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新しいエルサレムとその天界の教え 221

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221 いけにえについて
「全焼のいけにえ」と「いけにえ」は、愛の善からまた信仰の真理からの礼拝のすべてのものを意味した(923, 6905, 8680, 8936, 10042番)。
「全焼のいけにえ」と「いけにえ」は、それらから礼拝がある教会の内なるものである天界の神的なものを意味した(2180, 2805, 2807, 2830, 3519番)――〔そこには〕礼拝のいろいろなものにしたがって、変化と相違があった(2805, 6905, 8936番)。
それゆえ、多くの種類のいけにえといろいろな手順があり、そしてまた、それらにいろいろな獣が〔用いられた〕(2830, 9391, 9990番)。
それらのものが全般的に意味したいろいろなものは、その個々のものから内なる意味を解き開くことによって知ることができる(10042番)。
いけにえにされた「獣」が、特に何を意味したか(10042番)。
いけにえの儀式と手順の中に天界のアルカナが含まれている(10057番)。
全般的に主の人間性の栄化のアルカナが含まれている。関連する意味では、悪と虚偽から人間が再生し、清められることのアルカナが含まれている。それゆえ、いろいろな罪と有罪、また清められることのためであった(9990, 10022, 10042, 10053, 10057番)。
いけにえとされた獣に「手を置く」ことによって、何が意味されるか(10023番)。
全焼のいけにえで屠られた獣の下の部分がその上の部分の下に置かれること」によって、何が(10051番)。
さらにまたその時、焼かれた「穀物のささげ物」によって、何が(10079番)。
「注ぎのささげ物」によって、何が(4581, 10137番)。
さらにまた利用された「塩」によって、何が(10300番)。
「祭壇」とそのすべてのものによって、何が(921, 2777, 2784, 2811, 2812, 4489, 4541, 8935, 8940, 9388, 9389, 9714, 9726, 9963, 9964, 10028, 10123, 10151, 10242, 10245, 10344番)。
「祭壇の火」によって、何が(934, 6314, 6832番)。
「いけにえからの宴会」によって、何が(2187, 8682番)。
いけにえではなく、仁愛と信仰が命じられた――このように〔いけにえは〕単に許されたのである(みことばから示されている、922, 2180番)。
なぜ許されたか(2180, 2818番)。

小羊、ヤギ、羊、小ヤギ、雄ヤギ、雄牛からなされた全焼のいけにえといけにえは一つの言葉で「パン」と呼ばれたことは以下の個所から明らかにすることができる――

 「祭司はそれを祭壇の上で焼かなくてはならない、〔それは〕エホバへの火によるパン〔のささげ物〕である」(レビ記3:11, 16)。
 「アロンの息子たちは自分の神に聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。エホバへの火によるささげ物、自分の神のパンをささげるからである。……彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。……アロンの裔で、身に汚点のある者は自分の神のパンをささげに近づいてはならない」(レビ記21:6, 8, 17:21)。
 「イスラエルの子らに命じて、彼らに言え。わたしのささげ物、わたしのパン、憩いの香りのための火によるささげ物を、その定まった時、わたしにささげなくてはならない」(民数記28:2)。
 「不潔な物に触れた者は聖なるものを食べてはならない。自分の肉を水で洗わなくてはならない……そしてその後、その聖なるものを食べなくてはならない、それが彼のパンであるからである」(レビ記22:6, 7)。
 「わたしの祭壇に汚れたパンを捧げる者」(マラキ1:7)。

それでここから、前に述べたこと(214番)が言える。すなわち、「聖餐はイスラエル教会に定められた神礼拝のすべてを含み、包含する。というのは、その教会の礼拝を特に成り立たせた全焼のいけにえといけにとは、一つの言葉で「パン」と呼ばれたからであり、ここからまた聖餐はそれを完成するものであった」。

そこで、これらのすべてのことから「ヨハネ福音書」のパンによって何が意味されるか見ることができる――

「イエスは彼らに言われた。まことに、まことに、わたしはあなたがたに告げます。モーセは彼らに天からのパンを与えませんでした。しかし、わたしの父はあなたがたに天からの真のパンを与えられます。なぜなら、神のパンは天から降って世にいのちを与える方であるからです。彼らは言った。主よ、私たちに常にそのパンを与えてください。イエスは彼らに言われた。わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は飢えず、わたしを信じる者は決して渇きません。……わたしを信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。……これは天から降ったパンです。だれかがそれから食べて死なないためです。わたしは天から降った生きたパンです。もしだれかがこのパンから食べるなら、永遠に生きます」(6:31-35, 47-51)。

これらから、「パン」は主から発出するすべての善であり、なぜなら、主ご自身はご自分の善の中におられるから――このように聖餐の「パンとブドウ酒」は愛と信仰の善からの主の礼拝のすべてであることが明らかである。