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新しいエルサレムとその天界の教え 49

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49 天界の光について、霊的な人はその中にいる

天界には大きな光がある(1117, 1521, 1533, 1619–1632番)。
天界の光は地上の真昼の光を多くの段階で超えている(1117, 1521, 4527, 5400, 8644番)。
その光は私にしばしば見られた(1522, 4527, 7174番)。
最も内なるまたは第三の天界の天使たちのもとの光は太陽からの光に似ている、しかし、第二の天界の天使たちもとの光は月からの光に似ている(1529, 1530番)。
最も内なる天界の中の光は炎のようである、しかし、第二の天界の中の光は白光りしている(9570番)。

天界の中のすべての光はそこの太陽としての主からである(1053, 1521, 3195, 3341, 3636, 3643, 4415, 9548, 9684, 10809番)。
主は天使の天界の太陽であられ、その太陽はその方の神的な愛である(1521, 1529, 1530, 1531, 1837, 4321, 4696, 7078, 7083, 7173番)。
天界の主から発出する神的な真理は光として見られ、天界のすべての光をもたらす。そこからその光は霊的な光である(3195, 3322, 5400, 8644, 9399, 9548, 9684番)。
それゆえ、主はみことばで光と言われる(3195番)。
その光は神的な真理であるので、その光の中には神的な知恵と知性とが存在する(3195, 3485, 3636, 3643, 3993, 4302, 4413, 4415, 9548, 9684番)。
主からの光はどのように天界の中に流入するか、太陽の周りにある光線の環によって説明される(9407番)。
(主は天界の太陽であられ、そこのすべての光がその方からであることは、著作『天界と地獄』参照、116–125番――またその太陽からの光は神的な真理であり、その太陽からの熱は神的な愛の神的な善である、126番から140番まで)。

天界の光は天使と霊の視覚と理解力を照らす(2776, 3138番)。
そこの光は彼らの知性と知恵とにしたがっている(1524, 3339番)。
みことばからの証明(1529, 1530番)。
天界の光には天使たちの社会と同数の相違がある(4414番)――天界の中では善と真理に関して、したがって知恵と知性に関して、絶え間ない変化があるからである(684, 690, 3241, 3744, 3745, 5598, 7236, 7833, 7836番)。
天界が光と熱の中にあることは、知恵の中と愛の中にあることを意味する(3643, 9399, 9400番)。

天界の光は人間の理解力を照らす(1524, 3138, 3167, 4408, 6608, 8707, 9128, 9399, 10569番)。
人間は、感覚的なものから高揚されるとき、穏やかな光の中へ、ついには天界的な光の中へやって来る(6313, 6315, 9407番)。
人間は知性の中へ〔やって来ると〕、天界の光の中への高揚がある(3190番)。
私は世俗的な観念から引き出されたとき、どれほど大きな光を知覚したか(1526, 6608番)。
内なる人の視覚は天界の光の中にあり、それゆえ人間は分析的に、また理性的に考えることができる(1532番)。
主からの天界の光は常に人間のもとに現存する。しかし、それは人間が善からの真理の中にいればいるほど、それだけ流入するものである(4060, 4214番)。
その光は善からの真理にしたがっている(3094番)。
真理は霊界の中で輝く(5219番)。
霊的な熱と霊的な光とは人間の真のいのちをつくる(6032番)。

世の光は外なる人のため、天界の光は内なる人のためのものである(3223, 3324, 3337番)。
天界の光は自然的な光に流入し、また自然的な人はその光を受け入れれば入れるほど、それだけ賢明である(4302, 4408番)。
それらの光の間に対応がある(3225番)。
天界の光の中にあるものは、自然的な光と呼ばれる人間のもとの世の光から見られることはできない、しかし逆に〔世の中にあるものは天界の光から見ることができる〕(9577番)。
ここから、自然的な光と呼ばれる世の光だけの中にいる者は、天界の光に属したものを知覚しない(3108番)。
悪からの虚偽の中にいる者のもとの天界の光は暗黒である(1783, 3337, 3413, 4060, 6907, 8197番)。悪人のもとで世の光は赤く光る。赤く光れば赤く光るほど、それだけ天界の光に属したものは、彼らに暗やみである(6907番)。
世の光は天使に見られない(1521, 1783, 1880番)。

天界の中のすべての光は主からであり、またすべての陰は天使と霊の無知とプロプリウム(固有のもの)からである。ここから光と影の加減と多彩なものがある、これはそこの色である(3341番)。
ウリムとトンミムによる光の多彩なものについて(3862番)。

仁愛から分離した信仰の中にいる者の光は、雪〔のよう〕であり、冬の光のようである(3412, 3413番)。
その光は、天界からの光の流入で、暗やみそのものに変わる(3412番)。
間違った信念の信仰の中と悪の生活の中にいる者の光について(4416番)。
プロプリウム(固有のもの)からの知性の中にいる者のもとの光はどのように見られるか、また主からの知性の中にいる者のもとの光はどのように見られるか(4419番)。

地獄の中に光があるが、しかし弱々しい(1528, 3340, 4214, 4418, 4531番)。
そこの光は炭火からの光のようである(1528, 4418, 4531番)。
地獄にいる者は、彼自身の光の中では人間のように彼ら自身に見られる、しかし、天界の光の中では悪魔や怪物のように〔見られる〕(4532, 4533, 4674, 5057, 5058, 6605, 6626番)。
天界の光の中ですべてのものは〔それが〕あるがままに見られる(4674番)。
地獄は暗黒や暗やみの中にあると言われる、悪からの虚偽の中にあるからである(3340, 4418, 4531番)。
「暗やみ」は虚偽を、「暗黒」は悪の虚偽を意味する(1839, 1860, 7688, 7711番)。