カテゴリー

新しいエルサレムとその天界の教え 124

123◀︎目次▶︎125

124 敬虔とは、敬虔に考えることや話すこと、祈りのための多くの時間を持つこと、その時、謙遜に振る舞うこと、神殿をしばしば訪れること、そこの説教を信心深く傾聴すること、また毎年の聖餐にしばしばあず かり、教会の規則にしたがってその他の礼拝〔行為〕を同様に行なうことです。けれども、仁愛の生活は隣人に善く欲し、善く行ない、すべての働きを公正と平等から、善と真理から行ない、すべての職務においても同様に行なうことです。一言でいえば、仁愛の生活は役立ちを実践することから成り立ちます。神礼拝は第一には後者〔仁愛〕の生活から、第二には前者〔敬虔な生活〕から成り立ちます。それゆえ、一方をもう一方から引き離す者は、すなわち、敬虔な生活を送るけれども、同時に仁愛の生活を送らない者は、神を崇拝していません。確かに彼は神について考えます、けれども、神からでなく、自分自身から考えています。なぜなら、彼は常に自分自身について考え、隣人については何も考えないからです。隣人について考えても、もしその隣人もまた自分自身のようなものでないなら、その者を軽んじます――さらにまた彼は天界について報酬として考えます。そこから、その心の中には功績があり、そしてまた自己愛もあり、そのために役立ちを、このように隣人を軽蔑するかまたは無視し、同時に〔自分には〕非難されるところがないと信じます。ここから、仁愛の生活から分離した敬虔な生活は、神礼拝の中にあるべき霊的な生活がないことを明らかにすることができます(「マタイ」6:6, 7, 8と比較)。