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新しいエルサレムとその天界の教え 8

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教えへの序説

8 仁愛が存在しないので、信仰も存在しないとき、教会が終わることは小著『最後の審判とバビロンの滅亡』に示されています(33~39番など)。今では、キリスト教世界の中の教会は、単に信仰に属するようなものによって互いに区別されてきており、それでも仁愛のないところに信仰はないので、それゆえ、私はここで、この教えそのものの前に、古代人の仁愛の教えについていくらか序説します。「キリスト教世界の中の教会」と言いましたが、これによって意味されるのは改革派または福音派のもとの教会であって、教皇派のもとにキリスト教会は存在していないので、これは意味されません。なぜなら、教会のあるところで主は拝され、みことばが読まれるからです――彼ら〔教皇派〕のもとでは異なっています。そこでは主に代わって彼ら自身が拝され、みことばは民衆に読まれることが妨げられ、教皇の教令はみことばにも等しいもの、それどころかそれ以上のものであると見なされています。