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最後の審判と世の終わり 第二部 7

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7 [3488] ゆがめられた教会の第二の状態が、福音書の主のそれらのことばによって述べられたことは、それらの内意から明らかであり、それは次のようなものです――「これらのすべてのことは苦痛の始まりです」は、先行すること、すなわち、ゆがめられた教会の最初の状態を意味します、それは、〔前に〕言われたように、もはや何が善で何が真理か知らず、それらについて彼らの間で論争することが始まり、それらから虚偽が、それゆえ異端があることです。このようなことが、何世紀も前に教会をゆがめたことは、教会がキリスト教界の中で分裂したことから明らかです。またこのことは善と真理についての見解にしたがっており、そのように、ゆがめられた教会は、以前から多くの時代で始まっていました。
[2]「その時、〔彼らは〕あなたがたを艱難の中に引き渡し、あなたがたを殺します」は、善と真理が、最初に「艱難」によって、すなわち、曲解によって、その後、それらを「殺す」ことによって、すなわち、否定することによって、失われることを意味します。「殺す」ことが善と真理について述べられるとき、そのように否定することです(3387, 3395番参照)。「あなたがた」によって、すなわち、使徒たちによって、全体として一つの中の、そのようにその善も真理も信仰のすべてのものが意味されます(十二の使徒たちによって、それらが意味されることは、577, 2089, 2129[13], 2130[14]番以降、3272, 3354[2]番照)。また、ここにはっきりと明らかです、というのは、使徒の属性についてではなく、しかし、世代の完了(世の終わり)について扱われているからです。
[3] 「わたしの名前のために、あなたがたはすべての国民から憎まれます」は、善と真理に属すすべてのものに対する軽蔑と離反を意味します。「憎むこと」は軽蔑することと退けることです、というのは、これらは憎しみであるから。「すべての国民から」は、悪の中にいる者からです(「国民」が彼らであることは、1259, 1260, 1849, 1868番、2588番以降参照)。「わたしの名前のために」は、主のために、そのようにその方からのすべてのもののために、〔ということ〕です。「主の名前」は、それによって礼拝される全体として一つの中のすべてのもの、そのようにその方の教会に属すすべてのものです(2724, 3006番)。
[4]「またその時、多くの者がつまずき、互いに引き渡し、互いに憎みます」は、それらに対する敵意を意味します。「多くの者がつまずく」は、彼らの間の敵意です。敵意は主の人間性そのものに対してです。それがつまずき(妨害)とつまずきの石(反感)であることは、みことばの中のあちこちに言われています。「互いに引き渡す」は、真理に対する虚偽からの、彼らの間の敵意です。「互いに憎む」は、善に対する悪からの、彼らの間の敵意です。
[5]「また、多くのにせ預言者が起こり、多くの者を惑わします」は、虚偽の説教を意味します。「にせ預言者」は、虚偽を教える者、そのように虚偽の教えです(2534番照)。「多くの者を惑わす」は、ここから派生するものがあることです。
[6]「不正が増されるために多くの者の仁愛が冷たくなります」は、信仰とともに仁愛の死を意味します。「不正が増されるために」は、信仰の虚偽にしたがって、です。「多くの者の仁愛が冷たくなります」は、仁愛の死です。というのは、二つとも、足並みをそろえて見られるからです。信仰のないところに仁愛がなく、仁愛のないところに信仰がなく、しかし、信仰を受けるものが仁愛であり、仁愛が何もないものは信仰を追い払います。ここから、すべての虚偽とすべての悪の起源があります。
[7]「けれども、終わりまで続ける者は救われます」は、仁愛の中にいる者の救いを意味します。「終わりまで続ける者」は、惑わされることを自分自身に許さない者です、そのように試練の中で屈服しない者です。
[8]「この王国の福音が全居住地の中に、すべての国民への証しとして宣べ伝えられる」は、このことが最初にキリスト教界の中で知られるようになることを意味します。「宣べ伝えられる」は、よく知られるようになることです。「この王国の福音」は、そのような〔宣べ伝えられる〕真理です。「福音」は知らせであり、「王国」は真理です(「王国」が真理であることは、1672, 2547番参照)。「全居住地の中に」は、すなわち、地に、キリスト教界に、〔ということ〕です(「地」が、そこに、そのようにキリスト教界に教会がある地域であることは、662, 1066, 1068, 1262, 1733, 1850, 2117[1], 2118[2], 2928, 3355[3]番照)。教会は、信仰の生活から、すなわち、真理のものである善の生活から、ここに「居住地」と呼ばれています、というのは、「住むこと」の内意は生きること、また「住民」は真理の善であるからです(1293, 2268, 2451, 2712, 3384番)。「証しとして」は、知るように、知らなかったことを口実としないように、〔ということ〕です。「すべての国民に」は、悪い者に、です(1259, 1260, 1849, 1868, 2588番)。というのは、虚偽と悪の中にいるとき、もはや何が善で何が悪か知らず、その時、虚偽を真理、悪を善と、また逆に、〔真理を虚偽、善を悪と〕信じるからです。教会がこの状態の中にあるとき「その時、終わりがやって来ます」。
さて、続けて、「創世記」の前に続けられて〔書かれて〕いるそれらの中で、主の神的慈悲から、教会の「荒廃の忌まわしいもの」と呼ばれる状態について扱い、それが第三の状態であることを説明します。