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新しいエルサレムとその天界の教え 107

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107 これらに、「主への愛の教え」についてと「仁愛の教え」についていくつかのものを付加しなければなりません。それらがどんなものか古代人に存在して〔知られていて〕、彼らのもとに教会が存在しました。それらの教えがどんなものか知られるためであり、それらは前には存在しましたが、今日では存在しません。さらにまた『天界の秘義』(7257–7263番)から――
主への愛に属する善は、天的な善と呼ばれる。隣人に対する愛すなわち仁愛に属する善は、霊的な善と呼ばれる。最内部または第三の天界の中にいる天使は、主への愛の善の中にいて、そこから彼らは天的な天使と呼ばれる。けれども、中間または第二の天界の中にいる天使は、隣人に対する愛の善の中にいて、霊的な天使と呼ばれる。
主への愛からのものである天的な善の教えは、最も広いと同時に、最も隠されたもの(秘密なもの)であり、さらにまた、最内部または第三の天界の天使の教えであり, 例えば, 彼らの口から述べられるなら, ほとんどその千分の一も理解されないようなものである。そこに含まれているものもまた言葉にできない。この教えは, みことばの最も内なる意味の中に含まれる。けれども, 霊的な愛の教えは内なる意味の中に含まれる。
隣人に対する愛からのものである霊的な善の教えもまた, 広くて隠されたもの(秘密なもの)である。しかし, それは, 主への愛からのものである天的な善の教えより, はるかに少ない。隣人に対する愛の教え, すなわち, 仁愛の教えは, 広くて, ここから人間が考え, 欲するすべてと個々のものに, そのように人間が話し, 行なうすべてのものにひろがっていることを知ることができる。さらに仁愛はある者のもとと同じように他の者のもとには存在しない。またある者は他の者と同じようには隣人ではない〔ことも知ることができる〕。
このように仁愛の教えは広いので、それゆえ、仁愛の教えが自分たちのもとで教会の教えそのものであった古代人は、隣人に対する仁愛を多くの部類に分け、さらにそれを細分した。そして個々の部類に名を与えた。ある部類の者たちに対してどのように、また他の部類の者たちに対してどのように仁愛が実践されなければならないかを教え、こうして仁愛の教えと仁愛の実践を順序づけ、それらを区別して理解力に入り込むようにしたのである。
彼らが仁愛を実践しなければならない者に対して与えた名前は多い――ある者を「盲目の者」、ある者を「びっこの者」、ある者を「不具の者」、ある者を「貧しい者」、さらに「あわれな者」や「苦しむ者」、ある者を「孤児」、ある者を「やもめ」と呼んだ――けれども、全般的に、食べさせなくてはならない「飢えた者」、飲ませなくてはならない「渇いた者」、迎え入れなくてはならない「在留異国人(旅人)」、着せなくてはならない「裸の者」、訪問しなくてはならない「病んでいる者」、その者のもとに来なくてはならない「牢獄に拘束された」者と呼んだのである。

これらの個々のものによって意味された者がだれであったかは、『天界の秘義』の中に説明にされている。例えば、「盲目の者」によってだれが(2383, 6990番)。「びっこの者」によってだれが(4302番)。「貧しい者」によってだれが(2129, 4459, 4958, 9209, 9253, 10227番)。「あわれな者」によってだれが(2129番)。「苦しむ者」によってだれが(6663, 6851, 9196番)。「孤児」によってだれが(4844, 9158–9200番)。「やもめ」によってだれが(4844, 9198, 9200番)。「飢えた者」によってだれが(4958, 10227番)。「渇いた者」によってだれが(4958, 8568番)。「在留異国人」によってだれが(4444, 7908, 8007, 8013, 9196, 9200番)。「裸の者」によってだれが(1073, 5433, 9960番)。「病んでいる者」によってだれが(4958, 6221, 8364, 9031番)。「牢獄に拘束された者」によってだれが(5037, 5038, 5086, 5096番)。仁愛の教え全体が、主から「飢えた者」、「渇いた者」、「在留異国人(旅人)」、「裸の者」、「病んでいる者」、「牢獄に拘束された者」と呼ばれている者たちに対する義務(マタイ25:34–36以降)に含まれていることが見られる(4954–4959番)。
これらの名前は教会に属した古代人に天界から与えられ、このように名づけられた者によって、彼らは霊的にそのような者を理解した――彼らは彼らの仁愛の教えにより〔このような者が〕だれであるかを教えられただけでなく、それぞれの者に対する仁愛の性質もまた教えられたのである。ここから、同じそれらの名前がみことばの中にあって、霊的な意味でそのような者を意味している。主もまた〔以下のように〕教えられているように、みことばは本質的に、主への愛と隣人に対する仁愛の教え以外のものではない。

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、あなたの神、主を愛さなくてはならない。これは第一の、そして大きな戒めです。第二も……それに等しいものです。あなたは自分自身のようにあなたの隣人を愛さなくてはならない。この二つの戒めに……律法と預言者がかかっています」(マタイ22:37–40)

「律法と預言者」はみことば全体である(2606, 3382, 6752, 7643番)。

同じそれらの名前がみことばの中にあることは、みことばは本質的に霊的なものではあるが、その最外部のものでは自然的であったためである――そして外なる礼拝にいる者は、〔文字通り〕そのように呼ばれている者に対して、しかし内なる礼拝にいる者たちは、霊的に理解されているそのような者に対して、仁愛を実践しなければならない。このように単純な者は単純に、賢明な者は賢明に、みことばを理解して、行なわなければならないためである。さらにまた単純な者は、仁愛の外なるものによって、その内なるものを除々に導入されるためである。