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最後の審判と世の終わり 第二部 8

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8[3489] 教会がこのようなものであること、すなわち、善と真理に属すすべてのものを軽蔑し、退けていること、なおまたそれらに対して、特に主ご自身に対して敵意を抱いていることが、教会の中にいる者の前に見えません。というのは、〔彼らは〕礼拝所をしばしば訪れ、説教を聞き、そこにいるとき、ある種の聖なるものの中におり、聖餐に臨み、また自分たちの間で、いつでも、それらについて適当に、善い者と等しく悪い者もそのように話し、さらにまた自分たちの間で礼儀正しく、仁愛の中で、または友情の中で生活するからです。ここから、人間の目の前に何らかの軽蔑、まして反感、さらにまして信仰の善と真理に対する敵意が、そのように主に対しても見られません。しかし、それらは、それらによってある者が他の者を惑わす外なる形です。これに反して、教会の人間の内なる形はまったく違っており、さらにまた外なるものにまったく正反対です。ここに述べられているそれら〔軽蔑や敵意〕がこのようなものであり、それが内なる形です。これら〔内なる形〕がどのようなものであるかは、天界の中で生きいきと見られます。というのは、天使たちは、内なるもの、すなわち、目的または意図や意志、またそこからの思考以外の他のものに留意しないからです。これらがどれほど外なるものと似ていないかは、キリスト教界から来世の中にやって来る者から明らかにすることができます(彼らについては2121-2126[5-10]番参照)。
[2]というのは、来世(あの世)には、内なるものだけがあり、そこでは、それらにしたがって考え、話すから、なぜなら、外なるものは身体とともに残されるからです。そこ〔来世〕では、どれほど世の中で穏やかな者のように見えても、それでも互いに憎み、信仰に属すすべてのものを、特に主を憎んでいます。なぜなら、来世の中で単に彼らの前で主のことが言われるだけで、その方に対する軽蔑だけでなく、反感と敵意のスフェアが、彼らから、聖なるものの外観にしたがってその方について〔世の中で〕話し、そのようにまた説教した者からもまた、吐き出され、あたりに注がれることから、はっきりと明らかであり、仁愛と信仰のことが言われるときも同様であるからです――〔というのは〕内なる形の中でこのような者であるからであり、それらはそこで明らかにされます。例えば、もし〔彼らが〕世の中で生きた時、外なるものが彼らに自由にされ、得られたなら、すなわち、もしそこで、いのちを恐れず、法律を恐れず、そして特に、名誉のために評判を恐れなかったなら、それらを得ようと求め、また富のために、それらをほしがり、熱心に求め、互いに、内部の憎しみから、努力と思考にしたがって突進し、また何の良心もなしに他の者の財産を略奪し、そしてまたできるかぎり最大に罪のない者たちを何の良心もなしに皆殺しにしたであろうからです。今日のキリスト教徒は、内的なものに関して、それらを知らないわずかな者を除いてこのような者です。ここから、教会がどんなものであるか明らかです。