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231 聖なるものの冒涜によって、みことばから信仰の真理と仁愛の善を知り、何らかの方法でそれらを認める者による冒涜が意味されるので、それゆえ、それらをまったく知らず、不信心から退けもしない者についてではありません。それゆえ、後者ではなく、前者について次のことが言われます。これらの種類の冒涜は、多くの軽いものと重いものがあり、次の七つのものを挙げることができます。
第一の種類の冒涜は、「みことばから、またみことばについて、あるいは教会の神的なものから、またそれらについて、冗談を言う」者からです。
このことは、ある者により、みことばからの名称または決まり文句を取って、少しばかり美しい、また時々、きたない談話で混ぜ合わせる邪悪な習慣から行なわれます。そのことは、みことばへの何らかの軽蔑と結合することなしにできません。そのとき、それでも、みことばはすべてと個々のものの中で神的であり、聖なるものです。なぜなら、そこのそれぞれの言葉は内部に何らかの神性を隠しており、それによって天界との伝達があるからです――しかし、この種類の冒涜は、みことばの神聖さの承認にしたがって軽くも、重くもなります。
[2]第二の種類の冒涜は、「神的な真理を理解し、認め、それでもそれらに反して生きる」者からです。
しかし、理解するだけの者は軽く、けれども、認めもする者は重く冒涜します。というのは、理解力だけからでは、ほとんど説教者のようにしか教えられず、自分自身から意志と結合させません、しかし、承認はそれ自体を結合させるからです。というのは、何らかのものは意志の一致とでないなら認められることができないからです。
しかしそれでも、認められた真理に反して生きる時、その結合は冒涜の結合にしたがっていろいろです。例えば、だれかが、復讐と憎しみ、姦淫と淫行、欺瞞と詐欺、冒涜とうそが神に反する罪であることを認め、それでもそれらを犯すなら、彼はこのさらに重い種類の冒涜の中にいます。
というのは、主は言われているからです、
自分の主人の意志を知っていて……彼の意志を行なわないしもべは、大いに打たれます(ルカ12:47)。
また他の箇所に、
もし、あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はありません。けれども、今、あなたがたは、私たちは見えると言います。それゆえ、あなたがたの罪は残ります(ヨハネ9:41)。
しかし、真理の外観を認めることと純粋な真理を認めることは別ものです。純粋な真理を認め、それでもそれらにしたがって生きない者は、霊界の中で、無活動そのもののような、声と話しの中に光と熱がないかのような者に見られます。
[3]第三の種類の冒涜は、「みことばの文字どおりの意味を悪の愛と虚偽の原理を確信するために用いる」者からです。
その理由は、虚偽の確信が真理の否定であり、悪の確信が善の拒絶であるからです――みことばはその内部では、神的な真理と神的な善でしかありません。このことは文字どおりの意味である最外部の意味の中で、主そして救いの道そのものを教える真理の純粋なものの中にしか見られず、真理の外観と呼ばれる真理の衣服の中に見られます――それゆえ、その意味は多くの種類の異端を確認するために、ゆがめられることができます。
けれども、悪の愛を確信する者は、神的な愛に暴力を加えます。虚偽の原理を確信する者は、神的な真理に暴力を加えます。
後者の暴力は真理の虚偽化と呼ばれますが、前者は善の不純化と呼ばれます。二つとも、みことばの中の「血」によって意味されます。
というのは、霊的な聖なるものは、それはまた主から発出する真理の霊ですが、みことばの文字どおりの個々の意味の中の内部にあるからです。
その聖なるものが、みことばが虚偽化され、不純化される時、傷つけられます。
このことが冒涜であることは明らかです。
[4]第四の種類の冒涜は、「敬虔なことや聖なるものを口で話し、そしてまた声と振る舞いで、彼らの愛の情愛を偽り装うけれども、心ではそれらを信じないし、愛さない」者からです。
これらの者の大部分は偽善者とパリサイ人であり、その者から、死後、すべての真理と善は取り去られ、その後、外の暗やみの中に送られます。
この種類の冒涜をする者は、神性に反し、みことばに反して、そしてまたここから、みことばの霊的なものに反して確信し、その暗やみの中に、話すことができなくて無口で座ります。世の中でのように敬虔と聖なることをしゃべりまくることを望みます、しかし、できません――なぜなら、霊界の中ではだれもが〔自分が〕考えるように話すことを強いられます、しかし、偽善者は〔自分の〕考えと異なることを話すことを欲するからです。ここから、対立するものが口の中に存在するようになり、そこから、ただブツブツ言うことしかできません。
しかし、偽善は、神に反する確信にしたがって、神のためにする外なる推論にしたがって軽くも、重くもなります。
[5]第五の種類の冒涜は、「神的なものを自分自身に帰する」者からです。
彼らは「イザヤ書」第14章の「明けの明星(魔王)」によって意味される者です――そこの「明けの明星(魔王)」によって、その章の4節、22節から明らかにすることができるように、バベル(バビロン)が意味され、そこに彼らの運命もまた述べられています。さらにまた、「黙示録」第十7章に述べられている緋色の獣の上に座っている淫婦によって意味される者も同じ者です。
みことばの中の多く箇所にバベルとカルデアの名前が挙げられています。「バベル」によって、そこに善の不純化、「カルデア」によって真理の虚偽化が意味され、彼らのもとで二つとも冒涜が行なわれ、その者は自分たちに神性を帰します。
[6]第六の種類の冒涜は、「みことばを認め、それでも主の神性を認めない」者からです。
これらの者は世でソッツィーニ教徒と呼ばれ、ある者はアリウス主義の信奉者と呼ばれます。
主でなく父を呼び、また、また絶えず父に、ある者はさらにまた子のために天界に入れられるよう祈りますが、しかし、むだであり、救いの希望がなくなるまで祈ります。その時、神を否定する者たちの間の地獄の中に降ろされます。これがこれらとそれらの者の運命です。
これらの者が、次に意味される者です
聖霊を冒涜する者は、この時代でも、来るべき時代でも許されません(マタイ12:32)。
その理由は、神は一つの位格と本質であり、その中に三一性があり、その神は主であるからです。さらにまた、主は天界であるので、ここから、天界の中にいる者は主の中にいます。それゆえ、主の神性を否定する者は、天界に入れられ、そして主の中にいることができません――主は天界であること、ここから、天界の中にいる者は主の中にいることは、前に示されています。
[7]第七の種類の冒涜は、「最初に神的な真理を認め、それらにしたがって生き、その後、去り、それらを否定する」者からです。
これは最悪の種類の冒涜です。その理由は、聖なるものを冒涜的なものに分離されることができないほどにまでも混ぜるからです。それでも、天界あるいは地獄の中にいるために分離されなければなりません。このことは彼らのもとで生ずることができないので、人間のすべての理解力と意志のものが取り去られ、前に述べられたように、もはや人間でなくなります。
ほとんど同様のことが、みことばと教会の神性を心で認め、そしてすべてを支配する愛である自分のプロプリウムにそれらを完全に浸します。それについては前に多くのものが言われました――というのは、これらの者は、死後、霊となる時、主により導かれることをまったく欲せず、しかし、自分自身から導かれることを欲するからです。彼らの愛が束縛をゆるめられるとき、天を支配することだけでなく、主を支配することもまた欲します。このことはできないので、主を否定し、悪魔になります。いのちの愛は、それはまた支配愛であり、それぞれの者に、死後、残り、取り除くことができないものであることを知っておかなければなりません。
[8]この種類の冒涜は「なまぬるい者」によって意味され、彼らについて「黙示録」に次のようにあります――
わたしはあなたの行ないを知っている、あなたは冷たくもないし、熱くもない。あなたが冷たければ、または熱ければよいのに。しかし、あなたはなまぬるく、冷たくもないし、熱くもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう(3:15, 16)。
この種類の冒涜が次のように主により「マタイ」に述べられています――
汚れた霊が人間から出て、休息を求めて乾いた場所を歩きまわる時、しかし、見つかりません。その時、「私は私の出たその家に戻ろう」と言います。戻り、それが空いて、ほうきで掃除され、それに飾られていたのを見る時、出かけ、自分自身より悪い他の七つの霊を自分自身に結びつけ、入ってそこに住みます。そして人間は、その後、前よりも悪いものになります(12:43-45)。
そこに、汚れた霊が人間から出ることによって彼の回心、そして、汚れた霊が自分自身より悪い七つの霊とともに飾られた自分の家に帰ることによって真理と善を投げ出して前の悪へ戻る行為、そして人間のその後は前よりも悪いものになることによって冒涜的なものからの聖なるものの冒涜が述べられています。
「ヨハネ福音書」に、次のことによって似たことが意味されます、
イエスはベテスダの池でいやされた者に、「今後、罪を犯さないように。あなたに悪いことが生じないように」と言われた(5:14)。
[9]人間が内的に真理を認め、そしてその後、去り、冒涜を生じさせないように、主は備えられていることが、次のものによって意味されます――
彼らの目を盲目にし、また彼らの心をふさいだ。目で見ないように、そして心で理解しないように、また自分自身を回心させ、わたしが彼らをいやすことがないように(ヨハネ12:40)。
「 自分自身を回心させ、わたしが彼らをいやすことがないように」は、真理を認め、その後、去り、こうして冒涜を行なわないように、ということを意味します――同じ理由のために、主はその方が言われるように、たとえ話で語られました(マタイ13:13)。
ユダヤ人が脂肪と血を食べることを禁止されたことは(レビ記3:17, 7:23, 25)、彼らが聖なるものを冒涜しないように、ということを意味しました。というのは「脂肪」は神的な善を、「血」は神的な真理を意味したからです。
いったん回心したなら、善と真理の中に生涯の終わりまでとどまらなくてはならないことを、主はマタイで教えられています――
イエスは言われた、「だれでも最後まで続けた者は、救われます」(10:22, 同じくマルコ13:13)。