カテゴリー

新しいエルサレムとその天界の教え 201

200◀︎目次▶︎202

201 主の試練について
主はすべての試練よりも最もきびしい、恐るべき試練を受けたが、それはみことばの文字通りの意味にはわずかしか述べられていない、内意では多くのもの〔が述べられている〕(1663, 1668, 1787, 2776, 2786, 2795, 2814, 9528番)。
主は全人類に対する神的愛から闘われた(1690, 1691, 1812, 1813, 1820番)。
主の愛は人類の救いであった(1820番)。
主は〔ご自分の〕プロプリウムの力から闘われた(1692, 1813, 9937番)。
主おひとりが試練とプロプリウムの力からの勝利を通して「公正と功績」になられた(1813, 2025~2027, 9715, 9809, 10019番)。
主は試練によって、受胎からご自分の中に存在した神性そのものをご自身の人間性に結合され、またそれを、〔主が〕人間を試練によって霊的なものにされるように、神的なものにされた(1725, 1729, 1733, 1737, 3318, 3381, 3382, 4286番)。
主の試練もまたその終わりでは絶望を伴った(1787番)。
主はご自身に許された試練によって地獄を征服し、その地獄と天界のすべてのものを秩序づけ、同時にご自分の人間性を栄化された(1737, 4287, 9315, 9528, 9937番)。
主おひとりがすべての地獄に反対して闘われた(8273番)。
主はそれゆえご自分に試練を許された(2816, 4295番)。

主は、神性に関して誘惑される(試練を受ける)ことはできなかった、地獄は神性を襲うことはできないからである。それゆえ、主は誘惑されることができるような人間性を母からまとわれた(1414, 1444, 1573, 5041, 5157, 7193, 9315番)。
試練とその勝利によって、主は母から遺伝したものすべてを追い払い、彼女からの人間性を脱ぎ、ついにもはやその息子ではなかった(2159, 2574, 2649, 3036, 10830番)。
受胎から主の中に存在されたエホバは、試練の中で不在であるかのように見られた(1815番)。
それは主の卑下の状態であった(1785, 1999, 2159, 6866番)。
主の最後の試練と勝利とは、ゲッセマネに、また十字架にあった、〔主は〕それによって地獄を完全に征服し、ご自分の人間性を神的なものにされた(2776, 2803, 2813, 2814, 10655, 10659, 10828番)。

「四十日の間、パンを食べず、水も飲まないこと」は、試練の完全な状態を意味する(10686番)。
「四十年」、「四十カ月」、または「四十日」は、始めから終わりまでの試練の完全な状態を意味する。この状態は「四十日」の洪水の継続によって、「四十日」のシナイ山上でのモーセの滞在によって、「四十年」の荒野でのイスラエルの子たちの滞在によって、「四十日」の荒野での主の試練によって意味される(730, 862, 2272, 2273, 8098番)。