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最後の審判と世の終わり 第二部 23

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23[3898] これらのことばが何を含むかは、内意から教えられないなら、だれも知ることができません、例えば、にせキリストたちが現われ、その者がしるしと兆しを与えられること、たとえキリストが荒野の中にいると言ったにしても、外に出ないこと、たとえ部屋の中にいると言ったにしても、信じないこと、人の子の到来があること、いなずまのように、東から発し、西にまで見られること、なおまた、死体のある場所にワシが集められることです――これらは、前の章やこの章に続くもののように、それらは文字どおりの意味に関して、何も連続していないことが見られます、しかしそれでも、内意に関して、最も美しく連続しており、その連続は、「にせキリスト」によって何が、「しるしと兆し(前兆)」によって何が、「荒野と部屋」によって何が、なおまた「人の子の到来」によって何が、また最後に、「死体とワシ」によって何が意味されるか理解される時、初めて見られます。
[2]そのように主が話されたのは、みことばが理解されず、それを冒涜しないように、との理由のためでした。というのは、当時のユダヤ人のもとにあったように、教会が荒廃させられるとき、もし理解したなら、冒涜してしまったであろうからです。そのために、同じ理由で、主もまた、「マタイ福音書」13:13-15,「マルコ福音書」4:11, 12,「ルカ福音書」8:10で教えているように、たとえ話で語られました。なぜなら、みことばは神秘(奥義)を知らない者によっては冒涜されることができず、知っている者により冒頭されるからです(301-303, 593, 1008, 1010, 1059, 1327, 1328, 2051, 3398, 3402番)。さらにまた、無学な者よりも自分自身に学識があると見られるような者により〔冒涜されます〕。
[3]しかし、今や、みことばの内的なものが開かれているのは、今日の教会がそれだけ荒廃の中にある、すなわち、信仰と愛がなく、そのように、たとえ知り、理解しても、それでも認めず、まして信じず(3398, 3399番照)、善良な生活の中にいて選ばれた者と呼ばれるわずかな者が、今や、教えられることができ、彼らのもとに新しい教会が設立されることになるからです。しかし、彼らがどこにいるのかは、主だけが知っておられます。教会内にはわずかな者しかいなくて、以前に新しい教会が設立されたのは異教徒たちのもとでした(2986番参照)。