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最後の審判と世の終わり 第二部 25

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25[3900] 「その時、たとえ、だれかがあなたがたに、『見よ、ここにキリストがいる』、または『そこに』と言っても、あなたがたは信じないようにしなさい」は、彼らの教えを用心するようにとの勧告を意味します。「キリスト」は、神的真理に関する、ここから、みことばに関する、またみことばからの教えに関する主です。ここでは、正反対のもの、すなわち、虚偽化された神的真理または虚偽の教えであることが明らかです。「イエス」は神的善、「キリスト」は神的真理です(3004, 3005, 3008, 3009番参照)。
[2]「にせキリストたち、にせ預言者たちが現われる」は、その教えの虚偽を意味します。「にせキリスト」が虚偽化されたみことばからの教え、すなわち、神的なものでない真理であることは、すぐ前に言われたことから明らかです(3010, 3732番以降参照)。「にせ預言者」は、それらの虚偽を教える者です(2534番)。虚偽を教える者は、キリスト教界の中で、特に自分自身の卓越を、なおまた世の富を目的とする者です。というのは、彼らはみことばの真理を自分自身のためにゆがめるから。というのは、目的として自己愛と世俗愛が存在するとき、他のものは何も考えられないからです。これらの者が「にせキリストたち、にせ預言者たち」です。
[3]「大きなしるしと兆しを与える」は、外なる外観と欺きからの確信と説得することを意味し、それらにより単純な者は惑わされることを被ります。これらが「大きなしるしと兆しを与える」ことであることは、主の神的慈悲から、他の箇所で示されます。
[4]「もし可能なら、選ばれた者にもまた……惑わすために」は、善と真理の生活の中に、ここから主とともにいる者を意味します。彼らが、みことばの中で選ばれた者と呼ばれる者です――これらの者が、聖なるものの下に冒涜的な崇拝を秘めている集会に見られるのはまれです、また見られるにしても、知られません、なぜなら、主は彼らを隠し、そのように守られるからです。というのは、確信される前に、容易に外なる神聖さによって〔他の者のように〕連れ去られることを被るから、しかし、確信された後は、とどまるからです。というのは、主により、天使たちの交わりの中に保たれ、そのことを自分自身では知らないからであり、また、その時、その極悪な群れから惑わされるのは不可能です。
[5]「見よ、わたしはあなたがたに予言しました」は、慎重であるように、すなわち、用心するようにとの勧告を意味します、というのは、「羊の衣服で見られます、しかし、内部で貪欲なオオカミ」(マタイ7:15)であるにせ預言者たちの間にいるからです。にせ預言者は「賢明な者たちである世代の子」、すなわち、「その時代の中の光の子」よりも抜け目のない者たちです(彼らについては、ルカ16:8)。それゆえ、主は彼らを、次のことばで勧告されました、

見よ、わたしはあなたがたをオオカミの真ん中の羊のように送り出します。それゆえ、あなたがたはヘビのように用心深く、ハトのように単純でありなさい(マタイ10:16)。
[6]「それゆえ、〔彼らが〕あなたがたに、『見よ、荒野の中にいる』と言っても、あなたがたは外に出ないようにしなさい。『見よ、部屋の中に〔いる、と言っても〕』、あなたがたは信じないようにしなさい」は、真理について話されるものも、善について話されるものも、多くのものを信じてはならないことを意味します。意味されるものがこれらであることは、内意を知る者でないなら、だれも見ることができません。それらのことばの中に秘義が含まれていることは、主がそれらを話されたこと、また他の隠された内意なしに、決して何らかのものでないこと、すなわち、もしキリストが荒野の中にいると言うなら、出て行かないこと、またもし部屋の中にいると言うなら、信じないこと、そのことから知られることができます。しかし、「荒野」によって荒廃した真理、また「部屋」または奥まった所によって荒廃した善が意味されます。荒廃した真理が荒野によって意味されるのは、教会が荒廃するとき、すなわち、その中にもはや何らかの神的な真理がないとき、もはや何らかの善が、すなわち、主への愛と隣人に対する仁愛がないからです。その時、その教会は「荒野」、または「荒野の中にある」と言われます、なぜなら、荒野によって、耕されていないまたは住んでいないこと(2708番)、なおまた、ほとんど生命力がないこと(1927番)、そのすべてのことが意味されるからであり、その時、教会の中の真理はそのようです。ここから、ここに「荒野」は、その中に真理がない教会であることが明らかです。
[7]けれども「部屋」または奥まった所は、内意で善に関する教会を、なおまた単に善を意味します。善の中にある教会は、「神の家」と呼ばれ、部屋は、またそれらと家の中のものは善です。「神の家」は神的善であり、家は全般的に愛のものと仁愛のものである善です(2233, 2234, 2559, 3142, 3652[11], 3720番参照)。真理について話されるものと善について話されるものを信じてはならない理由は、虚偽を真理、悪を善と呼ぶからです、というのは、目的として自分自身と世を眺める者は、真理と善によって、自分自身が崇拝されることと自分自身に利益を与えること以外の他のものを理解しないからです。そしてもし、敬虔を呼び起こすなら、羊の衣服で見られるためです。
[8]さらに、主が語られたみことばは、本的に無数のものを含むので、また荒野は、意味の広い言葉なので、なぜなら、耕されていないまた住んでいないすべてのものは荒野と呼ばれ、内的なものであるすべてのものは部屋と呼ばれるので、それゆえ、さらにまた「荒野」によって「旧い契約のことば」が意味されます、なぜなら、これが廃されたものと見なされているので、また「部屋」によって内的なもの、すなわち、内なる人について教えるので「新しい契約のことば」が意味されます。同じく、さらにまたみことば全体が、もはや教えの事柄として役立たないとき「荒野」と呼ばれ、人間の制定したものが「部屋」と呼ばれます。それら〔人間の制定したもの〕が、みことばの戒めと制定したものから遠退とおの いたので、みことばが荒野であるかのようになりました。キリスト教界の中でもまたよく知られているように、というのは、外なる聖なる礼拝と内なる冒涜の中にいる者は、更新(新しくすること)のために、目的として、すべての者よりも自分自身の卓越を、またすべてのものよりも富を眺め、みことばを廃します、それどころか、他の者により読まれることを決して許さないようにまでも廃します。また、このような冒涜の礼拝の中にいない者は、たとえ、みことばに聖なるものがあり、また大衆の中にあることを許しても、そのすべての教えの事柄をねじ曲げて、説明し、そのことは、みことばの中の教えの事柄にしたがっていない他のものを「荒野」であるようにします。〔このことは〕信仰のみ・・ の中に救いを置き、仁愛の働きを軽蔑する者から十分に明らかにすることができます。彼らは、主ご自身が「新しい契約」の中で、またこれほど何度も「旧い契約」の中で、愛と仁愛について語られたすべてことを「荒野」のように、またすべてのものを働きのない信仰のものである「部屋」のようにしてしまいます。ここから、「もし、〔彼らが〕あなたがたに、『見よ、荒野の中にいる』と言っても、あなたがたは外に出ないようにしなさい。『見よ、部屋の中に〔いる、と言っても〕』、あなたがたは信じないようにしなさい」によって何が意味されているか明らかです。
[9]「というのは、いなずまが東から発し、西にまで見られるように、人の子の到来もまたそのようであるから」は、主の内なる礼拝がそのようなものであったとき、そのいなずまのように、直ちに消散させられることを意味します。というのは、「いなずま」によって、天界の光のものであること、そのように愛と信仰について宣べ伝えられるものが意味されるから、なぜなら、これらが天界の光であるからです。「」は、最高の意味で主であり、内意では、主からの愛の、仁愛の、信仰の善です(101, 1250, 3249番照)。けれども、「西」は内意では、死んで倒れたこと、すなわち、存在が終わったこと、このように主の認知がなく、愛の善、仁愛と信仰の認知もないこと、このように「いなずまが東から発し、西にまで見られる」ことは追い散らすことです。主の来臨は文字〔どおりの意味〕にしたがって、再び世に現われることではありません、しかし、その方がそれぞれの者の中に現在されることであり、福音が宣べ伝えられ、また聖なるものが考えられるたびごとに存在します。
[10]「というのは、どこでも死体のあるところにワシもまた集められるからです」は、荒廃した教会の中で推論によって虚偽の確信が増大するであろうことを意味します。教会は善とここからの信仰の真理がない時、すなわち、荒廃した時、死んだものと言われます、なぜなら、そのいのちは善と真理からであるからです。ここから、死んだとき、「死体」にたとえられます。善と真理についての推論は、理解されるものでないかぎり正しい推論ではありません、それによる悪と虚偽の確信が、〔この後〕すぐに続けられることから明らかにすることができるように「ワシ」です。ここで「死体」は仁愛と信仰の生活(いのち)のない教会であることは、「ルカ福音書」の主のことばから明らかであり、そこにも世の終わり(世代の完了)について、

弟子たちは言った、「主よ、どこでですか?」(すなわち、時代の完成(世代の完了)または最後の審判〔はどこで行なわれるか、です〕)、イエスは彼らに言われた、〝身体の〔ある〕場所に、そこにワシが集められます〟(17:37)。

そこに死体に代わって「身体」〔が述べられています〕、というのは、ここに意味される死んだ身体は、教会を意味するから、なぜなら、審判は、神の家から、すなわち、教会から始まらなければならないことが、みことばからあちこちに明らかであるからです。
これらが、今や、示され、説明された主のみことばが内意で意味するものです。それらが最も美しい連続の中にあることは、たとえ文字どおりの意味の中でそのように見られなくても、それらを熟考する者は解説にしたがって〔その〕関連の中で明らかにすることができます。