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最後の審判と世の終わり 第二部 11

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011[3652] それらは内意にしたがえば、次のようなものです――「それで、あなたがたが〝荒廃の忌まわしいもの〟を見るとき」は、教会の荒廃を意味し、それはその時、主がもはや認められず、それゆえ、その方への愛が何もなく、信仰が何もありません。なおまた、もはや隣人に対する何らかの仁愛がありません。したがって、善と真理の何らかの信仰がない時です。これらが教会の中に、すなわち、みことばがむしろそこの地域の中にあるとき、すなわち、口の教えの中になくても心の考えの中にある時、荒廃があり、それらが、すでに言われたその忌まわしいものです。ここから「あなたがたが〝荒廃の忌まわしいもの〟を見るとき」とは、このような何らかのものを認めるときです。その時、何をすべきかが16-18節に続いています。
[2]「預言者ダニエルにより言われた」は、内意で、預言者たちにより、を意味します。なぜなら、何らかの預言者が、みことばの中でその名前を挙げられている場所でその者が理解されるのではなく、名前は決して天界の中に達しないので、預言のみことばそのものが理解されるからです(1876, 1888番)。けれども、ある預言者によって他の預言者と同様なものは意味されません(モーセ、エリヤとエリシャによって何が意味されるかは第18章の序文や2762番参照)。けれども「ダニエル」によって、主の降臨について、また教会の状態について、ここではその最後の状態について、その預言のすべてのものが意味されます。預言書に大いに扱われている荒廃について、またそれらによって文字どおりの意味でユダヤとイスラエル教会の荒廃が意味されます、しかし、内意で教会の荒廃が全般的に、そのようにまた今(近くに)ある荒廃が意味されています。
[3]「聖なる場所に立っている」は、善と真理のものであるすべてのものに関する荒廃を意味します。聖なる場所は愛と信仰の状態です。内意で、「場所」は状態です(2625, 2837, 3356[4], 3387番参照)。その状態の「聖なるもの」は善であり、それは愛とそこからの信仰の真理です。みことばの中の聖なるものによって他のものは意味されません、それらは主からのものであり、その方は「聖なるそのもの」または「聖所」であられるからです。
読む者は、気づきなさい」は、これらが教会の中にいる者、特に、愛と信仰の中にいる者により正しく守られなければならないことを意味します、彼らについては、今から、扱います。
[4]「その時、ユダヤにいる者は、山へ逃げなさい」は、教会からの者が、別の源泉から、主へ、そのようにその方への愛へ、また隣人に対する仁愛へ以外に目を向けてはならないことを意味します。「ユダヤ」によって教会が意味されることは以下に示します。「」によって主ご自身が、しかし「山々」によってその方への愛と隣人に対する仁愛が意味されます(795, 796, 1430, 2722番照)。「ルカ福音書」にあるように、エルサレムが包囲されたとき、ローマ人により行なわれたように、その時、文字どおりの意味にしたがって、そこに行かず、山の上に行ったでしょう、

エルサレムが軍隊により取り囲まれているのをあなたがたが見る時、その時、〔あなたがたは〕荒廃が近いことを知りなさい。その時、ユダヤにいる者は、山の上に逃げなさい、またその〔都の〕真ん中にいる者は、出なさい、けれども、地方にいる者は、その中に入らないようにしなさい(21:20, 21)。

[5]しかし「エルサレム」も同様です、すなわち、そこによって、文字どおりの意味で、エルサレムが意味されることです、しかし、内意では主の教会です(402, 2117[1]番参照)。というのは、みことばの中で、ユダヤとイスラエルの人々について名前が挙げられているすべてと個々のものは、しばしば示されたように、天界の中の主の王国、また地上の主の王国、すなわち、教会を表象するものであるから。ここから、内意では、どこにも「エルサレム」よってエルサレムが、「ユダヤ」によってもまたユダヤが意味されません。しかし、それらによって主の王国の天的なものと霊的なものを表象することができるようなものでした。そして、表象するために、さらにまた〔そのことが〕起こりました。みことばはそのように述べられることができ、それは読む人間の把握にしたがって、またその〔読む〕人間のもとの天使の理解力にしたがっていました。このこともまた、主が同様に語られたことの理由でした。というのは、もし異なって〔語られ〕たなら、読んで把握されるものに、特に当時の人間に、同時に天使の理解に適すものにならず、そのように人間により受け入れられず、天使によっても理解されないものとなったであろうからです。
[6]「家の屋根の上の者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい」は、仁愛の善の中にいる者は、ここから信仰の教えの事柄へ進んではならないことを意味します。みことばの中の「家の屋根」は、人間の高い(上位の)状態を、そのように善に関する彼の状態を意味します。けれども、それら下のものは、人間のより低い状態を、そのように真理に関する状態を意味します(「家」が何を意味するかは、710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番照)。教会の人間の状態の場合は、このようです――彼が再生される時、善のために真理を学びます、というのは、その善のために真理の情愛が彼にあるからです。しかし、再生された後、その時、真理と善から行動します。この状態へ達した後に、その時、前の状態へ行くべきではありません、なぜなら、もしそのことを行なうなら、その中にいる善について真理から推論し、こうして自分の状態を破壊するからです。というのは、人間が真理と善を欲する状態の中にいる時、すべての推論は終わり、終わらなくてはなりません、というのは、その時、前のように理解力からでなく、意志から、それゆえ、良心から、考え、行動するからです。もし再び理解力から〔考え、行動する〕なら、試練に陥り、それらの中で屈服してしまいます。これらが「家の屋根の上の者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい」によって意味されます。
[7]「畑の中の者は、自分の衣服(または下着)を取るために、後ろへ戻らないようにしなさい」は、真理の善の中にいる者が彼の善から真理の教えの事柄へ進んではならないことを意味します。「」は、みことばの中で人間の善に関する状態を意味します(「畑」が何を意味するかは、368, 2971, 3196, 3310, 3317, 3500, 3508番照)。また「衣服(または下着)」は、善をまとうものを、すなわち、真理の教えの事柄を意味します、なぜなら、これは善の衣服のようであるからです(「衣服」がそれであることは、297, 1073, 2576, 3301番照)。
だれもが、文字の中に見られるよりも、さらに深いものがここに秘められて隠れていることを見ることができます。というのは、主ご自身がそれらを語られたからです。