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最後の審判と世の終わり 第二部 38

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38[4335] 「ひき臼をひく者」が、みことばの中で、善の情愛からの真理の中にいる教会内の者、また正反対の意味で、悪の情愛からの真理の中にいる教会内の者であることは、次の箇所から明らかにすることができます。「イザヤ書」に、

下って、ちりの上に座れ、おとめバビロンの娘よ。王座のない地に座れ、カルデヤの娘よ。……〝ひき臼を取り、粉をひけ〟。あなたの髪をとき、足を裸にせよ。腿をあらわにし、流れを渡れ(47:1, 2)。

バビロンの娘」は、外なるものに、聖なるものと善が見られますが、しかし、内的なものは冒涜的なものと悪である者です(1182, 1326番)。「カルデヤの娘」は、外なる聖なるものと真理が見られても、内的なものは冒涜的なものと虚偽である者です(1368, 1816番)。「臼を取り、粉をひく」ことは、真理から悪用する教えの事柄を考え出すことです。というのは、「」は、小麦または大麦からのものであるので、善からの真理を、そして正反対の意味の中で迷わすために悪用する真理を意味するからです――「エレミヤ書」に、

わたしは、彼らから楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、〝ひき臼の音〟と油ランプの光を滅ぼす。この全地は荒れ果てたところと廃墟となる(25:10, 11)。

[2]またヨハネの書に、

すべての技術のすべての職人は、もはやバビロンの中に見いだされない。〝すべてのひき臼の音は、もはやそれらの中に聞かれない〟、また油ランプの光はもはやそれらの中に輝かない、花婿と花嫁の声はもはやそれらの中に聞かれない(黙示録18:21-23)。

ひき臼の音は、もはやバビロンの中に聞かれない」は、真理がないことです。「油ランプの光は輝かない」は、真理からの知性もないことです――「哀歌」に、

女たちはシオンの中で、おとめたちはユダの都の中で強姦された。首領たちは彼らの手でつるされ、老人たちの顔は尊ばれない。〝若者たちはひき臼へと連れ去られ〟、少年たちは薪の中で倒れる(5:11-14)。

若者たちはひき臼へと連れ去られる」ことは、真理を適用し、またこのように説きつけて、虚偽を考え出すことです。
[3]モーセの書に、

エジプトの地のすべての長子は、王座の上に座っているパロの長子から、〝ひき臼の後ろの女奴隷の長子まで〟、死ぬ(出エジプト記11.5)。

エジプトの長子」は、仁愛の善から分離した信仰の真理であり、それらの真理は虚偽となります(3325番)。「ひき臼の後ろの女奴隷の長子」は、このような真理の情愛であり、ここからの虚偽です。これらが、それらの歴史によって表象されました――
[4]同書に、

担保品として〝ひき臼〟と〝石臼〟を受け取るな、あなたはその霊魂を担保品とするからである(申命記24:6)。

この律法は、「ひき臼」によって教えの事柄が、「石臼」によって教えの事柄の真理が意味され、それらは「担保品の霊魂」と呼ばれるものであるので、それゆえ、定められました。ひき臼と石臼の霊的な意味なしに、その律法は与えられなかったこと、また「その霊魂」であったと言われなかったことは、明らかです。
[5]霊たちの世界の中に存在する表象するものから、「ひき臼をひくこと」の意味が導かれていることが、私に示されました。というのは、役立ちの目的なしに、単に自分たちの快楽のために、それらの者がいわばそこでひき臼をひいているのが見られたからです。真理は、その時、善からのその情愛がないので、外なる形の中で確かに真理のように見えます、しかし、それらに内なるものがないので、幻影です。そして、もし内なるものが悪であるなら、その時、悪を確証するために適用され、このように悪への適用によって虚偽となります。