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最後の審判と世の終わり 第二部 26

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26[3901] 教会の最後の状態がワシにたとえられることは、死体または身体へ集められる「ワシ」によって人間の理性が意味されるからであり、それらは善について述べられるとき真の理性です、しかし、悪について述べられるとき虚偽の理性、または誤った推論です。「鳥」は一般的に人間の思考を、両方の意味でもまた意味します(40, 745, 776, 866, 991, 3219番)。また、それぞれの種類〔の鳥〕は、何らかの個々のものを〔意味し〕、ワシは、高く飛び、鋭く見るので、理性を意味します。そのようであることは、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます、それらの〔箇所のうち〕確証のために次のものを示すことが許されます。最初に、そこに真の理性を意味するものがモーセの書に〔あります〕。

エホバはご自分の民を荒野の地で、嘆き悲しむ空虚の中で、さびしい場所で見つけられた。彼を取り囲み、彼を教え、ご自分の目のひとみのように彼を守られた。〝ワシのように自分の巣をゆり動かし〟、ひなの上にご自分を動かし、ご自分の翼を広げ、彼を取り、ご自分の翼の上に彼を運ばれた(申命記32:10, 11)。

信仰の真理と善の中での教育がここに述べられ、ワシにたとえられています。人間が理性的なものと霊的なものになるまでの過程そのものが、その記述とたとえの中に含まれています。みことばの中のたとえはすべて、表意するもので行なわれ、ここから、ここでは「ワシ」によって行われており、それは理性です――
[2]同書に、エホバはモーセに、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたことを見た。〝わたしはあなたがたを〟、わたしのもとに連れて来るために、〝ワシの翼の上へ持ってきた〟(出エジプト記19:4)。

同様に――「イザヤ書」に、

エホバを待ち望む者は力を新たにされ、〝ワシのように強い翼で上る〟、走っても、くたびれない、歩いても、疲れない(40:31)。

力を新たにされる」ことは、善を意志することに関して増大させることであり、「ワシのように強い翼で上る」ことは、真理を理解することに関して、そのように理性に関して増大させることです。事柄は、他の箇所のように、二つの表現によってここに表示されています、それらの一つは意志のものである善を、もう一つは理解力のものである真理を含んでいます。「走っても、くたびれない、歩いても、疲れない」ことも同様です――
[3]「エゼキエル書」に、

イスラエルの家について、たとえ話しを、たとえて話せ、主エホバはこのように言われたと言え、〝長い羽で、豊かな羽毛で〟、刺繍とともに、〝大きなワシ〟が、レバノンの上にやって来て、杉の小枝を取り、交易の地に導き、香料作りの都の中に置いた、芽を出し、多産なブドウとなった。
〝大きな翼と豊かな羽毛でもう一羽の大きなワシ〟がいた、見よ、それへこのブドウはその根を接触させ、またその枝をそのワシへ、それを水で潤すために、自分の植わっている所から、良い畑の中へ、多くの水とともに、差し出した……しかし、荒される。
彼は、自分自身に多くの馬と民を与えるために、自分の使者をエジプトに送った(17:2-9, 15)。

最初に名前を挙げられた「ワシ」は神的なものから照らされた理性であり、第二の箇所の「ワシ」はプロプリウムからの理性の代わりに、感覚的なものと記憶知からの推論によって、その後、ゆがめられた理性です。「エジプト」は記憶知です(1164, 1165, 1186, 1462番)。「」はここからの知的なものです(2761, 2762, 3217番)――
[4]「ダニエル書」に ダニエルの幻〔があります〕、

四つの……獣が海から上った、これらは他のものから異なっていた。第一のものは獅子のようであった、しかし、〝それにワシの翼〟があった。私が見ていると、その翼が引き裂かれ、地から上げられ、足で人間のように直立し、人間の心が与えられた(7:3, 4)。

教会の最初の状態が「ワシの翼のある獅子」によって描かれています、そこの「ワシの翼」はプロプリウムからの理性であり、それらが上げられて、神的なものからの理性と意志が与えられ、それらが「地から上げられ、足で人間のように直立し、人間の心が与えられた」ことによって意味されています――
[5]「エゼキエル書」に、

四つの生き物、すなわち、ケルビムに、顔に似たものがあり、〔それは〕人間の顔であって、それらに獅子の顔が右に四つ、それらに牛の顔が左に四つ、それらに〝ワシの顔〟が〔後ろに〕四つ〔あった〕(1:10)。
それらの輪はガルガルと呼ばれ、それぞれに四つの顔があって、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は〝ワシの顔〟であった(10:13, 14)。

ヨハネの書に、

王座のまわりに、前も後ろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は獅子に似て、第二の生き物は子牛に似て、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は〝飛んでいるワシ〟に似ていた(黙示録4:6, 7)。

見られたそれらの生き物が神的な秘義を意味し、それゆえ、それらの顔に似たものもまた秘義を意味するは明らかです。しかし、内意で、獅子・子牛・人間・ワシが何なのか知られないなら、その秘義が何かは知られることができません。「ワシの顔」が見回すこと、またここから摂理であることは明らかです、なぜなら、「エゼキエル書」の生き物によって表象されているケルビムは、人間が自分自身から、また自分の理性から、信仰の神秘(奥義)に入らないようにとの主の摂理を意味するからです(308番照)。ここからもまた、「ワシ」が人間について述べられるとき、内意で、理性であることが明らかであり、またこのことは、ワシが高く飛び、上から下にあるものを広く眺めるからです――
[6]「ヨブ記」に、

タカは、あなたの知性によって飛び、翼を南に向けて広げるのか?
ワシは、あなたの口にしたがって〝自分自身を上げ〟、自分の巣を高めるのか? (39:26, 27)

ここに「ワシ」が知性のものである理性であることが明らかです。古代教会の中でワシはこのようなものを意味しました、なぜなら、「ヨブ記」は古代教会の書物であるからです(3540番以降)。というのは、その時代の書物はほとんどすべて表意するものによって書かれたから。しかし、表意するものは時間の推移〔の中〕で、たとえ、みことばの中にこんなにもしばしば名前を挙げられ、またそこにはっきりと〔鳥以外の〕他のものを意味していることが見られても、「鳥」が全般的に思考であることが決して知られないように、そのように消し去られました。
[7]「ワシ」が正反対の意味で真理でない理性を、そのように虚偽を意味することは、続く箇所から明らかです。モーセの書に、

エホバはあなたの上に国民を遠くから、地の端から、〝ワシが飛ぶように〟、持ち上げる。あなたはその国民の言葉(舌)を聞かない、その国民は顔で硬い(申命記28:49, 50)。

「エレミヤ書」に、

見よ、彼は雲〔のように〕上る、彼の戦車は突風のようである、〝その馬はワシよりも速い〟、私たちにわざわい〔である〕、私たちは荒廃させられるからである(4:13)。

同書に、

あなたの自慢があなたを欺いた、あなたの心の誇りが、岩の穴の中に住み、丘の高いところを占める、〔あなたは〕〝ワシのようにあなたの巣を高くする〟ので、ここからわたしはあなたを投げ落とす。
見よ、〝ワシのように上り、飛ぶ〟、その翼をボズラの上に広げる、エドムの力ある者の心は、その日、〔産みの〕苦しみの中の女の心のようになる (49.16,17,22)。

同書に、

私たちを追う者は〝ワシよりも〟速かった、山の上まで追い、荒野で私たちを待ち伏せた(哀歌4:19)。

「ミカ書」に、

禿げ頭をひき起こせ、あなたを剃れ、あなたの楽しみの息子の上に、〝ワシのように〟、〔あなたの〕禿げ頭を広げよ、あなたから移住したからである(1:16)。

「オバデヤ書」に、

〝あなたがワシのように持ち上げ〟ても、星の間にあなたの巣を置いても、そこからわたしはあなたを引き降ろす(第4節)。

「ハバクク書」に、

わたしはカルデヤ人を起こす、むごくて向う見ずな国民だ。わたしは広く地の中へ前進する、自分の住むところを受け継ぐために……〝その馬はワシよりも速い〟……その騎士は遠くからやって来る、〝食べるために急ぐワシ〟のように飛んで来る(1:6, 8)。

[8]これらの箇所の中で「ワシ」によって推論によって導き出された虚偽が意味され、それは感覚の欺きと外なる外観から導き出されます。最後に引用された預言書の「カルデヤ人」によって、外なる聖なるものの中にいるけれども内部に虚偽がある者が意味されます(1368番照)。彼らは教会を荒廃させるバビロンのようです(1327番)。「地の広さ」は真理であり(3433, 3434番)、それらの荒廃が「広く地の中へ前進する」によって意味されます。「」は彼らの知力であり、それらは〔ワシと〕同様のものです(2761, 2762, 3217番)。「食べるために急ぐワシ」が何かは、ここから明らかです、すなわち、真理で人間を空虚にするためです、なぜなら、教会の荒廃についてそこに扱われているからです――ワシと比較されています、しかし、〔前に〕言われたように、みことばの中の比較は表象的なものによってなされます。
ここから、「死体へ集められるワシ」との比較によって、何が意味されるか、今や、明らかです。