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最後の審判と世の終わり 第二部 4

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4[3356] 「運動」が状態の変化であることは、運動が空間の中と時間の中で生じ、また来世(あの世)に、空間と時間の観念は何もなく、しかし、それらに代わって状態があるからです。来世では、確かにすべてのものが空間の中に見られ、時間の中で続いているかのようです、しかし、本的には状態の変化です、なぜなら、状態の変化から空間と時間が存在するからです。このことは、それぞれの霊に、悪い霊にも、最もよく知られています。状態の変化によって他の者に〔自分が〕他のところで見られるようにする者がいますが、そのとき、それでも〔その者は〕そこにいません。人間もまた、人間が情愛とそこから楽しさの状態の中にいればいるほど、また思考とそこから身体が存在しない状態の中にいればいるほど、それだけ時間の中にいないことから、よく知ることができます。なぜなら、その時、多くの時間が彼にはほとんど1時間でもないように思えるからです。このことの原因は、彼の内なる人に、すなわち、霊に、いろいろな状態があるからであり、それらの状態に外なる人のいろいろな空間と時間が対応しているからです。それで「運動」は、空間と時間の中の継続する進行であるので、内意では状態の変化です。