最後の審判と世の終わり 13
13 [2129] 他の種類の騒動も、またはむしろ衝突があり、その観念もまた最後の審判を示しており、それらによって内的なものに関して悪で結合した社会は消滅させられました。それらについてここに述べることが許されています――
そのような霊が、社会または交際の中でいつものように考えるのではなく、しかし、だれもが自分自身から考えるような状態へと強いられる。このように思考のさまざまなもの、またいろいろな種類のぶつぶつ言う話し方から、あたかも多くの水のようなある種の騒音が聞かれ、彼らの衝突の間に、確信した真理についての意見の混乱から起こってくる描写ができないようなものがあり、それは霊的なカオス(混沌)と呼ばれることができるようなものである。
[2]ぶつぶつ言うような衝突の音は、あいまいな三重のものであった。一つは頭のまわりに流入し、それが思考のものであったことが言われた。もう一つは左のこめかみに向かって流入し、これはある真理についての推論の衝突であり、それらの真理の信仰を持つことを欲しないことが言われた。第三のものは右に向かって上方から流入した、それはそのように混乱した耳障りな音でなく、その耳障りな音(歯ぎしり)は、あちこちに向きを変えられた。ここから、真理が戦っていたこと、それらはそのように推論によってあちこちに向きを変えられたことが言われた――これらの衝突が続いたとき、やはり私と話した霊がいて、「彼らの会話の個々のものが何を意味するか、それらの音によって明確に浸透してくる」と言った。
[3]彼らの推論の主題は特に次のものであった。十二使徒が十二の王座の上に座り、イスラエルの十二部族をさばくことは、文字どおりの意味にしたがって理解されなければならないかどうか――なおまたさらに、迫害と悲惨さを被った者以外に他の者が天界の中に入れられるかどうか〔であった〕。それぞれの者が、身体のいのちの中で得た自分の想像力にしたがって、推論した。しかし、彼らのある者は、共有と秩序の中に追いやられ、その後、〔文字どおりの意味と〕まったく異なって理解されなければならないことを教えられた、すなわち、「使徒」によって使徒が、「王座」によっても王座が、「部族」によっても部族が、それどころか、「十二」によって十二が意味されないこと、しかし、それらによって、使徒も、王座や部族も、そのようにまた十二によって信仰の主要なものが意味された(2089(★)番)、これらから、またこれらにしたがって審判がそれぞれの者の上に行なわれること、また加えて、使徒たちは決してひとりの人間もさばくことができないこと、しかし、すべてのさばきは主にだけにあることが示された。
[4]また、もう一つのものについては、これも、迫害と悲惨さを被った者だけが天界の中にやって来ることのように理解されてはならない、しかし、富んだ者も貧しい者も、高位にいる者も卑しい身分にいる者も、主はすべての者に、特に、悪い者からの迫害である霊的な悲惨さと試練の中にいた者に哀れみを示される。そのように、自分自身から自分自身を悲惨であったことを認め、〔自分たちが〕救われるのは主の慈悲だけによると信じる者である。