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新しいエルサレムとその天界の教え 9

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9 生活の教えである仁愛の教えは古代教会の教えそのものでした。(これらの教会については『天界の秘義』1238, 2385番参照)。またその教えがすべての教会を結合し、したがって多くの教会から一つの教会をつくったのです。というのは、彼らは今日、信仰の事柄と呼ばれている真理ではどれほど異なっていても、仁愛の善の中に生きているすべての者を、教会の人間として認め、これを兄弟と呼んだからです。このことを彼らは互いに教えたのであり、そのことが彼らの仁愛の働きの間にありました。彼らはまた、だれも善の中にいればいるほど、それだけ真理を受けることを知っており、もしある者が他の者の意見に賛同しなくても怒りませんでした。古代教会はこのようなものであったので、それゆえ彼らは内的な人でした。また内的な人であったので、さらに知恵がありました――なぜなら、愛と仁愛との善の中にいる者たちは、その内なる人に関して天界にいて、またそれ〔内なる人〕に関してそこの似た善の中にいる天使の社会の中にいるからです。ここから彼らは内的なものに向けて心が高揚されており、彼らに知恵がある、といえます――なぜなら、知恵は天界以外の〔他のものから〕、すなわち、主から天界を通って〔来る〕以外の他のものから来ることはできないからです。そして天界には知恵が存在します、そこでは彼らは善の中にいるからです。知恵は真理の光から真理を見ることであり、真理の光は天界に存在する光です。しかし、時が経つにつれてその古代の知恵は減じました。というのは、人類は主に対する愛の善と仁愛と呼ばれる隣人に対する愛の善から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ天界から遠ざかったので、知恵からも遠ざかったからです――ここから人間は内的なものから外的なものとなり、これが継続しました。また人間が外なるものになったとき、さらにまた世のものと肉体的なものになりました。このようなものであるとき、天界に属するものを少しも考慮しません、なぜなら、その時、地的な愛の喜びがそれらの悪とともに彼を全面的に占め、人間にはそれらの愛からの喜びがあるからです――またその時、彼が死後のいのち(生活)について、天界と地獄について、一言でいえば、霊的なものについて聞くことは、いわば彼の外にあって内にはありません、それでも存在しなくてはならないものです。ここからまた、古代人のもとでこれほど高い価値のある仁愛の教えは、今日では失われた事柄の間にあります――なぜなら、今日、純粋な意味で何が仁愛か、また純粋な意味で何が隣人かだれが知っているでしょうか。それでもその教えは単にそのことだけでなく、それに加えて無数のことを教えていますが、今日ではその千分の一も知られていません。聖書全体は「愛と仁愛の教え」以外の何ものでもありません。主もまた以下のように語られて、教えられています――

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛さなくてはならない。これは第一の大きな戒めです。第二も……それに等しいものです。あなたは自分自身のように隣人を愛さなくてはならない。この二つの戒めに……律法と預言者がかかっています」(マタイ22:37, 38, 39)。

『律法と預言者』はみことばのすべてと個々のものです。