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最後の審判と世の終わり 第二部 39

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(9)「マタイ福音書」24:42-51の解説 39-41

39 [4422] この章〔創世記第34章〕の前に、「マタイ福音書」の第24章42節から終わりまでの主のことばの説明をとり上げます、それらはその章の中の最後のものであり、世代の完了、すなわち主の到来についてであり、それらは文字で次のものです、

それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは、あなたがたの主人がいつの時間にやって来るか知らないからです。けれども、これを知っておきなさい、家長が、泥棒がやって来るのを見張る時を知っていたなら、確かに目を覚ましていて、自分の家に穴をあけることを許さないからです。それで、あなたがたもまた用意しておきなさい、人の子がやって来るのがいつの時間かあなたがたは知らないからです。
それゆえ、主人が自分の召使いたちの上に、適切な時に彼らに食べ物を与えるために、彼らの上に置く忠実また賢いしもべはだれでしょうか? 主人がやって来て、そのようにしているのを見つけられるそのしもべは幸いです。
まことに、わたしはあなたがたに言います、〔その主人は〕自分のすべての財産の上に、そのしもべを置きます。けれども、悪いしもべが自分の心の中で「私の主人がやって来るのは遅れる」と言い、仲間のしもべを打ちたたき、酔っ払いたちと食うことと飲むことを始めるなら、待っていない日に、知らない時間に、このしもべの主人がやって来ます。また、彼を分裂させ、その部分を偽善者とともに置きます。そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります。

これらが何を含むか、続く事柄から明らかにすることができます。というのは「福音書」のこの章全部の中に、教会の最後の時について、それは内意で、世代の完了、また主の到来が扱われているからです。そのようであることは、各章の前の、前置きの中に見られるすべての説明から明らかにすることができ、それらはその章の直前にあります(すなわち、第26章の前に3353-3356番、第27章に3486-3489番、第28章に3650-3655番、第20章に3751-3757番、第30章に3897-3901番、第31章に4056, 4060番、第32章に4229-4231番、第33章に4332-4335番)――
[2]連続して何が含まれているかは、そこ〔これまでの内容〕にもまた言われています、すなわち、主の来臨後に設立されたキリスト教会がそれ自体を荒廃させ、すなわち、善からそれることを始めることです、その時、

(1)何が善と真理か知らず、しかし、それらについて論争し始めた。
(2)それらを軽蔑した。
(3)続いて、心で認めなかった。
(4)その後、冒涜した。
(5)また、選ばれた者と呼ばれる者のもとに依然として信仰の真理と仁愛の善が存続しなければならなかったので、その時の信仰の状態が述べられている。
(6)またその後、仁愛の状態〔述べられる〕。
(7)最後に、新しい教会の始まりについて扱われている。
(8)そのように、それら〔以前の教会内の善と真理〕が退けられ、また新しいものが養子にされるとき〔新しい教会と〕言われる教会内の善と真理についての状態について〔扱われている〕。

このひと続きのものから、書き写されたその章〔「マタイ福音書」第24章〕の最後ものであるそれらのことばが何を含むか、明らかにすることができます。すなわち、信仰の善の中にいるように、またもし〔その善の中に〕いないなら、滅びてしまう、という、教会の中の者への警告です。