼に対して行なうさらなる力を奪われる(1695, 1717番)。
地獄は試練を受けて征服した者に対してあえて立ち上がらない(2183, 8273番)。
人間が試練の中で征服した後、善と真理の結合から楽しさがある、それでも人間は楽しさがその時ここからであることを知らない(4572, 6829番)。
その時、信仰に属する真理の照らしと愛に属する善の知覚がある(8367, 8370番)。
ここから彼に知性と知恵がある(8966, 8967番)。
試練の後、真理は無限に増大する(6663番)。
そして善が首位を得る、すなわち第一位にあり、真理は第二位にある(5773番)。
また人間は、内なる霊的な人に関して、天使の社会に入れられ、そのように天界へ入れられる(6611番)。

人間が試練を受ける前に、善とともに真理は、彼のもとで主により順序正しく配列される、〔それは〕彼のもとで地獄からひき起される悪と虚偽に抵抗することができるためである(8131番)。
試練では、地獄の霊が悪を意図しているところに、主は善を備えられる(6574番)。
試練の後、主は善ととともに真理を新しく秩序づけ、それを天界の形に配列される(10685番)。
(霊的な人の内的なものは天界の形に配列されている。著作『天界と地獄』の、そこの「天界の形」の章を参照、その形にしたがってそこに結合がある、200212番)。

試練で倒れる者は、断罪〔の状態〕にやって来る。なぜなら、悪と虚偽が征服し、自然的な人が霊的な人にまさり、そしてその後、支配するからである。その時、後の状態は前の状態よりも悪くなる(8165, 8169, 8961番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

199◀︎目次▶︎201

200  試練では主が人間のために闘われる

試練では主おひとりが人間のもとで闘われ、人間は自分自身からはまったく闘わない(1692, 8172, 8175, 8176, 8273番)。
人間は自分自身からは決して悪と虚偽に反対して闘うことはできない。それはすべての地獄に反対することであって、主おひとりを除いてだれも支配し、勝つことができないからである(1692番)。
地獄は人間に反対して闘い、主は人間のために闘われる(8159番)。
人間は真理と善から闘い、そのように自分のもとのそれら〔真理と善〕の知識と情愛から闘う。しかし、人間ではなく、主がそれらによって闘われる(1661番)。
試練の中の人間は、主は不在であると考える、なぜなら、祈りはその時、〔主は〕試練の外〔におられる〕かのように、聞かれないからである、しかしそれでも、主はその時、さらに臨在される(840番)。
試練の中で人間はあたかも自分自身から闘うかのように闘わなければならない、手を拱いて、直接の助けを期待してはならない。しかしそれでも〔助けは〕主からであることを信じなくてはならない(1712, 8179, 8969番)。
そうでなければ、人間は天界のプロプリウムを受けることができない(1937, 1947, 2882, 2883, 2891番)。
そのプロプリウムがどんなものか、それは人間のものではなく、人間のもとにある主のものである(1937, 1947, 2882, 2883, 2891, 8497番)。

もし人間が試練の後でもやはり、主が自分のために闘われて、征服されたことを信じないなら、試練は役立たず、善の何ものも生じさせない(8969番)。
働きに功績を置く者は、悪に対して闘うことができない、なぜなら、自分自身のプロプリウムから闘って、主が自分のために闘われることを許さないから(9978番)。
自分は試練によって天界に値すると信じる者は、ほとんど救われることができない(2273番)。

主は誘惑するのではなく、解放し、善を導き入れられる(2768番)。
試練は神性からのように見える、そのとき、それでも〔そうでは〕ない(4299番)。
「主の祈り」の中の「私たちを試練に導き入れないでください」は、どのように理解されるべきか(経験から、1875番)。
主は、人間が許可について抱くような考えにしたがって、試練を許すことを是認されるのではない(2768番)。

すべての試練に自由が存在する、それでもそのように見えない。しかし、その自由は主から人間のもとの内部にある。またそれゆえ、彼は闘い、征服して、征服されないことを欲するが、これらは自由なしに行なわれない(1937, 1947, 2881番)。
主は内なる人に刻まれている真理と善への情愛によってそのことを行なわれる、人間は〔これを〕知らない(5044番)。
なぜなら、すべての自由は情愛または愛に属し、その性質にしたがっているから(2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

200◀︎目次▶︎202

201 主の試練について
主はすべての試練よりも最もきびしい、恐るべき試練を受けたが、それはみことばの文字通りの意味にはわずかしか述べられていない、内意では多くのもの〔が述べられている〕(1663, 1668, 1787, 2776, 2786, 2795, 2814, 9528番)。
主は全人類に対する神的愛から闘われた(1690, 1691, 1812, 1813, 1820番)。
主の愛は人類の救いであった(1820番)。
主は〔ご自分の〕プロプリウムの力から闘われた(1692, 1813, 9937番)。
主おひとりが試練とプロプリウムの力からの勝利を通して「公正と功績」になられた(1813, 2025~2027, 9715, 9809, 10019番)。
主は試練によって、受胎からご自分の中に存在した神性そのものをご自身の人間性に結合され、またそれを、〔主が〕人間を試練によって霊的なものにされるように、神的なものにされた(1725, 1729, 1733, 1737, 3318, 3381, 3382, 4286番)。
主の試練もまたその終わりでは絶望を伴った(1787番)。
主はご自身に許された試練によって地獄を征服し、その地獄と天界のすべてのものを秩序づけ、同時にご自分の人間性を栄化された(1737, 4287, 9315, 9528, 9937番)。
主おひとりがすべての地獄に反対して闘われた(8273番)。
主はそれゆえご自分に試練を許された(2816, 4295番)。

主は、神性に関して誘惑される(試練を受ける)ことはできなかった、地獄は神性を襲うことはできないからである。それゆえ、主は誘惑されることができるような人間性を母からまとわれた(1414, 1444, 1573, 5041, 5157, 7193, 9315番)。
試練とその勝利によって、主は母から遺伝したものすべてを追い払い、彼女からの人間性を脱ぎ、ついにもはやその息子ではなかった(2159, 2574, 2649, 3036, 10830番)。
受胎から主の中に存在されたエホバは、試練の中で不在であるかのように見られた(1815番)。
それは主の卑下の状態であった(1785, 1999, 2159, 6866番)。
主の最後の試練と勝利とは、ゲッセマネに、また十字架にあった、〔主は〕それによって地獄を完全に征服し、ご自分の人間性を神的なものにされた(2776, 2803, 2813, 2814, 10655, 10659, 10828番)。

「四十日の間、パンを食べず、水も飲まないこと」は、試練の完全な状態を意味する(10686番)。
「四十年」、「四十カ月」、または「四十日」は、始めから終わりまでの試練の完全な状態を意味する。この状態は「四十日」の洪水の継続によって、「四十日」のシナイ山上でのモーセの滞在によって、「四十年」の荒野でのイスラエルの子たちの滞在によって、「四十日」の荒野での主の試練によって意味される(730, 862, 2272, 2273, 8098番)。

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201◀︎目次▶︎203

洗 礼

202 洗礼は人間が教会に属していることのしるしとして、また人間が再生しなくてはならないことの記念として制定されました。洗礼で洗うことは霊的に洗うこと以外の何ものでもなく、それは再生であるからです。

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202◀︎目次▶︎204

203 再生することができることを証します。なぜなら、教会の中で、再生するようにされる主が認められており、また教会には、みことばがあり、そこに信仰の真理が存在して、それによって再生が行なわれるからです。

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203◀︎目次▶︎205

204 このことを主は「ヨハネ福音書」で教えられています――

「水と霊から生まれる者でなくては、神の国に入ることはできません」(3:5)。

霊的な意味で、「水」はみことばからの信仰の真理であり、「霊」はそれにしたがった生活であり、「生まれること」はそれによって再生することです。

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204◀︎目次▶︎206

205 再生するすべての者は、悪と虚偽に対する霊的な争闘である試練もうけるので、それゆえ、洗礼の水によって試練もまた意味されます。

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205◀︎目次▶︎207

206 洗礼はこれらのことのしるしと記念であるので、それゆえ、人間は幼児のときに洗礼を授かることができ、もしその時でないなら、成人後に〔授かることができます〕。

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206◀︎目次▶︎208

207 そこで、洗礼を授かった者は、洗礼それ自体は信仰も救いも与えませんが、それは、もし彼らが再生するなら、信仰を受け入れること、救われることを証しすることを知らなくてはなりません。

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207◀︎目次▶︎209

208 ここから、「マルコ福音書」の主のことばによって何が意味されるか知ることができます――

「信じて洗礼を授かる者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(16:16)。

「信じる者」は主を認め、みことばを通してその方から神的な真理を受け入れる者です。「洗礼を授かる者」は主からのその真理によって再生する者です。

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208◀︎目次▶︎210

『天界の秘義』から

209 洗礼は、みことばからの信仰の真理を通して主により再生することを意味する(4255, 5120, 9088, 10239, 10386-10388, 10392番)。
洗礼は、人間が教会に属しているしるしであり、そこには主が認められ、その方から再生がある、またそこにはみことばが存在し、そこから信仰の真理によって〔再生がある〕 (10386-10388番)。
洗礼は信仰も救いも与えない、しかし〔信仰と救いが〕再生した者により受け入れられることを証しする(10391番)。

古代教会とイスラエル教会では、洗うことは悪と虚偽から清められることを表象し、ここから〔そのことを〕意味した(3147, 9088, 10237, 10239番)。
「衣服を洗うこと」は、虚偽から理解力を清めることを意味した(5954番)。
「足を洗うこと」は、人間の自然的なものを清めることを意味した(3147, 10241番)。
主による「弟子たちの足を洗うこと」によって何が意味されるか説明されている(10243番)。

「水」は信仰の真理を意味する(28, 2702, 3058, 5668, 8568, 10238番)。
「泉」と「生きた水の井戸」は主から発する信仰の真理を、したがってみことばを意味する(3424番)。
「パン」と「水」は、愛の善と信仰の真理のすべてを意味する(4976, 9323番)。
「霊」は真理のいのちを、すなわち、信仰のいのちを意味する(5222, 9281, 9818番)。
「霊」と「肉」は、何を〔意味するか〕、「霊」は主からのいのちを、「肉」は人間からのいのちを意味する(10283番)。
ここから主の次のことばによって何が意味されるか明らかである――

「水と霊から生まれる者でなくては、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)。

すなわち、人間は信仰の真理とそれらにしたがった生活によって再生しないなら、救われることはできない(10240番)。
すべての再生は信仰の真理とそれにしたがった生活によって行なわれる(1904, 2046, 9088, 9959, 10028番)。

ヨルダンの水に浸ることによって全身を洗われることは、洗礼と同様に再生そのものを意味した(9088, 10239番)。
「ヨルダンの水」によって何が、また「ヨルダン」によって何が意味されたか(1585, 4255番)。

「洪水」と「水の反乱」は、試練を意味する(660, 705, 739, 756, 790, 5725, 6853番)。
同様に「洗礼」〔は試練を意味する〕(5120, 10389番)。
どのように洗礼は天界から表象されたか(2299番)。

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209◀︎目次▶︎211

聖 餐

210 聖餐は、そのことによって教会が天界と結合し、そのように主と結合するために、主により定められました。それゆえ、それは礼拝の最も聖なるものです。

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210◀︎目次▶︎212

211 しかし、それによってどのように結合が行なわれるかは、みことばの内意または霊的な意味について知らない者には理解されません、なぜなら、彼らは文字通りの意味である外なる意味を越えて考えないからです。「肉体」と「血」が何を、「パン」と「ブドウ酒」が何を、また「食べること」が何を意味するか、みことばの内意または霊的な意味から知られます。

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211◀︎目次▶︎213

212 霊的な意味では、主の「身体」または「肉」は、同様に「パン」は愛の善です。そして主の「血」、同様に「ぶどう酒」は信仰の善であり、「食べること」は自分のものとすることと結合です。聖餐に与かる人間のもとにいる天使はそれらを異なって理解していません。というのは、彼らはすべてのものを霊的に知覚するからです。ここから、愛の聖なるものと信仰の聖なるものとは、その時、天使から人間のもとヘ、そのように主から天界を通って流入し、そこから結合があります。

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212◀︎目次▶︎214

213 ここから、人間が身体であるパンをとるとき、主からのその方への愛の善によって主と結合し、血であるブドウ酒をとるとき、主からのその方への信仰の善によって主に結合することが明らかです。しかし、聖餐によって主と結合することは、その方からの主への愛と信仰との善にいる者たちのもとにだけにあることを知らなくてはなりません。これらの者のもとに聖餐による〔主との〕結合があり、その他の者のもとには〔主の〕臨在がありますが、結合はありません。

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213◀︎目次▶︎215

214 さらに、聖餐はイスラエル教会に定められた神礼拝のすべてを含み、包含します。というのは、その教会の礼拝を特に成り立たせた全焼のいけにえといけにえは、一つの言葉で「パン」と呼ばれたからです――ここからまた聖餐はそれを完成するものでした。

『天界の秘義』から

聖餐でその個々のものが何を意味するか知られないなら、そこに何が含まれるか知られることができないので、なぜなら、それらは霊的なものに対応しているから、それゆえ「身体」と「肉」が何を、「パン」が何を、「ブドウ酒」が何を、「食べること」と「飲むこと」が何を意味するか提示されなくてはならない。なおまた、さらにイスラエル教会の礼拝を特に成り立たせたいけにえについても、そのいけにえが「パン」と呼ばれたことも。

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214◀︎目次▶︎216

215 晩餐について
「昼食」と「晩餐」は、愛による交わりを意味した(3596, 3832, 4745, 5161, 7996番)。
「過越の祭り」の晩餐は、天界における交わりを意味した(7836, 7997, 8001番)。
「種を入れないパンの祭り」〔「出エジプト記」23:15〕または「過越の祭り」は、主により断罪から開放されることを意味した(7093, 7867, 9286-9292, 10655番)。
最も内なる意味では、主の人間性の栄化の記念である、そこから解放があるからである(10655番)。

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215◀︎目次▶︎217

216 身体と肉について
主の「肉」は、その方の神的な愛からの神的な善を意味する。それはその方の神的人間性に属するものである(3813, 7850, 9127, 10283番)。
〔主の〕「身体」も同様である(2343, 3735, 6135番)。
全般的に「肉」は、人間の意志を、そのように固有のものを意味するが、本質的に眺めれば悪である。しかし、それが主により生かされるとき、善を意味する(148, 149, 780, 999, 3813, 8409, 10283番)。
ここから、みことばの中で「肉」は人間全体であり、すべての人間である(574, 1050, 10283番)。

ここに、また以下に、意味すると述べられる理由は対応するからである。というのは、何でも対応するものは、意味するから(2896, 2979, 2987, 2989, 3002, 3225番を参照)。
みことばは対応そのもので書かれ、ここから、その内なるまたは霊的な意味がある。対応の知識なしにそれが何であるか、ほとんどそれが存在していることすら知られることはできない(3131, 3472-3485, 8615, 10687番)。
それゆえ、みことばによって天界は教会の人間と結合している(10687番)。
(このことについてさらに多くのものは著作『天界と地獄』303-310番参照。そこに、みことばによる天界と教会の人間の結合について扱われている。)

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216◀︎目次▶︎218

217 血について
主の「血」は、その方の神的な愛からの神的な善から発出する神的な真理を意味する(4735, 6978, 7317, 7326, 7846, 7850, 7877, 9127, 9393, 10026, 10033, 10152, 10210番)。
祭壇の周囲とその土台の上に振りかけられた「血」は、主の中の神的な真理と神的な善との結合を意味した(10047番)。
「ブドウの血」は、仁愛の善からの信仰の真理を意味する(6378番)。
「ブドウ」と「ブドウの房」は、仁愛の善である霊的な善を意味する(5117番)。
「血を流すこと」は、神的な真理に暴力を加えることである(374, 1005, 4735, 5476, 9127番)。
主の脇腹から出た「血と水」によって、何が意味されるか(9127番)。
主が「ご自分の血」によって人間をあがなわれることによって、何が〔意味されるか〕(10152番)。

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217◀︎目次▶︎219

218 パンについて
「パン」は、それが主について〔述べられている〕ところで、主の神的な愛からの神的な善とそれを食べる人間の相互のものを意味する(2165, 2177, 3478, 3735, 3813, 4211, 4217, 4735, 4976, 9323, 9545番)。
「パン」は、全般的にすべての食物を含み、意味する(2165, 6118番)。
「食物」は、人間の霊的な生活〔いのち〕を養うすべてのものを意味する(4976, 5147, 5915, 6277, 8418番)。
このように「パン」は、天的なまた霊的なすべての食物を意味する(276, 680, 2165, 2177, 3478, 6118, 8410番)。
このように主のことばにしたがって、「神の口から出ているすべてのもの」である(「マタイ」4・4)、(681番)。
「パン」は、全般的に愛の善を意味する(2165, 2177, 10686番)。
同様のものをパンを作る「小麦」が〔意味する〕(3941, 7605番)。
みことばの中で「パンと水」が述べられているところで、愛の善と信仰の真理が意味される(9323番)。
パンを裂くことは、古代教会では愛の相互のものの表象であった(5405番)。
霊的な食物は、知識、知性、知恵である。したがって善と真理〔である〕、後者は前者から〔であるから〕(3114, 4459, 4792, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 5582, 5588, 5655, 8562, 9003番)。
またそれらは心を養うからである(4459, 5293, 5576, 6277, 8418番)。
食物による支えは、霊的な栄養であり、そして主からの善と真理の流入である(4976, 5915, 6277番)。

幕屋の机の上の「パン」は、主の神的な愛からの神的な善を意味した(3478, 9545番)。
菓子とせんべいであったいけにえの「穀物のささげ物」は、愛の善からの礼拝を意味した(4581, 10079, 10137番)。
いろいろな「穀物のささげ物」は、特に何を意味したか(7978, 9992-9994, 10079番)。

(古代人はパンと言うとき、全般的にすべての食物を意味したことは、「創世記」43:16, 31, 「出エジプト記」18:12, 「士師記」13:15, 16, 「サムエル記Ⅰ」14:28, 29, 20:24, 27, 「サムエル記Ⅱ」9:7, 10, 「列王記Ⅰ」4:22, 23, 「列王記Ⅱ」25:29参照。)

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218◀︎目次▶︎220

219 ブドウ酒について
「ブドウ酒」は、それが主について〔述べられている〕ところで、「血」と同様なものを、その方の神的な善から発出する神的な真理を意味する(1071, 1798, 6377番)。
「ブドウ酒」は、全般的に仁愛の善を意味する(6377番)。
「ブドウ汁」は、自然的な人間の中の善からの真理を意味する(3580番)。
ブドウ酒は「ブドウの血」と呼ばれた(6378番)。
「ブドウ畑」は、真理に関する教会を意味する(3220, 9139番)。
いけにえの中の「注ぎのささげ物」は、ブドウ酒であって、霊的な善を意味した。これは聖なる真理である(1072番)。
主おひとりが聖であり、ここからすべての聖なるものはその方からである(9229, 9680, 10359, 10360番)。
主から発出する神的な真理は、みことばの中で「聖なるもの」と呼ばれる(6788, 8302, 9229, 9820, 10361番)。

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219◀︎目次▶︎221

220 食べることと飲むことについて
「食べること」は、愛と仁愛によって専有され、結合されることを意味する(2187, 2343, 3168, 3513, 5643番)。
そこから交わりに加えられることを意味する(8001番)。
「食べること」は、善の専有と結合について言われ、「飲むこと」は真理の専有と結合について言われる(3168, 3513, 3832, 9412番)。
「主の王国で食べ、飲むこと」は何を意味するか(3832番)。
ここから、みことばの中の「飢えをもつこと」と「飢えること」は、情愛から善と真理とを欲することを意味する(4958, 10227番)。

天使は、霊界にいるので、ここに述べられていることを、内なるまたは霊的な意味にしたがってしか理解しない(10521番)。
ここから、うやうやしい態度で聖餐に与かるとき、天界から聖なるものが教会の人間のもとに流入する(6789番)。
また、ここから主との結合がある(3464, 3735, 5915, 10519, 10521, 10522番)。

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220◀︎目次▶︎222

221 いけにえについて
「全焼のいけにえ」と「いけにえ」は、愛の善からまた信仰の真理からの礼拝のすべてのものを意味した(923, 6905, 8680, 8936, 10042番)。
「全焼のいけにえ」と「いけにえ」は、それらから礼拝がある教会の内なるものである天界の神的なものを意味した(2180, 2805, 2807, 2830, 3519番)――〔そこには〕礼拝のいろいろなものにしたがって、変化と相違があった(2805, 6905, 8936番)。
それゆえ、多くの種類のいけにえといろいろな手順があり、そしてまた、それらにいろいろな獣が〔用いられた〕(2830, 9391, 9990番)。
それらのものが全般的に意味したいろいろなものは、その個々のものから内なる意味を解き開くことによって知ることができる(10042番)。
いけにえにされた「獣」が、特に何を意味したか(10042番)。
いけにえの儀式と手順の中に天界のアルカナが含まれている(10057番)。
全般的に主の人間性の栄化のアルカナが含まれている。関連する意味では、悪と虚偽から人間が再生し、清められることのアルカナが含まれている。それゆえ、いろいろな罪と有罪、また清められることのためであった(9990, 10022, 10042, 10053, 10057番)。
いけにえとされた獣に「手を置く」ことによって、何が意味されるか(10023番)。
全焼のいけにえで屠られた獣の下の部分がその上の部分の下に置かれること」によって、何が(10051番)。
さらにまたその時、焼かれた「穀物のささげ物」によって、何が(10079番)。
「注ぎのささげ物」によって、何が(4581, 10137番)。
さらにまた利用された「塩」によって、何が(10300番)。
「祭壇」とそのすべてのものによって、何が(921, 2777, 2784, 2811, 2812, 4489, 4541, 8935, 8940, 9388, 9389, 9714, 9726, 9963, 9964, 10028, 10123, 10151, 10242, 10245, 10344番)。
「祭壇の火」によって、何が(934, 6314, 6832番)。
「いけにえからの宴会」によって、何が(2187, 8682番)。
いけにえではなく、仁愛と信仰が命じられた――このように〔いけにえは〕単に許されたのである(みことばから示されている、922, 2180番)。
なぜ許されたか(2180, 2818番)。

小羊、ヤギ、羊、小ヤギ、雄ヤギ、雄牛からなされた全焼のいけにえといけにえは一つの言葉で「パン」と呼ばれたことは以下の個所から明らかにすることができる――

 「祭司はそれを祭壇の上で焼かなくてはならない、〔それは〕エホバへの火によるパン〔のささげ物〕である」(レビ記3:11, 16)。
 「アロンの息子たちは自分の神に聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。エホバへの火によるささげ物、自分の神のパンをささげるからである。……彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。……アロンの裔で、身に汚点のある者は自分の神のパンをささげに近づいてはならない」(レビ記21:6, 8, 17:21)。
 「イスラエルの子らに命じて、彼らに言え。わたしのささげ物、わたしのパン、憩いの香りのための火によるささげ物を、その定まった時、わたしにささげなくてはならない」(民数記28:2)。
 「不潔な物に触れた者は聖なるものを食べてはならない。自分の肉を水で洗わなくてはならない……そしてその後、その聖なるものを食べなくてはならない、それが彼のパンであるからである」(レビ記22:6, 7)。
 「わたしの祭壇に汚れたパンを捧げる者」(マラキ1:7)。

それでここから、前に述べたこと(214番)が言える。すなわち、「聖餐はイスラエル教会に定められた神礼拝のすべてを含み、包含する。というのは、その教会の礼拝を特に成り立たせた全焼のいけにえといけにとは、一つの言葉で「パン」と呼ばれたからであり、ここからまた聖餐はそれを完成するものであった」。

そこで、これらのすべてのことから「ヨハネ福音書」のパンによって何が意味されるか見ることができる――

「イエスは彼らに言われた。まことに、まことに、わたしはあなたがたに告げます。モーセは彼らに天からのパンを与えませんでした。しかし、わたしの父はあなたがたに天からの真のパンを与えられます。なぜなら、神のパンは天から降って世にいのちを与える方であるからです。彼らは言った。主よ、私たちに常にそのパンを与えてください。イエスは彼らに言われた。わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は飢えず、わたしを信じる者は決して渇きません。……わたしを信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。……これは天から降ったパンです。だれかがそれから食べて死なないためです。わたしは天から降った生きたパンです。もしだれかがこのパンから食べるなら、永遠に生きます」(6:31-35, 47-51)。

これらから、「パン」は主から発出するすべての善であり、なぜなら、主ご自身はご自分の善の中におられるから――このように聖餐の「パンとブドウ酒」は愛と信仰の善からの主の礼拝のすべてであることが明らかである。

新しいエルサレムとその天界の教え

221◀︎目次▶︎223

222 これらに『天界の秘義』からいくらか付け加える(9127番)。

「みことばの内なるまたは霊的な意味を何も知らない者は、みことばの中の「肉と血」によって、肉と血が意味されること以外に何も知らない。しかし、内なるまたは霊的な意味では、身体のいのちについてではなく、人間の霊魂のいのちについて、すなわち、人間が永遠に生きるように霊的ないのちについて扱われている。このいのちは、みことばの文字通りの意味の中に身体のいのちに属するようなものによって、すなわち、「肉と血」によって記述されている。また人間の霊的ないのちは愛の善と信仰の真理とによって存続しているので、それゆえ、みことばの内意では、愛の善は「肉」によって、信仰の真理は「血」によって意味される。それらのことが天界で「肉と血」によって、また「パンとブドウ酒」によって意味される。なぜなら、そこでは「パン」によって「肉」とまったく同様のものが、「ぶどう酒」によって「血」とまったく同様のものが意味されるからである。しかし、霊的な人間でない者はこのことを理解しない。そこで、そうした者は単に、聖餐とみことばは主から発するので、その中には聖なるものがあることだけを信じて、自分の信仰にとどまる。その聖なるものはどこにあるか知らないでいる、それでも、何らかの内的な知覚を授けられている者は、以下の個所で「肉」によって肉が、「血」によって血が意味されるか、考量する――「黙示録」に、

「私は天使が太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫んで、天の真ん中を飛ぶすべての鳥に言った。神の大いなる晩餐に集まり、王たちの肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、自由な者と奴隷、小さな者と大きな者の肉を食べよ」(19:17, 18)。

「肉」、「王」、「千人隊長」、「勇者」、「馬」、「それに乗る者」、「自由な者」、「奴隷」が内意で何を意味するか知らないなら、いったいだれがこれらを理解するのか。また「エゼキエル書」に、

「神エホバはこう語られる。あらゆる天の鳥とあらゆる野の獣に言え。集まって来よ。わたしがあなたがたのためにいけにえとしたわたしのいけにえに、イスラエルの山の上の大きないけにえに、回りから集まって、肉を食べ、血を飲め。勇者たちの肉を食べ、地の君たちの血を飲み、……わたしがあなたがたのためにいけにえとしたいけにえを、飽きるほど脂肪を食べ、酔うまでも血を飲め。あなたがたはわたしの食卓で、馬と戦車に、勇者に、すべての戦士に飽きる。……こうしてわたしは諸国民の間にわたしの栄光を与えよう」(39:17-21)。

ここには、主の御国へすべての者を呼び集めることについて、特に異邦人のもとに教会を設立することについて扱われている。「肉を食べることと血を飲むこと」によって神的な善と神的な真理を、したがって、主の神的人間性から発出する聖なるものを自分に専有することが意味される。例えば、「勇者たちの肉を食べ」、「地の君たちの血を飲む」、また「酔うまでも血を飲む」、さらに「馬、戦車、勇者たち、すべての戦士に飽きる」と言われるとき、だれが「肉」によって肉が、「血」によって血が意味されないことを見ることができないか。(霊的な意味で「天の鳥」と「野の獣」によって何が意味されるかは著作『天界と地獄』110番とそこの注参照)

さて、ここで、主が「ヨハネ福音書」でご自分の肉とご自分の血について述べられたことを考慮しよう、

「わたしが与えようとするパンはわたしの肉です。……まことに、まことに、わたしはあなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたの中にいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持ちます。わたしはその者を最後の日によみがえらせます。わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしはその中にとどります。……これは天から降ったパンです」(6:50-58)。

主の「肉」は神的な善であり、「血」は神的な真理であり、両方とも主からのものであることは、これらが人間の霊的ないのちを養うことから知ることができる。ここから言われた、

「わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物です」

また人間は神的な善と真理とによって主に結合するので、さらにまた言われた、

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持ちます」
 「彼はわたしの中に、わたしは彼の中にとどまります」

また同章の前の個所には――

「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちへと継続する食物のために働きなさい」(27節)。

「主の中にとどまること」は、主への愛の中にいることであることを主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられている(15:2-12)。

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222◀︎目次▶︎224

復 活 

223 人間は自分の内なるものに関して死ぬことができないように創造されています。なぜなら、彼は神を信じ、さらにまた神を愛し、このように信仰と愛によって神と結合することができるからです。神と結合することは永遠に生きることです。

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223◀︎目次▶︎225

224 この内なるものは生まれるすべての人間のもとに存在します。彼の外なるものは、これによって信仰と愛に属するものを実現するものです。内なるものは霊と呼ばれ、外なるものは身体と呼ばれます。身体と呼ばれる外なるものは、自然界での役立ちに適しています――これは人間が死ぬと捨てられます。しかし、霊と呼ばれる内なるものは、霊界での役立ちに適しています――これは死にません。この内なるものは、もしその人間が世で善いものであったなら、その時、善霊と天使です。しかし、もしその人間が世で悪いものであったなら、悪霊です。

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224◀︎目次▶︎226

225 人間の霊は肉体の死後、霊界で完全に世でもっていたような人間の形で見られます。さらにまた〔その霊は〕世にいたときのように見、聞き、話し、感じる能力を楽しみます。また世にいたときのように考え、欲し、行動する能力を授けられます。一言でいえば、彼は世で着ていた粗雑な身体を除いては、すべてと個々のものに関して人間です。死ぬとき、それ〔身体〕を後に残して、もう再び着ることはありません。

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225◀︎目次▶︎227

226 このいのち(生活)の継続が復活によって意味されるものです。人間は、最後の審判以前に、さらにまた目に見える世界のすべてのものが滅びる時以前に、よみがえらないと信じていますが、それはみことばを理解していないからです。また感覚的な人間は自分のいのちを身体の中に置いて、これが生き返らないかぎり、人間について事は終わりであると信じているからです。

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226◀︎目次▶︎228

227 死後、人間の生活(いのち)は彼の愛の生活と彼の信仰の生活です。ここから彼が世に生きていたときの彼の愛がどんなものか、信仰がどんなものであったかによって、そのように彼の生活は永遠にとどまります。すべてにまさって自己と世を愛した者のもとには、地獄の生活があり、すべてにまさって神を愛し、自分自身のように隣人を愛した者のもとには、天界の生活があります――後者は信仰をもつ者です、けれども、前者は信仰をもたない者です。天界の生活は永遠の生活と呼ばれ、地獄の生活は霊的な死と呼ばれます。

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227◀︎目次▶︎229

228 人間は死後に生きることが、みことばに教えられています、例えば――

「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神です」(マタイ22:32)。

死後、ラザロは天に引き上げられましたが、しかし、富んだ者は地獄に投げ込まれました(ルカ16:22, 23以下)。アブラハム、イサク、ヤコブはそこにいます(マタイ8:11, 22:31, 32, ルカ20:37, 38)。
イエスは強盗に言われました――

「今日あなたはわたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)。

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228◀︎目次▶︎230

229 『天界の秘義』からここに何らかの記事を引用することは割愛します。復活と死後の人間のいのち(生活)に関係した事柄が『天界と地獄』の著作に十分に示されているからです。そこで、そのことは同書の次の章に見ることができます――

(1)それぞれの人間は自分の内的なものに関して霊である(432-444番)。
(2)人間は死からよみがえり、永遠のいのちに入る(445-452番)。
(3)死後、人間は完全な人間の形をしている(453-460番)。
(4)死後、人間は世でもっていたすべての感覚、記憶、思考、情愛をもち、自分の地的な身体を除いて、何もあとに残さない(461-469番)。
(5)死後、人間は世で生活したように生きる(470-484番)。
(6)その者のいのちの快さは、対応するものに変わる(485-490番)。
(7)人間の死後の最初の状態(491-498番)。
(8)人間の死後の第二の状態(499-511番)。
(9)人間の死後の第三の状態。それは天界に行く者の教育の状態である(512-520番)。
(10)天界と地獄は人類から存在する(311-317番)。

最後の審判について(そのことについては前の226番にも述べた)〔その時〕世の破壊が起こらないことは、小著『最後の審判とバビロンの滅亡』の始めから終わりまでを参照。

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229◀︎目次▶︎231

天界と地獄 

230 人間の霊のいのちをつくるものが2つあります――愛と信仰です。愛は彼の意志のいのちを、信仰は彼の理解力のいのちをつくります。善への愛とそこからの真理への信仰は天界のいのちを、悪への愛とそこからの虚偽への信仰は地獄のいのちをつくります。

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230◀︎目次▶︎232

231 主への愛と隣人に対する愛は天界をつくり、その愛からいのちを得ているかぎり信仰もまた天界をつくります。愛とそこからの信仰の両方とも主からのものであるので、ここから主が天界をつくられていることが明らかです。

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231◀︎目次▶︎233

232 天界は、それぞれの者のもとに、主からの愛と信仰の受け入れにしたがって存在します。世に生きる間に主から天界を受け入れる者は、死後、天界に行きます。

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232◀︎目次▶︎234

233 主から天界を受け入れる者は、自分自身の中に天界をもつ者です。なぜなら、天界は人間の中にあるからです。主もまた教えられています――

「彼らは、『神の国は、見よ、ここにある、見よ、あそこにある』と言いません。見よ、神の国はあなたがたの中にあるからです」(ルカ17:21)。

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233◀︎目次▶︎235

234 人間のもとで天界は彼の内なるものの中にあり、したがって彼が愛と信仰から欲し、考えることの中にあり、ここから愛と信仰から行動し、語り、外なるものの中にあります。けれども、天界は内なるもののない人間の外なるものの中にはありません。なぜなら、すべての偽善者はよく行動し、よく語ることもできますが、よく意志し、よく考えることはできないからです。

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234◀︎目次▶︎236

235 人間は来世に行くとき――そのことは死後、直ちに起ります――天界が彼の中にあるかどうかが明らかになります。けれども、世に生きている間は、明らかではありません――世では外なるものが見えて、内なるものは見えません、しかし、来世では、人間はその時、その霊に関して生きるので、内なるものが明らかになるからです。

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235◀︎目次▶︎237

236 天界の楽しさとも呼ばれる永遠の幸福は、主への愛と信仰の中にいる者に主から存在します。この愛と信仰は、本質的にその楽しさをもちます――自分自身の中に天界をもつ人間は、死後、その中へ入ります。それまでは、それは彼の内なるものの中に隠れています。天界ではすべての善を共有します。すべての者の平安、知性、知恵、幸福は、そこのだれにも伝えられています、しかしそれでも、それぞれの者に主からの愛と信仰を受け入れるにしたがって伝えられています――ここから天界の平安、知性、知恵、幸福がどれほど大きいか明らかです。

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236◀︎目次▶︎238

237 主への愛と隣人に対する愛が人間のもとに天界のいのちをつくるように、そのように自己愛と世俗愛が支配する時、人間のもとに地獄のいのちをつくります。なぜなら、後者の愛は前者の愛に対立しているからです――それゆえ、自己愛と世俗愛に支配されている者のもとに、天界からは何ものも受け入れられることはできず、その受け入れられるものは地獄からのものです。人間の愛するどんなものも、信ずるどんなものも、天界からかまたは地獄から発しているからです。

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237◀︎目次▶︎239

238 自己愛と世俗愛が支配している者は、何が天界か、何が天界の幸福か知りません、幸福はそれら〔自己と世へ〕の愛以外の愛の中に与えられることは彼らに信じられないもののように見えます。それでも天界の幸福は、目的とするそれらの愛が遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ入ってきます。それらが遠ざけられてそれに続く幸福は、人間のあらゆる理解力を越えるほど大きいものです。

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238◀︎目次▶︎240

239 人間のいのち(生活)は死後、変わることができません。それはその時これまであったようにとどまります。なぜなら、人間の霊の全体は彼の愛がどんなものであるかによっており、地獄の愛が天界の愛に移されることは、対立しているので、できないからです。このことが地獄の富んだ者へのアブラハムのことばによって意味されています――

「私たちとおまえたちとの間には大きな淵がある。それでおまえたちのもとへ渡ろうと欲する者も渡ることはできず、またそこから私たちのもとへ渡ることもできない」(ルカ16:26)。

ここから、地獄に行く者はそこに永遠にとどまり、天界に行く者はそこに永遠にとどまることが明らかです。

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239◀︎目次▶︎241

240 天界と地獄については一巻の著作に扱われており、そこには『天界の秘義』の中に含まれているものについてもまた引用されているので、それゆえ、ここに多くのものを付け加える必要はありません。

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221◀︎目次▶︎223

教 会

241 人間の中に天界をつくるものは、これは教会もつくります。なぜなら、愛と信仰が天界をつくるように、そのように愛と信仰は教会もまたつくるからです――そこで天界について前に述べたことから教会とは何かが明らかです。

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241◀︎目次▶︎243

242 教会は、そこに主が認められ、そこに、みことばが存在する、と言われます。なぜなら、教会の本質的なものは、主から発する主への愛と信仰であり、みことばは人間が主から愛と信仰とを受けるためには、どのように生きるべきかを教えるからです。

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242◀︎目次▶︎244

243 教会が存在するためには、みことばからの教えが存在しなくてはなりません、教えがなくて、みことばは理解されないからです。しかし、人間のもとに教会をつくるのは教えだけでなく、それにしたがった生活です。ここから人間のもとに教会をつくるのは信仰だけでなく、仁愛である信仰の生活である、といえます。純粋な教えは仁愛と信仰とがいっしょの教えであり、仁愛のない信仰の教えではありません、なぜなら、仁愛と信仰とがいっしょの教えは生活の教えですが、仁愛の教えのない信仰の教えは生活の教えではないからです。

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243◀︎目次▶︎245

244 教会の外にいてもひとりの神を認め、自分の宗教にしたがって生き、隣人に対してある種の仁愛に生きる者は、教会に属する者たちと交わっています。神を信じて、善く生きる者は、だれも断罪されないからです――ここから、全世界のどこにも主の教会があることが明らかです。たとえ特に、主が認められるところ、みことばのあるところに〔教会が〕存在するにしてもです。

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244◀︎目次▶︎246

245 自分のもとに教会が存在するすべての者は救われます。しかし、自分のもとに教会が存在しないすべての者は罪に定められます。

新しいエルサレムとその天界の教え

245◀︎目次▶︎247

『天界の秘義』から

246 教会は、そこにみことばがあり、それによって主が知られ、このように神的な真理が啓示されているところに、特に存在する(3857, 10761番)。
しかしそれでも、みことばがあり、主が知られているところに生まれた者が教会に属するのではなく、みことばからの真理によって主により再生する者が、すなわち、仁愛の生活に生きる者が属する(6637, 10143, 10153, 10578, 10645, 10829番)。
教会に属する者、すなわち自分の中に教会がある者は、真理のために真理を求める情愛の中にいる。すなわち、彼らは真理をそれが真理であるので愛し、また自分がその中に生まれた教会の教えは真であるかないかを、みことばから調べる(5432, 6047番)。
そうでなければ、だれにとっても、真理は他の者から、またその誕生だけからのものであろう(6047番)。

主の教会は、自分の宗教的信念にしたがって善の中で生きる全世界のすべての者のもとに存在する(3263、6637, 10765番)。
どこにいるにしても、善に生き、ひとりの神を認めるすべての者は、主から受け入れられて、天界に入る。なぜなら、善は主から発し、主は善の中にいるという理由から、善の中にいるすべての者は主を認めるからである(2589-2604, 2861, 2863, 3263, 4190, 4197, 6700, 9256番)。
地上の全教会は主の前に一人の人間のように存在する(7396, 9276番)。
また同様に天界も〔一人の人間のように存在する〕、なぜなら、教会は地上の天界または主の王国であるから(2853, 2996, 2998, 3624~3629, 3636-3643, 3741-3745, 4625番)。
しかし、そこに主が知られ、そこにみことばが存在する教会は〔他の教会に対して〕人間の中で身体の〔他の〕残りの部分に関して、心臓のようであり、肺のようである、それら〔身体の残りの部分〕は自分のいのちの源泉であるかのようにそれらから生きる(637, 931, 2054, 2853番)。
ここから、みことばがそこにあり、そしてそれによって主が知られている教会が存在しないなら、人類は救われない(468, 637, 931, 4545, 10452番)。
教会は天界の土台である(4060番)。

教会は内なるものと外なるものである(1242, 6587, 9375, 9680, 10762番)。
教会の内なるものは、主への愛と隣人に対する仁愛である。ここから、主への愛と隣人に対する仁愛から善と真理の情愛にいる者は、内なる教会を構成し、服従と信仰から外なる礼拝の中にいる者は、外なる教会を構成する(1083, 1098, 4288, 6380, 6587, 7840, 8762番)。
真理と善を知って、そこから行動することは、教会の外なるものである。しかし、真理と善を意志し、愛し、そこから行動することは、教会の内なるものである(4899, 6755番)。
教会の内なるものは、外なる教会に属している者の礼拝の中に、たとえ不明確でも存在する(6775番)。
内なる教会と外なる教会は、一つの教会をつくる(409, 10762番)。
人間には内なるものと外なるものが、天界の映像にしたがって内なるものが、世の映像にしたがって外なるものがある。それゆえ、人間は教会となるために、その外なるものは内なるものと一つのものとして活動しなくてはならない(3628, 4523, 4524, 6057, 6314, 9706, 10472番)。
教会は人間の内なるものの中に存在すると同時に外なるものの中に存在する。けれども、内なるもののない外なるものの中には存在しない(1795, 6580, 10691番)。
教会の内なるものは真理とその性質にしたがっており、またその真理が生活によって善に植え付けられることにしたがっている(1238番)。

教会は天界のように人間の中にあり、このように全般的に教会は自分の中に教会がある人々から存在する(3884番)。
教会が存在するためには、生活の教えが存在しなくてはならない、それは仁愛の教えである(3445, 10763, 10764番)。
仁愛は教会をつくる、仁愛から分離した信仰はつくらない(916番)。
それゆえ、仁愛から分離した信仰の教えではなく、しかし、それに結合した信仰の教えとそれにしたがった生活がつくる(809, 1798, 1799, 1834, 1844, 4468, 4672, 4689, 4766, 5826, 6637番)。
教えの真理が人間のもとに仁愛の善の中にしたがって、生活の中に植え付けられないなら、教会は人間のもとに存在しない(3310, 3963, 5826番)。

もし、人間が単に信仰の真理と呼ばれる真理の中にいるなら、人間のもとに何も教会はない(5826番)。
もし、仁愛が第一位にあって、信仰が第二位にあるなら、どれほど多くの善が教会に〔あるであろう〕(6269番)。
またもし、信仰が第一位にあるなら、どれほど多くの悪が〔あるであろう〕(6272番)。
古代教会の中で、仁愛は教会の主要なものと本質的なものであった(4680番)。
もし、すべての者に仁愛があるなら、教会は天界のようになるであろう(2385, 2853番)。
もし、善が教会の特質であって、善のない真理でないなら、このようにもし、仁愛が信仰から分離していないなら、教会は一つのものとなって、信仰の教えに関して、また外なる礼拝に関して、相違は何も生じないであろう(1285, 1316, 2982, 3267, 3445, 3451番)。

すべての教会は仁愛から始まる、しかし、時の経過につれてそこからそれる(494, 501, 1327, 3773, 4689番)。
このように悪からの虚偽へ、ついには悪にまで〔それる〕(1834, 1835, 2910, 4683, 4689番)。
教会の始まりと衰えは、人間の幼年期と老年に比較される(10134番)。
そしてまた、太陽の出没に比較される(1837番)。
キリスト教会の継続する状態について、その最後の状態までも。「マタイ福音書」第24章の初めから終わりまでに、主はそこに「時代の完成」についてと、ご自分が「来られること」について予言したことが説明されている(3353-3356, 3486-3489, 3650-3655, 3751-3757, 3897-3901, 4057-4060, 4229-4231, 4332-4335, 4422-4424, 4635-4638, 4807-4810, 4954-4959, 5063-5071番)。
キリスト教会は今日その最後にある、仁愛がないので、そこに信仰がないからである(3489, 4689番)。
最後の審判は教会の最後の時である(2118, 3353, 4057, 4333, 4535番)。
教会の荒廃について(407-411番)。
時代の完成と主が来られることは、古い教会の最後の時と新しい教会の最初の段階である(2243, 4535, 10622番)。
古い教会が荒廃するとき、その時に設立される新しい教会に仕える内的な真理が啓示される(3398, 3786番)。
異邦人のもとの教会の設立について(1366, 2986, 4747, 9256番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

246◀︎目次▶︎248

247 古代教会について
「創世紀」の最初の数章に記されているこの地上にあった最初で最古代の教会は、すべての主要な天的な教会であった(607, 895, 920, 1121~1124, 2896, 4493, 8891, 9942, 10545番)。
天界で彼らはどんなものであるか(1114-1125番)。
彼らは最高度の光の中にいる(1116, 1117番)。
洪水後にいろいろな教会が存在した、それは一つの言葉で古代教会と呼ばれた(それらについて1125-1127, 1327, 10355番)。
古代教会がどれほど多くのアジアの王国を通してひろまったか(1238, 2385番)。
古代教会の人々はどんなものであったか(609, 895番)。
古代教会は表象的な教会であり、その表象的なものは最古代教会のある人々によって一つに集められた(519, 521, 2896番)。
古代教会のもとに、みことばがあった、しかし、それは失われた(2897番)。
古代教会が傾き始めたときどんなものか(1128番)。
最古代教会と古代教会との間の相違(597, 607, 640, 641, 765, 784, 895, 4493番)。
最古代教会と古代教会もまたカナンの地にあって、そこからその場所の表象するものが〔生じた〕(3686, 4447, 4454番)。
エベルから始まった教会について、それはヘブル教会と呼ばれた(1238, 1241, 1343, 4516, 4517番)。
古代教会とヘブル教会との間の相違(1343, 4874番)。
エベルは、古代教会ではまったく知られなかったいけにえを定めた(1343番)。
古代教会は内なるものに関してキリスト教会と一致した、けれども、外なるものに関して一致しなかった(3478, 4489, 4772, 4904, 10149番)。
最古代教会には直接の啓示が、古代教会には対応による啓示が、ユダヤ教会には生きた声で、キリスト教会には、みことばによって啓示があった(10355番)。
主は最古代教会の神であり、エホバと呼ばれた(1343, 6846番)。
主は天界であり、また教会である(4766, 10125, 10151, 10157番)。
(主の神性が天界をつくることは著作『天界と地獄』7-12, 78-86番参照。このようにまた、それは教会をつくる、人間のもとに天界をつくるものは教会もまたつくるからである。〔この〕「教え」中の前〔述個所参照〕)。

新しいエルサレムとその天界の教え

247◀︎目次▶︎249

248 ユダヤ教会について、ユダヤ人について
ユダヤ教会の中で命じられた法令、判決、律法は、部分的には古代教会のそれらに似ていた(4449, 4835番)。
ユダヤ教会の表象的な儀式は、どのように古代教会の表象的な儀式と異なったか(4288, 10149番)。
表象的な教会がその民族のもとに設立された、しかし、その民族そのものの中に教会は存在しなかった(4899, 4912, 6304番)。
それゆえ、その民族そのものについては、教会ではなく、教会の表象的なものであった(4281, 4288, 4311, 4500, 6304, 7048, 9320, 10396, 10526, 10535, 10698番)。
イスラエルとユダヤ民族は教会を表象するために選ばれたのではなく、彼らの父祖とモーセとが主張した頑固な不従順のために受け入れられたのである(4290, 4293, 7051, 7439, 10430, 10535, 10632番)。
彼らの礼拝は、すべてが内なる礼拝のない、単なる外なるものであった(1200, 3147, 3479, 8871番)。
彼らは礼拝の内なるものをまったく知らず、また知ることも欲しなかった(301-303, 3479, 4429, 4433, 4680, 4844, 4847, 10396, 10401, 10407, 10694, 10701, 10707番)。
彼らは、礼拝、教会、みことばの内なるものをどのように考慮するか(4865番)。
彼らの内側は汚れており, 自己と世への愛と貧欲とに満ちていた(3480, 9962, 1045410457, 10462-10466, 10575番)。
それゆえ、彼らに教会の内なるものは明らかにされなかった、彼らはそれらを冒涜したであろうから(2520, 3398, 3480, 4289番)。
みことばは彼らに完全に閉ざされている(3796番)。
彼らは、みことばを外から見て、内から見ない(10549-10551番)。
それゆえ、彼らの内なるものは、礼拝の時、閉ざされていた(8788, 8806, 9320, 9377, 9380, 9962, 10396, 10401, 10407, 10492, 10498, 10500, 10575, 10629, 10694番)。
さらにまたその民族は、内なるものが閉ざされているとき、他の者よりも外なる聖なるものの中にいることができるといったものであった(4293、4311, 4903, 9373, 9377, 9380番)。
その時の彼らの状態(4311番)。
それゆえまた、彼らは今日までも生存を保たれている(3479番)。
彼らの外なる聖なるものは主により奇跡的に天界へ上げられ、このようにそこでは礼拝、教会、みことばの内的なものが知覚された(3480, 4307, 4311, 6304, 8588, 10492, 10500, 10602番)。
このために、彼らは外的な手段によって厳格に外なる形で儀式を尊重するよう強いられた(3147, 4281, 10149番)。
彼らは内なるもののない外なる聖なるものの中にいることができたので、教会と天界の聖なるものを表象することができた(3479, 3881, 4208, 6306, 8588, 9377, 10430, 10500, 10570番)。
それでも聖なるものは彼らに働きかけなかった(3479番)。
表象する人物がどんなものかは何も関係がない、表象は物事を眺める、けれども、人物を眺めないからである(665, 1097, 1361, 3147, 3881, 4208, 4281, 4288, 4292, 4307, 4444, 4500, 6304, 7048, 7439, 8588, 8788, 8806番)。

その民族は他の民族よりも悪かった。両方の契約のみことばからも彼らの性質が記述されている(4314, 4316, 4317, 4444, 4503, 4750, 4751, 4815, 4820, 4832, 5057, 5998, 7248, 8819, 9320, 10454-10547, 10462-0466番)。
ユダの部族は残りの他の部族よりもさらに悪いものへそれた(4815番)。
彼らはどれほど残酷に楽しみから異邦人を扱ったか(5057, 7248, 9320番)。
その民族は心で偶像崇拝者であり、他の民族以上に他の神々を崇拝した(3732, 4208, 4444, 4825, 5998, 6877, 7401, 8301, 8871, 8882番)。
さらにまた彼らの礼拝も、その民族そのものの中で眺められるとき、内なるもののない外なるものであったので、偶像崇拝であった(4281, 4825, 8871, 8882番)。
彼らはエホバを単に名前に関して崇拝した(6877, 10559-10561, 10566番)。
また奇跡のためにだけ〔エホバを崇拝した〕(4299番)。
ユダヤ人は教会の終わりに回心して、カナンの地に戻される、と信じる者は誤って考えている(4847, 7051, 8301番)。
この事柄について、みことばから多くの個所が例証される、それでも内意にしたがって理解されるべきである、このように文字〔通りの意味〕にしたがうのとは異なって(7051番)。
みことばは外なる意味に関して、その民族のために変化した、それでも内意に関して変化しなかった(10453, 10461, 10603, 10604番)。
エホバは、シナイ山で彼らの性質にしたがって、彼らに焼きつくす火、密雲、炉からのような煙の中に見られた(1861, 6832, 8814, 8819, 9434番)。
主はだれにも彼の性質にしたがって見られる。善にいる者には活気づけ、元気づける火として、悪にいる者には焼きつくす火として〔見られる〕(934, 1861, 6832, 8814, 8819, 9434, 10551番)。
その民族の起源の一つはカナンの女から、残りの二つは嫁との淫行からである(1167, 4818, 4820, 4874, 4899, 4913番)。
これらの起原によって教会との彼らの結合がどのようなものであるか意味される、すなわち、カナンの女との、嫁との淫行のような〔ものである〕(4866, 4874, 4899, 4911, 4913番)。
来世における彼らの状態について(939, 940, 5057番)。

この民族は、たとえこのようなものであっても、教会を表象した。また、みことばは彼らのもとで、彼らについて書かれたので、それゆえ、神的な天的なものは「ルベン」、「シメオン」、「レビ」、「ユダ」、「エフライム」、「ヨセフ」その他といった彼らの名前によって意味された。「ユダ」によって、内意では、天的な愛に関する主とその方の天的な王国が意味される(3654, 3881, 5583, 5603, 5782, 6363番)。
ユダについてイスラエルの預言が説明されている、そこでは主について扱われている、「創世記」49:8-12(6362-6381番)。
「ユダの部族」と「ユダヤ」は天的な教会を意味する(3654, 6364番)。
十二の部族は統一体としてのすべての愛と信仰を表象し、そこからそれらを意味した(3858, 3926, 4060, 6335番)。
したがって、天界と教会もまた〔意味した〕(6337, 6637, 7836, 7891番)。
名前を挙げられている順序にしたがって意味する(3862, 3926, 3939, 4603以降6337, 6640番)。
ユダヤ人は天的な王国を、イスラエル人は霊的な王国を表象するために、十二の部族は二つの王国に分けられた(8770, 9320番)。
「アブラハム、イサク、ヤコブの裔」によって教会の善と真理が意味される(3373, 10445番)。

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248◀︎目次▶︎250

聖書またはみことば

249 神性からの啓示なしに、人間は永遠のいのちについて何も、神について決して何も、さらに神への愛と信仰について何も、知ることはできません。なぜなら、人間はまったくの無知の中に生まれており、その後、すべてのことを世のものから学び、それらから自分の理解力を形作らなくてはならないからです。さらにまた遺伝から自己と世への愛からのものであるすべての悪の中に生まれています。そこから、快さが常に彼を支配していて、神性に対して正反対のものをほのめかします。そこで、人間が永遠のいのちについて何も知らないことはここからであり、それゆえ、必然的に啓示が存在しなくてはなりません。啓示によって知ります。

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249◀︎目次▶︎251

250 自己と世への悪が、永遠のいのちに属するものについて、このような無知を導き入れることは、教会内にいる者によりはっきりと明らかです。たとえ彼らは、神が存在し、天界と地獄が存在し、永遠のいのちが存在すること、そのいのちは愛と信仰との善により得られることを啓示から知っても、それでも学問のない者と同様に学問のある者もそれらについて否定の中に落ち込みます。ここから、もし啓示が何もないなら、どれほどの無知が存在するか、再び明らかです。

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250◀︎目次▶︎252

251 そこで、人間は死後も生きるとき、その時、永遠の中にいて、彼の愛と信仰にしたがった生活が彼を待っているので、神性が人類に対する愛から、その生活へ導き、また彼の救いに役立つようなものが啓示された、といえます。私たちに啓示された神性とは、みことばです。

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251◀︎目次▶︎253

252 みことばは、神性からの啓示であるので、そのすべてと個々のものの中に神性があります。なぜなら、神性からのものはそれ以外にありえないからです。神性からのものは、天界を通って人間にまで降りて来ます。それゆえ、そのために、天界ではそこの天使の知恵に適合し、地上ではそこの人間の把握に適合します。それゆえ、みことばには、天使のために霊的である内意があり、また人間のために自然的である外なる意味があります。ここから、天界と人間の結合が、みことばによって存在します。

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252◀︎目次▶︎254

253 照らされている者以外に、だれもみことばの純粋な意味を理解しません。そして、主への愛と信仰の中にいる者だけが照らされます。というのは、彼らの内的なものは主により天界の光の中へ高揚されるからです。

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253◀︎目次▶︎255

254 文字通りのみことばは、照らされた者によってつくられたみことばからの教えによらないなら把握されることができません。その文字通りの意味は、人間の、また単純な者の把握に適合します。それゆえ、みことばからの教えは彼らにとって明かりであるべきです。

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254◀︎目次▶︎256

『天界の秘義』から

255 みことばの必要性と優越性
自然の光からは、主、天界と地獄、死後の人間のいのち(生活)について、それによって人間に霊的で永遠のいのちがある神的な真理について、何も知られない(8944, 10318-10320番)。
そのことはこれから知ることができる――多くの者は、彼らの間で学問のある者は、たとえ、みことばのあるところに生まれ、みことばによってそれら〔神的な真理〕について教えられていても、それらを信じていない(10319番)。
それゆえ、天界から何らかの啓示が存在することが必要であった、なぜなら、人間は天界へと生まれているから(1775番)。
それゆえ、すべての時に啓示があった(2895番)。
この地上に継続的に存在したいろいろな種類の啓示について(10355, 10632番)。
洪水以前の最古代の人々には、彼らの時は黄金時代と呼ばれ、直接の啓示が存在し、ここから神的な真理は彼らの心に刻まれた(2896番)。
洪水以後に存在した古代教会の中に、歴史的なみことばと同じく預言的なみことばがあった(2686、2897番。その教会については247番参照)。
その歴史的なものは「エホバの戦い」, その預言的なものは「宣言」と呼ばれた(2897番)。
そのみことばは霊感に関して私たちのみことばに似ていた(2897番)。
それはモーセにより記された(2686, 2897番)。
しかし、そのみことばは失われた(2897番)。
バラムの預言から明らかなように、他の者のもとにもまた預言的な啓示があった(2898番)。

みことばはそのすべてと個々のものの中に神性がある(639, 680, 10321, 10637番)。
みことばは一点一画のすべてに関して神的であり、聖なるものである(経験から、9349番)。
今日、みことばがすべての一点に関して霊感を受けていることは、どのように説明されるか(1886番)。

教会は、みことばが存在し、それによって主が知られ、神的な真理が啓示されているところに特に存在する(3857, 10761番)。
しかし、みことばが存在して、主がそのみことばにより知られているところに生まれた者〔が教会に属するの〕ではなく、みことばからの真理によって主により再生する者が教会に属する。その者はその中にある真理にしたがって生きる者、したがって愛と信仰の生活に生きる者である(6637, 10143, 10153, 10578, 10645, 10829番)。

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255◀︎目次▶︎257

256 みことばは照らされている者以外には理解されない
人間の理性は、主によって照らされないなら、神的なものを、霊的なものでさえ理解することができない(2196, 2203, 2209, 2654番)。
このように照らされている者だけが、みことばを理解する(10323番)。
主は照らされている者に真理を理解させ、そしてみことばの中で互いに矛盾しているように見えるものを区別するようにさせられる(9382, 10659番)。
みことばは、文字通りの意味ではそれ自体と似ないで、ときどき互いに矛盾するように見える(9025番)。
それゆえ、〔文字通りの意味は〕照らされていない者により、どんな見解や異端でも確信されるまでに、またどんなものでも世と身体への愛を支持するまでに、説明され, ゆがめられることができる(4783, 10399, 10400番)。
真理と善への愛からみことばを読む者は、それ〔みことば〕から照らされる。けれども、しかし名声、利益、名誉から、このように自己への愛から〔読む者〕は〔照らされ〕ない(9382, 10548-10550番)。
生活の善の中にいて、ここから真理への情愛の中にいる者は照らされる(8694番)。
内なるものが開かれている者は照らされる、そのようにその内なる人は天界の光の中へ高揚されることができる(10400, 10402, 10691, 10694番)。
照らされることは実際に開くことであり、そしてまた天界の光の中への高揚である(10330番)。
内なるものから、すなわち、内なるものを通して主から、聖なるものが、みことばを聖なるものとする者のもとに流入する、彼らは〔そのことを〕知らない(6789番)。
主により導かれる者は照らされ、みことばの中に真理を見る。けれども、自分自身により導かれる者は〔そうでは〕ない(10638番)。
真理を真理であるので愛する者は主により導かれる、彼らは神的な真理にしたがって生きることを愛する者である(10578, 10645, 10829番)。
みことばは人間のもとで彼の愛と真理の生活にしたがって生かされる(1776番)。
〔人間の〕プロプリウムの知性からのものは、人間にプロプリウムからは何も善がないので、それ自体の中にいのちを持たない(8941, 8944番)。
誤った教えを大いに確信した者は照らされることができない(10640番)。

照らされるものは理解力である(6608, 9300番)。
理解力は真理を受けるものであるから(6222, 6608, 10659番)。
教会のすべての教えについて、いろいろな観念(考え)があり、それら〔観念〕にしたがって物事が理解される(3310, 3825番)。
人間の観念は世に生きるかぎり自然的である。その時、自然的なものの中で考えるから。しかし、それでも真理のために真理の情愛の中にいる者たちのもとには霊的な観念がそれらの中に隠されている(10237, 10240, 10551番)。
どんな物事についても、観念(考え)なしに、知覚はない(3825番)。
信仰の事柄について、観念は来世で開かれ、そこ〔来世〕でどんなものであるか天使により見られる(1869, 3310, 5510, 6200, 8885番)。
それゆえ、みことばは理性的な人間による以外には理解されない。なぜなら、何かをその事柄の観念なしに、また理性的な熟考もなしに信じることは、単に言葉を記憶から保持することであって、知覚と情愛とのすべてのいのちを奪われており、信じることではないから(2553番)。
照らされるものはみことばの文字通りの意味である(3436, 9824, 9905, 10548番)。

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256◀︎目次▶︎258

257 みことばは、みことばからの教えによらないなら、理解されない
教会の教えは、みことばからのものでなくてはならない(3464, 5402, 6832, 10763, 10765番)。
教えなしに、みことばは理解されない(9025, 9409, 9424, 9430, 10324, 10431, 10582番)。
真の教えは、みことばを読む者には明かりである(10400番)。
純粋な教えは主により照らされている者により存在し〔形作られ〕なくてはならない(2510, 2516, 2519, 9424, 10105番)。
みことばは、照らされた者によりつくられた教えによって理解される(10324番)。
照らしの中にいる者は、みことばから自分に教えをつくる(9382, 10659番)。
教会の教えから教え、学ぶ者と、文字通りの意味だけから教え、学ぶ者との間の相違。彼らがどんなものか(9025番)。
教えなしの文字通りの意味の中にいる者は、神的な真理について決して理解するようにはならない(9409, 9410, 10582番)。
彼らは多くの誤りに陥る(10431番)。
真理のために真理の情愛の中にいる者は、成人になって、自分自身の理解力から見ることができるとき、単に自分自身の教会の教えの中にとどまるだけでなく、それらが真であるかどうか、みことばから調べる(5402, 5432, 6047番)。
そうでなければ、それぞれの者の真理は、その者がユダヤ人、またはギリシア人として生まれたにしても、他の者たちから、またその者の生まれた地のものとなるであろう(6047番)。
それでも、みことばの文字通りの意味から信仰のものとなったものは、十分な熟考の後でないなら、消されてはならない(9039番)。

教会の真の教えは仁愛と信仰の教えである(2417, 4766, 10763, 10764番)。
信仰の教えではなく、仁愛である信仰の生活が教会をつくる(809, 1798, 1799, 1834, 4468, 4672, 4766, 5826, 6637番)。
教えは、それにしたがって生きないなら無意味である(1515, 2049, 2116番)。
今日、教会の中には信仰の教えがあって、仁愛の教えはない、そして仁愛の教えは「倫理神学」と呼ばれる知識の中に捨てられている(2417番)。
もし生活から、したがって仁愛から教会の人間として認められるなら、教会は一つとなるであろう(1285, 1316, 2982, 3267, 3445, 3451, 3452番)。
仁愛の教えは仁愛から分離した信仰の教えよりもどれほど力があることか(4844番)。
仁愛について何も知らない者は、天界について無知の中にいる(2435番)。
信仰の教えをもつと同時に仁愛の教えをもたない者は、どれほど多くの誤りに陥るか(2338, 2417, 3146, 3325, 3412, 3413, 3416, 3773, 4672, 4730, 4783, 4925, 5351, 7623~7627, 7752~7762, 7790, 8094, 8313, 8530, 8765, 9186, 9224, 10555番)。
信仰の教えの中だけにいて、仁愛である信仰の生活の中にいない者は、古くは、無割礼の者またはペリシテ人と呼ばれた(3412, 3413, 8093番)。
古代人には主への愛と隣人に対する仁愛との教えが存在し、信仰の教えはそれに仕えた(2417, 3419, 4844, 4955番)。

照らされた者によってつくられた教えは、後に理性的なものによって確信されることができる。こうして十分に理解され、強くされる(2553, 2719, 2720, 3052, 3310, 6047番。この事柄についてより多くは前の51番参照)。
仁愛から分離した信仰の中にいる者は, 教会の教えが何らかの理性的な熟考なしに単純に信じられることを欲する(3394番)。
教義を確信することは賢明な者に属さない、しかし確信する前に真理であるかどうかを見ること〔は賢明な者に属する〕。これらは照らしの中にいる者に生ずる(1017, 4741, 7012, 7680, 7950番)。
確信の光は自然的であって、霊的ではなく、悪い者のもとにもまた〔存在〕可能である(8780番)。
すべてのものは、虚偽もまた、真理として見えるようにまでも、確信されることができる(2480, 2490, 5033, 6865, 8521番)。

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257◀︎目次▶︎259

258 みことばには内意と呼ばれる霊的な意味がある
だれも対応が何かを知らないなら、みことばの内意が何かを知ることはできない(2895, 4322番)。
自然界に存在するすべてと個々のものは、その最小のものまでも、霊的なものに対応し、そこから霊的なものを意味する(1886-1889, 2987-3003, 3213-3227番)。
自然的なものが対応している霊的なものは、自然的なものの中で、区別されないような、他の外観の下に見られる(1887, 2395, 8920番)。
今日、ほとんどだれも、みことばの神的なものはどこにあるか知らない、しかしそれでもその内意または霊的な意味の中にあり、それは知られていない(2899, 4989番)。
みことばの神秘的なものは、その内意または霊的な意味に含まれているもの以外の何ものでもなく、その中に、主について、その方の王国について、教会について扱われ、世の中の自然的なものについては扱われていない(4923番)。
〔みことばの〕預言は多くの個所で理解されず、このように内意なしでは決して役に立たない(例から、2608, 8020, 8398番)。
例えば「黙示録」の「白い馬」によって何が意味されるか(2760番以下)。
ペテロに与えられた「天の御国のかぎ」によって何が〔意味されるか〕(「創世記」第22章への序言。9410番)。
聖餐の「肉」「血」「パン」「ぶどう酒」によって何が〔意味されるか〕。このように主により定められた理由(8682番)。
自分の息子たちについてのヤコブの預言によって何が〔意味されるか〕(「創世記」第49章, 6306, 6333-6465番)。
ユダとイスラエルについての多くの預言によって何が〔意味されるか〕。それらの多くはその民族に適合しないし、文字通りの意味にしたがって一致もしない(6333, 6361, 6415, 6438, 6444番)。
これ以外に他の無数の例(2608番)。

みことばの霊的な、または内なる意味について、要約した形で(1767~1777, 1869~1879番)。
みことばのすべてと個々のものの中に内意が存在する(1143, 1984, 2135, 2333, 2395, 2495, 2619番)。
こうしたものは文字通りの意味には見られないが、それでもその中に内部に存在する(4442番)。

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258◀︎目次▶︎260

259 内意は特に天使のためのもの、また人間のためのものである
内意とは何か、その性質、またどこからかを知るために、ここに簡単に述べておこう――天界では世と異なって話し、考える。天界では霊的に、世では自然的に〔話し、考える〕。それゆえ、人間がみことばを読むとき、人間のもとにいる天使は、人間がそれを自然的に知覚するとき、それを霊的に知覚する。ここから天使は内意の中にいるが、そのとき人間は外なる意味の中にいる。それでも〔その二つの意味は〕対応によって一つとなっている。

天界の天使は、みことばを地上の人間とは異なって理解する。前者には内なるまたは霊的な意味がある、けれども後者には外なるまたは自然的な意味がある(1887, 2395番)。
天使は、みことばの内意を知覚し、その外なる意味は知覚しない(私がみことばを読んでいたとき、天界から私とともに語った者たちとの経験から、1769-1772番)。
天使の観念と言葉は霊的である、けれども人間の観念と言葉は自然的である。それゆえ、天使のために存在する霊的な内意がある(経験からの説明、2333番)。
それでもみことばの文字通りの意味は、天使の霊的な観念の手段として役立つ。比較すれば人間のもとで言葉が事柄の意味〔を伝える手段〕を与えるように(2143番)。
みことばの内意に属するものは天界の光のようなものへ、このように天使の知覚の中へ落ち込む(2618, 2619, 2629, 3086番)。
みことばから天使が知覚するものは、それゆえ、彼らに貴重である(2540, 2541, 2545, 2551番)。
天使は、みことばの文字通りの意味の一つの表現(言葉)も決して理解しない(64, 65, 1434, 1929番)。
彼らは、みことばの中の人物と場所の名前も知らない(1434, 1888, 4442, 4480番)。
名前は天界に入ることはできず、そこでは語られることもできない(1876, 1888番)。
みことばの中のすべての名前は事物を意味し、天界では事物の観念に変化する(768, 1888, 4310, 4442, 5225, 5287, 10329番)。
さらにまた、天使は人物から抽象して考える(6613, 8343, 8985, 9007番)。
みことばの内意はどれほど優雅なことか(みことばからの例から、1224, 1888, 2395番)。
連続する多くの名前もまた、内意では一つの事柄を表現する(5095番)。
みことばの中のすべての数字もまた事物を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 6175, 9488, 9659, 10217, 10253番)。
霊もまた、彼らの内なるものが天界の中へ開かれているに応じて、みことばを内意の中に知覚する(1771番)。
自然的なものであるみことばの文字通りの意味は、天使のもとで瞬間に霊的な意味に変えられる、対応が存在するからである(5648番)。
しかもこのことは〔天使が〕文字通りのまたは外なる意味を聞いたり、または知ったりすることなしに〔生ずる〕(10215番)。
このように文字通りのまたは外なる意味は人間のもとにだけあって、〔それを〕越えて進まない(2015番)。

みことばには内意が、また最も内なるまたは最高の意味が存在する(そのことについて, 9407, 10604, 10614, 10627番)。
霊的な天使、すなわち、主の霊的な王国の者は、みことばを内意で知覚し、天的な天使、すなわち、主の天的な王国の者は、みことばを最も内なる意味で知覚する(2157, 2275番)。

みことばは人間のために、また天使のために存在して、両者に適している(7381, 8862, 10322番)。
みことばは天と地を結合させるものである(2310, 2495, 9212, 9216, 9357番)。
人間と天界の結合は、みことばによって存在する(9396, 9400, 9401, 10452番)。
それゆえ、みことばは「契約」と呼ばれる(9396番)――「契約」は結合を意味するから(665, 666, 1023, 1038, 1864, 1996, 2003, 2021, 6804, 8767, 8778, 9396, 10632番)。
みことばは主から三つの天界を通って人間にまでも下ったので、みことばの中には内意がある(2310, 6597番)。
このようにそれは三つの天界の天使に、また人間にも〔適するようになった〕(7381, 8862番)。
ここから、みことばは神的なものである(2989, 4989番)。
聖なるものである(10276番)。
霊的である(4480番)。
みことばは神性により霊感を受けたものである(9094番)。
それは霊感である(9094番)。

再生した人間もまた、その内なる人は霊的な知覚を与えられ、開かれているので、実際にみことばの内意の中にいるが、それでも彼はそのことを知らない(10400番)。
しかし、みことばの霊的なものは自然的な観念の中に流入し、このように自然的に〔見える形で〕示されている。〔人間は〕世に生きている間は自然的なものの中で考えるからである(5614番)。
ここから照らされている者のもとで、真理の光は、その内なるものから、すなわち、内なるものを通して主から発している(10691, 10694番)。
さらにまた、その方法によって聖なるものが、みことばに聖なるものを抱いている者たちのもとへ流入する(6789番)。
再生した人間は、実際にみことばの内意の中に、またその聖なるものの中にいるので、たとえそのことを知っていなくても、それゆえ死後、彼はその中へ入って、もはや文字通りの意味の中にはいない(3226, 3342, 3343番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

259◀︎目次▶︎261

260 内なるまたは霊的な意味の中には無数のアルカナがある
みことばは内意の中に人間の把握を超える無数のものを含む(3085, 3086番)。
さらにまた、説明できないものを〔含む〕(1965番)。
それらは天使だけに表象され、彼らにより理解される(167番)。
みことばの内意は天界のアルカナ(秘義)を含む、それは主と、天界と地上でのその方の王国とに関係する(1-4, 937番)。
そのアルカナは文字通りの意味には見られない(937, 1502, 2161番)。
預言者の書の中の多くのものは、ばらばらのように見えるが、内意では美しく連続的に結合している(7153, 9022番)。
一つの語も、一つの点〔一画〕でさえも、内意での中断なしに、みことばの文字通りの意味の中で欠くことはできない。それゆえ、主の神的な摂理から、みことばはすべての語までも、すべての一点までも、そのように完全に保たれた(7933番)。
みことばの個々のものに無数の事柄が内在する(6617, 6620, 8920番)。
またそれぞれの表現にも〔内在する〕(1869番)。
「主の祈り」の中に、またその個々のものの中に、無数のものが存在する(6619番)。
また十戒の戒めの中に〔存在する〕。それでもその外なる意味であるものは、啓示なしにどの民族にも知られているといったものである(8867, 8900番)。

みことばの中に、特にその預言者の書の中に、同じ事柄のような二つの表現がある。しかしその一つは善に、もう一つは真理に、このように霊的なものに、また天的なものに、関係する(683, 707, 2516, 8339番)。
みことばの中の善と真理の中には驚くべき結合がある、その結合は内意を知っている者にだけ明らかである(10554番)。
このように、みことばの中に、またその個々のものに、神的な結婚と天界的な結婚が存在する(683, 793, 801, 2173, 2516, 2712, 5138, 7022番)。
神的な結婚は神的な善と神的な真理の結婚であり、このように主である、その中にだけ結婚が存在する(3004, 3005, 3009, 5138, 5194, 5502, 6343, 7945, 8339, 9263, 9314番)。
「イエス」によって神的な善が、「キリスト」によって神的な真理が、二つのものによって天界の中の神的な結婚が意味される。それは神的な善と神的な真理の結婚である(3004, 3005, 3009番)。
この結婚は、みことばの個々のものの中に、その内意の中にあり、このように主は神的な善と神的な真理に関して〔その中におられる〕(5502番)。
天界と教会の中には主からの善と真理の結婚があり、それは天界的な結婚と呼ばれる(2508, 2618, 2803, 3004, 3211, 3952, 6179番)。
このように、その観点からは、みことばはあたかも天界のようである(2173, 10126番)。
天界はその中の善と真理の結婚からみことばの中で結婚にたとえられる(2758, 3132, 4434, 4835番)。

内意は教会の教えそのものである(9025, 9430, 10400番)。
みことばを内意にしたがって理解する者は、教会の真の教えそのものを知る、内意はそれ〔教会の真の教え〕を含むから(9025, 9430, 10400番)。

みことばの内なるものはまた教会の内なるものである、礼拝の内なるもののように(10460番)。
みことばは主への愛と隣人に対する仁愛の教えである(3419, 3420番)。

みことばは文字の中では雲のようなものであり、内意では栄光である(「創世記」第18章の序言, 5922, 6343番。そこに「主は天の雲の中に栄光をもって来られる」ことが説明されている)。みことばの「雲」は文字通りの意味におけるみことばを、「栄光」は内意におけるみことばを意味する(「創世記」第18章の序言、4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574番)。
文字通りの意味の中にあるものは、内意の中にあるものと比べるなら、磨かれた光学円筒の周りの粗雑な投影(映像)のようなものである。それでも、〔その投影の中心に〕その円筒が置かれると、その円柱〔面〕から人間の美しい映像が〔写し出される〕(1871番)。
来世では、みことばの文字通りの意味だけ欲し、認める者は、醜い老婆によって表象される。しかし〔文字通りの意味と〕同時に内意を〔認める者は〕美しく着飾った処女によって〔表象される〕(1774番)。
みことばは神的な真理であり、神的な真理は天界をつくるので、みことばはその全統一体として天界の映像である。また天界は一人の人間を表わすので、みことばはその観点からは人間の映像のようである(1871番)。
(天界は一つの統一体として一人の人間を表わすことは著作『天界と地獄』参照、59~67番。主から発出する神的な真理は天界をつくる、126-140, 200-212番)。
みことばは天使の前では美しくまた快く示される(1767, 1768番)。
文字通りの意味はあたかも身体のようであり、内意はあたかもその身体の霊魂のようである(8943番)。
ここから、みことばのいのちは内意からである(1405, 4857番)。
みことばは内意では純粋であるが、文字通りの意味ではそのように見えない(2362, 2395番)。
みことばの文字通りの意味の中にあるものは、内なるものにより聖なるものである(10126, 10728番)。

みことばの歴史的なものの中にもまた内意がある、しかしその内部に〔存在する〕(4989番)。
このように、みことばの歴史的ものはその預言的なものと等しく天界のアルカナ(秘義)を含む(755, 1659, 1709, 2310, 2333番)。
天使は歴史的なものを知覚しない、しかし霊的に〔知覚する〕(6884番)。
歴史的なものの中にある内的なアルカナは、預言的なものの中にあるものよりも人間に明らかではない、その理由(2176, 6597番)。

さらに、みことばの内意がどんなものか(1756, 1984, 2004, 2663, 3035, 7089, 10604, 10614番)。比較によって説明される(1873番)。

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260◀︎目次▶︎262

261 みことばは対応によって、このように表象によって書かれている
みことばは文字通りの意味に関して対応そのものによって書かれ、そのようにこのようなものによって天界と教会に属する霊的なものを表象し、意味する(1404, 1408, 1409, 1540, 1619, 1659, 1709, 1783, 2179, 2763, 2899番)。
このことは個々のものの内意のためになされた(2899番)。
このように天界のために〔なされた〕、天界にいる者はみことばを自然的なものであるその文字通りの意味に したがって理解しないで、霊的なものであるその内意にしたがって理解するからである(2899番)。
主は神性から語られたので、対応、表象、表意によって語られた(9049, 9063, 9086, 10126, 10728番)。
このように主は世の前と天界の前で語られた(2533, 4807, 9049, 9063, 9086番)。
主の語られたものは全天界を満たした(4637番)。
みことばの歴史的なものは表象である。言葉は表意である(1540, 1659, 1709, 1783, 2686番)。
みことばは他の文体で書かれることはできなかった、それによって天界との伝達と、結合が存在するために(2899, 6943, 9481番)。
みことばを外見上の単純で粗野な文体のために軽蔑し、もし異なった文体で書かれていたなら、みことばが受け入れられると考える者は大いに誤っている(8783番)。
最古代の人々にもまた、表象と表意による書き方と文体があった(605, 1756, 9942番)。
古代の賢人は、みことばを、そこに表象的なものと表意的なものがあるので喜んだ(経験から、2592, 2593番)。
もし最古代教会の人間がみことばを読んだなら、彼は内意の中にあるものを明らかに見て、外なる意味の中にあるものはぼんやりと見たであろう(4493番)。
カナンの地のすべての場所は最古代から表象的なものとなっていたので、ヤコブの子孫はその地へ導かれた(1585, 3686, 4447, 5136, 6516番)。
このように、みことばがそこで書かれ、その中で〔それらの〕場所は内意のために名づけられなければならなかった(3686, 4447, 5136, 6516番)。
しかしそれでも、みことばは、その民族のために、その外なる意味に関して変化した、しかしその内意に関して変化しなかった(10453, 10461, 10603, 10604番)。

みことばの中の対応と何であるか、また表象とはどんなものであるか、その性質を知るために、それゆえ、それらについてもまた何かを述べよう――
対応するものはすべてまた表象するものでもあり、そこから表意するものであり、このように対応と表象とは一つである(2896, 2897, 2973, 2987, 2989, 2990, 3002, 3225番)。
対応と表象とは何か(経験からまた例から, 2763, 2987-3002, 3213-3226, 3337-3352, 3472-3485, 4218-4228, 9280番)。
対応と表象の知識は古代人のもとで主要な知識であった(3021, 3419, 4280, 4748, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252番)。
特に東洋人のもとで(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10252, 10407番)。
エジプトでは他〔の国々〕にまさって(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407番)。
ギリシアやその他のところのように、異邦人のもとでもまた(2762, 7729番)。
しかし今日〔それは〕失われた知識の間にある, 特にヨーロッパで(2894, 2895, 2994, 3630, 3632, 3747-3749, 4581, 4966, 10252番)。
それでもその知識は〔他の〕すべての知識にまさる、それなしでみことばは理解されず、またみことばの中のユダヤ教会の儀式はそれらについて何を意味するのかも、また天界の性質も知られず、霊的なものが何かも、どのように自然的なものに霊的なものが流入するか、その他多くのことが知られないからである(4280番、それと前に引用した箇所)。
天使と霊に見られるすべてのものは、愛と信仰とに属するといったものの対応にしたがった表象的なものである(1971, 3213-3226, 3449, 3475, 3485, 9481, 9574, 9576, 9577番)。
天界は表象で満ちている(1521, 1532, 1619番)。
表象は天界の内部ほど、それだけ美しく、また完全なものになっている(3475番)。
そこの表象は、神的な真理である天界の光からのものであるので、真の外観である。またこれは、すべてのものの存在の本質そのものである(3485番)。

霊界の中に存在するすべてと個々のものが自然界に表象されている理由は、内なるものが適合する外なるものを着て、それによってそれ自体を目に見えて示し、見られるためである(6275, 6284, 6299番)。
このように目的は適当な着物を着て、低い領域の中で原因として存在し、そしてその後、さらに低い領域の中で結果として存在し、そして目的が原因によって結果となるとき、その時、それは目に見えるものとなるか、または目の前に見られる(5711番)。
このことは肉体への霊魂の流入によって説明される。すなわち、霊魂はそうしたものを肉体に着せ、それによって考え、欲するすべてのものを見られ、目に見えて示すことができる。それゆえ、思考は肉体に流れ下るとき、それに対応する態度と行動によって表象される(2988番)。
心に属する情愛は、容貌の変化によって明らかに顔の中に表象され、それほどにまでそこに見られる(4791-4805, 5695番)。
ここから自然界のすべてと個々のものの中に霊界からの内的な原因と目的が隠れていることが明らかである(3562, 5711番)。
自然界の中のものは、そこに先在的なものが内在する最後の結果であるから(4240, 4939, 5051, 6275, 6284, 6299, 9216番)。
内なるものは表象され、外なるものは表象する(4292番)。

自然の中のすべてのものは、霊的なものと天的なものを表象しているので、それゆえ、古代に存在した教会の中では儀式である外なるもののすべてが表象であった。それゆえ、それらの教会は表象的教会と呼ばれた(519, 521, 2896番)。
イスラエルの子孫のもとに設立された教会は表象的教会であった(1003, 2179, 10149番)。
そこのすべての儀式は天界と教会の内なるものを表象する外なるものであった(4288, 4874番)。
主が世に来られたとき、教会と礼拝との表象はやんだ、なぜなら、主は教会の内なるものを開かれたからであり、またすべて教会の外なるものはその最高の意味で主に目を向けていたからである(4832番)。

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261◀︎目次▶︎263

262 みことばの文字通りの、すなわち、外なる意味について
みことばの文字通りの意味は、世の外観にしたがっている(589, 926, 1408, 2719, 2720, 1832, 1874, 2242, 2520, 2533番)。
また、単純な者の把握にしたがっている(2533, 9048, 9063, 9086番)。
みことばはその文字通りの意味では自然的である(8783番)。
その理由は、自然的なものは最外部のものであり、その中に霊的なものと天的なものが終わり、また家がその土台の上にとどまるようなものであるからである。そうでなければ、外なる意味のない内意は、土台のない家のようになる(9360, 9430, 9433, 9824, 10044, 10436番)。
みことばは、このようなものなので、霊的な意味と天的な意味を包むものである(9407番)。
このようなので、そこのすべてと個々のものに関して、それぞれの一点までも、その文字通りの意味は聖なる神的なものである(639, 680, 1869, 1870, 9198, 10321, 10637番)。
イスラエルの子孫のために結ばれた律法は、たとえ廃止されても、その中の内意のために、やはり聖なるみことばである(9211, 9259, 9349番)。
表象的教会であったイスラエルとユダヤ教会のための律法、判決、法令は、その外なる、また内なる両方の意味において、今なお有効であるものがあり、その外なる意味にしたがって必ず守られなくてはならないものがあり、もし〔守ろうという〕気になるなら、役に立つことのできるものがあり、また完全に廃止されたものがある(9349番)。
みことばはその廃止されたものに関しても神的である(10637番)。

もし内意に関して同時に、すなわち、同じことであるが、みことばからの真の教えにしたがって理解されないなら、〔そのときの〕みことばの文字通りの意味はどんなものか(10402番)。
内意のない、すなわち、みことばからの純粋な教えのない文字通りの意味から、莫大な数の異端がわき出る(10400番)。
内なるもののない外なるものの中にいる者は、みことばの内的なものに耐えられない(10694番)。
ユダヤ人はこうしたものであった、また今日もそうである(301-303, 3479, 4429, 4433, 4680, 4844, 4847, 10396, 10401, 10407, 10694, 10701, 10707番)。

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262◀︎目次▶︎264

263 主は、みことばであられる
みことばの最も内なる意味では主おひとりが扱われており、その方の人間性の栄化の、すなわち、〔人間性と〕神性そのものとの結合のすべての状態が、そして地獄の征服と、そこの、また天界のすべてのものの秩序のすべての状態が述べられている(2249, 7014番)。
このようにその意味の中に世における主の全生涯が述べられており、そのことによって絶えず天使たちのもとに主の臨在がある(2523番)。
したがって、みことばの最も内なるものの中には主おひとりがおられる。ここから、みことばの神性と聖なるものが存在する(1873, 9357番)。
ご自分について聖書は成就した、と主が言われたことは、その最も内なる意味の中のすべて〔が成就したこと〕を意味する(7933番)。

みことばは、神的な真理を意味する(4692, 5075, 9987番)。
主は神的な真理であられるので、みことばであられる(2533番)。
みことばは主から発するので、また主について〔扱っているので〕、みことばもまた主である(2859番)。
そして、みことばはその最も内なる意味では主おひとりについて〔扱っており〕、したがって主ご自身がそこに〔おられる〕(1873, 9357番)。
また、みことばのすべてと個々のものの中には神的な善と神的な真理の結婚があるので〔主はその中におられる〕(3004, 5502番)。
「イエス」は神的な善、「キリスト」は神的な真理である(3004, 3005, 3009番)。
神的な真理が唯一の実在であり、その中にそれ〔神的な真理〕が存在し、神性からのものが唯一の実体的なものである(5272, 6880, 7004, 8200番)。
そして主から発出する神的な真理が天界の中の光であり、神的な善が天界の中の熱であるので、またそこ〔天界〕のすべてのものはそれら〔神的な善と神的な真理〕から存在するので、自然界は天界または霊界を通して存在するので、「ヨハネ福音書」の言葉にしたがって、創造されたすべてのものは、神的な真理から、このようにみことばから創造されたことが明らかである――

「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。神はみことばであった。……造られたものはその方によりすべて造られた。……みことばは肉となった」〔1:1, 3, 14〕(2803, 2894, 5272, 6880番)。

(さらに神的な真理による、したがって主によるすべてのものの創造については著作『天界と地獄』137番参照。またそこの二つの章116-125番と126-140番から豊かに)。
みことばを通し、内意を手段として、主と人間の結合がある(10375番)。
みことばのすべてと個々のものによって結合がある、そこから、みことばはすべての文書にもまさって驚くべきものである(10632-10634番)。
みことばが書かれた後、主はそれによって人間に話しかけられる(10290番)。

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263◀︎目次▶︎223

264 みことばに反対する者について
みことばを軽蔑し、愚弄し、冒涜し、汚す者について(1878番)。
来世で彼らはどんなものか(1761, 9222番)。
彼らは血液の粘り気に関係がある(5719番)。
みことばを汚すことからどれほどの危険が〔生ずるか〕(571-582番)。
もし偽りの原理が、特に自己と世への愛を賛同する原理が、みことばによって確信されるなら、それはどれほど害になるか(589番)。
真理のために真理への情愛が何もない中にいる者は、みことばの内意をまったく拒否し、またそれに嫌気を催す(経験から、5702番)。
みことばの内的なものを拒否した者について、来世で推理力を奪われたこと(1879番)。

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264◀︎目次▶︎266

265 みことばについてさらに多く
ヘブル語で「ことば」は、いろいろなことを意味する。すなわち、談話、心の考え、実際に存在するすべてのもの、なおまた何らかのものである(9987番)。
「みことば」は、神的な真理と主を意味する(4692, 5075, 9987番)。
「ことば」は、真理を意味する(4692, 5075番)。
それらは教えを意味する(1288番)。
「十のことば」は、すべての神的な真理を意味する(10688番)。
それは実際に存在するものを意味する(1785, 5075, 5272番)。

みことばの中に、特に預言の中に同じ一つの事柄に二つの表現がある。一つは善に、もう一つは真理に関係しており、このようにそれらは結合している(683, 707, 2516, 8339番)。
みことばの内意からでなくては、どの表現が善に、どの表現が真理に関係するか知ることができない。善に属するものを表現するのに固有の言葉と真理に属するものに固有の言葉があるからである(793, 801番)。
またこのことは、善について扱われているか、または真理について扱われているか、言葉の属性だけから知られるほどである(2722番)。
またときどき、一つの表現は全般的なもの(共通のもの)を、もう一つの表現はその全般的なものから定められるものを含む(2212番)。
みことばには相互性の姿(種類)がある(それについては2240番末)。
さらにまた、みことばの大部分のものは対立した意味をもつ(4816番)。
内意は叙述に関連してその主題にしたがって続く(4502番)。

みことばを喜んだ者は、来世で、愛からの喜びの質と量とにしたがって、天的な愛が内在する天界の熱を受ける(1773番)。

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265◀︎目次▶︎267

266 どれが、みことばの書か
みことばの書は内意をもつすべてのものである。けれども〔内意を〕もたないものは、みことばではない。旧約聖書でみことばの書は、「モーセの五書」、「ヨシュア記」、「士師記」、二つの「サムエル記」、二つの「列王記」、「ダビデの詩篇」、預言者「イザヤ」、「エレミヤ」、「哀歌」、「エゼキエル」、「ダニエル」、「ホセア」、「ヨエル」、「アモス」、「オバデヤ」、「ヨナ」、「ミカ」、「ナホム」、「ハバクク」、「ゼパニヤ」、「ハガイ」、「ゼカリヤ」、「マラキ」である。また新約聖書では、四つの福音書「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、「ヨハネ」と「黙示録」である。残りは内意をもっていない(10325番)。

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266◀︎目次▶︎268

摂 理

267 天界と地における主の統治は摂理と呼ばれます。愛に属するすべての善と信仰に属するすべての真理はそこから救いがあり、人間からではまったくなく、主からであるので、ここから主の神的な摂理は人類の救いに役立つすべてと個々のものの中に存在することが明らかです。このことを主は「ヨハネ福音書」で教えられています――

「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(14:6)。

また他のところに――

「枝がぶどうの木にとどまらないなら、それ自体では実を結ぶことかできないように、あなたがたもわたしの中にとどまらないなら、そのようです。……あなたがたはわたしからでないなら何もすることができません」(15:4, 5)。

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267◀︎目次▶︎269

268 主の神的な摂理は人間のいのち(生活)の最も個々のものにまで存在します。なぜなら、いのちのただ一つの源泉があって、それは主であり、そこから私たちは存在し、生き、行動するからです。

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268◀︎目次▶︎270

269 神的な摂理について世俗的なものから考える者は、それら〔世俗的なもの〕から摂理は単に全般的なものであって、個々のことは人間のもとにあると結論します。しかし、彼らは天界のアルカナを知りません。というのは、彼らは自己と世への愛と彼らの快楽だけから結論するからです。それゆえ、彼らは悪い者が善い者よりも名誉を高められ、富をもうけ、また策略にしたがって悪に成功するのを見るとき、自分の心の中で、もし神的な摂理がすべてと個々のものの中にあるなら、そのように起こることはないであろうと語るからです。しかし、彼らは、神的な摂理が、やがて過ぎ去って世の人間のいのちとともに終わりをもつものを眺めないで、永遠にとどまり、このように終わりをもたないものを眺める〔ものである〕ことを考慮しません。終わりをもたないものは存在します。しかし、終わりをもつものは相対的には存在しません――十万年も永遠と比べれば何であるか、考えることのできる者は考えなさい、そうすればそれが存在しないことを認めるでしょう。その時、世での何年間かの生活は何でしょうか?

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269◀︎目次▶︎271

270 正しく熟慮する者は、世で秀でることと富むことは、神〔から〕の真の祝福ではないことを知ることができます、それでも人間はそれらの快楽から、それらをそのように〔神の祝福〕と呼びます。〔真の祝福でないのは〕なぜならそれらは過ぎ去り、また多くの者を誘惑し、彼らを天界から離れさせるからです。しかし、永遠のいのちとその幸福とは神的なもの〔神〕からの真の祝福です。このこともまた主は「ルカ福音書」で教えられています――

「あなたがたは自分のために……尽きない宝を天につくりなさい。そこに盗人は近づかないし、しみも損じません。なぜなら、あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もまたあるからです」(12:33, 34)。

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270◀︎目次▶︎272

271 悪い者が策略にしたがって成功する理由は、だれも理性から、また自由からも行なわなくてはならない、という神の秩序によるからです。このために、人間は自由からその理性にしたがって行なうことを、こうしてまたそこから存在する策略が成功しないなら、人間は決して永遠のいのちを受け入れるように備えられることができません。というのは、そのいのちは人間が自由の中にいて、その理性が照らされているとき、しみ込むからです。すべて強制されたものは定着しないので、だれも善へ強いられることができないからです。というのは、それは彼自身のものではないから。人間の理性にしたがって自由からなされるものが人間自身のものとなり、意志または愛からなされるものは自由からなされるのであり、意志または愛は人間自身です。もし人間が欲しないものへ強いられるなら、心は常に欲するものへ傾きます。さらに、だれも禁じられたことへ向かいますが、これは隠れた理由からです。なぜなら、自由へ〔の欲求がある〕からです。ここから、人間が自由の中に保たれないなら、彼に善が備えられることができないことが明らかです。

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271◀︎目次▶︎273

272 さらにまた、人間にその者自身の自由から、悪を考え、欲し、そして法律が抑制しないかぎり、行なうままに残すことは、許しと呼ばれます。

新しいエルサレムとその天界の教え

272◀︎目次▶︎274

273 策略によって世での幸福に導かれることは、人間には〔それが〕プロプリウムの思慮分別からかのように見えます。しかしそれでも、〔悪が〕許され、また絶えず悪から遠ざけられることで神的な摂理が常に伴います。しかし、天界での幸福に導かれることは、プロプロウムの思慮分別からでないことが知られ、また認められています。主から、またその方の神的な摂理から、配列されて、絶えず善へ導かれることが行なわれているからです。

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273◀︎目次▶︎275

274 そのようであることは、人間は自然の光[ルーメン]から理解(把握)することができません。なぜなら、彼はその光から神的な秩序の法則を知らないからです。

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274◀︎目次▶︎276

275 摂理(先慮)と先見があることを知らなくてはなりません。善は主により備えられます、けれども、悪は主により先見されるものです。一つはもう一つとともに存在しなくてはなりません。なぜなら、人間から来るものは悪以外の何ものでもありません、しかし主からのものは善以外の何ものでもないからです。

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275◀︎目次▶︎277

『天界の秘義』から

主により人間に備えられるすべての善は流入するので、それゆえ、続くものの中で『天界の秘義』から、そこの「流入」について引用する。また主は神的な秩序にしたがってすべてのものを備えられるので、それゆえ、そこの「秩序」についても〔引用する〕。

276 摂理について

摂理は天界と地における主の統治である(10773番)。
主は摂理からすべてのものを秩序にしたがって支配され、このように秩序にしたがった統治は摂理である(1755, 2447番)。
また〔主は〕すべてのものを意志(みこころ)からか、または容赦(恩恵)からか、または許しからか、そのように人間のもとの性質にしたがっていろいろと顧慮し、支配される(1755, 3447, 4704, 9940番)。
摂理は目に見えないで働く(5508番)。
摂理から行なわれる大部分のものは、人間に偶発的なもののように見える(5508番)。
摂理が目に見えないで働くのは、人間が目に見えるものにより信じることを強いられないように、このようにその自由が傷つけられないようとの理由である。なぜなら、人間に自由がないなら, 改心されること, したがって救われることができないからである(1937, 1947, 2876, 2881, 3854, 5508, 5982, 6477, 8209, 8987, 9588, 10409, 10777番)。
神的な摂理は、やがて過ぎ去る一時的なものでなく、永遠のものを眺める(5264, 8717, 10776番, その説明、6491番)。

このことを理解しない者は、世で富むことと秀でることが備えられる唯一のものであると信じ、それゆえ、それらを神的なものからの祝福と呼ぶ。そのときそれでもそれらは主から祝福とは眺められておらず、単に世の人間の生活の手段としてだけ眺められている。人間の永遠のいのちに役立つものが主から眺められている(10409, 10776番)。

主の神的な摂理の中にいる者は、すべてと個々のものの中で永遠の幸福へ運ばれている(8478, 8480番)。
すべてのものを自然と〔人間の〕プロプリウムの思慮分別に帰して、何も神的なものに帰さない者は、このことを考えも、理解もしない(6481, 10409, 10775番)。
主の神的な摂理は、世に信じられているような、単に全般的なものであり、特殊なものや個々のものは人間の思慮分別にかかっている、というようなものではない(8717, 10775番)。
普遍的なものは、個々のものから、また個々のもののもとに存在しないなら、存在しない。特殊なものがひとまとめにされて全般的なものと呼ばれるように、個々のものがひとまとめにされて普遍的なものと呼ばれるからである(1919, 6159, 6338, 6482-6484番)。
普遍的なものは、個々のものから、また個々のものと一緒に存在するといったものである(917, 1040, 6483, 8857番)。
主の摂理は最も個々のものの中に存在しているので、普遍的なものである(1919, 2694, 4329, 5122, 5904, 6058, 6481~6486, 6490, 7004, 7007, 8717, 10774番。天界からの確認、6486番)。
主の神的な摂理は最も個々のものから発し、また最も個々のものの中に存在して、普遍的なものとなっていないなら、決して存続することはできない(6338番)。
すべてのものはそれ〔神的な摂理〕によって秩序の中に配列され、全般的にも、個別的にも秩序の中に保たれる(6338番)。
〔このことが〕どのように地上の王と比較されているか(6482, 10800番)。
人間のプロプリウムからの思慮分別は全世界の中の小さな塵のようなものであるが、神的な摂理は相対的に全世界そのもののようである(6485番)。
このようであることを、人間は世の中でほとんど理解(把握)しない(8717, 10775, 10780番)。
なぜなら、多くの欺きに襲われて、盲目をひき起こしているからである(6481番)。
すべてのものは〔人間の〕プロプリウムの思慮分別にあり、神の摂理には何もないと世で信じ、確認もした来世のある者について。彼のもとにあるものは地獄的なものに見えた(6484番)。

悪に関して主の摂理、それがどんなものか(6481, 6495, 6574, 10777, 10779番)。
悪は主により許しの法則によって支配され、秩序のために許される(8700, 10778番)。
主による悪の許しは欲する者〔の許し〕のようなものではない。しかし、欲する者〔許し〕のようなものではないが、救いという追い立てられた目的のために、援助をもたらすことのできない者〔に許すようなもの〕である(7877番)。
人間に、自分自身の自由から悪を考え、欲し、法律に禁じられていないかぎり、それを行なうままに残すことは、許すことである(10778番)。
(自由がなくては、このようにこの許しがなくては人間は改心されることはできず、したがって救われることができないことはこの「教え」の前の「自由について」参照、141-149番)。

摂理(先慮)と先見は主にあり、一つはもう一つなしに存在しない(5195, 6489番)。
主により、善は先慮され、悪は先見される(5155, 5195, 6489, 10781番)。

予定または運命は存在しない(6487番)。
すべての者は天界に予定され、だれも地獄には予定されていない(6488番)。
摂理から人間のもとに絶対的な必然性は何ら存在しないで、完全な自由が存在する(比較によって説明される、6487番)。
みことばの中の「選ばれた者」によって善の生活の中にいて、そこから真理の生活の中にいる者が意味される(3755, 3900, 5057, 5058番)。
「神が御手によって起こすことをなされる」(出エジプト記21:13)ことは、どのように理解されるべきか(9010番)。

世の中で多くの場合に驚くべきことのように思われる幸運は、人間の状態がどんなものかにしたがって、秩序の最後的なものの中での神の摂理の働きである。このことから、神の摂理がすべてのものの最も個々のものの中にも存在することが証拠づけられることができる(5049, 5179, 6493, 6494番)。
幸運とその多様性(変化)とは霊界から発している(さらに経験から, 5179, 6493, 6494番)。

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276◀︎目次▶︎278

277 流入について
世の中への天界の流入について、身体のあらゆる部分の中への霊魂の流入について(経験から、6053-6058, 6189-6215, 6307-6327, 6466-6495, 6598-6626番)。
それ自体からは何も存在しないで、それ自体よりも前のものから、このようにすべてのものは「最初のもの」から存在する(4523, 4524, 6040, 6056番)。
すべてのものは存在したように、それらはまたさらに存続する、なぜなら存続は不断の存在であるから(2886, 2888, 3627, 3628, 3648, 4523, 4524, 6040, 6056番)。
流入はその秩序にしたがって生ずる(7270番)。
ここから、すべてのものは最初のエッセから存在しているので、そこから断えず存続することが明らかである(4523, 4524, 6040, 6056番)。
いのちのすべては最初のものから、このように主から存在するので、そこから流入する(3001, 3318, 3337, 3338, 3344, 3484, 3628, 3629, 3741-3743, 4318-4320, 4417, 4524, 4882, 5847, 5986, 6325, 6468-6470, 6479, 9279, 10196番)。
すべてのエキシステレはエッセからであり、それ自体のエッセがその中に存在しないなら、何も存在することができない(4523, 4524, 6040, 6056番)。

人間が考え、意志する(欲する)ものはすべて流入する(経験から、904, 2886-2888, 4151, 4319, 4320, 5846, 5848, 6189, 6191, 6194, 6197-6199, 6213, 7147, 10219番)。
人間が事物を観察し、考え、分析的に結論できるのは流入からである(2888, 4319, 4320番)。
もし霊界からの流入が人間から取り去られるなら、人間は一瞬も生きることはできない。それでも、人間は自由の中にいる(経験から、2887, 5849, 5854, 6321番)。
主から流入するいのちは、人間の状態にしたがって、またその受け入れにしたがって変化する(2069, 5986, 6472, 7343番)。
悪い者のもとで、主から流入する善は悪に、真理は虚偽に変えられる(経験から、3643, 4632番)。
主から絶えず流入する善と真理は、悪と虚偽に妨げらなければ妨げられないほど、それだけ受け入れられる(2411, 3142, 3147, 5828番)。
すべての善は主から、すべての悪は地獄から流入する(904, 4151番)。
今日、人間はすべてのものは自分自身の中に存在する、自分自身から存在すると信じている、その時それでも流入する。またこのことはすべての善は天界からであり、すべての悪は地獄からであるという教会の教えから知ることができる(4249, 6193, 6206番)。
しかし、もし彼が事物をその〔あるが〕ままに信じるなら、彼は悪を自分に専有しない。というのは、それを自分自身から地獄へ投げ返し、また善も自分自身のものともしないし、このようにそこから何らの功績も〔要求し〕ないから(6206, 6324, 6325番)。
その時、人間の状態はどれほど幸福であろう、というのは、主によって善と悪を内側から見るからである(6325番)。
天界を否定する者は、またはそれについて何も知らない者は、そこから何らかの流入が存在することを知らない(4322, 5649, 6193, 6479番)。
流入とは何か(比較によって説明される, 6128, 6190, 9407番)。

流入は霊的であって、物質的(自然的)ではなく、このように流入は霊界から自然界の中へであって、自然界から霊界の中へではない(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5477, 6322, 9109, 9110番)。
流入は内なる人を通して外なる人の中へであり、〔その〕逆ではない(1702, 1707, 1940, 1954, 5119, 5259, 5779, 6322, 9380番)。
なぜなら、内なる人は霊界に、外なる人は自然界にいるから(978, 1015, 3628, 4459, 4523, 4524, 6057, 6309, 9701-9709, 10156, 10472番)。
流入は外なるものから内なるもの中へであるかのように見えるが、これは欺きである(3721番)。
人間のもとの流入は彼の理性的なものの中へ、それを通して記憶知の中へであり、〔その〕逆ではない(1495, 1707, 1940番)。
流入の秩序がどんなものか(775, 880, 1096, 1495, 7270番)。
主からの直接の流入、それとまた霊界または天界を通して間接的な流入がある(6063, 6307, 6472, 9682, 9683番)。
主からの直接の流入はすべてのものの最も個々なものの中にも存在する(6058, 6474-6478, 8717, 8728番)。
天界を通しての主の間接的な流入について(4067, 6982, 6985, 6996番)。
それは人間に接合している霊と天使とを通して行なわれる(697, 5846-5866番)。
主は目的の中へ天使を通して流入されている、それ〔目的〕から、またそのために人間はそのように考え、欲し、行動する(1317, 1645, 5846, 5854番)。
〔また〕人間のもとの良心に属するものの中へ〔流入されている〕(6207, 6213番)。
けれども、主は霊を通して思考の中へ、こうして記憶の事柄の中へ流入される(4186, 5854, 5858, 6192, 6193, 6198, 6199, 6319番)。
このことが人間により信じられることができるのは困難である(6214番)。
主は最初のものと同時に最後のものにも流入される、すなわち、最も内なるものと同時に最も外なるものにも流入される、どのようにして(5147, 5150, 6473, 7004, 7007, 7270番)。
主の流入は人間のもとの善へ、そして善を通して真理へである、けれども逆ではない(5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153番)。
善は主からの流入を受け入れる能力を与える、けれども善のない真理は与えられない(8321番)。
思考の中に入るものは害にならない、しかし、意志に入るもの〔が害になる〕、これは人間に専有されるから(6308番)。
神的なものは最高のところでは沈黙し、また平穏でもあるが、しかし、それが人間のもとの低いところへ下降するにしたがって、そこの無秩序のために、不穏となり、また騒がしくもなる(8823番)。
預言者のもとの主の流入、それがどんなものか(6212番)。

全般的な(共通の)流入がある(5850番)。
それは秩序にしたがって行動する絶え間のないコナトゥス(努力)である(6211番)。
その流入は動物の生命(いのち)に〔も〕ある(5850番)。
そしてまた植物界の対象に〔もある〕 (3648番)。
さらにまた全般的な流入にしたがって、人間のもとで、思考は話し方に、意志は振る舞いに落ち込む(5862, 5990, 6192, 6211番)。

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277◀︎目次▶︎279

278 特に人間のもとのいのちの流入について
唯一のいのちが存在し、そこから天界の中と同様に世の中のすべてのものが生きている(1954, 2021, 2536, 2658, 2886-2889, 3001, 3484, 3742, 5487, 6467番)。
このいのちは主おひとりからである(いろいろなものによる説明、2886-2889, 3344, 3484, 4319, 4320, 4524, 4882, 5986, 6325, 6468~6470, 9276, 10196番)。
(主はいのちそのものであられることは、ヨハネ1:1, 4, 5:26, 14:6参照。)
主からのいのちは、天使、霊、人間のもとへ驚くべき方法で流入する(2886~2889, 3337, 3338, 3484, 3742番)。
主はご自分の神的な愛から流入されるが、それはご自分のものが他の者のものであることを欲するといったものである(3742, 4320番)。
すべての愛はこのようなものである。そのように神的な愛は無限に大きなものである(1820, 1865, 2253, 6872番)。
ここから、いのちは人間の中に存在するかのように見え、流入するもののようには見えない(3742, 4320番)。
いのちはあたかも人間の中にあるかのように見える、主からのいのちである主要な原因もまた、受け入れる形である手段的な原因、一つの原因として働き、その手段的なものの中に感じられるからである(6325番)。
天使の知恵と知性の主要なものは、すべてのいのちは主からであることを知覚し、知ることである(4318番)。
天使の楽しさについて、〔それは〕彼らが自分自身からでなく、主から生きていることから〔であることが〕 私との会話によって、知覚され、確かめられた(6469番)。
悪い者はいのちが流入することを納得されたくない(3743番)。
欺き、無知、否定が支配するかぎり、主からのいのちの流入について疑いを遠ざけることはできない(6479番)。
教会のすべての者は、すべての善と真理は天界から、すなわち、主から天界を通ってくるもの、すべての悪と虚偽は地獄からのものであることを知っている。それでもすべてのいのちは善と真理に、また悪と虚偽に関係していて、それらがなくてはいのちはまったく存在しないほどのものである(2893, 4151番)。
教会の教えもまたそのことをみことばから教える(4249番)。
それにもかかわらず人間はいのちが流入することを信じない(4249番)。
もし霊と天使たちとの伝達と関係が〔人間から〕取り去られるなら、人間は直ちに死ぬであろう(2887番)。
またここから、何ものもそれ自体からではなく、それ自体よりも前のものから存在し、こうしてすべてと個々のものは「最初のもの」から存在しているので、そして存続は不断の存在であるので、さらにまた存在するようになり、すべてのものは存続するので、すべてのいのちはいのちの「最初のエッセ」から流入することが明らかである(4523, 4524番)。
天使、霊、人間はいのちを受け入れるものへと創造された。そのようにいのちを受け入れる単なる形である(2021, 3001, 3318, 3344, 3484, 3742, 4151, 5114, 5986番)。
その形は〔その神のいのちを〕受け入れるような形である(2888, 3001, 3484, 5847, 5986, 6467, 6472番)。
それゆえ、人間、霊、天使は、神からのいのちを受け入れるような形である(2888, 5847, 5986, 6467, 6472番)。
人間は、獣とは異なって、自分の最も内なるものの中に、そこから秩序をもってそれに続くものの中に、神的なものを受け入れて、神的なものへ高揚され、愛の善と信仰の真理によって神的なものに結合されることができ、それゆえ永遠に生きるように創造されている(5114番)。

さらにまた主からのいのちは悪い者のもとにも、そのようにまた地獄にいる者のもとにも流入する(2706, 3743, 4417, 10196番)。
しかし、彼らは善を悪に、真理を虚偽に変え、このようにいのちを霊的な死に変える。なぜなら、人間がどのようなものかによって、そのように〔その人間の〕いのちの受け入れもあるからである(4319, 4320, 4417番)。
主からの善と真理もまた常に彼らのもとへ流入する。しかし、彼らは投げ返すか、または窒息させるか、または歪曲させるかする(3743番)。
悪の中にいて、ここから虚偽の中にいる者は、真のいのちの中にいない。彼らがどんなものか(726, 4623, 4747, 10284, 10286番)。

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278◀︎目次▶︎280

279 秩序について
主から発出する神的な真理は秩序から発出するものであり、神的な善は秩序の本質である(1728, 2258, 8700, 8988番)。
神的な善と神的な真理とは主からのもの、それどころか、主は天界と地に存在されるので、主は秩序であられる(1919, 2011, 5110, 5703, 10336, 10619番)。
神的な真理は秩序の諸法則である(2447, 7995番)。
秩序のあるところ、そこに主は現在される、けれども、秩序のないところに、そこに主は現在されない(5703番)。
神的な真理は秩序であり、神的な善は秩序の本質であるので、全世界のすべてと個々のものは、何らかのものであるために、善と真理に関係する。なぜなら〔それらは〕秩序に〔関係するから〕(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122, 10555番)。
善は、秩序の本質であるので、真理を秩序へと配列する、その逆ではない(3316, 3470, 4302, 5704, 5709, 6028, 6690番)。
天使のもとにある主の神的なものが天界をつくるので、天使たちのすべての社会に関して全天界は、主によりご自分の神的な秩序にしたがって配列されている(3038, 7211, 9128, 9338, 10125, 10151, 10157番)。
ここから天界の形は神的な秩序にしたがった形である(4040-3043, 6607, 9877番)。

人間は秩序にしたがって生きれば生きるほど、したがって秩序の法則である神的な真理にしたがって善に生きれば生きるほど、それだけ人間である(4839番)。
それどころか、人間はそのように生きれば生きるほど、それだけ来世で完成された美しい人間として見られる。しかしそのように生きないなら、それだけ怪物として見られる(4839, 6605, 6626番)。
ここから、神的な秩序のすべてのものは人間の中にまとめられ、人間は創造から神的な秩序の形であることが明らかである(4219, 4220, 4223, 4523, 4524, 5114, 5368, 6013, 6057, 6605, 6626, 9706, 10156, 10742番)。
それぞれの天使は、主からの神的な秩序を受け入れるものであり、受け入れにしたがって完成された美しい人間の形をしている(322, 1880, 1881, 3633, 3804, 4622, 4735, 4797, 4985, 5199, 5530, 6054, 9879, 10177, 10594番)。
統1体としての全天界もまた人間のような形である。このことは、全天界は、そこの天使たちのすべての社会は主により神的な秩序にしたがって配列されているからである(2996, 2998, 36243629, 3636~3643, 3741-3745, 4625番)。
ここから、神的人間性はこれらすべてのものがそこからのものであることが明らかである(2996, 2998, 3624-3649, 3741-3745番)。
ここからもまた主は唯一の人間であられること、その方から神性を受け入れる者が人間であることがいえる(1894番)。
受け入れれば受け入れるほど、それだけ主の映像である(8547番)。

人間は善と真理の中でなく、悪と虚偽の中へ、そのように神的な秩序の中へでなく、秩序と対立したものの中へ生まれている。ここからまったく無知の中へ生まれていて、それゆえ、彼は必然的に新しく生まれなくてはならない、すなわち、再生しなくてはならない。それは主から神的な真理を通して、またそれにしたがった生活を通して行なわれ、そのため彼は秩序に入れられて、このように人間となる(1047, 2307, 2308, 3518, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731番)。
主は人間を再生させられるとき、人間のもとのすべてものを秩序にしたがって、すなわち、天界の形にしたがって配列される(5700, 6690, 9931, 10303番)。
主により導かれる人間は、神的な秩序にしたがって導かれる(8512番)。
神的な秩序の中にいる人間のもとでは、その心の内部は、天界に、主にまでも開いているが、神的秩序の中にいない者には閉じられている(8513番)。
人間は秩序にしたがって生きれば生きるほど、それだけ知性と知恵がある(2592番)。

主は秩序の最初のものと最後のものを、最初のものを最後のものから、最後のものを最初のものから支配され、このようにすべてのものを関係の中に、秩序の中に保たれる(3702, 3739, 6040, 6056, 9828番)。
連続的な秩序について。また最後のものについて、それらの中に連続的なものと同時にまたその秩序の中にもまた存在する(634, 3691, 4145, 5114, 5897, 6239, 6326, 6465, 8603, 9215, 9216, 9828, 9836, 10044, 10099, 10329, 10335番)。

悪と虚偽は、秩序に反しているが、それでも主により、秩序にしたがってではなく、秩序から、支配される(4839, 7877, 10778番)。
悪と虚偽は許しの法則によって支配され、そしてこれは秩序のためである(7877, 8700, 10778番)。
神的な秩序に反していることは不可能である。例えば、悪に生きる人間が、あわれみだけから救われることができること。なおまた来世で悪い者が善い者と仲間となることができること、その他の多くのこと(8700番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

279◀︎目次▶︎281

主 

280 全世界の創造者と維持者であるひとりの神がおられます。したがって、その方は天の神と地の神であられます。

新しいエルサレムとその天界の教え

280◀︎目次▶︎282

281 人間のもとに天界のいのちをつくるニつのもの、愛の善と信仰の真理があります。このいのちは神からであり、人間からでは決してありません。そのために、教会の主要なものは神を認めること、神を信じること、その方を愛することです。

新しいエルサレムとその天界の教え

281◀︎目次▶︎283

282 教会内に生まれた者は、主と、その神性とその人間性を認め、その方を信じ、その方を愛さなくてはなりません。なぜなら、すべての救いは主からであるからです。このことを主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。しかし、御子を信じない者はいのちを見ないで、神の怒りがその者の上にとどまる」(3:36)。

同書に、

「御子を見て、その方を信じるすべての者が永遠のいのちを得ること、これがわたしを遣わされた者の意志です。わたしはその者を最後の日によみがえらせます」(6:40)。

同書に――

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きます。しかし、生きてわたしを信じるすべての者は永遠に死にません』」(11:25, 26)。

新しいエルサレムとその天界の教え

282◀︎目次▶︎284

283 そのために、教会内にいて主とその神性を認めない者は神と結合することが、したがって天界の天使とともに分け前も持つことができません――なぜなら、だれも主によらなくては、また主の中にいなくては神と結合することができないからです。
だれも主によらないなら神と結合することができないことを主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

「だれもかつて神を見てない。父のふところの中におられるひとり子がその方を説き明かされたのである」(1・18)。

同書に、

「あなたがたはかつて父の御声を聞いても、またその御形を見てもいません」(5・37)。

「マタイ福音書に」、

「御子と御子が父を現わそうと欲する者をのぞいて、だれも父を知りません」(11・27)。

「ヨハネ福音書」に、

「わたしは道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでないなら、だれも父のみもとに来ません」(14・6)。

だれも主の中にいないかぎり神と結合することができません。なぜなら、「ヨハネ福音書」でもまた教えられているように、父はその方の中におられ、父と主とは一つのものであられるからです、

「あなたがたはわたしを知るなら、わたしの父もまた知ります。……わたしを見た者は父を見ます。『ピリポよ、あなたはわたしが父の中におり、父がわたしの中におられるのを信じないのですか。……わたしは父の中に、父はわたしの中におられることを信じなさい』」(14・7~11)。

また同書に、

「父とわたしは一つです。……わたしは父の中に、父はわたしの中におられることをあなたがたが知って信じるためです」(10・30, 38)。

新しいエルサレムとその天界の教え

283◀︎目次▶︎285

284 父は主の中におられ、そして父と主とは一つであるので、その方を信じなくてはなりません、またその方を信じる者は永遠のいのちをもつので、主は神であられることが明らかです。
主が神であられることは、みことばに教えられています――例えば「ヨハネ福音書」には、

「はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。神はみことばであった。……すべてのものはその方によって造られ、その方なしには造られたものは1つとして造られなかった。……みことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその方の栄光を、父のひとり子としての栄光を見た」(1・1, 3, 14)。

「イザヤ書」に、

「男の子が私たちに生まれ、息子が私たちに与えられ、その肩の上に主権があり、その名は……神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(9・6)。

同書に、

 「処女がみごもって子を産むであろう。……その方の名は私たちとともにおられる神と呼ばれる」(7・14, マタイ1・23)。

また「エレミア記」には、

 「見よ、わたしがダビデに正しい枝を生えさせる日が来る。その方は王として統治し、栄える。……エホバ、私たちの義、これがその方の名であり、彼らはそのようにその方を呼ぶ」(23・5, 6, 33・15, 16)。

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284◀︎目次▶︎286

285 教会に属し、天界からの光の中にいるすべての者は、主の中に神性を認めます。しかし、天界からの光の中にいない者は、主の中に人間性以外に何も見ません。そのとき、それでも神性と人間性とは一つのものとなっているほどに結合しています。例えば主もまた「ヨハネ福音書」の他のところで教えられています、

「父よ、わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはすべてわたしのものです」(17・10)。

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285◀︎目次▶︎287

286 主は父なるエホバからみごもられ、こうして受胎のときから神であられたことが教会に知られています。また主は全身をもってよみがえられたことも〔知られています〕、なぜなら、主は墓には何一つ残されなかったからです。このこともまた後に語って、弟子たちに確認させられました、

「わたしの手とわたしの足を見なさい、これはわたし自身です。わたしに触って、見なさい。霊にはあなたがたがわたしにあるのを見るような肉と骨がないからです」(ルカ24・39)。

また、肉と骨に関して人間であられたけれども、それでも閉ざされた戸を通って入られて、そしてご自分を現わされた後、見えなくなられました(ヨハネ20・19, 26, ルカ24・31)。〔このことは〕すべての人間と異なっています、なぜなら、人間は単に霊に関してだけよみがえり、身体に関してよみがえらないからです。それゆえ、主は〔ご自分を〕「霊のようなものではない」と語られたとき、「他の人間のようなものではない」と語られたのです。ここから、主の中の人間性もまた神的なものであることが明らかです。

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286◀︎目次▶︎288

287 すべての人間は父から霊魂と呼ばれる自分のいのちのエッセをもち、そこからいのちのエキシステレは身体と呼ばれます。それゆえ、身体はその霊魂の似姿です。なぜなら、霊魂は身体によって意のままにそのいのちを活動させるからです。ここから、人間は自分の両親に似たものの中へ生まれ、家族は〔互いに他から〕区別されます。ここから主の「身体」がどんなものかまたは「人間性」がどんなものか明らかです、すなわち、それは神性そのもののようなものであって、その神性そのものは主のいのちのエッセ、または父からの霊魂であったことです。それゆえ、主は言われました、

「わたしを見る者は父を見ます」(ヨハネ14・9)。

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287◀︎目次▶︎289

288 主の神性と人間性が一つの位格であることは全キリスト教世界に受け入れられている信仰であり、それはこのようなものです――

たとえキリストは神と人間であっても、それでもふたりではなく、ひとりのキリストである。それどころか、その方は完全にひとりであられ、ただ一つの位格である。なぜなら、肉体と霊魂が一人の人間であるように、神と人間もまたひとりのキリストであるから。
これはアタナシウス信条からです。

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288◀︎目次▶︎290

289 神性について、三つの人格の観念をもつ者は ひとりの神の観念をもつことができません。口で一人〔の神〕を語っても、それでも三人を考えています――しかし、神性について、一つの人格の中に三つのものの観念をもつ者は ひとりの神の観念をもち、 ひとりの神を語り、また 一人の神を考えることができます。

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289◀︎目次▶︎291

290 父は主の中におられ、聖霊はその方から発出することが考えられるとき、一つの位格の中に三つのものの観念がもたれます。その時、三一性が主の中に存在します。〝父〟と呼ばれる神性それ自体と〝子〟と呼ばれる神的人間性、それと〝聖霊〟と呼ばれる発出する神的なものです。

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290◀︎目次▶︎292

291 神性はすべて主の中にあるので、その方に天と地におけるすべての力があります。このこともまたその方は「ヨハネ福音書」に語られています、

 「父は……すべてのものを御子の手に与えられた」(3・35)。

同書に、

「父は御子にすべての肉を支配する力を与えられた」(17・2)。

「マタイ福音書」に、

「わたしはすべてを父から委ねられています」(11・27)。

同書に、

「天と地におけるすべての力をわたしは与えられています」(28・18)。

このような力は神的なものです。

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291◀︎目次▶︎293

292 主の人間性を他の人間の人間性と同じようなものとする者は、主が神性それ自体から受胎されたことについて考えないし、またそれぞれの者の肉体は彼の霊魂の似姿であることも考慮しません。
彼らはその方が全身をもって復活されたことについて考えないし、また〔主が〕形を変えられたとき、その方の顔が太陽のように輝いたというその方の光景も考えません。
彼らはまた、主の語られたご自分への信仰について、父と一つであることについて、栄光について、天と地を治める力についても考えません――これらは神的なものであり、ご自分の人間性について語られた事柄です。
彼らはまた、主は人間性に関しても遍在されることを思い浮かべません(マタイ28・20)。それでも聖餐の中にその方が遍在されるという信仰はそこからのものであり、遍在は神的なものです。それどころか、おそらく彼らは聖霊と呼ばれる神性が主の人間性から発出することを考えませんが、それでもそのとき〔神性は〕主の栄化された人間性から発出します。なぜなら、語られているからです、

「イエスはいまだ栄光を受けられ〔栄化され〕なかったため、聖霊はいまだ降らなかった」(ヨハネ7・39)。

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292◀︎目次▶︎294

293 主は人類を救うために世に来られました、そうでなければ〔人類は〕永遠の死に滅んだでしょう。世に来て、また世から去るすべての人間を脅かす地獄を征服されることによって、また同時にご自分の人間性を栄化されることによって〔主は人類を〕救われました。なぜなら、こうして地獄を永遠に支配することができるからです。
地獄を征服されると同時にその人間性を栄化されることは、主が母から得られたその人間性に許容された試練によって、またその時、絶えず勝利されたことによって行なわれました――その方の十字架上の受難は最後の試練であり、また完全な勝利でした。

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293◀︎目次▶︎295

294 主は地獄を征服されたことを、ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられています。十字架の受難が切迫したとき、その時、イエスは語られました、

「今はこの世の審判です。今、この世の君は追い出されます」(12・27, 28, 31)。

同書に、

「信頼しなさい、わたしは世に勝ちました」(16・33)。

また「イザヤ書」に、

「このエドムから来て、……非常な力をもって進み行き、……救うに偉大なこの方はだれか。……わたしの腕がわたしに救いをもたらした。それゆえその方は彼らの救い主となられた」(63・1~19, 59・16~21)。

主はご自分の人間性を栄化されたこと、十字架の受難は最後の試練であり、完全な勝利であり、このことによって栄化されたことを、「ヨハネ福音書」でもまた教えられています、

「ユダが出て行った後、イエスは言われた。『今や、人の子は栄化されます、神もご自身によってその方を栄化されます。直ぐにその方を栄化されます』」(13・31, 32)。

同書に、

「父よ、時が来ました。あなたの子を栄化してください、あなたの子もまたあなたを栄化するためです」(17・1, 5)。

同書に、

「今、わたしの魂は乱れています。……『父よ、あなたの御名を栄化してください』。すると天から声が出て来た。『わたしはすでにそれを栄化した、再びそれを栄化しよう』」(12・27, 28)。

また「ルカ福音書」に、

「キリストはこの苦しみを受けて、栄光に入るのではないのか」(24・26)。

これらはその方の受難について語られています――「栄化する」は神的なものにすることです。そこでここから、主が世に来られて、人間となられ、その方を信じ、その方を愛するすべての者をそのように地獄から解放されなかったなら、死ぬべき〔人間の〕だれも救われることができなかったことが明らかです――主なしに救いはないということは、このように理解されるべきです。

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295 主はご自分の人間性を完全に栄化されたとき、その時、母から発する人間性を脱ぎ捨てて、父から発する人間性を、すなわち神的人間性を着けられました――それゆえ、その時、主はもはやマリアの息子ではあられませんでした。

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295◀︎目次▶︎297

296 教会の最初で第一のものは、その教会の神を知り、認めることです。なぜなら、その認識と承認なしに、そのように教会内に主の承認がなくては、〔神との〕結合はないからです。
このことを主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。しかし、御子を信じない者はいのちを見ないで、神の怒りがその者の上にとどまる」(3・36)。

他のところに――

「あなたがたは、わたしがある〔存在する者である〕ことを信じないなら、あなたがたの罪の中で死にます」(8・24)。

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296◀︎目次▶︎298

297 主の中に三一性があること、すなわち、神性それ自体、神的人間的、発出する神的なものがあることは天界から来ているアルカナ(秘義)であり、聖なるエルサレムの中にいることになる者たちのためのものです。

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297◀︎目次▶︎299

『天界の秘義』から

298 神性は主に受胎そのものから存在した
父からの神性が主に存在した(4641, 4963, 5041, 5157, 6716, 10125番)。
主おひとりに神的な種が存在した(1438番)。
その方の霊魂はエホバであった(1999, 2004, 2005, 2018, 2025番)。
このように主の最も内なるものは神性そのものであり、まとっているものは母から発した(5041番)。
神性そのものは主のいのちのエッセであり、そこからその後、人間性が発生し、そのエッセからエキシステレとなった(3194, 3210, 10270, 10372番)。

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298◀︎目次▶︎300

299 主の神性は認められなくてはならない
みことばが存在し、それによって主が知られている教会内では、主の神性は否定されてはならない、その方から発出する聖性も否定されてはならない(2359番)。
教会内で主を認めない者は、彼に神性との結合はない。教会外にいる者は異なる(10205番)。
主の神性、そしてその方と父との結合を認めることは、教会の本質的なものである(10083, 10112, 10370, 10730, 10738, 10816~10818, 10820番)。

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299◀︎目次▶︎301

300 主は世でご自分の人間性を栄化された
主の栄化について、みことばの中で多く扱われている(10828番)。
みことばの内意の中でどこでも〔扱われている〕(2249, 2523, 3245番)。
主はご自分の神性なしで人間性を栄化された、それは本質的に、栄化されていたからである(10057番)。
主はご自分の人間性を栄化するために世に来られた(3637, 4287, 9315番)。
主は受胎されたときからその方の中にあった神性によってご自分の人間性を栄化された(4727番)。
主の人間性の栄化の観念は人間の再生の観念からもつことができる、主はご自分の人間性を栄化されたように、そのように人間を再生されるからである(3043, 3138, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688番)。
主の人間性の栄化に関していくつかのアルカナについて(10057番)。
主はご自分の人間性を栄化されたことによって人類を救われた(1676, 4180番)。
主の栄化と卑下の状態について(1785, 1999, 2159, 6866番)。
栄化は、主について〔述べられている〕ところでは、その方の人間性と神性との結合であり、栄化することは、神的なものにすることである(1603, 10053, 10828番)。

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300◀︎目次▶︎302

301 主は世におられたとき人間性から地獄を征服された
主は世におられたとき、すべての地獄を征服し、またその時、天界と地獄のあらゆるものを秩序づけられた(4075, 4287, 9937番)。
その時、主は霊界を洪水以前の者から解放された(1266番)。
彼らはどのようなものであったか(310, 311, 560, 562, 563, 570, 581, 607, 660, 805, 808, 1034, 1120, 1265~1272番)。
主は地獄を征服されると同時に、ご自分の人間性を栄化されることによって人類を救われた(4180, 10019, 10152, 10655, 10659, 10828番)。

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301◀︎目次▶︎303

302 主の人間性の栄化と地獄の征服とは試練によって行なわれた
主はすべての者にまさって最もはなはだしい試練(誘惑)を受けられた(1663, 1668, 1787, 2776, 2786, 2795, 2816, 4295, 9528番)。
主は人類に対する神的な愛から闘われた(1690, 1691, 1812, 1813, 1820番)。
主の愛は人類の救いであった(1820番)。
地獄は主の愛に反抗して闘った(1820番)。
主おひとりが〔ご自分に〕固有のものの力から地獄に反抗して闘い、これに勝たれた(1692, 1813, 2816, 4295, 8273, 9937番)。
そこから主おひとりが義(公正)と功績になられた(1813, 2025~2027, 9715, 9809, 10019番)。
主の最後の試練はゲツセマネと十字架にあり、その時もまた主は完全な勝利し、それによって地獄を征服され、同時に、ご自分の人間性を栄化された(2776, 2803, 2813, 2814, 10655, 10659, 10828番)。
主は神性それ自体に関して誘惑されることはおできにならなかった(2795, 2803, 2813, 2814番)。
それゆえ、主は母から弱い人間性をとられ、それに試練を許された(1414, 1444, 1573, 5041, 5157, 7193, 9315番)。
主は試練と勝利によって母から遺伝したすべてのものを追い出され、母からの人間性を脱ぎ去り、ついにはもはやその息子ではあられなかった(2159, 2574, 2649, 3036, 10830番)。
その方の中におられたエホバは、試練にあってはあたかもおられないかのように見えたが、このことは〔その方が〕母からの人間性の中におられるかぎり起った(1815番)。
この状態は主の卑下の状態であった(1785, 1999, 2159, 6866番)。
主はまた試練と勝利によって天界のすべてのものを秩序をもって配列された(4287, 4295, 9528, 9937番)。
また同じものによってご自分の人間性を神性と結合された, すなわち, ご自分の人間性を栄化された(1725, 1729, 1733, 1737, 3318, 3381, 3382, 4286, 4287, 4295, 9528, 9937番)。

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302◀︎目次▶︎304

303 世におられたとき、主の人間性は神的な真理であった
世におられたとき、主はその方の中にある神的な善からご自分の人間性を神的な真理とされた(2803, 3194, 3195, 3210, 6716, 6864, 7014, 7499, 8127, 8724, 9199番)。
その時、主は神的な真理にしたがっている天界の形にご自分の中にあるすべてのものを配列された(1928, 3633番)。
したがって、その時、その天界は主の中に、そして主は天界として存在された(911, 1900, 1928, 3624~3631, 3634, 3884, 4041, 4279, 4523~4525, 6013, 6057, 6690, 9279, 9632, 9931, 10303番)。
主は神的な真理そのものから語られた(8127番)。
それゆえ、主はみことばの中で対応によって語られた(3131, 3472~3485, 8615, 10687番)。
そこから、主はみことばであられ、みことばと言われ、それは神的な真理である(2533, 2813, 2859, 2894, 3393, 3712番)。
みことばでは「人の子」は神的な真理を、そして「父」は神的な善を意味する(2803, 3704, 7499, 8724, 9194番)。
主は神的な真理であられたので、神的な知恵であられた(2500, 2572番)。
主おひとりにその方ご自身からの、またすべての天使の知覚と思考にまさった知覚と思考があられた(1904, 1914, 1919番)。
神的な真理は誘惑されることができた、しかしながら、神的な善は〔誘惑されることは〕ない(2814番)。

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303◀︎目次▶︎305

304 主は神的な真理を神的な善に、このようにご自分の人間性を神性それ自体に結合された
主は他の人間のように教育された(1457, 1461, 2523, 3030番)。
主は父との結合へ継続的に進まれた(1864, 2033, 2632, 3141, 4585, 7014, 10076番)。
主は父と結合すればするほど、それだけご自分そのものと話されるように話されたが、そうでなければ他の者と〔話される〕ように〔話された〕(1745, 1999, 7058番)。
主は固有のものの力から人間性を神性に結合された(1616, 1749, 1752, 1813, 1921, 2025, 2026, 2523, 3141, 5005, 5045, 6716番)。
主はご自分である神的な真理をご自分の中の神的な善に結合された(10047, 10052, 10076番)。
結合は相互的であった(2004, 10067番)。
主は世から去られたとき、ご自分の人間性を神的な善にされた(3194, 3210, 6864, 7499, 8724, 9199, 10076番)。
このように父から出て、父へ帰られた(3194, 3210番)。
こうして父と一つのものになられた(2751, 3704, 4766番)。
主はご自分の中にあった神性それ自体と結合される中で、ご自分と人類との結合を目指された(2034番)。
結合の後、神的な真理が主から発出する(3704, 3712, 3969, 4577, 5704, 7499, 8127, 8241, 9199, 9398番)。
神的な真理はどのように発出するか(説明、7270, 9407番)。

神性が主の人間性の中に受胎から存在しなかったなら、人間性は、神性それ自体の中に存在している無限の愛の熱さのために、神性それ自体に結合することはできなかったであろう(6849番)。
それゆえ、どの天使も、遠方から、またおおって隠すことによらないなら、神性それ自体に結合することは決してできない。そうでなければ、焼き尽くされる(6849番)。
神的な愛はこのようである(8644番)。
ここから、主の人間性は他の人間の人間性のようではなかったことを知ることができる(12125, 10826番)。
主の霊魂は父から発し、その方と父との結合は二人の者の間のようではなく、霊魂と肉体との間のようであった(3737, 10824番)。
主の人間性と神性とについては合体(結合)と言われる、しかし、人間と神性とについては結合と言われる(2021番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

305 このように主はご自分の人間性を神性にされた
 主の人間性はその方の霊魂であった父のエッセから発するので、神的なものである(父と似たものが子供の中にあることによる説明、10269, 10372, 10823番)。
 また、神的な愛からなので、その方の中にある(6872番)。
 だれでも人間は自分の愛のようなそのようなものであり、また自分自身の愛である(6872, 10177, 10284番)。
 主は神的な愛であられた(2077, 2253番)。
 主は人間性をすべて、外なるものと同じく内なるものも、神性にされた(1603, 1815, 1902, 1926, 2093, 2803番)。
 それゆえ、主はどの人間とも異なって、全身に関してよみがえられた(1729, 2083, 5078, 10825番)。
 主の人間性は、聖餐におけるその方の人間性の遍在から、神性であることが認められる(2343, 2359番)。
 そのことは三人の弟子たちの前でその方の変容から明らかである(3212番)。
 またみことばからも〔明らかである〕(10154番)。
 また、そこにエホバと呼ばれている(1603, 1736, 1815, 1902, 2921, 3035, 5110, 6281, 6303, 8864, 9194, 9315番)。
 文字通りの意味では、父と御子、すなわち、エホバと主との間は区別される、しかし、みことばの内意では〔区別され〕ない、その中に天界の天使はいる(3035番)。
 キリスト教世界は主の人間性を神性を認めていない、〔教皇を主の代理として〕認めることが、教皇のための会議でなされた (来世における彼らとの会話から、4738番)。

 永遠から神的人間性は天界の神的な真理であり、したがって神的エキシステレであり、それはその後、主の中で神的エッセとなり、そこから天界の中に神的エキシステレが存在する(3061, 6280, 6880, 10579番)。
 天界の以前の状態、その性質(6371~6373番)。
 神性は、天界を通過しないなら、知覚されず、したがって受け入れらなかった(6982, 6996, 7004番)。
 永遠から主は天界の中の神的な真理であられた(2803, 3195, 3704番)。
 それが永遠から生まれた神の子である(2628, 2798番)。

 天界では神的人間性のほかの神性は知覚されない(6475, 9303, 9356, 9571, 10067番)。
 最古代人は無限のエッセを崇拝することはできなかった、しかし、神的人間性である無限なエキシステレを崇拝することはできた(4687, 5321番)。
 古代人は、人間の形に現われたので、神性(神)を認めた、これは神的人間性であった(5110, 5663, 6846, 10737番)。
 すべての地球の住民は人間の形の下に神性(神)を崇拝しており、それで彼らは神が実際に人間となられたことを聞くとき喜ぶ(6700, 8541~8547, 9361, 10736~10738番。小著(『私たちの太陽系と星空の中の諸地球』〔宇宙間の諸地球〕)参照。
 神について人間の形でなくて考えられることはできない、また把握できないものは、何も観念(考え)の中に落ち込まない(9359, 9972番)。

 人間は何らかの観念をもつものについて礼拝することはできるが、〔何らかの観念をもた〕ないものについて〔礼拝すること〕はできない(4733, 5110, 5663, 7211, 9356, 10067番)。
 それゆえ、神性(神)は地球全体の極めて多数の者から人間の形の下に礼拝されている、このことは天界からの流入によっている(10159番)。
 生活に関して善の中にいるすべての者は、主を考えるとき、神的人間性について考え、神性から分離した人間性については考えない(2326, 4724, 4731, 4766, 8878, 9193, 9198番)。
 今日、教会の中で生活に関して悪の中にいる者と仁愛から分離した信仰を抱いている者は、神性なしに主の人間性を考えて、神的人間性が何かもまた理解しない、その原因(3212, 3241, 4689, 4692, 4724, 4731, 5321, 6371, 8878, 9193, 9198番)。

新しいエルサレムとその天界の教え

305◀︎目次▶︎307

306 主の中に三一性がある
来世でキリスト教徒たちが一人の神についてどんな観念をもっているか調べられ、三人の神の観念をもっていることがわかった(2329, 5256, 10736~10738, 10821番)。
神的三一性は一つの位格の中に、こうして一人の神を抱くことができる、しかしながら、三つの位格の中に〔抱くことは〕できない(10738, 10821, 10822番)。
一つの位格の中の、このように主の中の三一性は、父と呼ばれる神性それ自体、御子と呼ばれる神的人間性、それと聖霊と呼ばれる発出する神性であり、こうして三一性は一つのものである(2149, 2156, 2288, 2321, 2329, 2447, 3704, 6993, 7182, 10738, 10822, 10823番)。
主における神的三一性が天界で認められている(14, 15, 1729, 2005, 5256, 9303番)。
主は父と一つのもの、したがって神性それ自体と神的人間性であられる(1729, 2004, 2005, 2018, 2025, 2751, 3704, 3736, 4766番)。
聖霊と呼ばれるその方の神性から発出するものもまた、天界の中のその方の神的なものである(3969, 4673, 6788, 6993, 7499, 8127, 8302, 9199, 9228, 9229, 9278, 9407, 9818, 9820, 10330番)。
このように主はひとりの唯一の神であられる(1607, 2149, 2156, 2329, 2447, 2751, 3194, 3704, 3712, 3938, 4577, 4687, 5321, 6280, 6371, 6849, 6993, 7014, 7091, 7182, 7209, 8241, 8724, 8760, 8864, 8865, 9194, 9303番)。

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306◀︎目次▶︎308

307 天界の中の主について
主は天界では太陽としてまた月として見られる。天的な王国の中にいる者には太陽として、霊的な王国の中にいる者には月として(1053, 1521, 1529~1531, 3636, 3641, 4321, 5097, 7078, 7083, 7173, 7270, 8812, 10809番)。
太陽としての主から発出する光は神的な真理であり、そこからすべての知恵と知性が天使にある(1053,
1521~1533, 2776, 3138, 3195, 3222, 3223, 3225, 3339, 3341, 3636, 3643, 3993, 4180, 4302, 4415, 5400, 9399, 9407, 9548, 9571, 9684番)。
また、太陽としての主から発出する熱は神的な善であり、そこから天使に愛がある(3338, 3636, 3643, 5215番)。
主の神性それ自体は天界の中にあるその方の神性のはるか上に存在する(7270, 8760番)。
神的な真理は主の中になく、主から発出する、光が太陽の中になく、太陽からであるように(3969番)。
主の中にエッセがあり、主からエキシステレがある(3938番)。
主は天界のすべての天使が自分自身を向けている共通の中心であられる(3633, 9828, 10130, 10189番)。
それでも、天使が自分自身を主に向けるのではなく、主が彼らをご自分に向けられる(10189番)――天使が主のもとに現在するのではなく、主が天使のもとに現在されるからである(9415番)。
天使のもとに主が現在されるのは彼らがその方から愛と仁愛の善を受けることにしたがっている(904、4198, 4206, 4211, 4320, 6280, 6832, 7042, 8819, 9680, 9682, 9683, 10106, 10810番)。
主は天界のすべての者のもとに、また地獄の〔すべての者の〕もとにも現在される(2776, 3642, 3644番)。
主は神的な愛からすべての人間を天界の中のご自分のもとへ引きよせようと望まれる(6645番)。
主は人間との結合を絶えず努められる、しかし、その流入と結合は人間の固有のものの愛によって妨げられる(2041, 2053, 2411, 5696番)。

主の神的人間性は天界に流入し、天界をつくる。天界には神性それ自体との結合は何もなく、しかし、神的人間性との結合がある(3038, 4211, 4724, 5663番)。
また、この神性は天界から、天界を通って人間のもとに流入する(1925番)。
主は、天界のすべてであられ、また天界のいのちであられる(7211, 9128番)。
主は天使のもとのご自分のものの中に住まれる(9338, 10125, 10151, 10157番)。
そこから、天界にいる者は主の中にいる(3637, 3638番)。
天界は主の神的人間性に対応し、人間はすべてと個々のものに関して天界に対応し、そこから普遍的な天界は一人の人間として存在し、それゆえ「最大の人」と呼ばれる(2988, 2996, 3624~3629, 3636~3643, 3741~3745, 4625番)。
主はひとりの人間であられ、その方から神性を受け入れる者だけが人間である(1894番)。
彼らは受け入れれば受け入れるほど、それだけ主の映像となる(8547番)。
天使は人間の形をした愛と仁愛との形であり、これは主からである(3804, 3735, 4797, 4985, 5199, 5530, 9879, 10177番)。

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307◀︎目次▶︎309

308 すべての善と真理は主からである
 主は善そのもの、真理そのものであられる(2011, 5110, 10336, 10619番)。
すべての善と真理は、したがって、すべての平和、無垢、愛、仁愛、信仰は主からである(1614, 2016, 2751, 2882, 2883, 2891, 2892, 2904番)。
また、すべての知恵と知性〔は主からである〕(109, 112, 121, 124番)。
善以外には何も主からやって来ない、しかし、悪い者は主からの善を悪に変える(7643, 7679, 7710,
8632番)。
天使はすべての善と真理は主からであることを知る、しかし、悪い者はこれを知ることを欲しない(6193,
9128番)。
天使は、主の現在から、さらに善の中にいる、しかし、地獄の者は、主の現在から、さらに悪の中にいる(7989番)。
悪い者は、主の現在だけから、自分自身を地獄に投げ込む(8137, 8265番)。
主はすべての者を善から裁かれる(2335番)。
主はすべての者を哀れみ(慈悲)から見られる(223番)。
主は決してだれにも怒らず、まただれにも悪を行なわず、まただれをも地獄へ送られない(245, 1683,
2335, 8632番)。
みことばの中で、エホバまたは主は怒る、殺す、地獄へ投げ込まれる、と言われ、またそれに似た多くのことが言われることはどのように理解されるべきか(592, 696, 1093, 1874, 1875, 2395, 2447, 3605, 3607, 3614, 6071, 6997番)。

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308◀︎目次▶︎310

309 主には天界と地上でのすべての力がある
全天界は主のものである(2751, 7086番)。
その方には天界と地上のすべての力がある(1607, 10089, 10827番)。
主は全天界を支配されるので, そこから依存するすべてのものもまた支配され, したがって世のすべてのものを支配される(2026, 2027, 4523, 4524番)。
さらにまた地獄を支配される(3642番)。
主はすべてのものを神性から神的人間性によって支配される(8864, 8865番)。
主はすべてのものを神的な秩序にしたがって支配される。また、神的な秩序はその方の意志に属するものに、容赦から行なわれるものに、許しから行なわれるものに関係する(1755, 2447, 6574, 9940番)。秩序については前を見よ(279番)。
主は最初のものから最後のものを、また最後のものから最初のものを支配されており、そこから「初めと終わり」と呼ばれる(3702, 6040, 6056番)。
主おひとりが地獄を遠ざけ、悪から守り、そして善の中に保ち、したがって救う力を持たれる(10019番)。
審判は主にある(2319~2321, 10810, 10811番)。
主の祭司性とは何か、その方の王者性とは何か(1728, 2015番)。

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309◀︎目次▶︎311

310 みことばの中の主についてのあるものは、どのように理解されるべきか
主についての預言の中の「女の裔〔種〕」とは何か(256番)。
みことばの中の「人の子」と「神の子」は何を意味するか(2159, 2813番)。
2つの名前「イエス・キリスト」は何を意味するか(3004~3011番)。
主について「父から遣された」と言われることは何を意味するか(2397, 6831, 10561番)。
主がすべての者の不法を負われたことは、どのように理解されるべきか(9937番)。
主がご自分の血によって人間をあがなわれたことは、どのように理解されるべきか(10152番)。
主が律法のあらゆるものを成就されたことは、どのように理解されるべきか(10239番)。
主が人間のために執り成しされることは、どのように理解されるべきか(2250, 8573, 8705番)。
主なしに救いがないことは、どのように理解されるべきか(10828番)。
父を見上げることによって、または父にその御子のゆえに哀れみを抱かれるようにと祈ることによって、救いはない。なぜなら主は「わたしは道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでないなら、だれも父のみもとに来ません」と語られるから(ヨハネ14・6)(2854番)。
主は十字架の受難によって人類を父に和解させられたという〔これまでに〕受け入れられた信仰に含まれる矛盾(10659番)。
主の来臨は、みことばの中の主の現在である(3900、4060番)。
主は栄光をご自分のために人間から求められるのではない、しかし、人間の救いのために〔人間から求められる〕(5957, 10646番)。
みことばの中で「主」が記されているところで、〔「主」は〕神的な善を意味する(4973, 9167, 9194番)。
そこに「キリスト」〔が記されているところで〕、神的な真理を意味する(3004~3009番)。

主の真の承認と真の礼拝は、その方の戒めを行なうことである(みことばから示されている、10143、10153, 10578, 10645, 10829番)。

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310◀︎目次▶︎312

教会と市民の統治

 

311 人間のもとには秩序にあるべきものが二つあります。すなわち、天界に属するものと世に属するものです。天界に属するものは教会のものと呼ばれ、世に属するものは市民のものと呼ばれます。

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311◀︎目次▶︎313

312 秩序にしたがうものと秩序に反するものすべてを監視する統治者なしに世に秩序は保たれることができません。その者は秩序にしたがって生きる者を報い、秩序に反して生きる者を罰しなくてはなりません。もしそのことが行なわれないなら、人類は滅びるでしょう。なぜなら、他の者を支配し、他の者の財産を所有しようとする意志は遣伝からだれにも生来のものであり、そこから敵意、嫉妬、憎悪、復讐、詐欺、残酷、その他多くの悪が生ずるからです。それゆえ、それらが法律によって、そして善を行なう者に対して、名誉と利益である彼らの愛に適合する報酬によって、また悪を行なう者に対して、名誉、財産、生命を失うというその愛に反した刑罰によって、束縛の中に保たれないなら、人類は滅びるでしょう。

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312◀︎目次▶︎314

313 そこで人間の集合を秩序をもって支配し、法律に通じ、賢明で、また神を恐れる統治者がいなくてはなりません、また統治者たちの間にも〔その中の〕だれかが気まぐれ、または無知から秩序に反した悪を許し、秩序を破壊しないように、秩序がなくてはなりません。それは上位と下位の統治者がいて、その間に従属関係があるときに守られます。

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314 人間のもとで天界に属するものの、すなわち教会に属するものの統治者は祭司(聖職者)と呼ばれ、その任務は祭司職と呼ばれます。けれども人間のもとで世に属するものの、すなわち市民に属するものの管理者は行政長官と呼ばれ、その最高の者は、そうした統治のあるところでは、王と呼ばれます。

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314◀︎目次▶︎316

315 祭司に関しては、彼らは人間に天界への道を教え、また彼らを導かなくてはなりません。彼らはみことばからの自分たちの教会の教えにしたがって彼らを教え、それにしたがって生きるよう彼らを導かなくてはなりません。
真理を教え、それによって生活の善へ、こうして主へ導く祭司は、羊の善い牧者です。しかし、教えても、生活の善へ、こうして主へ導かない祭司は悪い牧者です。

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315◀︎目次▶︎317

316 祭司は、人間の内側がどんな状態にあるかを知らないので、人間の霊魂を支配する何らかの力を自分のものとしてはなりません。まして天界を開き、閉じる力を自分のものとしてはなりません。なぜなら、その力は主おひとりに属するからです。

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316◀︎目次▶︎318

317 聖なることを行なうため、祭司に尊厳と名誉があるべきです。しかし、賢明な祭司は、聖なるもののもとであられる主に名誉を与えて、自分には与えません。けれども、賢明でない祭司は、名誉を自分に帰して、それを主から取り去ります。自分が行なう聖なることのために、名誉を自分に帰す者は、慮らなければならない霊魂の救いよりも名誉と利益を優先させます、けれども、主に名誉を与えて自分に与えない者は霊魂の救いを名誉と利益よりも優先させます。
何らかの職務の名誉は人物の中にはなくて、その従事している事柄の尊厳にしたがって彼に加えられます。また加えられた名誉は人物自身のものではなく、職務とともに彼から切り離されます――人物の中にある名誉は知恵と主を恐れることの名誉です。

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317◀︎目次▶︎319

318 祭司は人々に教え、彼らを真理によって生活の善へ導かなくてはなりません。しかしそれでも、だれも強いてはなりません、なぜなら、だれも心から真であると考えるものに反するものを信じるように強いられることはできないからです――祭司と異なることを信じても、混乱を起こさない者は、安らかに残さなくてはなりません。しかし、混乱を起す者は、切り離されなくてはなりません。なぜなら、そのことはまた祭司職のための秩序に属するからです。

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318◀︎目次▶︎320

319 祭司は神の律法と礼拝に属するものの執行をまかせられているように、王と行政長官は市民の法律と審判に属するものの執行をまかせられています。

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319◀︎目次▶︎321

320 王だけではすべてのことを執行することはできないので、その下には統治者がおり、それぞれの者に、王〔だけで〕はできない統治する区域が与えられています。この統治者たちがいっしょになって王権が構成されますが、それでも王そのものが最高の者です。

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320◀︎目次▶︎322

321 王権それ自体は人物の中になく、人物に加えられています。王権は自分という人物の中にあると信じる王、また統治の尊厳は自分という人物の中にあると信じる統治者は、賢明ではありません。

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321◀︎目次▶︎323

322 王権は国の法律にしたがって管理し、正義からそれにしたがって審判することにあります。法律を自分自身の上にあるものとして眺める王は賢明です。けれども、自分自身を法律の上にあるものとして眺める王は賢明ではありません。
法律を自分自身の上にあるものとして眺める王は王権を法律の中に置いており、法律が彼を支配します。なぜなら、彼は法律は公正であるかぎり、公正である公正はすべて神的なものであることを知っているからです――けれども、自分自身を法律の上にあるものとして眺める王は自分自身の中に王権を置き、自分自身が法律であると信じるか、あるいは公正である法律が自分自身からであると信じており、ここから彼は神的なものを自分自身のものとしますが、それでも彼はその下にいなくてはなりません。

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322◀︎目次▶︎324

323 公正である法律は、賢明であり、神を恐れる法律に通じた者により、国に制定され、その後、王とその従臣とはそれにしたがって生きなくてはなりません――その制定された法律にしたがって生き、そのことでその従臣に模範を示す王は、真に王です。

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323◀︎目次▶︎325

324 絶対的な力を持ち、自分の従臣は奴隷のようなものであり、彼らの財産といのち(生活)を権利として持っていると信じる王は、もしそのことを行なうなら、王ではなくて独裁者です。

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324◀︎目次

325 国の法律にしたがって王に服従しなくてはなりません。行為でも、言葉でも、どんな方法でも、王を傷つけてはなりません。というのは、国家の安全はそのことにかかっているからです。

(終わり)