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新しいエルサレムとその天界の教え 172

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172 不信心と冒涜について(これについては〔この〕「教え」の中の前述169番)

冒涜は人間のもとでの、善と悪の、なおまた真理と虚偽の混合である(6348番)。
善と真理を、または教会とみことばの聖なるものを冒涜することは、最初にそれらを認め、それらを信じ、さらにまたもしそれらにしたがって生活するなら、そしてその後、信仰からから遠ざかり、それらを信じず、自分自身と世に生きる者以外に、だれにもできない(593, 1008, 1010, 1059, 3398, 3399, 3898, 4289, 4601, 8394, 10287番)。
少年期に真理を信じ、その後、信じない者はわずかに冒涜する。しかし、自分自身に真理を確信し、その後、それらを否定する者はひどく冒涜する(6959, 6963, 6971番)。
真理を信じて、悪く生きる者らもまた冒涜する。なおまた真理を信じないで、信心深く生きる者も〔冒涜する〕(8882番)。
人間は、もし心で悔い改めた後、以前の悪に返るなら、冒涜し、またその時、その後の状態は前よりも悪くなる(8394番)。
キリスト教世界で、みことばの聖なるものを不潔な考えと話しによって汚す者は冒涜する(4050, 5390番)。
いろいろな種類の冒涜がある(10287番)。

聖なるものを認めない者は、まして、それらを知らない者は、冒涜することができない(1008, 1010, 1059, 9188, 10287番)。
教会の内にいる者は、聖なるものを冒涜することができる、けれども外にいる者はできない(2051番)。
異邦人は、教会の外にいて、みことばを持っていないので、冒涜することができない(1327, 1328, 2051, 9021番)。
ユダヤ人もまた、みことばと教会の聖なる内的なものを認めていないので、冒涜することができない(6963番)。
それゆえ、内的な真理もまたユダヤ人に明かされなかった、なぜなら、もし明かさられて、承認されたなら、彼らはそれらを冒涜したであろうから(3398, 3479, 6963番)。

冒涜は前に(169番)引用した主のことばによって意味される、すなわち、

「汚れた霊が人を出て、乾いた場所を経めぐり、休みを求めますが、それを見つけません。そこで、『私の出てきた家へ帰ろう』と言います。彼は来て、それが空いていて、掃き清められ、自分のために飾られているのを見いだすと、その時、立ち去って、自分よりも悪い他の7つの霊を自分に加えて、入って、そこに住みます。それでその人の後の状態は初めよりも悪くなります」(マタイ12:43–45)。

「汚れた霊が人から出る」ことによって、悪の中にいる者の悔い改めが意味される。彼が「乾いた場所を経めぐるが、休みを見つけない」ことによって、彼には善の生活がそのようなものであることが意味される。空いていて、掃き清められ、自分のために飾られてもあるのを見いだし、そこに帰ってきた「家」によって、その人間自身とその意志が意味される。自分に加え、一緒に帰ってきた「七つの霊」によって、善に結合した悪が意味される。「前よりも悪いその時のその状態」によって、冒涜が意味される。この意味がこれらのことばの内意である。なぜなら、主は対応によって語られたから。似たことがベテスダの池でいやされた者への主のことばによって意味される――

 「見よ、あなたはいやされました。もはや罪を犯してはなりません。何かもっと悪いことがあなたに起こらないようにです」(ヨハネ5:14)。

なおまた次のことばによって――

「彼らの目を見えないようにされ、その心をかたくなにされた。それは彼らがその目で見、その心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやすことがないためである」(ヨハネ12:40)。

「回心し、いやされること」は冒涜することであり、そのことは真理と善とが認められ、その後、退けられるときに起こる。もし、ユダヤ人が回心し、いやされたなら、前に述べたように、そのようになったであろう。

冒涜する者の来世の運命はすべての中でも最悪のものである、彼らの認めた善と真理は、そしてまた悪と虚偽も存続するからである。それらは密着し、いのちを切り裂くことが起こるからである(571, 582, 6348番)。
それゆえ、冒涜が生じないよう、主により最大に備えがなされている(2426, 10287番)。
それゆえ、もし人間が生涯の終わりまで〔真理と善を〕認めることと信仰の中にとどまることができないなら、彼はそれらを妨げられる(3398, 3402番)。
それゆえ、人間はむしろ無知の中と外なる礼拝の中に保たれる(301-303, 1327, 1328番)。
主はまた、人間が認めて、受け入れた善と真理を彼の内的なものの中に隠される(6595番)。

内的な真理は、冒涜されないように、教会がその終わりになる時よりも前に啓示されない(3398, 3399番)。
それゆえ、主は教会が完全に荒廃したとき、世に来られて、内的な真理を開かれた(3398番。これについては小著『最後の審判とバビロンの滅亡』の73, 74番に述べたこと参照)。

みことばの中で、「バベル」によって善の冒涜が、「カルデア」によって真理の冒涜が意味される(1182, 1283, 1295, 1304, 1306–1308, 1321, 1322, 1326番)。
これらの冒涜は、みことばの中で〔語られている〕禁じられた段階の姦淫に、または不潔な姦淫に対応した(6348番)。
イスラエル教会とユダヤ教会の中で冒涜は血を食べることによって表象された。それゆえ、このことは厳格なほどにまでも禁じられた(1003番)。