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新しいエルサレムとその天界の教え 149

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149 自由は天界と地獄の間の均衡からのものであり、彼に自由がないなら改心することができないことは、著作『天界と地獄』に示されている(均衡そのものについては589–596番、また自由については597番から終わりまで)――しかし、何が自由か、また人間が自由によって改心する理由を知ってもらうために、それゆえ、私は同書からここに引用します――
「均衡は天界からの善と地獄からの悪の間の均衡であること、したがって霊的な均衡であり、その本質は自由であることを示しました。霊的な均衡がその本質では自由であることは、善と悪の間の、また真理と虚偽の間の均衡であり、これらは霊的なものであるからです。それゆえ、善または悪を意志し、真理または虚偽を考え、そして他のものよりもあるものを選べることは自由です……。この自由は主により人間のそれぞれに与えられており、決して取り去られません。主からのものであるので、その起源から、確かに、人間のものでなく主のものですが、しかしそれでも、人間に、いのちとともに、自分自身のものであるかのように与えられています。このことの理由は、人間が改心し、救われることができるためです。なぜなら、自由がなくては、改心と救いはないからです。だれでも、理性的に熟慮すれば、人間の中に悪くまたは善く、誠実にまたは不誠実に、公正にまたは不正に考える自由が、そしてまた、善く、誠実に、公正に、話し、行動することができる自由があること、しかし、外なるものを抑制の中に保つ……道徳的で、市民的な法律のために、悪く、不誠実に、不正に、話し、行動することはできないことを知ることができます。これらのことから、考え、意志する人間の霊が自由の中にあることは明らかです。人間の外なるものは、それは話し、行動するものですが、前述の法律にしたがっていないなら、自由の中にはありません。〔『天界と地獄』597番〕

人間は自由がないなら、改心することができません、あらゆる種類の悪の中に生まれているからです。それでも救われることができるためには、それらの悪は遠ざけられなければなりません。もしそれらの悪を自分自身の中に見て、認め、その後、それらを望まないで、最後には退けないなら、遠ざけられることはできません。その時になって、初めて遠ざけられます。このことは、人間が悪と同じく善の中にいないなら、行なわれることができません。なぜなら、善から悪を見ることができますが、悪から善を見ることはできないからです。人間が考えることのできる霊的な善を、彼は幼児期から、みことばを読むことと説教から、そして道徳的で市民的な善を世での生活から学びます。このことが、なぜ人間が自由の中にいなくてはならないか、その第一の理由です。
もう一つの理由は、愛のものである情愛からなされるものでないなら、何も人間のものとされないことです。他の何らかのものが入ることができますが、しかし、思考の中へであって、それを超えて意志の中には入りません。人間の意志の中にまで入らないものは、彼のものとなりません。なぜなら、思考はそれ自身のものを記憶から得ます、しかし、意志は生活そのものから得るからです。意志からでないもの、すなわち、同じものですが、愛のものである情愛からでないものは、何ら自由なものではありません。何であれ、意志するかまたは愛するものを、人間は自由に行なうからです。ここから、人間の自由と、彼の愛のものまたは意志のものである情愛は一つです。そこで、人間が真理と善に働きかけられることができるように、すなわち、それらを愛し、こうしてそれらが彼のプロプリウム(固有のもの)のようになるために、人間に自由があるのです。
一言でいえば、何であれ自由のうちに人間のもとに入るものでなくては、彼の愛にまたは意志に属するものではないので、残りません。人間の愛または意志に属するものでないものは、彼の霊に属するものではありません。人間の霊のエッセ(存在)は、愛または意志であるからです。……。〔『天界と地獄』598番〕

改心するようにとの理由から、人間は自由の中にいます。それゆえ、人間は自分の霊に関して天界と地獄に結合しています。それぞれの人間のもとに、地獄からの〔悪〕霊、天界からの天使がいるからです。地獄からの霊によって人間は自分自身の悪の中にいます、けれども、天界からの天使によって主からの善の中にいます。このように、霊的な均衡の中に、すなわち、自由の中にいます。それぞれの人間に、天界からの天使が、また地獄からの霊が付き添っていることは「人類と天界の結合」の章に述べました(291–302番)。〔『天界と地獄』599番〕