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神の摂理 340

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340 (4)直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇である
飛びかける火蛇によって地獄の火から輝く悪が意味され、同様のものが「イザヤ書」の「飛びかける火蛇」によって意味されます――

あなたは喜ぶな、全ペリシテよ、あなたを打っている杖が折られたことを。なぜなら、蛇の根からバジリスクが出て、その果実は飛びかける火蛇であるから(14:29)。

このような悪が、直接の慈悲からの瞬間の救いが信じられる時、教会の中を飛びます。なぜなら、次のことはそれによるからです、

(1)宗教が破壊される。
(2)油断が引き起こされる。
(3)断罪が主に帰せられる。
[2]第一について――それによって宗教が破壊される
宗教の二つの本質的と同時に普遍的なものに、神の承認と悔い改めがあります。
これら二つのものは、どんな生き方をしても慈悲だけから救われる、と信じる者にはむだなものです、なぜなら、多くのもののうち、「私に哀れみを示せ、神よ」と言うこと以外に何が必要ですか?
宗教のものである残りのすべてのものについて、暗黒の中にいます、それどころか暗黒を愛します。
教会の最初の本質的なものである神の承認について、「何が神か?だれが神を見るのか?」としか考えません。
もし、存在することと唯一であることが言われるなら、「唯一である」と言います。もし、三つであることが言われるなら、「そうであるが、しかし三つは一つと呼ばれなければならない」とも言います――これが彼らのもとの神の承認です。
[3]教会のもう一つの本質的なものである悔い改めについて、何も考えず、したがって、何らかの罪についても、またついには何らかの罪があることも知りません。
またその時、律法は断罪しないこと、「キリスト教徒はそのくびきの下にいないので、もし、あなたが、〝御子のゆえに、私に哀れみを示せ、神よ〟と言いさえすれば、あなたは救われる」ということを快楽とともに聞き、吸収します。これが彼らのもとの生活の悔い改めです。
しかし、悔い改めを取り除きなさい、または同じことですが、宗教から生活を分離しなさい、「私に哀れみを示せ」の声以外に何が残りますか?
ここから、それらの言葉によって救いが瞬間のもの、もし死の前でないなら、それでもそれに近い時のものである、としか言うことができませんでした。
その時、彼らにとって、みことばとは、洞穴の中の3脚の釜から出てくる、あいまいな、なぞの言葉でないなら、または偶像の託宣からの理解されない答えのようなものでないなら、何ですか?
一言でいえば、もし、あなたが悔い改めを取り除くなら、すなわち、宗教から生活を分離するなら、その時、人間は地獄の火から輝く悪、すなわち、飛びかける火蛇以外の何ですか?なぜなら、悔い改めなしに人間は悪の中に、また悪は地獄であるので、地獄の中にいるからです。
[4]第二――純粋な慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の油断が引き起こされる
生活の油断は、「死後の生活はない」という不信心な信仰から、あるいは救いから切り離された生活の信仰から起こります。
後者は、たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも、「私が善く生きるにしろ、あるいは悪く生きるにしろ、救いは純粋な慈悲であり、神の慈悲は普遍的であるので救われることができ、ある者の死を欲されない」と考えます。
ことによると受け入れた信仰の言葉によって「慈悲を祈らなければならない」という考えが起こるかもしれませんが、このことは、「もし死の前でないなら、それでも死の後に行なうことができる」と考えることができます。
その油断の中にいるすべての人間は、姦淫・欺瞞・不正・暴行・冒涜・復讐を何でもないとします。しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものに向けて弛緩させ、何が霊的な悪とその欲望かも知りません――もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くとき、たとえるなら、黒檀にぶつかって、はね返るようなもの、あるいは穴に落ち込んで、のみこまれるようなものです
[5]第三――その信仰によって断罪が主に帰せられる
それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時、「救われないなら人間でなく、主に責任がある」とだれが結論することができませんか?
もし、「救いの手段が信仰である」と言われるなら、その信仰が与えられることのできない人間はだれですか、というのは、それは単なる思考であり、さらにまた信頼とともに、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができるからです――またその者は、「私はそれを私自身から持つことができない」と言うこともできます。そこでもし与えられず、人間が断罪されるなら、できるのに欲しない方である主に責任があること以外に、何らかの非難を考えることができますか?
それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことではありませんか?
そして加えて、自分の信念から憤って、「なぜこのように多くの断罪された者を地獄の中に見ることができるのか?そのときそれでも純粋な慈悲から瞬間にすべての者を救うことができるのに」と言うことができます。多くの同様のことも、それは神性に対する恐るべき非難としか呼ばれることができません。
そこでこれらから、純粋な慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であることを明らかにすることができます。
* * * * *
[6]紙の余分を満たすために、次のものが付加されることを、あなたがたは容赦するでしょう。

ある霊たちが許しにより地獄から上り、私に言いました、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。
私は答えました、「何を書きましょうか?」
彼らは言いました、「書け、善い者であれ悪い者であれ、それぞれの霊は自分の快さの中に、善い者は自分の善の快さの中に、悪い者は自分の悪の快さの中にいること」。
私は質問しました、「何があなたがたの快さですか?」
彼らは、「姦淫し、盗み、だまし、偽る快さである」と言いました。
私は再び質問しました、「その快さはどのようなものですか?」
彼らは「他の者からは、糞からの悪臭のように、死体からの腐臭のように、よどんだ尿からの臭いのように感じられる」と言いました。
私は言いました、「それらがあなたがたに快いのですね?」
彼らは、「極めて快いものである」と言いました。
私は言いました、「その時、あなたがたはそのようなものの中で時を過ごす不潔な獣です」。
彼らは答えました、「もし私たちがそうであるなら、そうである。しかし、このようなものが私たちの鼻の快感のもとである」。
[7]私は質問しました、「あなたがたからの何かをもっと書きましょうか?」
彼らは言いました、「このことを書け。善い霊や天使を悩まさないかぎり、それぞれの者に、最も不潔なものと呼ぶようなものでも、自分の快さの中にいることが許されていること。しかし、私たちは彼らを悩ますことしかできないので、追い払われ、地獄の中に投げ込まれ、そこの場所で恐ろしいことを受ける」。
私は言いました、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」
彼らは、「〔それと〕異なってできなかった」と答えました。彼らがある天使を見、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、激怒が入り込むようです。
そのとき、私は言いました、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。
それを聞くと、激怒が現われ出て、憎悪の火のように見え、彼らは、危害を加えないように地獄の中に引っ込められました。
霊界の中での、快い香り、そして臭いのような感覚については、前に見られます(303-305, 324番)。
〔終わり〕