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新しいエルサレムとその天界の教え 122

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122 主の十二弟子は、同様にイスラエルの十二の種族もまた、すべての信仰と仁愛の統1体としての教会を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397番)。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、その順序で、信仰、仁愛、仁愛の善を表象した(3750番)。
ペテロは信仰を〔表象した〕(4738, 6000, 6073, 6344, 10087, 10580番)。
ヨハネは仁愛の善を〔表象した〕(「創世記」第18章と第22章の序言)。
教会の最後の時には、仁愛がないので、主への信仰もないことは、にわとりが二度鳴く前に、ペテロが三度、主を否定したことによって表象された。なぜなら、そこのペテロは表象的な意味では信仰であるから(6000, 6073番)。
「夜明け」と等しく「おんどりの鳴く時」は、みことばでは教会の最後の時を意味する(10134番)。
また「三」または「三度」は終わりまで完成したものを意味する(2788, 4495, 5159, 9198, 10127番)。
同様のことがペテロが主に従ったヨハネを見たとき、主がペテロに言われたことによって意味される――

 「『ペテロよ、〔それは〕あなたにとって何か』。『ヨハネよ、あなたはわたしに従いなさい』。というのは、ペテロはヨハネについて、『これは何か〔この人はどうなのか〕』と言ったからである」(ヨハネ21:21,  22)(10087番)。

ヨハネは仁愛の善を表象したので、主の胸に寄り掛った(3934, 10081番)。
仁愛の善が教会をつくることは、十字架からヨハネへ向けた主のことばによってもまた意味される――

 イエスは、母を見られ、そばに立っている愛する弟子に言われた――また母に言われた。「女よ、見よ、あなたの息子を」。またその弟子に言われた。「見よ、あなたの母を」。その時から、その弟子は彼女を自分のもとに受け入れた(ヨハネ19:26, 27)。

「ヨハネ」によって仁愛の善が、「女」によって、また「母」によって教会が意味される。これらのすべてによって仁愛の善があるところに教会が存在することが意味される。みことばでは「女」によって教会が意味される(252, 253, 749, 770, 3160, 6014, 7337, 8994番)。
同様に「母」によって〔教会が意味される〕(289, 2691, 2717, 3703, 4257, 5580, 8897, 10490番)。
みことばの人物と場所のすべての名前は、それらから抽象されたものを意味する(768, 1888, 4310, 4442, 10329番)。