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新しいエルサレムとその天界の教え 53

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53 感覚の欺きについて、単なる自然的で感覚的な人間はその中にいる(その者についてはこの「教え」の中の前述45番)

単なる自然的で感覚的な人間は感覚の欺きから考え、推論する(5084, 5700, 6948, 6949, 7693番)。
感覚の欺きはどんなものであるか(5084, 5094, 6400, 6948番)。

これにこれら〔以下のこと〕を付加しよう――自然的なものの中に、社会的なものの中に、道徳的なものの中に、霊的なものの中に、多くの個々のものの中に、感覚の欺きが存在する。しかし、ここに私は霊的なもの〔の欺き〕をいくつか列挙したい。
感覚の欺きから考える者は〔以下のことを〕理解できない。

(1)人間は死後も人間として見られることも、前のように感覚を楽しむこともできる。したがって天使たちも〔それらを楽しむこと〕も。
〔そうして次のように〕考える。
(2)霊魂は単に生命力の何らかのもの、純粋なエーテルのようなものであり、それについては何らの観念も持つことができない。
(3)身体だけが、感じ、見、聞くものである。
(4)人間は獣に似ている、ただ人間は思考から話すことができるだけである。
(5)自然がすべてであり、最初であり、そこからすべてのものが存在する。
(6)人間は、内的なものとその秩序の流入によって考えることを教わり、学ぶ。
(7)霊的なものは存在しない。もし存在しても、それは純粋に自然的なものである。
(8)人間は、栄誉、名誉、または利益を求める愛の快さを奪われて、何らの幸福を楽しむことはできない。
(9)良心は、身体の弱さからの、また成功しないことからの単なる心の病気である。
(10)主の神的な愛は称賛(栄光)への愛である。
(11)摂理は存在しない、しかし、すべてのものはプロプリウムの思慮分別と知性から流出する。
(12)名誉と富とが神から与えられる真の祝福である。

そのほかに同様の多くのこと〔がある〕。このようなものが霊的なものにおける〔感覚の〕欺きである。ここから、天界的な事柄は単に自然的な感覚的な者により把握されることができないことを知ることができる。その内なる霊的な人が閉ざされている人間は、単に自然的で感覚的であり、自然的なものだけが開かれている。