カテゴリー

新しいエルサレムとその天界の教え 248

247◀︎目次▶︎249

248 ユダヤ教会について、ユダヤ人について
ユダヤ教会の中で命じられた法令、判決、律法は、部分的には古代教会のそれらに似ていた(4449, 4835番)。
ユダヤ教会の表象的な儀式は、どのように古代教会の表象的な儀式と異なったか(4288, 10149番)。
表象的な教会がその民族のもとに設立された、しかし、その民族そのものの中に教会は存在しなかった(4899, 4912, 6304番)。
それゆえ、その民族そのものについては、教会ではなく、教会の表象的なものであった(4281, 4288, 4311, 4500, 6304, 7048, 9320, 10396, 10526, 10535, 10698番)。
イスラエルとユダヤ民族は教会を表象するために選ばれたのではなく、彼らの父祖とモーセとが主張した頑固な不従順のために受け入れられたのである(4290, 4293, 7051, 7439, 10430, 10535, 10632番)。
彼らの礼拝は、すべてが内なる礼拝のない、単なる外なるものであった(1200, 3147, 3479, 8871番)。
彼らは礼拝の内なるものをまったく知らず、また知ることも欲しなかった(301-303, 3479, 4429, 4433, 4680, 4844, 4847, 10396, 10401, 10407, 10694, 10701, 10707番)。
彼らは、礼拝、教会、みことばの内なるものをどのように考慮するか(4865番)。
彼らの内側は汚れており, 自己と世への愛と貧欲とに満ちていた(3480, 9962, 1045410457, 10462-10466, 10575番)。
それゆえ、彼らに教会の内なるものは明らかにされなかった、彼らはそれらを冒涜したであろうから(2520, 3398, 3480, 4289番)。
みことばは彼らに完全に閉ざされている(3796番)。
彼らは、みことばを外から見て、内から見ない(10549-10551番)。
それゆえ、彼らの内なるものは、礼拝の時、閉ざされていた(8788, 8806, 9320, 9377, 9380, 9962, 10396, 10401, 10407, 10492, 10498, 10500, 10575, 10629, 10694番)。
さらにまたその民族は、内なるものが閉ざされているとき、他の者よりも外なる聖なるものの中にいることができるといったものであった(4293、4311, 4903, 9373, 9377, 9380番)。
その時の彼らの状態(4311番)。
それゆえまた、彼らは今日までも生存を保たれている(3479番)。
彼らの外なる聖なるものは主により奇跡的に天界へ上げられ、このようにそこでは礼拝、教会、みことばの内的なものが知覚された(3480, 4307, 4311, 6304, 8588, 10492, 10500, 10602番)。
このために、彼らは外的な手段によって厳格に外なる形で儀式を尊重するよう強いられた(3147, 4281, 10149番)。
彼らは内なるもののない外なる聖なるものの中にいることができたので、教会と天界の聖なるものを表象することができた(3479, 3881, 4208, 6306, 8588, 9377, 10430, 10500, 10570番)。
それでも聖なるものは彼らに働きかけなかった(3479番)。
表象する人物がどんなものかは何も関係がない、表象は物事を眺める、けれども、人物を眺めないからである(665, 1097, 1361, 3147, 3881, 4208, 4281, 4288, 4292, 4307, 4444, 4500, 6304, 7048, 7439, 8588, 8788, 8806番)。

その民族は他の民族よりも悪かった。両方の契約のみことばからも彼らの性質が記述されている(4314, 4316, 4317, 4444, 4503, 4750, 4751, 4815, 4820, 4832, 5057, 5998, 7248, 8819, 9320, 10454-10547, 10462-0466番)。
ユダの部族は残りの他の部族よりもさらに悪いものへそれた(4815番)。
彼らはどれほど残酷に楽しみから異邦人を扱ったか(5057, 7248, 9320番)。
その民族は心で偶像崇拝者であり、他の民族以上に他の神々を崇拝した(3732, 4208, 4444, 4825, 5998, 6877, 7401, 8301, 8871, 8882番)。
さらにまた彼らの礼拝も、その民族そのものの中で眺められるとき、内なるもののない外なるものであったので、偶像崇拝であった(4281, 4825, 8871, 8882番)。
彼らはエホバを単に名前に関して崇拝した(6877, 10559-10561, 10566番)。
また奇跡のためにだけ〔エホバを崇拝した〕(4299番)。
ユダヤ人は教会の終わりに回心して、カナンの地に戻される、と信じる者は誤って考えている(4847, 7051, 8301番)。
この事柄について、みことばから多くの個所が例証される、それでも内意にしたがって理解されるべきである、このように文字〔通りの意味〕にしたがうのとは異なって(7051番)。
みことばは外なる意味に関して、その民族のために変化した、それでも内意に関して変化しなかった(10453, 10461, 10603, 10604番)。
エホバは、シナイ山で彼らの性質にしたがって、彼らに焼きつくす火、密雲、炉からのような煙の中に見られた(1861, 6832, 8814, 8819, 9434番)。
主はだれにも彼の性質にしたがって見られる。善にいる者には活気づけ、元気づける火として、悪にいる者には焼きつくす火として〔見られる〕(934, 1861, 6832, 8814, 8819, 9434, 10551番)。
その民族の起源の一つはカナンの女から、残りの二つは嫁との淫行からである(1167, 4818, 4820, 4874, 4899, 4913番)。
これらの起原によって教会との彼らの結合がどのようなものであるか意味される、すなわち、カナンの女との、嫁との淫行のような〔ものである〕(4866, 4874, 4899, 4911, 4913番)。
来世における彼らの状態について(939, 940, 5057番)。

この民族は、たとえこのようなものであっても、教会を表象した。また、みことばは彼らのもとで、彼らについて書かれたので、それゆえ、神的な天的なものは「ルベン」、「シメオン」、「レビ」、「ユダ」、「エフライム」、「ヨセフ」その他といった彼らの名前によって意味された。「ユダ」によって、内意では、天的な愛に関する主とその方の天的な王国が意味される(3654, 3881, 5583, 5603, 5782, 6363番)。
ユダについてイスラエルの預言が説明されている、そこでは主について扱われている、「創世記」49:8-12(6362-6381番)。
「ユダの部族」と「ユダヤ」は天的な教会を意味する(3654, 6364番)。
十二の部族は統一体としてのすべての愛と信仰を表象し、そこからそれらを意味した(3858, 3926, 4060, 6335番)。
したがって、天界と教会もまた〔意味した〕(6337, 6637, 7836, 7891番)。
名前を挙げられている順序にしたがって意味する(3862, 3926, 3939, 4603以降6337, 6640番)。
ユダヤ人は天的な王国を、イスラエル人は霊的な王国を表象するために、十二の部族は二つの王国に分けられた(8770, 9320番)。
「アブラハム、イサク、ヤコブの裔」によって教会の善と真理が意味される(3373, 10445番)。