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新しいエルサレムとその天界の教え 186

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186 再生についてさらに多くのこと
人間は信仰の真理とそれにしたがった生活によって再生する(1904, 2046, 9088, 9959, 10028番)。このことが〔次の〕主のことばによって意味される、

「人は水と霊から生まれないなら、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)。

「水」によって信仰の真理が、「霊」によってそれにしたがった生活が意味される(10240番)。
「水」によって、みことばでは信仰の真理が意味される(2702, 3058, 5668, 8568, 10238番)。
さらにまた霊的な清めは、悪と虚偽からの清めは、信仰の真理によって行なわれる(2799, 5954, 7044, 7918, 9088, 10229, 10237番)。
人間が再生するとき、真理は善の中に、生活(いのち)のものとなるように種を蒔かれ、植え付けられる(880, 2189, 2574, 2697番)。
善に植え付けられるために、真理はどんなものでなくてはならないか(8725番)。
再生の中で、真理は善へ導入され、善に結合され、また相互に、善は真理へ〔導入され、真理に結合される〕(5365, 8516番)。
相互の導入と結合とはどのように行なわれるか(3155, 10067番)。
真理が意志のものとなるとき、その時、愛のものとなるので、それは善に植え付けられる(10367番)。

再生する人間には二つの状態があり、第一のものは真理によって善へ導かれるときであり、第二のものは善から行動し、善から真理を見るときである(7992, 7993, 8505, 8506, 8510, 8512, 8516, 8643, 8648, 8658, 8685, 8690, 8701, 8772, 9227, 9230, 9274, 9736, 10048, 10057, 10060, 10076番)。
真理が第一位に、善が第二位にあるときの人間の状態はどんなものか(3610番)。
ここから、人間は再生するとき、真理から善を眺める、しかし、再生したときは、善から真理を眺めることが明らかである(6247番)。
そのようにあたかも回転が生じる、その中で人間の状態は逆転させられる(6507番)。

しかし、人間が再生するとき、真理が第一位に、善が第二位に、実際にあるのではなく、単に〔そのように〕見えるのである。しかし、人間が再生したとき、善が第一位に、真理が第二位にあることを、実際にまた知覚できるものであることを知っておくべきである(3324, 3325, 3330, 3336, 3494, 3539, 3548, 3556, 3563, 3570, 3576, 3603, 3701, 4243, 4245, 4247, 4337, 4925, 4926, 4928, 4930, 4977, 5351, 6256, 6269, 6273, 8516, 10110番)。
そのように善は再生の最初のものであり、また最後のものである(9337番)。
人間が再生するとき、または同じことであるが、人間が教会となるとき、真理は第一位に、善は第二位にあるように見えるので、その外見のために、古代人の間で教会の長子は、信仰の真理かまたは仁愛の善か争われた(367、2435番)。
仁愛の善は実際に教会の長子である、しかし信仰の真理は単に〔そのように〕見えるだけである(3325, 3494, 4925, 4926, 4928, 4930, 8042, 8080番)。
みことばの中の「長子」によってもまた教会の最初のものが意味され、それに優先権と優越性がある(3325番)。
それゆえ、主は教会の「長子」と呼ばれている。なぜなら、その方の中に、またその方から、愛、仁愛、信仰の善のすべてがあるからである(3325番)。

人間は、善から真理を眺めるときである後の状態から、真理から善を眺めるときである前の状態へ戻ってはならない。その理由(2454, 3650~3655, 5895, 5897, 7857, 7923, 8505, 8506, 8510, 8512, 8516, 9274, 10184番。そこ〔10184番〕に主のことばが説明されている、

「その時、畑にいる者は、自分の着物を取りに後ろへ引き返してはなりません」(マタイ24:18)。

さらに、

 「その時、畑にいる者はだれであろうと自分の後にあるものの中へ引き返してはなりません。ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:31, 32)。

なぜなら、それらはこれらの言葉によって意味されるから)。

人間の再生の過程が、〔それが〕どのように行なわれるかが述べられている(1555, 2343, 2490, 2657, 2979, 3057, 3286, 3310, 3316, 3332, 3470, 3701, 4353, 5113, 5126, 5270, 5280, 5342, 6717, 8772, 8773, 9043, 9103, 10021, 10057, 10367番)。
再生のアルカナは無数である、再生は人間の全生活の間、続くからである(2679, 3179, 3584, 3665, 3690, 3701, 4377, 4551, 4552, 5122, 5216, 5398, 5912, 6751, 9103, 9258, 9296, 9297, 9334番)。
これらのアルカナからの何らかのものも、ほとんど人間の知識や知覚にやって来ない(3179, 9336番)。このことが主のことばによって意味されるものである、

「風は欲するところを吹き、あなたはその音を聞きます。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知りません。霊から生まれるだれもがこのようです」(ヨハネ3:8)。

霊的な教会の人間の再生の過程について(2675, 2678, 2679, 2682番)。
また、天的な教会の人間の再生について、その相違(5113, 10124番)。

再生する人間と幼児に同様な関係がある。〔幼児は〕最初に話すことを、次いで考えることを、その後、善く生きることを学ぶ、その時すべてのことが自発的にあたかも彼自身から流出するかのようにまで(3203, 9296, 9297番)。
このように再生する者は、最初に幼児のように、次いで少年のように、その後、成人のように主により導かれる(3665, 3690, 4377-4379, 6751番)。
人間は、主により再生しているとき、最初に外なる無垢の状態にいる、それは幼児の状態である。次いで連続的に内なる無垢の状態へ導き入れられる、それは知恵の状態である(9334, 9335, 10021, 10210番)。
幼児の無垢とは何か、どんなものか、知恵の無垢とは何か、どんなものか(1616, 2305, 2306, 3494, 4563, 4797, 5608, 9301, 10021番)。
人間の再生と子宮内の胎児の受胎と形成との比較(3570, 4931, 9258番)。
それゆえ、みことばでは「生殖」と「出生」は霊的な「生殖」と「出生」を意味する、すなわち、それは再生に属するものである(613, 1145, 1255, 2020, 2584, 3860, 3868, 4070, 4668, 6239, 10204番)。
植物界の発芽によって説明された人間の再生(5115, 5116番)。
虹の中に表象された人間の再生(1042, 1043, 1053番)。

内なるまたは霊的な人も外なるまたは自然的な人も両方の人間が再生しなくてはならない、そして1方はもう1方を通してである(3868, 3870, 3872, 3876, 3877, 3882番)。
内なる人は外なる人よりも前に再生しなくてはならない、内なる人は天界の光の中にあり、外なる人は世の光の中にあるからである(3321, 3325, 3469, 3493, 4353, 8746, 9325番)。
外なるまたは自然的な人は、内なるまたは霊的な人によって再生する(3286, 3288, 3321番)。
外なるまたは自然的な人が再生する前に人間は再生しない(8742-8747, 9043, 9046, 9061, 9325, 9334番)。
自然的な人が再生しないなら、霊的な人は閉ざされる(6299番)。
また信仰と愛の真理と善に関して、あたかも盲目のようである(3493, 3969, 4353, 4588番)。
自然的な人が再生する時、人間全体が再生する(7442、7443番)。
このことが「弟子たちの足を洗うこと」によって、またこれら〔以下〕の主のことばによって意味される、

「洗われた者は足を除いて洗われる必要はありません、全身が清潔です」(ヨハネ13:9, 10) (10243番)。

みことばの中で「洗うこと」は霊的に洗うことを意味し、それは悪と虚偽から清められることである(3147, 10237, 10241番)。また「足」は自然的な人に属するものを意味する(2162, 3761, 39
86, 4280, 4938~4952番)。このように「足を洗うこと」は自然的な人を清めることである(3147, 10241番)。

どのようにして自然的な人は再生するか(3502, 3508, 3509, 3518, 3573, 3576, 3579, 3616, 3762, 3786, 5373, 5647, 5650, 5651, 5660番)。
自然的な人が再生したときどんなものか、また再生しないときどんなものか(8744, 8745番)。
自然的な人が霊的な人と闘わなければ闘わないほど、それだけ人間は再生している(3286番)。
人間が再生しているとき、自然的な人は流入によって霊的なものを感じる(5651番)。

自然的な人の最外部のものである感覚的なものは、今日では再生しない、しかし、人間はそれ〔感覚的なもの〕から高揚される(7442番)。
再生した者は、感覚的なものから天界の光の中へ実際に高揚される(6183, 6454番)。
感覚的な人間がだれで、どんなものか(前の抜粋50番参照)。

人間は、彼のもつ善と真理の知識の中への流入によって再生する(4096, 4097, 4364番)。
人間は再生するとき、手段となる善と真理とを通して純粋な善と真理へ導き入れられ、その後、手段となる善と真理は見捨てられ、純粋なものがその位置に代わる(3665, 3686, 3690, 3974, 4063, 4067, 4145, 6384, 9382番)。
その時、真理と善の間に他の秩序が導き入れられる(4250, 4251, 9931, 10303番)。
それらは目的にしたがって配列される(4104番)。
そのように、霊的な生活(いのち)の役立ちにしたがって配列される(9297番)。
再生する者は多くの状態の下へ入る、そして、常に天界の中の内的なものへ、このようにさらに近く主へ導かれる(6645番)。
再生した者は天界の秩序の中にいる(8512番)。彼の内部は天界へ向って開かれている(8512, 8513番)。
人間は再生によって天使たちの知性へやって来る、しかし、それ〔知性〕は、世に生きるかぎり、彼の内側にひそかに隠れている。しかし、それは来世で開かれ、その時、彼には天使にあるのと同じような知恵がある(2494, 8747番)。
照らしに関して、再生した者の状態(2697, 2701, 2704番)。
人間は再生を通して新しい理解力を受ける(2657番)。
再生した者のもとで、善の結実と真理の増加がどのように関係するか(984番)。
再生した者のもとで、善からの真理は、連続的な派生物によって星のようなものをつくり、絶えず周囲に増大する(5912番)。
再生した者のもとの善からの真理は、善の純粋な真理としてその秩序の中に配列されており、そこから他の〔残りの〕ものが両親からのように発出し、〔その真理は〕真ん中にあって、次いで親族関係と姻戚関係にしたがって、そこに暗いものがある最外部にまで順に続く(4129, 4551, 4552, 5134, 5270番)。
再生した者のもとの善からの真理は天界の形に配列されている(3316, 3470, 3584, 4302, 5704, 5709, 6028, 6690, 9931, 10303番。また著作『天界と地獄』の中の「天界の形、その形にしたがってそこに交わりと伝達がある」200-202番、それと「天界の天使の知恵」265-275番の章の中に)。

再生した人間のもとで、霊的なものと自然的なものとの間に対応がある(2850番)。
再生した者のもとで、いのちの秩序は完全に逆転している(3332, 5159, 8995番)。
再生した人間は、霊に関して完全に新しい(3212番)。
外なるものに関して再生しない人間に似て見える、けれども、内なるものに関してそうでない(5159番)。
霊的な善は、善の愛の情愛から善を意志し、善を行なうものであり、再生によらないなら人間に存在しない(4538番)。
情愛とともに入ってくる真理もまた再現される(5893番)。
真理は、人間のプロプリウムからのいのちを奪われれば奪われるほど、それだけ善に結合し、霊的ないのちを受ける(3607、3610番)。
自己と世への愛からの悪が遠ざければ遠ざけられるほど、それだけ真理にいのちがある(3610番)。

再生する人間のもとの真理への最初の情愛は、純粋ではない、しかし、連続的に清められる(3089, 8413番)。
再生する人間のもとの悪と虚偽は、ゆっくり遠ざけられる、またすぐにではなく(9334, 9335番)。
人間のプロプリウムである悪と虚偽は、それでも残っており、ただ再生によってだけ遠ざけられる(865, 868, 887, 929, 1581, 2406, 4564, 8206, 8393, 8988, 9014, 9333~9336, 9445, 9447, 9448, 9451~9454, 9938, 10057, 10060番)。
人間は完全と言われるほどには決して再生することができない(894, 5122, 6648番)。
悪い霊は再生した者をあえて襲おうとしない(1695番)。
教会で〔教えられている〕義認を信じる者は、再生についてほとんど知らない(5398番)。
再生することができるために、人間に自由がなくてはならない(1937, 1947, 2876, 2881, 3145, 3146, 3158, 4031, 8700番)。
人間は再生によって天界的な自由の中へ導き入れられる(2874, 2875, 2882, 2892番)。
強制によって善と真理の結合はない、したがって再生はない(2875, 2881, 4031, 8700番)。
(再生に関する自由について他のことは、〔この〕「教え」の中の前述自由について参照)

再生する者は、必然的に試練の下に入らなくてはならない(3696, 8403番)。
試練は、善と真理が結合するために、なおまた内なる人と外なる人が結合するために生ずるからである(4248, 4272, 5773番)。