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新しいエルサレムとその天界の教え 222

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222 これらに『天界の秘義』からいくらか付け加える(9127番)。

「みことばの内なるまたは霊的な意味を何も知らない者は、みことばの中の「肉と血」によって、肉と血が意味されること以外に何も知らない。しかし、内なるまたは霊的な意味では、身体のいのちについてではなく、人間の霊魂のいのちについて、すなわち、人間が永遠に生きるように霊的ないのちについて扱われている。このいのちは、みことばの文字通りの意味の中に身体のいのちに属するようなものによって、すなわち、「肉と血」によって記述されている。また人間の霊的ないのちは愛の善と信仰の真理とによって存続しているので、それゆえ、みことばの内意では、愛の善は「肉」によって、信仰の真理は「血」によって意味される。それらのことが天界で「肉と血」によって、また「パンとブドウ酒」によって意味される。なぜなら、そこでは「パン」によって「肉」とまったく同様のものが、「ぶどう酒」によって「血」とまったく同様のものが意味されるからである。しかし、霊的な人間でない者はこのことを理解しない。そこで、そうした者は単に、聖餐とみことばは主から発するので、その中には聖なるものがあることだけを信じて、自分の信仰にとどまる。その聖なるものはどこにあるか知らないでいる、それでも、何らかの内的な知覚を授けられている者は、以下の個所で「肉」によって肉が、「血」によって血が意味されるか、考量する――「黙示録」に、

「私は天使が太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫んで、天の真ん中を飛ぶすべての鳥に言った。神の大いなる晩餐に集まり、王たちの肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、自由な者と奴隷、小さな者と大きな者の肉を食べよ」(19:17, 18)。

「肉」、「王」、「千人隊長」、「勇者」、「馬」、「それに乗る者」、「自由な者」、「奴隷」が内意で何を意味するか知らないなら、いったいだれがこれらを理解するのか。また「エゼキエル書」に、

「神エホバはこう語られる。あらゆる天の鳥とあらゆる野の獣に言え。集まって来よ。わたしがあなたがたのためにいけにえとしたわたしのいけにえに、イスラエルの山の上の大きないけにえに、回りから集まって、肉を食べ、血を飲め。勇者たちの肉を食べ、地の君たちの血を飲み、……わたしがあなたがたのためにいけにえとしたいけにえを、飽きるほど脂肪を食べ、酔うまでも血を飲め。あなたがたはわたしの食卓で、馬と戦車に、勇者に、すべての戦士に飽きる。……こうしてわたしは諸国民の間にわたしの栄光を与えよう」(39:17-21)。

ここには、主の御国へすべての者を呼び集めることについて、特に異邦人のもとに教会を設立することについて扱われている。「肉を食べることと血を飲むこと」によって神的な善と神的な真理を、したがって、主の神的人間性から発出する聖なるものを自分に専有することが意味される。例えば、「勇者たちの肉を食べ」、「地の君たちの血を飲む」、また「酔うまでも血を飲む」、さらに「馬、戦車、勇者たち、すべての戦士に飽きる」と言われるとき、だれが「肉」によって肉が、「血」によって血が意味されないことを見ることができないか。(霊的な意味で「天の鳥」と「野の獣」によって何が意味されるかは著作『天界と地獄』110番とそこの注参照)

さて、ここで、主が「ヨハネ福音書」でご自分の肉とご自分の血について述べられたことを考慮しよう、

「わたしが与えようとするパンはわたしの肉です。……まことに、まことに、わたしはあなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたの中にいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持ちます。わたしはその者を最後の日によみがえらせます。わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしはその中にとどります。……これは天から降ったパンです」(6:50-58)。

主の「肉」は神的な善であり、「血」は神的な真理であり、両方とも主からのものであることは、これらが人間の霊的ないのちを養うことから知ることができる。ここから言われた、

「わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物です」

また人間は神的な善と真理とによって主に結合するので、さらにまた言われた、

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持ちます」
 「彼はわたしの中に、わたしは彼の中にとどまります」

また同章の前の個所には――

「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちへと継続する食物のために働きなさい」(27節)。

「主の中にとどまること」は、主への愛の中にいることであることを主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられている(15:2-12)。