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神の摂理

まえがき◀︎目次▶︎002

(1)神的な摂理は主の神的な愛と神的な知恵の統治である

1 何が神的な摂理か、またそれは主の神的な愛と神的な知恵の統治であることが理解されるために、以前に『神の愛と知恵』についての著作の中で、言われ、示されたことを知っておくことが重要です。それらは次のものです――

主の中で、神的な愛は神的な知恵のものであり、神的な知恵は神的な愛のものである(34-39番)。
神的な愛と神的な知恵は、それ自体から創造された他のものの中に存在し、存在するようになるしかありえない(47-51番)。
全世界のすべてのものは神的な愛と神的な知恵により創造された(5253151-156番)。
創造された全世界のすべてのものは、神的な愛と神的な知恵を受け入れるものである(55-60番)。
主は天使の前に太陽として見られ、またここから発出する熱は愛であり、ここから発出する光は知恵である(83-8889-9293-98296-301番)。
主から発出する神的な愛と神的な知恵は、一つとなっている(99-102番)。
エホバであられる永遠からの主は、全世界とそのすべてのものを無からでなく、ご自分から創造された(282-284290-295番)。

これらは『神の愛と神の知恵についての天使たちの知恵』と呼ばれる著作の中にあります。

神の摂理

001◀︎目次▶︎003

2 創造について述べたその著作から集めたこれらのものから、確かに、主の神的な愛と神的な知恵の統治は神の摂理と呼ばれるものであることを明らかにできます。しかし、そこに創造について扱われており、創造後の物事の状態の維持についてではなく、またこれが主の統治であるので、それゆえ、今やここに、それについて扱わなくてはなりません――しかし、この章の中では、創造されたものの中で、神的な愛と神的な知恵の結合の維持、すなわち、神的な善と神的な真理の結合の維持について扱います。そのことについて次の順序で述べます――

(1)全世界は、すべてのものと個々のものとともに、神的な愛から神的な知恵を通して創造されている。
(2)神的な愛と神的な知恵は、一つのもの(個体)として主から発出している。
(3)この一つのもの(個体)は、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にある。
(4)すべての被造物が共通のものの中と部分の中でこのように一つのもの(個体)であるように、また一つのものでないなら、そうなるように、神の摂理が存在する。
(5)愛の善は、知恵の真理と結合しているかぎり善ではなく、知恵の真理は、愛の善と結合していないかぎり真理ではない。
(6)知恵の真理と結合していない愛の善は本質的に善ではなく、外観上の善であり、愛の善と結合していない知恵の真理は本質的に真理ではなく、外観上の真理である。
(7)主は、何かが分割されていることを許されない。それゆえ、善と同時に真理の中になくてはならない、あるいは悪と同時に虚偽の中になくてはならない。
(8)善と同時に真理の中にあるものは、何らかのものとして存在する。悪と同時に虚偽の中にあるものは、何らかのものとして存在しない。
(9)主の神的な摂理は、悪と同時に虚偽を、均衡・関係・浄化として、このように他の者のもとの善と真理の結合として、役立つようにすることである。

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002◀︎目次▶︎004

3 (1)全世界は、すべてのものと個々のものとともに、神的な愛から神的な知恵を通して創造されている
エホバであられる永遠からの主は本質に関して神的な愛と神的な知恵です――その方はご自身から全世界とそのすべてのものを創造されたことが著作『神の愛と知恵』の中に示されています。
このゆえに、全世界はその創造されたすべてと個々のものとともに神的な愛から神的な知恵を通してであることがいえます。
前述の著作の中に、愛は知恵なしに何も行なうことができず、知恵もまた愛なしに何も行なうことができないこともまた示されています――というのは、愛は知恵なしに、または、意志は理解力なしに、何かを考えることができず、それどころか、何かを見、感じること、何かを話すこともできないからです。それゆえ、愛は知恵なしに、または、意志は理解力なしに何かを行なうことができません。同じく、知恵は愛なしに、または、理解力は意志なしに、何かを考えることができず、何かを見、感じることもできず、それどころか、何かを話すこともできません。それゆえ、知恵は愛なしに、または、理解力は意志なしに何かを行なうことができません。というのは、もしそれらから愛が取り去られるなら、もはや何かを意志することがなく、したがって何かを働くことがないからです。
人間が何かをなし遂げる時にこのようであるなら、愛と知恵そのものであられ、全世界とそのすべてを創造し、つくられた神にとってさらにそうしたものです。
[2]全世界はそのすべてと個々のものとともに、神的な愛から神的な知恵を通して創造されたことは、世の中のすべての視覚の対象から確信することができます。
何らかの対象を特定して取り上げなさい、そしてそれを何らかの知恵から調べなさい、するとあなたは確信するでしょう。
木を、その種・実・花・葉を取り上げなさい。あなたの知恵を集中させ、それを鋭い顕微鏡で眺めなさい、するとあなたは驚くべきものを見るでしょう。そして、あなたが見ない内的なものは、さらに驚くべきものです。
木は種から新しい種までどのように成長するか、その連続する順序を眺めなさい。すべての連続するものの中で、さらに進んでそれ自体を絶え間なく繁殖させるコナトゥス(努力)がないかどうか、熟慮しなさい。というのは、向かっている最後のものは、種であり、その中に新しい種からの生殖力があるからです。
その時、あなたがさらにまた霊的に考えることを欲するなら、このことを欲するなら、あなたにできます、あなたはその中に知恵を見ませんか?
その上さらに、それを霊的に考えることを欲するなら、あなたは、これは種からも純粋な火である世の太陽からも存在するのではなく、無限の知恵をもたれる創造者なる神からの種の中に存在し、また創造されたその時だけでなく、その後も絶えず存在することを見ます。というのは、存続が絶え間のない存在であるように、維持は絶え間のない創造であるからです。
このことは、あなたが活動から意志を取り去るなら行為が終わり、あるいは、あなたが話から思考を取り去るなら話がやみ、あなたが運動からコナトゥスを取り去るなら運動が終わるようなものです。一言でいえば、あなたが結果から原因を取り去るなら結果は失われます。さらにまたこうしたことと同様です。
[3]確かに、すべてのこのような被造物に力が与えられていますが、力はそれ自体からは何も働きません、力を与えた者から働きます。
さらにまた、地上の他の対象物を、カイコやミツバチ、または他の小動物を眺めなさい。それを、最初は自然的に、その後、理性的に、最後に霊的に調べなさい。その時、あなたが深く考えることができるなら、すべてのものに驚くでしょう。もし、あなたの中で知恵が語ることを許すなら、驚きの中であなたは、「だれがこれらの中に神性を見ないか?すべてのものは神的な知恵である」と言うでしょう。
創造されたすべての役立ちが、どのように順序正しく、人間にまで、人間からそのもとである創造者にまで続くか、また人間との創造者の結合によりすべてのものに結びつきが保たれていることを、あなたが見、すべてのものが維持されていることを、あなたが認めることを欲するなら、さらにもっと〔驚くでしょう〕。
神的な愛がすべてのものを創造したこと、しかし、神的な知恵なしには何も創造しないことは、続きの中で見られます。

神の摂理

003◀︎目次▶︎005

4 (2)神的な愛と神的な知恵は、一つのもの(個体)として主から発出している
このことは著作『神の愛と知恵』の中に示されていることからもまた明らかです、特に、そこの次のものから――

神人間の中でエッセとエキステレは区別のある一つのものである(14-17番)。
主の中で無限なものは区別のある一つのものである(17-22番)。
神的な愛は神的な知恵のものであり、神的な知恵は神的な愛のものである(34-39番)。
理解力との結婚なしに、愛は何もすることができない(401-403番)。
愛は知恵との結合の中にないなら、何も行なわない(409、410番)。
霊的な熱と霊的な光は、太陽としての主から発出して、神的な愛と神的な知恵そのものが一つとなっているように、一つとなっている(99-102番)。

これらの箇所に示されていることから、この事柄の真理が明らかです。
しかし、どのように互いの間で区別された二つのものが一つとして働くか知られていないので、私はここで、(1) 個体(一つのもの)は形なしに存在しないこと、しかし、形そのものが個体をつくること、その後、(2) 形は、形を構成するものが、区別され、それでも結合された他のものであればあるほど、それだけますます完全に一つのものをつくることを示します。
[2](一) 個体は形なしに存在しない、しかし、形そのものが個体をつくる
心を集中させて考えるすべての者は、個体は形なしに存在しないこと、もし存在するなら形があることを明らかに見ることができます。というのは、何であれ存在するようになるものは、形から、性質と呼ばれるものを、属性と呼ばれるものも、さらに状態の変化と呼ばれるものを、例えばまた、関連するものと呼ばれるもの、また他の同様のものを得るからです。
それゆえ、形のないものは情愛に属するものではなく、情愛に属さないものは、何の事柄にも属さないものです。形そのものがそれらすべてを与えます――形のあるすべてのものは、もし形が完全であるなら、それ自体を互いに、鎖のようにあるものがあるものを眺め、それゆえ、形そのものが個体をつくり、またこうして性質・状態・情愛が属性づけられることができ、このように形の完全にしたがって何らかのものであることになります。
[3] 世の中で目に見られるすべてのものはこのような個体であり、そしてまた、自然の内側にあるかあるいは霊界の中にあって目に見えないすべてのものも個体です――人間はこのような個体であり、人間の社会もこのような個体です。教会は、さらに主の前に天使たちの天界の全世界もこのような個体です。一言でいえば、創造された全世界は、単に全般的にだけでなく、個別的にも、すべてのものの中でこのような個体です。
すべてと個々のものが形であるために、すべてのものを創造されたその方自身が「形そのもの」であることが、また形の中に創造されたすべてのものが「形そのもの」からであることが必要です――そこでこのことが、著作『神の愛と知恵』の中で示されています、例えば、
神的な愛と神的な知恵は、実体であり、形である(40-43番)。
神的な愛と神的な知恵は、本質的に実体と形であり、したがって本質と唯一のものである(44-46番)。
神的な愛と神的な知恵は、主の中で一つである(14-17番18-22番)。
主から一つとして発出する(99-102番、他の箇所に)。
[4](二)形は、形を構成するものが、区別され、それでも結合された他のものであればあるほど、それだけますます完全に一つのものをつくる
外観からは、形を構成するものの等しさが似ていないなら、形は一つのものをつくることができないので、このことは理解力が高揚されてないなら、ほとんど理解されません。
このことについて、私は、しばしば、天使たちと話しました。彼らは、「これはアルカナである。自分たちの賢明な者たちは明らかに、しかし賢明さの少ない者たちは不明瞭に知覚している。しかし、形は、それをつくる他のものが区別されたものであるほど、しかし、それでも特定の方法で結合していれば、それだけますます完全であることが真理である」と言いました――このことをひとまとめにされて天界の形を構成する天界の中の社会によって、またそれぞれの社会の天使たちによっても証明しました。その社会は天使たちがどんなに区別されていても、ここで自由であって、このように自分自身から、自分の情愛から仲間を愛しても、それだけますます社会の形は完全です。
さらにまたそれを善と真理の結婚によって、二つのものが区別されるほど、それだけますます一つとなることができ、愛と知恵も同様であることを、また区別がないことは混乱であり、そのことから形の不完全さが生じることを説明しました。
[5]けれども、どのように完全に区別されたものが結合されるか、このように一つのものをつくるか、さらにまた多くのものによって証明しました。特に、人間の中にあるものによってです。そこには外被によって区別され、靭帯で結合したような区別された無数のものがあり、それでも結合しています――また、愛とそのすべてのものに、そして知恵とそのすべてのものも同様であり、それらは一つのものとしてしか知覚されません。
これらについて多くのものが著作『神の愛と知恵』(14-22番)と著作『天界と地獄』(56489番)の中に見られます。
このことは、天使の知恵のものであるので示しました。

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004◀︎目次▶︎006

5 (3)この一つのもの(個体)は、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にある
神的な愛と神的な知恵が主の中で一つであり、そして個体としてその方から発出して、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にあることは、それらは著作『神の愛と知恵』のあちこち(特に、47-51番、55-60番、282-284番、290-295番、313-318番、319-326番、349-357番)の箇所で示されたことから明らかにすることができます。それらの箇所の中に、永遠からの主である創造者なる神は、ご自分自身から霊界の太陽を、その太陽によって全世界のすべてのものを生み出されたので、神性はすべての被造物の中にあること、したがって、主から、またそこに主がおられるその太陽は、最初の実体であるだけでなく、すべてのもののもとである唯一のものであり、唯一の実体であるので、役立ちにしたがって無限の変化とともにすべての被造物の中にその実体があるといえることが示されています。
[2]そこで、主の中に神的な愛と神的な知恵があり、太陽の中にその方からの神的な火と神的な輝きが、また太陽から霊的な熱と霊的な光があり、これらの二つは一つのものをつくるので、この一つのもの(個体)が、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にあることになります。
ここから、全世界の中にあるすべてのものは、善と真理に、それどころか、それらの結合に関係します。あるいは同じことですが、全世界の中のすべてのものは愛と知恵に、それらの結合に関係します。なぜなら、善は愛のものであり、真理は知恵のものであって、愛は自分のすべてのものを善と呼び、知恵は自分のすべてのものを真理と呼ぶからです。
これらの結合がすべての被造物の中にあることは、続くものの中に見られます。

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005◀︎目次▶︎007

6 唯一の実体があり、それはまた、それからすべてのものがある最初のものであることが、多くの者により認められています。しかし、その実体がどんなものであるか、知られていません。
さらに単純なものがないような単純なものであり、何も寸法(次元)をもたない点になぞらえられることができ、またこのような無限のものから寸法(次元)をもった形が存在するようになった、と信じられていますの箇所に示されていることから、この事柄の真理が明らかです。
しかし、どのように互いの間で区別された二つのものが一つとして働くか知られていないので、私はここで、(1) 個体(一つのもの)は形なしに存在しないこと、しかし、形そのものが個体をつくること、その後、(2) 形は、形を構成するものが、区別され、それでも結合された他のものであればあるほど、それだけますます完全に一つのものをつくることを示します。
[2](一) 個体は形なしに存在しない、しかし、形そのものが個体をつくる
心を集中させて考えるすべての者は、個体は形なしに存在しないこと、もし存在するなら形があることを明らかに見ることができます。というのは、何であれ存在するようになるものは、形から、性質と呼ばれるものを、属性と呼ばれるものも、さらに状態の変化と呼ばれるものを、例えばまた、関連するものと呼ばれるもの、また他の同様のものを得るからです。
それゆえ、形のないものは情愛に属するものではなく、情愛に属さないものは、何の事柄にも属さないものです。形そのものがそれらすべてを与えます――形のあるすべてのものは、もし形が完全であるなら、それ自体を互いに、鎖のようにあるものがあるものを眺め、それゆえ、形そのものが個体をつくり、またこうして性質・状態・情愛が属性づけられることができ、このように形の完全にしたがって何らかのものであることになります。
[3] 世の中で目に見られるすべてのものはこのような個体であり、そしてまた、自然の内側にあるかあるいは霊界の中に。
しかし、これは空間の観念から生まれる誤りです。というのは、この観念から、このような最小のものが〔存在すると〕見られるからです――しかし、それでも、何らかのものが単純で純粋であればあるほど、ますます多く、満ちていることが真理です。その理由は、何らかの対象が内的に眺められれば眺められるほど、そこにますますさらに驚くべきものが、さらに完全なものが、さらに美しいものが見られ、このように最初の実体の中に、すべてのものの最も驚くべきもの、最も完全なもの、最も美しいものが存在するからです。
このようであることは、最初の実体は、〔すでに〕言われたように、主から、またその中に主がいる霊的な太陽からのものであるからです。したがって、その太陽そのものは唯一の実体であって、それは空間の中にないので、すべてのものの中のすべてのものであり、そして、創造された全世界の最大のものと最小のものの中に存在します。
[2]その太陽が最初のものと唯一のもので、それからすべてのものが存在するとき、その中に実体の中で見られるものよりも無限に多くのものがあることがいえます。その実体から生まれるものは実体化されたものであって、最後に、物質と呼ばれます。前者は後者の中で見られることはできません、その太陽から二種類の段階を通って降り、それらにしたがってすべての完全さが減少するからです。
ここから、前に言われたように、何らかのものが内的に眺められれば眺められるほど、ますますさらに驚くべきものが、さらに完全なものが、さらに美しいものが見られます。
これらは、神性が、すべての被造物の中である種の映像の中にあること、しかし、それは段階を通って離れる中で次第に少なく、地のものの物質で取り囲まれる時、低い段階が高い段階から閉ざされることよって、さらに見られることが少ないことが確信されるために言われました。
しかし、これらは、著作『神の愛と知恵』の中で論証されています、霊界の太陽について(83-172番)、段階について(173-281番)、全世界の創造について(282-357番)、読まれ、理解されないなら、漠然としか見られることができません。

神の摂理

006◀︎目次▶︎008

7 (4)すべての被造物が共通のものの中と部分の中でこのように一つであるように、また一つのものでないなら、そうなるように、神の摂理が存在する
すなわち、すべての被造物の中に神的な愛からの何らかのものと同時に神的な知恵からの何らかのものがあるためです。あるいは同じことですが、すべての被造物の中に善と真理の結合が、すなわち、善と真理の結合があるためです。
前に言われたように(5番)、善は真理のものであり、真理は知恵のものであるので、それゆえ、続くものの中で、愛と知恵の代わりにしばしば善と真理が言われ、愛と知恵の結合の代わりに善と真理の結婚が言われます。

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007◀︎目次▶︎009

8 これまで述べたことから、主の中で一つのものである神的な愛と神的な知恵は、主から一つのものとして発出して、その方からのすべての被造物の中に、ある種の映像の中にあることが明らかです。
そこで、さらにまた、特にその一つものについて、すなわち、善と真理の結婚と呼ばれる結合について述べます。
その結婚は、
(1)主ご自身の中にある。なぜなら、述べられたように、神的な愛と神的な知恵はその方の中で一つのものであるから。
(2)主からである。なぜなら、その方から発出するすべてのものの中で、完全に結合した愛と知恵であるから。それら二つのものは太陽としての主から、神的な愛は熱のように、また神的な知恵は光のように発出する。
(3)それらの天使たちにより確かに二つのものとして受け入れられる、しかし、彼らのもとで主により結合され、教会の人間のもとでも同様である。
(4)主からの愛と知恵の流入から、天界の天使たちのもとに、教会の人間のもとに、また天使と人間たちによるそれらの一つのものとしての受け入れから、主はみことばの中で花婿と夫、そして天界と教会は花嫁と妻と呼ばれる。
(5)そこで、天界と教会が全般的に、そして天界の天使と教会の人間が個別的に、それらの結合の中に、すなわち、善と真理の結婚の中にあればあるほど、それら二つのものは主の中で一つのものであり、それどころか主であるので、それだけ主の映像と似姿である。
(6)愛と知恵は天界の中と教会の中で全般的に、そして天界の天使の中と教会の人間の中で、意志と理解力が一つのものとなる時、このように善と真理が一つのものとなる時、あるいは同じことであるが、仁愛と信仰が一つのものとなる時、あるいはさらにまた同じことであるが、みことばからの教えとその教えにしたがった生活が一つのものになる時、一つのものになる。
(7)けれども、どのようにそれらの二つのものが人間とそのすべてのものの中で一つのものとなるか、著作『神の愛と知恵』の中で、第四部の中に、人間の創造について、特に心臓と肺との意志と理解力の対応について扱われているところに示されている(358から432番まで)。

神の摂理

008◀︎目次▶︎010

9 けれども、どのようにそれらが人間の下にまたは外にある動物界と植物界の中にあるものの中で一つのものとなっているか、続くものの中で多くの機会に述べます。その前に次の三つのことを述べなければなりません。
第一、主により創造された全世界の中に、そのすべてと個々のものの中に、善と真理の結婚があった。
第二、その結婚は、創造後、人間のもとで分離された。
第三、分離されたものが、一つとなり、このように善と真理の結婚が回復されることが神の摂理である。
これらの三つのことは著作『神の愛と知恵』の中で確証されています、それゆえ、それらをさらに進んで確証することは必要ではありません。
さらにまた、だれもが理性から、善と真理の結婚が創造からすべての被造物の中にあった時、またその後これが分離された時、主がそれを回復するために絶えず働かれることを見ることができます。したがって、その回復が、またここから創造された全世界と主との結合が、人間によってなされることが、神の摂理です。

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009◀︎目次▶︎011

10 (5)愛の善は、知恵の真理と結合していないかぎり善ではなく、知恵の真理は、愛の善と結合していないかぎり真理ではない
善と真理はこのことをその起源から得ています。主は善と真理そのものであられ、これら二つのものはそれ自体の中で一つのものであるので、善はその起源では主の中にあり、真理も同様です。
ここから、天界の天使と地上の人間のもとの善は、真理と結合していないなら本質的に善ではなく、真理は善と結合していないなら本質的に真理でありません。
すべての善とすべての真理が主からであることは、よく知られています。ここから、善は真理と、そして真理は善と一つのものとなるので、善が本質的に善であり、真理が本質的に真理であるために、受け入れるものである天界の天使と地上の人間の中で一つでなければならない、ということがいえます。

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010◀︎目次▶︎012

11 全世界の中のすべてのものが真理と善に関係することは、確かによく知られています。善によって、愛に属するすべてのものが普遍的に含まれ、包むものが意味され、真理によって、知恵に属するすべてのものが普遍的に含まれ、包むものが意味されるからです。
しかし、善は真理と結合しないなら何らかのものではなく、真理も善と結合しないなら何らかのものではないことは、今までよく知られていません。
確かに、善は真理がなくても何らかのものであるかのように、真理は善がなくても何らかのものであるかのように見えます、しかし、それでもそうではありません――というのは、著作『神の愛と知恵』の中に示されているように(14-16番)、愛は(そのすべてのものは善と呼ばれます)、物事のエッセ(存在)であり、知恵は(そのすべてのものは真理と呼ばれます)、そのエッセからのエキシステレ(実在)であるからです。それゆえ、エキシステレ(実在)なしにエッセ(存在)は何らかのものでなく、エッセなしにエキシステレも何らかのものでないように、このように真理のない善は、そして善のない真理は、何らかのものではありません。
同様に、何らかのものに関係しない善とは何ですか?善と言われることができるのですか?というのは、〔それは〕情愛の何ものでもなく、知覚の何ものでもないからです――
[2]働きかけ、またそれ自体が知覚され、感じられるようにするものは、善と一緒であり、真理に関係し、それに関係するので、理解力の中にあります。
ある者に、これまたはそれは善であると言わないで、善だけを言いなさい、〔そのとき〕善は何らかのものですか?
しかし、これまたはそれを、善と一つのものとして知覚されるものは、何らかのものです。
これは理解力の中でしか結合されませんし、すべての理解力は真理に関係しています。
意志することも同様です――人間が何かを意志しても、知り、知覚し、考えることなしに意志するものは、何らかのものではありません、しかし、それらのことと一緒なら何らかのものになります。
意志するすべてのことは愛に属し、善に関係します。知り、知覚し、考えるすべてのことは、理解力に属し、真理に関係します――ここから、意志するだけでは何らかのものはありません、しかし、あれこれを意志するなら何らかのものであることが明らかです。
[3]役立ちは善であるので、すべての役立ちでも同様です。
役立ちが、それと一つのものである何らかのものに向けられないなら、役立ちではなく、したがって何らかのものではありません。
役立ちはそれ自体の何らかのものを理解力から得ており、ここから役立ちに結合されるかあるいは結びつけられるものは真理に関係します。役立ちはその真理からそれ自体の性質を得ます。
[4]これらのわずかなものから、真理のない善は何らかのものでないこと、このように善のない真理も何らかのものでないことを明らかにすることができます。
真理と一緒の善は、そして善と一緒の真理は何らかのものである、と言われます。ここから、虚偽と一緒の悪は、また悪と一緒の虚偽は何らかのものでないということになります。というのは、後者は前者に対立し、対立するものは破壊し、何らかのものを破壊するからです。
しかし、この事柄については続くものの中で述べます。

神の摂理

011◀︎目次▶︎013

12 しかし、善と真理の結婚は原因の中に存在し、善と真理の結婚は原因から結果の中に存在します。
原因の中の善と真理の結婚は、意志と理解力の結婚、すなわち、愛と知恵の結婚です。人間が意志し、考えるもの、またここから結論し、そして意図するすべてのものの中に、その結婚が存在します。
この結婚は結果の中に入り、結果を生じます、しかし、生ずる中で、その時、同時に存在するものが継続するものを生ずるので、それら二つのものは区別されたものに見えます――例えば、人間が、食物・着物・住まい・仕事または働き・交わりを意志し、考える時、前もって同時に意志し、考えるかあるいは結論し、意図します。それらが結果の中に定まる時、あるものが他のものの後に続きます、しかしそれでも、絶えず意志と思考の中で一つのものになっています。
これらの結果の中で、役立ちは愛と善に属し、役立ちのための手段は理解力と真理に属します。
これらの普遍的な真理を特別な例によって、何が愛の善に関係し、何が知恵の真理に関係するか、どのように原因の中で関係し、どのように結果の中で関係するか、明確に知覚するだけで、だれもが確信することができます。

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012◀︎目次▶︎014

13 数回、愛が人間のいのちをつくることが言われました。しかし、原因の中で、知恵から分離された愛あるいは真理から分離された善は意味されません、分離された愛あるいは分離された善は、何ものでもないからです。それゆえ、主からのものである人間の最内部のいのちをつくる愛は、知恵と一緒の愛です――さらにまた、受け入れるものであるときに人間のいのちをつくる愛は、原因の中で分離しているのではなく、結果の中で分離している愛です。というのは、愛はその性質がなくては理解されことができず、その性質とは知恵であるからです。性質すなわち知恵は、愛であるそのエッセから以外に存在することができません、愛と知恵が一つであることはここからです――善と真理も同様です。
さて、知恵は愛からであるように真理は善からであるので、それゆえ、二つともひとまとめにされて愛または善と呼ばれます。というのは、愛はそれ自体の形の中で知恵であり、善はそれ自体の形の中で真理であるから。すべての性質は形からであり、他のところからではありません。
それで、ここから、善はそれ自体の真理とどれだけ結合しているかにより、それだけの善があり、それより多くの善は少しもなく、また真理はそれ自体の善とどれだけ結合しているかにより、それだけの真理があり、それより多くの真理は少しもないことが明らかです。

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013◀︎目次▶︎015

14 (6)知恵の真理と結合していない愛の善は本質的に善ではなく、外観上の善であり、愛の善と結合していない知恵の真理は本質的に真理ではなく、外観上の真理である
善がそれ自体の真理と結合していないなら本質的に善である何らかの善は存在しないこと、真理がそれ自体の善と結合していないなら本質的に真理である何らかの真理も存在しないことは真理です。
しかしそれでも、真理から分離した善、善から分離した真理が存在します。
これらは、偽善者と追従者のもとに、どんな悪い者のもとにも、自然的な善の中にいて霊的な善の中にいない者のもとに存在します。
これらの者は、教会・祖国・社会・市民・乏しい者・貧しい者・やもめ・孤児に善を行なうことができ、そしてまた真理を理解することができ、その理解から考え、その思考から話し、教えることができます。しかしそれでも、それらの善と真理は内なるものではなく、このように本質的ではありません。彼らの善と真理は、外なる善と真理であって、このように単なる外観です。というのは、自分自身と世のためだけのものであり、善と真理そのもののためのものでなく、したがって、善と真理からではないからです。それゆえ、口先だけの身体だけのものであり、心のものではありません――
[2]それで、かなくそか腐った木または糞にかぶせられた金や銀にたとえられることができます。そして発言される真理は、消散させられる呼吸の息または消える弱い光にたとえられることができ、それらはそれでも、外面上、本物のように見えます――しかし、彼らのもとでこのように見えるものですが、それでも、このことを知らない聞く者や受け入れる者のもとで異なっていることができます。というのは、それぞれの者に、外なるものはそれ自体の内なるものにしたがって働きかけるからであり、真理は、だれの口から発言されても、入り、他の者の中で聞かれ、彼の状態と性質にしたがって心により受け入れられるからです。
遺伝から自然的な善の中にいて霊的な善の中にない者のもとでも、事柄はほとんど似ています。というのは、すべての善とすべての真理の内なるものは霊的であり、これは虚偽と悪を追い散らすからです。しかし、単に自然的なものはそれらに賛同します。そして、悪と虚偽に賛同することと善を行なうことは調和しません。

神の摂理

014◀︎目次▶︎016

15 善は真理から、そして真理は善から分離されることができ、分離されているとき、それでも善と真理であるように見えるのは、人間に自主性と呼ばれる行動する能力と、推理力と呼ばれる理解する能力があるからです。
これらの能力の悪用から、人間が内なるものの中でどんなものであっても、外なるものの中で他のものに見えることができます。それゆえ、悪い者が善を行なうことと真理を話すことが、すなわち、悪魔が光の天使を偽ることができます。
しかし、これらの事柄については、著作『神の愛と知恵』の中に見られ、それらは次のものです――
悪の起源は、推理力と自主性と呼ばれる人間に固有のものである能力の悪用からである(264-270番)。
それらの二つの能力は悪い者のもとと同じく善い者のもとにある(425番)。
愛は知恵または理解力との結婚なしに、すなわち、善は真理との結婚なしに、何らかのものを行なうことができない(401番)。
愛は、知恵または理解力との結合の中でないなら何も活動しない、知恵または理解力が相互に結合されるようにする(410-412番)。
知恵または理解力はそれ自体に与えられた能力から、愛により高揚され、天界からの光に属するものを受け、そしてそれらを知覚することができる(413番)。
愛は、その配偶者を愛するなら、その段階の中で、同様に高揚され、天界からの熱に属するものを知覚することができる(414、415番)。
そうでなければ、愛は、知恵または理解力をそれ自体と一つとして働くようにその高揚から引き戻す(416-418番)。
愛は、理解力と一緒に高揚されるなら、理解力の中で清められる(419-421番)。
理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、天的になること、理解力の中で汚された愛は、自然的に、感覚的になる(422-424番)。
愛と知恵またそれらの結合は、仁愛と信仰またそれらの結合と同様である(427-430番)。
天界の中の仁愛とは何か(431番)。

神の摂理

015◀︎目次▶︎017

167)主は、何かが分割されていることを許されない。それゆえ、善と同時に真理の中になくてはならない、あるいは悪と同時に虚偽の中になくてはならない
主の神的な摂理は、特に、人間が善の中と同時に真理の中にいることを目的とし、働いています。というのは、このように人間は自分自身の善と自分自身の愛であり、そしてまた自分自身の真理と自分自身の知恵であるから。なぜなら、そのことによって人間は人間であり、その時、神の映像であるからです。
しかし、人間は、世の中に生きる時、善の中と同時に虚偽の中にいること、さらに悪の中と同時に真理の中に、それどころか、悪と同時に善の中に、このように二重のものの中にいることができ、この分裂はその映像を、こうして人間を破壊するので、それゆえ、主の神的な摂理は、ご自分のすべてと個々のものの中でこの分裂がないように目を向けられています。
また、悪と同時に善の中にいることよりも虚偽と同時に悪の中にいることのほうがさらに人間に益するので、それゆえ、望むことのようにではなく、目的である救いのために逆らうことができないことのように〔やむを得ず〕、主はそのことを許されます。
人間が悪の中と同時に真理の中にいることができ、主は目的である救いのために逆らうことができない〔やむを得ない〕ことの理由は、人間の理解力は知恵の光の中に高揚されることができ、彼の愛が下にとどまっていても、真理を見、あるいは聞く時、それを認めることができ、このように、人間は理解力で天界の中に、しかし、愛で地獄の中にいることができることです。そしてこのようであることは否定されることができません、人間に推理力と自主性である二つの能力は取り去られることができないからです。それらによって人間であり、獣から区別され、またひとえにそれらによって再生され、したがって救われることができます。なぜなら、それらによって人間は知恵にしたがって行動することができ、知恵のものでない愛にしたがって行動することができるからです。また上方の知恵から下の愛を、このように自分の生活(いのち)と教えの中の思考と情愛、したがって悪と虚偽を、さらに善と真理を見ることができます。
それらの思考と承認が自分自身の中に伴わないで、改心されることはできません。ここで述べられたこれらの二つの能力について、続くものの中で多くのことを述べます。
これが、人間が善と同時に真理の中に、さらに、悪と同時に虚偽の中に、またそれらを交替したものの中にいることができる理由です。

神の摂理

016◀︎目次▶︎018

17 人間は、一つともう一つの接合または結合の中に、すなわち、善と真理の、あるいは悪と虚偽の接合または結合の中に、世ではほとんどやって来ることができません。なぜなら、そこに生きるかぎり、改心あるいは再生の状態の中に保たれるからです。しかし、すべての人間は、死後、その時、もはや改心させられ、再生させられることができないので、善と真理の結合または悪と虚偽の結合の中にやって来ます。その時、〔その結合は〕彼の生活が世でどのようなものであったか、すなわち、彼の支配愛がどのようなものであったかによります――それゆえ、彼に悪の愛の生活があったなら、世で、教師や説教から、あるいは、みことばから、彼自身が得たすべての真理は取り去られます。それが取り去られて、スポンジが水を吸収するように、自分の悪と一致する虚偽を吸収します。けれども逆に、彼に善の愛の生活があったなら、聞くことや読むことによって世の中で受け取り、自分のもとで確信しなかったすべての虚偽は取り除かれ、それに代わって、彼の善と一致する真理が与えられます。
このことが次の主のことばによって意味されます――

……「彼からタラントを取り上げ、十タラント持つ者に与えなさい」。持つ者すべてに、満ち溢れるように与えられ、しかし、持たない者からは、さらにまた取り去られるからです(マタイ25:28, 29, 13:12, マルコ4:25, ルカ8:18, 19:24-26)。

神の摂理

017◀︎目次▶︎019

18 善と悪は結合されることができず、善と同時に悪の虚偽も、悪と同時に善の真理も結合されることができないので、だれもが、死後、善と同時に真理の中にいるかあるいは悪と同時に虚偽の中にいます。というのは対立しており、対立するものは、互いの間で、一方がもう一方を滅ぼすまで戦うからです。
悪と同時に善の中にいる者は、「黙示録」の中のラオデキヤにある教会への、主の次のことばによって意味されています――

わたしはあなたの働きを知っている。あなたは冷たくも、熱くもない。冷たくあるか、あるいは熱くあってくれればよいのに。しかし、あなたはなまぬるく、冷たくも、熱くもないので、わたしはあなたをわたしの口から吐き出そう(3:15, 16)。

さらに、主の次のものによって――

だれも二人の主人に仕えることはできません、なぜなら、一方に憎みを抱き、もう一方を愛するか、あるいは一方にしがみつき、もう一方を無視するからです(マタイ6:24)。

神の摂理

018◀︎目次▶︎020

19(8)善と同時に真理の中にあるものは、何らかのものとして存在する。悪と同時に虚偽の中にあるものは、何らかのものとして存在しない
善と同時に真理の中にあるものが何らかのものとして存在することは、前に見られます(11番)。ここから、悪と同時に虚偽〔であるもの〕は何らかものとして存在しないことがいえます。
何らかのものとして存在しないことによって、それに力はなく、霊的ないのちがないことが意味されます。
悪と同時に虚偽の中にいる者に、その者はすべて地獄にいますが、彼らの間にある種の力があります。というのは、悪は悪を行なうことができ、また千もの方法で悪を行なうからです。しかしそれでも、悪からでしか、悪い者に悪を行なうことはできません。そして、善い者には、まったく悪を行なうことができません。もし善い者に悪を行なうことができるなら、そのことは時々生じますが、善い者にある悪と結合することによってです。
[2]そのことから試練があり、それは自分自身のもとの悪に悩まされ、ここから闘争があり、そのことによって善い者は自分自身の悪から解放されることができます。
悪い者に力は何もないので、それゆえ、全地獄は主の前に無かのようであるだけでなく、力に関しては完全に無です。私は、このようであることを、多くの経験から見て、確信しました。
しかし、すべての悪い者が自分に力があると信じ、すべての善い者が自分に力がないと信じているのは不思議なことです。
その理由は、悪い者はすべてのものを自己の力に、このようにずるさと悪意に帰し、何も主に帰さないから、しかし、善い者は自己の思慮分別に何も帰さないで、すべてのものを全能の主に帰しているからです。
悪と一緒の虚偽が何らかのものとして存在しないのは、それらに霊的ないのちもないからです。その理由で、地獄のいのち(生活)はいのち(生活)と呼ばれないで、死と呼ばれます。それゆえ、すべてのものは何らかのいのちのものとして存在し、死のものは何らかのものとして存在できません。

神の摂理

019◀︎目次▶︎021

20 悪と同時に真理の中にいる者は、高く飛び、翼が取り去られる時、落下するワシにたとえられることができます。というのは、真理を理解し、それらを話し、それらを教えたけれども、自分の生活の中で決して神に目を向けなかった人間の死後も同様であるからです。その時、その者は霊になっています。彼らは自分の知力によって自分自身を高いところに高揚させ、時々、天界に入り、光の天使を装いました。しかし、彼らから翼が取り去られ、追い出されるとき、地獄に落下します。
さらにまた、ワシは知的な視覚をもつ略奪する人間を意味し、翼は霊的な真理を意味します。
自分の生活の中で決して神に目を向けなかった者はこのようである、と言われました――生活の中で神に目を向けることによって、あれこれの悪は神に反する罪であると考え、それゆえ、それを行なわないこと以外の他のことは意味されません。

神の摂理

020◀︎目次▶︎022

21(9) 主の神的な摂理は、悪と同時に虚偽を、均衡・関係・浄化として、このように他の者のもとの善と真理の結合として、役立つようにすることである
前に述べたことから、主の神的な摂理は、人間のもとで善に真理を、真理に善を結合させるように絶えず働くことを、その結合が教会であり、天界であるという理由から、明らかにすることができます――というのは、その結合が主の中にあり、主から発出するすべてのものの中にあるから。
その結婚から、天界は、そして教会もまた結婚と言われ、それゆえ、みことばの中で神の王国は結婚にたとえられています。
その結合から、イスラエル教会の中で安息日は礼拝の最も聖なるものでした、なぜなら、それらの結合を意味したからです。
さらにまたここから、みことばの中に、そしてそのすべてと個々のものの中に、善と真理の結婚があります(そのことについては『新しいエルサレムの教え 聖書について』80-90番を見てください)。
善と真理の結婚は、教会との主の結婚からであり、このことは主の中の愛と知恵の結婚からです。というのは、善は愛のものであり、真理は知恵のものであるから。
これらから、神的な摂理の永続する目的が、人間のもとに真理に善を、そして善に真理を結合させることを見ることができます、このように人間は主に結合されるからです。

神の摂理

021◀︎目次▶︎023

22 しかし、多くの者はこの結婚を、特に、信仰を仁愛から分離させることによって解消させ、解消したので――なぜなら、信仰は真理のもの、真理は信仰のものであり、そして仁愛は善のもの、善は仁愛のものであるからであり――そのことによって自分自身のもとで悪と虚偽を結合させ、このように対立しました、それでも、このことはやはり他の者のもとで、均衡・関係・浄化によって善と真理の結合に役立つよう、主により備えられています。

神の摂理

022◀︎目次▶︎024

23 主により、善と真理の結合が、他の者のもとに天界と地獄の間の「均衡」によって備えられています。というのは、地獄から絶えず悪と一緒に虚偽が発散され、それでも、天界から絶えず善と一緒に真理が発散されるから。
この均衡の中に、すべての人間は世で生きる間、保たれ、そのことによって自由に考え、意志し、話し、行ない、その中で改心されることができます。
(この霊的な均衡と、そのことから人間に自由があることについては、著作『天界と地獄』589-596番597-603番を見てください)。

神の摂理

023◀︎目次▶︎025

24 主により、「関係」によって善と真理の結合が備えられています――というのは、善がどんなものであるかは、善がより少ないものとの関係によって、また悪からの圧迫によってでないなら、知られないからです。
すべての知覚力や感覚的な能力、それらの能力の性質がこの関係からです――なぜなら、このようにすべての楽しさは、楽しさがより少ないものから、また不快なものによって、すべての美しさは美しさがより少ないものから、また醜いものによって、同様に、愛のものであるすべての善は善のより少ないものから、また悪によって、知恵のものであるすべての真理は真理のより少ないものから、また虚偽によって知覚され、感じられるからです。
すべての物事の中にその最大のものから最小のものまで変化がなくてはなりません、その対立するものの中にもまた最小のものから最大のものまで変化があり、そして平衡が間にあって、その時、段階にしたがって両方の側に関連性が生じます。そして、物事の知覚と感覚は増すかあるいは減ります。
しかし、対立するものは、知覚と感覚を取り去るかまたは高めることを知らなくてはなりません――それらが混ざるとき感覚と知覚を取り去り、それらが混ざらないとき高めます。そのために、主は人間のもとで混ざらないように、天界と地獄が分離されているように、微妙に善と悪を分離されています。

神の摂理

024◀︎目次▶︎026

25 主により善と真理の結合は、他の者のもとで「浄化」によって備えられており、それは一つは試練によって、もう一つは「発酵」によって、この二つの方法で行なわれます。
「霊的な試練」は、地獄から発散されて〔人間に〕働きかける悪と虚偽に対する闘争以外の何ものでもありません。それによって人間は悪と虚偽から清められ、そして彼のもとで善は真理に、真理は善に結合されます。
「霊的な発酵」は、地上と同様に天界でも、多くの方法で行なわれます。しかし、世では、それが何であるか、どのように行なわれるか知られていません――というのは、小麦粉やぶどう汁に入れられた酵母のような虚偽と一緒の悪があって、それらが社会に入れられるとき、それによって異物が分離され、同質なものが結合され、純粋で透き通るものになるのと同様のことが行なわれるからです。
それらのことが次の主のことばによって意味されるものです――

天の王国はパン種(イースト)に似ています。それを女が取って、3サトンの粉の中に全体が発酵するまで隠しました(マタイ13・33、ルカ13・21)。

神の摂理

025◀︎目次▶︎027

26 これらの役立ちが主により、地獄の中にいる者のもとにある悪と虚偽の結合から備えられています。なぜなら、主の王国は役立ちの王国であるからであり、天界を支配しているだけでなく、地獄もまた支配しているからです。そして、主の摂理はそこに役立ちを行なわないような者がだれもいない、または何かによって役立ちが行なわれないようなものが何もないことです。

神の摂理

026◀︎目次▶︎028

(2)主の神的な摂理は、人類からの天界を目的としている

27 天界は最初から天使に創造された者からできているのではなく、地獄も、光の天使に創造され、天界から投げ落とされた悪魔からできているのではなく、しかし、天界と地獄とは人類からできていること、天界は善への愛とここから真理の理解の中にいる者から、地獄は悪への愛と虚偽の理解の中にいる者からできていることを、私は、天使や霊たちとの長く続く交際によって、よく知り、明らかにされました――その事柄について、著作『天界と地獄』(311-316番)の中にもまた見られ、なおまたそれは小著『最後の審判』(14-27番)、また『続 最後の審判と霊界』(最初から最後まで)で示されています。
[2]さて、天界は人類からであり、天界は永遠に主と一緒に住むことであるので、そのことは主に〔とって〕創造の目的であったといえます。また創造の目的であったので、それはその方の神的な摂理の目的です。
主は全世界をご自分のためにではなく、天界で一緒にいることになる者のために創造されました。というのは、霊的な愛は、自分自身のものを他の者に与えることを欲するようなものであるから。また、どれだけそのことができるかによって、〔霊的な愛は〕そのエッセの中に、その平和の中に、その幸福の中にいます。
このことを霊的な愛は、主の神的な愛から得ており、それは無限にこのようなものです。
このゆえに、神的な愛は、またここから天界を目的として持つ神的な摂理は、その天界を天使となった人間と天使となる人間から構成し、その者に愛と知恵のものであるすべての祝福と幸福を与えること、またそれらを彼らの中でご自分そのものから与えることができるものであるといえます。
創造から彼らの中にその方の映像と似姿があるので、これと異なることはできません、彼らの中の映像とは知恵であり、彼らの中の似姿とは愛です。そして主は彼らの中で知恵に結合した愛であり、愛に結合した知恵です。すなわち、同じことですが、真理に結合した善であり、善に結合した真理です。その結合については、前章の中で扱いました。
[3]しかし、全般的に、すなわち、多くの者のもとで天界とは何か、また個別的に、すなわち、ある者のもとで天界とは何か、さらに、霊界の中で、また自然界の中で天界とは何か知られていません、それでもこのことは、神的な摂理の目的であり、知ることが重要であるので、私はそれを次の順序で何らかの光の中に示します――

(1)天界は主との結合である。
(2)創造から、人間は主に近くさらに近く結合されることができるようなものである。
(3)人間は、主に近く結合されるほど、ますます賢明になる。
(4)人間は、主に近く結合されるほど、ますます幸福になる。
(5)人間は、主に近く結合されるほど、ますますはっきりと自分自身のものであるように自分自身に見る、そしてさらに明らかに主のものであるものを認める。

神の摂理

027◀︎目次▶︎029

28 (1)天界は主との結合である
天界は、天使からでなくて、主からのものです。なぜなら、愛と知恵が天界をつくり、それら〔愛と知恵〕の中に天使たちはいて、彼らからではなくて、それどころか、彼らの中の主からのものであるからです。
愛と知恵は主のものであり、主は天界におられ、そして愛と知恵は彼らのいのちをつくるので、さらにまた、彼らのいのちは主のものであること、それどころか、主であることが明らかです。
主から生きていることは、天使たち自身が言明しています。
ここから、天界は主との結合であることを明らかにすることができます。
しかし、主とのいろいろな結合が存在し、ここからあるものに比べて他のものに似た天界はないので、さらにまた、天界は主との結合にしたがっていることがいえます。
近くさらにまた近く、遠くさらにまた遠く結合していることは、続く章の中に見られます。
[2]ここにその結合について、どのように行なわれるか、またどんなものであるか、何らかのものを述べます。
天使との主の結合と、主との天使の結合があり、こうして相互の結合があります。
主は天使のいのちの愛の中に流入され、天使は主を知恵の中に受け、このことによって相互的に自分自身を主に結合させます。
しかし、天使には自分自身を知恵によって主に結合させるように見えます、しかしそれでも、主が彼らを知恵によってご自分に結合されることはよく知っておかなければなりません、なぜなら、彼らの知恵もまた主からであるからです。
主は天使たちに善によってご自分を結合させられ、天使たちは相互的に自分自身を真理によって主に結合させる、と言っても同じことです、なぜなら、すべての善は愛のものであり、すべての真理は知恵のものであるからです。
[3]しかし、この相互の結合は、説明されないなら、わずかな者しか理解できない秘義です。私はそれを理解できるようなものによって説明します。
著作『神の愛と知恵』(404、405番)の中に、どのように愛がそれ自体に知恵を結合させるか示されています。すなわち、真理の情愛からのものである知ろうとする情愛によって、真理の知覚からのものである理解しようとする情愛によって、知られ、理解されたことを見る情愛によってであり、その情愛から思考があります。
主はすべてのそれらの情愛の中に流入します、というのは、それらの派生物はそれぞれのいのちの愛からであるから、また天使はその流入を真理の知覚の中に、思考の中に受けます、というのは、彼らにとって、流入はこれらの中にであって、情愛の中にではないように見えるからです。
[4]それで、知覚と思考は天使に自分のものであるように見え、そのとき、それでも主からのものである情愛からであるので、それゆえ、天使が自分自身を相互に主に結合することは外観であって、そのとき、それでも主が彼らをご自分に結合されます。なぜなら、情愛そのものがそれら〔知覚と思考〕を生み出すからであり、愛のものである情愛は、それらの霊魂であるからです。というのは、だれも情愛なしに知覚し、考えることはできず、だれもが情愛にしたがって知覚し、考えるからです。
これらから、主との天使の相互の結合は、天使からではなく、しかし彼らからのように見えることが明らかです。
このような結合が、教会と主に、また主と教会にもあり、それは天的また霊的な結婚と呼ばれます。

神の摂理

028◀︎目次▶︎030

29 霊界の中のすべての結合は、眺めること(熟視)によって生じます。
霊界で、ある者が他の者について、彼と話そうとする情愛から考える時、他の者が直ちに臨在し、互いに顔と顔を合わせて見ます――ある者が他の者について愛の情愛から考える時も同様です。しかし、この情愛によって結合が生ずるのであって、他のものによっては、臨在だけが生じます。
このことは霊界に特有なものです。その理由は、そこのすべてのものが霊的であることです。自然界の中では異なり、その中ではすべてのものは物質的です。
自然界の中で、人間たちのもとで、彼らの霊の情愛と思考の中で同様に生じています。けれども、自然界の中には空間があり、霊界の中では空間は単なる外観であるので、それゆえ、霊界では、それぞれの霊の思考の中で生ずることが実際に生じます。
[2]これらのことは、天使との主の結合が、そして主との天使の相互の結合の外観がどのように生ずるか知られるために言われました。というのは、すべての天使は顔を主へ向け、そして主は彼らを額で見られ、天使は主を目で見るからです。その理由は、額は愛とその情愛に対応し、目は知恵とその知覚に対応するからです――しかし、それでも、自分自身から主へ顔を向けないで、主が彼らをご自分へ向けさせられます。彼らのいのちの愛の中への流入によって、それによって知覚と思考の中へ入られて、このように彼らを向けさせられます。
[3]このような愛の循環が、思考へ、また思考から愛により愛へ、人間の心のすべてのものの中にあります。その循環は、いのちの循環と呼ばれることができます。
これらについてもまた何らかのものが著作『神の愛と知恵』の中に見られます――例えば、
天使は自分の顔を常に太陽としての主に向けている(129-134番)。
天使の心も身体も、すべての内的なものは、太陽としての主へ向いている(135-139番)。
それぞれの霊は、どのようなものであっても同様に自分を支配する愛へ向いている(140-145番)。
愛はそれ自体を知恵に結合させ、そして知恵が相互に結合されるようにする(410-412番)。
天使は主の中にいる、主は彼らの中におられる。天使は受け入れるものなので、主おひとりが天界であられる(113-118番)。

神の摂理

029◀︎目次▶︎031

30 自然界の中の主の天界は教会と呼ばれ、この天界の天使は教会の人間であって主と結合しています。この者は世から去った後、霊的な天界の天使となります――このことから、天使の天界について言われていることは、同様に、教会と呼ばれる人間の天界についても理解すべきであることが明らかです。
主とのその相互の結合は人間のもとに天界をつくり、主により、「ヨハネ福音書」に次のことばで示されています――

わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中に〔とどまります〕。……わたしの中にとどまり、わたしがその中にとどまる者は、その者は多くの実を結びます。わたしなしに、あなたがたは何もすることができないからです(15・4、5、7)。

神の摂理

030◀︎目次▶︎032

31 これらから、主は、天界のすべての者のもとで全般的にだけでなく、しかしまた、そこのそれぞれの者のもとで個別的に天界であられることを明らかにすることができます。
というのは、それぞれの天使は最小の形の天界であるから。天界は全般的に、天使がいるのと同数のそれだけ多くの天界から存在します。このようであることは著作『天界と地獄』(51-58番)に見られます。
このようであるので、最初に多くの者が「主は天界の中に天使たちの間に、あるいは彼らの間におられ、ご自分の王国の中の王である。それは外観上、彼らの上にあるそこの太陽の中におられるような王である」といった考えの中に落ち込むような間違いを、だれも抱かないようにしてください。主は彼らの愛と知恵のいのちに関して、彼らの中におられるのです。

神の摂理

031◀︎目次▶︎033

32 (2)創造から、人間は主に近くさらに近く結合されることができるようなものである
このことは、著作『神の愛と知恵』の中の第三部の段階について示されていることから、特に、そこの次のものから明らかにすることができます――

人間の中に創造から三つの分離の段階または高さの段階がある(230-235番)。
それらの三つの段階は、出生からそれぞれの人間の中にあり、開かれるほど、人間は主の中にいて、主は人間の中におられる(236-241番)。
すべての完全性は、段階とともに、段階にしたがって増大し、のぼる(199-204番)。

それらから、人間は創造から、さらに近くまたさらに近く主に結合されることができるようなものであることが明らかです。
[2]しかし、段階とは何であるか〔それに関して次のことを〕すべての点で知らなければなりません。分離または高さの段階と連続または幅の段階の二つの段階があること、またそれらの相違が何か――なおまた、それぞれの人間に創造とここからの出生から分離または高さの段階があること――人間は生まれた時に、自然的な段階と呼ばれる最初の段階の中にやって来ること、この段階を自分自身のもとで延長させて理性的なものを生ずるまで増やすことができること――もし神的な真理である秩序の霊的な法則にしたがって生きたなら、霊的な段階と呼ばれるもう一つの段階の中へやって来ること――さらにまた、神的な善である秩序の天的な法則にしたがって生きたなら、天的な段階と呼ばれる第三の段階にやって来ることができることです。
[3]これらの段階は人間のもとで主により、世の中で実際に、彼の生活にしたがって開かれます、しかし、世から去った後でないなら、知覚できるように、感覚で捕えられるようになりません。開かれ、その後、完全にされるほど、人間は近くさらに近く主に結合されます。
この結合は、接近によって永遠に増やすことができ、天使のもとでも永遠に増やされます。しかしそれでも、天使は主の愛と知恵の最初の段階に達することが、あるいはそれに接することができません、主は無限であられ、天使は有限であり、そして無限と有限に割合は存在しないからです。
それらの段階を知らないなら、だれも人間の状態、彼の高められた状態、主へ接近の状態を理解することができないので、それゆえ、著作『神の愛と知恵』の中の特にそれらについて扱われているところを見てください(173から281番まで)。

神の摂理

032◀︎目次▶︎034

33 人間は、どのように近くさらにまた近く主に結合されるか、またその後、どのようにその結合はさらに近く見えるか、手短に述べます。
人間は、どのように近くさらにまた近く主に結合されるか
このことは知識だけによっても、知性だけによっても、それどころか、知恵だけによっても生じません、しかし、それらに結合した生活(いのち)よって生じます。
人間の生活(いのち)は彼の愛であり、愛は多種多様です。
全般的に悪の愛と善の愛があります。悪の愛は、姦淫し、復讐し、だまし、冒涜し、他の者からその財産を奪う愛です。それらが考えられ、行なわれる中で、悪の愛は、心地よさと快さを感じます。
この愛の情愛のものである派生物は、悪があるのと同じ数だけ多くあり、それへそれ自体を向けています。そして、その愛の知覚と思考は、虚偽があるのと同じ数だけ多くあり、それらの虚偽はそれらの悪に賛同し、それらを強めています。
理解力が善と一つとなっているように、これらの虚偽は悪と一つとなっていて、互いに分離されません、一つはもう一つのもののものであるからです。
[2]そこで、主はそれぞれの生活(いのち)の愛の中に、彼の情愛を通って知覚と思考の中に流入され、前に言われたように、逆ではないので、悪の愛を欲望であるその情愛とともに、遠ざけるのでないなら、さらに近くその方に結合されることはできないことがいえます。
これらの欲望は自然的な人間の中に住み、人間は何でも自然的な人間から行ない、自分自身から行なうように感じるので、それゆえ、人間は自分自身からかのようにそれらの愛の悪を遠ざけなくてはなりません。それでその時、それらを遠ざければ遠ざけるほど、それだけ主はさらに近く近づき、ご自分を彼に結合されます。
欲望はそれらの快さとともに主に対して扉をふさぎ、閉め、人間自身が扉を閉ざして保ち、外から開かないように押し、抵抗する間は、主により追い出されることができないことをだれもが理性から見ることができます。
人間自身が開けなくてはならないことは、「黙示録」の中の、主のことばから明らかです、

見よ、わたしは戸に立ち、たたく。だれかがわたしの声を聞いて、戸を開けるなら、わたしは彼のところに入り、わたしは彼とともに、彼もわたしとともに食事をする(3:20)。

[3]ここから、だれかが悪を悪魔のもののように、主が入られるときの障害物のように避ければ避けるほど、それだけ近くさらにまた近く主に結合されること、また、それらの悪をそれだけ多くの燃えている黒ずんだ悪魔のように避ける者は最も近くに結合されることが明らかです。なぜなら、悪と悪魔は一つであり、そして悪の虚偽とサタンは一つであるからです――それゆえ、主は善の愛とその情愛の中へ、それらを通って知覚と思考の中へ流入し、真理であるすべてのものを善から得て、人間はその中にいます。そのように、地獄のものである悪魔は、悪の愛と欲望であるその情愛の中へ、それらを通して知覚と思考の中へ流入し、虚偽であるそれらすべてのものを悪から得て、人間はその中にいます。
[4]その結合はどのようにさらに近く見えるか
自然的な人間の中の悪から、それらを避け、嫌悪することによって、遠ざかれば遠ざかるほど、ますます人間は主とさらに近く結合されます。主そのものである愛と知恵は、空間の中にないので――というのは愛のものである情愛と知恵のものである思考は、空間と共通なものを何も持たないから、それゆえ、主は愛と知恵による結合にしたがってさらに近く見え、逆に、愛と知恵を拒絶するにしたがって、さらに遠く見えます。
霊界の中に空間は存在しません、しかし、そこの距離と臨在は、情愛が似ていることと似ていないことにしたがった外観です。なぜなら、言われたように、愛のものである情愛と知恵のものである思考は、本質的に霊的なものであって空間の中にないからです。それらの事柄については著作『神の愛と知恵』の中に示されています(7-10番)。
[5]悪が遠ざけられた人間と主の結合は、主の次のことばによって意味されます――

心のきれいな者は神を見ます(マタイ5:8)。

またこれらによって、

わたしの戒めを持ち、またそれを行なう者に、わたしは住まいをつくります(ヨハネ14:21, 23)。

戒めを持つことは知ること、戒めを行なうことは愛することです、なぜなら、そこにはまた、「 わたしの戒めを行なう者は、わたしを愛する者である」と言われているからです。

神の摂理

033◀︎目次▶︎035

34 (3)人間は、主に近く結合されるほど、ますます賢明になる
いのちの三つの段階が人間のもとに創造から、またここからの出生からあるので(そのことについては直前の32番)、特に、彼のもとに知恵の三つの段階があります。
これらの段階は、人間のもとで結合にしたがって開かれるものであり、愛にしたがって開かれます、なぜなら、愛は結合そのものであるからです。
しかし、段階にしたがった愛の上昇は、人間により漠然としか知覚されません、しかし、知恵の上昇は、知恵とは何かを知り、見る者のもとではっきりと知覚されます。
知恵の段階が知覚されることの理由は、愛は情愛を通して知覚と思考の中に入り、これらは身体の外的な視覚に対応する心の内なる視覚にそれ自体を示すからです。ここから、知恵は見られますが、それを生み出す愛の情愛はこのようではありません――このことは人間により実際に行なわれるすべてのものにも同様です。どのように身体がそれらを生み出すか認められます、けれども、どのように霊魂が生み出すか見られません――このようにまた、人間がどのように熟考し、知覚し、考えるか知覚されます、しかし、それらを生み出す善と真理の情愛である霊魂がどのように働くか知覚されません。
[2]しかし、知恵の三つの段階、自然的・霊的・天的な段階があります。
人間は世で生きる間、自然的な知恵の段階の中にいます。彼のもとのこの段階は、その時、その最高度まで完成させられることができますが、それでも霊的な段階に入ることはできません、この段階は連続によって自然的な段階に拡張されないからです、しかし、対応によってそれに結合されます。
人間は死後、霊的な知恵の段階の中にいます。この段階もまた最高度まで完成させられることができるようなものですが、しかしそれでも、天的な知恵の段階に入ることはできません、この段階も連続によって霊的な段階に拡張されないからです、しかし、対応によってそれに結合されます。
これらから、三重の割合で高揚されることができること、それぞれの段階の中で、その最高度まで単一の割合で完成させられることができることを明らかにすることができます。
[3]これらの段階の高揚と完成を理解する者は、天使の知恵について「言語に絶するものである」と言われることを少しほど知覚することができます。天使の知恵からのその思考の千もの観念は、人間の知恵からのその思考の一つの観念を除いて〔それ以上〕示すことができず、天使のそれらの九百九十九の思考は超自然的なものであるので〔人間の観念に〕入ることができないほどのものであり、このこともまたそのように言語に絶するものです――このようであることを、しばしば、生き生きとした経験によって知ることが与えられました。
しかし、最初に言われたように、主との結合によってでないなら、またその結合の段階にしたがってでないなら、だれも天使のそれらの言語に絶する知恵の中にやって来ることはできません、なぜなら、主おひとりが、その方から賢明である者のもとにだけ霊的な段階と天的な段階を開かれるからです。主から賢明である者とは、悪魔を、すなわち、悪を自分自身から追い払う者です。

神の摂理

034◀︎目次▶︎036

35 しかし、多くのことを知っていて、それらをある種の光の中で知覚し、聡明にそれらを話しても、その知恵に愛が結合していないなら、その者に知恵があることを、だれも信じてはなりません。というのは、愛は自分の情愛によって知恵を生み出すから。知恵が愛に結合していないなら、それは大気中の消える流星のようであり、落ちる星のようです。しかし、愛と結合した知恵は、〔輝き〕続ける太陽の光のようであり、恒星のようです。
知恵の愛は、悪と虚偽の欲望である悪魔の群れを避けるかぎり、その人間にあります。

神の摂理

035◀︎目次▶︎037

36 知覚へやって来る知恵は、真理への情愛からの真理の知覚です、特に霊的な真理の知覚です。なぜなら、市民的な真理、道徳的な真理、霊的な真理があるからです。
真理への情愛から霊的な真理の知覚の中にいる者は、道徳的な真理と市民的な真理の知覚の中にもまたやって来ます、なぜなら、霊的な真理の情愛はそれらの霊魂であるからです。
時々、私は天使と知恵について話しました。彼らは、「主は知恵そのものであられるので、知恵とは主との結合である」と言い、「地獄を自分自身から退けた者はその結合の中にやって来る。そして退ければ退けるほどそれだけその中にやって来る」と言いました。
彼らは、「私たちは知恵を、荘厳で最も装飾された宮殿とその中に十二の階段によって上ることで象徴している。主によりその方との結合を通してでないなら、だれも最初の階段にやって来ない、それぞれの者が結合にしたがって上り、だれも自分自身から賢明でなく、主から賢明であることを知覚しているかのように上る――なおまた、味わっている〔賢明である〕知恵は、味わっていない〔賢明でない〕知恵と比べて、大きな湖と比べたときの水滴のようである」と言いました。
知恵の宮殿への十二の階段によって、真理と結合した善と、善と結合した真理が意味されます。

神の摂理

036◀︎目次▶︎038

37 (4)人間は、主に近く結合されるほど、ますます幸福になる
前に、主との結合にしたがっていのちと知恵の段階について言われたこと(32と34番)と似たことが、幸福の段階についてにもまた言われることができます――というのは、幸福、すなわち、幸福の状態と快さは、人間のもとの霊的なまた天的な段階と呼ばれる心のさらに高い段階が開かれるように上昇し、その段階は世での彼の生活の後、永遠に増大するからです。

神の摂理

037◀︎目次▶︎039

38 悪の欲望の快さの中にいる人間は、善の情愛の快さについて何らかのものを知ることが決してできません、天使の天界はそれらの快さの中にあります。なぜなら、それらの快さは内なるものの中でまったく対立し、またここから、外なるものの中でもその内なるものは対立しているからです。しかしそれでも、表面そのものの中で、ほとんど異なっていません。
というのは、すべての愛はそれ自体の快さを持っており、悪の愛の欲望の中にいる者にもその快さがあるから。〔それらの悪の愛は〕姦淫し、復讐し、盗もう、残虐に振る舞おう、それどころか、最悪の者のもとでは、教会の聖なるものを冒涜しよう、神に対する毒〔悪口〕をべらべらしゃべろうとするような愛です。
それらの快さの泉は、自己愛からの支配しようとする愛です。
心の内的なものを包囲する欲望からのそれらの快さは、身体の中に流れ下り、そこで不潔なものを刺激し、それらは繊維をむずむずさせます。ここから、欲望にしたがった心の快さから、身体の快さが起こります。
[2]彼らの身体の繊維をむずむずさせる不潔なものが何か、どんなものであるか、それぞれの者に、死後、霊界で知ることが与えられます。一般に、死体・排泄物・糞・悪臭物・尿です。というのは、彼らの地獄はこのような不潔なもので満ちているから――それらが対応するものであることは、著作『神の愛と知恵』の中に見られます(422-424番)。
しかし、それらの不潔な快さは、地獄に入った後に、恐るべき性質に変わります。
今から続けられる天界の幸福について、それが何であるか、理解することができるように、これらが言われました。というのは、どんなものでもその反対のものから知られるからです。

神の摂理

038◀︎目次▶︎040

39 幸運の状態・至福・快さや楽しさは、一言でいうと、天界の幸福は言葉で述べられることができません、しかし、天界の中で感覚で知覚されることができます。というのは、感覚だけで知覚されるものは、思考の観念の中に、ここから言葉の中にも落ち込まないので述べられることができないから〔であり〕、理解力は見るだけであって、知恵または真理に属するものを見ますが、愛または善に属するものを見ないからです。それゆえ、それらの幸福は言い表わせないものです、しかし、それでも知恵とともに同様の段階に上昇します。
それらの変化は無限であり、それぞれのものは言語に絶します。
私はこのことを聞き、このことを知覚しました。
[2]しかし、それらの幸福は、人間が、あたかも自分自身からかのように、しかしそれでも、主から、悪と虚偽の欲望を除くかぎり、入ってきます。というのは、それらの幸福は善と真理の情愛の幸福であり、これらは悪と虚偽の愛の欲望に対立しているからです。
善と真理の愛の情愛の幸福は、主から、したがって最内部から始まり、ここから低いものへ、最外部まで広がり、そして天使の全体がいわば歓喜であるようにして、このように天使を満たします。
無限の変化とともにこのような幸福は、善と真理の情愛のそれぞれの中に、特に、知恵の情愛の中にあります。

神の摂理

039◀︎目次▶︎041

40 悪の欲望の快さと善の情愛の快さは比較されることができません。悪の欲望の快さの中の内部に悪魔がいて、善の情愛の快さの中に主がおられるからです。
比較しなくてはならないなら、悪の欲望の快さは、池の中のカエルの、悪臭のする場所のヘビのみだらな欲望のようにしか比較することができません。しかし、善の情愛の快さは庭園や花壇の中でのアニムス(心)の快感に比較することができます――というのは、カエルやヘビに働きかけるようなものは、悪の欲望の中にいる地獄の中の者たちにも働きかけ、庭園や花壇(花園)の中のアニムスに働きかけるようなものは、善の情愛の中にいる天界の中の者たちにもまた働きかけるから――なぜなら、前に言われたように、不潔なものに対応するものは悪い者たちに働きかけ、清潔なものに対応するものは善い者たちに働きかけるからです。

神の摂理

040◀︎目次▶︎042

41 これらから、人間は主にさらに近く結合されればされるほど、それだけさらに幸福になることを明らかにすることができます。
しかし、その幸福が世の中に現われるのはまれです。人間はその時、自然的な状態の中にいて、自然的なものは霊的なものと連続によっては伝達しません、対応によって伝達するからです。この伝達は、特に、悪に対する闘争の後に生ずる霊魂のある種の平穏さと平和によってでしか感じられません。
しかし、人間が自然的な状態を脱ぎ捨て、そして霊的な状態に入る時、それは世から去った後に生じますが、その時、前述の幸福は連続的に現われます。

神の摂理

041◀︎目次▶︎043

42 (5)人間は、主に近く結合されるほど、ますますはっきりと自分自身のものであるように自分自身に見る、そしてさらに明らかに主のものであるものを認める
ある者が主にさらに近く結合されればされるほど、それだけ自分自身のものが少ないことは、外観からです。
このような外観がすべての悪い者たちのもとにあり、律法のくびきのもとにないこと、だれも善を自分自身から行なうことができないことを宗教から信じる者たちのもとにもあります。というのは、後者と前者は、自分自身のものでない善だけを考え、意志することが許されて、悪を考え、意志することが許されないとしか見ることができないから。彼らは、主に結合されている者たちは悪を考え、意志することを欲しないし、できないという外観から、これは自分自身のものでない、と自分自身のもとで結論するからです――そのときそれでも、完全に正反対です。

神の摂理

042◀︎目次▶︎044

43 地獄の自由と天界の自由があります。
悪を考えることと欲すること、市民と道徳の法律が制止しないかぎり、悪を話し、行なうことは地獄の自由からです。しかし、善を考えることと欲すること、機会が与えられるかぎり、善を話し、行なうことは天界の自由からです。
人間は、自由から考え、意志し、話し、行なうものは何でも、これを自分自身のもののように知覚します。なぜなら、それぞれの者に、彼の愛からすべての自由があるからです。それゆえ、悪の愛の中にいる者は、地獄の自由が自由そのものであるとしか知覚しません、しかし、善の愛の中にいる者は、天界の自由が自由そのものであると知覚します、したがって、両方の者にとって正反対のものが奴隷状態です。
しかしそれでも、本質的に対立する二つの自由が本質的に自由であることはできないので、一方またはもう一方が自由でないことは、だれにも否定することはできません。
他にも否定できないことは、善により導かれることがむしろ自由であり、悪により導かれることが奴隷状態であることです。なぜなら、善により導かれることは主により導かれること、悪により導かれることは悪魔により導かれることであるからです。
さて、自由から行なわれるすべてのものは自分自身のものであるように見えます、というのは、これは彼の愛のものであり、前に言われたように、自分自身の愛から行なうことは自由からであるからです。ここから、主との結合が、人間に自分は自由であり、ここから自由は自分自身のものである〔と思える〕ことを引き起こすといえます。主と密接に結合していればいるほどますます自由であり、ここからさらに〔自由は〕自分自身のものです。
自分自身のものであるように、自分自身に「さらに明瞭に」見えることは、神的な愛が自分自身のものであるものが他の者のものであることを欲するようなものであり、霊的な愛がことに神的な愛がすべての人間と天使たちにこのように欲するものであるからです――加えて、主は決してだれも強制されません。すべての者は、強制されたものを自分自身のもののように見ないし、自分自身のもののように見えないものは、彼の愛のものになることができません、こうして自分自身のもののように自分のものにされることができないからです。それゆえ、人間は主により絶えず自由の中に導かれ、自由の中で改心し、再生もします。
しかし、これらの事柄について多くのものは続くものの中で述べます。何らかのものが前にもまた見られます(4番)。

神の摂理

043◀︎目次▶︎045

44 けれども、人間は、自分自身のもののように明瞭に見えれば見えるほど、ますますはっきりと、主のものであることを自分自身に認めます。そのことは(前の34-36番に示されているように)、主に近く結合されればされるほど、ますます賢明になるからであり、そして知恵はそのことを教え、そしてまた、そのことを認めます。
第三の天界の天使は、天使の最も賢明な者であるので、そのこともまた知覚し、そしてまた、それを自由そのものと呼びます、しかし、自分自身から導かれることを奴隷と呼びます。
理由もまた言われました。〔その理由は〕主は、知恵からの彼らの知覚と思考のものであるものの中に直接に流入しないで、善の愛の情愛の中に、またこれらを通して知覚と思考のものであるものの中に流入されること、流入を情愛の中で知覚すること、それらから彼らに知恵があり、その後、知恵から考えるすべてのものは、自分自身からのように、こうして、自分自身のもののように見えること、このことによって相互の結合が生ずることです。

神の摂理

044◀︎目次▶︎046

45 主の神的な摂理は、人類からの天界を目的としているので、ご自分との人類の結合を目的としていることがいえます(そのことについて28-31番)――なおまた、人間がさらに近くその方と結合されることも目的としています(そのことについて32、33番)、というのは、このように天界が彼の内部にあるから――また人間がその結合によってさらに賢明になり(そのことについて34-36番)、またもっと幸福になること(そのことについて37-41番)も目的としています。天界が人間にあるのは知恵から、その知恵にしたがっているからです。またその知恵によっても幸福があります――最後に、人間が自分自身のもののように自分自身に明瞭に見えること、またそれでも、主のものであることをはっきりと認めることを目的としています(そのことについて41-44番)
これらすべてのものは天界〔をつくるもの〕であるので、これらすべてのものは主の神的な摂理のものであり、目的としています。

神の摂理

045◀︎目次▶︎047

(3)主の神的な摂理は、造るものすベてのものの中に、「無限なもの」と「永遠なもの」を眺めている

46 神が「無限なる者」と「永遠なる者」であられることは、キリスト教世界の中でよく知られています。なぜなら、アタナシウスにより名前づけられた三一性の教えの中に、父なる神は、「無限なる者」、「永遠なる者」、「全能なる者」であられ、子なる神、また聖霊なる神も同様であって、それでも三つの「無限なる者」、「永遠なる者」、「全能なる者」ではなくて、一つの存在である、と言われているからです。
これらから、神は「無限なる者」と「永遠なる者」であられるので、神について「無限なもの」と「永遠なもの」以外に、他のものは属性づけられることができないことになります。
しかし、「無限なもの」と「永遠なもの」が何かは、有限から理解されることはできないし、理解されることもできます――理解されることができないのは、有限は無限を収容できないからです。理解されることができるのは、抽象的な観念が存在し、それによって存在するものが見られることができるからです、それでも、どのようなものであるかは見られません。
「無限なもの」について次のような観念が存在します。例えば、神は「無限なる者」であるので、すなわち、神性は「無限なもの」であるので、エッセそのものである、本質と実体そのものである、愛そのものと知恵そのものである、すなわち、善そのものと真理そのものである、したがって、主であられる、それどころか「人間」そのものであられることです。さらにまた、例えば、「無限の知恵」は「全知」である、そして「無限の力」は「全能」であるといったように、「無限なもの」は「すべてのもの」であることが言われるときです。
[2]しかし、それでも、これらは、自然から、特に自然に固有な二つのものである空間と時間からの観念から引き離されないなら、思考の不明瞭なものにより、理解できないものにより、おそらく否定の中に落ち込みます。というのは、これら〔空間と時間〕は観念を制限してしまい、抽象的な観念をあたかも何ものでもないようにするからです。
しかし、もしそれら〔時間や空間の観念〕が、天使のもとに生ずるように、人間のもとから引き離されることができるなら、その時、「無限なもの」は直前に言われたそれら〔時間と空間の観念から引き離された観念〕によって、理解されることができます。ここからもまた、「すべての者」であられる「無限の神」により創造されたので、人間は何らかのものです。なおまた、「実体」そのものであられる「無限の神」により創造されたので、人間は有限な実体です。そのようにまた、「知恵」そのものであられる「無限の神」により創造されたので、人間は知恵です、等々。
なぜなら、「無限の神」が「すべてのもの」、「実体」そのもの、「知恵」そのものでないなら、観念論者と呼ばれる幻を見る者にしたがって、人間は何ものでもなく、したがって、あるいは無、あるいは存在するものの単なる観念となってしまうからです。
[3]著作『神の愛と知恵』の中で示されているものから、神の本質は愛と知恵であること(28-39番)、神的な愛と神的な知恵は実体そのものと形そのものであること、本質と唯一のものであること(40-46番)、神は全世界とそのすべてのものをご自分そのものから創造され、無からは創造されないこと(282-284番)が明らかです。
ここから、すべての被造物は、そして特に愛と知恵が中にある人間は、何らかのものであって、存在するものの単なる観念ではないことがいえます。
なぜなら、神が「無限なる者」でないなら、有限は存在せず、なおまた「無限なもの」が「すべてのもの」でないなら、何らかのものは存在せず、また、神がご自分そのものからすべてのものを創造されないなら、何も決して存在しないからです。
一言でいえば、「私たちは神が存在するので存在する」のです。

神の摂理

046◀︎目次▶︎048

47 さて、神の摂理について扱われているので、またここで、すべてのものの中に生じている無限なものと永遠なものに目を向けているので、ある種の順序でないなら、このことは明瞭に伝えられることができません。それゆえ、これが順序です――

(1)本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」は、神性と同一である。
(2)本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」は、有限なものの中にそれ自体から無限なもの〔と永遠なもの〕に目を向けることしかできない。
(3)すべてのものの中で生ずる神の摂理は、特に人類の救いの中で、本質的に無限なものと永遠なものに目を向ける。
(4)「無限なる者」と「永遠なる者」の映像は、人類の救いから、天使の天界の中に存在する。
(5)天使の天界の形成の中で、主の前にその方の映像である一人の人間であるように、「無限なもの」と「永遠なもの」に目を向けることが、神の摂理の最内部のものである。

神の摂理

047◀︎目次▶︎049

48 (1)本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」は、神性と同一である
このことは、著作『神の愛と知恵』の中の多くの箇所で示されているものから明らかにすることができます。
本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」は、天使の観念からのものです。天使は「無限なもの」によって神的なエッセ以外に、そして「永遠なもの」によって神的なエキシステレ以外に何も理解しません。
しかし、本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」が神性であることは、人間によって見られることができ、また見られることができません。「無限なもの」について空間からでなく、そして「永遠なものについて時間からでなく考える者により見られることができます。しかし、無限なものと永遠なものについて空間と時間から考える者により見られることができません。
このように、高揚された者、すなわち、理性的なものの中で内的に考える者により見られることができます。そして、低い者、すなわち、外的に考える者により見られることができません。
[2]空間の無限なものは存在することができないことを、したがって、時間の無限なものを、それから永遠なものもまた存在することができないことを考える者により見られることができます。なぜなら、無限であるものは境界、最初と最後、すなわち、限界がないからです。
さらにまた、それ自体から「無限なもの」は存在することができない、と考えます。それ自体から限界と始まりを、あるいはそのもととなる最初のものを仮定するからです。その結果として、それ自体からの「無限なもの」と「永遠なもの」を言うことは空虚です、それはそれ自体からのエッセを言うようなものであるので、矛盾です、なぜなら、それ自体からの「無限なもの」は、「無限なもの」からの「無限なもの」であり、またそれ自体からのエッセはエッセからのエッセであるからです。そして、その「無限なもの」とエッセは「無限なもの」と同じものであるかあるいは有限なものです。
理性的な者の中で内的に見られることができるこれらと類似のものから、本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」があり、両者はすべてのもののもとである神性であることが明らかです。

神の摂理

048◀︎目次▶︎050

49 私は、多くの者が、「ある者が内的に、自分自身の理性的なものの中で、何らかのものを空間と時間なしに、またそれが存在するだけでなく、しかしまたすべてであることを、またすべてのもとそのものであることを、どのように理解することができるのか?」とつぶやくことを知っています。
しかし、愛または何らかのその情愛が、または知恵または何らかのその知覚があるかどうか、それどころか思考が空間の中と時間の中にあるかどうか、内的に考えなさい。するとあなたは存在しないことを認めるでしょう。
神性が愛そのものと知恵そのものであるので、空間の中と時間の中に、神性の観念を、したがって「無限なもの」の観念もまた抱くことができないことがいえます。
例えば、思考が時間と空間の中にあるかどうか熟考し、十ないし十二時間の時間の経過を仮定してみなさい、〔すると〕このことははっきりと知覚されます。この時間の間隔は一時間または二時間として見られることができませんか?そして一日または二日としても見られることができませんか?
情愛の状態にしたがって見られ、その情愛から思考があります――もし情愛が喜ばしいものであるなら、その情愛の中で思考の時間が十ないし十二時間であるとは考えられません、ほとんど一または二時間です。これに反して、もし情愛が嘆かわしいものであるなら、その情愛の中で〔ずっと長い〕時間に思えます。
このことから、時間は情愛の状態にしたがった単なる外観であり、その情愛から思考があることが明らかです。
思考の中での距離の間隔も、あなたが歩くにしろ、あるいは旅行するにしろ、同様です。

神の摂理

049◀︎目次▶︎051

50 天使と霊たちは愛のものである情愛であり、そしてここからの思考であるので、それゆえ、彼らは空間と時間の中にいないで、単にそれらの外観の中にいます。
彼らに空間と時間の外観は情愛とそこからの思考の状態にしたがっています――それゆえ、だれかが情愛から他の者について、意図をもって彼を見よう、または彼と話そう、と考えている時、実際に現在が引き起こされます。
[2]ここから、どの人間のもとにも、彼と似た情愛の中にいる霊たちが現在します。悪い霊は似た悪の情愛の中に、そして善い霊は似た善の情愛の中にいます――彼らはだれかが社会に囲まれるように、それほどに現在します。
その理由は、情愛とそこからの思考は空間と時間の中に存在せず、そして霊と天使たちは情愛とそこからの思考であるので、空間と時間はその現在に何もなさないからです。
[3]このようであることを、生き生きした多年の経験から、また次のことからも知ることが与えられました。私は、死後の多くの者と、ヨーロッパの中のいろいろな王国の中の者とも、アジアやアフリカの中のいろいろな王国の中の者とも語っており、すべての者は私の近くにいました。それゆえ、もし彼らに空間と時間があるなら、旅行と旅行の時間が介在するでしょう。
[4]それどころか、人間はだれもこのことを本能的に自分自身の中で、または自分の心の中で知っていることが、次のことから私に証明されました。遠く離れた王国の中のアジアやアフリカまたはヨーロッパで死んだある者と私が話したことを語る時、だれも空間の何らかの距離について考えなかったことです。例として、カルヴィン・ルター・メランヒトンの場合、またはある王・統治者・祭司の場合です。そこに生きていた者とどのように会話できたのか、地と海が介在するのに、どのように彼のところ来ることと居合わせることができるのか、だれの思いの中にも起こらなかったのです。
このことからもまた私に、霊界の中にいる者について、だれも空間と時間から考えないことが明らかとなりました。
それでもなお、彼らに空間と時間の外観があることは著作『天界と地獄』を見てください(162-169番191-199番)。

神の摂理

050◀︎目次▶︎052

51 これらから今や、「無限なる者」そして「永遠なる者」について、そのように主について、空間と時間なしに考えなくてはならないこと、考えられることができること、なおまた内的に理性の中で考える者により考えられること、その時、「無限なもの」そして「永遠なもの」は神性と同一であることを明らかにすることができます。
このように天使と霊たちは考えています。
空間と時間から切り離された思考から、神的な遍在と神的な全能が、なおまた永遠からの神性が、完全にその観念に空間と時間が付着していない思考から理解されます。
これらから、神について永遠から考えることはできますが、自然について永遠から考えることは決してできないことが明らかです。したがって、神による全世界の創造については考えられることができますが、自然の固有のもの(特性)は空間と時間であり、神性にはそれらがないのでので、自然からの創造についてはまったく何も考えることができなくなります。
神性が空間と時間なしに存在することは、著作『神の愛と知恵』を見てください(7-10番、69-72番、73-76番、また他の箇所に)。

神の摂理

051◀︎目次▶︎053

52 (2)本質的に「無限なもの」と「永遠なもの」は、有限なものの中にそれ自体から無限なものと永遠なものに目を向けることしかできない
本質的に「無限なもの」そして「永遠なもの」によって、直前の節の中に示されているように、神性そのものが意味され、有限なものによってその方により創造されたすべてのもの、そして、特に、人間、霊、天使たちが意味されます。また、それ自体からの無限なものそして永遠なものに目を向けることによって、神性に、すなわち、人間が鏡の中の自分自身の像を眺めるように、それら〔無限なものと永遠なもの〕の中のそれ自体に目を向けることが意味されます――そのようであることは、著作『神の愛と知恵』の中で、特に、そこに論証されている多くのものによって示されています。創造された全世界の中に人間の像が、また、無限なものそして永遠なものの像が(317、318番)、このように、創造者なる神の像、すなわち、永遠からの主の像があることです。
しかし、本質的な神性は主の中にあること、それでも、それ自体からの神性は創造されたものの中の主からの神性であることを知らなければなりません。

神の摂理

052◀︎目次▶︎054

53 しかし、このことはより十分に理解されるために、説明しなければなりません。
神性は神性以外に目を向けることができません。神性自体から創造されたもの以外の他のところに目を向けることができません。
このようであることは、だれも、本質的に自分自身から以外に、他の者に目を向けることができないことから明らかです。他の者を愛する者は、本質的に自分自身の愛から彼に目を向け、賢明である者は、本質的に自分自身の知恵から他の者に目を向けます。
確かに、彼を愛するか、愛さないことができます、さらに、他の者が賢明であるか、賢明でないか見ることができます。しかし、このことを自分自身の中の愛と知恵から見ます。それゆえ、自分自身が他の者を愛するように彼が自分を愛すれば愛するほど、あるいは他の者が自分自身のように賢明であればあるほど、それだけ自分を彼に結合させます、このように一つとなるからです。
[2]本質的に神性も同様です。本質的に神性は、人間から、霊そして天使たちのように他の者から、それ自体に目を向けることができないからです。なぜなら、神性それ自体からのものは彼らに何もないからです。神性が何もない他の者から神性に目を向けることは、神性がないものから神性に目を向けることになってしまい、これは可能ではありません。
ここから、主は、すべてのものが主に関係するように、彼らからでなく、しかし、主から、人間・霊・天使たちと結合しています。
なぜなら、ある者にあるすべての善とすべての真理は、彼からでなく、主からあり、それどころか、主からでないなら、決して主の名前を、またはイエスとキリストそのものの名前を言うことができないことがよく知られているからです。
[3]そこでここから、神性と同一である「無限なもの」と「永遠なもの」は、有限なものの中ですべての無限なものに目を向けること、またそれらのもとの知恵と愛の受け入れの段階にしたがってそれ自体をそれらに結合することがいえます。
一言でいえば、主はご自分のもの以外の中に人間と天使のもとに住まいを持ち、住むこと、また彼らのプロプリウムは悪であるので、この中に住むことができないこと、また善であるにしても、それでも有限であり、本質的にまたそれ自体から「無限なもの」を収容できるものではないことがいえます。
これらから、有限なものが「無限なもの」に目を向けることは決して可能ではなく、しかし、「無限なる者」が有限のものの中でそれ自体から「無限なもの」に目を向けることは可能であることが明らかです。

神の摂理

053◀︎目次▶︎055

54 無限なものと有限なものに比は存在しないので、また有限なものは無限なものを収容できるものでないので、「無限なもの」は有限なものに結合されることができないように見えます。しかしそれでも、結合は存在します。「無限なる者」がその方自身から(著作『神の愛と知恵』282-284番の中に示されていることにしたがって)すべてのものを創造されるからであり、また有限なものの中の「無限なる者」はそれ自体から無限であるもの以外に何らかのものに目を向けることができないからでもあり、このことはそれらの中のように有限なものに見られることができます。このように有限なものと無限なものの比は存在します、しかし、無限なものにより有限なものの中にです。そしてまた、このように有限なものは無限なものを収容できるものです。それは本質的に有限なものでなく、本質的であるかのように、それ自体から無限なものによってその有限なものの中にです。
しかし、これらについて多くのことは今から次のものの中で述べます。

神の摂理

054◀︎目次▶︎056

55 (3)すべてのものの中で生ずる神の摂理は、特に人類の救いの中で、本質的に無限なものと永遠なものに目を向ける
本質的に「無限なもの」そして「永遠なもの」は、神性そのもの、すなわち、ご自分の中の主です。しかし、それ自体から「無限なもの」そして「永遠なもの」は、発出する神性、すなわち、ご自分からの創造された他のものの中のもの、このように人間の中のもの、天使の中のものです。この神性は神的な摂理と同一です。なぜなら、主はご自分からの神性によって、創造されたすべてのものが秩序の中に、その中で、またその中へ存続するように配慮されるからです――発出する神性はこのことを働くので、そのすべてのものが神的な摂理であることがいえます。

神の摂理

055◀︎目次▶︎057

56 神的な摂理はすべてのものの中に、それ自体から無限なものそして永遠なものに目を向けることは、すべての創造されたものは「最初なる者」からであること、その者は「無限なる者」と「永遠なる者」であり、最後のものへ、また最後のものから「最初なる者」へ進み、それからすべてものが生ずることから明らかにすることができます(例えば、著作『神の愛と知恵』の「全世界の創造」について扱われている「部」〔第四部〕に示されています)。また、すべての進展の中に「最初なる者」があり、内部でそれからすべてのものが生ずるので、発出する神性、すなわち、神的な摂理は、すべてのものの中で、無限と永遠の何らかの映像を生ずるものに目を向けるといえます――これはすべてのものに目を向けます、しかし、知覚にあるものの中では明白であり、あるものの中では明白ではありません。
知覚に明白であるものは、すべての変化の中に、すべての結実と増加の中にその映像を示します。
[2]すべての変化の中の無限なものと永遠なものの映像は、何らかの他のものと同一のものは存在しないこと、永遠に存在することができないことの中に見られます。
このことは、最初の創造から人間の顔の中に、目に明らかです。それゆえ、彼らのアニムスからもまた明らかであり、それらの象徴が顔です。またさらに、情愛、知覚と思考から、なぜなら、これらからアニムスがあるからです。
ここから、全天界の中に同一の二人の天使は、または二人の霊は存在しないこと、それどころか、永遠に存在することもできません。
自然界と同じく霊界の両方の世界の中のすべての目に見える対象でも同様です。
これらから、変化の中に無限と永遠があることを明らかにすることができます。
[3]すべての結実と増加の中の無限なものと永遠なものの映像は、植物界の中の種に植え付けられた結実から、また動物界の中の、特に魚の部類の生殖から明らかです。もし能力にしたがって実が結ばれ、増されるなら、一世紀の内に地球の全空間を、それどころか全宇宙の全空間を満たします――そのことから、その能力の中にそれ自身の繁殖の努力が無限に隠れていることが明らかです。
結実と増加は創造の始めからあり、永遠にあるので、それ自体の繁殖の努力もまたあります。

神の摂理

056◀︎目次▶︎058

57 人間の中でも、彼らの愛のものである情愛に関して、知恵のものである知覚に関して同様です。それらの知覚と情愛の変化は無限であり、永遠です。それらの結実と増加も同様であり、霊的です。
人間はだれも他の者と似たような同一であるような情愛と知覚を授けられていませんし、それらが与えられることも永遠にありません――そしてまた際限なく情愛は結実され、知覚は増されることができます。知識が決して汲み尽されないことは、よく知られています。
結実と増加のこの能力は、際限なしに、すなわち、無限なものと永遠なものの中に、人間のもとの自然的なものの中に、霊的な天使たちのもとの霊的なものの中に、天的な天使たちの天的なものの中にあります。
全般的に、情愛・知覚・知識はこのようなものでしかありません、しかしそれでも、それらのものはどんなものでも、最小のものも、個別的にも、そのようなものです。本質的に「無限なる者」そして「永遠なる者」からこのようであるのは、それ自体から無限なものと永遠なものによって存在するようになるからです。
しかし、有限なものは本質的に何らかの神性を持たないので、それゆえ、人間または天使の中に、彼のものであるような何らかのものは最小のものすら決してありません。人間と天使は有限なもの、単なる容器、本質的に死んだものであるからです。神性から発出して接触によって彼に結合している彼の生きているものは、彼に自分のもののように見えるのです。
このようであることは、続きに見られます。

神の摂理

057◀︎目次▶︎059

58 神的な摂理がそれ自体から無限なものと永遠なものに、特に人類の救いの中に目を向けることは、前の27-45番に示されているように、神的な摂理の目的が人類からの天界であるからです。それが目的であるので、人間の改心と再生が、このようにその救いがありますが、神的な摂理は特にそのことに目を向けることがいえます、なぜなら、救われた者または再生された者から天界は存在するようになるからです。
人間を再生させることは、彼のもとで善と真理を、すなわち、愛と知恵を、主から発出する神性の中に結合しているように、結合させることであるので、それゆえ、神的な摂理は、このことを特に人類の救いの中に眺めます。「無限なる者」そして「永遠なる者」の映像は、人間のもとの善と真理の結婚の中以外の他のところにありません。
発出する神性がこれ〔結婚〕を人類の中で行なうことは、聖霊と呼ばれる発出する神性に満たされて預言した者たちから、また照らされて天界の光の中に神的な真理を見る者たちから、よく知られており、それらのことについては、みことばの中にあります。流入と結合の現存を感覚で知覚している天使の中では特にそうです。しかし、この天使はその結合が接合と呼ばれることのできる以外の他のものではないことも認めています。

神の摂理

058◀︎目次▶︎060

59 神的な摂理が人間のもののすべてのものの進展の中で彼の永遠の状態を眺めることはまだよく知られていません。というのは、神性は「無限なもの」そして「永遠なもの」であり、そして「無限なもの」と「永遠なもの」は、すなわち、神性は時間の中に存在しないので、何らかのものを見ることはできず、そこからすべての未来(のもの)は現在(のもの)であるからです。神性はそのようなものであるので、生ずるすべてと個々のものの中に、永遠があるといえます。
しかし、時間と空間から考える者は、時間を愛するだけでなく、世の中の現在(するもの)からもまた考え、天界の中に現在(するもの)から考えないので、このことをほとんど知覚しません。このことは彼らに、地の果てのものかのように欠けています――しかし、神性の中にいる者たちは主からであるので、現在(するもの)から考える時もまた、〔次のように〕つぶやいて、永遠から考えます、「永遠でないものとは何か?」、「一時的なものは相対的に無のようなものであり、そしてまたそれが終わるときは無とならないか?」、「永遠なものは異なる、これはまさに〝存在する〟、そのエッセ(存在)は終わらないからである」。
このように考えることは、現在と同時に永遠から考えることです。人間がこのように考え、同時にこのように生きる時、彼らのもとの発出する神性、すなわち、神的な摂理は、すべての進展の中で、天界の中の彼の永遠のいのち(生活)の状態を眺め、またそれへと導いています。
神性は、悪い者も善い者も、すべての人間の中で永遠を眺めていることは続きに見られます。

神の摂理

059◀︎目次▶︎061

60 (4)「無限なる者」と「永遠なる者」の映像が天使の天界に存在する
天使の天界もまた知っておくべき必要があるものです。というのは、宗教をもつだれもが、それを考え、そこへ行くことを欲するからです。
しかし、天界は、そこへの道を知り、その道を歩く者以外の者に与えられません。というのは、天界を構成する者がどのような者であるか、また自分自身に天使的なものを持って、世からやって来るのでなければ、だれも天使にならない、すなわち、天界に行かないという知識から、ある程度、この道について知ることができるから。天使的なものには、その歩みから道の知識が内在し、その知識によって道を歩きます。
霊界には、実際に、天界のそれぞれの社会へ、また地獄のそれぞれの社会へ伸びている道が存在し、だれもが自分自身からのように自分の道を見つけます。
そこにそれぞれの者の愛のために道があるので見つけます。その愛が道を開き、仲間へと導き、だれも自分の愛に属さない他の道は見ません。
このことから、天使たちは天界の愛以外のものではないことが明らかです、なぜなら、そうでなかったら、天界へ伸びる道を見なかったからです。
しかし、このことは天界についての記述からさらに明らかにすることができます。

神の摂理

060◀︎目次▶︎062

61 すべての人間の霊は情愛とそこからの思考であり、すべての情愛は愛のものであり、思考は理解力のものであるので、すべての愛は自分自身の愛であり、そこからの自分自身の理解力です――その理由は、人間は自分の霊だけから考えるとき、家で自分自身で熟考するようになるとき、彼の愛のものである情愛から考えるからです。
ここから、人間は死後に霊となるとき、自分の愛の情愛であり、また彼の情愛以外のものである他の思考はないことを明らかにすることができます。
彼に愛が悪のものであったなら、悪の情愛があり、それは欲望です。彼に愛が善のものであったなら、善の情愛があります――それぞれの者に、悪を罪として避けるかのような善の情愛があります。それぞれの者に、悪をこのように避けないかのような悪の情愛があります。
それで、すべての霊と天使たちは情愛であるので、天使の全天界は、すべての情愛の善の愛でしかなく、ここからすべての知覚の真理の知恵であることが明らかです。
すべての善と真理は主からであり、主は愛そのものと知恵そのものであられるので、天使の天界はその方の映像であることがいえます。
神的な愛と神的な知恵はその形の中で「人間」であるので、天使の天界はそのような形以外のものではありえないこともいえます。
しかし、この多くのものについて続く章の中で述べます。

神の摂理

061◀︎目次▶︎063

62 天使の天界が「無限なる者」そして「永遠なる者」の映像であることは、主の映像であり、そして主は「無限なる者」と「永遠なる者」であるからです。
「無限なる者」そして「永遠なる者」の映像は、天界の愛の全般的な情愛と同数である天使からの天界が、またそれぞれの社会の中のそれぞれの天使は区別された自分自身の情愛であり、それだけ多くの社会を構成する天使が無数に存在します――全情愛から全般的にまた個別的に「天界の形」が、それは主の前に一人の人間と〔まったく〕異ならないようにも一つのように存在します。永遠の中のこの「形」は数の多いことにしたがって永遠に完成されることの中に見られます、なぜなら、神的な愛の形に多くの者が、入れば入るほど、結合は完全になるからです。
これらから、「無限なる者」そして「永遠なる者」は天使の天界の中に現われることがはっきりと明らかです。

神の摂理

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63 簡潔なこの記述によって与えられた天界の知識によって、善の愛のものである情愛が人間のもとに天界をつくることが明らかです。
しかし、だれが今日、このことを知っていますか?それどころか、何が善の愛の情愛かだれが知っていますか?なおまた、善の愛の情愛が数えきれないものであること、それどころか、無限であることを知っていますか?なぜなら、言われたように、それぞれの天使は明確に自分自身の情愛であり、天界の「形」はそこの神的な愛のすべての情愛であるからです。
すべての情愛がこの形の中に結合することは、「愛そのもの」と同時に「知恵そのもの」である者、そして「無限なる者」と「永遠なる者」と一緒でなければできません。なぜなら、すべての形の中に無限なものと永遠なものが、結合の中に無限なものそして永続の中に永遠なものがあるからです。その形に無限なものそして永遠なものが取り除かれるなら、たちまち消滅します。
他のだれが情愛を形の中に結合することができますか?それどころか、他のだれがその情愛の一つを結合することができますか?
というのは、すべての普遍的な観念からでなければ、すべての普遍的なものがそれぞれの個々の観念からでなければ、その情愛の一つは結合されることができないからです。
その情愛の形を作り上げる無数のものがあり、また毎年、その形に入るもの、また永遠なものの中に入る無数のものがあります。
すべての幼児が入り、そして善の愛の情愛のものと同数のそれだけ多くのおとなが入ります。
これらから再び、「無限なる者」そして「永遠なる者」の映像が天使の天界の中に見られることができます。

神の摂理

063◀︎目次▶︎065

64 (5)天使の天界の形成の中で、主の前にその方の映像である一人の人間であるように、「無限なもの」と「永遠なもの」に目を向けることが、神の摂理の最内部のものである
全天界がまた同様に天界のすべての社会が主の前に一人の「人間」のようであることは、それぞれの天使は完全な形の中の人間であること、このことは神が永遠からの主であられ、「人間」であられる創造者であるからであることは、著作『天界と地獄』を見てください(59-86番)
なおまた、ここから天界のすべてのものは人間のすべてのものと対応があります(87-102番)
全天界が一人の「人間」のようであることは、全天界はだれによっても見られることができないので、私にも見られません、主おひとりにより見られます。しかし、天界の大小の社会全体が一人の人間のように現われたことは、何度か見られました。またその時、「統一体としての天界である最大の社会が同様に見られる、しかし主の前であって、また、それぞれの天使がまったく人間の形をしていることがその理由である」と言われました。

神の摂理

064◀︎目次▶︎066

65 全天界は主の視野の中で一人の「人間」のようであるので、それゆえ、天界は、人間のもとの器官・内臓・四肢と同数のそれだけ多くの全般的な社会に分かれています――それぞれの全般的な社会は内臓と器官のそれぞれの大きな部分と同数のそれだけ多くの小さい全般的なもの、すなわち、特殊なものに分かれています――このことから、天界がどんなものであるか明らかです。
さて、主は「人間そのもの」であられ、また天界はその方の映像であられるので、それゆえ、天界の中にいることは、主の中にいると言われます。主が「人間そのもの」であられることは、著作『神の愛と知恵』を見てください(11-13番、285-289番)。

神の摂理

065◀︎目次▶︎067

66 これらから、天使のものと呼ばれることができる秘義がある程度見られることができます、〔すなわち〕それぞれの善のまた同時に真理の情愛がその人間の形の中にあることです。なぜなら、主から発出するどんなものでも神的な愛そのものから善の情愛を、神的な知恵そのものから真理の情愛を得るからです。
主から発出する真理の情愛は、天使と人間の中の知覚とそこからの思考のように見えます。その理由は知覚と思考に注意し、そのもととなる情愛にほとんど留意しないからですが、それでも、それらは主から真理の情愛と一つのものとして発出します。

神の摂理

066◀︎目次▶︎068

67 さて、人間は創造から最小の形の中の天界であり、ここから主の映像であり、天使と同数のそれだけ多くの情愛から天界が構成され、それぞれの情愛はその形をした人間であるので、人間の形をした天界をつくるような、ここから主の映像が生ずるような、絶え間ない神的な摂理があります。これは善と真理の情愛でつくるので、その情愛になります――そこでこのことは絶え間ない神的な摂理です。
けれども、天界の中のここまたはそこにあるように、すなわち、神的な天界の「人間」の中に、こうして主の中にあるようにすることは、その摂理の最内部のものです。
しかし、このことは主により天界に導かれることのできる者たちに生じます。
また、主はそのことを先見されるので、さらにまた〔人間が〕このようになるよう絶えず備えられています。というのは、すべての者が、このように天界の中に用意された自分自身の場所へ導かれるようにされるからです。

神の摂理

067◀︎目次▶︎069

68 天界は、前に言われたように、人間の中の器官・内臓・四肢と同数の社会に分かれています。それらの中で、ある部分が自分自身の場所以外の他の場所の中にあることはできません。
そこで、天使が神的な天界の「人間」の中のこのような一部分であり、天使は世で人間であった者以外の他の者ではなかったとき、天界へ導かれるように働きかけられる者は、主によりこのような善と真理の情愛によって生じ、対応する自分の場所へと準備されます。
この場所の中にもまた、それぞれの人間天使は世から去った後、割り当てられます。
これは天界について神的な摂理の最内部のものです。

神の摂理

068◀︎目次▶︎070

69 けれども、自分自身を天界へ導かず、また割り当てられるよう働きかけられない人間は、地獄の中に自分の場所へと準備されます。
というのは、人間は自分自身から地獄の最低のものへ向かいますが、しかし、主により絶えず導き出されるから――導き出されることのできない者は、そこのある場所へと準備され、さらにまた世から自分の去った後、その者に直ちに割り当てられます。そこにあるこの場所は天界の中のある場所に対立しています、なぜなら、地獄は天界に対して対立しているからです。
それゆえ、人間天使が自分の善と真理の情愛にしたがって天界の中に場所を定められるように、人間悪魔は自分の悪と虚偽の情愛にしたがって地獄の中に定められます――というのは、二つの対立するものは、同様の位置の中に秩序づけられて、相互に対して、結びつきの中に存続するからです。
これは地獄について神的な摂理の最内部のものです。

神の摂理

069◀︎目次▶︎071

(4)神的な摂理の法則があり、それらは人間に知られていない

70 神的な摂理があることは、よく知られています。しかし、それがどんなものであるかは、よく知られていません。
神的な真理がどんなものであるかよく知られていないのは、その法則がこれまで天使のもとの知恵の中に深く隠されていた秘義であるからです、しかし、今や、これは主のものであるものが主に帰せられ、人間のものでないものが何らかの人間に帰せられないために、啓示されなければならないものです――というのは、世の中の多くの者は、自分自身に自分のすべての思慮分別もまた帰し、帰することのできないものを〝偶然〟や〝偶発的なもの〟と呼び、〔そこに〕人間の思慮分別は何もなく、〝偶然〟や〝偶発的なもの〟は空虚な言葉であることを知らないからです。
[2]神的な摂理の法則が、「これまで天使たちのもとの知恵の中に深く隠されていた秘義である」と言われています――その理由は、キリスト教世界の中で神性への理解力が宗教から閉ざされていたからであり、ここから、人間が欲しなかったので、またはできなかったので欲することができなかったように、このことの中で、それは単に存在すること以外に神的な摂理について何らかのものを理解することができなかったからです。このように鈍いものまた抵抗するものとなり、存在するかあるいは存在しないか、例えば、単なる普遍的なものであるかあるいはまた特殊なものであるか、といったように推論するからであり――神性への理解力は宗教から閉ざされており、超えて進むことができませんでした。
[3]しかし、人間は自分自身から本質的に善である善を行なうことができないこと、自分自身から本質的に真理である真理を考えることもできず、これは神的な摂理と一つであることが教会の中で認められているので、それゆえ、ある信仰が他の信仰に依存しているとき、一つが肯定され、他が否定されないように、こうして両方が倒れないように、何が神的な摂理であるか、確かに啓示されなければなりません。
しかし、このことはその法則が明らかにされないなら、啓示されることができません。というのは、その法則がどんなものか知ることを与え、〔それを知った〕その者だけが、その時、それが〔どんなものか〕見て、それ〔がどんなものか〕を認めることができるからです。
これが、これまで天使のもとの知恵の中に深く隠された神的な摂理の法則が啓示されることの理由です。

神の摂理

070◀︎目次▶︎072

(4–1)神的な摂理の法則は、人間が自由から理性にしたがって行動することである

71 人間に、好むように考え、意志する自由があります、しかし、考えるものを何でも話す自由はなく、意志するものを何でも行なう自由もないことは、よく知られています――それゆえ、ここに意味される自由は、〔霊的な自由と自然的な自由が〕一つになっていない時の自然的な自由ではなく、霊的な自由です。考えることと意志することは霊的なものです、しかし、話すことと行なうことは自然的なものであるからです。
人間のもとでもまたはっきりと区別されます。なぜなら、人間は話さないものを考え、行なわないものを意志することができるからです。そのことから、人間のもとで霊的なものと自然的なものが区別されていることが明らかです。それゆえ、人間は決断によってでないなら一つのものからもう一つのものの中に移ることはできません。その決断は、前もってじゃま物が除かれ、開かれている扉に例えられることができます。
しかし、この扉は、理性から王国の市民の法律や社会の道徳にしたがって考え、意志する者のもとに開かれているような扉です。というのは、これらの者は考えるものを話し、意志するものを行なうから――しかし、この扉は、それらの法律に反して考え、意志する者のもとで閉ざされているようになっています。
自分の意志とそこからの行為に注意する者は、ときどき、またしばしば、ある会話の中に、ある行動の中にこのような決断が間に存在することに気づきます。
これらをあらかじめ述べておくのは、自由から理性にしたがって行動することによって、自由に考え、意志すること、またここから理性にしたがって自由に話し、行なうことが意味されることが知られるためです。

神の摂理

071◀︎目次▶︎073

72 しかし、この法則が神的な摂理の法則でありえることを、特に、このように人間が自由から悪と虚偽もまた考え、それでもなお神的な摂理は善と真理を絶えず考え、意志するように人間を導くことを、わずかな者しか知っていないので、それゆえ、そのことが知覚されるように、明確に進まなければなりません。それには次の順序です――

(1)人間に理性と自由、すなわち、推理力と自主性がある、また二つのそれらの能力が主から人間のもとにある。
(2)どんなものでも人間が自由から行なうものは、理性のものであろうとあるいは理性のものでなかろうと、彼の理性にしたがっているかぎり、それは彼のもののように見える。
(3)どんなものでも人間が自由から自分の思考にしたがって行なうものは、彼に、彼のものであるかのように自分のものとされ、存続する。
(4)人間はそれらの二つの能力によって、主により改心し、再生する。それらがなくて改心し、再生することはできない。
(5)人間はそれらの二つの能力によって、考え、行なうすべての善と真理が主からであり、自分自身からではない、とそれらによって認めることができればできるほど、それだけ改心し、再生することができる。
(6)人間との主の結合と、主との人間の相互の結合は、それらの二つの能力によって行なわれる。
(7) 主はそれらの二つの能力を人間のもとで損なわれず、そしてすべてのご自分の神的な摂理の進行の中で聖なるもののように守られる。
(8) それゆえ、人間が自由から理性にしたがって行動するために、神的な摂理がある。

神の摂理

072◀︎目次▶︎074

73(1)人間に理性と自由、すなわち、推理力と自主性がある、また二つのそれらの能力が主から人間のもとにある
人間には、推理力である理解する能力が、そして理解したことを考え、欲し、話す、行なう能力があり、それは自主性です。また二つのそれらの能力が主から人間のもとにあることは、著作『神の愛と知恵』(264-270番)、また前の43、44番に、扱われています。
しかし、それらの二つのその能力について考えるとき、多くの疑いが生じうるので、私はこの光の中で自由について、人間のもとで理性にしたがって働く何らかのものだけを述べることにします。
[2]しかし、最初に、すべての自由は愛のものであり、これほどに愛と自由は一つであること、愛は人間のいのちであるので、自由もまたそのいのちのすべてのものであることを知らなければなりません。というのは、人間にある快さは、彼の愛からであり、別の場所からの何らかの快さから存在せず、また愛の快さからの行動することは自由から行動することであるからです。なぜなら、快さは川のように人間を導き、その水流にしたがってその快さを自分自身からもたらすからです。
さて、愛には、あるものは一致し、あるものは一致しない多くのものがあるので、自由も同様に多くのものがあるといえます――しかし、全般的に自然的・理性的・霊的な三つの自由が存在します。
[3]自然的な自由は、人間のそれぞれに生まれながらにあります。この自然的な自由から人間は自分自身と世以外に何も愛しません。彼の最初のいのちは他のものではありません。
すべての悪は二つのそれらの悪から存在するようになるので、ここから悪もまた愛のものになり、悪を考えることと意志することは、彼の自然的な自由であり、それらの悪を自分自身のもとで推論によって確信したとき、それらをその理性にしたがって自由から行動する、といえます――このように行なうことは、自主性と呼ばれる能力からです。その悪を確信することは推理力と呼ばれる能力からです。
[4]例えば――
愛から、姦淫し、だまし、冒涜し、復讐することを欲することがあり、人間はその愛の中に生まれています。これらの悪を自分自身のもとに確信し、そのことによってそれらを許されるとする時、それらの愛の快さからそれらを自由にあたかも理性にしたがうかのように考え、意志し、市民の法律で抑制されないかぎり、話し、行ないます。
人間にそのように行動することが許されているのは、自由が、すなわち、彼に自主性があるからであり、これは主の神的な摂理からです。
人間は、遺伝から、それで本性から、この自由の中にいます。この自由の中にいる者は、そのことを自分自身のもとで自分と世の愛の快さから推論によって確信します。
[5]理性的な自由は、名誉または利益のための名声への愛からです。
その愛の快さは外的な形の中で道徳的な人間のように見られることです。またこの名声を愛するので、だまさず、姦淫せず、復讐せず、冒涜しません。このことを自分の理性で行なうので、自分の理性にしたがって自由からも、誠実、公正、貞潔、好意の行動をします。それどころか、理性からそれらのために、うまく話すことができます。
しかし、もし彼の理性的な自由が単に自然的で同時に霊的でないなら、その自由は単に外的なものであって、内的な自由ではありません。なぜなら、内的にそれらの善を愛さないにもかかわらず、すでに述べられたように、単に名声のために外的に愛するからです。それゆえ、行なう善は、本質的に善ではありません。
さらにまた、公共の善のために行なわなければならないと言われることができます。しかし、このことを公共の善の愛からは言わないで、名誉のまたは利益の自分の愛から言います。それゆえ、彼の自由は公共の善の愛から何も、理性も、得ていません、それらが愛に同意するからです――それゆえ、この理性的な愛は内的に自然的な自由です。
この自由もまた主の神的な摂理からそれぞれの者に残されています。
[6]霊的な自由は、永遠のいのちの愛からです。
この愛またその快さの中には、悪を罪であると考え、それゆえ、それを欲せず、同時に主に目を向ける者以外の他の者はやって来ません――人間がこうするとすぐに、彼はその自由の中にいます。なぜなら、だれもさらに内的なまたは上位の彼の愛からであるさらに内的なまたは上位の自由からでないなら、罪であるからと、悪を欲することができず、それゆえ、それを行なうことができないからです。
この自由は最初は自由のように見えません、しかしそれでも、自由です――しかし、その後、見え、その時、自由そのものから善と真理を考え、意志し、話し、行なって、それ自体の理性にしたがって行動します。
この自由は、自然的な自由が減少し、隷属するほど増大し、そしてそれ自体を理性的な自由と結合し、これを清めます。
[7]だれでも永遠のいのち(生活)があることを、いのちの快さと幸福が、永遠のいのちの快さと幸福へと時から時の中で通り抜ける陰のようなものでしかないと考えることを欲するだけで、この自由の中にやって来ることができます。このことを人間は、彼に推理力と自主性があり、可能であるようにと、二つのそれらの能力のもとであられる主が、絶えず与えられるので、欲するなら、考えることができます。

神の摂理

073◀︎目次▶︎075

74(2) どんなものでも人間が自由から行なうものは、理性のものであろうとあるいは理性のものでなかろうと、彼の理性にしたがっているかぎり、それは彼のもののように見える
人間に固有のものである推理力と、自主性が何かは、獣と人間の比較による以外に、はっきりと知られることができません。獣には何らかの推理力または理解する能力も、何らかの自主性または自由に意志する能力もないからです。ここから、獣に理解力と意志はありませんが、しかし、理解力の代わりに知識が、意志の代わりに情愛があり、両方とも自然的なものです。
獣にそれらの二つの能力がないので、それゆえ、思考もありません、しかし、思考の代わりに内なる視覚があり、それは対応によって獣の外なる視覚と一つとなっています。
[2]それぞれの情愛は配偶者のように相手を持っています、自然的な愛の情愛は知識を、霊的な愛の情愛は知性を、天的な愛の情愛は知恵を持っています――なぜなら、情愛は、その仲間がいないなら、配偶者でも何でもないような情愛であるからです。エキシステレ(実在)のないエッセ(存在)のようであり、形のない実体のようであり、それらについて何らかのものが属性づけられることができないからです。
ここから、前の多くのもので示されているように、すべての被造物に何らかものが内在し、善と真理の結婚に関係づけられることができます。
獣の中に情愛と知識の結婚があり、そこの情愛は自然的な善に属し、知識は自然的な真理に属します。
[3]さて、獣のもとの情愛と知識は完全に一つとして働くので、その情愛はその知識の上に高揚されることが、知識も情愛の上に高揚されることができません、もし高揚されるなら、両方とも一緒に高揚されます。獣に何らかの霊的な心はないので、その心の中に、またはその光と熱の中に高揚されることはできません。それゆえ、獣に理解する能力または推理力はなく、自由に意志する能力または自主性もなく、自然的な情愛だけがその知識とともにあります。
獣にある自然的な情愛は、自分自身に食物を与え、住む、子孫を産み、危害を避け、退ける情愛であり、それらが必要とするすべての知識です。
獣のいのちの状態はこのようなものであるので、「このことを私は欲する、また欲さない」、「このことを私は知っている、また知らない」とも、まして「このことを私は理解する、このことを愛する」と考えることもできません、しかし、自分の情愛から推理力と自主性のない知識によって駆り立てられます。
このように駆り立てられることは、自然界からではなく、霊界からです。なぜなら、霊界から分離した自然界の中の何らかのものは存在しないからです。結果を引き起こす原因はすべて霊界からです。
この事柄について何らかのものが以下にもまた見られます(96番)。

神の摂理

074◀︎目次▶︎076

75 人間は異なっていて、彼には自然的な愛の情愛だけでなく、霊的な愛の情愛と天的な愛の情愛もあります。
というのは、著作『神の愛と知恵』第三部の中に示されているように、人間の心は三段階であるから――それゆえ、人間は自然的な知識から霊的な知性の中に、ここから天的な知恵の中に高揚されることができ、そしてこれらの二つのもの、知性と知恵から、主へ目を向け、このようにその方と結合され、そのことによって永遠に生きることができます――しかし、情愛に関するこの高揚は、彼に推理力から理解力の高揚する能力がないなら、そして自主性からそれを意志する能力がないなら、与えられません。
[2]人間はこれらの二つの能力によって自分自身の内部にそれらについて考えることができ、それらを自分自身の外側に自分の感覚で知覚し、そしてまた、下方で考えるものについて上方で考えることができます。というのは、だれもが、「私はこのことを考えた、私はこのことを考える」、さらに「私はこのことを欲した、私はこのことを欲する」、さらにまた「私はこのようであることを理解する」、「私はこのようであるので愛する」などと言うことができるからです。ここから、人間が上の思考からもまた考え、これを自分の下のもののように見ることが明らかです――このことは推理力と自主性から人間にあり、推理力から上方から考えることが、また自主性と情愛から、そのように考えることを欲することができます――なぜなら、彼にこのように考える自主性がないなら、彼に意志はなく、ここから思考もないからです。
[3]その理由で、世とその性質に属するもの以外に何らかのものを、また何が道徳的で霊的な善と真理であるか理解することを欲しない者は、知識から知性へ、まして知恵の中に高揚されることができません、なぜなら、それらの能力を閉じ込めるからです。それゆえ、植え付けられた推理力と自主性から理解することができる以上の人間に自分自身を、欲しても、そしてまた欲することができても、しません。
これら二つの能力から人間に考えることと思考から話すことができます――残りの〔能力〕中で、〔人間は〕人間ではなく、獣であり、ある者は彼らの能力の悪用から獣よりもさらに悪いものとなっています。

神の摂理

075◀︎目次▶︎077

76 人間は自分のものであることの外観なしに、だれでもおおわれていない推理力から、何らかのものを知ろうとする情愛の中に、何らかのものを理解しようとする情愛の中にいることができないことを見るか、または理解することができます。なぜなら、すべての快さと快楽は、したがって意志のすべてのものは、愛のものである情愛からであるからです。
彼に何らかの情愛の快楽がないなら、だれが、何かを知ろうとすること、理解しようとすることができますか?彼のもののように見えることに働きかけられないなら、だれがその情愛の快楽を持つことができますか?
彼のものが何もなく、すべてのものが他の者のものであるなら、すなわち、だれかが自分の情愛から他の者の心の中に何かを注ぎ込むなら、その他の者に自分自身からかのような、知ろう、理解しようとする情愛が何もないなら、受け入れますか、それどころか、受け入れることができますか?
獣や丸太ん棒と呼ばれるもののようになりませんか?
ここからはっきりと、たとえ人間の知覚するすべてのものが流入し、ここから考え、知り、知覚にしたがって欲し、行なっても、それでもそれが人間のもののように見えるような主の神的な摂理があることを明らかにすることができます。なぜなら、言われているように、そうでなければ人間は何も受けず、したがって、何らかの知性と知恵を授けられることができないからです。
すべての善と真理は、人間のものでなく、主のものであり、それでも自分のもののように人間に見えることがよく知られています。すべての善と真理はこのように見えるので、さらにまた教会と天界の、したがって愛と知恵のすべてのもの、さらに仁愛と信仰のすべてのものはこのように見え、それでもそれらの何も人間にはありません。
彼にそれらを受けることが自分自身からのように見えないなら、それらを主から受けることはだれにもできません。
これらから、この事柄の真理を明らかにすることができます。何でも人間が自由から行なうものは、あるいは理性的なものあるいは理性的でないものも、単に彼の理性にしたがっているなら、それは彼のもののように見えることです。

神の摂理

076◀︎目次▶︎078

77 あれやこれやが公共に役立つ善であること、またあれやこれやが公共に有害な悪であることを、推理力と呼ばれる自分の能力から、だれも理解することができませんか?例えば、公正・誠実・結婚の貞潔は公共に役立つものであること、また不正・不誠実・他の者の妻との淫行は公共に有害なものであり、したがって、これらの悪は本質的に害であり、それらの善は本質的に利益であることです。
そこで、ただ欲するだけで、それらを自分の理性で行なうことをだれができませんか?
彼には推理力があり、自主性があります。このために、それらの悪を自分自身のもとで避ければ避けるほど、それだけ彼の推理力と自主性が現われ、見られ、抑制され、知覚することと可能性が与えれます。このことを行なえば行なうほど、友が友のように、それだけそれらの善を眺めます。
[2]これらからその後、推理力と呼ばれる自分の能力から、悪として罪を、善として仁愛の働きを知覚するだけで、霊界の中で善が公共に役立つもの、悪が有害なものである、と結論することができます。
このこともまた人間は単に欲するだけで、自分の理性で行なうことができます、彼に推理力と自主性があるからです。それらの悪を罪として避ければ避けるほど、このことを行なえば行なうほど、それだけ彼の推理力と自主性が現わされ、見られ、抑制され、知覚することと可能性を与えられ、それだけ仁愛の善を、両方の側の愛から隣人を隣人として眺めます。
[3]さて、主は、受容と結合のために、どんなものでも人間は彼に自分のもののように理性にしたがって自由に行ない、このことは理性そのものにしたがっているように見られることを望まれるので、人間は理性から、自分の永遠の幸福であるので意志し、主の神的な力を懇願して、それを行なうことができる、といえます。

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077◀︎目次▶︎079

78 (3)どんなものでも人間が自由から自分の思考にしたがって行なうものは、彼に、彼のものであるかのように自分のものとされ、存続する
その理由は、人間のプロプリウムは彼の自由と一つとなっているからです。人間のプロプリウムは彼のいのちのものであり、人間がいのちから行なうことを人間は自由から行ないます。さらに、人間のプロプリウムは彼の愛のものです、なぜなら、愛はそれぞれ者のいのちであり、人間は自分のいのちの愛から行なうことを自由から行なうからです。
人間は思考にしたがって自由から行なうことの理由は、ある者のいのちのものまたは愛のものは、これは考えられ、思考で確信され、確信されるとき、思考にしたがって自由からそれを行なうからです。
[2]なぜなら、何でも人間が行なうものを、意志から理解力によって行ない、そして自由は意志のものであり、思考は理解力のものであるからです。
さらにまた、人間は自由から理性に反して、なおまた自由からでなく、理性にしたがって行動することができます。しかし、これらのことは人間に自分のものとされません。単に彼の口と身体のものであり、彼の霊または心のものではありません。しかし、彼の霊と心のものであるものが、さらにまた口と身体のものになる時、それらは人間に自分のものとされます。
このようであることは、多くのものによって明らかにされることができますが、そのことはこの場ではありません。
[3]人間に自分のものとされることによって、彼のいのちに入り、彼のいのちのものになること、したがって彼のプロプリウム(固有のもの)になることが意味されます。
けれども、人間の何らかのプロプリウムであるのではなく、そのように彼に見えることについては続くものの中で見られます。
ここでは、人間が自由から理性にしたがって行動するすべての善は、考え、意志し、話すこと、行なうことの中に、自分のもののように見えるので、彼に自分のもののように専有されることだけを述べておきます。それにもかかわらず、善は人間のものではなく、人間のもとの主のものです(前の76番に見られます)。
けれども、どのように悪が人間に自分のものとされるかは、その章の中に見られます。

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078◀︎目次▶︎080

79 人間が自由から自分の思考にしたがって行なうこともまた残る、と言われます。なぜなら、何であれ人間が自分自身に自分のものとしたものは決して根絶されることができないから、というのは、彼の愛のものと同時に理性のもの、すなわち、彼の意志のものと同時に理解力のもの、またここからいのち(生活)のものとされるからです。
このことは確かに遠ざけられることができます、しかしそれでも、追い出されません。遠ざけられるとき、中心から周辺へのように移され、そこにとどまります――このことが残ることによって意味されます。
[2]例えば――人間が子供時代や青年時代に、ある悪を彼の愛の快さからそれを行なって自分自身に自分のものとしたなら、例えば、だまし、冒涜し、復讐し、淫行したなら、その時、自由から思考にしたがってそれらを行なったので、それらをまた自分自身に自分のものにしたのです。しかし、その後、悔い改めを行ない、それらを避け、それらを退けなければならない罪として眺め、このように自由から理性にしたがってそれらをやめるなら、それらの悪に正反対である善が彼に自分のものとされます。
これらの善はその時、中心を構成し、悪は、それらの反感と離反にしたがって、さらに遠くまたさらに遠くと周辺へ遠ざけられます。
しかしそれでも、それらは吐き出すことができると言われるように追い出されることはできません、それらを遠ざけることによって吐き出されたように見られることもできません。〔このことは〕人間が主により悪から押しとどめられること、善の中に保たれることにより生じます。
すべての遺伝悪が、同様に人間のすべての実際の悪がこのようになります。
[3]私の見た経験によって、このこともまた明らかにされました。天界の中に、主により善の中に保たれているので、自分たちに悪は存在しないと思った者たちがいました。しかし、彼らのプロプリウムであって、その中にいた善を彼らが信じないように、天界から降ろされ、自分自身から悪の中に、しかし主から善の中にいたことを認めるように、自分の悪の中にまで送られ、その認識の後、天界の中に戻されました。
[4]そこで、それらの善は人間に自分のものとされず、人間のもとで相変わらず主のものでしかありません。善が人間に彼のものと見えるように、すなわち、隣人を愛することまたは仁愛を持つことが自分自身からのように人間に見えるように、信じることまたは信仰を持つことが自分からのように、善を行ない、真理を理解すること、このように自分自身からのように賢明であることを、主が与えれば与えるほど、人間はますますこのことを認める、と知りなさい――外観がどんなものであり、どれほど強烈であるか、明らかにされたそれらから見られることができ、人間がその外観の中にいるよう主は望まれます。主はこのことを彼の救いのために望まれます、なぜなら、だれもその外観なしに救われることができないからです。
これらについてもまた、それらは前に示されています(42-45番)。

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079◀︎目次▶︎081

80 単に考えるだけで、それどころか、欲しようと考えても、同時にそれを欲さないなら、さらにまた、機会が与えられる時、それを行なおうとまで欲さないなら、人間に何も自分のものとなりません。
その理由は、人間はそれを行なう時、それを意志から理解力を通して、すなわち意志の情愛から思考の理解力を通して、行なうからです――けれども、著作『神の愛と知恵』第五部の中に数多く示されているように、思考のものだけであるかぎり、自分のものにされることができません。理解力がそれ自体を意志と結合させません、すなわち、理解力の思考が意志の情愛と結合しません、しかし、意志とその情愛がそれら自体を理解力とその思考に結合するからです。
このことが次の主のことばによって意味されます、

口に入るものは、人間を汚しません、しかし(心から)口を通って出るものが、人間を汚します
(マタイ15・11、17、18、19)。

思考は口によって話されるので、「」によって霊的な意味で思考が意味されます。また「」によって、その意味で愛のものである情愛が意味されます――人間が情愛から考え、話すなら、その時、汚れます。
「ルカ福音書」(6・45)の「心」によってもまた、愛のものまたは意志のものである情愛が、また「口」によって理解力のものである思考が意味されます。

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080◀︎目次▶︎082

81 人間が許されると信じる悪は、たとえそれらを行なわなくても、彼に自分のものとされます。なぜなら、意志から思考の中で許されるものは、承諾でもあるからです。
それゆえ、何らかの悪が許されると人間が信じるとき、それに対して内なる束縛を解きます、そしてそれをしようとすることからは、外なる束縛である恐れによってだけ妨げられています。
人間の霊は、その悪に好意を持つので、それゆえ、外なる束縛が取り去られるとき許されることから、それを行ないます。そして、その間は絶えず、自分の霊の中でそれを行ないます。
しかし、このことについては『新しいエルサレムのための生活の教え』を見てください(108-113番)。

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081◀︎目次▶︎083

82 (4)人間はそれらの二つの能力によって、主により改心し、再生する。それらがなくて改心し、再生することはできない
主は教えられています、

人は再び生まれないなら、神の王国を見ることはできません(ヨハネ3:3, 5, 7)。

しかし、再び生まれることまたは再生することが何かは、わずかな者にしか知られていません――その理由は、何が愛と仁愛か、ここから何が信仰か、よく知られていなかったからです。なぜなら、何が愛と仁愛か知らない者は、仁愛と信仰が善と真理のように、また意志のものである情愛と理解力のものである思考のように一つのものとなるので、何が信仰か知ることができません――この結合については著作『神の愛と知恵』(427-431番)を――なおまた『新しいエルサレム〔とその天界〕の教え』(13-24番)を見てください――しかし、前にも見られます(3-20番)。

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082◀︎目次▶︎085

83 再び生まれないなら、だれも神の王国にやって来ることができないことの理由は、人間は両親による遺伝からすべての種類の悪の中に生まれていて、能力によって、その悪の除去によって霊的になることができるとき、また霊的にならないなら、天界の中にやって来ることができないからです。自然的なものから霊的になることは、再び生まれること、すなわち、再生することです。
けれども、どのように人間が再生するか知られるために、次の三つのものが考慮されなければなりません――(罪を宣告されて)有罪の状態である彼の第一の状態がどんなものか、改心の状態である彼の第二の状態がどんなものか、再生の状態である彼の第三の状態がどんなものかです。
[2]人間の有罪の状態である第一の状態は、それぞれの人間に両親による遺伝からです、というのは人間はここから自己愛と世俗愛の中に、泉のようにこれらからすべての種類の愛の中に生まれているからです。それらの愛の快さはそれらから導かれ、快さは、悪の中にいることを知らないようにします。というのは、すべての愛の快さは善のようにしか感じないからです。それゆえまた、人間が再生しないなら、すべてにまさって自分自身と世を愛することは善そのものです、すべての者を支配すること、他の者の富のすべてを所有することは、最高の善であるとしか知りません。
さらにまたここから、すべての悪があります。なぜなら、だれも、愛から、自分だけしか眺めず、他の者を眺めないからです。他の者を愛から眺めるなら、悪魔が悪魔を〔眺める〕ように、そして一つとして行動する時の泥棒が泥棒を〔眺める〕ように眺めます。
[3]それらの愛を、そしてそれらから湧き出る愛を、自分自身のもとでそれらの快さから確信した者は、自然的なものにとどまり、身体的な感覚のものになります。そして、彼の霊であるプロプリウム(固有もの)の思考の中で狂います。しかしそれでも、世の中にいる時、人間であるので、理性的にまた賢明に話し、行動することができ、ここから彼らに推理力と自主性があります、しかし、それもまた自己と世の愛から行ないます。
これらの者は、死後、霊になるとき、自分の霊の中で世の中で持ったもの以外に、何らかの快さを持つことができません。その快さは地獄の愛の快さであり、それは不快・苦痛・恐ろしいものに変わり、それらはみことばの中で地獄の責め苦と火によって意味されます。
これらから、人間の第一の状態は有罪の状態であることまた、再生しない者はその中にいることが明らかです。
[4]人間の改心の状態である第二の状態は、人間が天界についてそこに楽しさから、このように神について、そこから彼に天界の楽しさを考え始めるときです。
しかし、このことを最初に自己愛の快さから考え、彼にとって天界の楽しさはその快さです。しかし、その愛の快さがここからわき出る悪の快さと一つとなって支配しているかぎり、天界へやって来ることは、祈りを注ぎ出し、説教を聞き、聖餐に出席し、貧しい者に与え、乏しい者を助け、〔礼拝者の〕宿泊所に寄付して貢献すること、また他の同様のこととしか理解することができません。
この状態の中で人間は、宗教の教えが救う、それは信仰のものと呼ばれるものあるいは信仰と仁愛のものと呼ばれるものであり、それらについて単に考えることであるとしか知りません。
それらを考えることが救うことであり、悪について、それらの中に快さがあることを何も考えないのでそれ以外に理解しません、また、それらの快さが残るかぎり、悪もまた残ります。それらの快さは、それらの欲望からであり、その欲望は絶えずその悪をしたい気にさせ、また何らかの恐怖が抑えない時、その悪をもまた生み出します。
[5]悪がその愛の欲望の中に、そこから快さの中にとどまるかぎり、単なる外的なものの中でないなら、何らかの信仰・仁愛・敬虔・礼拝はなく、それは世の前に存在するように見えますが、しかしそれでも、存在しません。
飲むことのできない不潔な泉から流れ出る水に例えることができます。
人間が、天界や神について宗教から考え、罪としての悪について何も考えないようなものであるかぎり、〔彼は〕依然として第一の状態の中にいます――しかし、罪が存在することを、さらにあれやこれやが罪であること、少しでもそれを自分自身のもとに調べ、それらを欲しないことを考え始める時、第二の状態、すなわち、改心の状態の中にやって来ます。
[6]人間の再生の状態である第三の状態は前の状態に続き、含まれます。
それは、人間が罪として悪から離れるとき始まり、それを避けるかのように進行し、そしてそれらに対して戦うようにして完成します。その時、主からのように勝利し、再生します。
再生する者のもとで、いのちの秩序が逆転され、自然的なものから霊的なものになります、なぜなら、霊的なものから分離した自然的なものは、秩序に反し、霊的なものは秩序にしたがっているからです。それゆえ、再生した人間は仁愛から行動し、仁愛のものであるものを自分の信仰のものにします。
しかしそれでも、真理の中にいないなら、さらに霊的になることはありません。なぜなら、すべての人間は真理によって、それにしたがった生活によって再生するからです、というのは、真理によって生活を知り、生活によってその真理を行なうからです。このように善と真理が結合し、それはその中に天界がある霊的な結合です。
〔初版に84番はありません〕

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083◀︎目次▶︎086

85 人間は推理力と自主性と呼ばれる二つの能力によって、改心し、再生します。それらがなくては改心し、再生することができないのは、何が悪で何が善か、ここから何が虚偽で真理か、推理力によって理解し、知ることができ、自主性によって理解し、知ることを意志することができるからです。
しかし、悪の愛の快さが支配するかぎり、自由に善と真理を意志すること、それらを自分の理性で行なうことができず、それゆえ、それらを自分自身のものとすることができません。なぜなら、前に示されているように、人間が自由から理性にしたがって行動するものは彼に自分のものとされるから、もし自分のものとされないなら、人間は改心せず、再生しないからです――悪と虚偽の愛の快さが遠ざけられる時、初めて善と真理の愛の快さから行動します。なぜなら、互いに対立している二つの愛の快さは同時に存在しないからです。
愛の快さから行動することは、自由からです。理性は愛のものに好意を持つので、理性にもしたがっています。

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085◀︎目次▶︎087

86 人間に、善い者と同様に悪い者に、推理力と自主性があるので、善い者と同様に悪い者に、真理を理解し、善を行なうことができます。しかし、悪い者は自由から理性にしたがって行なうことができるのではありません、けれども、善い者はできます。悪い者は悪の愛の快さの中にいるけれども、善い者は善の愛の快さの中にいるからです。
それゆえ、悪い者が理解する真理、行なう善は彼に自分のものとされません、しかし、善い人間に自分のものとされます。自分のものであるかのように自分のものとしないなら、改心と再生は存在しません。というのは、悪い者のもとで悪は虚偽とともに中心にあり、善は真理とともに周辺にあるようなものであるから。しかし、善い者のもとで善は真理とともに中心にあり、悪は虚偽とともに周辺にあります――中心にある両方の場所で、中心の火からの熱のように、また中心の凍結からの寒さのように、周辺にまでそれは広がります。
このように悪い者のもとの周辺の善は中心の悪から汚され、善い者のもとの周辺の悪は中心の善から和らげられます――悪は再生した者を断罪しない、そして善は再生しない者を救わないことがその理由です。

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086◀︎目次▶︎088

87(5)人間はそれらの二つの能力によって、考え、行なうすべての善と真理が主からであり、自分自身からではないと、それらによって認めることができればできるほど、それだけ改心し、再生することができる
改心とは何か、再生とは何か、なおまた、推理力と自主性である二つの能力によって、人間は改心し、再生することがすぐ前に言われています――このことはそれらによって生ずるので、それゆえ、それらについて、何らかのものをこれから述べます。
人間は推理力から理解し、自主性から意志することができ、この二つとも自分自身からのように持っています。しかし、自由から善く生き、ここから理性にしたがってそれを行なうこともできますが、再生された者でないならできません。
悪い者は、単に自由から悪を意志し、思考にしたがって、確信によって理性で行なうかのように、悪を行なうことができるだけです。悪は、善のように、等しく確信されることができるからです。しかし、悪は〔感覚の〕欺きと外観によって確信された時、虚偽になり、確信されるとき、理性によるかのように見えます。

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087◀︎目次▶︎089

88 だれでも、内なる理解力から何らかの思考がある者には、意志することの潜在能力(可能性)と理解することの潜在能力があることを見ることができます、しかし、その潜在能力は人間からではなく、その者に「潜在能力」そのものがある、すなわち、「潜在能力」がその本質の中にある方からです。
潜在能力(可能性)がどこからであるかだけを考えてみなさい。
その能力そのものがその方の中に、またこのようにその方からであるからではありませんか?
それゆえ、本質的に潜在能力は神的なものです。
すべての者に与えられなければならない潜在能力は、それ自体の内なるものまたは高いものからの決定〔される行為〕のようにその機会があります。
目はそれ自体から見ること、耳もそれ自体から聞くこと、口はそれ自体から話すことが、または手はそれ自体から行なうことができません。機会とそこからの決定〔される行為〕は心からでなければなりません。
これやそれやを心は自分自身から、心をそれへ決定する何らかの内なるものまたは高いものがないなら、考えることと意志することもできません。
理解することの潜在能力と意志することの潜在能力も同様です。これらは本質的に意志することができ、理解することができるその方以外の他の者から存在することができません。
[2]それらから、推理力と自主性と呼ばれるそれらの二つの能力は、主からであり、人間からでないことが明らかです。また、主からであるので、人間はどんなものでも自分自身からは何も意志せず、何も理解せず、自分自身から〔している〕ように〔見える〕だけである、といえます。
このようであることは、すべての善の意志、そしてすべての真理の理解力は主からであり、人間からでないことを知り、信じる者なら、だれでも自分自身で確信することができます。「ヨハネ福音書」のみことばで教えられています、

人間は何も自分自身から得ることができない、また何も自分自身からすることができない(3・27、15・5)。

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088◀︎目次▶︎090

89 さて、意志することはすべて愛からであり、理解することはすべて知恵からであるので、意志できることは神的な愛からであり、理解できることは神的な知恵からであることがいえます。したがって、二つとも神的な愛そのものと神的な知恵そのものであられる主からです。
ここから、他からでなく自由から理性にしたがって行動することになります。
自由は愛のように意志することから分離されることができないので、だれもが理性にしたがって行動します。
しかし、人間のもとには内的な意志と外的な意志が存在します。外的な意志にしたがって、同時に、内的な意志にしたがわないで、偽善者とおべっか使いのように、行動することができます。それでも外的な意志は自由から行動します。これと異なって見られるようにする愛から、あるいは内的な意志の愛からのある種の悪の愛から〔そのことを〕求めるからです。
しかし、前に言われているように、悪い者は自由から自分の理性にしたがって悪しか行なうことができません。さらに、自由から理性にしたがって善を行なうことができません――確かに、これを行なうことができますが、彼のプロプリウムの自由である内的な自由からではなく、善ではないものから外的な自由を得てそうしています。

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089◀︎目次▶︎091

90 人間は二つの能力によって、考え、行なうすべての善と真理が主からであり、自分自身からではないと認めることができればできるほど、それだけ改心し、再生することができる、と言われました。
前述のものから明らかなように、人間はそれらの二つの能力によってでないなら、そのことを認めることができません、それらの二つの能力は主からであり、人間のもとの主のものであるからです。
それゆえ、人間はそのことを自分自身からでなく、主から行なうことができ、しかしそれでも、自分自身からのようにでき、このことを主はそれぞれの者に与えられていることがいえます。
自分自身からであると信じることがあるかもしれませんが、それでも賢明である時、自分自身からでないことを認めるでしょう。そうでなければ、考える真理と行なう善は、本質的に真理と善ではありません、それらの中に人間がいて、それらの中に主がおられないからです。そして、人間がその中にいる善は、救いのためであっても、功績を求める善です、しかし、主がその中におられる善は、功績を求めるものではありません。

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090◀︎目次▶︎092

91 けれども、主の〔存在の〕承認によって、またすべての善と真理はその方からであることの承認によって、人間が改心し、再生するようにされることは、わずかな者にしか理解力で見ることができません。なぜなら、「主が全能であられ、すべての者の救いを望まれ、またここから、単に慈悲に向けて〔心を〕動かさせられることができ、望まれるとき、その承認が何を行なうのか?」と考えることができるからです。
しかし、このように考えることは、主からではありません。したがって、理解力の内的な視覚から、すなわち、何らかの照らしからでもありません――それゆえ、何を承認が生み出すか、このことを簡単に述べます。
[2]霊界の中で、そこでは空間は単なる外観であり、知恵は現存を引き起こし、愛は結合を引き起こし、その逆もいえます。
主の認識は知恵から与えられ、愛からも与えられます。
知恵からの主の認識は、本質的に眺められたとき、それは単なる知識であって、教えから与えられます。愛からの主の認識は、それにしたがった生活から与えられます。この生活は結合を与えますが、その教えは現存を与えます――それが、主についての教えを拒否する者が、その方から自分自身を遠ざける理由です。彼らは、生活も拒否するので、その方から自分自身を分離します――しかし、教えを拒否しないけれども、生活を拒否する者は、主の前にいますが、しかし、それでも分離されます――彼らは互いに会話します、しかし、愛し合うことのない友のようであり、彼らの一人はもう一人の者とあたかも友のように話します、しかし、あたかも敵のように憎む二人のようです。
[3]このようであることは、普通の考えからもよく知られています。さらにまた、善く教え、善く生きる者は、救われるけれども、善く教え、悪く生きる者は救われません、さらに、神を認めない者は救われることができません。
これらから、神について信仰から考えて、仁愛から何も行なわない、と言われているような宗教が、どのような宗教であるか明らかです。
それゆえ、主は言われています、

あなたがたは、わたしを主、主と呼びます、そしてわたしが言うことをあなたがたは行ないません、〔これは〕何か?わたしのところに来て、わたしの話しを聞き、それを行なうすべての者は……家を建てる人間に似ています……岩の上に基礎を置きます。しかし、聞いて行なわない者は、基礎のない土の上に家を建てる人間に似ています(ルカ6:46-49)。

神の摂理

091◀︎目次▶︎093

92(6)人間との主の結合と、主との人間の相互の結合は、それらの二つの能力によって行なわれる
主との結合と再生は一つです、なぜなら、だれかがどれだけ主と結合するかによって、それだけ再生するからです。
それゆえ、再生について前に言われていることは、結合についても言われることができ、ここに結合について言われることは、再生について言われることができます。
人間との主の結合があること、また主との人間の相互のものがあることは、主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられています、

わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。……わたしの中にとどまり、またわたしがその中にとどまる者は、その者は多くの実を結びます(15:4, 5)。
その日に、あなたがたは……あなたがたがわたしの中に、またわたしがあなたがたにいる……ことを知ります(14:20)。

[2]だれでも理性だけから、相互のものがないなら、相互に結合したものがないなら、何からのアニムス(外的な心)の結合がないことを見ることができます。
だれかが他の者を愛し、逆に愛されないなら、その時、一人の者が近づき、もう一人の者が去るようなものです。しかし、逆に愛されるなら、その時、一人が近づき、もう一人もまた近づくようなものであり、結合が生じます。
愛は愛されることもまた欲します。このことは愛に植え付けられています。愛し返されれば愛し返されるほど、それだけ本来のものとなり、その快さの中にあります。
これらから、主が人間を愛するだけで、逆に人間により愛されないなら、主は近づくけれども、人間が去ってしまうことが明らかです。このように、主は絶えず人間に会い、彼に入ることを望まれますが、人間自身が後ろに向きを変え、立ち去るのです。
地獄にいる者は、このような者です。しかし、天界にいる者には相互の結合があります。
[3]主は人間との結合を、その救いのために望まれるので、さらにまた人間のもとに相互のものがあるように備えられました。
人間のもとに相互のものがありますが、それは、自由から欲し行なう善が、理性にしたがってその意志することから考え、話す真理が、それらからのように見えることであり、また、それは彼の意志の中の善が、彼の理解力の中の真理が彼のもののように見えることです。それどころか、それらが人間に自分自身からのように、自分のものであり、まったく自分のものであったように見えることです。〔そこに〕何の相違も〔見られ〕ません。だれが〔そのことを〕他のすべての感覚で知覚するかどうか、気づきなさい。
自分自身のものからのようなその外観については前に見られ(74-77番)、彼のもののように自分のものとすることについて見られます(78-81番)――相違は、人間が自分自身から善を行なわず、真理を考えず、〔それらを〕主から行ない、考え、またここから、行なう善、考える真理は、自分のものでない、と認めるべきであることだけです。
何らかの意志の愛から、真理であるからと、このように考えることが結合を生みます。なぜなら、このように人間は主を見、主は人間を見るからです。

神の摂理

092◀︎目次▶︎094

93 すべての善は主から存在すると信ずる者と善は自分自身から存在すると信ずる者の間の相違がどのようなものであるか、霊界の中で、聞くことと見ることが与えられました。
善は主から存在すると信ずる者は、その方へ顔を向け、そして善の快さと幸福を受けます。しかし、善は自分自身から存在すると信ずる者は、自分自身に目を向け、自分自身のもとに値するものを考えます。自分自身に目を向けるので、自分の善の快さしか知覚することができません、それは善の快さでなく、悪の快さです。なぜなら、人間のプロプリウムは悪であるからです。そして善として知覚される悪の快さは地獄です。
善を行ない、それは自分自身からと信じた者は、死後、すべての善は主からであるという真理を受けないなら、地獄の悪鬼たちと交わり、ついに彼らと一つになります。しかし、その真理を受ける者は改心します――それでも、自分の生活の中で神へ目を向けなかった以外の者は受けません。
自分の生活の中で神へ目を向けることは、悪を罪として避けること以外の何ものでもありません。

神の摂理

093◀︎目次▶︎095

94 人間との主の結合と主との人間の相互の結合は、自分自身のように隣人を愛すること、すべてにまさって主を愛することによって生じます。
隣人を自分自身のように愛することは、彼に不誠実にまた不正に行動しないこと以外の他のものではありません、彼に対して憎しみを持って復讐を燃え上がらせないこと、彼を悪く言わない、中傷しない、彼の妻と姦淫しない、彼に対して他の同様なことを行なわないことです。
このようなことを行なう者が自分自身のように隣人を愛さないことをだれが見ることができませんか?しかし、隣人に対する悪であり、同時に神に対する罪であるので、このようなことを行なわない者は、隣人に誠実に、公正に、親切に、忠実に行動します。主は同様に行なわれるので、相互の結合が生じます。
相互の結合がある時、人間が隣人に行なうどんなものでも主から行ない、人間が主から行なうどんなものでも善です。その時、隣人は彼にとって人物ではなく、人物の中の善です。
すべてにまさって主を愛することは、みことばの中に主がおられるからと、みことばに悪を行なわず、教会の聖なるものの中に主がおられるからと教会の聖なるものに悪を行わず、それぞれの者の霊魂は主の手の中にあるからとある者の霊魂に悪を行なわない以外の他のものではありません。
これらの悪をそれらの憎むべき罪として避ける者は、すべてにまさって主を愛します。しかし、このことは、隣人を自分自身のように愛する者以外の他の者にはできません、結合しているからです。

神の摂理

094◀︎目次▶︎096

95 人間との主の結合が、主と人間の結合があるので、それゆえ、一つは主のために、もう一つは人間のために律法の二つの石板があります。
人間が自分自身からのように石板のその〔人間の〕律法を行なえば行なうほど、それだけ主が石板のその〔ご自分の〕律法を行なわれるために、主は与えられています――しかし、隣人に関係するものである石板のすべての律法を行なわない人間は、主の愛に関係するものである主の石板の律法を行なうことができません。
殺人者・泥棒・姦淫者・偽りの証人は、どのように主を愛することができますか?
そのような者であることと神を愛することは矛盾している、と理性により断言されませんか?
悪魔はそのような者ではありませんか?彼らは神に憎しみを持つことしかできないのではありませんか?
しかし、人間が殺人・姦淫・盗みや偽りの証言を地獄のものとして退ける時、できます、なぜなら、その時、顔を悪魔から神へ向きを変えさせるからです。そして、顔〔の向き〕を神へ変えるとき、彼に愛と知恵が与えられます――これらは人間に顔から入りますが、首〔の後ろ〕からは入りません。
主との結合はこのようであり、他のものではないので、それゆえ、石板のそれらの律法は契約と呼ばれます。そして契約は二つのものの間にあります。

神の摂理

095◀︎目次▶︎097

96 (7)主はそれらの二つの能力を人間のもとで損なわれず、そしてすべてのご自分の神的な摂理の進行の中で聖なるもののように守られる
その理由は、それらの二つの能力なしに人間に理解力と意志はなく、このように彼は人間でなくなったであろうこと、さらに、人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、このように改心し、再生することができず、そのようにまた、それらの二つの能力なしに人間に不死性はなく、永遠のいのちがなくなったであろうことです。
そのようであることは、前の箇所で与えられており、自主性と推理力は何かという知識から、確かに見られることができます――しかし、それらが結論として視覚に示されないならはっきりとではありません、それゆえ、明らかにしておくべきです。
[2]「それらの二つの能力なしに人間に理解力と意志はなく、このように彼は人間でなくなったであろうこと」というのは、人間に意志は、自分自身からのように自由に意志することができること以外の他の出所からではないからです。そして、自分自身からのように自由に意志することは、主から絶えず与えられている自主性と呼ばれる能力からです――人間に、理性のものであるかどうかと自分自身からのように理解することができる理解力は他の出所からではありません。そして、理性のものであるどうかと理解することは、主から絶えず与えられている推理力と呼ばれるそのもう一つの能力からです。
これらの能力が人間のもとで意志と理解力のように結合されます。すなわち、人間は意志することができるので、理解することもまたできるのです。なぜなら、意志することは理解することなしに存在しないからです。理解することは、彼の仲間または配偶者であり、それを伴わないで存在することができません――それゆえ、自主性と呼ばれる能力とともに、推理力と呼ばれる能力が与えられています――さらにまた、あなたが理解することから意志することを取り去るなら、あなたは何も理解しません――
[3]あなたが欲すれば欲するほど、知識と呼ばれる補助が現存するかまたは同時に現われるかぎり、それだけあなたは理解することができます、なぜなら、それらは働く者の道具のようであるからです。
あなたが欲すれば欲するほど、すなわち、あなたが理解することを愛すれば愛するほど、それだけあなたは理解することができる、と言われます、なぜなら、意志と愛は一つとして働くからです。
このことは確かに背理のように見えます。しかし、理解することを愛さず、ここから欲しない者には、そのように見えます――欲しない者は、自分自身にできない、と言います。
けれども、だれができないか、まただれがほとんどできないか、続く節の中で述べます。
[4]人間に自主性と呼ばれる能力から意志がなかったなら、そして推理力と呼ばれる能力から理解力がなかったら、彼は人間でなくなったであろうことは、確証なしに明らかです。
獣にそれらの能力はありません。
獣もまた意志することができ、理解することができるように見えますが、しかし、できません。
自然的な情愛がありますが、それらは本質的に欲望であり、その配偶者である知識とともに、それらはもっぱら、行ないを行なおうとすることへそれらを導き、そのことをもたらします。
市民的なものや道徳的なものが確かにそれら獣の知識の中にあります、しかし、それらの上にはありません、その獣に、道徳的なものを知覚することを、ここから分析的にそれを考えることを与える霊的なものがないからです。
確かに、何かを行なうことが、教えられることができます、しかし、このことは自然的なものであり、それは知識と同時にそれらの情愛でそれ自体に加えられたものであり、そしてあるいは視覚によってあるいは聴覚によって再現されます、しかし、決して思考のものに、ましてそれらのもとに理性のものになりません。
これらの事柄について、何らかのものが前に見られます(74番)。
[5]「人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、このように改心し、再生することができないこと」は前に示されています。
なぜなら、主は人間のもとにそれらの二つの能力の中に、善い者と同様に悪い者に住まわれ、それらによってご自分をそれぞれの人間に結合されるからです。
ここから、善い者と同様に悪い者は理解することができ、ここから彼らは善の能力そして真理の理解力の潜在能力の中にいて、実際に存在しないのは、それらの能力の濫用からです。
主がそれぞれの人間のもとにそれらの二つの能力の中に住まわれることは、主の意志の流入からであり、それらが人間により受け入れられること、ご自分のもとに住まいを持つこと、そして永遠のいのちの幸福が与えられることを望まれています。主の神的な愛そのもののものであるので、これが主のみこころです。
人間の中に、自分のものであるように、考え、話し、欲し、行なうことが見えるようにすること、これが主のみこころです。
[6]主のみこころの流入がそのことを生み出していることは、霊界から大いに確証されています。
時々、主は天使を、天使が〔自分を〕主であるとしか知らないようにまでも、ご自分の神性で満たされるからです。
アブラハム・ハガイ・ギデオンに見られた天使たちは、そのように満たされ、彼らはここから自分自身をエホバと呼びましたが、それらのことについては聖書の中にあります。
そのようにまた、ある霊は他の霊により、他の霊であるとしか知らないようにまでも満たされることができます。このことはしばしば私に見られています。
天界の中でもまた、主のみこころによってすべてのものを生み出し、欲するものを生じさせていることはよく知られています。
これらから、それらの二つの能力があること、それらによって主はご自分を人間に結合されること、それらによって人間が相互に結合されるようにすることが明らかです。
けれども、どのように人間がそれらの能力によって相互に結合されるか、したがって、どのようにそれらによって改心され、再生されるか、前に言われています、またそれについて多くのことが次に言われます。
[7]「それらの二つの能力なしに人間に不死性と永遠のいのちがなくなったであろうこと」そこで、言われたことから、それらによって主との結合、さらに改心と再生があることがいえます。結合によって人間に不死性があり、そして改心と再生によって永遠のいのちがあります――それらの能力によってすべての人間との主の結合があるので、善い者と同様に悪い者に、言われているように、それゆえ、すべての人間に不死性があります。しかし、最内部から最外部まで相互の結合がある者のもとに、その人間に永遠のいのち、すなわち、天界のいのちがあります。
これらから、なぜ主がそれらの能力を人間のもとに損なわれず、聖なるもののように、すべてのご自分の神的な摂理の進行の中に守られるか、その理由を見ることができます。

神の摂理

096◀︎目次▶︎098

97(8)それゆえ、人間が自由から理性にしたがって行動するために、神的な摂理がある
自由から理性にしたがって行動することと、自主性と推理力から、なおまた意志と理解力から行動することは同じです。しかし、自由から理性にしたがうこと、すなわち、自主性と推理力から行動することと、自由そのものから理性そのものにしたがうこと、すなわち、自主性そのものからまた推理力そのものから行動することは別ものです。悪の愛から悪を行なう者は、それを自分自身のもとで確信するので行なう者は、確かに自由から理性にしたがって行動します、しかしそれでも、彼の自由は本質的な自由、すなわち、自由そのものではなく、地獄の自由であり、それは本質的に隷属であり、その理性は本質的に理性ではなく、あるいはにせの理性、あるいは虚偽、あるいは確信による外観です。
しかしそれでも、二つとも神的な摂理のものです。なぜなら、もし悪を欲する自由が、またそれを確信によって理性からのように行なうことが、自然的な人間から取り去られるなら、自主性と推理力は、同時に意志と理解力は滅んでしまい、悪から連れ去られ、改心すること、したがって主と結合されること、永遠に生きることができないからです。それゆえ、人間が自分の目のひとみを守るように、主は人間のもとの自由を守られます。
しかしそれでも、主は自由によって絶えず人間を悪から連れ去り、自由によって連れ去られることができればできるほど、それだけ自由によって善を植え付けられます。そのように継続的に地獄の自由に代わって天界の自由を与えられます。

神の摂理

097◀︎目次▶︎099

98 すべての人間に自主性と呼ばれる意志する能力があり、推理力と呼ばれる理解する能力があることは、前に言われています。しかし、それらの能力の中で人間は人間そのものであるので、それらの能力が人間に植え付けられたかのようにあることをよく知らなければなりません。
しかし、すぐ前に言われたように、理性にしたがって自由から行動することと、理性そのものにしたがって自由そのものから行動することは別ものです。
主による再生が許されている者以外の他の者は、理性そのものにしたがって自由そのものから行動しません。けれども、他の残りの者は、思考にしたがって自由から行動し、思考を理性に似たものにつくっています。
しかしそれでも、すべての人間は、愚かな者かまたは極めて鈍い者に生まれていないなら、理性そのものに、それによって自由そのものにやって来ることができます。しかし、やって来ないことには、多くの理由があり、それらは続くものの中で示します――〔ここでは〕自由そのものまたは自主性そのものが、同時に理性そのものまたは推理力そのものが与えられることができない者、ほとんど与えられることができない者についてだけ述べます。
[2]自主性と推理力そのものは、出生からの愚かな者に、その後に愚かな者となった者にも、愚かであるかぎり与えられることができません。自主性と推理力そのものは、怠惰から無活動となった者、または心の内なるものを滅ぼすかまたはまったく閉ざす病気から、または獣のようないのちの愛から、鈍く、愚かな者に生まれている者にも与えられることができません。
[3]自主性そのものと推理力そのものは、キリスト教世界の中で、主の神性やみことばの聖性をまったく否定する者、そして否定を自分自身のもとに確信して生活の終わりまで保持する者のもとにも与えられることができません。というのは、聖霊に対する罪としてこのことが意味され、この時代にも来るべき時代にも赦されないからです(マタイ12:31, 32)。
[4]自主性そのものと推理力そのものは、すべてのものを自然に帰し、何も神性に帰さない者、またそれを目に見えるものから推論によって自分の信念とした者のもとにも与えられることができません。これらの者は無神論者でもあるからです。
[5]自主性そのものと推理力そのものは、宗教の虚偽の中で自分自身に多くのものを確信した者のもとに、ほとんど与えられることができません――虚偽を確信する者は真理を否定する者であるからです――しかし、自分自身に確信しなかった者は、どんな宗教の中にいても、〔与えられることが〕できます。それらの事柄については『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中で引用されているものを参照してください(91-97番)。
[6]幼児と子どもは、自主性そのものの中と推理力そのものの中に年齢が成熟するよりも前にやって来ることができません――人間のもとの心の内的なものは継続的に開かれ、その間、未熟な果実の中の種のようであり、土の中で発芽することができるからです。

神の摂理

098◀︎目次▶︎100

99 主の神性やみことばの聖性を否定した者に、なおまた神性に反対して自然のほうを選んで自分自身に確信した者に、自主性そのものと推理力そのものは与えられることができないこと、宗教の虚偽の中で多くのものを確信した者にほとんど与えられないこと――しかしそれでも、すべての者が、それらの能力そのものを失なわなかったことを述べました。
私は悪魔とサタンになった無神論者たちのことを聞きました。その者たちは、天使のように知恵のアルカナをよく理解しました、しかし、ただ他の者からそれらを聞いたときだけであり、自分の思考の中に戻った時、理解しませんでした。その理由は、彼らが欲しなかったからでした。
しかし、もし愛とそこからの悪の快さが彼らを連れ去らなかったなら、欲することもまたできたであろうことが彼らに示されました。彼らはこのことを聞いたときもまた理解しました。それどころか、「〔そのことが〕できる。しかし、できることを欲しなかった。このように欲することができることを欲しなかったのは、その欲望の快さからの悪があったからである」と断言しました。
このような驚くべきことを私は霊界の中でしばしば聞きました――これらから私は、それぞれの人間に自主性と推理力があること――だれもが、悪を罪として避けるなら、自主性そのものと推理力そのものの中にやって来ることができることを十分に確信しました。
しかし、世の中で自主性そのものと推理力そのものの中にやって来ない成人は、死後、だれもそれらの中にやって来ることができません、なぜなら、その時、彼のいのち(生活)の状態は、世の中であったようなものに永遠にとどまるからです。

神の摂理

099◀︎目次▶︎101

(4–2)神的な摂理の法則は、人間が外なる人の中の罪として悪を自分自身からのように遠ざけなくてはならないことである。主が内なる人の悪を遠ざけることは、そのとき同時に外なる人の中の悪が遠ざけられるようにしてでなければ、おできにならない

100 善そのもの真理そのものである主は、悪と虚偽が人間のもとで遠ざけられないなら、彼の中に入ることができないことを、だれでも理性だけから見ることができます。悪は善と対立し、虚偽は真理と対立しているからです。二つの対立しているものは決して交わることができませんし、一方がもう一方に近づくとき、闘争が起こり、それは一方がもう一方に場所を譲るまで続き、譲るものが立ち去り、もう一方が後に続きます。
このような対立が天界と地獄に、すなわち、主と悪魔にあります。
悪魔が支配している場所に主が入ることができる、または、地獄がある場所に天界が存在できる、とだれか理性から考えることができますか?
だれが、それぞれの健全な人間に与えられている推理力から、主が入るために悪魔が追い払われなければならないこと、あるいは天界が入るために地獄が遠ざけられなくてはならないことを見ませんか?
[2]その対立は、地獄の中の富んだ者への天界からのアブラハムの言葉によって意味されます、
私たちとあなたがたの間に巨大な裂け目が堅く立てられている。この場所からあなたがたのところへ、そこの者もまた私たちのところへ渡ろうとしても、通り過ぎることができない(ルカ16・26)。
悪そのものは地獄であり、そして善そのものは天界です。または同じことですが、悪そのものは悪魔であり、善そのものは主です。人間の中で悪が支配している者は最小の形の地獄であり、人間の中で善が支配している者は最小の形の天界です。
そのようであるので、その裂け目が、ここからそこへ通り過ぎることができないように巨大に堅く立てられているとき、どのように天界が地獄の中に入ることができますか?
これらから、主が天界とともに入ることができるために、完全に地獄は遠ざけらなくてはならないことがいえます。

神の摂理

100◀︎目次▶︎102

101 しかし、多くの者は、特に、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者は、悪の中にいるとき地獄の中にいることを知りません。確かに悪が何か知りません、その理由は、「律法のくびきの下にいない、このように律法は自分たちを断罪しない、なおまた、救いに何も寄与できないので、何らかの悪を自分自身から遠ざけることができない、それに加えて何らかの善を自分自身から行なうことができない」と言って、それらについて決して考えなかったからです。
これらの者が悪について考えることを放棄し、そのことを放棄するので引き続きそれらの中にいます。
『新しいエルサレムの教え 信仰ついて』の中に、その者たちが主により、「マタイ福音書」(25:32, 33, 41-46)の雄ヤギによって意味されているのが見られ(61-68番)、その者について言われています、

わたしから去れ、呪われた者ども、悪魔とその使いたちに用意された永遠の火の中へ(41節)。

[2]なぜなら、自分自身のもとの悪について何も考えない者は、すなわち、自分自身を調べ、その後、それらをやめない者は、悪が何か知らず、その時、そのことをその快さから愛することしかできないからです。なぜなら、そのことを知らない者は、それを愛し、またそのことについて考えることを放棄する者は、継続してその中にいるからです。その者は盲目の者のように見ません。なぜなら、思考は目が美しいものと醜いものを見るように善と悪を見るからです。そして、それを考え、欲する者も、悪が神の前に見られないと信じる者も、そしてもし見られても許されると信じる者は悪の中にいます。このように、〔自分に〕悪はないと考えるからです。
もし悪を行なうことをやめるにしても、神の前に罪であるからやめるのではなく、法律と名声を恐れるからです。しかし、それでもそれらを自分の霊の中で行ないます、なぜなら、考え、欲するのは人間の霊であるからです。それゆえ、人間が世の中で自分の霊の中で考えたことを、世から去った後、霊になるとき、行ないます。
[3]すべての人間は死後にやって来る霊界の中で、「あなたの信仰はどんなものでしたか、あなたの教えはどんなものですか」とは尋ねられません、「あなたの生活はどんなものでしたか」と尋ねられます。「このようなものか、またはこのようなものか」と尋ねられます――というのは、だれかの生活がどんなものかによって、彼の信仰が、それどころか教えがどのようなものであるか知られるから。というのは、生活が、自分自身に教えを、信仰をつくるからです。

神の摂理

101◀︎目次▶︎103

102 さて、言われたことから、悪は人間により遠ざけられることが神的な摂理の法則であることを明らかにすることができます、というのは、それらの除去なしに主は人間に結合されること、また彼らをご自分から天界の中に引き寄せることがおできにならないからです。
しかし、人間が自分自身からのように外なる人の中で悪を遠ざけること、人間がそれを自分自身からのように行なわないなら、主は内なるものの中で彼のもとで悪を遠ざけることができないことが知られていないので、それゆえ、このことを理性の前に、その光の中で、次の順序で示します――

(1)人間のだれにも思考の外なるものと内なるものがある。
(2)人間の思考の外なるものは、本質的にその内なるものがどんなものであるかによる。
(3)悪が外なる人の中で遠ざけられないかぎり、妨げるので、内なる人は悪の欲望から清められることができない。
(4)外なる人の中の悪は、人間によってでなければ、主により遠ざけられることができない。
(5)それゆえ、人間は自分自身からのように悪を外なる人から遠ざけなくてはならない。
(6)その時、主は人間を、内なる人の中で悪の欲望から、外なる人の中で悪そのものから、清められる。
(7)人間をご自分に、ご自分を彼に結合させ、彼に永遠のいのちの幸福を与えることができるように、絶え間のない主の神的な摂理があり、このことは、悪がそれらの欲望とともに遠ざけられていないかぎり、行なわれることができない。

神の摂理

102◀︎目次▶︎104

103(1)人間のだれにも思考の外なるものと内なるものがある
思考の外なるものと内なるものによって、人間の外なるものと内なるものと同様なものが意味され、それらによって意志と理解力の外なるものと内なるもの以外の何も意味されません、というのは、意志と理解力が人間をつくるから――またこれら二つのものはそれ自体を思考の中に現わすので、思考の外なるものと内なるものと言われます。
さて、人間の身体でなく、彼の霊が欲し、そして理解し、ここから考えるので、この外なるものと内なるものは人間の霊の外なるものと内なるものであることがいえます。
身体が行動し、あるいは話し、あるいは行なうものは、彼の霊の内なるものと外なるものからの単なる結果です、なぜなら、身体は従順であるだけものであるからです。

神の摂理

103◀︎目次▶︎105

104 年齢の進んだそれぞれの人間に、思考の外なるものと内なるものが、したがって意志と思考力の外なるものと内なるものが、または人間の外なるものと内なるものと同じものである霊の外なるものと内なるものがあることは、他の者の話すことまたは行動からその者の思考と意図に留意するそれぞれの者に明らかであり、そしてまた、交わりの中にいるとき、またその者たちがいないときの自分自身にも明らかです。
というのは、だれもが外なる思考から他の者と親しげに話し、それでもなお内なる思考から敵であることができるから――だれもが隣人に対する愛について、神への愛について、外なる思考から、同時にその情愛から話し、そのときそれでもなおその内なる思考の中で隣人を無視し、神を恐れないことができます――さらにまた、だれもが市民の法律の公正について、道徳的な生活の美徳について、教えと霊的な生活であるものについて、外なる思考と同時に情愛から話し、それでもなお自分ひとりであるとき、内なる思考とその情愛から、市民の法律に反して、道徳的な生活に反して、教えと霊的な生活であるものに反して話すことができます。このようなことを、悪の欲望の中にいて、それでも〔その欲望が〕自分の中にないことを見られたい者は世の前に行ないます。
[2]大部分の者もまた、他の者が話すのを聞く時、彼ら自身が、話の中で考えるように考えているかどうか、信じられるかあるいはどうか、何を意図しているか、内的に本質的に考えます。
おべっか使いと偽善者に二重の思考があることは、よく知られています。内的な思考が明らかにされないように、自分自身で抑えること、用心することができるからであり、そしてある者は、内部にまた内部にそれを隠し、あたかも見えないように扉を閉めることができます。
人間に外的な思考と内的な思考が存在することは、その内的な思考から外的な思考を見ること、それについて熟考すること、そしてそれについて悪かあるいは悪でないか判断することができることから、はっきりと明らかです。
人間の心がこのようなものであることは、主から彼にある自主性と推理力と呼ばれる二つの能力に帰すべきです。それらからの思考の外なるものと内なるものが彼にないなら、自分のもとに何らかの悪を知覚し、見ること、改心されることができません。それどころか、話すこともできないで、ただ獣のように鳴くことしかできません。

神の摂理

104◀︎目次▶︎106

105 いのちの愛とその情愛とそこからの知覚から、内なる思考があります。記憶の中にあり、確信のために、また目的への手段として、いのちの愛に仕えるために、〔その内なる思考から〕外なる思考があります。
幼児期から若者の時期まで、人間は知ろうとする情愛からの思考の外なるものの中にいます、その時、その情愛はその内なるものをつくります。さらにまた何らかの欲望とそこからの性向が、両親からのいのちの愛から蒸散しています。
しかし、その後、生きるかぎり、彼のいのちの愛が生じ、その情愛とそこからの知覚が彼の思考の内なるものをつくります、いのちの愛から媒介する愛が生じ、その快さとそこからの記憶からの知識の刺激が、彼の思考の外なるものをつくります。

神の摂理

105◀︎目次▶︎107

106(2)人間の思考の外なるものは、本質的にその内なるものがどんなものであるかによる
人間が頭からかかとまでがどんなものであるかは、彼のいのちの愛によることは前に示されました。
そこでここに、最初に人間のいのち(生活)の愛について何らかのものが言われなくてはなりません。そのことの前に、人間の内的なものをつくる知覚と一緒に情愛について、そして彼の外的なものをつくる思考と一緒に情愛の快さについて、何らかのものが言われることができるからです。
愛は多種多様です、しかし、天界の愛と地獄の愛であるそれらの二つのものは主人と王のようです。
天界の愛は主への愛と隣人に対する愛であり、地獄の愛は自己と世への愛です。
後者と前者は天界と地獄のように対立しています。なぜなら、自己と世への愛の中にいる者は、自分自身に以外に何らかの善を欲しないで、主への愛また隣人に対する愛の中にいる者は、すべての善を欲するからです。
これら二つの愛は人間のいのちの愛ですが、多くの変化とともにあります。
天界の愛は、主が導く者のいのちの愛であり、地獄の愛は、悪魔が導く者のいのちの愛です。
[2]しかし、それぞれの者のいのちの愛は、情愛と呼ばれる派生物なしに存在することができません。
地獄の愛の派生物は悪と虚偽の情愛であり、正しくは欲望です。天界の愛の派生物は善と真理の情愛であり、正しくは熱望です。
地獄の愛の情愛は、正しくは欲望であり、悪と同数のそれだけ多くあります、また天界の愛の情愛は、正しくは愛する行動であり、善と同数だけ多くあります。
愛はその情愛の中に自分の領域の中の主人のように、または自分の王国の中に王のように住みます――それらの支配と王国は、心に属するもの、すなわち、人間の意志と理解力であり、ここから身体に属するものにおよびます。
人間のいのちの愛は、その情愛とここからの知覚によって、そしてその快さとそこからの思考によって、人間全体を支配し、彼の心の内的なものを情愛とそこからの知覚によって、また心の外的なものを情愛の快さとそこからの思考によって支配します。

神の摂理

106◀︎目次▶︎108

107 この統治(支配)の形はある程度、たとえによって見られることができます。
天界の愛は、善と真理の愛とここからの知覚とともに、同時にそれらの情愛とここからの思考の快さとともに、枝・葉・実で飾られた木にたとえられることができます――いのちの愛はその木であり、葉とともに枝は善と真理の知覚とともにそれら情愛であり、そして実は思考とともにそれらの情愛の快さです。
しかし、地獄の愛は、欲望である悪と虚偽のその情愛とともに、それらの欲望とそこからの思考と一緒に快さとともに、クモとおおい包むクモの巣にたとえられることができます――愛そのものはクモであり、悪と虚偽の欲望は、それらの内的な欺瞞とともに、最も近くに位置するクモの網状の糸です。そしてそれらの欲望の快さは、狡猾な陰謀とともに、さらに遠く離れた糸であり、そこに飛びまわるハエが捕えられ、おおわれ、食べられます。

神の摂理

107◀︎目次▶︎109

108 これらのたとえから、意志と理解力のすべてのものの結合が、すなわち、彼のいのちの愛と人間の心の結合が確かに見られることができますが、それでも、〔まだ〕理性的には見られません。
その結合は理性的に、次のように見られることができます――どこでも一緒になった三つのものがあり、それらは一つのものとなっていて、それらは目的・原因・結果と呼ばれます。そこに、いのちの愛は目的であり、情愛はそれらの知覚とともに原因であり、そして情愛の快さはそれらの思考とともに結果です。なぜなら、目的が原因によって結果の中にやって来るのと同様に、このようにまた愛はその情愛によってその快さへ、その知覚によってその思考へやって来るからです。
結果そのものは、快さが意志のものであり、そして思考がそこからの理解力のものである時、このように十分な一致がそこにある時、心の快さとそこからの理解力の思考の中にあります。その時、結果は彼の霊のものです、もし身体の活動の中にやって来ないなら、それでもその時、一致するものが行動の中にあるようなものです――さらにまたその時、身体の中に一緒にあり、そのいのちの愛とともにそこに住んでいます。そして、行動したい気にさせ、何も妨げない時、それは生じます。
悪の欲望は、また悪そのものは彼らのもとでこのようなものであり、その者は自分の霊の中で悪が許されているとします。
[2]それで、目的がそれ自体を原因に、原因によって結果に結合するように、そのようにいのちの愛は思考の内なるものと、これによってその外なるものと結合します。
ここから、人間の思考の外なるものは本質的にその内なるもののようなものであることが明らかです、なぜなら、目的はそのすべてのものを原因に与え、原因を通して結果に与えるからです。というのは、本質的なものは、原因の中にあるもの以外に、結果の中に何も存在しないから、また目的の中に原因を通して、このように目的にある本質的なものそのものが、原因と結果に入るからです、それゆえ、原因は中間の目的、結果は最後の目的と呼ばれます。

神の摂理

108◀︎目次▶︎110

109 時々、人間の思考の外なるものが、本質的に内なるものと〔同じ〕でないように見られます。しかし、このことは、〔悪の〕いのちの愛がその内なるものをそれ自体のまわりに、中間(手段)の愛と呼ばれる代理をそれ自体の下に、それに連結させ、その欲望から何らかのものが見られないように用心し、守るために置くので生じます。
それゆえ、この代理は〔悪の〕いのちの愛であるその源の欺きから、王国の市民にふさわしいものと理性の道徳にしたがって、また教会の霊的なものにしたがって話し、行動します。ある者は、だれにも見られないように、このように狡猾に、巧妙に、むしろこのような者であるかのように、ついにはヴェールでおおうことから、ほとんどその者自身が他の者とわからないように話し、行動します。
すべての偽善者はこのような者です。心で隣人を無とし、神を恐れない祭司はこのような者であり、それでもなお、隣人の愛について、神の愛について説教します――贈り物と友情にしたがって裁判する裁判官はこのような者であり、そのとき公正のために、理性から熱意を見せかけて、判決を下します。心では不誠実で、ごまかす商人はこのような者であり、〔それでも〕そのとき利益のために誠実に行動します――また姦淫者はこのような者であり、そのときそれぞれの人間にある推理力から結婚の貞潔について話します、等々。
[2]しかし、同じ者が、彼のいのちの愛の代理である中間(手段)の愛が、着ていた紫の色の亜麻布の衣服を脱ぎ、そして自分の部屋着のガウンを着るなら、その時に考え、時には自分の思考から、似ているいのちの愛の中にいる最も親しい者に、まったく反対のことを話します。
彼らは、中間(手段)の愛から、このように公正に、誠実に、敬虔に話し、その時、思考の内的なものがどんなものであるか彼らの思考の外的なものからあったものではないと信じさせることができます、しかし、それでも、〔そのようなもので〕あったのです。それらの中に偽善があり、それらの中に自己と世への愛があり、その狡猾さは名誉の名声を、または利益のために獲得することであり、それでも〔そのことは〕最外部の外観に〔向けたものです〕。
この内なるものがどんなものかは、そのとき、そのように話し、行動する時、彼らの思考の外なるものの中にあります。

神の摂理

109◀︎目次▶︎111

110 けれども、天界の愛の中にいる者のもとで、思考の内なるものと外なるものは、すなわち、人間の内なるものと外なるものは、話すとき一つとして働き、〔その二つの〕相違も知りません。
彼らのいのちの愛は、その善の情愛とこれらの真理の知覚とともに、それらの中の霊魂のようであり、それは考え、またここから話し、行動します。
祭司であるなら、隣人に対する愛から、主への愛から説教します。裁判官であるなら、公正そのものから判決を下します。商人であるなら、誠実そのものから行動します。妻帯者〔であるなら〕、貞淑そのものから配偶者(妻)を愛します。等々。
彼らのいのちの愛もまた代理として仲介する愛を持ち、それを教え、導き、思慮分別からのように行動します。またそれらに、教えの真理に対するのと同時にいのちの善に対する熱意の衣服を着せます。

神の摂理

110◀︎目次▶︎112

111(3)悪が外なる人の中で遠ざけられないかぎり、妨げるので、内なる人は悪の欲望から清められることができない
このことは、前述のことから、人間の思考の外なるものは、本質的に、彼の思考の内なるものがどんなものであるかによることがいえます。他のものの中の内部にあるだけでなく、他のものからもまた存在するように密着します。それゆえ、一つのものがもう一つのものと一緒にでないなら分離されることができません。
内なるものから存在するすべての外なるものは、前のものから存在するすべての後ろのものは、原因から存在するすべての結果は、このようです。
[2]さて、欲望は欺きとともに悪のもとの思考の内なるものと一つになり、欲望の快さは策謀とともにその悪のもとの思考の外なるものと一つになり、後者と前者は一つのものの中で結合するので、悪が外なる人の中で遠ざけられないかぎり、内なる人は悪の欲望から清められることができないことがいえます。
人間の内なる意志は欲望の中にあること、彼の内なる理解力は欺くことの中にあること、そして外なる意志は欲望の快さの中にあり、欺くことからの策謀の中に外なる理解力があることを知らなくてはなりません。
だれもが、欲望とその快さは一つとなること、このように欺きと策謀が一つとなること、それら四つのものが一つの中に連続して存在すること、一つの束のように一緒になっていることを見ることができます。それらから再び、欲望を構成する内なるものは、それは、悪を構成する外なるものの隔離によってでしか追い出されることができないことが明らかです。
欲望はその快さによって悪を生み出しますが、しかし、悪が許されると信じられるとき、それは意志と理解力の一致から生じ、その時、快さと悪は一つとなります。
その一致が行為であることは、よく知られています。そのこともまた主が言われることです、

もしだれかが他の女を、このように彼女をほしがるように眺めたなら、すでに彼女と自分の心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)。

残りの悪についても同様です。

神の摂理

111◀︎目次▶︎113

112 さて、これらから、人間が悪の欲望から清められるために、悪は外なる人から完全に遠ざけられなくてはならないことを明らかにすることができます。というのは、最初に欲望に出口が与えられなければないからであり、出口が与えられないなら、欲望は内部にとどまり、快さはそれ自体から発散し、このように人間を一致へ、そのように行為へと駆り立てます。
欲望は思考の外なるものを通って身体に入ります。それゆえ、思考の外なるものの中に一致があるとき、直ちに身体の中にあり、感じる快さが、そこにあります。
心がどんなものであるかによって、身体が、人間全体がこのようであることは、著作『神の愛と知恵』に見られます(362-370番)。
このことはたとえによって、また例によっても説明されることができます。
[2]たとえによって――欲望はその快さとともに火にたとえられ、それは多くたきつけられればたきつけられるほど、ますます多く燃えます。その火が自由に侵入すればするほど、ますます広く、町の中でその家を、森の中でその木を焼き尽すまでも広がります。
さらにまた、悪の欲望はみことばの中で火に、そして悪はそこからの火災にたとえられます。
霊界の中でもまた悪の欲望はそれらの快さとともに、火のように見えます。地獄の火は他のものではありません。
堤防や防壁で遠ざけられている水による洪水と浸水に比較されることもできます。
身体に死を着せ、広がるような、または癒されないような壊疽(えそ)と膿瘍(しゅよう)に比較されることもできます。
[3]例によって――外なる人の中の悪が遠ざけられないなら、欲望はそれらの快さとともに増大し、多いことははっきりと明らかです。
泥棒は盗めば盗むほど、それだけ盗むことを、ついにやめることができないようにまでも熱望します――同様に、だます者もだますかぎり――憎しみと復讐・ぜいたくと不節制・淫行・冒涜の場合も同様です。
自己愛からの支配する愛は、その抑制がゆるめられればゆるめられるほど、ますます増すことはよく知られています。世の愛からの財産を所有しようとする愛も同じであり、それらに限界または終わりがないように見えます。
それらから、外なる人の中の愛が遠ざけられないなら、それだけそれらの欲望は多く、なおまた、悪に抑制がゆるめられればゆるめられるほど、それだけ欲望は増大することが明らかです。

神の摂理

112◀︎目次▶︎114

113 人間は自分の悪の欲望を知覚することができません。確かにそれらの快さを知覚しますが、しかしまた、それらについてほとんど熟考しません、快さが思考をうれしがらせ、熟考を取り去るからです。
それゆえ、もし、悪があることを別の場所から知らないなら、それを善と呼び、自分の思考からの論証にしたがって、それらを犯します。それを行なうとき、それらを自分のものにします。
それらを許されたものとして確信すればするほど、それだけ支配する愛の宮廷を大きくします、その宮廷は彼のいのちの愛です。
欲望は彼の宮廷をつくります、なぜなら、それらの欲望はその大臣と従者のようであり、それによってその王国を構成する外的なものは治めます。
しかし、王がいるように、そのような大臣と従者がいて、そのような王国があります。
もし、王が悪魔なら、その時、その大臣と従者は狂人であり、そしてその王国の人民はすべての種類の虚偽です。それらの大臣を賢明な者と呼んでも、それでも狂っており、〔感覚の〕欺きからの(誤った)推論や空想によって、真理のように見え、そして真理として認められるようにします。
このような人間の状態は、外なる人の中の悪が遠ざけられ、さらにまたこのように悪に密着する欲望が遠ざけられることによらないで、変えられることができますか?
そうでなければ、欲望の出口は開かれず、さらにまた包囲された都市のように、またふさがれた潰瘍のように閉じ込められます。

神の摂理

113◀︎目次▶︎115

114 (4)外なる人の中の悪は、人間によってでなければ、主により遠ざけられることができない
すべてのキリスト教の教会の中で次の教えが受けられています。人間は聖餐に近づく前に、自分自身を調べ、自分の罪を見、認め、悔い改めを行ない、悪魔からであるので、それらから離れ、それらを退けなければならないこと、何らかの罪は彼に赦されず、有罪とされることです。
イギリス人は、たとえ信仰のみについての教えの中にいても、それでも聖餐に向けての祈りの中で、罪を調べ、〔それらを〕承認し、告白し、悔い改めて、いのち(生活)を新しくすること公然と教えており、そしてそれらを行なわない者を、何らかの悪魔がユダの中に入ったように彼らの中に入り、そして彼らをすべての不正で満たし、身体と霊魂を破壊するという言葉でおどしています。
信仰のみについての教えの中にいるドイツ人、スウェーデン人、デンマーク人もまた、聖餐への祈りの中で同様のことを教えています。さらにまた、そうでなければ自分自身に地獄の罪を作り出し、そして聖なるものと世俗のものの混合のために永遠に断罪されるとおどしています。
これらは祭司により、すべての承認をもって、このようであることが大きな声で彼らの前で朗誦され、聖餐に出席しようとする者にもまた聞かれます。
[2]それにもかかわらず、同じ者が、そのとき同じ日に、信仰のみについて説教を聞き、その時、主は律法を成就したので律法は彼らを有罪としないこと、自分自身からは功績を求めるものでないなら何らかの善を行なうことができないこと、このように本質的に救いに何の働きも持たないこと、しかし、信仰のみが救うことを聞いて、家に戻ると、前の告白をすっかり忘れて、信仰のみについて説教から考えるかぎり、それを拒否します。
それで、〔次の〕前者あるいは後者の何れが真理ですか?対立した二つのものが真理であることはできません。〔一つは〕調べること、思考、承認、告白と罪の拒否なしに、このように悔い改めなしに、彼らに赦しは、したがって救いは存在せず、永遠の断罪があることです――または〔もう一つは〕人間のすべての罪の代わりに、信仰の中にいる者のためになされた十字架上の受難を通して主による完全な贖罪であるので、このようなものは救いに何もなさないこと、信仰のみの中にいる者たちは、このようであることの信頼とともに、また主の功績の転嫁について、罪がないという信頼の中で、神の前で、顔が洗われて輝いて見られることです。
これらから、キリスト教世界の中のすべての教会のすべての宗教は、人間は自分自身を調べ、自分の罪を見、認めなければならないこと、またその後、それらから離れなければならなず、そうでなければ救いはなく、しかし、有罪とされることが明らかです。
さらにまた〔これが〕神的な真理そのものであることは、人間が悔い改めを行なわなければならないことを命じられているみことばの箇所から明らかです、例えばこれらから――

ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。……すでに……斧は木の根元に置かれている。よい実を結ばない木は、すべて、切り倒される、また火の中に投げ込まれる」と言った(ルカ3:8, 9)。
イエスは、「あなたがたが悔い改めないなら、すべての者〔と同じように〕あなたがたは滅びます」と言われた(ルカ13:3, 5)。
イエスは、「神の王国の福音を……悔い改めを行ない、福音を信じなさい」と宣言された(マルコ1:14, 15)。
イエスは、弟子たちが出て行き「悔い改めを行なうように」と宣言するよう送り出された(マルコ6:12)。
イエスは、使徒たちに「すべての国民に悔い改めと罪の赦し」を宣言しなければならない、と言われた(ルカ24:47)。
ヨハネは、「罪の赦しの中に悔い改めのバプテスマ」を宣言した(マルコ1:4, ルカ3:3)。

次のことについてもまた何らかの理解力から考えなさい。もしあなたに宗教があるなら、あなたは、罪からの悔い改めは天界への道であること、悔い改めから分離した信仰は信仰でないこと、また悔い改めないことから、信仰の中にない者は、地獄への道の中にあることを見ます。

神の摂理

114◀︎目次▶︎116

115 仁愛から分離した信仰の中にいて、また「ローマ人への手紙」でパウロの言葉、人間は律法の働きなしに信仰により義とされる(3・28)ことから自分自身に確信した者は、太陽を崇拝する者のように、この言葉を崇拝し、目を頑固に太陽の中に固定させた者のようになり、そのことから鈍くなったまなざしは、真昼の光の中で何も見ません――というのは、モーセにより書かれたそこの「律法の働き」によって、儀式が意味されており、それらはどこでもそこに「律法」と呼ばれており、十戒の戒めでないことを見ないからです。
それゆえ、十戒の戒めが意味されていない、と言って、〔次のように〕説明します、

それゆえ、私たちは信仰によって律法を廃止したのではないのか?〔そんなことは〕ない、しかし、私たちは律法を確立させる(同章の第31節)。

その言葉から自分自身に〔仁愛から〕分離した信仰を確信した者は、太陽のようにそれを熟視して、その箇所に信仰の律法が列挙されているのを見ません、それらは仁愛の働きそのものです。そこで、その律法なしに信仰とは何でしょうか?
悪の働きを行なう者は、天界の中に入ることができない、と言って、そこにその悪の働きが列挙されていることも見ません。
そのことから、この箇所のたった一つの悪い理解から、どのような盲目が引き起こされるか明らかです。

神の摂理

115◀︎目次▶︎117

116 外なる人の中の悪は、人間によってでなければ、主により遠ざけられることができないことは、主の神的な摂理から、人間が聞き、見、考え、意志し、話し、行なうものは何でもまったく彼のものであるように見えるからです。
その外観なしに、人間には神的な真理の何らかの受け入れはなく、善を行なおうとする決定もなく、愛と知恵、なおまた仁愛と信仰を自分のものとすることもなく、ここから主の結合はなく、それゆえ、改心と再生はなく、したがって救いもなかったであろうことは、前に示されています(71-95番とその続き)。
その外観なしに、罪からの悔い改めは、それどころか信仰もありえないこと、なおまた、人間はその外観なしに人間でなく、しかし、理性的ないのちを欠いて、獣と等しいことは明らかです。
自分の理性を欲する者は、人間が善と真理について、霊的にも、道徳的で市民的にも、自分自身から考えるように見えているだけではないかと思い巡らします。その時、すべての善と真理は主からであり、決して人間からではないという、教えを受け入れなさい。この結果、あなたは、人間が自分自身からのように善を行ない、真理を考えなくてはならないこと、しかし、それでもそれらが主からであること認なければならないことを認めるのではありませんか?それゆえ、さらにまた人間は自分自身からのように悪を遠ざけ、しかし、それでもそれを主から行なうことを認めなくてはなりません。

神の摂理

116◀︎目次▶︎118

117 悪の中にいることを知らない多くの者がいます、その者は外なるものの中でそれらを行なわないからです。というのは、市民の法律を、名声の失われることを恐れ、自分の名誉また自分の利益に害があるとして、このように慣れと習慣から悪を避けることを吸収するからです。
しかし、罪であり、神に反するものであるからと、悪を宗教の原理から避けないなら、その時、彼らのもとに悪の欲望がそれらの快さとともに、ふさがれたまたはよどんだ不潔な水のように残ります。
自分の思考そして意図を調べなくてはなりません、すると、何が罪であるか知るかぎり、それらを見つけます。
[2]仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した多くの者はこのような者であり、その者は、律法は断罪しない、と信じるので、罪を決して気にしません。またある者は〔罪が〕あるかどうか疑わず、またもしあるなら、赦されたので神の前に〔罪が〕ないとします。
さらにまたこのような者は自然的な道徳家であり、その者は市民的で道徳な生活が彼の思慮分別とともにすべてのものを生み出し、神的な摂理は何も生み出さないと信じます。
さらにまたこのような者は、名誉のためにまたは利益のために、正直と誠実の名声と称号を多くの熱意で追い求めます。
しかし、このような者であり、また同時に宗教を軽蔑した者は、死後、欲望の霊になり、その霊は自分自身に人間そのものであったように見えますが、しかし、他の者たちに遠方からプリアーポス〔好色な男の霊〕のように見えます。そして、彼らはフクロウのように暗やみの中で見、光の中で何も見ません。

神の摂理

117◀︎目次▶︎119

118 そこで、これらから(5)「それゆえ、人間は自分自身からのように悪を外なる人から遠ざけなくてはならない」ことが確信されます。
それらはまた『新しいエルサレムのための生活の教え』の三つの章の中に説明されているのが見られます――一つの章の中に、ある者は、悪に対する闘争によって内的にそれを退けるようにまでも避けないなら、悪を罪として避けることができないこと(92-100番)――もう一つの章の中に、人間は自分自身からのように悪を罪として避け、それらに対して闘わなくてはならないこと(101-107番)――第三の章の中に、だれかが罪であるので避けないでそれ以外の何らかの他の理由から悪を避けるなら、ただ世の前に現われないように避けるだけのこと(108-113番)。

神の摂理

118◀︎目次▶︎120

119 (6)その時、主は人間を、内なる人の中で悪の欲望から、外なる人の中で悪そのものから、清められる
人間が自分自身からのように悪を遠ざける時、主がその時、人間を悪の欲望から清めることの理由は、主は〔それ〕以前に清めることができないからです。というのは、悪は外なる人の中に、また悪の欲望は内なる人の中にあり、そして幹とともに根のように密着しているからです――それゆえ、悪が遠ざけられないなら、開き口は与えられません。というのは、それらが扉をふさぎ、閉じ、すぐ前に示されているように、それは人間によってでないなら、主により開けられることができないからです。
そのように人間が自分自身からのように扉を開く時、主は同時に欲望を根こそぎにされます。
さらにまたその理由は、主は人間の最内部の中で働かれ、最内部からその結果として最外部のものにまで働かれ、人間は同時に最外部の中にいるからです。
そこで最外部が人間自身により閉ざされるかぎり、何らかの清めは可能ではなく、単にさらに低いものの中で、地獄の中の主にあるような、このような働きが行なわれることができるだけであり、欲望と同時に悪の中にいる人間はその地獄の形です。〔そして〕、その働きは、あるものが他のものを滅ぼさないように、また善と真理を害さないようにする単なる調節です。
人間が自分自身で扉を開くように、主が絶えず駆り立て、そして迫ることは、「黙示録」の中の主のことばから明らかです――

見よ、わたしは戸に立ち、叩く。もし、だれかがわたしの声を聞き、戸を開けるなら、わたしは彼のところに入り、わたしは彼と、また彼もわたしと食事をする(3:20)。

神の摂理

119◀︎目次▶︎121

120 人間は自分の心の内的な状態、すなわち、自分の内なる人について少しも知りません。それでもなお、そこに無限のものがあり、それらは一つも彼の思考にやって来ません。
というのは、人間の思考の内なるものは、すなわち、彼の内なる人は、彼の霊そのものであり、またその中に人間の身体の中〔のもの〕と同数の多くの無数のもの、それどころか、さらに無数のもの、このように無限なものがあるからです。なぜなら、人間の霊はその人間の形の中にあり、彼のすべてのものは彼の身体の中の人間のすべてのものと対応するからです。
さて、人間が何らかの感覚から何も知らないように、どのように彼の心または霊魂が身体の自分のすべてのものに結合して、個々に働くか、このようにまた、どのように主が心または霊魂のすべてのものの中で、すなわち、彼の霊のすべてのものの中で働かれるか、人間は知りません。
〔その〕働きは連続するものです。これに人間は何の役割も持ちません。しかしそれでも、人間が外的なものを閉ざして保つかぎり、主は、彼の霊の中の、すなわち、内なる人の中の、どんな悪の欲望からも、人間を清めることができません。
悪があり、それによって人間は自分の外なるものを閉ざして保ちます。それら〔悪〕のそれぞれが彼に一つのもののように見え、それでも無数のものがそれぞれのものの中にあります。人間がこれを一つのもののように遠ざけるとき、主はその中の無数のものを遠ざけられます。
その時、主が内なる人の中の悪の欲望から、また外なる人の中の悪そのものから人間を清めることによって意味されるものはこのことです。

神の摂理

120◀︎目次▶︎122

121 多くの者により、単に教会が教えることを信じることが、人間を悪から清めることであると信じられています。ある者により、善を行なうことが清めること、ある者により、教会のものであるこのようなものを知り、話し、また教えること、ある者により、みことばや信仰修養書を読むこと、ある者により、礼拝所をしばしば訪れること、説教を聞くこと、また特に聖餐に出席すること、ある者により、世を退け、そして信心に専念すること、ある者により、すべての罪の事柄を自分自身に告白することなどが信じられています。
しかしそれでも、これらすべてのものは、彼が自分自身を調べ、自分の罪を見、それらを認め、それらのために自分自身を有罪とし、そして、それらをやめようと、悔い改めを行ない、これらすべてを自分自身からのように、しかしそれでも、心の承認から、主からであることを行なわないなら、決して人間を清めません。
[2]これらが行なわれる前に、前述のことは決して助けとなりません、というのは、功績を求めるものあるいは偽善的なものであり、そして彼らは天界の中の天使の前に、自分の腐敗から悪臭を放つ美しい娼婦のように、あるいは、見せかけから美の外観を引き起こす醜い女のように、あるいは、舞台の上で道化や喜劇役者に扮する者のように、あるいは、人間の衣服を着たサルのように見えるからです。
しかし、悪が遠ざけられる時、前述のことは彼らの愛のものとなり、彼らは天界の中の天使の前に、美しい人間として、そして彼らの〔地域〕仲間と〔仕事〕仲間のように見えます。

神の摂理

121◀︎目次▶︎123

122 しかし、人間は悔い改めを行なうとき、主だけに目を向けるべきであることをよく知らなければなりません。もし父なる神だけに向けるなら清められることはできません。御子ゆえに父に目を向けてもできません。単なる人間としての御子に目を向けてもできません――というのは、唯一の神がいて、主がその方であられるからです。なぜなら、『新しいエルサレムの教え 主について』にあるように、その方の神性と人間性は一つの位格(ペルソナ)であるからです。
だれもが悔い改めを行なうとき、主だけに目を向けるように、その方により聖餐で制定されており、それは悔い改めを行なう者のもとに罪の赦しを確立します。確立するのは、その聖餐式では、だれもが主だけに目を向けるよう保たれるからです。

神の摂理

122◀︎目次▶︎124

123 (7)人間をご自分に、ご自分を彼に結合させ、彼に永遠のいのちの幸福を与えることができるように、絶え間のない主の神的な摂理があり、このことは、悪がそれらの欲望とともに遠ざけられていないかぎり、行なわれることができない
人間を主に、また人間がその方に結合することは、絶え間ない主の神的な摂理であり、その結合は改心と再生と呼ばれ、ここから人間に救いがあることは、前に示されています(27-45番)。
主との結合が永遠のいのちと救いであることをだれが見ませんか?
人間は創造から神の映像と似たものであること信じるすべての者はこのことを見ます(「創世記」1:26, 27)。
[2]健全な理性のある者が、自分の推理力から考え、自分の自主性から考えることを欲する時、等しい本質であり、神的なエッセ(存在)または神的な本質が分割されることができる三人の神がいることを、だれが信じることができますか?
ひとりの神の中に三一性があることは、天使そして人間の中に霊魂と身体が、そしてそれらから発出するいのちが把握されるように、このことは考え、把握されることができます。
また、一つのものの中のこの三一性は主の中だけに存在するので、結合はその方とでなくてはならないことがいえます。
あなたの推理力、そして同時に考える自主性を用いなさい、するとあなたはこの真理を自分の光の中に見るはずです。しかし、前もって、神が存在し、天界があり、また永遠のいのちがあることを心に入れておきなさい。
[3]さて、神はひとりであられ、そして人間は創造からその方の映像と似姿に造られたので、また地獄の愛そしてその欲望とその快さによって、すべての悪の愛の中にやって来ていて、ここから神の映像と似姿を自分自身のもとに破壊したので、絶え間ない主の神的な摂理があり、それは人間をご自分に、ご自分を人間に結合させ、このようにその方の映像であるようにします。
このことは、主が人間に永遠のいのちの幸福を与えることをできるようにする目的のためであることもまたいえます、なぜなら、神的な愛はこのようなものであるからです。
[4]けれども、人間が自分自身からのように人間の外的なものの中で罪を遠ざけないなら、それらは与えられることも彼をご自分の映像につくることもできません。なぜなら、主は神的な愛であるだけでなく、神的な知恵でもあり、神的な愛はご自分の神的な知恵からでないなら、またそれにしたがってでないなら何も行なわないからです。
人間は、彼に理性にしたがって自由から行動することが許されないなら(というのはそのことによって人間は人間であるから)、その方に結合され、したがって改心し、再生され、救われることができないことは、その方の神的な知恵にしたがっています。どんなものでも主の神的な知恵にしたがっているものは、これもまたその方の神的な摂理のものです。

神の摂理

123◀︎目次▶︎125

124 これらに私は天使の知恵の二つの秘義を付け加えます。それらから神的な摂理がどんなものか見られることができます――一つは、主は、人間の個々のもののもとの何らかの細部の中で、同時にすべてのものの中でないなら、決して働かれないことです。もう一つは、主は最内部からと最外部から同時に働かれることです。
主は、人間の個々のもののもとの何らかの細部の中で、同時にすべてのものの中でないなら決して働かれない」のは、人間のすべてのものが多くのもののようでなく、しかし一つのように働くような、このような結びつきの中にあり、結びつきによってこのような形の中にあるからです。
人間が身体に関してこのような結びつきの中と結びつきによって、このような形の中にいることはよく知られています。
人間の心もまた、すべてのものの連結から同様な形の中にあります、なぜなら、人間の心は霊的な人間であり、そしてまた実際に人間であるからです。
ここから、人間の霊は、それは身体の中の彼の心であって、すべての形の中で人間です。それゆえ、人間は、死後、世の中でのように等しく人間ですが、ただ、世の中で彼の身体をつくったぬけがらを捨てたという相違があります。
[2]さて、人間の形は、すべての部分が共通なものをつくるような、一つとして働くようなものであるので、あるものは残りの(他の)同意の中でないなら、場所を取り除かれること、そして状態に関して変えられることができないことがいえます。なぜなら、もし一つのものが場所を取り除かれ、また状態に関して変えられるなら、一つとして働く形は傷つくからです。
これらから、主は、何らかの細部の中で、同時にすべてのものの中でないなら決して働かれないことが明らかです。
天使の全天界は主の視野の中で一人の人間のようであるので、そのように主は天使の全天界の中で働かれます。
そのようにまた、それぞれの天使は最小の天界の形をしているので、主はそれぞれの天使の中で働かれます。
このようにさらにまた、〔主は〕それぞれの人間の中で、最も近く彼の心のすべてのものの中で、これらによって彼の身体のすべてのものの中で働かれます。なぜなら、人間の心は彼の霊であり、主との結合にしたがって天使であり、そして身体は服従するものであるからです。
[3]しかし、主は人間のすべての細部の中の個々のものに、それどころか最も個々のものにもまた、しかし、同時に彼の形のすべてのものの中で働かれることをよく注意して見なければなりません。しかしそれでも、何らかの部分の状態は、すなわち、細部の中のものの何らかのものは、形の全体に適合しないなら、変えません。
しかし、これら多くのことについては続くものの中で述べます、そこに、主の神的な摂理は個々のものの中にあるので普遍的であること、普遍的であるので個々のものの中にあることが示されています。
[4]「主は最内部と最外部から同時に働かれる」のは、このようにまた他と異なることなく、すべてと個々のものは結びつきの中に保たれ、中間のものは継続的に最内部から最外部まで依存し、最外部の中に同時にそれらがあるからです。なぜなら、論文『神の愛と神の知恵について』の第三部の中で、最外部の中に最初のものからすべてのものは同時に存在することが示されているからです。
さらにまた、永遠からの主、すなわち、エホバが世の中にやって来られたこと、そしてそこに、最初のものから同時に最後のものの中で存在することができるように、最後のものの中で人間性をまとい、とられ、このように最初のものから最後のものによって全世界を支配すること、したがって人間を救うこと、それらをご自分の神的な摂理の法則にしたがって、それらはまたご自分の神的な知恵の法則であり、救うことができるのはこのことからです。
そこで、主が世にやって来られなかったなら、死すべきもの(人間)はだれも救われることができないことはキリスト教世界の中でよく知られていることであり、それについて『新しいエルサレムの教え 信仰について』に見られます(35番)。
ここから、主は「最初の者」と「最後の者」と言われます。

神の摂理

124◀︎目次▶︎126

125 三一性天使のこれらの秘義があらかじめ言われたのは、主の神的な摂理が、どのように人間をご自分にまたご自分が人間に結合するように働くか理解されることができるためです。このことは人間のすべてのものの中に同時でなければ、また人間の最内部と彼の最外部から同時に生じなければ、彼の何らかの細部の中に個々に生じません。
人間の最内部のものは彼のいのちの愛です。最外部のものは思考の外なるものの中にあるものです。中間の(媒介として働く)ものは、彼の思考の内なるものの中にあるものです――それらが悪い人間のもとでどんなものであるかは、前のものの中に示されています。それらから再び、主は人間と一つでないなら最内部と最外部から、最外部のものの中で同時に働くことができないことが明らかです、人間は主と一つであるからです。それゆえ、人間が最外部の中で行動するように、それらは彼の自由の中にあるので、彼の自由裁量のものであって、そのように主は彼の最内部から連続的に最外部に向けて行動されます。
人間の最内部の中にあり、連続的に最内部から最外部に向けて存在するそれらのものは人間にまったく知られていません。ここから、主がどのようにまた何をそこで働らかれているか、人間はまったく知りません。しかし、それらは最外部のものと一つとして密着しているので、それゆえ、悪を罪として避け、主に目を向けることよりも多くのことを、人間に知ることは必要ではありません。
そうでなければ、このように彼のいのちの愛は、出生から地獄のものであって、主により遠ざけられ、それに代わって天界のいのちの愛が植え付けられることができません。

神の摂理

125◀︎目次▶︎127

126 天界のいのちの愛が地獄のいのちの愛に代わって主により植え付けられる時、悪と虚偽の欲望に代わって善と真理の情愛が植え付けられ、そして悪と虚偽の欲望の快さに代わって善の情愛の快さが植え付けられ、地獄の愛の悪に代わって天界の愛の善が植え付けられます。
その時、欺きの代わりに思慮分別が植え付けられ、悪意の思考の代わりに知恵の思考が植え付けられます。このように人間は再び生まれ、新しいものが生じます。
どの善が悪に代わって続くかは、『新しいエルサレムのための生活の教え』の中に見られます(67-73番74-79番80-86番87-91番)――なおまた、人間が悪を罪として避け、退ければ退けるほど、それだけ知恵の真理を愛します(32-41番)――それだけ信仰を持ち、霊的です(42-52番)。

神の摂理

126◀︎目次▶︎128

127 人間が自分自身を調べ、自分の罪を見、それらを認め、それらを神の前で告白し、それらから離れること、またこれが悔い改め、罪の赦しであり、ここから救いがあるという共通の宗教が全キリスト教世界の中にあることは、すべてのキリスト教会の中で聖餐の前に朗誦される祈りから、前のところに示されています。
さらにまた同じことを、アタナシウスにちなんで名前づけられた信仰から明らかにすることができ、それもまた全キリスト教世界の中で受け入れられていて、そこにはその終わりに次の言葉があります――

主は生きている者と死んだ者を裁くためにやって来られ、その来臨の中で、善を行なった者は永遠のいのちの中へ、悪を行なった者は永遠の火の中へ入る。

神の摂理

127◀︎目次▶︎129

128 だれが、自分の行為にしたがって死後、それぞれに生活(いのち)が定められることを、みことばから知りませんか?
みことばを開け、それを読みなさい。するとあなたにはっきりと読み取れます、しかし、その時、信仰からまた信仰のみによる義認から思考を遠ざけなさい。
主はご自分のみことばの中のどこでもそのことを教えられています。次のわずかなものが、その証拠です――

善い実を結ばないすべての木は、切り倒され、火の中に投げ込まれる。それゆえ、彼らの実からあなたがたは彼らを知る(マタイ7:19, 20)。
その日に、多くの者がわたしに言う、主よ……あなたの名前によって私たちは預言し……あなたの名前の中に私たちは多くの力あるわざを行ないませんでしたか?しかし、その時、わたしは彼らに言明します、わたしはあなたがたを知らない、わたしから離れよ、不法を行なう者よ(マタイ7:22, 23)。
わたしのことばを聞いて、それらを行なうすべての者を、わたしは岩の上に家を建てた賢明な人にたとえます。……しかし、わたしのことばを聞いてそれらを行なわないすべての者は、自分の家を「土台のない土の上に」建てた愚かな人にたとえられます(マタイ7:24, 26, ルカ6:46-49)。
[2] 人の子が自分の父の栄光の中にやって来ようとしている……その時、それぞれの者にその行為にしたがって報いられる(マタイ16:27)。
あなたがたから神の国は取り去られ、その実を結ぶ国民に与えられる(マタイ21:43)。
イエスは言われた、「わたしの母とわたしの兄弟は、神のみことばを聞いて、それを行なう者です」(ルカ8:21)。
その時、あなたがたは……「主よ、私たちに開けよ」と言って、戸に立ち、たたき始める。しかし、彼らに応えて、「わたしはあなたがたがどこからであるか知らなかった……わたしから離れよ、すべて不法を行なう者たち」と言う(ルカ13:25-27)。
善を行なった者はよみがえりの中で、いのちへ、悪を行なった者は、よみがえりの中で、さばきへ出てくる(ヨハネ5:29)。
[3] 私たちは……神が罪人たちを聞かれないことを、しかし、だれかが神を礼拝し、その方のみこころを行なうなら、この者を聞かれることを知っています(ヨハネ9:31)。
あなたがたがこれらのことを知り、あなたがたがそれらを行なうなら、祝福があなたがたにあります(ヨハネ13:17)。
わたしの戒めを保ち、それらを行なう者は、わたしを愛する者です……わたしは彼を愛します……わたしは彼のところにやって来ます、わたしは住まいを彼のところにつくります(ヨハネ14:21-24)。
あなたがたがどんなものでも命令を行なうなら、あなたがたはわたしの友です。……わたしがあなたがたを選びました……あなたがたが実を結び、あなたがたの実が残るように(ヨハネ15:14, 16)。

[4]主はヨハネに言われました、

エペソの教会の天使に書け、わたしはあなたの働きを知っている。……わたしはあなたに〔非難すべきことが〕ある、あなたは前の仁愛を捨てている。……悔い改めを行なえ、前の働きを行なえ。もし〔そうでない〕なら、わたしはあなたの蜀台をその場所から移す(黙示録2:1, 2, 4, 5)。
スミルナの教会の天使に書け、わたしはあなたの働きを知っている(黙示録2:8, 9)。
ペルガモの中の教会の天使に書け……わたしはあなたの働きを知っている、悔い改めを行なえ(黙示録2:12, 13, 16)。
テアテラの中の教会の天使に書け……わたしはあなたの働きを、また前よりも多くのその後のあなたの働きを、また仁愛を知っている(黙示録2:18, 19)。
サルデスの中の教会の天使に書け……わたしはあなたの働きを、あなたが名前を持っていること、生きていることを知っている、しかし、あなたは死んでいる。……わたしはあなたの働きが神の前に完全であるのを見なかった……悔い改めを行なえ(黙示録3:1-3)。
フィラデルフィアの中のその教会の天使に書け……わたしはあなたの働きを知っている(黙示録3:7, 8)。
ラデオキヤの教会の天使に書け、わたしはあなたの働きを知っている。……悔い改めを行なえ(黙示録3:14, 15, 19)。
私は天から言う声を聞いた、書け、今から主にあって死ぬ死者は幸いである。……彼らの働きは彼らに続く(黙示録14:13)。
いのちの書である書物が開かれ、死んだ者が……すべての者は彼らの働きにしたがってさばかれた(黙示録20:12, 13)。
見よ、わたしはすぐに来る、わたしがそれぞれの者に彼の働きにしたがって与えるために、わたしの報酬はわたしとともにある(黙示録22:12)。

これらは新約聖書にあります。

[5]さらに多くのものが旧約聖書にありますが、それらから私は次のただ一つだけを提示します――

エホバの……門に立て、そこでこのことばを宣言せよ――
イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われた、あなたがたの道と、あなたがたの働きを善いものに戻せ。……あなたがたは、「これはエホバの神殿、エホバの神殿、エホバの神殿」と言って、あなたがたにうそをつく者たちを信頼してはならない。……盗み、殺し、姦淫し、うそによって誓うのか。……その後、あなたがたはやって来て、この家の中で、その家の上にわたしの名前が名づけられているその家の中で、わたしの前に立ち、あなたがたがそれらの忌まわしいことを行なっている時に、あなたがたは、「私たちは救われている」と言う。この家は強盗の巣となったのか。さらにまた、見よ、わたしは見た。〔これらは〕エホバの言われたこと〔である〕(エレミヤ7:2, 3, 4, 9-11)。

神の摂理

128◀︎目次▶︎130

(4–3)神的な摂理の法則は、人間が外なる手段によって考え、意志することへ向けて、このように、宗教のものを信じ、愛することへ向けて強制されないこと、しかし、人間が自分自身で引き起こし、時には強制しなければならないことである

129 この神的な摂理の法則は、先行する二つのものから結果として生じ、それらは、人間は自由から理性にしたがって行動すること(それについて71-99番)、このことは自分自身から、それでも主から、そのように自分自身からのように〔行動する〕ことです(それについて100-128番)。
強制されることは、理性にしたがって自由からでなく、自分自身からでもなく、しかし、自由でないものから、また他の者からであるので、それゆえ、この神的な摂理の法則は、順序で前の二つのものから後に結果として生じます。
さらにまた、だれも考えたくないことを、考えるように強制されることができないこと、また意志したくないことを意志するように、このように信じないことを信じるように、信じたくないことを信じるようにもまったく強制することができないこと、そして、愛さないことを愛するように、愛したくないことを愛するようにもまったく強制することができないことを、だれでも知っています。
人間の霊または彼の心は、考え、意志し、信じ、愛することの完全な自主性の中にあるからです。霊界からの流入からその自主性の中にいます。それは強制しません、というのは、霊または人間の心はその世界の中にあるからです。けれども、〔その自主性の中にいるのは〕自然界からの流入からではなく、〔霊界からの流入が〕一つとなって働かないなら、それは受け入れられません。
[2]人間は、これを考え、意志する、またこれを信じ、愛すると言うように強いられることができます。しかし、それらが彼の情愛のものまたここから理性のものでないかまたは〔それらから〕生じないものなら、やはりそれらを考えず、意志せず、信じも、愛しもしません。
さらにまた、人間は宗教のために話すよう、それにしたがって行なうよう強制されることができます、しかし、何らかの信仰からそのために考えるように、何らかの愛からそのために意志するように強制されることはできません。
さらにまた、国々の中のそれぞれの者が、そこでは公正と裁判が守られていて、宗教に反して話さないように、それらに反して行なわないことも強制されますが、しかしそれでも、だれも、それらのため考え、意志するよう強制されることはできません。なぜなら、それぞれの者に地獄とともに考え、そのために意志する自主性が、さらにまた天界のために考え、そのために意志する自主性があるからです。しかし、理性から、ある者と他の者がどんなものか、ある者とも他の者にどんな運命が待つか教えられ、そして理性からの意志には、選択権と〔実際の〕選択があります。
[3]これらから、外なるものは内なるものを強制することができないことを明らかにすることができます――それでも時々〔強制が〕生じますが、しかし、それが有害であることは、次の順序で示されます――

(1)だれも奇跡やしるしによって改心されない、それらは強制するから。
(2)だれも幻によって、死んだ者との会話によって改心されない、それらは強制するから。
(3)だれもおどしや罰によって改心されない、それらは強制するから。
(4)推理力や自主性のない状態の中で、だれも改心されない。
(5)自分自身を強制することは、推理力と自主性に反していない。
(6)外なる人は内なる人によって改心され、逆ではない。

神の摂理

129◀︎目次▶︎131

130(1)だれも奇跡やしるしによって改心されない、それらは強制するから
人間には思考の内なるものと外なるものがあること、主は思考の内なるものを通って人間のもとの思考の外なるものの中に流入し、このように彼を教え、導くこと、なおまた、人間が自由から理性にしたがって行動することは、主の神的な摂理からであることが前に示されました。
そしてこの二つとも、奇跡が行なわれ、人間がそのことによって信じることへと強いられるなら、人間のもとで失われます。
このようであることは、理性的に次のように見られることができます――
奇跡が信仰を引き起こし、奇跡を行なう者が、話し、教えたことは真実である、と強く説きつけ、このことが、あたかも勝ち、魅了するかのように、最初に人間の思考の外なるものを占めることは否定できません。
しかし、人間はそれによって推理力と自主性と呼ばれる自分の二つの能力を奪われ、そのように自由から理性にしたがって行動することができず、その時、主は内なるものを通って彼の思考の外なるものの中へ流入することも、自分の推理力からそれらの事柄を確信することもできず、単に人間に奇跡によって彼の信仰のものになったものを残すことしかできません。
[2]人間の思考の状態は、思考の内なるものにより、物事をある種の鏡の中に、自分の思考の外なるものの中に見るようなものです。なぜなら、前に言われたように、人間は自分の思考を見ることができますが、その思考は内なる思考からでないなら与えられることができないからです。
また、物事を鏡の中のように見るとき、自分自身に美しく見えるようにまでも、それをあちらこちらに向きを変えることもまたできます――その物事が、真理であるなら、美しい、生きている娘または若者にたとえられることができます。しかし、人間がその物事をあちらこちらに向きを変えること、それを形作ることができずに、しかし、単にそれを奇跡によって引き起こされた信念から信じることしかできないなら、その時、真理であるなら、石または木から刻まれたそれらの中にいのちのない娘または若者にたとえられることができます――そしてまた、常に視覚の前にあって眺められる対象にたとえられることもできます、それは、そのそばの両方に、またその後ろにあるものすべてのものを隠します。なおまた耳の中に絶えず続く音にたとえられます、それは多くのものからの調和する音の知覚を取り去ります。
このような盲目と難聴が奇跡によって人間の心に引き起こされます。
確信される前に、何らかの推理力から観察されることのないすべての確信も同様です。

神の摂理

130◀︎目次▶︎132

131 これらから、奇跡によって引き起こされた信仰は、信仰でなく、しかし、〔間違った〕信念であることを明らかにすることができます。というのは、その中に、何らかの理性は、まして何らかの霊的なものはないから。というのは、内なるもののない単なる外なるものであるからです。
あるいは神を認め、あるいはその方を家でまたは神殿(教会)で礼拝し、あるいは善を行なうにしても、人間がその(間違った)信念の信仰から行なうすべてのことも同様です。
単に奇跡が人間を、承認・礼拝・敬虔へ導き入れるとき、彼は霊的な人間からでなく、自然的な人間から行動します――なぜなら、奇跡は信仰を内なる道を通ってでなく、外なる道を通って、したがって、天界からでなく、世から植え付けるからです。主は内なる道以外の他の道を通って人間のもとに入られません、それは、みことばと、それからの教えと説教によってです。奇跡はこの道を閉ざすので、それゆえ、今日、奇跡は決して行なわれません。

神の摂理

131◀︎目次▶︎133

132 奇跡がこのようなものであることは、ユダヤとイスラエルの民の前で行なわれた奇跡からはっきりと明らかです。
彼らはたとえこのように多くの奇跡をエジプトの地で、その後、スフの海で、他にも荒野で、そして特にシナイ山の上で律法が布告されたときに見ても、それでも一か月後には、モーセがその山の上にとどまっているとき、自分たちに金の子牛をつくり、それを自分たちをエジプトの地から連れ出したエホバとして認めたのです(「出エジプト記」32:4-6)――なおまた、その後、カナンの地で行なわれた奇跡からも、それでも、これほどしばしば命じられた礼拝から去りました――同じく、主が世におられたときの奇跡から、それは彼らの前で行なわれたが、それでもその方をはりつけにしました。
[2]奇跡が彼らのもとで行なわれたことの理由は、カナンの地に導き入れたユダヤ人とイスラエル人はまったく外なる人であったので、善い者と等しく悪い人間も表象することができるように、単に教会とその内なるものを礼拝の外なるものによって表象するためでした。なぜなら、外なるものは儀式であり、そのすべてのものは彼らのもとで霊的なものと天的なものを意味したからです――それどころか、アロンは、たとえ金の子牛をつくり、その礼拝を命じても(出エジプト記32:2-5, 35)、それでも、主とその方の救いの働きを表象することができました。
礼拝の内なるものによって、その表象するものを引き起こされることができなかったので、それゆえ、奇跡によってそれが引き起こされ、それどころか、駆り立てられ、強制されました。
[3]礼拝の内なるものによって引き起こされることができなかった理由は、彼らは主を認めず、それでも彼らにあったみことばの全部は、その方についてだけ扱っており、主を認めない者は何らかの礼拝の内なるものを受け入れることができなかったからです。
しかし、主がご自分を明らかにされ、そして永遠の神として教会の中に受け入れられ、認められた後、奇跡はやみました。

神の摂理

132◀︎目次▶︎134a

133 しかし、奇跡の効果は、善い者と悪い者とで別です。
善い者は奇跡を望まないで、みことばの中にある奇跡を信じます。
奇跡について何らかのものを聞くなら、それらを自分たちの信仰を確信する重要でない論証のようにしか留意しません。なぜなら、彼らは、みことばから、したがって主から考え、奇跡から考えないからです。
けれども、悪い者は異なります――確かに、彼らは奇跡によって信仰へ、それどころか、礼拝へ、敬虔へと駆り立てられ、強制されますが、しかし、少しの間だけです。なぜなら、彼らの悪は閉ざされており、それらの欲望とそこからの快さは絶えず彼らの外的な礼拝と敬虔に働きかけ、そして自分の監獄から出て、突発するかのように、奇跡について考え、最後にはそれを技術上のごまかし、あるいは自然の産物とし、こうして自分の悪の中に戻るからです――礼拝後に自分の悪に戻る者は礼拝の善と真理を冒涜し、そして冒涜する者の運命は、死後、すべての者で最悪のものです。
これらの者が「マタイ福音書」で主のみことばにより意味されており、彼らの後の状態は前よりもさらに悪くなります(7:43-45)。
さらに、もし奇跡が、みことばの中の奇跡を信じない者のもとで行なわれたなら、このようなすべての者の視覚の前で絶えず行なわれたでしょう。
これらから、今日、奇跡が行なわれないことがどこからであるか、明らかにすることができます。

神の摂理

133◀︎目次▶︎134b

134a(2)だれも幻によって、死んだ者との会話によって改心されない、それらは強制するから
幻には、神的ものと悪魔的なものの二つの種類があります。神的な幻は天界の中の表象物によって生じ、そして、悪魔的な幻は地獄の中の魔術によって生じます。
さらにまた空想的な幻がありますが、それらは乱れた心の幻覚です。
天界の中の表象物によって生ずると言われたように、神的な幻は、預言者たちにあったようなものです。彼らは、その中にいたとき身体の中にいませんでした、しかし、霊の中にいました。なぜなら、幻は人間によってその身体の目覚めていることの中で見られることができないからです。
それゆえ、預言者たちに見られたとき、その時、霊の中にいたこともまた言われます。例えば、続く次のものから明らかです。
エゼキエルは言っています、

霊が私を上げ、神の霊の中で、神の幻の中で、カルデヤの中の捕囚へと私を戻した。そのように私の見た幻は私の上にのぼった(エゼキエル11:1, 24)。

なおまた、「霊」は彼を天と地の間に上げ、神の幻の中にエルサレムの中に連れ去ったこと(8:3以降)。
同様に、ケルビムであった四つの生き物を見たとき、神の幻または霊の幻の中にあった(第1章と第10章)。
例えばまた、新しい神殿と新しい地を、またそれを測る天使を見たとき(第40-48章)。

そのとき、神の幻の中にいた、と第40章2, 26節で、霊の中にいた、と第43章5節で言っています。
[2]同様の状態の中にゼカリヤはいました、

ミルトスの木の間に馬に乗っている人を見たとき(ゼカリヤ1:8以降)。
四つの角を(1:18)、人を、その手に測り綱を見たとき(2:1-3以降)。
蜀台と二本のオリーブの木を見たとき(4:1以降)。
飛んでいる巻き物とエパ(枡)を見たとき(5:1, 6)。
二つの山の間から出てくる四台の戦車を、馬を見たとき(6:1以降)。

同様の状態の中にダニエルはいました、

四頭の獣が海から上がってくるのを見たとき(ダニエル7:1以降)。
雄羊と雄ヤギの戦いを見たとき(8:1以降)。

それらを自分の霊の幻の中で見た、と第7章1, 2, 7, 13節、第8章2節、第10章1, 7, 8節に、また天使ガブリエルが幻の中で彼に見られた、と第9章21節に言われています。
[3]ヨハネもまた「黙示録」の中に述べられたものを見たとき霊の幻の中にいました。

例えば、七つの蜀台を、またそれらの真ん中に人の子を見たとき(1:12-16)。
天界の中の王座と王座の上に座られる方を、またその周りのケルビムであった四つの生き物を見たとき(第4章)。
小羊から受け取ったいのちの書を見たとき(第5章)。
書(巻き物)から出てくる馬を見たとき(第6章)。
ラッパを持った七人の天使たちを見たとき(第8章)。
開かれた深淵の穴を、またそこから出てくるイナゴを見たとき(第9章)。
竜とミカエルとのその戦いを見たとき(第12章)。
一匹は海から、もう一匹は地からのぼってくる二匹の獣を見たとき(第13章)。
緋色の獣の上に乗っている女を(第17章)、またバビロンの破壊を見たとき(第18章)。
白い馬を、またその上に乗られる方を見たとき(第19章)。
新しい天と新しい地を、また聖なるエルサレムが天から下って来るのを見たとき(第21章)。
いのちの水の川を見たとき(第22章)。

それらを霊の幻の中で見た、と第1章10節、第4章2節、第5章1節、第6章1節、第21章1、2節で言われています。
彼らの身体の視覚の前でなく、彼らの霊の視覚の前で見られた幻は、天界から見られたようなものでした。
今日、このようなものは現われません、なぜなら、もし現われるなら、表象物によって生じ、それらの個々のものは教会の内的なものを、また天界のアルカナを意味するので、理解されないからです。
さらにまた主が世に来られるとき〔こうした幻の〕やむことがダニエルにより第9章24節に予言されています。
けれども「悪魔的な幻」は、狂信の霊、幻視の霊によって引き起こされて、時々、現われます、その者は狂気から、自分自身を「聖霊」と呼んで、その中にいます。
しかし、それらの霊は今では主により集められ、他の地獄から分離された地獄の中へ投げ入れられています。
これらから、だれも、みことばの中にある以外の他の幻によって、改心することができないことが明らかです。
「空想的な幻」もまたありますが、しかし、それらは単なる乱れた心の幻覚です。

神の摂理

134a◀︎目次▶︎135

134b だれも死んだ者との会話によって改心されないことは、地獄の中の富んだ者とアブラハムのふところの中のラザロについての主のことばから明らかです。富んだ者は言ったからです、

アブラハムよ、「父よ、私はあなたにお願いします」、ラザロを、「あなたが私の父の家へ送るように。というのは、私は五人の兄弟を持っているからであり、彼らに、彼らもまたこの責め苦の場所にやって来ないことが証明されるためです。アブラハムは彼に、『彼らにはモーセと預言者がある、彼らに聞け』と言った。しかし、彼は、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死んだ者から彼らのところへ行くなら、彼らは悔い改めを行なうでしょう』と言った。彼に答えた、『もし、モーセと預言者に聞かないなら、だれかが死んだ者から生き返ったとしても、説得されないであろう』と」(ルカ16:27-31)。

死んだ者との会話は、直ぐ前にあるその奇跡と同様の効果を生ずるでしょう。すなわち、人間は、しばらくの間、礼拝へと説得され、駆り立てられることです。しかし、このことは、前に言われたように、人間の推理力を奪い、同時に悪を閉じ込め、この内的な呪縛または束縛は解かれ、そして閉じ込められた悪は、神への不敬と冒涜とともに突発します――しかし、このことは霊が宗教のある教義を導き入れる時だけに起こります。ある善霊により、まして、天界のある天使により、決して生ずることはありません。

神の摂理

134b◀︎目次▶︎136

135 しかし、それでも、霊たちとの会話は与えられますが、天界の天使たちとはまれです。そしてこれまでの時代に、多くの者に与えられています。けれども、与えられるとき、人間と彼の母語で単にわずかな言葉で話します――しかし、主の許しから話す霊や天使たちは、理性の自由を取り除くものは、決して何も話しませんし、教えもしません。というのは、主だけが人間を、みことばを通して間接的に、照らしの中で教えられるからです、そのことについては続くものの中で述べます。
そのようであることは、特別な経験から、知ることが与えられました。
霊や天使たちと会話が、私に今や多年にわたってありました。みことばから何かのものについて、あるいはみことばから何らかの教えの事柄について、霊も天使もあえて私に何も言おうとせず、まして教えようと欲しません、主だけが私を教えられました。主は〔ご自分を〕私に現わされ、またその後、太陽としてその中にご自分を現わし、照らされ、そのことが私の目の前に、天使たちに見られるかのように、絶えず見られ、また〔今も〕見られます。

神の摂理

135◀︎目次▶︎137

136 (3)だれもおどしや罰によって改心されない、それらは強制するから
外なるものは内なるものを強制することができないこと、しかし、内なるものは外なるものを強制することができることは、よく知られています――なおまた、内なるものはそれ自体を背けるように外なるものによる強制を拒絶することは、よく知られています。そしてまた、外なる快さは内なるものを、同意へ、愛へ誘うことは、よく知られています――さらにまた、強制された内なるものと自由な内なるものが存在することも、知られることができます。
しかし、これらすべてのことは、たとえ知られていても、それでも説明されるべきです。というのは、それらは聞かれる時、そのようであることが、真理であるからと直ちに知覚され、また、ここから肯定され、しかし、もし同時に理性によって確信されないなら、欺きからの論証によって弱められ、ついには否定されることのできる多くのものがあるからです。
それゆえ、今、知られているとして言われたそれらは、再び取り上げられ、理性的に確信されなければなりません。
[2]第一に、外なるものは内なるものを強制することができない、しかし、内なるものは外なるものを強制することができること――
信じることへ、また愛することへ、だれが強制されることができますか?
そのようであると考え、そのように強制されてないとき、信じることへと、さらに多く強制されることはできません。また、意志しないことを意志することへ、愛することへと、強制されることはさらにできません――さらにまた、信仰は思考に属し、愛は意志に属するものです。
しかし、内なるものは、国の法律、生活の習慣、教会の聖なるもの、それらに対して悪く語らないように、外なるものによって強制されることができます。このことへ内なるものは、おどしと罰によって強制されることができ、そしてまた強制され、また強制されるべきものです。
しかし、この内なるものは人間性に固有の内なるものではありません。しかし、人間が獣と共通に持つ内なるものであり、それもまた強制されることができます。
内なる人間性は、この動物の内なるものの上に住んでいます。
ここに意味されている内なる人間性は、強制されることができません。
[3]第二に、内なるものはそれ自体を背けるように外なるものによる強制を拒絶すること――
その理由は、内なるものは自由の中にいることを欲し、自由を愛するからです。というのは、前に示されているように、自由は人間の愛に、すなわち、いのちに属するものであるから。それゆえ、自由はそれ自体が強制されていることを感じる時、それ自体を、それ自体の中へのように引っ込め、それ自体を背かせ、強制を自分の敵のように眺めます。というのは、人間のいのちをつくる愛は、怒らせ、そして人間が、このように自分自身でないこと、したがって自分自身で生きていないことを考えるようにするからです。
人間の内なるものがこのようなものであることは、人間が理性にしたがって自由から行動するための主の神的な摂理の法則からです。
[4]これらから、人間を神の礼拝へと、おどしや罰によって強制することは有害であることが明らかです。
しかし、宗教へと強制されることを自分自身に許す者がいますし、許さない者がいます。
自分自身が宗教へと強制されることを許す者は、ローマカトリック教会のある国民に多くの者がいます。しかし、このことは、礼拝の中に内なるものが何もなく、しかし、すべてのものに外なるものがある彼らのもとに生じます。
自分自身が強制されることを許さない者は、イギリスの国民に多くの者がいます。このことから、内なるものが彼らの礼拝の中にあること、また外なるものの中に内なるものからのものがあることが生じます。
宗教に関するこれらの内的なものは霊的な光の中で、輝く雲のように見られます。しかし、宗教に関する前者の内的なものは天界の光の中で、黒ずんだ雲のように見られます。
この二つとも見られることは、霊界の中で与えられ、また見ようと欲する者は、死後にやって来る時、その世界の中で見られます。
さらに、強制された礼拝は悪を閉じ込め、それらはその時、灰の下の薪の中の火のように隠れていて、燃え上がって突発するまで、それらはそれ自体を絶えず燃やし、また広げます――しかし、強制しない自発的な礼拝は悪を閉じ込めません。それゆえ、それは直ちにパッと燃え出し、消される火のようです。
これらから、内なるものはそれ自体を背けるように強制を拒絶することが明らかです。
内なるものは外なるものを強制することができます、内なるものは主人のようであり、そして外なるものは召使いのようであるからです。
[5]第三に、外なる快さは内なるものを、同意へ、そしてまた愛へ誘うこと――
快さには、理解力の快さと意志の快さの2種類があります。意志の快さは知恵の快さ、理解力の快さは愛の快さでもあります。なぜなら、知恵は理解力に属し、愛は意志に属するからです。
さて、外なる快さである身体の快さとその感覚は理解力と意志に属する内なる快さと一つとして働くので、内なるものが外なるものによる強制を、それ自体を背けるようにまで拒否するように、そのように内なるものは外なるものの中の快さをそれ自体をそれらへ向けるようにまで好意をもって眺めることがいえます。このように同意が理解力の側から、また愛が意志の側から生じます。
[6]霊界のすべての幼児は、主からの快さと楽しさによって、天使の知恵の中に、それによって天界の愛の中に導き入れられます。最初に、家の中の美しいものによって、庭園の中の楽しいものによって――その後、彼らの心の内的なものを快楽で働きかける霊的な表象物によって、最後に、知恵の真理によって、またこのように愛の善によって――このように、絶えずその適切な順序による快さによってです。最初に理解力と知恵の愛の快さによって、最後に彼らのいのちの愛を生ずる意志の愛の快さによって、それらの下に快さによって入り、従属した他のものが保たれます。
[7]このことは、理解力と意志のすべてのものは外なるものによって形成されなくてはならないので、内なるものによって形成されるものに先んじて生じます。というのは、理解力と意志に属するすべてのものは最初に身体の感覚を通して、特に、視覚と聴覚を通して入るものによって形成されるから――しかし、理解力の最初のものと意志の最初のものが形成されるとき、思考力の内なるものはそれらを思考力の外なるもののように眺めます、それらと結合させるか、あるいはそれらから分離させます。快さがあるならそれらと結合し、ないならそれらから分離します。
[8]しかし、理解力の内なるものは意志の内なるものと結合しないこと、しかし、意志の内なるものは理解力の内なるものと結合すること、そして相互の結合であるようにすることは、よく知らなければなりません。しかし、このことは意志の内なるものにより生じ、理解力の内なるものによるのでは少しもありません。
ここから、人間は信仰のみによって改心することができません、しかし、自分自身に信仰をつくる意志の愛によって改心します。
[9]第四に、強制された内なるものと自由な内なるものが存在すること――
強制された内なるものは、内なるものが何もない単なる外なる礼拝の中にいる者のもとに存在します。というのは、彼らの内なるものは、強制される外なるものに向けて、それを考え、また意志するものであるから。
これらの者が、生きているまた死んでいる人間の礼拝の中に、ここから偶像の礼拝の中に、奇跡の信仰の中にいます。これらの者のもとには、同時に外なるものであるもの以外に何らかの内なるものは存在しません。
けれども、内なる礼拝の中にいる者のもとには、強制された内なるものが存在します。一つは恐れから、またもう一つは愛から――恐れから強制された内なるものは、地獄の責め苦とその火の恐怖からの礼拝の中にいる者のもとにあります。しかし、この内なるものは思考の内なるものではありません、それについて前に扱いましたが、しかし、思考に属するものであるのでこれは内なるものと呼ばれる思考の外なるものです――思考の内なるものは、それについて前に扱いましたが、何らかの恐れより強制されることができません。しかし、愛により、またその奪われることの恐れから強制されることができます。
純粋な意味の神への恐れは、これとほかなりません。
愛により、またその奪われることの恐れから強制されることは、自分自身を強制することです。自分自身を強制することは、自主性と推理力に反していないことは、以下に見られます。

神の摂理

136◀︎目次▶︎138

137 これらから、強制された礼拝が、また強制されない礼拝がどんなものか明らかにすることができます。
強制された礼拝は、身体的な、活気のない、不明瞭な、憂鬱な礼拝です――身体的であって心のものでないので身体的です。いのちがその中にないので活気がありません。理解力がその中にないので不明瞭です。また天界の快さがその中にないので憂鬱です。
しかし、強制されない礼拝は、本来のものである時、霊的な、生き生きとした、照らされた、元気のよい礼拝です。主からの霊がその中にあるので霊的です。主からのいのちがその中にあるので生き生きしています。主からの知恵がその中にあるので照らされています。主からの天界がその中にあるので元気がよいものです。

神の摂理

137◀︎目次▶︎139

138(4)推理力や自主性のない状態の中で、だれも改心されない
理性にしたがって自由から行動するものでないなら、何も人間に自分のものとされないことは前に示しました。
その理由は、自由は意志のもの、理性は理解力のものであり、人間が理性にしたがって自由から行動し、意志からその理解力によって行動する時、両方の結合の中で生じるものは、自分のものとされるからです。
それで、主は、人間が改心し、再生するように、彼に永遠のいのち、すなわち、天界のいのちがあるように望まれているので、だれも、彼の意志に善が彼のものであるように、そしてまた彼の理解力に真理が彼のものであるように自分のものとされないなら、改心し、そして再生することができず、理解力の理性にしたがって意志の自由からのものでないなら何もだれにも自分のものにされることができないので、だれも自主性のない、推理力のない状態の中では再生されないことがいえます。
自主性のない、推理力のない状態は数多くあります――これらは全般的に、恐怖・不幸・心の病・身体の病気・無知・理解力の盲目の状態に関係します。
しかし、それぞれの状態について、何らかのものを特に述べます。

神の摂理

138◀︎目次▶︎140

139「恐れの状態」の中でだれも改心されないのは、恐れは自由と理性を、すなわち、自主性と推理力を取り去るからです。というのは、愛は心の内的なものを開きますが、しかし、恐れはそれを閉ざし、閉ざされるとき、人間はわずかなものを考え、その時、アニムスまたは感覚に現われる以外のものでないなら考えないからです。
アニムスに侵入するすべての恐れは、このようなものです。
[2]人間に思考の内なるものと思考の外なるものがあることは、前に示されています――恐れは決して思考の内なるものに侵入することができません。これは、いのちのその愛の中にあるので、常に自由の中にあります。しかし、思考の外なるものに侵入することができ、これが侵入するとき、思考の内なるものは閉ざされ、その閉ざされることから、人間はもはや自分の理性にしたがって自由から行動することができず、したがって、改心することができません。
[3]思考の外なるものに侵入する恐れは、特に名誉または利益の失うことの恐れは、内なるものを閉ざします。けれども、市民の罰のための、また教会の罰のための外なる恐れは、閉ざしません、それらの法律は単に、国の市民の事柄と教会の霊的な事柄に対して、話し、行なう者たちに対して罰を命じますが、それらに反して考える者に対してではないからです。
[4]地獄の罰の恐れは確かに思考の外なるものに侵入します、しかし、いくらかの瞬間または時間、または日々だけです。しかし、間もなく、心の思考と呼ばれる正当に彼の霊のもの、いのちの愛のものである思考の内なるものからの自分の自由の中に戻されます。
[5]しかし、名誉と利益の失うことの恐れは、人間の思考の外なるものに侵入します。侵入する時、天界からの流入のための上のものからの思考の内なるものを閉ざし、人間が改心されることができないようにします。
その理由は、それぞれの人間のいのちの愛は、出生から自己と世の愛であり、そして自己愛は名誉への愛と一つとなり、世俗愛は利益への愛と一つとなっているからです――それゆえ、人間が名誉の中にまたは利益の中にいるとき、それらを失うことに対する恐れから、自分自身のもとに彼の名誉と利益のために仕える手段を強めます。それらの手段は市民のものと同じく教会のものであり、両方とも支配されるようにします。
名誉または利益の中にまだいない者も、もしそれらを得ようとするなら同様に行ないますが、しかし、それらのために名声を失うことに対する恐れからです。
[6]その恐れは思考の外なるものに侵入し、天界からの流入のための上のものからの内なるものを閉ざす、と言われます――完全に外なるものと一つとなる時、これが閉ざされると言われます、なぜなら、その時、それ自体の中にではなく、しかし、外なるものの中にあるからです。
しかし、自己と世の愛は地獄の愛であり、すべての悪の豊かな泉であるので、思考の内的なものが彼らのもとで本質的にどんなものであるか、すなわち、それらの愛がいのちの愛、支配する愛であること、すべての種類の悪の欲望に満ちていることが明らかです。
威厳と富を失うことの恐れから宗教的な信念について強い間違った信念の中にいる者は、とりわけ、異教の神のように、同時に地獄の中のプルートーンのように礼拝されることを含む宗教的な信念の中にいる者は、この悪を知りません。これらの者は、霊魂の救いのために熱意から燃え立つことができ、それでもこのことは地獄の火からです。
この恐れは起源から天界のものである推理力そのものと自主性そのものを特に取り除くので、それは人間が改心できないような障害物となることが明らかです。

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139◀︎目次▶︎141

140「不幸の状態」の中でだれも改心されないのは、その時、神についてだけ考え、助けを切願するなら、強制された状態にいるからです。それゆえ、自由の状態の中にやって来る時、前の状態の中で神について少し、あるいは何も考えなかった場合は、前の状態に戻ります。
前の自由の状態の中で神を恐れた者たちは異なります。
神を恐れることによって、その方に違反することを恐れることが意味され、そしてその方に違反することは罪を犯すことです。このことは恐れでなく、愛です。だれが、愛する者に悪をなすことを恐れませんか?彼を愛すれば愛するほどますます恐れませんか?
この恐れなしに、愛は本気ではなく、皮相的であり、思考だけのものであって、決して意志のものではありません。
不幸の状態によって、戦い・決闘・難船・没落・火災・差し迫ったまたは不意の財産の損失、ほかに職務またここから名誉の奪われること、また他の同様なもののような危険からの絶望の状態が意味されます。
これらの状態の中でただ神についてだけ考えても、神からでなく、自分自身から考えています――というのは、その時、心は身体の中に、いわば監禁の中にあるからであり、このように自主性の中になく、またここから、推理力の中にもなく、それらなしに改心は存在しないからです。

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140◀︎目次▶︎142

141 「心の病の状態」の中でだれも改心されないのは、心の病が推理力を、理性にしたがって行動する自由を取り除くからです。というのは、病んだ心は健全でなく、健全な心は理性的であるけれども、病んだ心は理性的でないからです。
このような病が、憂鬱症、にせのまた偽りの良心、いろいろな種類の幻想、不幸からのアニムスの苦痛、身体の欠陥からの心の不安や苦悶であり、それらは時々、試練として見なされます、しかし、試練ではありません。本来の試練は対象として霊的なものをもち、それらの中で心は賢明です、しかし、対象として自然的なものをもっているそれらの中で心が狂っているからです。

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141◀︎目次▶︎143

142「身体の病気の状態」の中でだれも改心されないのは、理性は、その時、自由の状態の中にないから、というのは、心の状態は身体の状態によるからです。
身体が病気であるとき、心もまた病気です、〔実際に〕世から隔離されていなくても、それでも〔心は〕世から離れているからです。なぜなら、世から遠く離れた心は確かに神について考えます、しかし、神からは考えません、理性の自由の中にないからです。
理性の自由が人間にあるのは、天界と世の間の真ん中にいること、なおまた天界からと世から、天界から世について、世から天界について考えることができることからです。
そこで人間は病気の中にいて、死について、そして死後の自分の霊魂について考える時、世の中にいないで、霊〔の中〕に離されており、その状態の中だけでは、だれも改心することはできません。しかし、病気の中になるよりも前に改心しているなら、確信することができます。
[2]世とそこのすべての仕事を放棄し、神・天界・救いについてだけ考えている者も同様です、しかし、これらの事柄については他の箇所に多くのことを述べます。
それゆえ、病気の前に改心しているなら、その後、死んでも、病気の前にあったようなものと同じものになります――それゆえ、病気の中にいる者が悔い改めを行なうこと、または何らかの信仰を受けることができる、と考えることは空虚です。なぜなら、その悔い改めの中に何も行動はなく、その信仰の中に何も仁愛はないからです。それゆえ、〔行動と信仰の〕両者の中に、すべてのものは口先のものであって、心のものはありません。

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142◀︎目次▶︎144

143「無知の状態」の中でだれも改心されないのは、すべての改心は真理によって、それにしたがった生活によって行なわれるからであり、それゆえ、真理を知らない者は改心することができません――しかし、真理への情愛からそれらを願うなら、霊界の中で、死後、改心します。

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143◀︎目次▶︎145

144「理解力の盲目の状態」の中にいる者もまた改心することができないこと。
これらの者もまた、真理を、またここから生活を知りません、なぜなら、理解力がそれらを教え、そして意志がそれらを行なうからです。理解力が教えることを意志が行なうとき、彼に、真理にしたがったいのち(生活)が生じます。
けれども、理解力が盲目であるとき、意志もまた閉じ込められ、その理性にしたがって自由から、理解力の中で虚偽であると確信された悪以外に何も行動しません。
無知に加えて、さらにまた理解力は、盲目の信仰を教え、なおまた虚偽を教える宗教によって盲目にされます。なぜなら、真理が理解力を開くように、このように虚偽はそれを閉ざし――上部を閉ざし、しかし、その下部を開き、下だけを開かれた理解力は、真理を見ることができないで、単に何でも欲するものを、特に虚偽を確信するからです。
理解力はまた悪の欲望によって閉ざされ、意志がそれらの中にあるかぎり、〔意志は〕理解力をそれらを確信させるために働きます。悪の欲望が確信されればされるほど、それだけ意志は善の情愛の中にいること、それらから真理を見ること、このように改心することができません。
[2]例えば――
姦淫の欲望の中にいる者は、その愛の快さの中にある彼の意志は、〔次のように〕言って、その理解力を姦淫を確信させるために働かせます。
姦淫とは何か?その中に何か悪があるのか?同様のものが夫とその妻の間にあるのではないか?姦淫からも等しく子が生まれることができないか?女は多くの者を害なしに許すことができないか?霊的なものはこれと何が共通するのか?
その時、意志の娼婦である理解力はこのように考え、そして、次のことを見ることができないほどに、意志の麻痺から愚かになります――結婚愛は霊的で天的な愛そのものであり、それは主と教会の愛の映像であり、さらにまたそこから導かれるものであること、このように本質的に聖なるもの、貞潔そのもの、純粋また無垢であるもの、形の中に人間の愛をつくるものです、なぜなら、配偶者同士(夫婦)は自分たちを互いに最内部から愛し、またこのように自分たち自身を愛の中に形作ることができるからです――姦淫はこの形を、またそれとともに主の映像を破壊するものです、また、姦淫者が自分のいのちを、夫のいのちと、その〔夫の〕妻の中に混ぜることは、精子の中に人間のいのちがあるので、恐ろしいことです。
[3]これは冒涜的であるので、それゆえ、地獄は姦淫と呼ばれ、逆に天界は結婚と呼ばれます。さらにまた、姦淫の愛は最低の地獄と、しかし、結婚の愛は最内部の天界と交通しています。
両性の生殖器官もまた、最内部の天界の社会と対応します。これらは、意志が悪の欲望の中にあるとき、どれほど理解力は盲目であるか、また理解力の盲目の状態の中で、だれも改心されることができないことが知られるために提示されました。

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144◀︎目次▶︎146

145 (5)自分自身を強制することは、推理力と自主性に反していない
人間に思考の内なるものと思考の外なるものがあること、またそれらは前のものと後のもののように、すなわち、高いものと低いもののように分離されていることは前に示しました。そのように分離されているので、別々に行動することができ、一緒に行動することができます。別々に行動するのは、内なるものが考え、意志することと異なって、人間が思考の外なるものから話し、行なう時です。一緒に行動するのは、内なるものが考え、意志することを、話し、行なう時です。通常、後者は誠実な者のもとにあります、けれども、前者は不誠実な者のもとにあります。
[2]そこで、心の内なるものと外的なるものはそのように分離しているので、内なるものは外なるものと闘争することも、闘争によってこれに同意を強いることもできます。
人間が悪を罪であると考え、またそれゆえ、それらをやめようと欲する時、闘争が存在するようになります。なぜなら、やめる時、扉が開かれるからです。それが開かれると、思考の内なるものを包囲した悪の欲望は主により追い出され、その代わりに善の情愛が植え付けられます。
これは思考の内なるものの中でです。
しかし、思考の外なるものを包囲する悪の欲望の快さは、同時に追い出されることができません、それゆえ、思考の内なるものと外なるものの間に闘争が存在するようになります。内なるものは、それらが悪の快さであり、善の情愛と一致しないのでそれらを追い出すことを欲し、〔その時〕今や、内なるものはそれらの中にあり、悪の快さに代わって一致する善の快さを引き入れます。善の快さは、仁愛の善と呼ばれるものです。
この対立から闘争が起こり、それはひどくなるなら、試練と呼ばれます。
[3]それで、人間は自分の思考の内なるものから人間であるので、というのは、それは人間の霊そのものであるから、思考のその外なるものを同意へと、すなわち、仁愛の善であるその情愛の快さを受け入れるようにと強制するとき、人間が自分自身そのものを強制することが明らかです。
これが推理力と自主性に反しないこと、しかし、それらにしたがっていることは明らかです。なぜなら、推理力がその闘争をひき起こし、自主性がそれをなし遂げるからです――さらにまた自主性そのものは推理力とともに人間の内なるものの中に、ここから人間の外なるものの中に住んでいます。
[4]そこで、内なるものが勝利する時、それは、内なるものが外なるものを同意と従順な行為へ戻したときに生じ、その時、主は人間に自主性そのものと推理力そのものを与えられます。なぜなら、その時、人間は主により本質的に奴隷である地獄の自由から連れ去られ、そして本質的に自由である天界の自由の中に引き入れられ、彼に天使との交わりが与えられるからです。
罪の中にいる者は奴隷であること、主は、みことばを通してその方から真理を受け入れる者を自由な者にすることを「ヨハネ福音書」で教えられています(8:31-36)。

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145◀︎目次▶︎147

146 例で明らかにします――
欺くこととひそかな盗みの中に快さを覚えていた人間が、〔それを〕罪であると見て、内的に認め、このためにそれらをやめようと欲し、やめる時、人間の内なるものと外なるものとの闘争が起こります。
内なる人は誠実の情愛の中にいます、しかし、外なる人は依然として欺くことの快さの中にいます。その快さは、誠実の快さと完全に対立しているので、強制されないなら去らないし、闘争によってでないなら強制されることもできません。勝利する時、外なる人は仁愛である誠実の愛の快さの中にやって来ます。その後、欺くことの快さは彼に連続的に不快なものになります。
残りの他の罪も同様です、例えば、姦淫や淫行・復讐や憎しみ・冒涜やうそつきの罪です。
しかし、すべてのうちで最も困難なものは自己愛からの支配愛との闘争です――これを征服する者は、容易に残りの他の悪の愛を征服します、それらの源であるからです。

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146◀︎目次▶︎148

147 さらにまた、人間が自分自身からのように悪を罪として遠ざける時、どのように主が、内なる人を出生から包囲している悪の欲望を追い出すか、それらの代わりに善の情愛を植え付けるか、簡単に述べておきます。
前に、人間に自然的な心・霊的な心・天的な心があること、また、人間は悪の欲望とそれらの快さの中にいるかぎり自然的な心の中だけにいること、それだけ長い間、霊的な心は閉ざされていることを示しました。
けれども、人間が〔自分自身の〕調査の後、神的な法則に反しているので、悪を神に対する罪として認め、それゆえ、それらをやめようと欲する時、主は霊的な心を開き、そして真理と善の情愛を通して自然的な心の中に入り、それから理性的な心の中に入り、その理性的な心から、自然的な心の中で秩序に反しているものを秩序へと整えられます。
これは人間に闘争のように、悪の快さに多くふけっている者のもとに試練のように見えます、彼の思考の秩序が逆さにされているとき、アニムスの苦痛があるからです。
さて、それらに対する闘争が人間自身の中にあるので、それらの闘争を自分のもののように感じ、だれもが、自分自身の内的なものからでないなら、そこの自由からでないなら、自分自身に対して闘争することができないので、その時、内なる人は外なる人に対して闘争し、自由から外なるものを従順へと強制することがいえます。そこで、このことが自分自身を強制することです。
このことが自主性と推理力に反さないこと、しかし、それらにしたがっていることは明らかです。

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147◀︎目次▶︎149

148 さらに、すべての人間は、自由であることを欲し、そして自由でないことを、すなわち、隷属を自分自身から取り去ることを欲します。
教師の下にいるすべての少年は、自分自身の支配の下にいることを、このように自由であることを欲します。主人の下のすべての召使い、その女主人の下の女召使いも同様です。すべての娘は、自分自身の家の中で自由に振る舞うために、父の家を出て、結婚することを欲します。何らかの職務で働くか、商売するか、あるいは役立ちを果たすことを欲するすべての若者は、他の者の下で隷属する時、自分の判断にまかせてくれるよう欲します。
自主性のために自発的に仕えるすべての者は、自分自身を強制します。自分で自分自身を強制するとき、理性にしたがって自由から行動します、しかし、内的な自由からであり、その内的な自由から外的な自由を召使いとして眺めます。
自分自身を強制することは推理力と自主性に反しないことを説明するためにこのことを示しました。

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148◀︎目次▶︎150

149 人間が同様に霊的な隷属から霊的な自主性の中にやって来ることを欲しない一つの原因は、何が霊的な隷属で、何が霊的な自由であるか知らないことです。それを教える真理が彼にありません。真理なしに、霊的な隷属が自由であり、霊的な自由が隷属である、と信じられていることです。
別の原因は、キリスト教世界の宗教が理解力を閉じ込めたこと、また信仰のみがそれを封印したことです。なぜなら、二つとも、神学の事柄を超えており、それゆえ、何らかの推理力から近づいてはならず、盲目の者のためであり、〔真理を〕見る者のためではないという教理で鉄の城壁のようにそれ自体のまわりを据えたからです。それによって、何が霊的な自主性であるか教える真理は隠されています。
第三の原因は、自分自身を調べ、自分の罪を見る者はわずかであるからです。罪を見ないし、それをやめない者は、それらの自由の中にいます。それは地獄の自由であり、本質的に隷属です。このことから本質的に自由である天界の自由を見ることは、暗黒の中に日光を、黒い雲の上方の太陽から存在する日光をその〔黒い雲の〕下に見ることのようです。
ここから、何が天界の自由であるか、また地獄の自由との間に生と死との間のような相違があることが知られていません。

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149◀︎目次▶︎151

150 (6)外なる人は内なる人によって改心され、逆ではない
人間の内なるものと外なるものによって、思考の内なるものと外なるものと同じものが意味され、それについて、しばしば前に示しました。
外なるものが内なるものによって改心することは、内なるものは外なるものの中に流入しないこと、また逆でないことです。
霊的なものが自然的なものの中に流入し、逆でないことは学界の中でよく知られています――内なる人が最初に、またこのように外なる人が清められ、新しくされなければならないことは教会の中でよく知られています。よく知られているのは、主が教えられ、また理性が命ずるからです。
主はこのことを次の言葉で教えられています――

あなたがたにわざわい〔あれ〕……偽善者たち、あなたがたは杯や皿の外側を清める、しかし、内側は強奪と不摂生でいっぱいである。盲目のパリサイ人よ、最初に杯と皿の内なるものを清めよ、外側もまたきれいになるように(マタイ23:25)

[2]理性が命ずることは、著作『神の愛と知恵』の中の多くのものによって示されています。
主は〔ご自分が〕教えることを、理性で知覚することもまた人間に与えられるからであり、このことは二つの方法によります。一つは、本質的に見ることであり、それは聞くと直ぐにそのようであると見ることです。もう一つは、理性によってそれを理解することです。
本質的に見ることはその内なる人の中にあり、そして理性によって理解することは外なる人の中にあります。
内なる人が最初に清められ、それによって外なる人が清められなければならない、と聞くとき、だれが本質的に見ませんか?
しかし、このことについて天界からの流入から全般的な観念を受けていない者は、自分の思考の外なるものに諮るとき、欺かれるかもしれません。内なるものなしに、これ〔外なるもの〕だけからでは、仁愛と敬虔のものである外なる働きが救うこと以外に、だれも何らかのものを見ません。
視覚と聴覚が思考の中に、においと味が知覚の中へ流入することのように、他の事柄でも同様です。そのように、外なるものが内なるものの中に流入します、そのときそれでも逆です。
見られ、聞かれるものが思考の中に流入するように見えることは欺きです、なぜなら、理解力が目の中に見、耳の中で聞き、その逆ではないからです――他のものでも同様です。

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150◀︎目次▶︎152

151 しかし、どのように内なる人が改心し、内なる人によって外なる人が改心するか、何らかのものを述べます。
内なる人は、知り、理解し、賢明であることだけによってでは、したがって、考えることだけによってでは改心しません。しかし、知識・知性・知恵が教えることを欲することによってです。
人間が、天界と地獄があり、すべての悪は地獄から、すべての善は天界からであることを、知り、理解し、賢明である時、もしその時、地獄からのものであるからと悪を欲しないで、天界からのものであるからと善を欲する時、改心の第一の段階に、地獄から天界への入り口にいます。
人間がもっと先へ進み、悪をやめることを欲するとき、改心の第二の段階の中にいます。その時、地獄の外にいますが、しかし、まだ天界の中にいないで、これを自分の上方に見ます。
人間が改心するために、この内なる人がいなくてはなりません。しかし、内なる人と同じく外なる人が改心しないなら、人間は改心しません。
外なる人が悪をやめ、それを内なる人が地獄のものであるからと欲せず、さらに、それゆえ、それを避け、それらに対して闘争するとき、外なる人は内なる人によって改心します。
このように、内なる人は意志するものであり、外なる人は行なうものです。なぜなら、だれかが欲することを行なわないなら、内部に欲しないものがあり、最後に欲しないことが生ずるからです。
[2]これらのわずかなものから、どのように外なる人が内なる人によって改心するか見ることができます。
このこともまた、ペトロへの主の言葉によって意味されることです、

イエスは……言われた、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がありません」。ペテロはその方に言った、「主よ。私の足だけでなく、手と頭もまた」。主は彼に言われた、「洗った者は、足に関して洗われること以外に必要ありません、全部が清いのです」 (ヨハネ13:8-10)。

「洗うこと」によって、霊的に洗うことが意味され、それは悪から清めることです。「頭と手を洗うこと」によって、内なる人を清めることが意味され、また「足を洗うこと」によって、外なる人を清めることが意味されます。
内なる人が清められたとき、外なる人が清められなければならないことが、「 洗った者は、足に関して洗われること以外に必要ありません」によって、意味されます。
悪からの清めることのすべては主によることが、「 もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がありません」によって意味されます。
ユダヤ人のもとで、洗うことは悪から清めることを表象したこと、このことがみことばの中の「洗うこと」によって意味され、「足を洗うこと」によって、自然的な人を、すなわち、外なる人を清めることが意味されることが、『天界の秘義』の中に多く示されています。

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151◀︎目次▶︎153

152 人間に内なるものと外なるものがあり、そして人間が改心されるためには両方とも改心されなければならず、自分の悪を見て、認め、自分自身を調べないなら、その後、それをやめないなら、だれも改心されることができないので、外なるものだけでなく、内なるものもまた調べられなくてはならないことがいえます。
外なるものだけが調べられるなら、人間は実際に犯したことしか何も見ません。例えば、殺さなかった、姦淫しなかった、盗まなかった、偽って証言をしなかったことなどです――このように自分の身体の悪を調べて、自分の霊の悪を調べません。それでも、改心されることができるために、霊の悪が調べられなければなりません。なぜなら、死後、人間の霊が生き、すべての悪はその霊の中にあって残るからです。霊は、人間が自分の思考に、特に意図に留意することでしか調べられません、なぜなら、意図は意志からの思考であるからです。そこに悪が、その起源の中に、その根の中にあります、すなわち、その欲望の中に、その快さの中にあります。それらが見られ、認められないなら、外なるものの中でどれほどそれらを犯さなくても、人間はやはり悪の中にいます。
意図から考えることが意志することと行なうことであることは、主のことばから明らかです、

もしだれかが他の女を、このように彼女をほしがるようにして眺めたなら、すでに彼女と心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)。

このような調べが内なる人の調べであり、その調べから本質的に外なる人が調べられます。

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152◀︎目次▶︎154

153 「悪を罪として避けなくてはならない、そうでなければ赦されない、罪が赦されないなら、決して救いはない」ことが、たとえ全キリスト教世界に知られていても、やはりそれでも千人のうち、ほとんど一人もこれを知らないことを、しばしば私は不思議に思いました。このことが霊界で調べられ、そしてそのようであるがわかりました。
というのは、キリスト教世界の中のだれもそのことを、聖餐に出席する者の前で朗誦される祈りから知っているから、なぜなら、それらの中に明らかに述べられているからです。それでも、このことを知っているかどうか質問されるとき、「知らない、知らなかった」と答えます。
その理由は、そのことについて考えず、大部分の者は単に信仰について、またその信仰のみを通しての救いについてだけ考えたからです。
信仰のみがそのように目を閉ざしたこと、その信仰を自分自身に確信した者が、みことばを読む時、そこに愛・仁愛・働きについて言われているのに、そのことを何も見ないこともまた、私は不思議に思いました。文書に朱を塗りつける者のように、みことばのすべてのものの上に信仰を塗りつけたのであり、そこからは下にあるものが何も明らかではありません。もし何かが明らかになっても、信仰により吸収され、それがその信仰であると言われます。

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153◀︎目次▶︎155

(4–4)神的な摂理の法則は、人間が、みことばとそれからの教えと説教によって、主により天界から導かれ、教えられ、このことがすべての外観の中で自分自身からのように行なわれることである

154 人間が自分自身から導かれ、教えられことは外観からであり、人間が主だけから導かれ、教えられることは真理からです。
外観を自分自身のもとで確信し、同時に真理を確信しない者は、悪を罪として自分自身から遠ざけることができません。しかし、外観と同時に真理を自分自身のもとで確信する者はできます。なぜなら、外観の中で人間により、真理の中で主により、悪が罪として遠ざけられるからです。
後者は改心されることができます。けれども、前者はできません。
[2]外観を確信して、同時に真理を自分自身のもとに確信しない者は、すべて内的な偶像崇拝者です。彼らは自分自身と世の礼拝者であるからです。彼らに宗教がないなら、自然の礼拝者に、このように無神論者になります。しかし、彼らに宗教があるなら、人間を崇拝する者になり、同時に偶像の崇拝者になります。
これらの者が、今日、十戒の最初の戒めの中に意味される他の神々を礼拝する者です。
しかし、自分自身のもとに外観と同時に真理を確信する者は、主の礼拝者になります。なぜなら、主が、彼らを外観の中にいることである彼らのプロプリウムから高揚させ、彼らを光の中に、その中に真理があり、真理である光の中に連れてこられ、彼らに、自分自身からでなく、主により導かれ、教えられること、そのことをさらに内的に受け入れることを与えられるからです。
[3]後者と前者の理性は、多くの者に同じように見えることができます、しかし、同じではありません。
外観の中にいて同時に真理の中にいる者の理性は、霊的な理性です。しかし、外観の中にいて同時に真理の中にいない者の理性は、自然的な理性です。しかし、この理性は冬のような光の中の庭園にたとえることができ、霊的な理性は春のような光の中の庭園にたとえることができます。けれども、これらのことについて多くのことを続くものの中で、次の順序で述べます――

(1)人間は、主おひとりにより導かれ、教えられる。
(2)人間は、主おひとりにより、天使の天界を通して、天界から導かれ、教えられる。
(3)人間は、主により流入を通して導かれ、照らしを通して教えられる。
(4)人間は、主により、みことばを通して、それからの教えと説教を通して、このようにその方だ けから直接に教えられる。
(5)人間は、主により外的なものの中で、すべての外観の中で自分自身からのように導かれ、教えられる。

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154◀︎目次▶︎156

155(1)人間は、主おひとりにより導かれ、教えられる
これは著作『神の愛と知恵』の中で示されている全般的な結果として、第一部の中の主の神的な愛とその方の神的な知恵について、第二部の中の霊界の太陽と自然界の太陽について、なおまた、第三部の中の段階について、第四部の中の全世界の創造について、第五部の中に論証されている人間の創造について、それらすべてのものから流れ出ます。

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155◀︎目次▶︎157

156 人間が主おひとりにより導かれ、教えられることは、主だけから生きることです。なぜなら、彼のいのちの意志が導かれ、彼のいのちの理解力が教えられるからです。
しかし、このことは外観に反しています。というのは、人間には自分自身から生きるように見えるから、それでも自分自身からでなく、主から生きることは真理です。
さて、世の中で生きる間、人間に主だけから生きていることを感じる知覚が与えられていないので(自分自身から生きていることの外観が彼に取り去れないので、なぜなら、それらなしに人間は人間でないから)、それゆえ、これは理性によって証明され、それはその後、経験によって、最後にみことばによって確信されなければなりません。

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156◀︎目次▶︎158

157 人間は主だけから生き、自分自身からでないことは、次の論証から証明されます――唯一の本質・唯一の実体・唯一の形があり、それらから創造されたすべての本質・実体・形があることです。
その唯一の本質・実体・形は、神的な愛と神的な知恵であり、それらから人間のもとの愛と知恵に関係するすべてのものがあります。
さらにまた、それらすべてのものに関係する善そのものと真理そのものがあります。
また、それらはいのちであり、そのすべてのいのちから、いのちに属するすべてのものがあります。なおまた、「唯一そのもの」は遍在・全知・全能です。
そしてまた、この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバです。
[2]第一――唯一の本質・唯一の実体・唯一の形があり、それらから創造されたすべての本質・実体・形が存在する
このことは著作『神の愛と知恵』(44-46番)の中に、またそこの第二部の中に、天使の天界の太陽は、主からであり、その中に主がおられ、唯一の実体と形であり、その太陽から創造されたすべてのものがあり、その太陽からでないものは何も存在しないし、存在できないことが示されています。
その太陽からすべてのものは段階にしたがって派生によって存在することは、そこの第三部に示されています。
[3]だれが、唯一の本質があり、その本質からすべての本質があること、すなわち、唯一のエッセ(存在)があり、そのエッセからすべてのエッセ(存在)があることを理性から知覚し、認めませんか?
エッセなしに何が存在するようになることができますか、それからすべてのエッセがあり、エッセそのものでないなら、エッセとは何ですか?
エッセそのものは、唯一のエッセでもあり、本質的にエッセです。
そのようであるとき(また、だれもがこれを理性から知覚し、認めます、またそうでないなら、知覚し、認めることができます)、その時、神性そのものであるこのエッセであるもの以外に、何が存在するといえますか、エホバがすべてのすべてであり、それは存在し、存在するようになります。
[4]唯一の実体があり、それからすべてのものあると言っても同じです。形のない実体は何らかのものではないので、唯一の形があり、それからすべてのものがある、ともいえます。
天使の天界の太陽は、その唯一の実体と形であり、なおまた、どのようにその本質・実体・形が、創造の中で変えられるか、前述の著作の中で示されています。
[5]第二――唯一のその本質・実体・形は、神的な愛と神的な知恵であり、それらからすべてのものがあり、それらは人間のもとの愛と知恵に関係する
このこともまた著作『神の愛と知恵』の中に、十分に示されています。
人間のもとで生きていることが見られるどんなものでも、彼のもとの意志と理解力に関係し、これら二つのものが彼のいのちをつくることは、だれもが理性から知覚し、認めます。
「これを私は意志する」、または「これを私は理解する」、すなわち、「これを私は愛する」、または「これを私は考える」こと以外に、何か他のものがありますか?
人間は愛するものを意志し、また理解するものを考えるので、それゆえ、意志のすべてのものは愛に、理解力のすべてのものは知恵に関係します――これら二つのものは、「愛そのもの」と「知恵そのもの」である方からでないなら、だれかのもとにそれ自体から存在することはできないので、永遠の主、すなわち、エホバからそれらは存在するといえます。ここからでないなら、人間は愛そのものと知恵そのもの、したがって永遠からの神になり、そのことに人間の理性そのものが恐怖を感じます。
それ自体よりも前のものからでない何かが存在することができますか?さらにそれ自体よりも前のものからでない前のものは存在することができますか?このように最終的に「最初のもの」からでないなら、それは本質的に存在しますか?
[6]第三――同様に、善そのものと真理そのものがあり、それらにすべてのものが関係する
理性をもつすべての者により、神は善そのものと真理そのものであること、さらにすべての善とすべての真理はその方からであること、それゆえまた、すべての善とすべての真理は、善と真理そのものから以外の他のところからやって来ることができないことが受け入れられ、認められています。これらは聞かれるとすぐに理性的なすべての人間に認められます。
その後、そのとき、主から導かれる人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または愛と知恵のすべてのものは、または情愛と思考のすべてのものは善と真理に関係し、人間が意志し、理解する、または、愛し、味わい、すなわち、それによって働きかけられ、またそれを考えるすべてのものは、主からである、といえます。
ここから、人間からのすべての善とすべての真理は本質的に善と真理ではなく、しかし、主からのものだけがそうであることは、教会の中のだれもが知っていることです。
このことは真理であるので、このような人間が意志し、考えるものすべてのものは、主からであることがいえます。
すべての悪い人間もまた、他の起源から意志し、考えることができないことは、続きの中で見られます。
[7]第四――それらはいのちであり、それらからすべてのいのちといのちに属するすべてのものがある
このことは、著作『神の愛と知恵』の中で多く示されています。
人間の理性もまた、人間のすべてのいのちは彼の意志と理解力に属する、と聞くと直ぐに受け入れ、認めます。なぜなら、意志と理解力が取り去られるなら、生きないからです。すなわち、同じことですが、人間のすべてのいのちは彼の愛と思考に属します、なぜなら、愛と思考が取り去られるなら、生きないからです。
そこで、人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または、愛と思考のすべてのものは主からであるので、前に言われたように、今や、すべてのいのちはその方からであることがいえます。
[8]第五――この唯一そのものは、遍在・全知・全能である
このこともまたキリスト教徒のだれもがその教えから、異教徒のだれもが自分の宗教から認めます。
さらにまたここから、神がいると考える者はだれも、どこにいても、そこに現在される神に祈ります。だれもがそのように考え、そのように祈るとき、神がどこにもいる、そのように遍在される、としか考えることができない、といえます――全知と全能も同様です。それゆえ、自分の心から神に祈るすべての者は、その方ができるので、自分たちを導いてくださるよう、嘆願します――したがって、だれもがその時、神的な遍在・全知・全能を認めます――その時、顔を主へ向けるので、またその時、その方からその真理が流入するので、認めます。
[9]第六――この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバである
『新しいエルサレムの教え 主について』の中に、神は、本質と位格において一つであること、その神は主であること、父エホバと呼ばれる神性そのものは永遠からの主であり、神的人間性は永遠からその神性からみごもりまた世で生まれた子であること、発出する神性は聖霊であることが示されています。
唯一そのものと言われるのは、前にも言われたからであり、永遠からの主、すなわち、エホバは、いのちそのものであり、愛そのものと知恵そのもの、すなわち、善そのものと真理そのものであるので、それらからすべてのものがあります。
主は自分自身そのものからすべてのものを創造され、無からは〔創造され〕ないことは、著作『神の愛と知恵』の中に見られます(282-284番349-357番)。
これらから、人間は主だけから導かれ、教えられるという真理が、理性によって確信されます。

神の摂理

157◀︎目次▶︎159

158 同じこの真理が理性によってだけでなく、生きた知覚によってもまた天使のもとで、特に、第三の天界の天使のもとで確信されています。
これらの者は主からの神的な愛と神的な知恵の流入を知覚しています。
彼らはそのことを知覚し、自分の知恵から、それらがいのちであることを知っているので、それゆえ、〔自分たちは〕自分自身からではなく、主から生きている、と言い、このことを言うだけでなく、そのようであることを愛し、意志してもいます。
それでもやはり、彼らは自分自身から生きているようなすべての外観の中にいます、それどころか、他の天使よりもさらに強烈な外観の中にいます。なぜなら、前のように「人間は、主に近く結合されるほど、ますますはっきりと自分自身のものであるように自分自身に見る、そしてさらに明らかに主のものであるものを認める」ことが示されているからです(42-45番)。
同様の知覚と同様の外観の中にいることが、今や、多くの年月の間、私にもまた与えられており、そのことから私は、自分からでは何も意志せず、考えもしない、しかし、自分からのように見えること、そしてまた、それを意志し、愛することが与えられていることを十分に確信しました。
同じこのことが霊界からの他の多くのものによって確信されることができます、しかし、さしあたり、それらの二つのもので十分です。

神の摂理

158◀︎目次▶︎160

159 主おひとりにいのちがあることは、みことばの中の次の箇所から明らかです――

わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも、生きます(ヨハネ11:25)。
わたしは、道、真理、いのちです(ヨハネ14:6)。
みことばは神であった。……その方の中にいのちがあった、いのちは人間の光であった(ヨハネ1:1, 4)。

そこのみことばとは主です、

父がご自分自身の中にいのちを持っておられるように、子にも、ご自分の中にいのちを持つことを与えられた(ヨハネ5:26)。

人間が主だけから導かれ、教えられることは、次のものから明らかです――

わたしなしに、あなたがたは何もすることができません(ヨハネ15:5)。
人は、天から与えられないなら、何も得ることができません(ヨハネ3:27)。
人は「一本の毛髪を白または黒にすること」ができない(マタイ5:36)。

みことばの中の「毛髪」によって、すべてものの最小のものが意味されます。

神の摂理

159◀︎目次▶︎161

160 悪のいのちもまた同じ起源からであることは、続く章の中で示します。ここでは、このことをたとえだけによって明らかにします。
世の太陽から熱と光とが流入します。そして善い実を結ぶ木と同様に悪い実を結ぶ木に流入します。そして同様に生長し、大きくなります。熱が流入するその形がその多様性をつくります、けれども、本質的に、熱ではありません。
光も同様です。これは流入するその形にしたがって色の中で多彩にされます。美しく喜ばしい色があり、美しくなく憂鬱な色があり、両方とも光は同じです。
本質的に愛である霊的な熱も、本質的に知恵である霊的な光も同様であり、それらは霊界の太陽からのものです。
流入するその形がその多様性をつくります、けれでも、本質的には、愛であるその熱ではなく、知恵であるその光でもありません。
流入するその形とは人間の心です。
それでこれらから、人間が主だけから導かれ、教えられることが明らかです。

神の摂理

160◀︎目次▶︎162

161 けれども、動物のいのちが何かは前に示されています。すなわち、それは単なる自然的なその知識と釣り合っている情愛のいのちです。また、霊界の中にあるそれらのいのちに対応する間接的ないのちです。

神の摂理

161◀︎目次▶︎163

162 (2)人間は、主おひとりにより、天使の天界を通して、天界から導かれ、教えられる
人間は、主おひとりにより、天使の天界を通して、天界から導かれ、教えられる、と言われます。しかし、天使の天界を通してであることは、外観からですが、その天界からであることは真理からです。
天使の天界を通してであることが外観であることは、主はその天界の上に太陽として見られるからです――天界からであることが真理であるのは、人間の中に霊魂があるように、その天界の中に主がいるからです。
というのは、前に示されたように、主は遍在し、空間の中に存在しないから。それゆえ、距離はその方との結合にしたがった外観であり、結合はその方からの愛と知恵の受け入れにしたがっています。
だれも主と、本質的にその方であるようには結合されることができないので、それゆえ、その方は太陽のように天使には少し離れて見えます――しかしそれでも、人間の中の霊魂のように、天使の全天界の中に、同様に、天界のそれぞれの社会の中にいます。というのは、人間の霊魂は〔人間〕全体の霊魂だけでなく、しかしまた、それぞれの部分〔の霊魂〕であるからです。
[2]しかし、主からのものであり、そこにその方がいる太陽から(その太陽については論文『神の愛と知恵』第二部の中に見られます)、主が全天界を支配し、これによって世を支配していることは外観からであるので、それぞれの人間に外観から話すことが許されており、〔この外観と〕異なって〔話すこと〕はできないので、それゆえまた、本質的に知恵の中にいないそれぞれの者に、主はその太陽からすべてと個々のものを支配する、天使の天界によって世を支配する、と考えることが許されています――このような外観から、低い天界の天使もまた考えます。しかし、高い天界の天使は確かに外観から話します、しかし、主が天使の天界から、ご自身から全世界を支配するという真理から考えます。
[3]単純な者と賢明な者は同じように話します、しかし、同じように考えないことは、世の太陽から明らかにされることができます。その太陽について、すべての者は外観から、例えば、昇る、沈む、と話します。しかし、賢明な者は、たとえ同じように話しても、それでも不動である、と考えます。後者は真理でもありますが、前者は外観です。
さらにまた、同じことが霊界の中の外観から明らかにされることができます。というのは、そこの空間と距離は、自然界の中のように見えます、しかし、それでもそれらは情愛とそこからの思考にしたがった外観であるからです。
ご自分の太陽の中の主の外観も同様です。

神の摂理

162◀︎目次▶︎164

163 けれども、どのように主が天使の天界からそれぞれの人間を導き、教えるか、簡単に述べます。
著作『神の愛と知恵』、そしてこの著作『神の摂理』の前のところに、なおまた1758年にロンドンで出版された著作『天界と地獄』の中に、見られ、聞かれたことから、主の前にあたかも一人の人間のように、天使の全天界がまた同様に、天界のそれぞれの社会も見えること、またここから、それぞれの天使と霊は完全な形の中の人間であることがよく知られています。
また前述の著作の中に、天界は天使のプロプロウム(固有のもの)から天界ではなく、しかし、天使による主からの愛の神的なものと知恵の神的なものを受け入れることから天界であることが示されています。
このゆえに、主は全天界を一人の人間のように支配すること、その天界は、本質に人間であるので、主の映像そのものと似姿そのものであること、霊魂が自分の身体を支配するように、主ご自身がその天界を支配すること――全人類は主により支配されているので、天界によって支配されていないこと、しかし、言われたように、主は天界であるので、その方により天界から、このようにご自分から支配されていることを明らかにすることができます。

神の摂理

163◀︎目次▶︎165

164 しかし、このことは天使の知恵のアルカナであるので、霊的な心が開かれていないなら人間により理解されることができません、というのは、人間は主との結合から天使であるから。〔これまでの〕前提から、その人間は次ものを理解することができます――

(1)天使と同様に人間のすべての者は、主との結合にしたがって、すなわち、同じことであるが、その方からの愛と知恵の受け入れにしたがって、主の中に、主は彼らの中にいる。
(2)これらから、それぞれの者は、結合がどんなものか、すなわち、主の受け入れがどんなものかにしたがって、主の中に、このように天界の中に場所を割り当てられる。
(3)自分の場所の中のそれぞれの者は、他の者の状態から分離された自分の状態を持つ。共通のものから、自分の位置、自分の役目、自分の必要なものにしたがって、まったく人間の身体の中のもののように、自分に定められたものを得る。
(4)それぞれの人間は、主により自分のいのちにしたがって自分の場所に導かれる。
(5)それぞれの人間は、幼年期から、霊魂といのちが主である神的人間性の中へ入れられる。その方の知恵の神的なものにしたがって、その方の愛の神的なものから、その方の中で、その方の外でなく、導かれ、教えられる――しかし、人間の自由は取り去られないので、人間は自分自身からのように受け入れることにしたがってしか導かれ、教えられることができない。
(6)受け入れる者は、曲がりくねった道を通ってのように、無限の回り道によって、ほとんど乳糜が腸間膜と乳管を通って乳糜槽の中に、これから胸管を通って血管の中へ導かれるかのように、このように自分の座の中に、自分の場所へ導かれる。
(7) 受け入れない者は、人間から糞と尿が排泄(分離)されるように、神的人間性の内部にいる者から分離される。

これらは人間によりいくらか理解されることができる天使の知恵のアルカナです、しかし、理解されることができない多くのものがあります。

神の摂理

164◀︎目次▶︎166

165 (3)人間は、主により流入を通して導かれ、照らしを通して教えられる
人間が主により流入によって導かれるのは、導かれることと流入することが、愛と意志について言われるからです。人間が主により照らしによって教えられるのは、教えられることと照らされることが正しくは知恵と理解力について言われるからです。
すべての人間が自分自身から、自分の愛から、他の者から、その愛にしたがって導かれ、理解力からでないことは、よく知られています。理解力から、その理解力にしたがって導かれるのは、ただ愛が、すなわち、意志がそれを行なうときだけであり、行なうとき、導かれることが理解力についてもまた言われることができます。しかしそれでも、その時、理解力が導かれるのではなく、意志に導かれ、その意志から理解力が導かれるのです。
流入と言われますが、それは、霊魂が身体の中に流入すると言うことが習慣的に受け入れられているからであり、流入は霊的であって、物質的でなく、前に示されているように、霊魂または人間のいのちは彼の愛または意志であるからです――なおまた、流入は、心臓の中へ心臓から肺の中への血の流入にもたとえられています。
意志と心臓に、そして理解力と肺に対応があること、理解力と意志に、心臓から肺の中への血の流入のような結合があることは、著作『神の愛と知恵』の中に示されています(371-432番)。

神の摂理

165◀︎目次▶︎167

166 けれども、人間が照らしによって教えられるのは、教えられることと照らされることもまた理解力について言われるからです。なぜなら、人間の内なる視覚である理解力は、自然的な光から目である人間の外なる視覚が照らされるのとは異なって、霊的な光から照らされるからです。
さらにまた両方とも同様に教えられます。しかし、理解力である内なる視覚は、霊的な対象により教えられ、目である外なる視覚は、自然的な対象により教えられます。
霊的な光と自然的な光があり、両方とも外的な外観では似ています、しかし、内なるものに関して異なっています。というのは、自然的な光は自然界の太陽からであり、ここから本質的には死んでいます、しかし、霊的な光は、霊界の太陽からであり、ここから本質的に生きているからです。
この光が人間の理解力を照らし、自然的な光が照らすのではありません。
自然的で理性的な光(ルーメン)は、後者の〔自然的な〕光からではなく、しかし、前者の〔霊的な〕光からのものです。
自然的で理性的な光(ルーメン)と呼ばれるのは、霊的自然的であるからです。
[2]というのは、霊界の中に、光の三つの段階、天的な光・霊的な光・霊的自然的な光があるからです。
天的な光は赤く輝く燃えるような光です。この光は第三の天界の者にあります。霊的な光は白く輝く光です。この光は中間の天界の者にあります。霊的自然的な光は私たちの世界の日中の光のようです。この光は最も低い天界の者にあります。さらにまた、天界と地獄の間にいる霊たちの世界にいる者のもとにあります。しかし、この霊たちの世界の中の光は、地上の善い者のもとの夏の光のようであり、悪い者のもとの冬の光のようです。
[3]しかし、霊界の光は自然界の光と何も共通なものを持たず、生きているのと死んでいるように異なることを知らなくてはなりません。
それらから、理解力を照らすのは、私たちの目の前にあるような自然的な光ではなく、霊的な光であることが明らかです。
このことを人間は知りません、霊的な光について今まで何も知らなかったからです。
霊的な光がその起源の中で神的な知恵または神的な真理であることは、著作『天界と地獄』の中に示されています(126-140番)。

神の摂理

166◀︎目次▶︎168

167 さて、天界の光について言われたので、地獄の光についてもまた何らかのものが言われなければなりません。
地獄の中の光にもまた三つの段階があります。
最も低い地獄の中の光は、炭火からの光のようです。中間の地獄の中の光は、炉の炎からの光のようです。最も上の地獄の中の光は、ろうそくからの光のようであり、ある者には月からの夜の光のようです。
これらの光は自然的ではなく、霊的です。なぜなら、自然的なすべての光は死んでいて、理解力を消滅させるものであるからです。そして、地獄の中にいる者に、前に示されたように、推理力と呼ばれる理解する能力がありますが、推理力そのものは霊的な光からのものであり、少しも自然的な光からではありません――彼らにとって推理力からのものである霊的な光は、日の光が夜の暗やみに変えられるように、地獄の光に変えられます。
しかしそれでも、霊界の中にいるすべての者は、天界の中にいる者も地獄の中にいる者も、人間が昼間にその光で見るように、このように明らかに自分の光の中で見ます。その理由は、すべての者の目の視覚は光の中にあるものからその光を受け入れるように形作られているからです。このように、天界の天使の目はその光を受け入れるように形作られています。地獄の霊の目の視覚は自分の光を受け入れるように形作られていて、たとえれば、フクロウとコウモリが、あたかも日中に他の鳥が見るように、夜と夕にそれほどに明らかに対象を見るようなものです――というのは、それらの目は自分の光を受け入れるように形作られているからです。
しかし、それらの光の間の相違は、一つの光からもう一つの光の中のもの眺める者には明瞭です。天界の天使が地獄を眺める時のように、そこには暗黒そのものしか見ません。地獄の霊が天界を眺めるとき、そこに暗黒しか見ません。
その理由は、天界の知恵は、地獄の中にいる者にとって暗黒のようであり、そして逆に、地獄の狂気は、天界の中にいる者にとって暗黒のようであるからです。
これらから、人間に理解力がどのようであるかによって、彼の光がこのようであることを明らかにすることができます。だれでも、死後、自分の光の中にやって来ます、他の光を見ないからです。霊界の中では、そこのすべての者は身体に関してもまた霊的であって、すべての者の目は自分の光から見るように形作られています。
それぞれの者のいのちの愛が自分自身に理解力をつくり、光もそのようなものです。というのは、愛はいのちの火であり、その火からいのちの光があるからです。

神の摂理

167◀︎目次▶︎169

168 人間の理解力は照らしの中にあり、主により教えられる者はその照らし中にいますが、その照らしについて何らかのものをほとんどの者が知らないので、それゆえ、その照らしについて何らかのものを述べます。
主から、内的な照らしと外的な照らしがあり、人間からも内的な照らしと外的な照らしがあります。
主からの内的な照らしは、言われたことが真理であるかあるいは真理でないか、人間が最初に聞いて知覚することです。
外的な照らしは、ここから思考の中にあります。人間からの内的な照らしは、確信からだけです。人間からの外的な照らしは、知識からだけです――しかし、個々のものについて何らかのことを述べます。
[2]「主からの内的な照らしから理性的な人間」は、多くのことが真理であるかあるいは真理でないか、聞くとき、すぐさま知覚します。
例として、愛は信仰のいのちであること、すなわち、信仰は愛から生きることがあります。
人間は内的な照らしから次のこともまた知覚します、どんなものでも人間が愛するものを意志し、意志するものを行ない、ここから、愛することは行なうことであること――なおまた、どんなものでも人間は愛から信じるものを意志し、行ない、ここから、信仰を持つことは行なうことでもあること、そのように、不信心な者は、神の愛を、したがって神の信仰も持つことができないことです。
理性的な人間は照らしからもまた、聞くときすぐさま、次のことを知覚します――神はひとりであること、神は遍在すること、すべての善はその方からであること、なおまた、すべてのものは善と真理に関係すること、すべての善は「善そのもの」からであり、またすべての真理は「真理そのもの」からであることです。
これらやまた他の同様のものを聞くとき、人間は内的に自分自身の中に知覚します。知覚することは、彼に推理力があり、天界の光の中にそれらを照らすものがあるからです。
[3]「外的な照らし」は、その内的な照らしからの思考の照らしです。思考は、その照らしの中にいればいるほど、それだけ内的な照らしからの思考を知覚の中に持ち、同時にそれだけ彼に真理と善の知識となっています。というのは、これらの知識から論拠を得て、それらによって確信するからです。
この外的な照らしからの思考は、事柄を両方の側から見ます。一つの側からは確信を強める論拠を見ます、もう一つの側からは弱める外観を見て、後者を追い散らし、前者を迎え入れます。
[4]けれども、「人間からの内的な照らし」は、完全に別ものです。
人間はこれにより事柄を一つの側から見ますが、他の側から見ません。それを確信したとき、それを外観に関して同様の光の中で見ます(その光については前述しました)、しかし、冬の光です。
例として次のことを挙げます――
贈り物からまた利益のために不正に裁く裁判官は、法律によってまた論証によって判決を確信した後、自分の判決の中に公正しか見ません。
ある裁判官は不正を見ます、しかし、それを見ようと欲しないので、自分自身を曇らせ、見えないようにし、したがって見ません。
友情から、恩恵を得ようとすることから、親戚との結びつきから、判決を下す者の裁判も同様です。
[5]権威ある者の口または名声ある男の口から取り入れる者、または自己の知性から、すべての物事について考え出す者も同様です――盲目の理性を持つ者です。なぜなら、彼らにそれを確信する虚偽からの視覚があるからです。そして、その視覚を虚偽は閉ざし、真理は開きます。
このような者は真理を真理の光から何も見ず、公正を公正の愛から何も見ません、しかし、確信の光から見ますが、それらは愚かな(弱い)光です。
霊界の中では、頭のない顔のように、または、木の頭が後ろにある人間の顔に似た顔のように見え、理性的な家畜と呼ばれます、彼らに推理力が可能性の中にあるからです。
けれども、「人間からの外的な照らし」は、記憶に刻みつけられた知識だけから考え、話す者のもとにあります。これらの者は、自分自身からでは何らかの事柄をほとんど確信することができません。

神の摂理

168◀︎目次▶︎170

169 これらは、照らしの相違であり、ここから知覚と思考の相違です。
霊界から実際に照らしがありますが、しかし、その光からの照らしそのものは、自然的な光と霊的な光に共通なものがないので、自然界の中に見られません。しかし、その照らしは、私に、霊界の中で数回、見られました。主からの照らしの中にいた者に見られたものは、頭のまわりを照らされた、人間の顔の色で赤く輝くもののようでした。
けれども、自分自身からの照らしの中にいた者のもとに見られたものは、頭のまわりでなくて、口のまわりとあごを照らされたもののようでした。

神の摂理

169◀︎目次▶︎171

170 これらの照らしのほかに、他の照らしもまた存在し、それによって、人間の中にある信仰が、知性と知恵が示されます。その示されることは、それらそのものを本質的に知覚するかのようです。
その者は純粋な信仰とそこに真の知性と知恵がある社会の中に送られ、そこで彼の内的な推理力が明らかにされ、それらから自分の信仰を、そして自分の知性と知恵を、どんなものか承認するまで見ます。
私はそこから戻ってくる者を見て、彼らに信仰が何もなかったこと、それでも世では自分自身に多くのものを、他の者よりも〔際立つ信仰の〕しるしを持ったことを、自分の知性と知恵についても同様に信じた、と認める者の告白を聞きました。
その者は分離した信仰の中に、仁愛の何もない中に、自己の知性の中にいました。

神の摂理

170◀︎目次▶︎172

171 (4)人間は、主により、みことばを通して、それからの教えと説教を通して、このようにその方だけから直接に教えられる
人間は主おひとりにより導かれ、教えられ、また天界からであり、天界を通してではなく、そこの何らかの天使を通してではないことが前に言われ、示されています――主だけからと言われるので、直接的であり、間接的でないことがいえます。
しかし、どのようにこのことが行なわれるか、今から述べます。

神の摂理

171◀︎目次▶︎173

172『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に、主はみことばであること、教会のすべての教えは、みことばから汲み取られなければならないことが示されています。
そこで、主はみことばであるので、みことばから教えられる人間は、主だけから教えられることがいえます。
しかし、このことはほとんど理解されないので、次の順序で説明します。

(1)みことばは主からのもの、またその方について述べられているので、主はみことばである。
(2)それは神的な善の神的な真理であるからである。
(3)このように、みことばから教えられることは、その方から教えられることである。
(4)説教によって間接的に行なわれるものは、直接的なものを排除しない。

[2]第一――みことばは主からのもの、またその方について述べられているので、主はみことばである
みことばが主からであることは、教会の中で、だれからも否定されません。けれども、みことばが主だけについて述べられていることは、確かに否定されませんが、そのことを知りません。しかし、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に(1-17番37-44番)、また、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に示されています(62-69番80-90番98-100番)。
それで、みことばは主だけからであり、主だけについてであるので、人間がみことばから教えられるとき、主から教えられるといえます、というのは、みことばは神的なものであるからです。
神性そのもの〔すなわち、主〕でないなら、だれが神性を伝達し、そしてそれを心に植え付けることができますか?〔神性そのものは〕主からであり、主について扱われています。
それゆえ、弟子たちとご自分との結合ついて語られるとき、主は言われています、
彼らはその方の中にとどまり、その方の言葉が彼らの中にとどまる(ヨハネ15:7)。
その方のみことばは、霊といのちであった(ヨハネ6:63)。
主は彼らのもとに住まいを持たれ、その者たちはその方の言葉を守る(14:20-24)。
それゆえ、主から考えることは、みことばによってかのように、みことばからです。
みことばのすべてのものは天界と伝達していることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に、最初から最後まで示されています。主は天界であるので、みことばのすべてのものは主そのものと伝達していることが意味されます――天界の天使は確かに伝達しています、しかし、このこともまた主からです。
[3]第二――主はみことばである、それは神的な善の神的な真理であるからである
主がみことばであることは、「ヨハネ福音書」に、次の言葉で教えられています――

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……ことばは肉となって、私たちの間に住んだ(1:1, 14)。

このことは今まで、神が人間をみことばによって教えるとしか理解されなかったので、それゆえ、主がみことばそのものではないことを含む誇張された表現として説明されました。
その理由は、みことばによって神的な善からの神的な真理が、すなわち、同じことですが、神的な愛からの神的な知恵が意味されることを知らなかったからです。
これらが主そのものであることは、著作『神の愛と知恵』の第一部の中に、これらが、みことばであることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に示されています(1-86番)。
[4]どのように主が神的な善からの神的な真理であるか、このこともまた簡単に述べます。
すべての人間は、顔と身体からではなく、自分の愛の善から、自分の知恵の真理から人間です。人間はこれらから人間であるので、すべての人間は自分の真理と自分の善、すなわち、自分の愛と自分の知恵でもあります。これらなしに、人間ではありません。
けれども、主は善そのものと真理そのもの、すなわち、同じことですが、愛そのものと知恵そのものです。これらは、「初めに神のもとにあった、神であった、肉となった」みことばです。
[5]第三――このように、みことばから教えられることは、その方から教えられることである
このことは、善そのものからと真理そのものから、すなわち、愛そのものからと知恵そのものから教えられるからであり、前に言われたように、それらはみことばです――しかし、それぞれの者は自分の愛の理解力にしたがって教えられます。〔理解力を〕越えるものは、残りません。
みことばの中の主により教えられるすべての者は、世では、わずかな真理で教えられます、しかし、天使になるとき、多く真理で教えられます。というのは、霊的な神性と天的な神性であるみことばの内的なものが同時に植え付けられるから――しかし、これらは人間のもとでは開かれません、彼の死後、天界の中で、そこの天使の知恵の中で開かれます。それは、人間のものに、このように自分のプロプリウムに比較すれば、言語に絶するものです。
天使の知恵をつくる霊的な神性と天的な神性が、みことばの中のすべてと個々のものに内在することは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(5-26番)。
[6]第四――説教によって間接的に行なわれるものは、直接的なものを排除しない
みことばは、両親・教師・説教者・本によって、特に、それを読むことによって、間接的にしか教えられることができません。
しかしそれでも、それらから教えられないで、それらを通して、主から教えられます。
このこともまた、それら自体は自分自身からでなく、神の霊から語られ、「すべての真理は、すべての善のように、神からです」と言う説教者たちの知識からです。
確かに、それを話すことができ、そして多くの者の理解力にもたらすことができますが、しかし、心にもたらすことはできません。心の中にないものは、理解力の中で失われます――「心」によって、人間の愛が意味されます。
これらから、人間は主だけにより導かれ、教えられること、みことばから導かれ、教えられるとき、その方から直接的に導かれ、教えられることを見ることができます。
このことは天使の知恵のアルカナ中のアルカナです。

神の摂理

172◀︎目次▶︎174

173 みことばによって、教会の外にいて、みことばを持たない者にもまた光があることが、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に示されています(104-113番)――みことばによって人間に光があり、光から彼に理解力があるので、これは、起源の中の光から、知覚と思考であるどんな事柄についても、その派生物の中の光が、善い者と同様に悪い者にある、といえます。
主は言われています、
その方なしに、何も行なうことができない(ヨハネ15:5)。
天から与えられないなら、人はどんなものも得ることができない(ヨハネ3:27)。
天の中の父は悪い者と善い者の上に自分の太陽を昇らせ、雨を正しい者と不正な者の上に送られる(マタイ5:45)。
ここの「太陽」によって、みことばの中の他の箇所のように、その霊的な意味で、神的な愛の神的な善が、また「雨」によって神的な知恵の神的な真理が意味されます。
これらは悪い者と善い者、そして正しい者と不正な者に与えられます、なぜなら、与えられなかったなら、その者に知覚と思考はなかったであろうからです。
唯一のいのちだけがあり、そのいのちからすべての者にいのちがあり、そして、知覚と思考はいのちのものであることが前に示されています。それゆえ、同じ源泉から、そのいのちから知覚と思考もまたあります。
理解力をつくるすべての光は、主である霊界の太陽からであることが、これまで多くの機会に示されています。

神の摂理

173◀︎目次▶︎175

174 (5)人間は、主により外なるものの中で、すべての外観の中で自分自身からのように導かれ、教えられる
このことは、彼の外なるものの中で生じます、けれども、内なるものの中で生じません。
どのように霊魂が働いて、目が見、耳が聞き、舌と口が話し、心臓が血を動かし、肺が呼吸し、胃が消化し、肝臓と膵臓が調節し、腎臓が分離し、他の無数のものもそうであることをだれも知らないように、主がどのように人間を彼の内的なものの中で導き、教えられるか、だれも知りません。
これらは人間の知覚と感覚に生じません。
主により、心のさらに内的な実体と形の中に生ずる無数に多くのものも同様です。
それらの中の主の働きは人間に見られません。しかし、結果そのものは見られ、結果の原因のあるものも見られ、それらは数多くあります。
これらは外なるものであり、それらの中で人間は主と一つです。外なるものは内なるものと一つになるので、なぜなら、一つの連鎖の中で結合するからであり、それゆえ、外なるものの中で人間によって配列されることにしたがってでしか、主により内なるものの中で配列されることができません。
[2]人間がすべての外観の中で自分自身からのように考え、意志し、話し、行なうことは、その外観なしに人間に意志と理解力は何もないこと、このように情愛と思考は何もなく、主からの善と真理の何らかの受け入れることも何もないことは、だれでも見ることができ、だれもが知っています。
このようであるので、その外観なしに神についての知識は何もなく、仁愛と信仰は何もなく、このように改心と再生は何もなく、何も救いはないといえます。これらから、それらすべての役立ちのために、その外観が主により人間に与えられていること、そして、特に、人間に受け取ることと相互関係があり、それらによって主が人間に、人間が主に結合されることができ、そして人間がその結合によって永遠に生きるように結合されることができることが明らかです。
ここに意味されているのは、この外観です。

神の摂理

174◀︎目次▶︎176

(4–5)神的な摂理の法則は、神的な摂理の働きについて人間が何らかのものを知覚し、感じてはならない、しかしそれでも、それを知り、認めなくてはならないことである

175 神的な摂理を信じない自然的な人間は、自分自身に、「善い者よりも悪い者が名誉へ高められ、富を得るとき、信じる者たちよりも神的な摂理を信じない者たちが同じような多くのことに成功するとき、神的な摂理とは何か?」と考えます。
それどころか、不誠実な者そして不信心な者が、忠実な者と敬虔な者に、危害・損害・不幸を、時には死を、このことを欺くことと悪意によって、もたらすことができます。
また、次のように考えます、「私は経験そのものから、明るい日の中のように、人間が単なる才気ある抜け目なさから、狡猾な陰謀を忠実や公正にまさって行なうことができ、その陰謀は信ずるにたるものと正しいもののように見えないか?必然、成り行き、偶然でしかなく、それ以外の残りのものとは何か、それらの中に神的な摂理からの何も見られない。必然は自然的なものから、成り行きは自然または市民の秩序から流れ出る原因からのものであり、偶然は、知らない原因から、あるいは何もない原因からのものではないか?」
何も神に帰せず、すべてのものを自然に帰する自然的な人間は、このようなことを自分自身に考えます。なぜなら、その者は何も神に、何も神的な摂理に帰さないからです、というのは、神と神的な摂理は一つであるからです。
[2]けれども、霊的な人間が自分自身に言うかまたは考えることは異なっています。
この者は、神的な摂理をその進行中に、たとえ思考で知覚し、目の視覚で感じなくても、それでも知り、それを認めます。
それで、前述の外観とそこからの欺きが理解力を盲目にするので、これは何らかの視覚を受けることができません。盲目をもたらす欺き、暗黒をもたらす虚偽が追い払われないなら、導き入れられないからです。
このことは、虚偽を追い散らす力が内在する真理によってでないなら、行なわれることができません、それゆえ、これらの真理は開かれなければなりません、しかし、次の順序で明確に――

(1)人間が神的な摂理の働きを知覚し、感じるなら、理性にしたがって自由から行動はしないし、彼には何も自分自身からのように見えないであろう。出来事を前もって知るなら、同様である。
(2)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させ、そしてそれを曲げ、破壊する。
(3)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、神を否定するかあるいは自分自身を神にする。
(4)人間には、神的な摂理を顔からでなく背後から、なおまた自然的な状態の中でなく霊的な状態の中で、見ることが与えられる。

神の摂理

175◀︎目次▶︎177

176 (1)人間が神的な摂理の働きを知覚し、感じるなら、理性にしたがって自由からは行動しないし、彼には何も自分自身からのように見えないであろう。出来事を前もって知るなら同様である
人間が理性にしたがって自由から行動するように、なおまた、すべての者が自分自身からのように見えるように、欲し、考え、話し、行なうこと、その外観なしに、何らかのものは人間に自分のものに、または、人間が自分自身にならないこと、このように彼のプロプリウムとならないこと、このように何も彼に転嫁されるものはなく、その転嫁なしに悪をあるいは善を行なう、神の信仰あるいは地獄の信念を抱くことに相違がなくなる、一言でいえば、人間でなくなる――これが神的な摂理の法則であることは、明白に理解できるように前章で示されています。
[2]そこで、次のことが示されなければなりません。神的な摂理の働きを知覚し、感じていたなら、人間には理性にしたがって働く自主性が何もなく、そして、彼に自分自身からのような外観が何もなかったでしょう。それを知覚し、感じていたなら、さらにまたそれにより導かれたでしょう。なぜなら、前にも示されているように、主はご自分の神的な摂理によってすべての者を導かれ、人間は外観だけによって導かれるからです。
それゆえ、もし、知覚と感覚によって生き生きと導かれるなら、生きている気がしないし、その時、音を立てて動く彫像とほとんど異なりません。
もし、それでも生きている気がするのなら、その時、手と足を縛られているかのように、または荷車の前に〔つながれた〕家畜のようにしか導かれません。
その時、人間には何らかの自由がない、とだれが見ませんか?
自由がないなら、何らかの理性もありません。なぜなら、だれもが自由から、自由の中で考え、何でも自由から、自由の中で考えないものは、彼に自分自身からのものではなく、他の者からのものに見えるからです。それどころか、あなたが内的にこのことを熟考するなら、人間に思考が、まして理性がなくなり、ここから人間でなくなることを知覚するでしょう。

神の摂理

176◀︎目次▶︎178

177 人間を悪から導き出すことは、神的な摂理の絶え間ない働きです。
だれかがこの絶え間ない働きを知覚し、感じ、それでも束縛されたように導かれるなら、絶えず抵抗しませんか、またその時、神と争うかあるいは自分自身と神的な摂理を混合させませんか?
後者なら、自分自身をもまた神にします。前者なら、自分自身から束縛をほどき、神を否定します。
このことから、人間からの悪の力と主からの善の力の二つの力が、互いに絶えず働いていること、二つの対立するものが互いに働くとき、その時、一方が勝つがあるいは両方が滅びることがはっきりと明らかです。しかしながら、ここで、もし一方が勝つなら、両方とも滅びます、というのは、人間にある悪は、たちまち主からの善を受けなくなるし、主からの善も人間からの悪をたちまち投げ出し、一方またはもう一方が生じたなら、すぐにも人間にいのちは残らなかったであろうからです。
人間に神的な摂理の働きがはっきりと知覚されるか感じられたなら、これらやまた他の多くの有害なものが存在するようになったでしょう。
しかし、このことは続きの中で例によってはっきりと示します。

神の摂理

177◀︎目次▶︎179

178 人間に出来事の結果を前もって知ることが与えられないのは、理性にしたがって自由から行動できるためであることもまたその理由です――なぜなら、人間が愛するものは何であれ、その結果を欲し、そのことへ理性を通して自分自身を導くこと、なおまた、人間が理性で欲するもので、愛からでなく思考を通して結果にやって来るようなものは何もないことがよく知られているからです。それゆえ、結果または成果を神的な予言から知るなら、理性は、理性とともに愛は、満足して休みます。というのは、愛は理性とともに結果の中に終わり、それからその時、新しいものが始まるからです。
思考の中で愛から結果を、その結果の中でなく、しかし、その前に、すなわち、現存の中でなく、将来の中に見ることは理性の快さそのものです。
ここから人間に、「希望」と呼ばれるものがあり、それは理性の中で見るかまたは待つように、増大し、減少します。
この快さは、出来事の結果の中で満たされますが、しかし、その後、それについての思考とともに去ります。成果が前もって知られるとき、同様になったでしょう。
[2]人間の心は、連続的に、目的・原因・結果と呼ばれる三つのものの中にあります。
これらから一つが欠けているなら、人間のいのちの中に心はありません。
意志の情愛は、いのちからの目的です。理解力の思考は、いのちによる原因です。身体の行動、口の話、または外なる感覚は、思考を通しての目的の結果です。
人間の心が、単に意志の情愛の中にある時、そのいのちの中になく、またさらに、同様に単に結果の中にある時、そのいのちがないことは、だれにも明らかです。
それゆえ、別々にそれらの一つからでなく、結合してそれら三つから、心に、何らかのいのちがあります。
心のこのいのちは、出来事の結果が予言されるとき、減少し、去ります。

神の摂理

178◀︎目次▶︎180

179 将来を前もって知ることは人間性そのものを、理性にしたがって自由から行動することを取り去るので、それゆえ、だれにも将来を知ることは与えられません。しかし、それぞれの者が将来について理性から結論することは許されます。ここから、理性は彼のすべてのものとともに、自分のいのちの中にあります。
このことから、人間は死後でないかぎり〔自分の〕運命を知りません、または、何らかの出来事の結果を、そのことが存在するようになる前には知りません。なぜなら、もし知るなら、もはや、自分自身の内なるものから、自分に生ずる将来または生きることがどのようであるか考えないで、単に自分自身の外なるものから生ずるものについて考えるからです。この状態は彼の心の内なるものを閉ざします。その内なるものには、特に、自主性と推理力である彼のいのちの二つの能力が住んでいます。
将来を前もって知る願いは、大部分の者に生来のものです。しかし、この願いは悪の愛から起源を得ています。それゆえ、神的な摂理を信じる者から取り除かれ、彼らに、「主が自分たちの運命を調節されている」という信頼が与えられます。またここから、自分自身が神的な摂理の手段で何らかのもので引き起こさないように、それを前もって知ることを欲しません。
このことを主は「ルカ福音書」で多くのことによって教えられています(12:14-48)。
[2]これが神的な摂理の法則であることは、霊界からの多くのことで確信することができます。
死後、その中にやって来る時、大部分の者は自分の運命を知ることを欲します。しかし、彼らに、善く生きたなら、彼らの運命は天界の中にあり、悪く生きたなら、地獄の中にある、と答えられます。
しかし、すべての者は地獄を、さらにまた悪を恐れるので、天界の中にやって来るためには何をするべきか、何を信じるべきか質問します。しかし、彼らに、欲するように行動し、信じてよいこと、しかし、地獄の中では善を行なうこと、真理を信じることができないで、天界の中でなくてはできないことを知るとよい、と答えられます。
「何が善で、何が真理か求めよ、そして、あなたにできるなら、真理を考え、善を行なえ」。
このように、だれもが、自然界の中のように、霊界の中で、理性にしたがって自由から行動するがままにされます。しかし、この世で行なったように、そのようにその世でも行ないます、なぜなら、そのいのち(生活)はどんなものでも残り、運命はいのち(生活)のものであるので、ここから運命が定まるからです。

神の摂理

179◀︎目次▶︎181

180(2)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させ、そしてそれを曲げ、破壊する
このことが理性的な人間と自然的な人間の知覚の中に明瞭に生ずるために、例によって、次の順序で説明しなければなりません――

(1)外なるものは、すべての働きの中で一つとなるように、内なるものとそのような結びつきをもっている。
(2)人間はある種の外なるものの中にだけ、主とともにいる。同時に内なるものの中にいたなら、神的の秩序の進行のすべての秩序と進路を曲げ、破壊した。

しかし、言われたように、これを例によって説明します。
[2]第一――外なるものは、すべての働きの中で一つとなるように、内なるものとそのような結びつきをもっている
このことを、例によって、人間の身体の中にあるものによって、説明します。
全身とすべての部分の中に、外なるものと内なるものがあります。そこの外なるものは皮膚・膜・被膜と呼ばれます。内なるものは神経の繊維と血管から混成され、構成されたいろいろな形です。
取り囲む皮膜は、それ自体からの突起によって最内部にまで内的なすべてのものの中に入ります。そのように被覆である外なるものは、繊維と管からの有機体の形である内なるすべてのものと、それ自体を結合させます。
そのことから、外なるものが働くまたは働きかけられるように、内なるものもまた働くかまたは働きかけられることがいえます。というのは、すべてのものは絶え間なく束ねられているからです。
[3]身体の中の何らかの全般的な被覆だけを、例えば、肺の全般的な被膜、心臓と肺の被膜である胸膜を取り上げ、それを解剖学者の目で調べなさい。これをあなたが研究したことがないなら、解剖学者に助言を求めなさい。そのとき、あなたは聞きます。この全般的な被覆は、いろいろな曲がりくねりによって、その後、それ自体からの突起によって、細くまた細くと、肺の最内部に、気管支の最小の管の中まで、肺の始まりである小胞そのものの中へ入ります――その進行が、その後、気管を通って咽頭の中へ、舌へ向かうことは話しに出すまでもありません。
それらから最外部に、最内部との永続する連結物があることが明らかです。それゆえ、最外部のものが働くかまたは働きかけられるように、そのように最内部が働くかまたは働きかけられます――胸膜であるその最外部の被膜が、滲出液がたまるか炎症を起こすかあるいは潰瘍でいっぱいになるとき、肺が最内部から苦しむのは、これが理由です。もし欠陥が重くなるなら、肺のすべての活動は弱々しくなり、人間は死にます。
[4]全身の中の他のどこでも同様です――例えば、腹のすべての内臓の全般的な被覆である腹膜、さらにまた、それぞれのまわりの被覆、例えば、胃・肝臓・膵臓・脾臓・腸・腸間膜・腎臓でも、両性の生殖の器官でもそうです。
これらから何らかのものを取り上げ、あるいは自分自身で調べるか、またあるいはその知識の専門家に助言を求めなさい、するとあなたは聞くでしょう――例えば、肝臓を取り上げなさい、するとあなたは、腹膜とその内臓の被覆とに、また被覆によってその最内部のものとに連結物があることを見つけるでしょう。というのは、ここから絶え間ない突起があり、さらに内的なものに向けて挿入するものが、このように最内部へ連続するものがあり、ここからすべてのものを結びつけるからです。それはこのように、被覆が働くかまたは働きかけられるとき、全部の形が同様に働くかまたは働きかけられるからです。
他のものも同様です。
その理由は、全般的にまた個別的に、すなわち、全体にまた個々に、すべての形の中で、驚くべき結合によって、一つとして働くからです。
[5]意志と理解力の働きに関係する霊的な形の中で、そしてそれらの状態の変化と相違の中でも、自然的な形の中に、また運動と活動に関連するそれらの働きの中と同様に生ずることは、以下に見られます。
そこで、人間は、ある外なる働きの中で主と一つであり、その者に理性にしたがって行動する自主性が取り去られないので、主は、外なるものの中で人間と一つのようにしか内なるものの中で働くことができないことがいえます。
それゆえ、人間が悪を罪として避け、退けないなら、思考と意志の外なるものは、その時、同時にそれらの内なるものが害され、滅ぼされます。比べれば、胸膜が胸膜炎と呼ばれるその疾患からのようなものであり、それによって身体は死にます。
[6]第二――同時に内なるものの中にいたなら、神的な秩序の進行のすべての秩序と進路を曲げ、破壊した
このこともまた人間の身体からの例によって説明します。
人間が、繊維の中への両方の脳のすべての働きを、筋肉の中への繊維の働きを、また活動の中への筋肉の働きを、その知識から活動のすべてのものを制御することを知るなら、すべてのものを曲げ、破壊しませんか?
[7]人間が、どのように胃が消化し、内臓がまわりにその分を吸収し、血をつくり、またそれをいのちのすべての働きへ分配し、それらを食べ、飲むことのように、外的なものの中で制御することを知るなら、すべてのものを曲げ、破壊しませんか?
内なるものと一つのように見える外なるものを制御することができないとき、内なるものもまた制御するなら、その時、無限にあるものに何をするでしょうか?むしろぜいたくと不摂生がそれを滅ぼしませんか?
それゆえ、内なるものは、人間がその中に意志の何らかのものを入れ、自分自身の支配のもとに行なわないように、筋肉を除いて、完全に彼の意志から連れ出されています。その筋肉は外被となっていて、どのようにこれが働くか知られないで、活動することだけが知られています。
[8]他のものも同様です――例えば、人間が、見るために目の内的なものを、聞くために耳の内的なものを、味わうために舌の内的なものを、感じるために皮膚の内的なものを、収縮するように働くために心臓の内的なものを、呼吸するために肺の内的なものを、乳糜を配送するために腸間膜の内的なものを、分泌するために腎臓の内的なものを、子孫を産むために生殖器官の内的なものを、胎児をつくり上げるために子宮の内的なものなどを制御するなら、神的な摂理のこれらの秩序を無限の方法で曲げ、破壊しませんか?
人間は外なるものの中にいることが知られています。例えば、目で見、耳で聞き、舌で味わい、皮膚で感じ、肺で呼吸し、妻を妊娠させるなどです。
あなたは外なるものを知り、それを身体と心の健康のために制御することで、満足しませんか?
これができないとき、内なるものをもまた制御するなら、何が生じますか?
それで、これらから、人間が神的な摂理をはっきりと見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させて、それを曲げ、破壊することを明らかにすることができます。

神の摂理

180◀︎目次▶︎182

181 心の霊的なものの中に似たものがあるのは、身体の自然的なものの中に似たものがあるように、心のすべてのものは身体のすべてのものに対応するからです。それゆえ、心がまた身体を外なるものの中で、全般的なものの中で、意のままに働かせます。
見るために目を、聞くために耳を、食べ、飲み、話すために口と舌を、つくるために手を、歩くために足を、子孫を産むために生殖の器官を働かせます。
心はこれらへと外なるものを働かすだけでなく、すべての連鎖の中で最内部から最外部の内なるもの、最外部から最内部の内なるものをも働かせます。
したがって、話すために口・肺・咽頭・声門・舌・唇を、それぞれが別々に同時にその機能に向けて働かす時、顔をもまた適当するものへ向けて働かせます。
[2]ここから、身体の自然的な形について言われることは、心の霊的な形について言われなくてはならないこと、身体の自然的な働きについて言われることは、心の霊的な働きについて言われなくてはならないことが明らかです。それゆえ、人間が外なるものを制御するように、主は内なるものを制御します。人間が自分自身から外なるものを制御するなら、それとは異なって、主から外なるものを制御するように、また同時にそれらを自分自身からのように制御します。
人間の心もまたすべてにおいて人間の形です。というのは、それは、死後、世の中でのように完全に人間のように見える彼の霊であるから。またここから、両方の中で似ています――このように、身体の中で内なるものと外なるものの結合について言われることは、さらにまた、一方は自然的であり、もう一方は霊的であるという単なる相違とともに――心の中での内なるものと外なるものの結合についても理解しなければなりません。

神の摂理

181◀︎目次▶︎183

182 (3)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、神を否定するかあるいは自分自身を神にする
単なる自然的な人間は自分自身に言います、「何が神的な摂理か?大衆のもとにある祭司からの言葉、何らかのまたはそれ以上の言葉なのか?だれがその何らかのものを見ているのか?思慮分別・知恵・欺き・悪意、それらから世の中のすべてのものは行なわれないのか?ここから残りのものは、必然と結果ではないのか?そしてまた、多くの偶発的なものではないのか?神的な摂理がこれらの中に隠されているのか?ごまかしと欺きの中に、どのように隠されていることができるのか?それでも、神的な摂理はすべてのもので働くと言われる――それでは、それを私が見るようにせよ、そうすれば私はそれを信じよう。だれかがそれを前もって信じることができるのか?」
[2]そのように、単なる自然的な人間は話します。けれども、霊的な人間は異なって話します。この者は神を認めるので、神的な摂理もまた認め、それを見もします。
しかし、その者は、自然から自然の中でないなら考えない者に、その摂理を明らかにすることができません。というのは、この者は心を自然の上に高揚させることができず、そして、その外観の中に神的な摂理の何らかのものを見ること、または、その法則からのそれについて、それらもまた神的な知恵の法則である、と結論することができないからです――それゆえ、もしそれをはっきりと見るなら、それを自然に注ぎ入れ、このようにそれを欺きで覆うだけでなく、冒涜もします。それを認めることに代わって、それを否定し、神的な摂理を心で否定する者は、神もまた否定します。
[3]神がすべてのものを支配する、あるいは自然がすべてのものを支配する、と考えてみなさい。神がすべてのものを支配すると考える者は、愛そのものと知恵そのものが、このようにいのちそのものが支配すると考えます。けれども、自然がすべてのものを支配すると考える者は、自然の熱と自然の光が支配すると考えます。それらはそれでも、生命のない太陽からなので、本質的に生命のないものです。
いのちそのものが生命のないものを支配するのではありませんか?生命のないものが何らかのものを支配することができますか?
あなたが、生命のないものがそれ自体にいのちを与えることができると考えるなら、気が狂っています――いのちは「いのち」からでなければなりません。

神の摂理

182◀︎目次▶︎184

183 人間がはっきりと神的な摂理とその働きを見るなら、神を否定するであろうことは、ありそうにないように見えます。だれかがそれをはっきりと見るなら、それを、したがって神を認めることしかできないと見られるからです、しかしそれでも、正反対です。
神的な摂理は、人間の意志の愛と決して一つとして働かないで、絶えずそれと対立して働きます――なぜなら、人間は自分の遺伝悪から常に最低の地獄に向かってあえぎ求めます、けれども主はご自分の摂理によって彼を導き出し、彼をそこから、最初に穏やかな地獄へ、その後、地獄から、最後に、天界の中のご自分へ引き出されるからです。
この神的な摂理の働きは絶え間ないものです。
それゆえ、人間がはっきりとこの引き離しや引っ込めることを見るかあるいは感じるなら、怒って、神を敵とし、自分のプロプリウムの悪からその方を否定するでしょう――そのために、人間がこのことを知らないように、自由の中に保たれ、その自由から、人間は自分が自分自身を導くとしか知りません。
[2]しかし、説明に例が役立ちます。
人間は遺伝から、偉大な者になることを欲し、そしてまた富んだ者になることを欲します。彼にその愛が抑制されないかぎり、さらに偉大になり、さらに富むことを、ついには最も偉大になり、最も富んでいることを欲します。このように満足しないで、神そのものよりも偉大になることを、天界そのものを所有することを欲します。
この欲望が遺伝悪の中の内部に、ここから人間のいのちの中に、そしていのちの性質の中に隠れています。
神的な摂理は、この悪をすぐには取り除きません。なぜなら、すぐに取り除かれるなら、人間は生きないから――しかし、それは静かに、連続的に、人間がそのことについて何も知ることなしに取り除かれます。
このことは、人間に思考にしたがって、それを理性的に行ない、行動することが許されることによって生じます。その時、理性によっても、市民としての事柄や道徳によっても、いろいろな手段によって導き出します。このように自由の中で導き出されるかぎり、導き出されます。
悪もまた、現われ、見られ、認められないなら、取り除かれることができません。それは切開されないなら治癒されない傷のようです。
[3]そこで、人間が、主がご自分の神的な摂理によって最大の快さがある彼のいのちの愛に対してこのように働くことを、知り、見たなら、敵対する怒りの中にいて、激しく怒り、主張し、厳しいことを話し、ついには自分の悪から神的な摂理の働きを、このように神を否定して、それを無視することしかできなかったでしょう。特に、成功が妨害され、自分自身が地位から追い払われ、富を奪われることを見るなら、そうするでしょう。
[4]しかし、主は、名誉を求めようとすることから、富を得ようとすることから決して人間を連れ去らないで、卓越するだけのために、すなわち、自分自身だけのために、名誉を求めようとする欲望から連れ去ることを知らなくてはなりません。裕福だけのために、すなわち、富のために富を得ようとすることからも同様です。しかし、これらから連れ去るとき、彼を役立ちの愛の中へ導き入れ、卓越を自分自身のためでなく、しかし役立ちのために、このように役立ちから自分自身のものであると眺め、自分自身のものから役立ちであると眺めないようにされます。富も同様です。
主が絶えず高慢な者を低くし、謙遜な者を上げられることは、その方がみことばの中の多くの箇所で教えています。そこには、それがその方の神的な摂理であることも教えられています。

神の摂理

183◀︎目次▶︎185

184 人間に遺伝からある他の悪も同様です。例えば、姦淫・欺瞞・復讐・冒涜、その他の似たようなものです。それらのすべてのものは、考えまた意志する自主性によってそれらを後に残すように、そのように人間が自分自身からそれらを遠ざけるようにすることでしか、遠ざけられることができません。それでも、神的な摂理を認めないなら、またそれによって生ずるよう切願しないなら、できません。
それらの自主性とまた同時に神的な摂理がなくては、それらの悪は閉じ込められて、放出されることなく、やがてそれ自体をまわりにまき散らし、すべてのものに死を与える毒のようなものになります。そこからやがて全身が死んでしまう心臓そのものの死に似たものになります。

神の摂理

184◀︎目次▶︎186

185 そのようであることは、死後、霊界の中の人間からでなければ、さらによく知られることができません。
自然界の中で偉大になった者、裕福となった者、名誉の中と同様に富の中に自分自身だけを見たそこの大部分の者は、最初、神について、神的な摂理について、心で認めたかのように話します――しかし、その時、神的な摂理を、その摂理から、地獄にやって来ることである自分の運命の最後のものを、あからさまに見るので、そこで悪魔と自分自身を結合させ、その時、神を否定するだけでなく、冒涜もします。その後、その中で、悪魔からのさらに力のある者を自分たちの神々として認めるような、自分たち自身もまた強烈に神々になることしか何も求めないような狂気の中にやって来ます。

神の摂理

185◀︎目次▶︎187

186 もしあからさまにその方の神的な摂理の働きを見るなら、人間は神と対立するようになり、否定するでしょう、人間は自己愛の快さの中にいて、その快さが彼のいのちをつくるからです。それゆえ、人間が自分のいのちの快さの中に保たれるとき、自分の自由の中にいます、というのは自由とその快さは一つとなっているから――そこで、もし絶えず自分の快さから連れ去られること知覚するなら、自分のいのちを滅ぼすことを欲する者に対するかように怒り、敵とします。
このことが生じないように、主はご自分の神的な摂理の中には見られません、しかし、それによって隠れている流れのように、または潮流にしたがった舟のように、静かに人間を導かれます――このことから人間は、常に自分のプロプリウムの中にいるとしか知りません、というのは、自由はプロプリウムと一つとなっているからです。
ここから、自由は人間に、神的な摂理が導き入れるものを自分のものにし、もしこれが自分自身に明らかにならないなら生じないことが明らかです。
自分のものにされることは、いのち(生活)に属すものにされることです。

神の摂理

186◀︎目次▶︎189

187 (4)人間には神的な摂理を顔からでなく背後から、なおまた自然的な状態の中でなく霊的な状態の中で、見ることが与えられる
神的な摂理を顔からでなく背後から見ることは、それを前からではなく、後から見ることです。また自然的な状態からでなく霊的な状態からとは、世からでなく天界から見ることです。
天界から流入を受け、神的な摂理を認め、特に、改心によって霊的になっているすべての者は、出来事を何らかの驚くべき連鎖の中で見る時、あたかも、内的な承認からかのようにそれを見、確信します。
これらの者は、それを顔から、すなわち、存在するようになる前に見ることを欲しません、なぜなら、その何らかの秩序と進路に彼らの意志が入り込まないようにと恐れるからです。
[2]天界からの何らかの流入を許さないで、世だけからの流入を許して、特に、自分自身のもとの外観の確信から自然的になっている者は異なります。
これらの者は何らかの神的な摂理を背後から、すなわち、それを後ろから見ないで、それを顔から、すなわち、存在するようになる前に見ることを欲します。神的な摂理は手段によって働き、手段は人間を通してまたは世を通して存在するようになるので、それゆえ、顔からあるいは背後から見るにしても、それを人間かあるいは自然に帰し、このように神的な摂理を否定し、これを確信します。
そのように帰する理由は、彼らの理解力が上から閉ざされ、下だけから開かれ、そのように天界に向けて閉ざされ、世に向けて開かれているからです。神的な摂理を見ることは世から与えられないで、天界から与えられるからです。
時々、私は、彼らがもし自分の理解力が上から開かれたなら、また明るい日の光の中のように見たなら、自然は本質的に死んでいること、そして人間の理解力は本質的に無であり、〔自然と人間の理解力の〕二つとも存在するように見えるのは流入からである、という神的な摂理を認めたかだろうか、と私自身で考えました。私は、彼らが自分自身に自然のほうを選び、人間の思慮分別のほうを選んで確信し、下から流入する自然的な光がすぐさま上からの流入の霊的な光を消したことから〔神的な摂理を〕認めなかったことを知覚しました。
〔初版に188番はありません〕

神の摂理

187◀︎目次▶︎190

189 神を承認することによって霊的に、プロプリウムの捨てることによって賢明になった人間は、全世界の中に、そしてそのすべてと個々のものの中に、神的な真理を見ます。
自然的なものを眺めるなら、それを見、市民的なものを眺めても、それを見、霊的なものを眺めても、それを見、これを連続的な事柄と同様に同時的な事柄の中に、目的・原因・結果・役立ち・形・大きいものと小さいものの中に、それを見ます――特に、人間の救いの中に見ます、例えば、エホバがみことばを与え、それによって神について、天界と地獄について、永遠のいのちについて彼らを教え、その方が、人間をあがない、救うために世にやって来たことです。
これらや多くのことを、それらの中の神的な摂理を、人間は自然的な光の中で霊的な光から見ます。
しかし、単に自然的な人間はこれらから何も見ません。
[2]荘厳な神殿を見て神的な照らしの中で説教を聞いても、〔その後〕家で、「石の家しか見なかった、はっきり発音された声しか聞かなかった」と言う者のようです――または、すべての種類の実で飾られた庭園に入り、その後、家にやって来て、「森と木しか見なかった」と語る近眼の人のようです。
さらにまたこのような者は、死後、霊になって、そこのすべてのものは愛と知恵の表象の形の中にある天使の天界に上げられたとき、何も見ないし、存在するものでさえ見ません。私は、その行為を主の神的な摂理を否定した多くの者に見ました。

神の摂理

189◀︎目次▶︎191

190 変りやすいものが存在できるために、創造された多くの変わらないものがあります。
変わらないものは、太陽と月、そしてまた星の出没の交替の状態です。間に入ることから、それらが暗くなることがあり、それらは蝕と呼ばれます。それらから光と熱があります。一年の時があり、それらは春・夏・秋・冬と呼ばれます。一日の時があり、それらは朝・昼・夕・夜です。本質的に眺めたとき、大気・水・地もあります。植物界の中に成長力があり、それにまた動物界の中に生殖力があります。なおまたそれらは活動の中に送られる時、これらから、秩序の法則にしたがって、変わらずに生じます。
これらやまた他の多くのものが創造から、無限にいろいろなものが存在することができるために備えられたものが存在します――というのは、不変なもの、固定したものと確定したものの中でないなら、いろいろなものは存在するようになることができないからです。
[2]しかし、これらを例で説明します。
植物のいろいろなものは太陽の出没がないなら、ここから熱と光が一定でなかったなら存在しません。
調和する音に無限の変化があります、しかし、大気がその法則で、また耳がその形で一定でなかったなら存在することができません。
視覚の変化は、それもまた無限であり、大気がその法則で、また目がその形で一定でなかったなら、同じく色も、光が一定でなかったなら存在することができません。
思考・話すこと・行動も同様であり、それらもまた無限の変化があり、身体の器官が一定でなかったなら、それらも存在しません。
家は、いろいろなことがその中で人間により行なわれることができるために、一定でなければならないのではありませんか?
神殿も、その中でいろいろな礼拝・説教・教育・敬虔な瞑想が存在するようになることができるために、同様ではありませんか?
他のものの中でも、そのようです。
[3]変化そのものについては、それは変わらないもの、一定のもの、確定したものの中で生じ、それらは無限に進み、終わりがありません。それでも、あるものが他のものと完全に同じであるものは、全世界のすべてと個々のものの中に、決して存在しませんし、続くものの中で永遠に存在することもできません。
不変性の中で存在する目的のために、秩序の中にあるように、その不変性を創造した者でないなら、だれが、無限にそして永遠に進む、それらの変化を配列するのですか?
また、いのちそのもの、すなわち、愛そのものと知恵そのものである者以外に、だれがいのちの無限の変化を人間のもとに配列することができますか?
創造の連続のようなその方の神的な摂理なしに、人間の無限の情愛とそこからの思考が、このように人間そのものが一つとなるように配列されることができるのですか?悪の情愛とそこからの思考は、地獄である悪魔と一つとなり、そして善の情愛とそこからの思考は天界の中の主と一つとなっていませんか?
天使の全天界は、主の視野の中で、一人の「人間」のようであって、その方の映像と似姿であり、全地獄は一人の怪物の人間のように対立していることは、何回も前に言われ、示されました。
これらのことが言われたのは、自然的な人間もまた、いろいろなものが存在するようになるようにとの目的のために必要なものである変わらないものと一定なものから、自然のために、プロプリウムの(自己固有の)思慮分別のために、自分自身の狂った論証を獲得するからです。

神の摂理

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(5)プロプリウムからの思慮分別は何もない、ただあるように見られるだけであり、さらにまた、そのように見られるべきである。しかし、神的な摂理は、最も個々のものから、普遍的に存在する

191 プロプリウムからの思慮分別は何もなく、まったく外観に反し、ここから多くの者の信念に反しています。そのようであるのは、人間の思慮分別がすべてのものを生じさせるという外観からの信念の中にいて、深い調査を要する論証によって納得させられなければ、そこから引き出されことができないからです。その外観は結果であり、それがどこからかであるかを原因が明らかにします。
この事柄の一般的な信念について、ここで前書きとして述べておきます。
このことは、愛と信仰が人間からでなく、神からであること、なおまた知恵と知性は、したがって思慮分別もまた、一般的にすべての善と真理も神からであるという教会が教える外観に反しています。
これらが受け入れられるとき、さらにまた、プロプリウムからの思慮分別は何もなく、しかし単に、それが存在すると見られることが受け入れなくてはなりません。
思慮分別は、知性と知恵から以外の別の源泉からでなく、またこれら二つは理解力とここからの真理と善の思考以外の別の源泉からではありません。
ここで言われていることは、神的な摂理を認める者により、受け入れられ、信じられますが、人間の思慮分別だけを認める者はそうではありません。
[2]そこで、すべての知恵と思慮分別は主からであると教会が教えることかあるいは、すべての知恵と思慮分別は人間からであると教えることが真理でなくてはなりません。
そうでなければ、教会が教えることが真理であり、世が教えることが外観であること以外に調和することができますか?
というのは、そのことを、教会はみことばから、しかし、世はプロプリウムから確信するからです。みことばは神からであり、プロプリウムは人間からです。
思慮分別は神からであり、人間からではないので、それゆえ、キリスト教徒は、信心の中にいる時、「神が私の思考・計画・行動を導いてくださるいますように」と祈り、さらにまた、「自分自身からではできないからです」と言い足します。
その者はまた、だれかの善行を見るとき、主によりそのことへと導かれたこと、また多くの同様のことを言います。
その時、そのことを内的に信じないなら、だれがそのように話すことができますか?
そして、内的にそのことを信じることは天界から信じることです。
しかし、自分自身で考えるとき、人間の思慮分別のための論拠を集め、正反対のことを信じることができ、またこのことは世からです。
しかし、内なる信念が神を心で認める者のもとでまさり、外なる信念が、神をどれほど口で認めても、心で認めない者のもとでまさります。

神の摂理

191◀︎目次▶︎193

192 人間の思慮分別がすべてのものを生じさせるという外観からの信念の中にいる者がいて、さらに深い調査を要する論証によらないなら、納得させられることができない、それらは原因から引き出されなければならない、と述べました。
それゆえ、原因から引き出された論証を理解力の前に明らかにするために、その順序で見せなくてはなりませんが、それはこれです――

(1)人間のすべての思考は彼のいのちの愛の情愛からのものであり、それらなしで、まったく思考は何もなく、存在することもできない。
(2)人間のいのちの愛の情愛は、主だけに知られている。
(3)人間のいのちの愛の情愛は、主によりその方の神的な摂理を通して導かれ、同時に、思考が導かれ、それらから人間の思慮分別がある。
(4)主はご自分の神的な摂理によって全人類の情愛を一つの形に作り上げ、それは人間の形である。
(5)ここから、人類からである天界と地獄は、このような形の中にある。
(6)自然と人間の思慮だけを認めた者は地獄をつくり、神とその方の神的な摂理を認めた者は天界をつくる。
(7)自分自身から考え、自分自身から配列させることが人間に見られないなら、これらすべてのものは生ずることができない。

神の摂理

192◀︎目次▶︎194

193 (1)人間のすべての思考は彼のいのちの愛の情愛からのものであり、それらなしで、まったく思考は何もなく、存在することもできない
いのちの愛が何か、情愛とそこからと思考が何か、これらから身体の中に存在するようになる感覚と行動がその本質では何であるか、この著作の前のほうに、そしてまた『神の愛と知恵』と呼ばれる著作に、特に、その第一部と第五部の中に示されています。
さて、人間の思慮分別を原因として結果が生ずることになっているので、それらについて何らかのものがここにもまた提示されることが必要です――なぜなら、他のところで書かれたものが、そのあとで書かれたものと、同じものが思い出され、視野の中に置かれるようにしなければ、連続的に結ばれることができないからです。
[2]この論文のこれまでの中に、また前述の『神の愛と知恵』の中に、主の中に神的な愛と神的な知恵があること、それら二つのものは、いのちそのものであること、それら二つのものから人間に意志と理解力があり、神的な愛から意志が、神的な知恵から理解力があること、身体の中の心臓と肺はそれら二つのものに対応することが示されています。ここから、心臓の鼓動が肺の呼吸と一緒に人間全体をその身体に関して支配するように、意志は理解力と一緒に人間全体を心に関して支配すること――このように一つは自然的なものともう一つは霊的なものであるいのちの二つの源がそれぞれの人間にあること、いのちの自然的な源が心臓の鼓動であり、いのちの霊的な源が心の意志であること、両方ともそれ自体を配偶者と接合させ、それとともに一緒に住み、それとともにいのちの機能を働かせ、心臓はそれ自体に肺を結合させ、意志はそれ自体に理解力を結合させることを明らかにすることができます。
[3]そこで、意志の霊魂は愛であり、理解力の霊魂は知恵であり、両方とも主からのものであるので、愛はそれぞれの者のいのちであり、どのように知恵が結合しているかによって、愛はそのようないのちであることがいえます。すなわち、同じことですが、意志はそれぞれの者のいのちであり、この意志はどのように理解力が結合しているかによって、そのようないのちであることがいえます。
しかし、これらの多くのものについて、この著作の前のほうに、また特に、『神の愛と知恵』の第一部と第五部の中に見られます。

神の摂理

193◀︎目次▶︎195

194 この著作の前述のものの中にもまた、いのちの愛がそれ自体から情愛と呼ばれる副次的な愛を生み出すこと、これらは外的なものと内的なものであること、またこれらはひとまとめにされて一つの領域または国のようにつくっており、その中でいのちの愛は主人または王であることが示されています――なおまたさらに、次のことが示されています。それらの従属的な愛または情愛は、それ自体にそれぞれの配偶者を接合させており、内的な情愛の配偶者は知覚と呼ばれ、外的な情愛の配偶者は思考と呼ばれ、それぞれはそれ自体の配偶者と一緒に住み、それ自体のいのちの職能を果たすこと――それぞれは、いのちのエッセがいのちのエキシステレとどのようであるかによって、そのような結合であること、それは、一つがもう一つのものと同時でないなら、何ものでもないようなものであることです。というのは、いのちのエッセは存在するようにならないなら、何なのでしょうか?また、いのちのエキシステレはいのちのエッセからでないなら何なのでしょうか?
なおまた、いのちの結合は、音と調和する音の結合がどのようであるかによって、なおまた、声と話しの結合がどのようであるかによって、一般的には、心臓の鼓動と肺の呼吸がどのようであるかによって、そのようなものです――その結合は、一つはもう一つなしに何ものでもないようなもの、一つはもう一つのものとの結合によって何らかのものになるようなものです。
結合は、それらの中になくてはならないか、あるいはそれらによって行なわれなくてはなりません。
声を例とします――声が、その中に識別されるものがないなら、何ものでもないと考える者は、欺かれています。さらにまた、声は人間のもとの情愛に対応しています。その中に常に識別される何らかのものがあるので、それゆえ、人間の話し方の声から、彼の愛の情愛が知られ、話し方であるその変化から、彼の思考が知られます。
ここから、賢明な天使は話す声だけから、彼のいのちの愛を、それらの派生物である情愛と一緒に知覚します。
これらは、情愛はその思考なしに存在せず、思考もその情愛なしに存在しないことが知られるために言われました。
しかし、これらについて多くのことは、本著の前のものの中に、また『神的な愛と神的な知恵についての天使の知恵』(『神の愛と知恵』)の中に見られます。

神の摂理

194◀︎目次▶︎196

195 さて、いのちの愛はそれ自体の快さを、その知恵はそれ自体の楽しさを持つので、〔そのことは〕すべての情愛も同様です、その情愛はその本質では、泉からの流れのように、または木からの枝のように、または心臓からの動脈のように、いのちの愛からの副次的な派生した愛です。それゆえ、どんな情愛にもそれ自体の快さがあり、ここから知覚にまた思考にその自体の楽しさがあります。
ここから、それらの快さと楽しさは人間のいのちをつくることがいえます。
快さと楽しさのない、いのちとは何ですか?
生命あるものではなく、生命のないものです――それら〔快さと楽しさ〕を減らしてみなさい、するとあなたは冷たく、または鈍くなります、またそれらを取り去ってみなさい、するとあなたは息が絶え、死にます――
[2]情愛の快さと知覚や思考の楽しさから、生命(いのち)の熱があります。
それぞれの情愛にそれ自体の快さがあり、ここから思考にそれ自体の楽しさがあるので、善と真理はここからであり、なおまた善と真理がその本質の中で何であるか明らかにすることができます。
それぞれの者にとって、善は彼の情愛に快いものであり、そして真理はここから彼の思考に楽しいものです――というのは、それぞれの者が、自分の意志の愛から快いものと感じるものを善と呼び、そこから自分の理解力の知恵から楽しさを知覚するものを真理と呼ぶからです。
二つとも、泉からの水のように、または心臓からの血のように、いのちの愛から流れ出ます――二つとも、ひとまとめにされて、人間の全部の心がその中にある波または大気のようです。
[3]これら二つの快さと楽しさは、心の中で霊的です、しかしながら、身体の中で自然的です。両方の場所で人間のいのちをつくります。
これらから、人間のもとで、善と呼ばれるものが何か、真理と呼ばれるものが何であるか――なおまた、人間のもとで、悪と呼ばれるものと虚偽と呼ばれるものが何であるか、すなわち、彼の情愛の快さを滅ぼすものが彼にとって悪であり、ここから彼の思考の楽しさを滅ぼすものが虚偽であり、悪はその快さから、虚偽はその楽しさから、善と真理と呼ばれ、信じられることができることが明らかです。
確かに善と真理は心の形の変化と相違の状態です、しかし、これらはもっぱらそれらの快さと楽しさによって知覚され、生きています。
これらは、情愛と思考がそれらのいのちの中で何であるか知られるために提示しました。

神の摂理

195◀︎目次▶︎197

196 さて、人間の身体ではなく心が考えて(そして、それ自体の情愛の快さから考える)、人間の心は彼の死後に生きる霊であるので、人間の霊は情愛と思考以外の何ものでもないことがいえます。
情愛なしに何も思考が存在することができないことは、霊界のそこの霊と天使たちのすべての者が彼らのいのちの愛の情愛から考えること、それらの情愛の快さがそれぞれの者を彼の大気のように取り囲むこと、また彼らの思考を通して情愛から発散するこれらのスフェアにしたがって、すべての者はそこに結合されることから明らかです――さらにまた、だれでもどんなものであるか自分のいのちのスフェアから知られます。
これらから、すべての思考は情愛からであること、それ自体の情愛の形であることを明らかにすることができます。
意志と理解力の場合も同様であり、善と真理の場合も同様であり、仁愛と信仰の場合も同様です。

神の摂理

196◀︎目次▶︎198

197 (2)人間のいのちの愛の情愛は、主だけに知られている
人間は自分の思考とそこからの意図を、それらを自分自身の中に見るので知っています。それらからすべての思慮分別があるので、それらもまた自分自身の中に見ます。
その時、彼のいのちの愛が自己愛であるなら、プロプリウムの知性からの高慢の中にやって来て、思慮分別を自分自身に帰します。そのための論証を集め、このように神的な摂理を認めることから去ります。
世俗愛がいのちの愛であっても同様になります。しかしそれでも、後者はこのような段階で去ることはありません。
それらから、これらの二つの愛は人間とその思慮分別にすべてのものを帰すこと、もし内部が調べられるなら、神とその方の摂理に何も帰さないことが明らかです。
それゆえ、「人間の思慮分別は何もなく、しかし、すべてのものを支配する神的な摂理だけがあることが真理である」と聞くとき、まったく無神論者であるなら、おそらく、それをあざ笑います。しかし、宗教から何らかのものを記憶に保持していて、「すべての知恵は神からである」と言われるなら、確かに、最初は聞いたことを肯定します、しかしそれでも、自分の霊の中で、内部で、それを否定します。
特に、自分自身を神よりも、世を天界よりも愛し、または同じことですが、名誉と利益のために神を礼拝し、それでも、仁愛と信仰、すべての善と真理、なおまたすべての知恵、それどころか思慮分別は神からであり、何も人間からではない、と説教する祭司たちはこのようです。
[2]かつて霊界の中で、私は、二人の祭司たちが国のある大使と、「人間の思慮分別について、神からあるいは人間からであるか」論争しているのを聞きました。
論争は激しいものでした。
彼ら三人は心で同様に信じていました、すなわち、人間の思慮分別がすべてのことを行なう、神的な摂理は何も行なわないことです――しかし、その時、神学に熱中していた祭司たちは、「知恵と思慮分別は何も人間からではない」と言いました。また、大使が、「そのように、思考の何らかのものでもない」と応答したとき、〔祭司たちも〕「その通り」と言いました。
天使により、彼ら三人が同様の信念の中にいたこと知覚されたので、国の大使に、「祭司の服を着なさい、あなたが祭司であると信じなさい、そうしてから、話しなさい」と言われました。
彼は着て、信じました。その時、声高に、「知恵と思慮分別はどんな場合でも、神によらないなら、人間に何も与えられることができない」と話しました。そして、いつもの論証の雄弁さと十分な理性で、それを弁護しました。
その後、彼らの二人の祭司たちもまた、「服を脱ぎなさい、そして政治に仕える者の服を着なさい。あなたがたが政治家であると信じなさい」言われました。
そのように行なわれ、同じくその時、自分自身の内なるものから考え、神的な摂理に反対して人間の思慮分別のために以前に内部に抱いていた論証から話しました。
その後、彼ら三人は、同じ信念の中にいたので、心からの友人になり、地獄へ伸びるプロプリウムの思慮分別の道へ一緒に入りました。

神の摂理

197◀︎目次▶︎199

198 前に、人間のいのちの愛の何らかの情愛からでないなら、彼に何らかの思考が存在しないこと、思考は情愛の形以外の何ものでもないことが示されました。
そこで、人間が自分の思考を見て、情愛を見ることができないとき、というのは、これは感じるものであるからであり、また視覚の中にやって来ませんが、しかし、感覚の中にやって来る情愛からでなく、外観の中にある視覚から、プロプリウムの思慮分別がすべてのことを行なうと決め込んでしまうことがいえます。
というのは、情愛はそれ自体を単にそれについての思考のある快さと推論の心地よさによって明らかにするからです。その時、この心地よさと快さは、自己愛または世俗愛からプロプリウムの思慮分別の信念の中にいる者のもとで思考と一つになります。思考はその快さの中を、川の流れの中の船のように流れ、船長はその流れに注意を向けないで、〔自分が〕張る帆にだけ注意を向けます。

神の摂理

198◀︎目次▶︎200

199 人間は、自分の外なる情愛の快さについて、これが身体のある感覚の快さと一つとして働く時、確かに熟考することができます。しかし、それでも、その快さは思考の中の彼の情愛の快さからであることについては熟考しません。
例えば――淫行する者が娼婦を見る時、彼の目の視覚は好色の火から赤く輝き、その火から身体の中に快さを感じます。しかし、それでもなお、何らかの熱望が身体と一緒でないなら、思考の中に彼の情愛の快さ、すなわち、情欲の快さを感じません。
旅人を見る時の森の中の盗賊も、船を見る時の海の海賊も同様であり、他のものでも同様です。
その快さは彼の思考を支配し、それらなしに思考は何ものでもないことは明らかです。思考だけが存在すると思えても、そのときそれでも、思考は、光の中で見えるようにと彼のいのちの愛から合成された形の中の情愛以外でないなら存在しません。なぜなら、すべての情愛は熱の中にあり、思考は思考の中にあるからです。
[2]これらは思考の外なる情愛であり、それらは確かにそれ自体を身体の感覚の中に現わします、しかし、心の思考の中ではまれです。
しかし、外なる情愛から存在するようになる思考の内なる情愛は、人間の前には決して現われません。これらの情愛について、人間は、馬車の中で眠っている以上に道について、また地球の回転以上に、多くのことを知りません。
さて、人間は、自分の心の内的なものの中で行なわれ、数で定められることができないほどに無限であり、それでもそれらが内的なものから生み出され、思考の視覚にやって来るその外なるものはわずかであり、そして内的なものは、主の神的な摂理を通してその方だけにより支配され、人間と一緒のそれら外なるものはわずかです、それらについて何も知らない時、どのように、ある者が、自分のプロプリウムの思慮分別がすべてものを行なう、と言うことができるのですか?
もし、あなたが開かれた思考の一つの観念だけでも見るなら、あなたは舌が口に出すことができるよりも多くの驚くべきものを見ます。
[3]人間の心の内的なものの中に、数で定められることができないほどに無限のものがあることは、身体の中の無限なものから明らかです。それらは単なる活動以外に、何も視覚や感覚にやって来ないし、その活動の大部分は単純なものです。それでも、その活動に向けて、運動または筋肉の数千の繊維、神経の数千の繊維、数千の血管、肺の数千のもの、脳の中と背中の脊柱の中のすべての活動の中で協力する数千のものがいっしょに行動します。もっと多くのものが人間の心である霊的な人の中にあり、そのすべてのものは情愛の形、ここからの知覚と思考の形となっています。
霊魂は、内的なものを統制し、そこから行動もまた統制していませんか?
人間の霊魂は彼の意志の愛であり、ここから彼の理解力の愛以外の何ものでもありません。
この愛がどのようであるかによって、人間全体もそのようなものであり、人間が主と一緒である外なるものの中で、配置にしたがって、そのようなものになります。
それゆえ、自分自身と自然にすべてのものを帰すなら、霊魂は自己愛になります。しかし、主にすべてのものを帰すなら、霊魂は主への愛となり、後者の愛は天界的であり、前者の愛は地獄的です。

神の摂理

199◀︎目次▶︎201

200 さて、人間の情愛の快さは、最内部から内的なものを通って外的なものへ、最後に身体の中にある最外部へ、波と大気が船を導くように、人間を導き、心の最外部の中に、また身体の最外部の中にあるものでないなら、何も人間に見えないので、わずかなその最外部のものが彼に自分のもののように見えるそのことだけから、その時、どのようにして人間は神性を自分自身に要求することができますか?
「みことば」から、人間は天界から与えられないなら自分自身から何も得ることができないことを知り、また「理性」から、人間が生きるために、何が善と悪か見て、一つをまたはもう一つを選択し、選んだものを自分のものにし、神と相互に結合され、改心し、再生し、救われ、永遠に生きることができるようにとその外観が彼に与えられていることを知る時、またさらに神性を自分自身に要求してはなりません。
理性にしたがって自由から行動するために、したがって、自分自身からかのように、手をこまぬくことがなく、流入を期待することがないように、その外観が人間に与えられていることは、前に言われ、示されています。
これらから、第三に示さなくてはならないものを確信することになります――
(3)人間のいのちの愛の情愛は、主によりその方の神的な摂理を通して導かれ、同時に、思考が導かれ、それらから人間の思慮分別がある

神の摂理

200◀︎目次▶︎202

201(4)主はご自分の神的な摂理によって全人類の情愛を一つの形に作り上げ、それは人間の形である
これが普遍的な神的な摂理であることは、続く段落の中に見られます。
すべてのものを自然に帰する者は、すべてのものを人間の思慮分別にもまた帰します。なぜなら、すべてのものを自然に帰する者は神を否定し、すべてのものを人間の思慮分別に帰する者は、心で神の摂理を否定し、一方はもう一方から分離されないからです。
しかし、それでもこれらの者は自分の名前の評判のために、それを失う恐れのために、「神的な摂理は普遍的である、その個々のものは人間のもとにある、これらの個々のものが全体としての人間の思慮分別によって意味される」と口にします。
[2]しかし、個々のものが分離されているときの普遍的な摂理とは何か、単なる言葉でしかないのではないか、と自分自身で考えてみなさい。
というのは、個々のものから同時に生じているものが普遍的なものと言われ、個々のものから存在するようになるものが全般的なものと言われるからです。そこで、もし、あなたが個々のものを分離するなら、その時、普遍的なものとは何ですか?それは、内部が空であり、このようにその内部が何もない表面のような、またはその中に何もない合成物でしかありません。
もし、普遍的な統治について、何らかのものが統治されず、しかし、単に結びつきの中で制御され、その統治に属するものが他の者により管理される、と言われるなら、これは普遍的な統治と呼ばれることができますか?
このような統治は、王のだれにもありません。なぜなら、王が家来のだれかに、自分の王国のすべてを統治することを与えるなら、彼はもはや王ではなく、王と呼ばれているにすぎないからです。このように地位の単なる名称であって、王には何の威厳もありません。
そのような王に、統治は、まして普遍的な統治は属性づけられることができません。
[3]神のもとでの摂理は、人間のもとで思慮分別と呼ばれます。
王と呼ばれるため王としての名称しか自分自身に保持しない王のもとで普遍的な思慮分別について言われることができないように、人間がプロプリウムの思慮分別からすべてのものを備えるなら、普遍的な摂理と言われることはできません。
自然について言われるときの普遍的な摂理と普遍的な統治の名称も同様であって、その時、神が全世界を創造され、自然がそれ自体からすべてのものを生み出すようにと、その自然に与えられたことが意味されます。
その時、普遍的な摂理とは、形而上学の言葉でしか、本質の存在しない言葉でしかありません。
さらにまた多くの者がいて、生み出されるすべてのものを自然に帰し、行なわれるすべてのものを人間の思慮分別に帰し、それでも、神が自然を創造された、と口で言う者は、神的な摂理について、無意味な言葉としか考えていません。
しかし、本質的に物事は、神的な摂理は自然の最も個々のものの中に、そして人間の思慮分別の最も個々のものの中にあり、それらから普遍的なものがあるようなものです。

神の摂理

201◀︎目次▶︎203

202 主の神的な摂理は、無限で永遠なものである被造物がその方から存在するようになるために全世界を創造されたその最も個々のものから、またこの被造物が、主が人間から天界を形成されることによって存在するようになり、その方の映像と似姿であり、その方の前に一人の人間のようであることの中に普遍的に存在します。
人間からの天界が主の視野の中でこのようなものであること、それが創造の目的であったこと(27-45番)、神性は、無限で永遠なものを眺めることすべてのものの中に生ずることは(46-69番)、前に示されています。
主が人間からのご自分の天界の形成することの中に眺める無限で永遠なものは、それが無限に、そして永遠に拡大され、このように、ご自分の被造物の目的の中で変わらずに住まわれることです。
主が全世界の創造によって備えられたこの被造物は、無限で永遠なものであり、ご自分の神的な摂理を通して、その被造物の中に不変に存在します。
[2]神が無限で永遠なものであることを教会の教えから知り、信じている者のだれがこれほどに理性の欠けていることができますか?(というのは、キリスト教世界の中のすべての教会の教えの中に、父なる神・子なる神・聖霊なる神が、無限で永遠な創造されない全能の神である、とあるからです。アタナシウス信条を参照)。〔そのことを〕聞くとき、ご自分の創造の大きな業の中に、無限で永遠なものだけを眺められる、と肯定しませんか?
その時、ご自分から、何をなされますか?なおまた、それをご自分の天界を形成する人類の中に眺められること以外に何をなされますか。
それで、人類の再生とその救い以外の何を神的な摂理は目的としてもつことができますか?
また、だれも自分自身から自分の思慮分別によって改心されることはできません、しかし、主によりその方の神的な摂理を通してできます。
ここから、主が人間をどの瞬間でさえ、最小の瞬間でさえ導かれないなら、人間は改心の道から逸れて、滅びることがいえます。
[3]人間の心の状態のそれぞれの変化と相違は、現在する連鎖の中で、またここからの結果の中で何かを変化させ、多様にします――永遠に前進しないものが何かありますか?
弓から放たれた矢のように、もし、狙いの動作が少しでも脇へ逸れるなら、それは標的から数マイルの距離かまたもっと計り知れないほど脇へ逸れます。
主が最小のどの瞬間でさえ、人間の心の状態を導かれないなら、そのようになります。
このことを主はご自分の神的な摂理の法則にしたがって行なわれ、さらにまたそれにしたがって、人間が自分自身を導くように見えるようにされます。しかし、主は人間が自分自身をどのように導くかを先見され、常に適合されます。
許しの法則もまた神的な摂理の法則であること、すべての人間は改心し、再生させられることができること、そして、そのようにされない「予定」は存在しないことが、続きの中に見られます。

神の摂理

202◀︎目次▶︎204

203 そこで、すべての人間が、死後、永遠に生きるとき、その生活にしたがって、天界あるいは地獄の中に場所を割り当てられます。前に言われたように、天界と地獄の二つとも、それが一つとして働くように形の中になければなりません。だれもその形の中に、自分の場所以外の他の場所を割り当てられることはできません。〔ここから〕全地球の中の人類は主の支配下にあること、それぞれの者が幼児期からそのいのちの終わりまで最も個々のものの中でその方により導かれ、先見され、同時に彼の場所が備えられることがいえます。
[2]これらから、最も個々のものの中にあるので主の神的な摂理は普遍的であること、またこれが無限なものと永遠なものの創造であり、それを主がご自分に全世界の創造によって備えられたことが明らかです。
この普遍的な摂理について、人間は何も見ません。もし見ても、それは彼の目の前に、通り過ぎる者が、家を作るために散在している塊りとでたらめな構造物の積み重ねを眺めるようにしか見えません。しかし、主には、常に、建築され、増し加えられている壮大な宮殿のように見られます。

神の摂理

203◀︎目次▶︎205

204 (5)天界と地獄は、このような形の中にある
天界が人間の形の中にあることは、ロンドンで1758年に出版された著作『天界と地獄』で、そして、著作『神の愛と知恵』で、そしてまた、本書の中でも何度か述べ、よく知られています――それゆえ、それらをさらに確認することは省きます。
地獄もまた人間の形の中にあることが言われます。しかし、悪魔のような怪物の人間の形の中であり、それによって全体としての地獄が意味されます。
そこにいる者もまた人間の形の中にあるのは、人間に生まれ、彼らにも自主性と推理力と呼ばれる人間の二つのそれらの能力があるからです。それでも、彼らは、自主性を、悪を意志し、実行することへ向けて、また推理力を、悪を考え、確信することへ向けて悪用したのです。

神の摂理

204◀︎目次▶︎206

205 (6)自然と人間の思慮分別だけを認めた者は地獄をつくり、神とその方の神的な摂理を認めた者は天界をつくる
悪い生活を送るすべての者は、内的に自然と人間の思慮分別だけを認めます。これらの承認が、どれほど善と真理にまわりをおおわれていても、すべての悪の中の内部に隠れています。これらは中にある裸の悪が見られないようまわりに置かれた、借りて求めただけの衣服、または小さい花からつくった滅んでしまう花環のようなものです。
まわりをおおうそれらの全般的なものからでは、内的に自然と人間の思慮分別だけを認めて、悪い生活を送るすべての者は知られません、というのはそれらによってこのことは視覚から隠されるから――しかし、それでも認めていることは、それらの承認の起源と原因から明らかにすることができます。それらが明らかにされるために、プロプリウムの思慮分別がどこからで、何か、その後、神的な摂理がどこからで、何か、続いて、後者と前者がだれで、どんなものであるか、また最後に、神的な摂理を認める者が天界の中にいること、プロプリウムの思慮分別を認める者が地獄の中にいることを述べます。

神の摂理

205◀︎目次▶︎207

206 プロプリウムの思慮分別がどこからで、何か――
思慮分別は人間のプロプリウムからであり、それは彼の性質であり、親からの彼の霊魂と呼ばれます。
そのプロプリウムは自己愛とそこからの世俗愛、または世俗愛とそこからの自己愛です。自己愛は、自分自身だけに目を向け、他の者たちを卑しい者であるかのように、あるいは無価値な者であるかのように見るようなものです。ある者を何らかのものとして見るにしても、自分を尊敬するかまたは礼拝するかぎり、そうします。
その愛の中の内部に、種の中の実を結ばせ、発育させる努力(コナトゥス)のように、大人物になりたいと欲することが隠れています。もしできるなら王になれること、その時、もしできるなら神になれることです。
悪魔は自己愛そのものであるので、このような者であって、自分自身そのものを崇拝するような、また他の者が自分を崇拝しないなら、その者に好意を持たないような者です。自分自身だけが崇拝されることを欲するので、自分自身に似ている他の悪魔を憎みます。
何らかの愛はその配偶者なしに存在することができず、人間の愛または意志の配偶者は理解力と呼ばれ、自己愛がその配偶者である理解力に自分の愛を吹き込むので、それはそこで高慢となり、知性のプロプリウムの高慢です。プロプリウムの思慮分別はここからです。
[2]さて、自己愛は世の唯一の主であることを、そのように神であることもまた欲するので、それゆえ、悪の派生物である悪の欲望は、本質的にそれらから、いのちがあります。欺くことである欲望の知覚も同じく、悪である欲望の快さも、虚偽であるそれらの思考も同じく、それらから、いのちがあります。
〔これらの〕すべてのものは、自分の主人の指図を行なう召使いと仕える者であって、〔主人の指図にしたがってどのように〕働いたらよいか知らないで、働かされるだけです。彼らは自己愛により、知性のプロプリウムの高慢を通して働かされます。
ここから、その起源からすべての悪の中にプロプリウムの思慮分別が隠れています。
[3]さらにまた自然だけを承認することが隠れています。自己愛は、主だけがすべてのものを支配されること、自然は本質的に死んだものであること、人間のプロプリウムは地獄であり、ここからプロプリウムの愛は悪魔であることを見ないし、聞きません。自分の屋根の窓を閉ざし(その窓によって天界が開かれていています)また側面の窓も閉ざすので、窓が閉ざされる時、自己愛は暗やみの中にあり、そこに自分たちの炉をつくり、そこに自分の配偶者と座り、神に反して自然に賛成し、神的な摂理に反してプロプリウムの思慮分別に賛成して、親しげに推論します。

神の摂理

206◀︎目次▶︎208

207 神的な摂理がどこからで、何か――
自己愛を遠ざけた人間のもとに神的な働きがあります。というのは、言われたように、自己愛は悪魔であり、そして欲望とその快さは彼の王国の悪であり、その王国は地獄であるから。それが遠ざけられるとき、主は隣人愛の情愛とともに入り、彼の屋根の窓を、その後、側面の窓を開け、天界が存在し、死後のいのちがあり、永遠の幸福があることを見るようにされます。霊的な光によって、一緒にその時に流入する霊的な愛によって、神がご自分の神的な摂理によって、すべてのものを支配されていることを認めるようにされます。

神の摂理

207◀︎目次▶︎209

208 後者と前者が、だれで、どんなものであるか――
神とその方の神的な摂理を認める者〔後者〕は、天界の天使のようであり、その者は自分自身により導かれることを退け、主により導かれることを愛します。
主により導かれることのしるしは、隣人を愛することです。
しかし、自然とプロプリウムの思慮分別を認める者〔前者〕は、地獄の霊たちのようであり、その者たちは主により導かれることを退け、自分自身により導かれることを愛します――その者が王国の高官であったなら、すべてのものの上に支配することを欲します――教会の高位聖職者であったなら、同様です。裁判官であったなら、判決を曲げ、法律上の支配権を行使します。学のある者であったなら、記憶知(事実)を人間のプロプリウムと自然を確信するために当てはめます。商人であったなら、盗賊を働きます。農夫であったなら、ふすまのように振る舞います。
〔これらの〕すべての者は神の敵であり、神的な摂理をあざける者です。

神の摂理

208◀︎目次▶︎210

209 このような者たちに天界が開かれるとき、彼らが狂っていると言われ、そのこともまた彼ら自身の知覚に、流入と照らしによって生ずることが明らかにされるのは驚くべきことです。それでもやはり彼らは憤慨から自分自身に天界を閉ざし、下に地獄がある地に目を向けます。
このことは彼らに、霊界の中で起こり、その者は依然として地獄の外にいますが、地獄にいるような者です――そのことから、「天界を私が見るなら、また天使が私と話すのを私が聞くなら、私は認めよう」と考える者の誤りが明らかです。
理解力では認めます、しかし、同時に意志が認めないなら、やはり認めません――なぜなら、意志の愛が理解力に何でも欲するものを吹き込み、その逆ではないからです。それどころか、理解力の中で意志それ自体から存在しないものすべてのものを消し去ってしまいます。

神の摂理

209◀︎目次▶︎211

210 (7)自分自身から考え、自分自身から配列させることが人間に見られないなら、これらすべてのものは生ずることができない
人間に、自分自身から生き、このように考え、意志し、自分自身からのように話し、行動するように見られないなら、人間は人間でないことは、前の箇所で十分に示されています。そのことから、人間が自分の職務と生活に属するすべてのものを、プロプリウムの思慮分別からのように配列しないなら、神的な摂理から導かれ、配列されることができないことがいえます。というのは、流入を期待して、手をこまぬいて立ち、口を開け、目を閉じ、息を抑えている者のように、自分自身に知覚と感覚からあるものを、自分自身からのように生き、考え、意志し、話し、行動するものを、人間性を捨てることになるからです。そのとき同時に、自主性と推理力である自分の二つの能力(それらによって獣から区別されます)を捨てます――その外観なしに、人間に受容と往復作用はなく、したがって不死性もなくなってしまうであろうことは、本書の前のところで、また著作『神の愛と知恵』の中で、示されています。
[2]それゆえ、あなたが神的な摂理により導かれたいなら、忠実に自分の主人の財産を管理する召使いと仕える者のように、思慮分別を用いなさい。
その思慮分別とは、商売し、その勘定書を清算するために召使いに与えられたミナです(ルカ19:13-28, マタイ25:13-28)。
思慮分別そのものは人間にとってプロプリウムのように見え、人間が神や神的な摂理の最も和解しがたい敵である自己愛を閉じ込めて保つ間、それだけ長い間、プロプリウムとして信じられています。
この自己愛は人間のそれぞれの者の内なるものの中に出生から住んでいます。もし、それをあなたが知らないなら(というのは、知られることを欲しないから)、それは心配なく住み、人間により開けられないように、このように主により追い出されないように扉を守っています。
悪を罪として、自分自身からのように避けることによって、主からの承認とともに、その扉が開かれます。
これが、その神的な摂理とともに一つとして働く思慮分別です。

神の摂理

210◀︎目次▶︎212

211 神的な摂理が、だれもその存在することをほとんど知らないようにも、ひそかに働くのは、人間が滅びないためです。
なぜなら、人間の意志であるそのプロプリウムは、決して神的な摂理と一つとなって働かないからです。人間のプロプリウムには、それ〔神的な摂理〕に対して生来の敵意があります。というのは、それは最初の両親を惑わせたからヘビであるからであり、そのことについて言われています、

わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏みにじる(創世記3:15)。

ヘビ」は、すべての種類の悪であり、その「」は自己愛であり、「 女の子孫」は主であり、置かれている「 敵意」は、人間のプロプリウムの愛と主の間にあり、このように人間のプロプリウムの思慮分別と主の神的な摂理の間にもまたあります。なぜなら、プロプリウムからの絶え間のない思慮分別が、頭を上げることの中にあり、絶え間ない神的な摂理が、押し下げることの中にあるからです。
[2]人間がこのことを感じるなら、神に対して怒り、いらいらし、そして滅びます。しかし、それを感じない時、人間に、また自分自身に対し、そしてまた運命に対して、怒り、いらいらすることができますが、それによって滅びることはありません。
主がご自分の神的な摂理によって常に人間を自由の中へ導き、そして自由は人間にとって自分のプロプリウムとしか見えないのは、ここからです――自由の中で自分自身を対立するものへと導くことは、圧迫し、抵抗する重い物を、ジャッキによって引き上げることのようです。重さと抵抗はその力によって感じられません――殺そうとする意図をもつ敵のもとにいて、その時、その者がそのことを知らず、友が彼を知られていない道を通って導き、その後、敵の意図をあばくようなものです。

神の摂理

211◀︎目次▶︎213

212 だれが「運」のことを言いませんか?また、そのことを言うので、それについて経験から何らかのものを知っているので、だれがそれを認めませんか?
しかし、それが何であるか、だれが知っていますか?
何らかのものがあることは、存在し、与えられるので、否定されることができません。また、何らかのものは原因なしに存在し、与えられることはできません。しかし、このあるものの原因、すなわち、運の原因は知られていません。
けれども、原因が知られないというだけで否定されないために、サイコロまたはトランプを取って、遊んでみなさい、または賭けごとをする者に助言を求めなさい。だれがこれらの運を否定しますか?というのは、彼らは運とともに、運も彼らとともに不思議に遊ぶからです。
運に逆らうなら、だれがなし遂げることができますか?
その時、思慮分別と知恵を嘲笑しませんか?
あなたがサイコロを振り、カードをめくる時、他の者よりもある者に好運が向くように、手の手首の回転とひねりを知って、配列するような原因が存在するのですか?
原因が、最外部における神的な摂理以外の他のところから与えられることができますか?そこでは、その摂理は不変なものと変化するものによって、人間の思慮分別とともに不思議な方法で働き、同時にそれ自体を隠していませんか?
[2]昔、異邦人たちは運命の女神を認めており、イタリア人もまたローマにその神殿を建築したことが知られています。
この運命の女神は、言われたように、最外部における神的な摂理であり、それについて多くのものを知ることが与えられましたが、それを示すことは許されていません――それらから、心の幻覚でなく、自然の幻影でもなく、原因のない何らかのものでもなく(というのは、これは何ものでもないからです)、神的な摂理は人間の思考と行動の最も個々のものの中にあるものの目に見える証明であることが私に明らかとなりました。
このように価値がなく軽微な最も個々の事柄の中に、神的な摂理が存在するとき、世の中の平和と戦争の事柄、そして天界の中の救いといのちの事柄、その最も個々の事柄の中に価値がなく軽微なものは何もないのではありませんか?

神の摂理

212◀︎目次▶︎214

213 しかし、私は、人間の思慮分別は自分の側で、神的な摂理の側よりも、さらに理性的であることを知っています。なぜなら、後者は見られず、前者は見られる、という理由からです。
前の多くのもので示されているように、神である唯一のいのちがあること、すべての人間はその方からのいのちを受け入れるものであることは容易に受け入れられることができます。そしてこのことは〔人間の思慮分別を擁護するのと〕同じことです、思慮分別はいのちのものであるからです。
プロプリウムの思慮分別のために、自然のために、自然的な人のまたは外なる人から推論して話す時、だれがそのように推論して話しませんか?
しかし、神的な摂理のために、また神のために、霊的な人または内的な人から推論して話す時、だれがそのように推論して話しませんか?
しかし、お願いしたい(私は自然的な人間に向けて言っています)、一つをプロプリウムの思慮分別のために、もう一つを自然のために本を書き、あなたがしっかりと判断して、それをもっともらしい、証明できる、ありそうな論証で満たしてください。またその後、それらをある天使の手に与えなさい、そのとき私は、天使によりわずかに次のものが裏書されることを知っています、「すべてのものは外観であり、欺きである」。

神の摂理

213◀︎目次▶︎215

(6)神的な摂理は永遠なものに目を向ける、一時的なものには、永遠なものと調和するかぎり目を向ける

214 神的な摂理は永遠なものに目を向け、一時的なものには、永遠なものと調和するかぎり目を向けることは、次の順序で論証されるべきです――

(1)一時的なものは、世の中の地位と富に、このように名誉と利益に関係する。
(2)永遠なものは、天界の中の愛と知恵のものである霊的な名誉と富に関係する。
(3)一時的なものと永遠のものは人間により分離される、しかし、主により結合される。
(4)一時的なものと永遠のものの結合が主の神的な摂理である。

神の摂理

214◀︎目次▶︎216

215 (1) 一時的なものは、世の中の地位と富に、このように名誉と利益に関係する――
多くの一時的なものがあります、しかし、それでも、すべてのものは地位と富に関係します。
一時的なものによって、時間とともに滅びるかあるいは人間のいのちとともに世の中だけで存在をやめるものが意味されます。けれども、永遠のものによって、時間とともにないもの、したがって、世の中のいのちとともに滅びず、存在をやめないものが意味されます。
言われたように、すべての一時的なものは地位と富に関係するので、次のものを知ることが重要です。すなわち、「地位と富とは何か、どこからなのか」、「地位と富のためのそれらの愛がどんなものか、役立ちのためのそれらの愛がどんなものか」、「二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離していること」、「愛のそれらの相違は、ほとんど人間に知られていないこと」です。
しかし、これら個々のものについて、区別して示します。
[2]第一――地位と富とは何か、どこからなのか
最古代の時代に、地位と富は、その後に継続してあったものとは、まったく別ものでした。
最古代の時代に、地位は、両親と子どもの間にあるようなものと別ものではありませんでした。その地位は、両親からの出生ゆえではなく、彼らからの教えと知恵ゆえに尊敬と崇敬に満ちた愛の地位でした。その出生は彼らの霊の誕生であったので、本質的に霊的な第二の出生でした。
最古代の時代に、これは唯一の地位であり、その時、彼らは今日のような統治の下でなく、離れて、氏族・家族・家に住みました。
家長がいて、その者のもとにその地位がありました。
この時代は古代人により黄金時代と呼ばれました。
[3]しかし、その時代の後、支配する愛の快さだけからのそれらの愛が継続的に入り込みました。その時、自分に服従することを欲しなかった者に対する反目と敵意が一緒に入り込んだので、必要から、氏族・家族・家は集団として集まり、自分たちに、最初は士師と呼び、またその後、君主、また最後に、王や皇帝と呼ぶ者を置きました――そしてまた、その時、やぐら・土塁・城壁によって自分自身の防備を固めはじめました。
士師・君主・王そして皇帝から、頭から身体の中へのように、感染病のように多くの者の中へ支配欲が入り込み、ここから地位の段階が、そしてまたそれにしたがって名誉の段階が生じ、それらとともに自己愛とプロプリウムの思慮分別の高慢が生じました。
[4]富の愛にも同様のことが起こりました。
最古代の時代に、氏族と家族が自分たちの間で分かれて住んだ時、生活の必需品を所有すること以外の富への愛は他にありませんでした。それらの必需品は、羊の群れと牛の群れによって、耕地・野原・庭園によっても得られ、それらから彼らに食物がありました。
彼らの生活必需品には、すべての種類の家具で飾られた似つかわしい家もあり、さらにまた衣服がありました――彼らのすべての関心と働きは、家の中の両親・子ども・使用人・女使用人にありました。
[5]しかし、支配する愛が入り込み、この国を破壊した後、必需品以上に財産を所有しようとする愛もまた入り込み、他の者のすべての財産を所有しようと欲するような頂点にまで増大しました。
これらの二つの愛は血族のようです。というのは、すべての者を支配することを欲する者は、すべてのものを所有することもまた欲するから、なぜなら、このようにすべての者は奴隷になり、彼らだけが主人となるからです。
このことは、ローマカトリック教会の国で、自分の支配権を天界の中へ、主の王座にまで高め、その上に座り、さらにまた、全地の富を集め、そして宝庫に際限もなく増した者〔聖職者〕たちからはっきりと明らかです。
[6]第二――地位と富のためのそれらへの愛がどんなものか、役立ちのための地位と富への愛がどんなものか
地位と名誉のための地位と名誉への愛は自己愛、正確には、自己愛からの支配する愛であり、そして、富と財産のための富と財産への愛は世俗愛、正確には、どんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛です。
けれども、役立ちのための地位と富への愛は、役立ちへの愛であり、それは隣人への愛と同じものです。なぜなら、人間が何かのために活動するものは、それからの目的であるから、また最初のものまたは主要なものであり、他のものは手段であり、従属的なものであるからです。
[7]地位と名誉のためのそれらの愛について、それは自己愛と同じものであり、正確には、自己愛からの支配する愛、プロプリウムの愛です。人間のプロプリウムはすべての悪です――ここから、人間はすべての悪の中に生まれ、彼の遺伝は悪以外の何ものでもない、と言われます。
人間の遺伝は、彼のプロプリウムであり、その中にいて、その中に自己愛を通して、特に、自己愛からの支配する愛を通してやって来ます。なぜなら、その愛の中にいる人間は、自分自身でないなら目を向けず、このように自分のプロプリウムの中に自分の思考と情愛を浸すからです。
ここから、自己愛には悪を行なう愛が内在しています。
その理由は、隣人を愛さないで、自分自身だけを愛するからです。自分自身だけを愛する者は、自分以外に他の者を、卑しい者のようにあるいは無価値な者のようにしか見ないで、彼らを自分自身と比べて軽蔑し、彼らに悪を加えることを何とも思いません。
[8]そのことから、自己愛からの支配する愛の中にいる者が、隣人をだますこと、隣人の妻と姦淫すること、隣人を中傷すること、彼に対して激怒して、死なすまでも復讐したいこと、また同じような他のものを何でもないと見なします。
このことを人間は、自己愛からの支配する愛以外の何ものでもない悪魔そのものから、悪魔と結合し、悪魔により導かれることから得ています。悪魔により、すなわち、地獄により導かれる者は、すべてのその悪の中に導かれます。そして、絶えず悪の快さによって導かれます。
ここから、地獄の中にいるすべての者は、あらゆる者に悪を行なうことを欲します。しかし、天界の中にいる者は、すべての者に善を行なうことを欲します。
その対立から、均衡の中のように、その中に人間がいて、自分自身を地獄へ、あるいは天界へ向けることができるような、中間にいることが生じます。自己愛の悪を好ましく思えば思うほど、それだけ自分自身を地獄へ向けます。しかし、それらを自分自身から遠ざければ遠ざけるほど、それだけ自分自身を天界へ向けます。
[9]私に、自己愛からの支配する愛の快さがどんなもので、どれほど大きいか感じることが与えられました。
私は原因を知るためにその中に入れられましたが、世の中にあるすべての快さにまさるようなものでした。最内部から最外部までの心全体の快さでした、けれども身体の中では、胸がふくらむような心地よさと愉快さとしか感じられませんでした。そしてまた、その快さから、泉からのようにすべての快さが、例えば、姦淫し、復讐し、欺き、中傷する快さが、全般的に悪を行なう快さが湧き出ることを感じることが与えられました。
同じく、どんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛に内在する、またその愛から派生する欲望に内在する快さも感じました。しかしそれでも、自己愛と結合されていないなら、その段階の中にいません。
けれども、地位と富のためでなく、役立ちのための地位と富については、地位と富への愛ではなく、役立ちへの愛であって、地位と富は手段としてその者に仕えます。この愛は天界的です――しかし、これについて多くのことは続きの中で述べます。
[10]第三――二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離している
このことは、今、言われたことから明らかであり、それらに次のことを付加します――自己愛からの支配する愛の中にいるすべての者は、霊に関して地獄の中にいます、重要人物あるいは卑しい者であっても、だれでもその中にいます。その悪の中にいるすべての者は、悪のすべての愛の中にいて、それらを行なわなくても、それでも自分の霊の中で許されると信じています、ここから、地位と名誉が、そして法律の恐れが妨げない時、身体で行ないます――さらに、自己愛からの支配する愛は本質的に神に対し、したがって教会のものである神性に対し、そして特に主に対して、憎しみを隠しています。
もし神を認めるなら、このことを口だけで行ないます。もし教会の神的なものを認めるなら、名誉を失うことの恐れからそうしています。
その理由は、その愛は内部で主に対する憎しみを隠していて、内部で、神であることを欲する愛の中にいるからです、というのは、自分自身だけを礼拝し、崇拝するからです。
ここから、だれかがその愛を持つ者を、「彼には神的な知恵がある、世の神である」と言うほどにまで尊敬するなら、そのだれかを心から愛します。
[11]役立ちのために地位と富の愛は異なっています。この愛は天界的です、なぜなら、言われたように、隣人への愛と同じものであるからです。
役立ちによって善が意味されます。ここから、役立ちを行なうことによって、善を行なうことが意味されます。役立ちまたは善を行なうことによって、他の者に役立ち、仕えることが意味されます。
これらの者は、たとえ地位の中、富の中にいても、それでも、地位と富を役立ちを行なうための手段、このように、役立つためのまた仕えるための手段としてしか眺めません。
これらの者が、次の主のことばによって意味される者です、

あなたがたの間で、偉大になりたい者はだれでも、あなたがたの仕える者であるべきです。……最初の者でありたい者はだれでも、あなたがたのしもべであるべきです(マタイ20:26, 27)。

主から天界の中の支配をまかせられる者もこれらの者です。というのは、彼らに支配は役立ちまたは善を行なう手段、このように仕える手段であるから。役立ちまたは善が目的または愛である時、彼らが支配するのではなく、主が支配されます、なぜなら、すべての善はその方からであるからです。
[12]第四に――それらの愛の相違は、ほとんど人間に知られていない
このことは、地位と富にいる者は、役立ちもまた行ないます、しかし、大部分の者が自分自身のために役立ちを行なうのか、役立ちのために役立ちを行なうのか知らないからです。また、自己と世への愛の中にいない者よりもさらに、役立ちを行なう火と熱に自己と世への愛が内在するので、なおさらそのことを知りません。その者は名声のためにまたは利益のために役立ちを、このように自分自身のために行ないます。しかし、役立ちのために役立ちを、すなわち、善のために善を行なう者は、自分自身からでなく、主からそれを行ないます。
[13]それらの間の相違が人間によりほとんど知られることができない理由は、人間は、悪魔により導かれているのか、主により導かれているのか知らないからです。悪魔により導かれている者は、役立ちを自分自身と世のために行ないます、しかし、主により導かれている者は、役立ちを主と天界のために行ないます。主から役立ちを行なうすべての者は悪を罪として避けます、しかし、悪魔から役立ちを行なうすべての者は悪を罪として避けません。というのは、悪は悪魔であり、そして役立ちまたは善は主であるからです。
他のところからでなく、ここから相違が知られます。
二つとも、外なる形の中では似て見えます、しかし、内なる形の中ではまったく似ていません――一つは金のようですが、その中の内部はかなくそです。しかし、もう一つは金のようであって、その内部は純金です。また一つは作りものの果実のようであり、それは外なる形では木からの果実のように見えますが、それでも着色した蝋であり、その内部は、がらくたまたはアスファルトです。しかし、もう一つは快い味と香りのみごとな果実のようであり、その内部には種があります。

神の摂理

215◀︎目次▶︎217

216 (2)永遠なものは、天界の中の愛と知恵のものである霊的な名誉と富に関係する
自然的な人間は、自分の愛の快さを、また悪の欲望の快さもまた、善と呼び、それらが善であることもまた確信するので、それゆえ、名誉と富を神の祝福と呼びます。
しかし、その自然的な人間は、悪い者が善い者と等しく名誉へ高められ、富へと進むのを見るとき、またさらに、善い者が軽蔑と貧困の中に、悪い者が称賛と裕福の中にいるのを見るとき、自分自身に、「これは何か?神的な摂理は存在するはずがない。なぜなら、もし神的な摂理がすべてを支配しているなら、善い者に名誉と富を与え、悪い者を貧困と軽蔑で苦しめ、また神がおられ、神的な摂理があることを悪い者が認めるように強いる〔はずである〕から」と考えます。
[2]しかし、自然的な人間は霊的な人間から照らされないなら、すなわち、同時に霊的でないなら、名誉と富が祝福でありうること、そしてまた呪いでありうること、祝福であるとき神からであり、呪いであるとき悪魔からであることを見ません。
さらにまた、名誉と富は悪魔により与えられることは、よく知られています。なぜなら、そのことから悪魔は世の君主と呼ばれるからです。
そこで、名誉と富のどこに祝福があるか、そしてどこに呪いがあるか、知られていないので、次の順序で、言わなくてはなりません――

(1)名誉と富は、祝福であり、呪いである。
(2)名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠である、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものである。
(3)呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものである。

神の摂理

216◀︎目次▶︎218

217 そこで、これらの三つの小項目を個別に説明します。
第一に――名誉と富は祝福であり、呪いである
普段の経験から、敬虔な者も不信心な者も、あるいは正しい者も不正な者も、すなわち、善い者も悪い者も、地位と富の中にあることが証言されます。それでも、だれによっても、不信心な者と不正な者でなくては、すなわち、悪い者でなくては地獄にやって来ることはなく、そして敬虔な者と正しい者が、すなわち、善い者が天界にやって来ることは否定されることができません。
このことが真実であるので、地位と裕福は、すなわち、名誉と富は、祝福であるかあるいは呪いであり、善い者のもとで祝福であり、悪い者のもとで呪いであることがいえます。
ロンドンで1758年に出版された著作『天界と地獄』の中で、富める者も貧しい者も、位の高い者も劣る者も、天界の中に、そしてまた地獄の中にいることが示されています(357-365番)。そのことから、地位と富は、天界の中にいる者のもとで、世では祝福であったこと、地獄の中にいる者のもとで、世では呪いであったことが明らかです。
[2]けれども、祝福であることがどこからか、呪いであることがどこからか、だれでも、それらの事柄について何らかのものを理性から考えるだけで、知ることできます。すなわち、心をそれらの中に置かない者のもとで祝福であること、心をそれらの中に置く者のもとで呪いであることです。
心をそれらの中に置くことは、それらの中で自分自身を愛することであり、それらの中に置かないことは、それらの中で自分自身でなく、役立ちを愛することです。
これらの二つの愛の間の相違が何であり、どんなものかは、前に言われています(215番)――それらに、地位と富はある者を惑わし、ある者を惑わさないことを付言しなければなりません――人間の自己愛であるプロプリウムの愛を刺激する時、惑わし、それが悪魔と呼ばれる地獄の愛であることは、前にもまた言われています。しかし、その愛を刺激しない時、惑わしません。
[3]悪い者も善い者も名誉へ高められ、富へと進められるのは、悪い者は善い者と等しく、役立ちを行なうからです、しかし、悪い者は自分という人物の名誉と利益のために、善い者は事柄そのものの名誉と利益のためにです。これらの者は、事柄の名誉と利益を主要な理由として、そしてその人物の名誉と利益を手段となる理由として、それらに目を向けます。しかしながら、悪い者は人物の名誉と利益を主要な理由として、そして事柄の名誉と利益を手段となる理由として、それらに目を向けます。
しかし、人物は、彼の職務と名誉は、執り行なう事柄のためにあり、その逆ではないことを、だれが見ませんか?
裁判官は公正のために、行政長官は公共の事柄のために、王は王国のためにあり、逆ではないことを、だれが見ませんか?
それゆえ、さらにまた、地位と名誉の中のそれぞれの者は、王国の法律にしたがって、事柄の地位(尊厳)にしたがって、彼の職務の中にいます――主要なものと手段となるものの間のような相違がありませんか?
事柄の名誉を自分自身に、または自分という人物に帰する者は、霊界の中で、それが表象される時、足を上に頭を下にして、身体を逆さまにした人間のように見られます。
[4]第二に――名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠である、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものである
天界の中に世の中のような地位と富があります。なぜなら、そこに統治があり、ここから管理と職務があり、そしてまた商業があり、ここから富、社会と集団があるからです。
全天界は二つの王国に分かれていて、それらの一つは天的な王国、もう一つの王国は霊的な王国と呼ばれます。それぞれの王国に大小の数えきれない社会があり、それらのすべてとそれらの中のすべては、愛の相違とそこからの知恵の相違にしたがって配列されています。天的な王国の社会は主への愛である天的な愛の相違に、霊的な王国の社会は隣人に対する愛である霊的な愛の相違にしたがっています。
このような社会があるので、それらの中にいるすべての者は、世で人間であったときここから自分自身のもとにあった愛を、霊的であるという相違とともに、保持します。地位と富そのものは、霊的な王国の中で霊的であり、そして天的な王国の中で天的です。したがって、他の者よりも愛と知恵がある者には他の者よりも地位と富があり、その者には地位と富が世の中で祝福であったのです。
[5]これらから、霊的な地位と富がどんなものであるか、行為に属し、人物に属さないことを明らかにすることができます。
確かに、そこの人物は、地上の王であるようなりっぱな称賛される地位にあります、しかし、それでも、地位そのものでなく、それらの中にある管理と機能の役立ちに目を向けています。
確かに、それぞれの者が自分の地位に名誉を受けます、しかし、彼ら自身は自分自身にそれらを帰さないで、役立ちそのものに帰しています。すべての役立ちは主からであるので、それらをそのもとである主に帰します――そこで、このようなものが霊的な地位と富であり、それらは永遠のものです。
[6]けれども、世の中の地位と富が呪いであった者には異なっています。役立ちではなく、地位と富を自分自身に帰したこれらの者は、役立ちが自分を支配するのでなく、自分が役立ちを支配することを欲したので、自分の名誉や自分の称賛に仕えるかぎり、その役立ちを役立ちと見なし、それゆえ、地獄の中にいて、そこでは軽蔑と悲惨の中にある卑しい奴隷です。それゆえ、それらの地位と富は滅びるので、一時的なもの、はかないものと呼ばれます。
後者と前者について、主は次のように教えられています、

あなたがたは宝を地上に蓄えてはなりません、そこでは、さびとウジがだめにし、盗賊が穴を掘り抜き、盗みます。けれども、あなたがたは宝を天に蓄えなさい、そこでは、さびもウジもだめにしないし、そこでは、盗賊は穴を掘り抜かず、盗みません。なぜなら、あなたがたの宝があるところに……あなたがたの心もまたあるからです(マタイ6:19-21)。

[7]第三に――呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものである
滅びるすべてのものは、何ものでもなく、内部に本質的なものは何もありません。確かに外部では何らかのものであり、それどころか存続するかぎり、ある者たちに、多くのもののように、すべてのもののように見えますが、内部では本質的にそのようなものではありません。
表面のようなものであり、内部に何らかのものがなく、劇が終わる時まで王の衣服を着た舞台の役者のようです――しかし、永遠の中にとどまるものは本質的に永続する何らかのものであり、このようにすべてのものです。そしてまた存在することをやめないので「存在する」ものです。

神の摂理

217◀︎目次▶︎219

218 (3)一時的なものと永遠なものは人間により分離されるが、しかし、主により結合される――
このようであることは、人間のすべてのものは一時的なものであり、それらから、人間は一時的なものと呼ばれることができ、そして主のすべてのものは永遠なものであり、それらから主は「永遠なる者」と呼ばれることができるからです。そして一時的なものには終わりがあり、滅びます、しかし、永遠なものには終わりがなく、滅びません。
これら二つのものは、主の無限の知恵によってでしか結合されることができないこと、このように主により結合されることができ、人間によらないことは、だれでも見ることができます。
けれども、それら二つのものが人間により分離されること、主により結合されることが知られるために、次の順序で論証されなければなりません。

(1)何が一時的なものか、何が永遠なものか。
(2)人間は本質的に一時的なものであり、主は本質的に永遠なものである。ここから、人間からは一時的なものしか発出することができず、主からは永遠なものしか発出しない。
(3)一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離し、永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させる。
(4)主は外観によって人間をご自分に結合される。
(5)対応によって〔結合される〕。

神の摂理

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219 しかし、これらの小項目は一つずつ個別に説明され、確信されなければなりません。
第一――何が一時的なものか、何が永遠なものか
一時的なものは、自然に固有のものであり、ここから人間に固有のものであるそれらすべてのものです。
自然に固有なものは特に空間と時間であり、両方とも限度と限界をともなっています。人間に固有なものはここからであり、彼の固有の意志と固有の理解力に属するものであり、ここから彼の情愛と意志に属するもの、特に彼の思慮分別に属するものです。それらが、有限なもの、限度のあるものであることは、よく知られています。
けれども、永遠なものは、主に固有なものであり、またその方から人間に固有であるようなすべてのものです。
主の固有のものは、無限なものと永遠なもののすべてであり、このように時間のない、したがって、限度のない、終わりのないものです――それらは、無限なものと永遠なものと同様に、ここから人間に固有なもののようです。けれども、これらの何も人間のものではなく、人間のもとの主だけのものです。
[2]第二――人間は本質的に一時的なものであり、主は本質的に永遠なものである。ここから、人間からは一時的なものしか発出することができず、主からは永遠なものしか発出しない
人間は本質的に一時的なものであること、主は本質的に永遠なものであることは、前に言われました。
何らかのものは、それ自体の中にあるものからしか発出することができないので、人間からは一時的なもの以外に何らかのものは発出することができないこと、主からは永遠のもの以外に何らかのものは発出することができないことがいえます――というのは、有限なものから無限なものは発出することはできないから。発出することができる、と言ってしまうと矛盾です――けれども、それでも有限なものから無限なものが発出することができます、しかし、有限なものからでなく、それを通して無限なものから発出することができます。
逆にまた、無限なものから有限なものは発出することができません。発出することができると言ってしまうこともまた矛盾です。しかし、無限なものから有限なものが生み出されることができます、このことは発出することではなく、創造することです――それらの事柄について、『神の愛と知恵』の最初から最後までに見られます。それゆえ、主から、多くのものの中で人間のもとに生ずるように、有限なものが発出するなら、主からでなく、人間から発出しています。そのように見えるので、主により人間を通して発出している、と言うことができます。
[3]このことは次の主のことばによって説明されることができます、

あなたがたの会話は、「はい、はい」、「いいえ、いいえ」であるべきです。これらを越えるものは悪からです(マタイ5:37)。

第三の天界の中のすべての者はこのような話し方をします。というのは、彼らは、神的な事柄について決して、そのようであるかあるいはそのようでないか、と推論しません、本質的に主から、そのようであるかあるいはそのようでないか、見るからです。それゆえ、神的な事柄について、そのようであるかあるいはないか、と推論することは、推論する者がそれらを主から見ないで、自分自身から見たいからです。人間が自分自身から見ることは、悪です。
しかし、それでも、主は、人間が神的な事柄について、そのようであるかあるいはそのようでないことを見る目的のために、考え、話すだけでなく、それらについて推論することを欲します。そして、その思考、話し方または推理は、真理を見ることだけを目的として持つとき、主から人間のもとに存在すると言われることができます、しかし、真理を見、それを認めるまでは人間からです。
その間は、考えること、話すこと、推論することができるのは、主からだけです。というのは、このことは自主性と推理力と呼ばれる二つの能力からでき、それらの能力は主おひとりから人間にあるからです。
[4]第三――一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離し、永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させる
一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離することによって、一時的なものである人間が自分自身の一時的なものから永遠なものを分離することが意味されます――永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させることによって、永遠であられる主がご自分の中の永遠なものから一時的なものを分離することが意味されます。
先行するものの中で、人間との主の結合と、主との人間の相互の結合があることが示されています。しかし、主との人間の相互の結合は人間からではなく、主からです。なおまた、人間の意志は主の意志に背を向けています。すなわち、同じことですが、人間のプロプリウムの思慮分別は主の神的な摂理に背を向けています。
これらから、人間は自分の一時的なものから、主の永遠なものに自分自身から分離すること、しかし、主はご自分の永遠なものを人間の一時的なものに結合されること、すなわち、ご自分を人間に、人間をご自分に結合されることがいえます。
これらについて先行するものの中に多くのものが扱われたので、それらがさらに確認される必要はありません。
[5]第四――主は外観によって人間をご自分に結合される
というのは、人間が自分自身から隣人を愛すること、善を行なうこと、真理を話すことは外観であるからです。
これらは人間に彼自身からのように見えないなら、隣人を愛さず、善を行なわず、真理を話さず、このように主と結合されません。
しかし、主から愛、善と真理があるので、主が外観によって人間をご自分に結合されることは明らかです。
しかし、この外観について、人間との主の結合について、またその結合によって主との人間の相互の結合について、前に多く扱われています。
[6]第五――主は対応によって人間をご自分に結合される
このことは、みことばによってなされ、その文字どおりの意味は対応そのものから成り立っています。その意味によって、人間との主の結合があること、主との人間の相互の結合があることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に最初から最後まで示されています。

神の摂理

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220 (4)人間のもとの一時的なものと永遠なものの結合が主の神的な摂理である――
しかし、これらは前もって順序正しく整えられ、そしてそれらにしたがって説明され、示されないなら、理解力の最初の知覚の中に落ち込むことができないので、それゆえ、ここに次の順序で示すことにします――

(1)人間が死によって自然的なものと一時的なものを捨て、そして霊的なものと永遠なものをまとうのは、神的な摂理からである。
(2)主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、ご自分を霊的なものによって自然的なものに、そして永遠なものによって一時的なものを結合される。
(3)主は、ご自分を対応によって役立ちに、このように人間による外観の確信にしたがって結合される。
(4)このような一時的なものと永遠なものの結合が神的な摂理である。

しかし、これらを説明によって明るい光の中に送り出します。
[2]第一――人間が死によって自然的なものと一時的なものを捨て、そして霊的なものと永遠なものをまとうのは、神的な摂理からである
自然的なものと一時的なものは最外部のものと最後のものであり、それらの中に人間は最初に入り、そのことは生まれたとき生じますが、その理由は、その後、内的なものと上なるものの中に導き入れられることができるためです。というのは、最外部のものと最後のものは容器であり、これらは自然界の中にあるから。
ここから、天使と霊はだれも直接に創造されません、しかし、人間に生まれたすべての者は、このように導き入れられます。ここから、彼らに最外部のものと最後のものがあり、それらは本質的に固定したものと不変のものです。それらの内部で、またそれらから、内的なものは結びつきの中に保たれることができます。
[3]しかし、人間は最初に自然の粗悪なものを着て、それらから彼の身体があります。しかし、これらを死によって脱ぎ捨て、そして霊的なものに最も近いものである自然の純粋なものを保持し、それらがその時、彼の容器です。
加えて、最外部のものまたは最終的なものの中に内的なものまたは上なるもののすべてのものが、前にその箇所に示されているように、同時に存在します。主のすべての働きは、最初と最後のものから同時であるので、このように完全です。
しかし、自然の最外部と最終的なものは、人間の心がそれへと形作られている霊的なものと永遠なものを、それらが本質的に存在するように受け入れることができず、それでも人間は霊的になり、そして永遠に生きるように生まれているので、それゆえ、人間はそれらを脱ぎ捨て、霊的なものと天的なものに一致し、調和し、そしてそれらに容器として仕える内的な自然的なものだけを保持します。このことは一時的なものと自然的な最外部のものを捨てることによって生じます、それは身体の死です。
[4]第二――主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、ご自分を霊的なものによって自然的なものに、そして永遠なものによって一時的なものを結合される
自然的なものと一時的なものは、自然に固有なものであるだけでなく、しかしまた、自然界の中の人間に固有なものです。
後者と前者を人間は死によって脱ぎ捨て、そしてそれらに対応する霊的なものと永遠なものを着ます。
役立ちにしたがってこれらのものを着ることは、先行するものの中で多く示されています。
自然に固有のものである自然的なものは、一般に時間と空間に、また特に地上に見られるものに関係し、これらを人間は死後に残し、そしてそれらに代わって霊的なものを受け取ります。それらは外面にまたは外観に関して似ています、しかし、内面と本質そのものに関しては似ていません。それらの事柄についてもまた前に扱われました。
[5]自然界の中の人間に固有なものである一時的なものは、一般に地位と富に、また特にそれぞれの人間に必要不可欠なものである食物・衣服・住まいに関係します。
これらもまた、死によって捨てられ、残され、そして外面または外観に関して似ていますが、しかしながら、内面と本質に関して似ていないようなものが着せられ、受け取られます。
これらすべてのものは、その内面と本質を世の中の一時的な役立ちから得ています。
役立ちは仁愛の善と呼ばれる善です。
これらから、主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、自然的なものと一時的なものに霊的なものと永遠なものを結合されることを明らかにすることができます。
[6]第三――主は、ご自分を対応によって役立ちに、このように人間による外観の確信にしたがって結合される
しかし、これらは対応とは何か、また外観とは何か、まだ明確な概念を得ていない者に、不明瞭なものとしか見られないので、それゆえ、それらを例によって明らかにし、説明しなければなりません。
みことばのすべてのものは、霊的なものと天的なものの対応そのものであり、対応であるので、外観でもあります――すなわち、みことばのすべてのものは神的な愛の神的な善と神的な知恵の神的な真理であり、それらは本質的に裸です、しかし、みことばの文字どおりの意味に包まれています――それゆえ、外観は衣服を着た人間のように見え、その衣服は彼の愛と知恵の状態に対応しています。
それらから、もし人間が外観を確信するなら、衣服が人間であると確信することと似ていることが明らかです。ここから、外観は欺きとなります。
人間が真理を探究し、それを外観の中に見るなら、異なることはありません。
[7]そこで、すべての役立ちは、すなわち、人間が隣人に行なう仁愛の真理と善は、それらは外観かあるいはみことばの中の真理そのものにしたがって行なわれますが、それらが確信された自分自身のもとの外観にしたがって行なわれるなら、欺きの中にいます、しかし、真理にしたがって行なわれるなら、それらは行なうのが当然かのように行なわれます。
これらから、対応によって、また人間によって確信された外観によって、主が役立ちにご自分を結合することによって何が意味されるか明らかにすることができます。
[8]第四――このような一時的なものと永遠なものの結合が神的な摂理である
これらのことが光の中で理解力に見られるために、二つの例によって説明します。一つは地位と名誉に関するもの、もう一つは富と財産に関するものです。
二つとも外なる形の中で自然的で一時的です。けれども、内なる形の中で霊的では永遠なものです。
地位はそれらの名誉とともに、人間が、それらの中の人物に関して、またそれらの中の国家と役立ちに関して自分自身を眺める時、自然的なもの、一時的なものです。というのは、その時、人間は自分自身で内的に、国家は自分のためのものであり、自分は国家のためのものではない、としか考えることができないからです。
王国とそこにすべての人間は自分のためのものであり、自分は王国とその人間のためのものでないと考える王のようです。
[9]しかし、同じ地位がそれらの名誉とともに、人間が、人物に関して国家と役立ちのためのもの、またこれらを自分自身のためのものでなく自分自身を眺める時、霊的でまた永遠なものです。
もし後者を行なうなら、その時、人間は真理の中とその地位とその名誉の本質の中にいます。けれども、前者を行なうなら、その時、対応と外観の中にいます。それらをもし自分自身のもとで確信するなら、欺きの中にいて、主とは、虚偽とそこからの悪の中にいる者のようにしか結合しません、なぜなら、欺きは悪が結合している虚偽であるからです。
確かに役立ちと善を行ないましたが、しかし、自分自身からであって主からではなく、このように主に代わってその場所に自分自身を置きました。
[10]富と財産も同様であって、それらもまた自然的で一時的であり、なおまた霊的で永遠なものです。
富と財産は、それらだけをまたそれらから自分自身を眺め、これら二つのものの中に自分のすべての心地よさと快さを眺める者のもとで自然的で一時的です。しかし、同じものが、それらの中に役立ちの善を、またそれらの中に内なる心地よさと快さを眺める者のもとで霊的で永遠なものです。これらの者のもとで外なる心地よさと快さもまた霊的なものになり、そして一時的なものは永遠なものになります――それゆえ、これらの者は、死後、天界の中にいます、またそこの宮殿の中の備品は金また宝石から輝いています。それでも、それらを、役立ちである内なるものから輝き、そして透明となっている外なるものとしか見ません、それらから彼らに心地よさと快さそのものがあり、それらは本質的に天界の幸せと幸福です。
富と財産をそれらのために、また自分自身のためにだけ、このように外なるもののために眺め、同時に内なるもののために、このように外観にしたがって眺め、それらの本質にしたがって眺めなかった者には反対の運命があります――彼らはそれらを捨てる時、そのことは死ぬ時に生じますが、それらの内なるものをまといます。それらは霊的なものではないので、地獄のものでしかありえません。なぜなら、一つのものかまたはもう一つのものが内在し、両方とも同時であることはできないからです。ここから、彼らには富の代わりに貧困、財産の代わりに惨めさがあります。
[11]役立ちによって食物・衣服・住まいに関係する自分自身と自分のもののための生活の必需品だけが意味されるだけでなく、祖国の善・社会の善・仲間への善もまた意味されます。
商業は、商業が目的の愛であり、そして金銭への愛が仕える手段であるとき、商人が欺瞞と悪のたくらみを罪として避け、追う払うかぎり、このような善です。
目的の愛が金銭であり、そして商業の愛が仕える手段の愛であるときは異なります。なぜなら、これが貪欲であり、それは悪の根であるからです(それについては、ルカ12:15、それについてのたとえ話は16-21節参照)。

神の摂理

220◀︎目次▶︎222

(7)人間は、信仰の真理と仁愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、それらの中に内的に入れられない

221 主がすべての者の救いを欲せられること、そしてまた全能であられることは、キリスト教世界の中でよく知られています。それゆえ、多くの者はそのことから、「それぞれの者が救われることができる、主はご自分に慈悲を切願する者を救われる、特に、父なる神が御子のために哀れみを示されますように、と受け入れた信仰の決まり文句によって切願し、特に、同時に、その信仰もまた受け入れるよう切願するなら救われる」と結論します。
しかし、このことは、本書の最後の章の中に見られ、そこに説明されていることとまったく異なっています。すなわち、主がご自分の神的な摂理に反して働くことは、ご自分の神的な愛に、ご自分の神的な知恵に反して、このように、ご自身に反して働くことになるであろうから、できないことです。そこには、そのような直接の慈悲はありえないこと、なぜなら、人間の救いは手段によって生じ、すべての者の救いを欲し、同時に全能であられ、このように主以外にそれら〔の手段〕にしたがって人間を導くことができないからであり、そのことも見られます。
人間が主により導かれる手段とは、神的な摂理の法則と呼ばれるものです。それらの法則には、人間が知恵の真理と愛の善の中に、それらに中に生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、内的に入れられないこともあります。
しかし、このことが理性の前に明らかであるために、次の順序で説明するべきです――

(1)人間は霊的な事柄の知恵の中に、それらの愛の中にも入れられることができるが、それでも改心されることができない。
(2)その後、人間がそれらから去り、正反対のものの中へ逸れるなら、聖なるものを冒涜する。
(3)多くの種類の冒涜がある、しかし、この種類のものはすべてのうちで最悪である。
(4)それゆえ、人間が知恵の真理の中と同時に愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない。

神の摂理

221◀︎目次▶︎223

222 (1)人間は霊的な事柄の知恵の中に、それらの愛の中にも入れられることができるが、それでも改心されることができない
その理由は、人間に推理力と自主性があり、推理力によってほとんど天使の知恵にまで高揚され、自由性によって天使の愛に似てもなくない愛の中にいることができるからです――しかしそれでも、愛がどのようなものかによって、そのような知恵があります。愛が天的で霊的であるなら、知恵もまた天的で霊的になります。しかし、愛が悪魔的で地獄的であるなら、知恵もまた悪魔的で地獄的です。それどころか、この知恵は、外なる形の中で、このように他の者の前で、天的なものまた霊的なもののように見られることができます、しかし、その本質そのものである内なる形の中で、彼の外でなく、しかし彼の内で、悪魔的なものであり、地獄的なものです。
このようなものであることは人間に見られません、人間は自然的であり、自然的に見、聞き、外なる形は自然的であるからです――しかし、このようなものであることは天使に見られます、天使は霊的であり、霊的に見、聞き、内なる形は霊的であるからです。
[2]これらから、人間は霊的な事柄の知恵の中に、そしてまたそれらの愛の中に入れられることができ、それでも改心しないで、しかし、その時、それらの自然的な愛の中だけにいて、それらの霊的な愛の中にいないことが明らかです。
その理由は、人間は自然的な愛の中に自分自身を入れることができます、しかし、主だけが霊的な愛の中に入れることができるからです。この愛の中に入れられる者は改心します。しかし、自然的な愛だけの中に入れられる者は改心しません。というのは、これらの者の大部分は偽善者であり、多くの者はイエズス会の修道会の出身者であり、その者は神性の何らかのものを内的に信じていないで、占い師のように神性を外的にもてあそぶからです。

神の摂理

222◀︎目次▶︎224

223 霊界での多くの経験によって、「人間は本質的に天使たち自身のように知恵のアルカナを理解する能力を所有する」と知ることが与えられました。
なぜなら、私は火のような悪魔を見たからです。その者は知恵のアルカナを聞いた時、それらを理解するだけでなく、しかしまた自分の推理力からそれらを話しました、しかし、自分の悪魔的な愛に戻ると、すぐさま理解しなくなり、それらの代わりに正反対のものを理解し、それらは狂気でした、これらはその時、知恵と呼ばれました――それどころか、知恵の状態の中にいたとき自分の狂気を笑い、狂気の状態にいたとき知恵を笑うのを聞くことが与えられました。
世の中でこのような者であった人間は、死後、霊になるとき、たいてい、知恵と狂気の交互の状態に入れられます。その状態からもう一方の状態を見るためです。
しかし、たとえ知恵から自分自身に狂気を見ても、それでも、彼らに選択が与えられる時、そのことはだれにも生じますが、自分自身を狂気の状態の中に入れ、それを愛し、その時、知恵の状態を憎みます――その理由は、彼らの内なるものは悪魔的であり、外なるものは神的なようであったからです。
これらの者は、自分自身を光の天使とする悪魔によって、また婚礼の家の中で婚礼の衣服を着ていないで、外の暗やみの中に投げ出された者(マタイ22:11-13)によって意味される者です。

神の摂理

223◀︎目次▶︎225

224 内なるものが存在し、そのものから外なるものが存在するようになること、したがって、外的なものはその本質を内なるものから持つことを、だれが見ることができませんか?
外なるものは、内なるものからのその本質にしたがって見られることができることを、だれが経験から知りませんか?
というのは、このことは偽善者、おべっか使い、偽る者のもとで、はっきりと見られるから――人間は外なるものの中で自分でない人物を偽ることができます。というのは、喜劇役者と喜劇俳優者は、王、皇帝を、それどころか天使を、声、話し方、顔つき、振る舞いで、彼ら自身であるかのように描き出すことを知っているから。そのときそれでも道化師以外の者ではありません。
次のこともまた言われました。市民的なものまた道徳的なものの中と同様に霊的なものの中でも同様に人間はへつらい屋を演じることができるからです。そしてまた、多くの者が行なっていることが知られています。
[2]それで、言われたように、内なるものがその本質の中で地獄的なものであり、また外なるものがその形の中で霊的なものに見え、それでも外なるものが内なるものからその本質を得るとき、どこにその本質が外なるものの中に隠れているか質問するかもしれません。
振る舞いの中に、声・話し方・顔つきの中にも見られません、しかし、それでもそれら四つの中の内部に隠れているのです。
それらの中の内部に隠れていることは、霊界の中の同じものからはっきりと明らかです。というのは、人間が自然界から霊界にやって来るとき、そのことは死ぬときに生じますが、その時、身体とともに自分の外なるものを残し、そして自分の霊の中にたくわえられていた自分の内なるものを保持するから。またその時、もし彼の内なるものが地獄的であったなら、彼は悪魔のように、さらにまた世で生きたとき自分の霊に関してどんなであったかによって、〔そのように〕見えます。
すべての人間は身体とともに外的なものを残し、そして霊となるとき内なるものの中に入ることを、だれが認めませんか?
[3]これらに私は次のこともまた付加します。霊界の中に情愛とそこからの思考の伝達があり、そこから、だれも考えているようなことしか話すことができないことです。なおまたさらに、だれもがそこでは顔つきを変化させ、自分の情愛に似たものになり、それで、顔つきからもまた〔本人が〕どんなものであるか見られます。
時々、偽善者に考える以外に異なって話すことが許されますが、しかし、彼らの話しの声は彼らの内的な思考とまったく不一致なものに聞こえ、不一致から見分けられます。
ここから、内なるものが外なるものである声・話し方・顔つき・振る舞いの中に内的に隠れていて、このことは自然界の中の人間から知覚されませんが、しかし、霊界の中の天使からはっきりと知覚されることを明らかにすることができます。

神の摂理

224◀︎目次▶︎226

225 さて、これらから、人間は自然界の中で生きる間、霊的な事柄の知恵の中に、そしてまたそれらの愛の中に入れられることができること、このことが生じ、そして霊的である者と同様に単に自然的である者のもとでも生ずることができること、しかし、霊的である者はそれによって改心され、自然的である者は同じものによって改心されないという相違があることが明らかです。
これらの者のもとでもまた、知恵を愛するように見られることができます。しかし、姦淫する者が高貴な女を淫婦のように愛するようにしか、知恵を愛しません。すなわち、優しく話し、そして似合いの服を与えます、それでもその女について家で、自分自身では、卑しい娼婦としか考えず、自分の情欲にふさわしいので、その女に「ほんとうに〔愛している〕」と信じさせます。しかし、〔情欲に〕ふさわしくないなら、追い払います。
その内なる人はその姦淫する者であり、またその外なる人はその女です。

神の摂理

225◀︎目次▶︎227

226 (2)その後、人間がそれらから去り、正反対のものの中へ逸れるなら、聖なるものを冒涜する
多くの種類の冒涜がありますが、それらについては続く節の中で述べます。しかし、この種類のものはすべてのうちで最悪です。なぜなら、この種類の冒涜者は、死後、もはや人間でなく、確かに生きてはいますが、しかし、絶えず空想からの狂信の中にいます。自分自身には高いところを飛んでいるように見え、とどまるとき、幻想と遊び、それらを実在する事柄のように見ます。もはや人間ではないので、彼や彼女と呼ばれず、しかし、「それ」と呼ばれます――それどころか、天界の光の中で見るようにされるとき、骸骨のように見えます、ある者は骨の色の、ある者は火のような、ある者は焼いたような骸骨です。
この種類の冒涜者が、死後、このようになることは、世の中で知られていません、理由が知られていないので知られていないのです。
その理由は、人間が最初に神性を認め、それを信じ、その後、それをやめるか否定する時、聖なるものに冒涜的なものを混ぜるからです。その時、それらが混ぜられているものは、全部の破壊によってしか分離されることができません。
しかし、このことがさらに明らかに知覚されるために、次の順序の中で示されるべきです、これです――

(1)どんなものでも人間が意志から考え、話し、行なうものは、善でも悪でも、彼に自分のものとされ、残る。
(2)しかし、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体によって、このように分離されることができるように絶えず備え、整えられる。
(3)しかし、このことは、もし人間が最初に信仰の真理を認め、それにしたがって生き、またその後、それをやめ、それを否定するなら、行なわれることができない。
(4)その時、分離されることができないほどにまでも善と悪を混ぜる。
(5)また、善と悪はそれぞれの人間のもとで分離されなければならず、そのような者のもとでは分離されることができないので、それゆえ、すべての真の人間性に関して破壊される。

神の摂理

226◀︎目次▶︎228

227 これらが、それらのためにこのような憎むべきことが存在するようになる理由です。しかしそれらは、それらの無知から不明瞭さの中にあるので、理解力の前で明らかであるように説明されなければなりません。
第一――どんなものでも人間が意志から考え、話し、行なうものは、善でも悪でも、彼に自分のものとされ、残る
このことは前に示されています(78-81番)――というのは、人間に外なるまたは自然的な記憶があり、そして内なるまたは霊的な記憶があるから。
この記憶に、どんなものでも世の中で意志から考え、話し、行なったすべてと個々のものが、どんなものも欠けていなほどに、すべてと個々のものが刻み込まれています。
この記憶が彼の「いのちの書」であり、それは、死後、開かれ、それにしたがって裁かれます。
この記憶について多くのものが著作『天界と地獄』の中に、経験そのものから示されています(461-465番)。
[2]第二――しかし、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体によって、このように分離されることができるよう絶えず備え、整えられる
それぞれの人間は、悪の中にも善の中にもいます、というのは、自分自身から悪の中に、主から善の中にいるから。人間は〔善と悪の〕両方の中にいないなら、生きることができません。なぜなら、自分自身だけの中に、このように悪だけの中にいるなら、いのちの何らかのものを持たないからです。主だけの中に、このように善だけの中にいるなら、いのちの何らかのものを持たないから、なぜなら、「後者のいのち」の中の人間は窒息するようにあえぎ続けて、苦しみの中で死ぬことを欲するからです。また「前者のいのち」の中で消滅します、なぜなら、善のまったくない悪は本質的に死んだものであるからです。それゆえ、それぞれの人間は〔善と悪の〕両方の中にいます――しかし、相違があって、一方は内的に主の中に、外的にあたかも自分自身の中に、そしてもう一方は内的に自分自身の中に、しかし、外的にあたかも主の中にいます。後者は悪の中に、前者は善の中にいますが、それにもかかわらず、両者とも〔善と悪の〕両方の中にいます。
悪の中にもまたいるのは、市民的な生活と道徳的な生活の善の中に、そしてまた、外的に霊的な生活の何らかのものの中に、加えて、主により推理力と自由の中に保たれ、善の中にいることができるからです。この善は、それによってすべての人間が、悪い者もまた、主により導かれる善です。
これらから、主が、一つが内的であるように、そしてもう一つが外的であるように、またこのように混ぜられないように悪と善を分離することを備えられていることを見ることができます。
[3]第三――しかし、このことは、もし人間が最初に信仰の真理を認め、それにしたがって生き、またその後、それをやめ、それを否定するなら、行なわれることができない
このことは今、言われたことから明らかです。第一のものからは、人間が意志から考え、話し、行なうすべてのものは、彼に自分のものとされ、そして残ることです。また第二のものからは、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体によって、このように分離されることができるように絶えず備え、整えられることです。
さらにまた、主により、死後、分離されます。内的に悪であり、外的に善であった者のもとから、善を取り去り、このように自分自身の悪に取り残されます。内的に善であり、外的に他の人間のように富をほしがり、地位を得ようとし、世俗のいろいろなものを楽み、何らかの欲望に好感をもった者のもとでは逆です。それでも、これらの者のもとで、善と悪は混ぜられません、内なるものと外なるもののように分離しています。このように外なる形の中で悪い者に似た多くのものの中にいましたが、それでも内なる形の中でいませんでした。
逆に、悪い者もまた、その者は外なる形の中で、敬虔・礼拝・話し方・行動の中で、善い者のように見え、それでも内なる形の中で悪い者でした。
しかし、前に信仰の真理を認め、それらにしたがって生き、その後、正反対のものの中に逸れ、そしてそれらを退けた者のもとで、特に、それらを否定するなら、善と悪はもはや分離されません、混ぜられます。なぜなら、このような人間は自分自身に善を自分のものとし、そしてまた自分自身に悪を自分のものとし、このように結合し、それらを混ぜたからです。
[4]第四――その時、善と悪を分離されることができないほどにまでも混ぜる
このことは、今、言われたことからいえます――悪が善から、そして、悪から善が分離されることができないなら、天界の中にも、地獄の中にもいることができません。
それぞれの人間は、一つの中にあるいはもう一つの中にいなくはなりません。両方の中にいることはできません。時には天界の中に、時には地獄の中にいて、天界の中にいた時には地獄のために行ない、地獄の中にいた時には天界のために行ない、このように自分のまわりにいるすべての者のいのち(生活)を、天使のもとの天界のいのち(生活)を、また悪魔のもとの地獄のいのち(生活)を破壊した者がいました。そのことから、それぞれの者のいのち(生活)は滅びました。なぜなら、それぞれのいのち(生活)は自分のものでなければならないからです。だれも他に属するいのち(生活)の中で、まして、正反対のものの中では生きません。
ここから、主がすべての人間のもとで、死後、霊に、すなわち、霊的な人になる時、善を悪から、そして悪を善から分離します。内的に悪の中にいる者のもとで善を悪から、そして内的に善の中にいる者のもとで悪を善から分離します。このことはその方の次の言葉にしたがっています、

持っているすべての者に、満ちるように与えられ、持たない者からは、持つ物もまた取り去られる(マタイ13:12, 25:29, マルコ4:25, ルカ8:18, 19:26)。

[5]第五――また、善と悪はそれぞれの人間のもとで分離されなければならず、そのような者のもとで分離されることができないので、それゆえ、すべての真の人間性に関して破壊される
前に示されたように、真の人間性はそれぞれの者に、推理力からあって、もし欲するなら「何が真理か、何が善か」見ることと知ることができ、そしてまた自主性から、考え、それを話し、行ない、欲することができます。
しかし、この自主性はその推理力とともに、自分自身のもとで善と悪を混ぜた者に破壊されています、なぜなら、一つのものとなるので、彼らは善から悪を見ること、悪から善を考えることができないからです。ここから、推理力はもはや彼らの能力の中に、または潜在力の中になく、ここから何らかの自主もありません――その理由は、それらの能力は空想からの単なる狂気のようなものであるからです。前に言われたように、もはや人間のように見えず、何らかの皮膚に包まれた骨のように見えます。またここから、名前を挙げられるとき、彼や彼女と言われないで、「それ」と言われます。
この方法で聖なるものを冒涜的なものに混ぜる者に、このような運命があります。
しかし、それでもこのようなものではない多くの種類の冒涜があります。それらについては続く節の中で述べます。

神の摂理

227◀︎目次▶︎229

228 それらを知らない人間は、だれもこのように聖なるものを冒涜しません。なぜなら、それらを知らない者は、それらを認めることも、その後、それらを否定することもできないからです。
それゆえ、キリスト教世界の外にいる者は、主について、またその方によるあがないと救いについて何らかのことを知らず、それを受け入れない時、それどころか、それに反して話す時、その聖なるものを冒涜しません。
ユダヤ人自身も、幼児期からそれを受け入れ、認めることを欲しないので、その聖なるものを冒涜しません。受け入れ、認め、その後、否定したなら異なりますが、それでもそのことが生ずるのはまれです。というのは、彼らからの多くの者はそれを外的に認め、それを内的に否定するからであり、偽善者も同様です。
しかし、彼らは聖なるものを冒涜的なものにそれらの混合によって冒涜するその者は、最初に受け入れ、認め、その後、逸れて、否定します。
[2]幼児期と少年期に受け入れ、認めたことは何ら問題となりません。このことはそれぞれのキリスト教徒に行なわれています。その時、信仰と仁愛に属するものを、推理力と自主性の何らかのものから、すなわち、意志からの理解力の中で受け入れ、認めたのではなく、単に記憶からまた教師への信頼から認めたからです。また、それらにしたがって生きるなら、盲目の服従からです。
しかし、人間が自分の推理力と自主性を用いるとき、そのことは成長し、若者になるように、引き続いて生じますが、その時、真理を認め、それにしたがって生き、その後、それを否定するなら、聖なるものを冒涜的なもので混ぜ、また前に言われたように、人間からそのような怪物になります。
しかし、もし人間が悪の中にいるなら、自分の推理力と自主性にいる間、その時から、すなわち、自分の責任で、青春時代まで、そしてその後、信仰の真理を認め、それにしたがって生き、その時、それらの中に人生の終わりまでとどまるなら、それを混ぜません。なぜなら、その時、主は以前の生活(いのち)の悪をその後の生活(いのち)の善から分離されるからです。悔い改めを行なうすべての者はこのようになります。
しかし、これらの多くのことについては続きの中で述べます。

神の摂理

228◀︎目次▶︎230

229 (3)多くの種類の冒涜がある、しかし、この種類のものはすべてのうちで最悪である
最も一般的な意味で、冒涜によってすべての不敬(不信心)が意味されます。したがって、冒涜する者によってすべての不敬な(不信心な)者が意味されます。その者は心で神を、みことばの神聖さを、ここから聖なるものそのものである教会の霊的なものを否定し、それらについてもまた不敬に(不信心に)話します。
しかし、ここではこれら者についてではなく、神を告白し、みことばの神聖さを〔心に〕決め、教会の霊的なものを認め、それでも大部分の者はただ口だけで〔そうしている〕、その者たちについて扱います。
これらの者が冒涜することの理由は、みことばからの聖なるものが彼らの中に、彼らのもとにあり、彼らの中にあること、そして彼らの理解力と意志の何らかのものになっていることが、冒涜をひき起こすからです――しかし、それでも、神性と神的なものを否定し、冒涜することのできる何らかの聖なるものがない不敬な者にはできません――これらの者は確かに冒涜する者です、しかし、それでも神性を汚す者ではありません。

神の摂理

229◀︎目次▶︎231

230 聖なるものの冒涜は、十戒の第二の戒めの中の「あなたはあなたの神の名前を冒涜してはならない」によって意味されます。また冒涜されてはならないことは、「主の祈り」の中の「あなたの名前が聖別されますように」によって意味されます。
「神の名前」によって何が意味されるか、キリスト教世界の中のほとんどだれにも知られていません――その理由は、霊界の中の名前は自然界の中のようなものではないこと、しかし、それぞれの者が自分の愛また知恵がどんなものかにしたがって名づけられているか知られていないからです。というのは、ある者が他の者との社会または仲間の中にやって来ると直ぐに、そこに彼の性質にしたがって直ちに名前をつけられるからです。
命名は霊的な言語によって行なわれ、それは事柄のそれぞれに名前が与えられることができるようなものであり、そこのアルファベットの中のそれぞれの文字が一つの事柄を意味するので、人物の名前をつくる一つの単語に結合された多くの文字は、事柄の全状態を含みます。
このこともまた霊界での驚くべきことです。
[2]これらから、みことばの中の「神の名前」によって、神とその方の中にあり、その方から発出するすべての神性が意味されることが明らかです。みことばは発出する神性であるので、それは神の名前です。教会の霊的なものと呼ばれるすべての神的なものは、みことばからであるので、それらもまた神の名前です。
これらから十戒の第二の戒めによって何が意味されるか見られることができます、

あなたはあなたの神の名前を冒涜してはならない〔出エジプト記20:7〕。

また「主の祈り」の中の次の言葉によって、

あなたの名前が聖別されますように〔マタイ6:9〕。

両契約のみことばの中の多くの箇所の中に、神そして主の名前によって同様のものが意味されています。
(例えば、マタイ7:22, 10:22, 28:5, 20, 19:29, 21:9, 10, ヨハネ1:12, 2:23, 3:17, 18, 12:13, 28, 14:14-16, 16:23, 24, 26, 27, 17:6, 20:31)。
他にも旧約聖書の中の非常に多くの箇所にあります。
[3]この「名前」の意味を知る者は、次の主のことばによって何が意味されるか知ることができます――

だれでも預言者を預言者の名前の中で受け入れる者は、預言者の報酬を受けます。……だれでも正しい者を正しい者の名前の中で受け入れる者は、正しい者の報酬を受けます。だれでも弟子の名前の中でそれほどに、この小さい者の一人を冷たい水の飲み物を飲ませる者は……報酬を失いません(マタイ10:41, 42)。

預言者、正しい者、弟子の名前」によって、預言者、正しい者、弟子だけを理解する者は、そこに文字どおりの意味以外に他の意味を知りません。彼は、「 預言者の報酬」、「 正しい者の報酬」、「 弟子に与えた冷たい水の飲み物に対する報酬」が何かも知りません。そのときそれでも、「 名前」によって、「 預言者の報酬」によって、神的な真理の中にいる者の状態と幸福が意味され、「 正しい者の名前と報酬」によって神的な善の中にいる者の状態と幸福が意味され、弟子によって教会の霊的な何らかのものの中にいる者の状態が意味されます。「 冷たい水の飲み物」は真理の何らかのものです。
[4]愛と知恵の、すなわち、善と真理の状態がどんなものか、「名前」によって意味されることは、次の主のことばによっても明らかです――

門を通って入る者は羊の牧者です。この者に門番は開け、羊は彼の声を聞き、自分のものの羊を名前に関して呼び、それらを連れ出します(ヨハネ10:2, 3)。

羊を名前に関して呼ぶこと」は、仁愛の善の中にいる者をだれでも、彼の愛と善の状態にしたがって、教えることと導くことです。
」によって、そこの第9節から明らかなように、主が意味されます。

わたしは門です、もしだれかがわたしを通って入ったなら、救われます。

これらから、だれかが救われることができるために、主ご自身に近づかなくてはならないこと、また、その方に近づく者は「 羊の牧者」であり、その方に近づかない者は、その章の第一節に言われているように、「 泥棒と強盗」であることが明らかです。

神の摂理

230◀︎目次▶︎232

231 聖なるものの冒涜によって、みことばから信仰の真理と仁愛の善を知り、何らかの方法でそれらを認める者による冒涜が意味されるので、それゆえ、それらをまったく知らず、不信心から退けもしない者についてではありません。それゆえ、後者ではなく、前者について次のことが言われます。これらの種類の冒涜は、多くの軽いものと重いものがあり、次の七つのものを挙げることができます。
第一の種類の冒涜は、「みことばから、またみことばについて、あるいは教会の神的なものから、またそれらについて、冗談を言う」者からです。
このことは、ある者により、みことばからの名称または決まり文句を取って、少しばかり美しい、また時々、きたない談話で混ぜ合わせる邪悪な習慣から行なわれます。そのことは、みことばへの何らかの軽蔑と結合することなしにできません。そのとき、それでも、みことばはすべてと個々のものの中で神的であり、聖なるものです。なぜなら、そこのそれぞれの言葉は内部に何らかの神性を隠しており、それによって天界との伝達があるからです――しかし、この種類の冒涜は、みことばの神聖さの承認にしたがって軽くも、重くもなります。
[2]第二の種類の冒涜は、「神的な真理を理解し、認め、それでもそれらに反して生きる」者からです。
しかし、理解するだけの者は軽く、けれども、認めもする者は重く冒涜します。というのは、理解力だけからでは、ほとんど説教者のようにしか教えられず、自分自身から意志と結合させません、しかし、承認はそれ自体を結合させるからです。というのは、何らかのものは意志の一致とでないなら認められることができないからです。
しかしそれでも、認められた真理に反して生きる時、その結合は冒涜の結合にしたがっていろいろです。例えば、だれかが、復讐と憎しみ、姦淫と淫行、欺瞞と詐欺、冒涜とうそが神に反する罪であることを認め、それでもそれらを犯すなら、彼はこのさらに重い種類の冒涜の中にいます。
というのは、主は言われているからです、

自分の主人の意志を知っていて……彼の意志を行なわないしもべは、大いに打たれます(ルカ12:47)。

また他の箇所に、

もし、あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はありません。けれども、今、あなたがたは、私たちは見えると言います。それゆえ、あなたがたの罪は残ります(ヨハネ9:41)。

しかし、真理の外観を認めることと純粋な真理を認めることは別ものです。純粋な真理を認め、それでもそれらにしたがって生きない者は、霊界の中で、無活動そのもののような、声と話しの中に光と熱がないかのような者に見られます。
[3]第三の種類の冒涜は、「みことばの文字どおりの意味を悪の愛と虚偽の原理を確信するために用いる」者からです。
その理由は、虚偽の確信が真理の否定であり、悪の確信が善の拒絶であるからです――みことばはその内部では、神的な真理と神的な善でしかありません。このことは文字どおりの意味である最外部の意味の中で、主そして救いの道そのものを教える真理の純粋なものの中にしか見られず、真理の外観と呼ばれる真理の衣服の中に見られます――それゆえ、その意味は多くの種類の異端を確認するために、ゆがめられることができます。
けれども、悪の愛を確信する者は、神的な愛に暴力を加えます。虚偽の原理を確信する者は、神的な真理に暴力を加えます。
後者の暴力は真理の虚偽化と呼ばれますが、前者は善の不純化と呼ばれます。二つとも、みことばの中の「血」によって意味されます。
というのは、霊的な聖なるものは、それはまた主から発出する真理の霊ですが、みことばの文字どおりの個々の意味の中の内部にあるからです。
その聖なるものが、みことばが虚偽化され、不純化される時、傷つけられます。
このことが冒涜であることは明らかです。
[4]第四の種類の冒涜は、「敬虔なことや聖なるものを口で話し、そしてまた声と振る舞いで、彼らの愛の情愛を偽り装うけれども、心ではそれらを信じないし、愛さない」者からです。
これらの者の大部分は偽善者とパリサイ人であり、その者から、死後、すべての真理と善は取り去られ、その後、外の暗やみの中に送られます。
この種類の冒涜をする者は、神性に反し、みことばに反して、そしてまたここから、みことばの霊的なものに反して確信し、その暗やみの中に、話すことができなくて無口で座ります。世の中でのように敬虔と聖なることをしゃべりまくることを望みます、しかし、できません――なぜなら、霊界の中ではだれもが〔自分が〕考えるように話すことを強いられます、しかし、偽善者は〔自分の〕考えと異なることを話すことを欲するからです。ここから、対立するものが口の中に存在するようになり、そこから、ただブツブツ言うことしかできません。
しかし、偽善は、神に反する確信にしたがって、神のためにする外なる推論にしたがって軽くも、重くもなります。
[5]第五の種類の冒涜は、「神的なものを自分自身に帰する」者からです。
彼らは「イザヤ書」第14章の「明けの明星(魔王)」によって意味される者です――そこの「明けの明星(魔王)」によって、その章の4節、22節から明らかにすることができるように、バベル(バビロン)が意味され、そこに彼らの運命もまた述べられています。さらにまた、「黙示録」第十7章に述べられている緋色の獣の上に座っている淫婦によって意味される者も同じ者です。
みことばの中の多く箇所にバベルとカルデアの名前が挙げられています。「バベル」によって、そこに善の不純化、「カルデア」によって真理の虚偽化が意味され、彼らのもとで二つとも冒涜が行なわれ、その者は自分たちに神性を帰します。
[6]第六の種類の冒涜は、「みことばを認め、それでも主の神性を認めない」者からです。
これらの者は世でソッツィーニ教徒と呼ばれ、ある者はアリウス主義の信奉者と呼ばれます。
主でなく父を呼び、また、また絶えず父に、ある者はさらにまた子のために天界に入れられるよう祈りますが、しかし、むだであり、救いの希望がなくなるまで祈ります。その時、神を否定する者たちの間の地獄の中に降ろされます。これがこれらとそれらの者の運命です。
これらの者が、次に意味される者です

聖霊を冒涜する者は、この時代でも、来るべき時代でも許されません(マタイ12:32)。

その理由は、神は一つの位格と本質であり、その中に三一性があり、その神は主であるからです。さらにまた、主は天界であるので、ここから、天界の中にいる者は主の中にいます。それゆえ、主の神性を否定する者は、天界に入れられ、そして主の中にいることができません――主は天界であること、ここから、天界の中にいる者は主の中にいることは、前に示されています。
[7]第七の種類の冒涜は、「最初に神的な真理を認め、それらにしたがって生き、その後、去り、それらを否定する」者からです。
これは最悪の種類の冒涜です。その理由は、聖なるものを冒涜的なものに分離されることができないほどにまでも混ぜるからです。それでも、天界あるいは地獄の中にいるために分離されなければなりません。このことは彼らのもとで生ずることができないので、人間のすべての理解力と意志のものが取り去られ、前に述べられたように、もはや人間でなくなります。
ほとんど同様のことが、みことばと教会の神性を心で認め、そしてすべてを支配する愛である自分のプロプリウムにそれらを完全に浸します。それについては前に多くのものが言われました――というのは、これらの者は、死後、霊となる時、主により導かれることをまったく欲せず、しかし、自分自身から導かれることを欲するからです。彼らの愛が束縛をゆるめられるとき、天を支配することだけでなく、主を支配することもまた欲します。このことはできないので、主を否定し、悪魔になります。いのちの愛は、それはまた支配愛であり、それぞれの者に、死後、残り、取り除くことができないものであることを知っておかなければなりません。
[8]この種類の冒涜は「なまぬるい者」によって意味され、彼らについて「黙示録」に次のようにあります――

わたしはあなたの行ないを知っている、あなたは冷たくもないし、熱くもない。あなたが冷たければ、または熱ければよいのに。しかし、あなたはなまぬるく、冷たくもないし、熱くもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう(3:15, 16)。

この種類の冒涜が次のように主により「マタイ」に述べられています――

汚れた霊が人間から出て、休息を求めて乾いた場所を歩きまわる時、しかし、見つかりません。その時、「私は私の出たその家に戻ろう」と言います。戻り、それが空いて、ほうきで掃除され、それに飾られていたのを見る時、出かけ、自分自身より悪い他の七つの霊を自分自身に結びつけ、入ってそこに住みます。そして人間は、その後、前よりも悪いものになります(12:43-45)。

そこに、汚れた霊が人間から出ることによって彼の回心、そして、汚れた霊が自分自身より悪い七つの霊とともに飾られた自分の家に帰ることによって真理と善を投げ出して前の悪へ戻る行為、そして人間のその後は前よりも悪いものになることによって冒涜的なものからの聖なるものの冒涜が述べられています。
「ヨハネ福音書」に、次のことによって似たことが意味されます、

イエスはベテスダの池でいやされた者に、「今後、罪を犯さないように。あなたに悪いことが生じないように」と言われた(5:14)。

[9]人間が内的に真理を認め、そしてその後、去り、冒涜を生じさせないように、主は備えられていることが、次のものによって意味されます――

彼らの目を盲目にし、また彼らの心をふさいだ。目で見ないように、そして心で理解しないように、また自分自身を回心させ、わたしが彼らをいやすことがないように(ヨハネ12:40)。

自分自身を回心させ、わたしが彼らをいやすことがないように」は、真理を認め、その後、去り、こうして冒涜を行なわないように、ということを意味します――同じ理由のために、主はその方が言われるように、たとえ話で語られました(マタイ13:13)。
ユダヤ人が脂肪と血を食べることを禁止されたことは(レビ記3:17, 7:23, 25)、彼らが聖なるものを冒涜しないように、ということを意味しました。というのは「脂肪」は神的な善を、「血」は神的な真理を意味したからです。
いったん回心したなら、善と真理の中に生涯の終わりまでとどまらなくてはならないことを、主はマタイで教えられています――

イエスは言われた、「だれでも最後まで続けた者は、救われます」(10:22, 同じくマルコ13:13)。

神の摂理

231◀︎目次▶︎233

232 (4)それゆえ、人間が知恵の真理の中と同時に愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない
このことは、二つの理由から明瞭に示されて進められなければなりません。一つは、人間の救いに重要であるから。もう一つは、許しの法則の知識はこの法則の知識かかっているからであり、それらの許しの法則については続く節の中で述べます。
人間の救いに重要であるからというのは、前に言われたように、みことばの神性を、ここから教会の神性を最初に認め、その後、それらから去る者は、聖なるものを最も重く冒涜するからです。
そこで、理性的な人間がその光の中でそれを見ることができるようにまでも、神的な摂理のこのアルカナが明かされるために、次の系列の中で説明されるべきです――

(1)人間のもとの内的なものの中に、悪は善と同時に、ここから悪の虚偽も善の真理と同時に存在することができない。
(2)主により人間の内的なものの中に、そこに悪と悪の虚偽が遠く離されていないかぎり、善と善の真理はもたらされることができない。
(3)もし、善がその真理とともに、悪がその虚偽とともに遠く離される前かまたはさらに多くもたらされるなら、人間は善から去り、そして自分の悪へ戻る。
(4)人間が悪の中にいるとき、彼の理解力に多くの真理がもたらされ、これらは記憶の中にたくわえられることができる、それでも冒涜されることはできない。
(5)しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前かまたさらに多く、ここから受け入れられないように、人間が自分自身からのように外なる人の中で悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される。
(6)もし、前かまたさらに多くなら、その時、善と真理に悪と虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化する。
(7)それゆえ、人間が知恵の真理の中と愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない。

神の摂理

232◀︎目次▶︎234

233 そこで、神的な摂理のこのアルカナが、理性的な人間に、それがその光の中で見られることができるようにまでも明かされるために、今、提示されたそれらが個々に説明されなければなりません。
第一――人間のもとの内的なものの中に、悪は善と同時に、ここから悪の虚偽も善の真理と同時に存在することができない
人間の内的なものによって彼の内なる思考が意味されます。それについて、人間は霊界とその光の中にやって来る前に何も知りません、それは死後に生ずることです。
それは、自然界の中で、彼の思考の外なるものの中で愛の快さだけから、また自分自身のもとで見つけ出す悪そのものから、その時、知られることができます。なぜなら、前に示されたように、思考の内なるものは思考の外なるものとともに人間のもとで、分離されることができないような結びつきの中で密着しているからです。しかし、これらについては前に多くのものが述べられています。
善と善の真理が、そして悪と悪の虚偽が言われます。善はその真理なしに、悪もその虚偽なしに存在することができないからであり、契りの床の仲間または夫婦であるからです。なぜなら、善のいのちはその真理から、また真理のいのちはその善からであるからです――悪とその虚偽も同様です。
[2]人間の内的なものの中に悪がその虚偽とともに、善がその真理とともに一緒にいることができないことは、説明なしに理性的な人間により見られることができます。というのは、悪は善と対立し、そして善は悪と対立し、対立する二つのものは一緒に存在することができないからです。
さらにまた、すべての悪には、善に対する生来の憎しみがあり、すべての善には、悪に対してそれ自体を守り、それ自体から悪を遠ざける生来の愛があります――そのことから、一つのものがもう一つのものと一緒に存在することができないことがいえます。もし一緒になるなら、最初に衝突と闘争が、その後、破壊が生じます――そのことを主もまた次のことばで教えておられます――

それ自体に対して分裂した王国は見捨てられ、それ自体に対して分裂した都または家は立ち行きません。……だれでもわたしとともにいないなら、わたしに反しています。だれでもわたしとともに集めないなら、追い散らしています(マタイ12・25、30)。

また他の箇所に、

だれもふたりの主人に同時に仕えることはできません、なぜなら、一方に憎しみを抱いて、もう一方を愛するか、あるいは一方にしがみついて、もう一方を軽蔑するからです(マタイ6・24)。

二つの対立するものは、一つの実体または形の中に一緒に存在することができず、むしろ、引き離され、滅びます――一つのものがもう一つのものへ近づくか接近するなら、すべてのものが、ふたりの敵のようにそれ自体で分離します、それらの一つは自分の陣営の内にまたは自分の防塁の内に、もう一つはその外に、引っ込みます。
悪と善の両方のものの中にいる偽善者のもとでこのようになります。しかし、悪は内にあり、善は外にあり、このようにそれら二つは分離していて、混ぜられていません。
これらから、今や、悪はその虚偽とともに、善はその真理とともに、その両者が一緒にいることができないことが明らかです。
[3]第二――主により人間の内的なものの中に、そこに悪と悪の虚偽が遠く離されていないかぎり、善と善の真理はもたらされることができない
このことは前のものの結果そのものです。なぜなら、悪と善が同時にいることができないとき、悪が遠ざけられる前に、善はもたらされることができないからです。
人間の内的なものの中にと言われますが、それによって思考の内なるものが意味されます。これらについて扱っていますが、それらの中に主がいるかあるいは悪魔がいることになります。改心の後、主はそこにおられ、改心の前、悪魔はそこにいます。それで、人間が改心すればするほど、それだけ悪魔は投げ出されます。しかし、改心しなければしないほど、それだけ悪魔は残ります。
そこに悪魔がいるかぎり主が入ることができないことを、だれが見ることができませんか?
また、人間が戸を閉ざして保つかぎり、それだけ長い間、悪魔はそこにいます。その戸を人間が開け、主と一緒になるのです。
その戸が人間によって開けられる時、主が入られることを、主は「黙示録」の中で教えておられます、

わたしは戸に向かって立ち、叩く。だれかがわたしの声を聞き、戸を開けたなら、わたしは彼のところに入り、わたしは彼とともに、彼はわたしとともに食事をする(3・20)。

その戸は、人間が悪を地獄と悪魔のように避け、退けて、遠ざけることによって開けられます。なぜなら、悪あるいは悪魔と言っても同じだからです。そして逆に、善あるいは主と言っても同じです、なぜなら、すべての善の中に主がその内部におられ、すべての悪の中に悪魔がその内部にいるからです。
これらから、この事柄の真理が明らかです。
[4]第三――もし、善がその真理とともに、悪がその虚偽とともに遠く離れる前かまたはさらに多くもたらされるなら、人間は善から去り、そして自分の悪へ戻る
その理由は、悪がまさったからであり、まさるものは、もしその時でないなら、それでもその後に勝利するからです。
悪が依然としてまさる時、善は最内部の部屋の中に導かれることができないで、単に張り出し玄関(前庭)の中にしか導かれません。前に言われたように、悪は善と一緒に存在することができないので、単に張り出し玄関(前庭)の中にあるものは、これは部屋にいる彼の敵により追う払われ、ここから善の離脱と悪への帰還が生じ、それは最悪の種類の冒涜です。
[5]さらに、人間の快さそのものは自分自身と世をすべてのものにまさって愛することです。
この快さはすぐには遠ざけられることができないで、徐々に遠ざけられます。しかし、この快さからの悪が人間のもとに存続すればするほど、それだけその悪がそこでまさります。この悪は、自己愛が役立ちへの愛なるようにしか、すなわち、支配する愛が自分自身のためでなく、役立ちのためのものになるようにしか、遠ざけられることができません。というのは、このように役立ちが頭を構成し、自己愛または支配する愛が最初に頭の下の身体を、そしてその後、足を構成し、それらで歩くからです。
善が頭を構成しなくてはならないこと、また頭を構成するとき、主がそこにいることを、だれが見ませんか?善と役立ちは一つです。
悪が頭を構成するなら、悪魔がそこにいることを、だれが見ませんか?
それでも市民的なまた霊的な善は、外なる形の中で霊的な善もまた受け入れられなくてはならないので、その時、これは足と足の裏を構成し、踏みつけられます。
[6]それで、人間のいのちの状態が、上にあるものが下にあるように、逆転されなければならないとき、この逆転はすぐには存在することができません、というのは、いのちの最大の快さは、それは自己愛とここからの支配する愛ですが、減らされること、役立ちの愛に変えられることが徐々にしかできないからです。そのために、この悪が遠ざけられる以後かまたは減らなければ、主により善がもたらされることはできません。もし以後かまたは減らなければ、人間は善から去り、自分の悪へ戻ります。
[7]第四――人間が悪の中にいるとき、彼の理解力に多くの真理がもたらされ、これらは記憶の中にたくわえられることができる、それでも冒涜されることはできない
その理由は、理解力が意志の中に流入しないで、意志が理解力の中へ流入するからです。意志の中に流入しないので、理解力により多くの真理が受け入れられ、それらが記憶の中にたくわえられ、それでも意志は悪に混ぜられることができず、それゆえに、聖なるものが冒涜されることができません。
そしてまた、みことばから、あるいは説教から真理を学び、記憶の中にたくわえ、そしてそれらについて考えるよう、それぞれの者に課せられています――というのは、理解は、記憶の中にある真理から、またここから思考の中にやって来きて、意志に、すなわち、人間に、何を行なうべきか教えなくてはならないからです。そこで、このことが改心の主要な手段です。
真理が単に理解力の中に、ここから記憶の中にある時、人間の中になく、しかし、その外にあります。
[8]人間の記憶は、反芻する動物の胃に例えられることができます、その動物は胃の中に自分の食物を入れます。その食物は、胃にある間は、からだの中にありますが、外にあるようなものです。しかし、その胃から食物を引き出して食べ、それらはいのちになり、からだは養われます。
しかし、人間の記憶の中に物質的な食物はなく、真理によって意味される霊的な食物があり、それは本質的に知識です。その知識から、人間がそれらを考え、いわば反芻して引き出せば引き出すほど、それだけ彼の霊的な心は養われます。
意志の愛は、望むものであり、またいわば〔食欲のように〕欲しがり、吸収し、〔身体を〕養います。
その愛が悪であるなら、不潔なものを望み、いわば〔食欲のように〕欲しがります。けれども、〔その愛が〕善なら、清潔なものを望み、いわば〔食欲のように〕欲しがって、適合しないものを分離し、追う払し、投げ出しませんか?このことはいろいろな方法で行なわれます。
[9]第五――しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前かまたさらに多く、ここから受け入れられないように、人間が自分自身からのように外なる人の中で悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される
なぜなら、意志により受け入れられるものは、人間の中にやって来て、彼に自分のものとされ、そして彼のいのちとなるからです。人間に意志から存在するいのちそのものの中で、悪と善は一緒に存在することができません、というのはこのようにして滅びるからです。しかし、理解力の中で二つとも存在することができ、そこではそれらは悪の虚偽または真理の善と呼ばれます、けれども、同時にではありません。そうでなければ、人間は善から悪を見ること、悪から善を知ることができません。しかし、家が内側と外側に区別されるように、そこに区別がなされ、分離されます。
悪い人間が善を考え、話すとき、その時、外的に考え、話します――しかし、悪を考え、話すとき、その時、内的にそうします。それゆえ、善を話すとき、その話し方は壁からのようです。表面的に美しい〔けれども〕内部は虫でいっぱいである腐っている果実に、そしてまた、殻に関して〔表面的に美しい〕ヘビの卵に例えられることができます。
[10]第六――もし、前かまたさらに多くなら、その時、善と真理に悪とそこからの虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化する
意志が悪の中にある時、それは理解力の中で善を不純化し、そして理解力の中の不純化された善は意志の中の悪です。というのは、悪が善であること、またその逆を確信するから。悪はその悪自体に対立しているすべての善にそのように行ないます。
善の真理は悪の虚偽に対立しているので、悪もまた真理を虚偽化します。このこともまた、意志が理解力の中で行ない、理解力がそれ自体からではありません。
みことばの中で、善の不純化は姦淫によって、真理の虚偽化は淫行によって述べられています。
それらの不純化と虚偽化は、悪の中にいる自然的な人間からの推論によりなされ、そしてまた、みことばの文字どおりの意味の外観からの確信によってなされます。
[11]悪のすべてのものを捕える自己愛は、他の愛よりも強力に、知力で善を不純化し、真理を虚偽化します。このことを悪い者にも善い者にも主から人間のそれぞれにある推理力の悪用によって行ないます――それどころか、確信によって、悪をまったく善のように、そして虚偽を真理のように見えるようにすることができます。
自然がそれ自体を創造したこと、その自然はその後、人間を創造し、すべての種類の動物と植物を創造したこと、なおまた、その自然自体の内的なものからの流入によって、人間が生き、分析的に考え、賢明に理解するようにすることを千もの論証で確信することができるとき、何かできないものがありますか?
自己愛は、欲するどんなものでも知力で強力に確信するのは、その表面の最外部が、多彩ないろいろな色で光のある輝きをつくっているからです。
この輝きはその愛が賢明であり、そしてまたこのようにすぐれていて、支配的であるという栄光です。
[12]しかし、その愛がこのようなことを確信した時、人間は獣であって、獣と同じように考えます、それどころか、獣もまた話すなら、それは他の形の人間であるとしか見ないほどに、そのように盲目となります。
人間の何らかのものが死後も生きることをある信念から信じるようにされても、その時、「獣もまた死後に生き、死後に生きるこの何らかのものは蒸気のような単なるいのちの微細な発散物であって、それでもそれはその死体に戻される、あるいは、視覚、聴覚がなく、話すことのない、このように盲目、つんぼでおしであり、飛び回り、考える何らかの生命力である」と信じるほどに、それほどに盲目となります。他に多くの狂気がありますが、それらを本質的に死んだものである自然そのものが、その幻想で吹き込みます。
このことを自己愛が行ない、本質的に見られたその愛はプロプリウム(固有のもの)の愛です。人間のプロプリウムは情愛に関して、それらのすべては自然的であり、獣のいのちに似てなくもなく、また知覚に関して、それらの情愛からであるので、フクロウに似てなくもありません。
それゆえ、絶えず思考を自分のプロプリウムに浸す者は、自然的な光から霊的な光の中に上げられ、神・天界・永遠のいのちの何らかのものを見ることができません。
この愛はこのようなものであるので、それでも知力で、強力にどんなものでも気にいるものを確信するので、それゆえ、ある必要から善や真理を告白することを強いられる時もまた、同様に知力で、みことばの善を不純化し、その真理を虚偽化することができます。
[13]第七――それゆえ、人間が知恵の真理の中と愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない
このことを主は、この章の中で扱われている聖なるものの最も重い種類の冒涜に落ち込まないように、行なわれます。
その危険のために、主はまた、生活上の悪を、異端の多くの宗教を許されています。それらの許しについては続く節の中に見られます。

神の摂理

233◀︎目次▶︎235

(8)許しの法則もまた神的な摂理の法則である

234 神的な摂理の法則それ自体からまたはその法則から分離した許しの何らかの法則はなく、それらは同じものです。それゆえ、主が許される、と言われるとき、そのことによって〔主が〕望まれることが意味されないで、救いである目的のために避けることができないことが意味されます。
救いである目的のために行なわれるものは何でも、神的な摂理の法則にしたがっています――なぜなら、前に言われたように、神的な摂理は絶えず目的に向けて、常にいろいろな方向に目を向け、また人間の意志にも逆らっているからです。それゆえ、その働きのすべての瞬間に、すなわち、その進行のすべての歩みの中で、人間が目的からさ迷い出ていることを気づかせ、悪から導き出し、善へ導いて、彼をその法則にしたがって導き、曲げ、整えます。
このことが悪の許しがなくて行なわれることができないことは、続くものの中で見られます。
さらに、何らかのものは理由なしに許されることができません、その理由は神的な摂理の何らかの法則の中にしか存在せず、その法則がなぜ許されるかを教えています。

神の摂理

234◀︎目次▶︎236

235 神的な摂理をまったく認めない者は、自分の心の中で神を認めていないで、神の代わりに自然を、神的な摂理の代わりに人間の思慮分別を認めます。
このようであることは、人間は考えることと異なって考えること、そしてまた話すことと異なって話すことができるので、見られません。内的な自分自身から異なって考え、話すことができ、外的な自分自身からそれと異なってできます――扉のどちらの側にも回転することができるちょうつがいのようであり、それは、入る時と出る時で〔回転方向が〕異なります。船長が帆を広げて船をどちらの側にも向きを変えることができるその帆のようです。
人間の思慮分別を自分自身に確信した者は、見、聞き、読むどんな場合も、それらが思考の中にある時、天界から何も受けず、自分自身だけから受けるので〔自分の思慮分別以外の〕他のものを認めず、それどころかできもせず、そこまでも神的な摂理を否定します。外観と〔感覚の〕欺きから結論するので、他のものを見ず、そのようであることを誓うことができます。
さらにまた、自然だけを認める者は、神的な摂理の擁護者に対して、その者が祭司でないなら、怒るかもしれません。祭司の場合は、神的な摂理とは教えに属すものまたは職務上のものである、と見なします。

神の摂理

235◀︎目次▶︎237

236 さて、許されていても、それでも神的な摂理の法則にしたがっているものを列挙します。それらによって、単に自然的な人間は、神の代わりに自然を、神的な摂理の代わりに人間の思慮分別を確信します。
例えば、みことばを読むとき――

(1)人間の最も賢明な者であるアダムと妻は、ヘビにより自分たちが惑わされることを許した。神はこのことを神的な摂理によって妨げられなかった。
(2)彼らの最初の息子カインは、その弟アベルを殺した。神はその時に彼に語ることを差し控え、行為の後に呪われただけであった。
(3)イスラエルの国民は荒野の中で金の子牛を礼拝し、それをエジプトの地から彼らを導き出した神として認めた。そのときそれでも、エホバはこのことをシナイ山から近くで見て、警戒されなかった。
(4)なおまた、ダビデは民を数え、このために疫病が送られ、そのことからこのように多くの数千の人間が死んだ。神は行為の前でなく後に、彼に預言者ガドを送り、罰を威嚇された。
(5)ソロモンに偶像崇拝の礼拝を制定することが許された。
(6)彼の後、多くの王に神殿と教会の聖なるものを冒涜することが許された。
(7)最後に、その国民に主をはりつけにすることが許された。

みことばの中のこれらや他の多くのものの中に、自然と人間の思慮分別を承認する者は神的な摂理と正反対のものしか見ません――それゆえ、それらは神的な摂理を否定するために、論拠として用いられることができます。話しているものに最も近い自分の思考の外的なものの中で否定しないなら、それでもその話から遠く離れている思考の内的なものの中で否定しています。

神の摂理

236◀︎目次▶︎238

237 自分自身と自然を崇拝するすべての者は神的な摂理に反対して確信します。

(1)世の中にこれほど多くの不信心な者を、これほど多くの彼らの不信心を、また同時に、彼らに賛美が与えられ、それでもこのために神によりそれらの何らかの罰がないのを見るとき。
また、陰謀・欺き・策略が、敬虔な者・正しい者・誠実な者に対しても成功し、裁判や事業で不正が公正に勝ち誇るのを見るとき(さらに神的な摂理に反対して確信します)。
(2)特に、不信心な者が称賛される地位へ昇進し、そして高官や高位聖職者になり、さらにまた、富に満ちあふれ、そして、ぜいたくに、堂々として生き、逆に、神の崇拝者が軽蔑と貧困の中に生きるのを見るとき(確信します)。
(3)さらにまた、戦争が許され、その時、これほど多くの人間の死、これほど多くの都市・人々・家族の略奪を考えるとき(神的な摂理に反対して確信します)。
(4)そしてまた、勝利は、時々、正義ではなく、思慮分別する側にあり、統治者が正直であるかあるいは不正直であるにしても、何も生じないこと、加えて同様の他のもの〔を見て確信します〕。

〔それでも〕それらすべてのものは神的な摂理の法則にしたがった許しです。

神の摂理

237◀︎目次▶︎239

238 同じ自然的な人間がいろいろな国民の宗教を眺めるとき、神的な摂理に反対して確信します。

(1)例えば、神をまったく知らない者が存在すること。そして、太陽や月を、なおまた、偶像と彫像、怪物も、そしてまた、死んだ人間を崇拝する者が存在する。
(2)加えて、イスラムの宗教的信念がこれほど多くの帝国と王国に受け入れられている。
(3)また、キリスト教が地球の住むに適したヨーロッパと呼ばれる最小の部分にだけあること、また、そこで分裂していることを見るとき。
(4)そこに、神的な力を自分自身に要求し、そして神として崇拝されることを欲する者、死んだ人間に祈る者がいる。
(5)なおまた、救いを、考えて話すある言葉の中に置き、行なわなくてはならない何らか善の中に置かない者がいること。なおまた、自分の宗教を生きる者がわずかである。
(6)さらに異端があること。それらは多くあったし、あるものは今日もあること。例えば、クエーカー派、モラヴィア派、再洗礼派、その他の者である。
(7) なおまた、ユダヤ教が依然として存在し続ける。

これらから、神的な摂理を否定する者は、宗教が本質的に何ものでもなく、しかし、それでも、束縛するものとして役立つので必要である、と結論します。

神の摂理

238◀︎目次▶︎240

239 これらの論証に、今日、多くのものが加えられることができ、それらのものによって、自然と人間の思慮分別だけを賛成して内的に考える者は、さらに確認することができます。例えば、

(1)全キリスト教世界が、神が一つの位格(ペルソナ)と本質であること、その方は主であることを知らないで、三つの神を認めている。
(2)なおまた、これまで、みことばの個々のものの中に霊的な意味があり、ここからその神聖さがあることを知らなかった。
例えばまた、
(3)悪を罪かのように避けることがキリスト教そのものであることを知らなかった。
(4)そしてまた、人間は死後、人間として生きることを知らなかった。

それというのも、自分自身に、また互いの間で、「神的な摂理が存在するなら、なぜ、このようなものが、今、初めて啓示されるのか?」と言うことができるからです。

神の摂理

239◀︎目次▶︎241

240 236-239番の中に列挙されているすべてのものは、悪い者のもとにも善い者のもとにも世の中で生ずるすべてと個々のものは、神的な摂理であること、したがって、神的な摂理は人間の思考と行動の最も個々のものの中にあること、ここから普遍的であることが見られる目的のために提示されています。
しかし、このことは個々のものが別々にして説明されないなら見られることができないので、それゆえ、提示されているその順序で、236番から始めて簡単に説明しなければなりません。

神の摂理

240◀︎目次▶︎242

241 (1)人間の最も賢明な者であるアダムと妻は、ヘビにより自分たちが惑わされることを許した。神はこのことを神的な摂理によって妨げられなかった
このことは、アダムと彼の妻によってこの世の中で創造されたすべての人類の最初の者が意味されないで、最古代教会の人間が意味され、彼らの新しい創造、すなわち、再生が次のように記述されているからです。「創世記」第一章の中で「天と地」の創造によって、彼らの新しい創造、すなわち、再生そのものが、エデンの園によって彼らの知恵と知性が、そして、知識の木から食べることによってその教会の終わりが記述されています。
というのも、みことばは内部で霊的であり、神的な知恵のアルカナを含んでおり、そして、それらが含まれるように、対応と表象そのものによって書かれているからです。
これらから、最初は最も賢明であったその教会の人間が、終わりにはプロプリウムの知性の高慢から最悪なものになったこと、ヘビによってではなく、自己愛により惑わされたのであり、それはそこの「ヘビの頭」であり、それを女の「子孫」が、すなわち、主が踏み付けなければならないことから明らかです。
[2]そこの文字の中に記録された歴史的なもの以外の他のものを、だれが理性から見ることができませんか?
というのは、世の創造がそこに記述されたように可能であったことを、だれが把握することができますか?それゆえ、なおまた第一章にあること――その庭園の中に、すなわち楽園の中に、二つの木が、一つはいのちの木またもう一つは知識の木が、後者がつまずきの石として置かれたこと、例えばまた、この木から食べることだけから、彼らだけでなく、しかしまた全人類が、彼らの子孫が、断罪を免れなかったような、これほどの罪を犯したこと。さらに、あるヘビが彼らを惑わすことができたこと――加えて、他のそこに、例えば、妻が夫の肋骨から創造されたこと。堕落後、自分たちの裸を認め、そしてそれをイチジクの葉で隠し、また身体をおおうために、彼らに皮の衣が与えられたこと。また、いのちの木への道を警戒するために、燃えるような剣とともにケルビムが置かれたこと――これらのこともまた説明しようと精いっぱい努力する学者たちは、ついには理解できないで疲れ果ててしまいます。
[3]これらすべては表象であり、それらによって最古代教会の設立、状態とその変遷、最後に破滅が記述されています――そこの個々のものの中の霊的な意味に含まれるそれらのすべてのアルカナ(秘義)は、「創世記」と「出エジプト記」についてのロンドンで出版された『天界の秘義』の中に説明されたものが見られます――それらからもまた、「いのちの木」によって、そこにその方の神的な摂理に関する主が意味されること、「知識の木」によってプロプリウム(固有のもの)の思慮分別に関する人間が意味されることを明らかにすることができます。

神の摂理

241◀︎目次▶︎243

242 (2)彼らの最初の息子カインは、その弟アベルを殺した。神はその時に彼に語ることを差し控え、行為の後に呪われただけであった
さて、前に言われたように、アダムと彼の妻によって最古代教会が意味されるので、ここから彼らの最初の息子であるカインとアベルによって、教会の二つの本質的なものである愛と知恵、すなわち、仁愛と信仰が意味されます。アベルによって愛と仁愛、カインによって知恵または信仰、特に愛から分離した知恵、すなわち、仁愛から分離した信仰が意味されます。知恵なおまた信仰は、愛と仁愛を退けるだけでなく、それらを絶滅させ、このように自分の兄弟を殺しもします。
仁愛から分離した信仰がこのようになることは、キリスト教世界の中で十分によく知られています。『新しいエルサレムの教え 信仰について』 を見てください。
[2]カインへの呪いは、死後、仁愛から信仰を、すなわち、愛から知恵を分離した者がやって来る霊的な状態を含んでいます。
しかしそれでも、ここから知恵または信仰が滅びないように、殺されないためのしるしがカインの上に置かれました、なぜなら、知恵なしに愛は、信仰なしに仁愛は存在しないからです。
これらのことによって知識の木から食べることとほとんど同様のことが表象されているので、それゆえ、順序としてアダムと彼の妻の記述の後であることがいえます。
さらにまた、仁愛から分離された信仰の中にいる者はプロプリウムの知性の中にいます。仁愛の中にまたここから信仰の中にいる者は、主からの知性の中に、そのように神的な摂理の中にいます。

神の摂理

242◀︎目次▶︎244

243 (3)イスラエルの国民は荒野の中で金の子牛を礼拝し、それをエジプトの地から彼らを導き出した神として認めた。そのときそれでも、エホバはこのことをシナイ山から近くで見て、警戒されなかった
このことはシナイ山に近い荒野で起こりました。
エホバが彼らをその不埒な礼拝から導き出されなかったことは、これまで提示され、そしてまた続く神的な摂理のすべての法則にしたがっています。
この悪は、すべての者が滅びないように彼らに許されました。なぜなら、主の教会を表象するためにエジプトから連れ出されたイスラエル民族は、最初に彼らの心からエジプトの偶像崇拝が根絶されないなら、このことは表象することができなかったからです。またこのことは、彼らの心の中にあったことにしたがって行動するがままにされ、このようにそれがきびしい罰で取り除かれないなら、行なわれることができなかったからです。
その礼拝によって、そしてまた彼らは完全に退けられなければならないとの脅しによって、またモーセから新しい国民が起こされることによって、さらに何が意味されるかは、「出エジプト記」第32章についての『天界の秘義』の中に見られ、そこにそれらについて扱われています。

神の摂理

243◀︎目次▶︎245

244 (4)ダビデは民を数え、このために疫病が送られ、そのことからこのように多くの数千の人間が死んだ。神は行為の前でなく後に、彼に預言者ガドを送り、罰を威嚇された
神的な摂理に反して確信する者は、特に、なぜダビデは前もって警告されなかったのか、なぜ民は王の違反のためにこれほどに重く罰せられたのか、このことについてもまたいろいろなことを考え、思い巡らすことができます。
前もって警告されなかったことは、これまで示された神的な摂理の法則に、特に前の129-153番154-174番に説明された二つのものにしたがっています。
民が王の違反のためにこれほどに重く罰せられ、七万人が疫病で打たれたのは、王のためではなく、民のためでした。なぜなら、〔次のように〕あるからです、

イスラエルに対してエホバの怒りが燃えることが繰り返された。それゆえ、ダビデをうながし、彼らに向かわせて、言わせた。「出かけよ、イスラエルとユダを数えよ」(サムエル記Ⅱ 24:1)。

神の摂理

244◀︎目次▶︎246

245 (5)ソロモンに偶像崇拝の礼拝を制定することが許された
このことの理由は、全世界のすべての宗教的な事柄とともに、主の王国または教会を表象するためでした。なぜなら、イスラエルとユダヤの国民のもとに設立された教会は表象的な教会であったからです。それゆえ、その教会のすべての審判や法令は教会の霊的なものを表象しました。それらはその内なるものであって、民そのものは教会、王は主、ダビデは世の中に来るべき主、ソロモンはその方の来臨後の主を表象したのです。また(マタイ28:18で主が言われたように)ご自分の人間性を栄化された後の主には天と地に力を持たれたので、それゆえ、その方を表象するソロモンは、栄光と荘厳の中に見られ、地のすべての王にまさる知恵の中におり、そしてまた神殿を建設しました――そして、他にも多くの異教徒の礼拝を許し、設立し、それらによって世のいろいろな宗教的な事柄が表象されたのです。
同様のことが彼の妻たちによって意味され、それは数で七百であり、めかけ(そばめ)は数で三百でした(列王記 Ⅰ 11:3)。
みことばの中の「妻」は教会を、「めかけ」は宗教的な事柄を意味するからです。
これらから、なぜソロモンに神殿を建築することが許されたのかは、そのことによって主の神的人間性そしてまた教会が意味されたからであり(ヨハネ2:19, 21)、なおまた、彼に偶像崇拝の礼拝を設立することが許され、そしてこのように多くの妻をめとることが許されたことを明らかにすることができます。
みことばの多くの箇所で、ダビデによって世の中に来るべき主が意味されることが『新しいエルサレムの教え 主について』に見られます(43, 44番)。

神の摂理

245◀︎目次▶︎247

246 (6)ソロモンの後、多くの王に神殿と教会の聖なるものを冒涜することが許された
このことは、民が教会を表象し、王は彼らの頭であったからです。イスラエルとユダの国民は、長期間、教会を表象することができなかったようなものであったので、というのは、心で偶像崇拝者であったから、それゆえ、表象的な礼拝から、教会のすべてのものをゆがめ、ついにそれらを破壊するまでも継続的に逸れました。
このことが王たちによる神殿の冒涜によって、また王たちの偶像崇拝によって、教会の荒廃そのものが、神殿そのものの破壊によって、イスラエルの民が連れ去られ、そして、ユダの民がバビロニアへ捕囚されることによってもまた表象されました。
これが〔許されたことの〕理由でした。また、何であれ、ある理由から起こることは、神的な摂理から、その法則の何らかのものにしたがって起こります。

神の摂理

246◀︎目次▶︎248

247 (7)主をはりつけにすることがその国民に許された
このことは、その国民のもとの教会は完全に破壊され、主を知らず、認めないだけでなく、その方に憎しみを抱くようにもなったからです――しかし、それでも、彼らがその方に行なったすべてのことは、その方の神的な摂理の法則にしたがっていました。
十字架の受難が最後の試練、すなわち、最後の闘争であり、それによって主は完全に地獄に勝ち、完全にご自分の人間性を栄化されたことは、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に(12-14番)、また『新しいエルサレムの教え 信仰について』の中に見られます(34, 35番)。

神の摂理

247◀︎目次▶︎249

248 これまで前の236番に列挙されたものは、みことばからのものであって、それらによって自然的な人間は、神的な摂理に反して推論し、これを確信することができます――なぜなら、前に言われたように、このような人間は、〔自分が〕見、聞き、読むものは何でも、その摂理に反する論証として用いることができるからです。
しかし、みことばの中にあるようなものから神的な摂理に反して確信する者はわずかであり――それでも、多くの者は237番に含まれている目の前に現れるものから確信するので、そこでそれらのことを〔今から〕同様に説明するべきです。

神の摂理

248◀︎目次▶︎250

249 (1)自分自身と自然を崇拝するすべての者は、世の中にこれほど多くの不信心な者を、これほど多くの彼らの不信心を、また同時に、彼らに賛美が与えられ、またそれでも神によりこのためにそれらの何らかの罰がないのを見るとき、神的な摂理に反対して確信する――
すべての不信心は、そしてまた彼らの上に賛美があるのは、許しであり、その理由は神的な摂理の法則です。
それぞれの人間は自由に、それどころか最も自由に、神のためにと同様に神に反して、欲するものを考えることができます。また、神に反して考える者が自然界の中で罰せられることはまれです、そこでは常に改心の状態の中にいるからです。しかし、霊界の中で罰せられ、それは死後に生じます、というのは、その時、もはや改心されることができないからです。
[2]許しの理由が神的な摂理の法則であることは、思い出され、また調べられるなら、前に提示された法則から明らかです。それらは――
人間が自由から理性にしたがって行動するためである(その法則については前の71-79番)。
人間が外なる手段によって考え、意志し、このように宗教に属するものを信じ、愛するように強制されないためである。しかし、自分自身そのものを強いるように、また時々、考えるためである(その法則については129-153番)。
プロプリウムからの思慮分別は何もなく、単にそれがあることが見られ、さらにまた、そのようであると見られるべきである。しかし、神的な摂理は最も個々のものから、普遍的に存在する(191-213番)。
神的な摂理は、永遠のものと一致しているものを除いて、一時的なものでなく永遠のものに目を向ける(214-220番)。
人間は信仰の真理と仁愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないなら、それらの中に内的に入れられない(221-233番)。
[3]許しの理由が神的な摂理の法則であることは、続くものからもまた明らかです。例えば、このことから――悪は救いの目的のために許されている。
なおまたこのことから――神的な摂理は、善い者のもとと同様に悪い者のもとでも不変である。
最後にこのことから――主はご自分の神的な摂理の法則に反して働くことはできない、それらに反して働くことはご自分の神的な愛に反して、ご自分の神的な知恵に反して、このようにご自分に反して働くことになるから。
これらの法則は、もし対照されるなら、なぜ、主により不信心が許されているか、思考の中にある間は罰せられないか、また意図の中にあるときもまれであり、このように意志の中にあるときも、また行為の中にないときも罰せられないか、理由を示すことができます。
しかしそれでも、それぞれの悪にもその罰が結果として続きます。悪にその罰が刻まれているようなものであり、その罰を不信心な者は死後に受けます。
[4]今、提示されたこれらによってさらにまた前の237番に提示された「陰謀・欺き・策略が、敬虔な者・正しい者・誠実な者に対しても成功し、裁判や事業で不正が公正で勝ち誇るのをするのを見るとき、自分自身と自然を崇拝する者は、さらに神的な摂理に反対して確信する」ことが説明されます。
神的な摂理のすべての法則は必要不可欠なものです。また、なぜこれらのことが許されているか、その理由から、人間が人間として生き、改心し、救われることができること、このようなものが主により人間から取り去られることができないことが明らかです。みことばによって、特に十戒の戒めによって、すべての種類の殺人・姦淫・盗み・偽りの証言を罪として認める者のもとで直接に、そうでないなら、このようなものを罪として認めない者のもとでは間接的に、市民の法律、そしてそれらの罰のための恐れによってです。なおまた道徳の法律、そしてそれらゆえに名声・名誉・利益を失う恐れによって間接的に、これらの手段によって、主は悪い者を導かれます。しかし、それらを行なうことだけから導かれるのであって、それらを考えることと欲することから導かれるのではありません。けれども、前の手段によって主は善い者を、それらを行なわないだけでなく、それらを考えることと欲しないことからもまた導かれます。

神の摂理

249◀︎目次▶︎251

250 (2)自分自身と自然を礼拝する者は、不信心な者が称賛される地位へ昇進し、そして高官や高位聖職者になり、さらにまた、富に満ちあふれ、そして、ぜいたくに、堂々として生き、神の崇拝者が軽蔑と貧困の中に生きるとき、神的な摂理に反して確信する
自分自身と自然を礼拝する者は、地位と富が、与えられることのできる最高でただひとつのもの、そのように幸福そのものであると信じます。幼年期の初期に何らかの礼拝から神について考えるなら、それらを神的な祝福と呼びます。また、それらから高慢とならないかぎり、神がいると考え、そしてまたその方を礼拝します。しかし、その礼拝の中に、その時、自分自身が知らない、神によりさらに高い地位へ上げられ、さらに多くの富を得ようとすることが隠れています。また、もしそれらの中にやって来るなら、その時、その礼拝はさらにまたさらに外的なものへと逸れ、ついには神をさげすみ、否定するようになります。もし自分の心を置いた地位と富から投げ落とされても、同様のことをします。
その時、地位と富は、悪い者にとって、つまずきの石でないなら何ですか?
[2]けれども、善い者に〔そのようなことは〕ありません、この者たちはそれらの中に心を置かず、役立ちまたは善の中に置き、地位と富はそれらを遂行するための手段として仕えるからです。
それゆえ、自分自身を礼拝する者と自然を礼拝する以外の者は、不信心な者が名誉と富に進められ、高官や高位聖職者になることによって、神的な摂理に反して確信することができません。
さらに、高かれ低かれ、地位とは何ですか?また、大きかれ小さかれ、富とは何ですか?
本質的に想像上のものでないなら何ですか?
〔地位の高低、富の大小によって〕ある者は他の者よりも、より幸せ、より幸福ですか?
高官の地位は、それどころか王と皇帝の地位も、数年後には、普通のものとしか見られず、もはや彼の心はうれしさで高められず、さらにまた彼のもとで価値がなくなります。
彼らは自分の地位から、小さな地位の中にいる者よりも、それどころか、農夫であり、そしてまたその使用人であるような最小の地位の中にいる者よりも、大きな幸福の中にいますか?
これらの者は、自分にとって好都合であり、自分の運命に満足している時、大きな幸福の中にいることができます。
自己愛にいる者以外に、だれが心でより多くの不安があり、だれがしばしば憤慨し、だれがきびしく怒りますか?
このことは、得意となっている自分の心が尊敬されないたびごとに、何かが彼に意のままに、また欲望のままに成功しないたびごとに生じます。
それゆえ、地位とは、実質または役立ちに属するものでないなら、観念以外の何ですか?
このような観念は、本質的に世がすべてであって、永遠なものは何もないといった自分自身についてまた世についての思考の中でしか存在できないのではありませんか?
[3]そこで、神的な摂理について、心で不信心な者が地位へ上げられ、また富を得られることがなぜ許されているか述べます。
不信心な者または悪い者は、敬虔な者または善い者のように等しく役立ちを果たすことができます。それどころか、もっと強い火から、なぜなら、自分自身を役立ちの中に、そして名誉を役立ちとして眺めるからです。それゆえ、自己愛の程度が上がれば上がるほど自分の栄光を理由としてますます役立ちを果たす欲望に火をつけられます。
このような火は、名誉により下部に火をつけられないなら、敬虔な者または善い者のもとには存在しません。
それゆえ、主は、ある地位にいて心では不信心な者を、彼らの名声によって支配し、公共のまたは祖国の役立ちを、その中にいる社会または都市の役立ちを、そしてまた彼らとともにいる仲間または隣人の役立ちを行なうようにかきたてられます。
これが主の支配であり、そのような者には神的な摂理と呼ばれます――というのは、主の王国は役立ちの王国であるからであり、そこには役立ちのために役立ちを果たす者が少数しか存在しないので、自己を礼拝する者がさらに高位の任務へ上げられ、それらの中でそれぞれの者が自分の愛によって善へとかきたてられるようにされます。
[4]存在しないけれども、世に何らかの地獄の王国を仮定しなさい。そこでは自己愛しか支配していませんが(自己愛そのものが悪魔です)、それぞれの者が自己愛の火から、自分の栄光の輝きから、他の何らかの王国よりもさらに役立ちを行ないませんか?
しかし、彼らのすべての者が公共の善を口にし、しかし、心では自分の善をもたらしています。
また、それぞれの者が、重要な人物となれるよう自分の君主を眺めています。最大な者になりたがっているからであって、このような者は神がいることを見ることができますか?
彼らを取り囲む火災のような煙があり、何らかの霊的な真理はその光の中で、それを通して通過することができません。
私は、そのような者の地獄のまわりにその煙を見ました。
ランプの明かりをともし、今日の王国の中に、地位を熱望し、自己と世への愛にいない者がどれだけいるか、さがしてみなさい。
あなたは、神の愛にいる者を、千人の間に五十人、またそれらの間に地位を熱望する者を見つけるでしょうか?
そこで、そのとき、これほどに神の愛にいる者が少なく、自己と世の愛にいる者がこれほどに多く、この者の愛がその火から、神の愛にいる者が果たすよりも多くの役立ちを果たすとき、悪い者が善い者よりも卓越や富の中にいることから、その時、どのようにして〔見つけ出せると〕確信することができますか。
[5]このこともまた次の主のことばによって確信されます――

主人は、不正な執事が賢明に行なったことをほめました。なぜなら、この時代の子たちはその世代の中の光の子たちよりもさらに賢明であるからです。このようにわたしはあなたがたに言います、不正のマモン(富)からあなたがたに友をつくりなさい、あなたがたが〔富に〕不足する時、あなたがたを永遠の住まいの中に受け入れるためです(ルカ16:8, 9)。

これらによって自然的な意味で何が意味されるか明らかです――けれども、霊的な意味では、悪い者が所有する「不正なマモン(富)」によって真理と善の知識が意味され、地位と富をそれらで自分自身に得ようとしてだけ用います。それらの知識から、善い者、すなわち、光の子たちは、自分自身に友をつくり、永遠の住まいの中に受け入れられます。
自己と世の愛にいる多くの者がいること、神の愛にいる者が少ないことを、主はまた次のことばで教えられています――

滅亡へ導く門は広く、道は幅広い。それを通って入る多くの者がいます――しかし、いのちへ導く道は狭く、細い。それを見つける者は少ないです(マタイ7:13, 14)。

地位と富が、それらの者のもとで、あるいは呪いあるいは祝福であることは、前に見られます(217番)。

神の摂理

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251 (3)自分自身と自然を礼拝する者は、戦争が許され、その時、これほど多くの人間が死に、彼らの財産が略奪されることを考えるとき、神的な摂理に反対して確信する
戦争が起こるのは、殺害・略奪・暴力・残酷、憎むべきその他の悪と結合しており、それらは真っ向からキリスト教の仁愛に反しているので、神的な摂理からではありません――しかしそれでも、許されことができます。人間のいのちの愛は、アダムと彼の妻によって意味される最古代の者の後(それらについて前の241番)、他の者をまた最後にはすべての者を支配することを欲し、世の富を最後にはすべての富を所有することを欲するようなものになったからです。
これら二つの愛は、束縛の中に保たれることができず、そのとき、それぞれの者に理性にしたがって自由の中で行動することが許されているように(そのことについては前の71-99番参照)、神的な摂理にしたがっています。許しなしに、人間は主により悪から導かれ、したがって改心し、救われることができません。なぜなら、悪が突発することが許されないなら、人間はその悪を見ず、したがってそれを認めず、このようにそれに抵抗することができないからです。
ここから、何らかの摂理によって悪が妨げられることはできません。なぜなら、このように閉じ込められてとどまるなら、癌と壊疽と呼ばれる疾患のように、それは歩き回り、人間の生命力のすべてを滅ぼすからです。
[2]人間は生来から小さい地獄のようであるので、その地獄と天界の間に絶え間ない不一致があります。
人間はだれも、主により、その地獄にいることを見ないなら、導き出されることを欲しないなら、自分の地獄から引き出されることができません。このことは許しなしに行なわれることができず、その原因は神的な摂理の法則です。
この原因から、小なり大なりの戦争があります。小さいものは地所の所有者と彼の隣人の間に、大きいものは国の君主とその隣国の間にあります。
小さいものと大きいものに、小さいものは国の法律によって、大きいものは諸国民の法律によって限度が保たれること以外に、何ら相違はありません。また、小さいものも大きいものもその法律を破ろうとしますが、しかし、小さいものはできず、大きいものはできます、しかしそれでも、可能性の範囲内です。
[3]大きい戦争が、殺害・略奪・暴力・残酷と結びついているので、主により妨げられず、王や大公のもとで、〔その〕始まりの中でなく、進行中でもなく、しかし、一方またはもう一方の力が弱くなり、彼に死の危険が減らされるような終わりの中で〔戦争が終わりにされ〕、〔それには〕多くの原因があり、それらは神的な知恵の宝庫に隠されています。それらから何らかのものが私に示されました。それらの間に次のものがあります――すべての戦争は、市民的なものであるとはいえ、天界の中の教会の状態の表象であり、対応するものであることです。
みことばの中に述べられているすべての戦争はそのようなものであり、今日のすべての戦争もそのようなものです。
みことばの中で述べられた戦争は、イスラエル民族がいろいろな国民と、例えば、エモリ人・アンモン人・モアブ人・ペリシテ人・シリア人・エジプト人・カルデア人・アッシリア人と行なったものです。教会を表象したイスラエル民族が、戒めと法令から逸れ、悪の中に堕落したとき、イスラエル民族と戦争を行なった国民によって罰せられました。それらの悪がそれらの国民によって意味されたからです、というのは、それぞれの国民は何らかの種類の悪を意味したからです。
例えば、不潔な偶像崇拝によって教会の聖なるものが冒涜されたとき、アッシリアとカルデアによって聖なるものの冒涜が意味されるので、アッシリア人とカルデア人によって罰せられました。
ぺリシテ人との戦争によって何が意味されるかは、『新しいエルサレムの教え 信仰について』に見られます(50-54番)。
[4]今日の戦争によって、それがどこに存在しても同様のものが表象されます。というのは、自然界に生ずるすべてのものは、霊界の中の霊的なものに対応し、すべての霊的なものは教会に関係するからです。
この世では、イスラエル民族と戦争が行なわれたキリスト教世界の中のどの国がモアブ人とアモン人に、どの国がシリア人とペリシテ人に、どの国がカルデア人とアッシリア人に、その他に関わりがあるか、知られていません。しかしそれでも、それらに関わりのある者たちがいます。
しかし、地上で、教会がどんなものであるか、またその教会が陥り、どの悪がそのために戦争によって罰せられたのかは、自然界の中ではまったく見られることができません、この世の中では外なるものだけが明らかであり、その外なるものは教会をつくらないからです。しかし、霊界の中では、そこに内なるものがあり、それらの中に教会そのものがあって、そして、そこにそれらのいろいろな状態にしたがって結合されて、見られます。
霊界の中のこれらの衝突が戦争に対応し、それらは両方とも主によりご自分の神的な摂理にしたがって、対応して支配されています。
[5]世の中の戦争が主の神的な摂理によって支配されていることを、霊的な人間は認めます、しかし、自然的な人間は認めません。単に勝利のための祝祭が告げ知らされる時、神にひざまずいて、勝利を与えられたことを感謝します、そしてまた戦いの始まる前には少ない言葉で〔武運を祈ります〕。しかし、自分自身の中に戻るとき、勝利を司令官の思慮分別、あるいは戦いの最中の何らかの計画または物事に帰します。それについては決して考えなかったし、それでもそれらから勝利〔したのでした〕。
[6]「運」と呼ばれる神的な摂理が、物事のさらにまた軽微なものの最も個々のものの中にあることは前に見られます(212番)。もしあなたがそれらの中に神的な摂理を認めるなら、戦争の事柄の中のすべてのものにあなたはその摂理を認めるはずです。
成功や普通の言葉で武運と呼ばれる戦争の事柄で、特に、司令官の計画や熟考の中で恵まれた幸運もまた、たとえその時、またその後、そのすべてを自分の思慮分別に帰しても、神的な摂理です。
しかし、もし欲するなら、この〔自分の思慮分別に帰す〕ことを行なうでしょう、なぜなら、神的な摂理としてまたそれに反して、それどころか神に〔感謝して〕またそれに反して、まったく自由な考えの中にいるからです。しかし、自分自身からの計画や熟考は何もないこと、すべてのものは天界からあるいは地獄から、地獄からは許しから、天界からは摂理から流入することを知るべきです。

神の摂理

251◀︎目次▶︎253

252 (4)自分自身を崇拝する者と自然を崇拝する者は、自分の知覚にしたがって、勝利は思慮分別する側にあって、時々、正義の側になく、さらにまた、統治者が正直であるかあるいは不正直であるにしても何も生じない、と考えるとき、神的な摂理に反して確信する
勝利が思慮分別の側にあって、時々、公正の側にないように見られることは、人間が外観から判断し、そして、一方の側に他方の側よりもさらに好意を抱き、好意を抱く者のものを推論によって確信することができるからです。また、直前の先行するものの中で言われたように、公平の原因が天界の中では霊的であり、世の中で自然的であり、過去と同時に未来を結びつきの事柄によって結合されていること知らないで、主だけに知られているからです。
[2]統治者が正直であるかあるいは不正直であるにしても何も生じないことは、前に確認された同じ原因からです(250番)。それは悪い者も善い者と等しく役立ちを行なうこと、悪い者は自分の火から善い者よりもさらに熱烈に行なうことです。特に、戦争では、悪い者は善い者よりも策略を狡猾に、悪賢しくたくらみ、また栄光への愛から、敵と知り、敵と宣言する者を殺害し、略奪することの快楽の中にいるからです。善い者は守ろうとする思慮分別や熱意の中だけにいて、侵略しようとする何らかの思慮分別や熱意の中にいることはまれです。
このことは、地獄の霊と天界の天使に同様であり、地獄の霊は襲い、天界の天使は守ります。
これらから、それぞれの者に自分の祖国と仲間を敵の侵略者から守ることが、さらにまた悪い者の統治者によっても許されること、しかし、理由なしに自国の敵とすることは許されないことが結論されます――栄光だけを理由とすることは、自己愛であるので、本質的に悪魔のものです。

神の摂理

252◀︎目次▶︎254

253 ここまで、前に提示された(237番)、それらによって単なる自然的な人間が神的な摂理に反して確信することが説明されました。
今から、それらに続くもの(288番)が説明されなければなりません、それらは多くの国民の宗教的な事柄に関係があり、それらもまた単なる自然的な人間に神的な摂理に反する論拠として役立つことができるものです。というのは、前に示されたように(27-45番)、心では、「神的な摂理の目的が人類からの天界であるとき、どのようにこのように多くの不一致の宗教が存在することができるのか、また地球の全地に一つの真理がないのか?」と言うからです。
しかし、聞いてください――
人間がどれほど多く、どんな宗教の中に生まれでも、すべての者は、神を認め、十戒の中にある戒めにしたがって生きるかぎり救われることができます。それらの戒めは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな。このようなことを行なうことは宗教に反し、したがって神に反するからである」というものです。
彼らのもとに、神への恐れ、隣人への愛があります。それらを行なうことは神に反していると考えるので、神への恐れがあり、殺し、姦淫し、盗み、偽りの証言をし、隣人の家や妻を欲しがることが隣人に反することであるので隣人への愛があります。
これらの者は自分の生活の中で神へ目を向け、隣人に悪を行なわないので、神により導かれます。導かれる者は、さらにまた自分の宗教にしたがって神と隣人について教えられます。なぜなら、このように生きる者は教えられることを愛するからです、しかし、そのように生きない者は愛しません。教えられることを愛する者は、死後、霊になるとき、天使により教えられ、喜んで、みことばの中にあるような真理を受け入れます。
これらについては、何らかのものが『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(91-97また104-113番)。

神の摂理

253◀︎目次▶︎255

254 (1)単なる自然的な人間は、神をまったく知らない者が存在すること、そして、太陽や月を、なおまた、偶像と彫像を崇拝する者が存在することを眺めるとき、いろいろな国民の宗教を、神的な摂理に反して確信する
これらから神的な摂理に反する論拠を導き出す者は、無数にある天界のアルカナを知りません。それらのアルカナはほとんど一つすら人間に知られておらず、それらには、人間に天界から直接に教えられないで、間接的に教えられるものがあり、それについては前に見られます(154-174番)。間接的であって、宣教師によって地球の全地に住むすべての者は福音にやって来ることができませんが、それでも宗教はいろいろな道を通って世の隅にいる国民にもまたやって来ることができるので、導かれることができ、それゆえ、このことは神的な摂理によって生じています。
なぜなら、人間に自分自身から宗教は存在しないで、神が存在すること、天界と地獄が存在すること、死後の生活があること、幸運が生まれるように神を礼拝しなければならないことを、その者自身かあるいは他の者から、みことばからの接ぎ木(横枝)を通して知った他の者によるからです。
[2]宗教が古代のみことばから、またその後、イスラエルのみことばから、全世界に移植されたことは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に(101-103番)、また、みことばがなかったなら、だれも神・天界と地獄・死後の生活を、まして主を知らなかったことが見られます(同書114-118番)。
いったん宗教が移植されたなら、その国民は主により自分の宗教の戒めと教義にしたがって導かれます。主は、どの宗教の中にも、十戒の中にあるような戒めがあるように備えられています。例えば、神を礼拝すべきこと、その方の名前を冒涜してはならない、祝日を持つべきこと、両親を敬わなければならない、殺してはならない、姦淫を犯してはならない、盗んではならない、偽って証言してはならないことです。
すぐ前に言われたように(253番)、それらの国民は、それらの戒めを神的なものとし、そして宗教からそれらにしたがって生き、救われます。キリスト教から遠く離れた大部分の国民もまた、それらの法律を市民のもののようにでなく、しかし、神的なもののように眺め、それに聖なるものを抱きます。
人間がそれらの戒めにしたがった生活によって救われることは、『十戒からの新しいエルサレムの教え』の最初から最後までに見られます。
[3]天界のアルカナの間に次のこともまたあります。天使の天界は主の前に一人の「人間」のようであり、その霊魂といのちは主であり、その神的な人間は多くのものである外なる肢体や器官に関してだけでなく、内なる肢体や器官に関して、他にもまた、皮膚・膜・軟骨・骨に関してもまた、すべての形の中で人間であることです。しかし、その「人間」の中のそれらは物質的なものではなく、霊的なものです――主により、福音がやって来ることができなかった者にもまた、宗教だけでなく、その神的な人間の中に、すなわち、天界の中に、皮膚・膜・軟骨・骨と呼ばれるものを構成してその場所を持つことができるように備えられています。天界の楽しさにいた他の者にもまた同様です――なぜなら、最高の天界の天使にあるような楽しさの中にいても、または最も低い天界の天使にあるような楽しさの中にいても、それは重要でないからです。なぜなら、天界の中にやって来る者それぞれの者は、自分の心の最高の楽しさの中にやって来て、さらなる楽しさを受けず、その楽しさの中では息苦しくなるからです。
[4]比べれば、農夫と王のようです――農夫は、粗製の羊毛の新しい服で歩き回り、ブタの肉・牛の肉片・チーズ・ビールと温めたワインがある食卓につくとき最大の楽しさの中にいることができます。この者は、王のように紫色の服を、絹を、金や銀を着せられるなら、また食卓の上に高貴なワインとともに多くの種類のうまいものそして豊富なご馳走が出されるなら、心が悩まされます。
このことから、最初の者のように最後の者にも、それぞれの者に自分の段階の中で、したがってまた、キリスト教世界の外にいる者に、宗教に反するからと悪を神に反する罪として避けるかぎり、天界の幸福があることが明らかです。
[5]わずかながら、まったく神を知らない者がいます――この者は、もし道徳的な生活を送ったなら、死後に天使により教えられ、自分の道徳的ないのちの中に霊的なものを受けることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(116番)。
太陽と月を崇拝する者、またそこに神がいると信じる者も同様です。何らかのものを知らず、それゆえ、そのことは彼らに罪として転嫁されません、なぜなら、主は言われているからです、

「もしあなたがたが盲目であったなら」すなわち、もしあなたがたが知らなかったなら、「あなたがたに罪はなかったでしょう」(ヨハネ9:41)。

けれども、キリスト教世界の中にもまた偶像と彫像を礼拝する多くの者がいます。
このことは確かに偶像崇拝的ですが、しかし、すべての者のもとにではありません。というのは、それらの者には、彫像が神についての思考を引き起こす手段として役立ち、天界からの流入から、神を認める者がその方を見ることを欲するように、これらの者は内的に霊的である者のように心を感覚的なものの上に高揚させることができないので、それゆえ、彫像または像からそれを引き起こすからです。
このことを行ない、彫像そのものを神として崇拝しない者は、宗教からもまた十戒の戒めに生きるなら、救われます。
[6]これらから、主はすべての者の救いを望まれているので、さらにまた、もし善く生きるなら、それぞれの者が天界の中に何らかの場所を持つよう備えられていることが明らかです。
天界は主の前に一人の「人間」のようであること、またここから天界は人間のもとにあるすべてと個々のものに対応すること、さらにまた皮膚・膜・軟骨・骨に関わりがある者がいることは、ロンドンで1758年に出版した著作『天界と地獄』の中に(59-102番)、なおまた『天界の秘義』の中に(5552-5569番)、そしてまた、前に見られます(201-204番)。

神の摂理

254◀︎目次▶︎256

255 (2)単なる自然的な人間は、イスラムの宗教的信念がこれほど多くの帝国と王国に受け入れられていることを眺めるとき、神的な摂理に反して確信する
キリスト教よりもこの宗教的信念が多くの王国により受け入れられていることは、神的な摂理について、キリスト教徒に生まれた者でないなら、このようにそこにみことばがあり、またそれによって主が知られていないなら救われることができない、と考え、また同時に信ずる者には、つまずきの石となることができます。
しかし、イスラムの宗教的信念は、すべてのものは神的な摂理に属することを信ずる者に、つまずきの石ではありません――これらの者は〔つまずきの石とならないものが〕どこにあるか捜し求め、そしてまた次のものを見つけます。イスラム教が、主を神の子として、人間で最大に賢い者、人間を教えるために世に来た最大の預言者としても認めていることです――彼らの大部分は、その方をムハンマドよりも偉大としています。
[2]その宗教的信念が、多くの国民の偶像崇拝を廃止するために主の神的な摂理から引き起こされたことが、十分に知られるように、何らかの順序で言わなければなりません、それゆえ、最初に偶像崇拝の起源について述べます。
その宗教的信念の前に、偶像の礼拝は地球の全地の中で普遍的でした。
その理由は、主の来臨前の教会はすべて表象的な教会であったことです。
イスラエル教会もまたこのようなものでした。そこでは、天幕・アロンの衣服・いけにえ・エルサレムの神殿のすべてのもの、そしてまた法令は、表象するものでした。
また、古代人のもとに対応の知識があり、それもまた表象するもの、知恵の知識そのものであり、特にエジプトで発達し、ここから、彼らの象形文字がありました。
その知識から、すべての種類の動物が、なおまた、すべての種類の木が何を、例えば、山・丘・川・泉が何を、さらにまた、太陽・月・星が何を意味するか知られました。彼らのすべての礼拝は対応そのものから構成される表象的なものであったので、それゆえ、山や丘の上で、そしてまた杜や庭園の中で、礼拝をもち、そしてそれゆえ、泉を神聖なものとし、神の礼拝の中では太陽の昇るところへ顔を向けました。また加えて、馬・牛・子牛・子羊、それどころか鳥・魚・ヘビの彫像をつくり、またこれらを家や他のところに、教会の霊的なものにしたがった順序で置き、それらによって対応させました、すなわち、それらで表象しました。
それらが意味した聖なるものを記憶に呼びもどすために、同じようなものを自分たちの神殿の中にもまた置きました。
[3]時が過ぎて、対応の知識が消し去られた時、後代の者が彫像そのものを本質的に聖なるものとして礼拝し始めました。彼らは祖先の古代人たちがそれらの中に何ら聖なるものを見ず、しかし単に対応にしたがって表象し、ここから聖なるものを意味したことを知りませんでした。
ここから偶像崇拝が起こり、それらは地球の全地、アフリカやヨーロッパと同じく、周囲の島々とともにアジアを満たしました。
すべての者にそれらの偶像崇拝が根絶されるよう、主の神的な摂理から、東洋人の性質に適合した新しい宗教が始まりました。その宗教のあるものは両契約聖書からであり、主は世に来られ、その方はすべての者の中で最も賢い者、最大の預言者であり、神の子であったことも教えられました――このことはムハンマドによって行なわれ、その者からその宗教はムハンマドの宗教(イスラム教)と呼ばれました。
[4]東洋人の性質に適合したこの宗教は、言われたように、主の神的な摂理から、このように多くの国民の偶像崇拝を除き、霊界にやって来る前に主についての何らかの思考を与える目的のために起こされました。その宗教が彼らの思考の観念とすべての生活にふさわしく、また適合していなかったなら、このように多くの王国に受け入れられず、偶像崇拝を根絶することはできませんでした。
主を天地の神として認めなかったことの理由は、東洋人は全世界の創造者の神を認めており、その方が世の中にやって来ること、人間性をとられることを理解することができなかったからです。キリスト教徒が自分の思考の中でその方の神性をその方の人間性から眺め、そして神性を天界の父の近くに置き、そしてその方の人間性がどこからか知らず、理解しないのと似ています。
[5]これらから、ムハンマドの宗教(イスラム教)もまた主の神的な摂理から起こったこと、主を神の子として認め、同時に十戒の戒めにしたがって――それらもまた彼らにあります――悪を罪として避けて、その宗教信念に生きるすべての者は、イスラム教徒の天界と呼ばれる天界の中に、やって来ること見ることができます。
この天界もまた、最高、中間、最も低い三つの天界に分かれています。
主を父と一つと認め、またこのようにその方だけを神と認める者は最高の天界の中にいます――多くの妻を退け、一人の妻と生きる者は第二の天界の中にいます。その教えへ導かれる者は最も低い天界の中にいます。
この宗教について多くのものが『続 最後の審判と霊界について』の中に見られ、そこにはイスラム教徒とムハンマドについて扱われています(68-72番)。

神の摂理

255◀︎目次▶︎257

256 (3)単に自然的な人間は、キリスト教が地球の中のヨーロッパと呼ばれる住むに適した小さい部分にだけあること、またそこで分裂していることを見るとき、神的な真理に反して確信する
キリスト教が地球の中のヨーロッパと呼ばれる住むに適した小さい部分にだけあることは、すぐ前に示された混合した宗教であるムハンマドの宗教(イスラム教)のように、それが東洋人の性格に適合しなかったからであり、適合しない宗教は、受け入れられないからです。
例として、多くの妻をめとることを許さないことを規定する宗教は受け入れられず、これまで数代も1夫多妻であった者から拒否されます。キリスト教の他の何らかの規定もこのようです。
[2]宗教が世の少ない部分かあるいは多い部分に受け入れられているかは、その人々のもとに、みことばがあるかぎり重要ではありません。なぜなら、教会の外にいて、みことばを持たなくても、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に示されているように(104-113番)、それでも、そこから彼らに光があるからです――驚くべきことですが、みことばが信心深く読まれ、主がみことばから崇拝される場所に、天界とともに主がおられるのです。その理由は、主は、みことばであられ、みことばは神的な真理であり、それが天界をつくるからです。それゆえ、主は言われています、

ふたりまたは三人が、わたしの名において集まる所に、そこにわたしは彼らの真ん中にいます(マタイ18:20)。

みことばがこのようなものになることができるのは、住むに適した多くの場所の中に、ヨーロッパ人から地球の全地の彼らと交流があり、どこでも彼らにより、みことばが読まれるかあるいは教えられるからです。
これは作りごとのように見えますが、しかし、それでも真理です。
[3]キリスト教が分裂しているのは、みことばからであり、みことばが対応そのものによって書かれており、多くの部分に関して真理の外観は対応であり、それでもなお、それらの中に純粋な真理が包まれて隠れているからです。教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から、汲み取られなければならないようなものであり、教会の中に論争・論戦・意見の衝突が、特に、みことばの理解に関して存在するようにしかならないからです、けれども、〔そのような争いは〕みことばそのものに関して、主の神性そのものに関してではありません――というのは、どこでも、みことばが聖なるものであること、主に神性があること、これら二つのものが教会の本質的なものであることが認められているから。それゆえまた、ソッツィーニ教徒と呼ばれる主の神性を否定する者は教会から追放されます。みことばの神聖さを否定する者は、キリスト教徒と見なされません。
[4]これらに私は、みことばについて、あるメモラビリア(注目すべき出来事)を付け加えます、そのことから、みことばは内部で神的な真理そのものであり、そして最内部では主であることが結論されることができます――

ある霊が、みことばを開き、それによって自分の顔または衣服をこする時、彼の顔または衣服は月のようにまた星のように白く輝いて光を放ち、またこのことは出会うすべての者に見られます。このことは、世の中に、みことばよりも聖なるものが存在しないことを証ししています。

『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に、みことばが対応そのものによって書かれていること(5-26番)、教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、それによって確信しなければならないこと(50-61番)、みことばの文字どおりの意味から異端をつくり上げることができる、しかし、それを確信することは有害であること(91-97番)、教会は、みことばからのものであり、みことばがどのように理解されるかによって、そのようなものであること(76-79番)が見られます。

神の摂理

256◀︎目次▶︎258

257 (4)単に自然的な人間は、キリスト教が受け入れられている多くの王国の中に、神的な力を自分自身に要求し、神々として崇拝されることを欲する者がいること、また、死んだ人間に祈ることから、神的な摂理に反して確信する
彼らは確かに、「神的な力を自分自身に要求しない、神々として崇拝されることを欲しない」と言います。しかしそれでも、「天界を開け、閉ざすこと、罪を許し、保つ。それゆえ、人間を救い、断罪することができる。このことが神性そのものである」と言います。というのは、神的な摂理は、改心とここからの救い以外の何らかのものを目的として持たないから。これはそれぞれの者のもとのその絶え間のない働きです。そして、救いは人間が主の戒めにしたがって生きる時、その方の神性の承認によって、その方が行なわれるという信任によらないなら行なわれることができません。
[2]このことが「黙示録」の中に述べられているバビロンであり、預言書にもたびたび述べられているバベルであることを、だれが見ることができませんか?さらにまたこれが「イザヤ書」第14章の明けの明星(魔王)であることは、その章の4節と22節から明らかであり、それらの中に次の言葉があります――

あなたは、バビロンの王について、このあざけりの歌を語る(4節)。
その後、わたしはバビロンから名前と残りの者を切り離す(22節)。

ここから、そこのバビロンが明けの明星(魔王)であることが明らかであり、それについて言われています、

どのようにして、あなたは天から落ちたのか、明けの明星(魔王)、暁の子よ。……しかしそれでも、あなたは心の中で言った、「私は天にのぼろう。私は神の星々の上に私の王座を上げ、私は北の側面の中の集会の山の中に座る。私は雲の高みの上にのぼろう。私は最高者に似た者になろう」(12-14節)。

死んだ人間に祈り、そして助けをもたらすように祈願することは、よく知られています。
それらの祈りがトレント公会議の教令で確認された「教皇の勅書」に祈らなければならないことが公然と言われ、確定されています。それで〔これを〕祈ることが言われます。
それでも、神だけに祈るべきであり、他の死んだ人間に祈ってはならないことを、だれが知りませんか?
[3]しかし、今、なぜ主がこのようなことを許しておられるのか述べます。
救いの目的のために許されたことは、否定されることができません。というのは、主なしに何の救いもないことが知られているから。このようであるので、みことばから主が宣べ伝えられ、そのことによって「キリスト教会」が設立されることが必要でした。しかし、このことは、そのことを熱意から行なう指導者によらないなら行なわれることができませんでした。〔このことは〕自己愛の火からある熱意のような熱の中にいた者にしか存在しません。
最初、この火は彼らを、主を宣べ伝えることへ、みことばを教えることへとかき立てました。「 明けの明星(魔王)、暁の子よ」と言われている(12節)のは、この彼らの初期の状態からです。
しかし、みことばと教会の聖なるものによって支配することができることを彼らが見たように、自己愛が、その愛から最初、主を宣べ伝えることへと、かき立てられたのですが、内なるものから突発し、ついに自分自身をその頂点にまで上げ、主の神的な力のすべての何も残さないで、自分自身に移しました。
[4]このことは主の神的な摂理によって抑えられることができませんでした。なぜなら、もし抑えられるなら、彼らは主を神と宣べ伝えず、そしてみことばを聖なるものとせず、そして自分たち自身をソッツィーニ教徒あるいはアリウス主義の信奉者とし、このように全教会は滅びたでしょう。教会は、指導者たちがどんな種類であっても、それでもその権威の下にいる人々のもとに残っています。というのは、その宗教からのすべての者もまた、主に近づき、そして悪を罪として避け、救われるからです。そのために、彼らからもまた霊界の中に多くの天界の社会があります。
そしてまた、彼らの間に、このような支配のくびきに服従せず、みことばを聖なるものと見なす国民があるように備えられています。このすぐれた国民はフランスの国民です。
しかし、何が起こったでしょうか?
[5]自己愛が支配を主の王座にまでも高めた時、その方を遠ざけ、自分自身を上に置き、明けの明星(魔王)であるその愛は、みことばと教会のすべてのものを冒涜することしかできませんでした――このことが生じないように、主はご自分の神的な摂理によって慮られ、ご自分への崇拝をやめ、死んだ人間を祈り、彫像に祈願し、彼らの骨に口づけし、彼らの墓に身をひれ伏して、みことばを読むことを禁じ、聖なる礼拝を一般の人々から理解されないミサの中に位置づけ、銀貨のために救いを売るようにされました。それで、彼らがこれらのことを行なわなかったなら、みことばと教会の聖なるものは冒涜されたでしょう――なぜなら、これまでで示されたように、聖なるものを知っている者以外に、他の者は聖なるものを冒涜しないからです。
[6]そこで、最も聖なる聖餐を冒涜しないように、主の神的な摂理から、それらを分け、パンを会衆に与え、自分たち自身はブドウ酒を飲むようにされました。というのは、聖餐の中でブドウ酒は聖なる真理を、パンは聖なる善を意味するから。しかし、分けられるとき、ブドウ酒は冒涜された真理を、そしてパンは不純化された善を意味します。そして加えて、それを形体的なものと物質的なものにし、このことを宗教の主要なものとして取り入れました。
それら個々のものに心を向け、ある主の照らされた心の中で熟考する者は、教会の聖なるものを守ろうとし、火事から救い出されたい者をあたかもひったくるかのように救い出し、どれほど多くても救われることができるすべての者を救おうとされる神的な摂理の驚くべきものを見ることができます。

神の摂理

257◀︎目次▶︎259

258 (5)単に自然的な人間は、キリスト教を公言する者たちの間に、救いを、考えて話すある言葉の中に置き、行なわなくてはならない何らかの善の中に置かない者がいることから、神的な真理に反して確信する
信仰のみが救いを行ない、仁愛の生活は救いを行なわないとし、それゆえに、信仰を仁愛から分離する者がこのような者であることは、『新しいエルサレムの教え 信仰について』の中に、そしてまた、そこには、みことばの中で、彼らが「ペリシテ人」、「竜」、「ヤギ」によって意味されていることも示されています。
[2]このような教えもまた許されているのは、主の神性が、みことばの神聖さが冒涜されないようにとの神的な摂理からです。
「父なる神が、十字架を受け入れられた御子のために哀れみを示され、私たちのために贖いをなしてくださいますように」という救いについての言葉によって、主の神性は冒涜されません。なぜなら、このようにして主の神性には近づかず、神性として認めない人間性に近づくからです――みことばも冒涜されません、そこに愛・仁愛・行なうこと・働きが挙げられているそれらの箇所に留意しないからです。彼らは、「これらすべてのものは信仰という言葉の中に含まれている」と言います。そのことを確信する者は、「律法は、そのように悪もまた、私を断罪しない。善は、私からのものではないので救わない」と自分自身に言います――それゆえ、彼らは、みことばからの何らかの真理を知らず、このためにそれを冒涜することができないような者です。
しかし、信仰のその言葉を、自己愛からプロプリウムの知性の高慢の中にいる者たちは確信します。これらの者は、心ではキリスト教徒ではなく、単に見られることを欲しています。
それでも主の神的な摂理は、仁愛から分離した信仰を宗教に属するものであるとした者のもとでも、彼らが救われるために絶えず働いていることを、今から述べます。
[3]たとえそれら信仰が宗教に属するものであっても、それでもそれぞれの者が、「それらの信仰は救わない、しかし、その信仰と一つとして働くときの仁愛の生活が救う」ことを知るようになるのは、主の神的な摂理からです。というのは、そこにその宗教が受け入れられているすべての教会の中で、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見、それを認め、悔い改めを行ない、罪から離れ、新しい生活を始めないなら、決して救いはないことが教えられているからです。
このことは多くの熱意とともに聖餐に加わるすべての者の前で朗誦され、このことを行なわないなら、「聖なるものを不浄なものに混ぜ、自分自身を永遠の断罪の中に投げ込む」、それどころか、イギリスでは、「そのことを行なわないなら、悪魔がユダのように彼らの中に入り、霊魂と身体に関して彼らを滅ぼす」と付け加えられています。
これらから、教会の中のそれぞれの者はそこに信仰のみが受け入れられていても、それでも、悪を罪として避けなくてはならないことが教えられていることが明らかです。
[4]さらに、その者はキリスト教徒に生まれているそれぞれの者が、悪は罪として避けるべきものであることを、十戒がすべての少年と少女の手に渡されており、両親と教師から教えられることからも知っています。そしてまた王国のすべての市民は、特に1般の人々は、暗誦した記憶による十戒だけから祭司により、キリスト教から何を知っているか調べられ、そしてまたそこにあるそれらを行なうように警告されます。
その時、教会の指導者から、「律法のくびきの下にいない、善は自分自身からでないので、それらを行なうことができない」とは決して言われません。
全キリスト教世界でアタナシウス信条もまた受け入れられており、そしてまたそこの最後に言われている「主は生きている者と死んだ者を裁きにやって来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに入り、悪を行なった者は永遠の火の中に入る」ことが認められています。
[5]信仰のみについての宗教が受け入れられているスウェーデンでもまた、仁愛から分離した信仰または善の働きなしの信仰は存在しないことがはっきりと教えられており、これはすべての讃美歌の本に挿入された覚えておくべきための付録の中にあり、「悔い改めない者の障害またはつまずき(Obotfardigas forhinda)」と呼ばれ、それは次の言葉です――

善の働きの中で富んでいる者は、そのことによって、信仰の中で富んでいることを示している。仁愛によって生み出す救いは信仰とともにあるからである。というのは、義とする信仰は、それだけによっては、また善の働きから分離したものによっては、果実のない善い木なく、光と熱のない太陽がなく、湿気なしに水がないように決して存在しないからである。

[6]これらのわずかなものは、たとえ信仰のみについての宗教信念の体系が受け入れられても、それでも、善の働きである仁愛の善が、どこでも教えられ、1般の人々がそれによって惑わされないように、またこれが神的な摂理であることが知られるために、提示されました。
私は、信仰のみに献身的であったときのルターと霊界の中で数回話しました。彼が、「主の天使によって、このことを行なわないように警告されましたが、しかし、自分自身で、働き(業)を退けなければ、カトリック教から分離しないと考え、それゆえ、警告に反してその信仰を確立させました」と言っていたのを聞きました。

神の摂理

258◀︎目次▶︎260

259 (6)単に自然的な人間は、キリスト教世界の中に、例えば、クエーカー派、モラヴィア派、再洗礼派、その他のように多くの異端があったこと、また今でもあることから、神的な摂理に反して確信する
というのは、自分自身で、「神的な摂理が最も個々のものの中で普遍的であったなら、目的がすべての者の救いであるなら、一つの真の宗教として地球の全地の中に存在したであろう。それらは分裂しないし、まして一致することのない異端とはならないであろう」と考えることができるからです――しかし、あなたにできるなら、理性を用いなさい、深く考えなさい。最初に改心しないなら、人間は救われることができないのではありませんか?
というのは、自己と世の愛の中に生まれており、それらの愛は本質的に神への何らかの愛と隣人に対する何らかの愛ではないので、自分自身のためでないなら、すべての種類の悪の中にもまた生まれているからです。
愛または慈悲の何がそれらの愛の中にありますか?
他の者をだまし、中傷し、殺したいほどの憎しみを抱き、彼の妻と姦淫し、復讐の中で彼に残酷に振る舞う者は、すべての者のうちで自分が最高の者であること、他の者の財産を所有することを欲し、このように他の者を眺めるとき、自分自身に比べて他の者を卑しい者、価値のない者のように心に抱いていませんか?
このような者が救われるために、最初にそれらの悪から導き出され、こうして改心しなくてはならないのではありませんか?
このことは前の多くのところで示されている神的な摂理の多くの法則にしたがってでないなら、行なわれることができません。それらの法則の大部分は知られていませんが、それでも神的な知恵と同時に神的な愛に属するものであり、主はそれらに反して行なうことがおできになりません。なぜなら、それらに反して行なうことは、人間を滅ぼし、救わないことになるからです。
[2]提示された法則にざっと目を通し、それらをまとめれば、きっとあなたは見るでしょう。
そのとき、それらの法則にもまた、天界からの何らかの直接の流入ではなく、みことばや教えまた説教を通して間接的な流入にしたがっていることです。そして、みことばが神的なものであるようにと、対応そのものによってでしか書かれることができないこと、意見の衝突と異端が避けられず、これらの許しもまた神的な摂理の法則にしたがっていることがいえます――さらに多くのことがあります。教会そのものがその本質的なものとして理解力に属するものだけを、このように教えに属するものだけを受け入れるとき、それらは意志に属せず、このように生活に属さないものです。生活に属するものが教会の本質的なものでない時、人間は理解力からまさに暗やみの中にいて、盲目のようになり、その者はどこでもつまずき、穴に落ちます。
というのは、意志は理解力の中で見るのであって、理解力が意志の中で見るのではありません、すなわち、同じことですが、いのちとその愛が、理解力を思考・話すこと・行動することへ導き、逆ではないからです。もし逆なら、理解力は、悪の愛から、実に悪魔から、感覚によって起こるものを何であっても捕え、それを行なうことを意志に強いることができます。
これらから、意見の衝突と異端がどこからであるか見られることができます。
[3]しかし、それでも、それぞれの者が理解力に関してどんな異端の中にいても、それでも悪を罪として避け、虚偽の異端を自分自身のもとで確信しないかぎり、改心し、救われることができるよう備えられています。なぜなら、悪を罪として避けることによって意志が、また意志によって理解力が改心し、その時、初めて暗やみから光の中にやって来るからです。
教会の三つの本質的なものに、主の神性の承認・みことばの神聖さの承認・仁愛と呼ばれる生活があります。
仁愛である生活にしたがって、どのような生活したらよいか、みことばの知識からそれぞれの人間に信仰があり、主から改心と再生があります。
教会の本質的なものとしてこれら三つのものがあったなら、知的な意見の衝突は、教会を分裂させることはなく、ただ多様なものにしただけのことでしょう。それは、光が美しい対象物の中で変化し、いろいろな宝石が王の王冠の中の美をつくるようなものです。

神の摂理

259◀︎目次▶︎261

260 (7)単なる自然的な人間は、ユダヤ教が依然として存在し続けることから、神的な真理に反して確信する
そのことは、ユダヤ人たちがこのように長い時代の後にも改心されず、それでもキリスト教徒の間に生き、みことばの中の予言にしたがって主を告白しないで、その方を自分たちをカナンの地に戻すメシアとして認め、考えていることです。変わらずに否定し続け、それでもやはり物事は彼らに順調です。
しかし、このように考える者は、それゆえ、神的な摂理を疑っており、みことばの「ユダヤ人」によって、教会からの者、主を認めるすべての者が意味されること、導き入れられる「カナンの地」によって、主の教会が意味されることを知りません。
[2]けれども、主を否定し続けるのは、彼らが主を受け入れ、認めるなら、彼らはその方の神性と教会の聖なるものを冒涜するような者であるからです。それゆえ、主は彼らについて言われています、

主は彼らの目を盲目にし、彼らの心をかたくなにされた。彼らが自分の目で見、自分の心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやすことがないためである(ヨハネ12:40, マタイ13:14, マルコ9:12, ルカ8:10, イザヤ6:9, 10)。

回心し、そしてわたしが彼らをいやすことがないために」と言われています。もし、回心して、いやされたなら、冒涜したからです。ある者は内的に信仰の真理と仁愛の善の中に、それらの中に生涯の終わりまでも保たれないないなら、聖なるものを冒涜するので、主により入れられないことは、神的な摂理にしたがっているからです。このことについては前に述べました(221-233番)。
[3]その国民が存在を保たれ、世界の多くところへ散らされたのは、その原語のみことばのためです。
彼らがキリスト教よりもみことばに神聖さを抱き、その個々のものの中に主の神性があるのは、主から発出する神的な善と結合した神的な真理があり、そのことによって、『新エルサレムの教え 聖書について』に示されているように(62-69番)、みことばに、教会との主の結合と天界の臨在があり、みことばが敬意をもって読まれるどこでも主と天界の臨在があるからです。
ここでの神的な摂理の目的は、みことばが存在を保たれ、世界の多くのところにまき散らされることです。
死後、彼らの運命がどのようであるかは、『続 最後の審判と霊界について』の中に見られます(79-82番)。

神の摂理

260◀︎目次▶︎262

261 さて、自然的な人間が神的な摂理を確信するか、またはそれに反して確信することができるものを前に提示しました(238番)。
前に話に出したもの(239番)をさらに続けます。それらもまた、自然的な人間に神的な摂理に反する論拠として役立つことができ、ある者の心(アニムス)の中に生じ、何らかの疑いを引き起こすことのできるものであり、それらは――

神の摂理

261◀︎目次▶︎263

262 (1)全キリスト教世界が、三つの位格(ペルソナ)、すなわち、三つの神のもとに一つの神を崇拝していること、またこれまで、神が一つの位格(ペルソナ)と本質であること、その中に三一性があること、その神は主であることを知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
神的な摂理についての推論する者は、「それぞれの位格が本質的に神である時、三つの位格は三つの神ではないのか?だれがこれと異なって考えることができるのか?それどころか、だれがこれと異なって考えるのか?」と言うかもしれません。
アタナシウス自身がこれと異なって考えることができませんでした。それゆえ、その者に因んで名づけられた信条の信仰に言われています、

たとえキリスト教徒の真理から私たちが、それぞれの位格が神と主であると認めなければならくても、それでも、キリスト教徒の信仰から、三つの神または三つの主と言うこと、すなわち、名前を挙げることは許されない。

このことによって、私たちは三つの神と主を認めなくてはなりません、しかし、三つの神と三つの主と言うかまたは名前を上げることは許されないこと以外に何も意味されません。
[2]位格もまた一つでないなら、いったいだれが一つの神を知覚することができますか?
知覚することができると言われるなら、三つの神に一つの本質があると考えるなら、だれがこのことから、このように一つの心であり、一致していて、それでも三つの神であることを知覚し、知覚できますか?
さらに深く考えるなら、「どのように無限である神的な本質が分割されることができるのか」と自分自身に言います。どのように、それが永遠から他のものを生み、また両方のものから発出するさらに他のものを生み出すことができますか?
だれかが考え、信じなければならないと言われることについて、「そのことを信じなければならない、そのことについて考えてはならない」と言われるなら、それは本質的に信仰である、という承認が、その者にどこからありますか?
神について、三つの位格についてのような思考からソッツィーニ主義とアリウス主義が起こっていませんか?その者たちは、あなたが信じるよりも多くの者を心で支配しています。
「一つの神、またその一つの神が主である、という信仰が教会をつくる」というのはその方の中に神的三一性があるからです。このようであることは、『新エルサレムの教え 主について』の最初から最後までに見られます。
[3]しかし、今日、主について何が考えられていますか?
「父なるエホバからの神から受胎し、また人間である処女マリアから生まれた神と人間である」と考えられていませんか?
「その方の中の神と人間が、すなわち、その方の神的人間性が、一つの位格である、霊魂と身体が一つであるように一つである」とだれが考えていますか?
だれがこのことを知っていますか?
教会の教師に質問しなさい、すると、知らない、と言うでしょう。そのとき、それでも全キリスト教世界の中の教会の教えは次のものです――

私たちの主、イエス・キリスト、神の御子は、神と人間である。また、たとえ神と人間であっても、それでも二つではなく、一人のキリストである。神性がそれ自体に人間性をまとったので一人である。それどころか、完全に一つである、というのは、一つの位格であるから。霊魂と身体が一人の人間をつくるように、そのように神と人間は一人のキリストである。

これはアタナシウスの信仰または信条です。
これを読む時、彼らは神として主について考えず、単に人間のように考えたので、知らなかったのです。
[4]もし同じ者に、どこからみごもったか、父なる神からか、あるいはご自分の神性からか知っているか、と質問するなら、「父なる神から、というのは、このことは聖書にしたがっているから」と答えるでしょう。
その時、父とその方は、霊魂と身体が一つであるように、一つではありませんか?
だれが神的な二つのものからみごもることを考えることができますか、もし、ご自分からなら、主は父そのものであったことになりませんか?
「主の神性について、その方の人間性について、あなたがたの観念は何ですか?」と、あなたがさらに質問するなら、「その方の神性は父の本質から、そして人間性は母の本質からである。その方の神性は父のもとにある」と言うでしょう――もしその時、「どこにその方の人間性はあるのですか?」と、あなたが質問するなら、何も答えないでしょう。というのは、自分の観念の中でその方の神性と人間性を分離し、そして神性を父の神性を等しいとし、同様に人間性を他の人間の人間性と等しいとし、さらにまたこのように霊魂と身体を分離することを知らず、このように理性的な人が母だけから生まれたことの矛盾も見ないからです。
[5]主の人間性について、その人間性が他の人間に似ていたと印象づけられた観念から、キリスト教徒は、たとえ、主の霊魂またはいのちはエホバからみごもったものであり、エホバそのものである、と言われても、「神的人間性」を考えるようにはほとんどならなかったことが生じました。
そこで、理性を集め、全世界に主以外に他の神がいるか熟慮しなさい。その方の中に父と呼ばれる神性そのものがあり、子と呼ばれる神的な人間性があり、聖霊と呼ばれる発出する神性があり、このように神は一つの位格と本質であり、その神が主です。
[6]あなたが、主ご自身が「マタイ福音書」で三つ名前を挙げて、 「あなたがたは行って、彼らに、父、子と聖霊の名前の中で洗礼を授け、すべての国民を弟子にせよ」(28:19)と言っている、と主張しても、このことが言われたのは、栄化されたその方の中に神的な三一性があったことが知られるためであったことは、その直前と直後の節から明らかです――直前の節に、その方に天の中と地の中ですべての力が与えられ、直後の節に、その方が彼らとともに世代〔時代〕の完了までもいること、このようにご自分だけについて語られ、その三つについては語られていません。
[7]さて、神的な摂理として、「キリスト教徒が三つの位格のもとに一つの神を、すなわち、三つの神を崇拝すること。神が一つの位格と本質であり、その中に三一性あり、その神が主であることをこの時点まで知らなかったこと」が、なぜ許されたのか、その原因は、主の中になく、人間自身にあります。主は、そのことをご自分のみことばの中で、そのすべての箇所から明らかにすることができるように、はっきりと教えられており、それらは『新しいエルサレムの教え 主について』の中に示されています。そしてまた、すべての教会の教えの中で、その方の神性と人間性は二つではなく、しかし、霊魂と身体のように結合した一つの位格であることが教えられてきました――
[8]しかし、神性と人間性を分割し、神性を父なるエホバの神性と等しいとし、人間性を他の人間の人間性と等しいとしたことの最も重要な理由は、教会がその出現の後、バビロン〔の状態〕の中に逸れ、自分自身に主の神的な力を移したからです。けれども、神的な力でなく、人間的な力と言われないように、主の人間性を他の人間の人間性に似たものにしました――その後、教会が改革され、そして信仰のみが救いの唯一の手段として受け入れられた時、それは父なる神が御子のゆえに哀まれたことであり、主の人間性もまたそうとしか見られることができませんでした。できなかったことの理由は、その方の戒めにしたがって生きる者でないなら、だれも主に近づくこと、心でその方を天と地の神として認めることができないことです。
それぞれの者が考えているように話すことが強いられる霊界の中では、キリスト教徒のように世の中で生きた者でなかったなら、その者は決してイエスの名前を言うことができません。このことは、その方の名前が冒涜されないようにとの神的な摂理からです。

神の摂理

262◀︎目次▶︎264

263 しかし、ここで言われたことを、さらにはっきりと明らかにするために、私は、『新しいエルサレムの教え 主について』の終わりに示されていることをつけ加えましょう(60, 61番)、それらは次のものです――

〔アタナシウス信条の〕教えにしたがって、主の中の神と人間は二つではなく、しかし、一つの位格であり、霊魂と身体が一つであるように完全に一つであることは、主が言われた多くのものからはっきりと明らかです。例えば、
父とその方は一つであること。
父のすべてのものはわたしのものであり、わたしのすべてのものは父のものであること。
その方は父の中に、また父はその方の中にいること。
すべてのものはその方の手の中に与えられていること。
その方にすべての力があること。天地の神であること。
その方を信じる者は永遠のいのちを持ち、その方を信じない者には神の怒りがその者の上にとどまること。またさらに、〔主の〕神性と人間性が天界に上げられ、両方のものに関して神の右に座られていること、すなわち、全能であられること。
神的人間性について、みことばから前に大量に示されている多くのことがあります。それらすべてのものが、神は位格も本質も一つであり、その中に三一性があること、その神は主であられることを証言しています。
[2]主についてこれらのことが今、初めて公けにされたことは、『黙示録』(第21章と第22章)の中に新しい教会が前のものの終わりに設立されるべきことが予言されているからであり、その教会の中でこの主についての教えは主要なものでした。
この教会がそこの新しいエルサレムによって意味され、その中には、天地の神として主だけを認める者でないなら、だれも入ることはできず、それゆえ、その教会はそこに「小羊の妻」と呼ばれています。
また、私は、全天界が主だけを認めていること、認めない者が天界に入れられないことを告知することができます。というのは、天界は主から天界であるから。愛と信仰からのその承認そのものにより、人間は主の中に、また主は彼らの中にいるようにされます。そのことを、主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

その日には、あたがたは、わたしがわたしの父の中に、あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(14:20)。

なおまた同書に、

わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。……わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしの中にとどまり、わたしもその者の中にとどまる者は、多くの実を結びます。なぜなら、わたしなしに、あなたがたは何も行なうことができないからです。だれでも、わたしの中にとどまらないなら、外へ投げ出されます(15:4-6, なおまた17:22, 23)。

[3]このことが前に、みことばから見られなかったのは、もし前に見られたなら、やはり受け入れられなかったからです――というのは、まだ最後の審判がなし遂げられていなかったからであり、それ以前に、地獄の力が天界の力にまさっていたからです。また、人間は天界と地獄の中間にいて、それゆえ、前に見られたなら、悪魔は、すなわち、地獄はそれを彼らの心から取り去り、加えてそれを冒涜したでしょう。
地獄の力のこの状態が、今やなし遂げられた最後の審判によって完全に砕かれました――その後、したがって今や、照らされ、賢明になることを欲するすべての人間はできるのです。

神の摂理

263◀︎目次▶︎265

264 (2)みことばの個々のものの中に霊的な意味があり、ここからその神聖さがあることを今まで知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
というのは、「このことが、なぜ、今、初めて啓示されるのか?」なおまた、「なぜ、あの者やこの者によってなのか、教会の高位聖職者のだれかによってではないのか?」と言って、このことから神的な摂理に反する疑いをもたらすことができるからです。
しかし、高位聖職者であるかあるいは高位聖職者のしもべであるかは、主の意のままです。ある者が、また他の者がどんなものかは主が知っておられます。
しかし、みことばの霊的な意味が以前にではなく啓示されたことの理由は――

(1) もし前になら、教会はそれを冒涜し、それによってみことばの神聖さそのものを冒涜したであろうからである。
(2) 主により、最後の審判がなし遂げられ、みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が啓示され、「聖なるエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないからである。

しかし、これらを一つずつ調べます。
[2]第一――みことばの霊的な意味が以前に啓示されなかったのは、もし前になら、教会はそれを冒涜し、それによってみことばの神聖さそのものを冒涜したであろうからである
教会はその設立の後、間もなくして、バビロンに、その後、ぺリシテに変わりました――バビロンは、みことばを認めるとはいえ、しかしそれでも、彼らの最高の判断の中で、「聖霊」が預言者に吹き込んだように、彼らにも等しく吹き込む、と言って、みことばを見下します。
みことばを認めるのは、代理役を主のことばからペトロへ確定させるためです。しかし、それでも、〔みことばと〕調和しないので、それを見下します――それゆえ、人々からもまた奪われ、修道院の中にしまい込まれ、その場所で、わずかな者がそれを読んでいます。
それゆえ、もし、みことばの霊的な意味が明らかにされたなら、その中に主がおられ、また同時にすべての天使の知恵がありますが、みことばは、文字どおりの意味の中に含まれている最外部の意味の中で冒涜され、最内部の意味の中でもまた冒涜されたでしょう。
[3]ペリシテは、それによって仁愛から分離した信仰が意味されますが、考えまた話す言葉の中に救いを置き、行なう善の中に置かないので、前に示されたように、みことばの霊的な意味もまた冒涜しました。このように救いをなさないものを救いをなすものにし、加えて理解力を信じるべきものから移しました。
彼らに、みことばの霊的な意味が含まれる光がありますか?
暗やみに変わりませんか?自然的な意味が暗やみに変わるとき、霊的な意味は何もないのではありませんか?
自分自身に仁愛から分離した信仰を、また信仰のみによって義認を確信した者のだれが、何が生活の善か、何が主への愛で、隣人に対する愛か、何が仁愛か、何が仁愛の善か、何が善の働きか、何が行なうことか、それどころか何が本質的に信仰か、何が信仰をつくる純粋な真理か、知ることを欲しますか?
彼らは本を書き、信仰と呼ぶものだけを確信します。またその時、列挙したそれらすべてのものは、その信仰に内在する、と言います。
これらから、みことばの霊的な意味が前に明らかにされたなら、「マタイ福音書」主のことばどおりのことが生じたであろうことが明らかです、

もし、あなたの目が悪かったなら、全身が暗くされたでしょう。それゆえ、もし、あなたの中にある光が暗やみを生じるなら、その暗やみはどれほどのものでしょう(6:23)。

みことばの中の「目」によって霊的な意味で理解力が意味されます。
[4]第二――みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が主により啓示され、「聖なるエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないからである
主により「黙示録」の中に、最後の審判の後に、純粋な真理が明らかにされ、新しい教会が設立され、霊的な意味が明らかにされることがなし遂げられたことが予言されています。
最後の審判がなし遂げられたことは、小著『最後の審判について』とその後の『続き』の中に示されています。またそのことが「黙示録」の中に「過ぎ去る天と地」によって意味されています(21:1)。
その時、純粋な真理が明らかにされることは、「黙示録」の次の言葉によって予言されています――

王座に座られている方が言われた。「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」(5節, なおまた19:17, 18, 21:18-21, 22:1, 2)。

その時、みことばの霊的な意味が啓示されます(19:11-16)――このことが「白い馬」によって意味され、その上に座られる方は「神のみことば」と呼ばれ、またその者は主の主、また王の王でした(その事柄については小著『白い馬について』に見られます)。
「聖なるエルサレム」によって新しい教会が意味され、それはその時、主により設立されることが、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に見られ、そこにそのことが示されています(62-65番)。
[5]これらから今や、主だけを認め、礼拝し、その方のみことばに聖なるものがあり、神的な真理を愛し、仁愛から分離した信仰を退ける新しい教会のために、みことばの霊的な意味が啓示されることが明らかです。
しかし、みことばのこの意味について多くのものが『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(5-26番、またそれ以降)。
そこには、例えば、何が霊的な意味か(5-26番)。
霊的な意味が、みことばのすべてと個々のものの中にあること(9-17番)。
霊的な意味から、みことばは神的な霊感を与えられたものであること、またすべての言葉の中に聖なるものがあること(18, 19番)。
霊的な真理はこれまで知られなかったこと、またなぜ前に啓示されなかったか(20-25番)。
霊的な意味は、主からの純粋な真理のいる者でないなら、この後、与えられないこと(26番)があります。
[6]これらから今や、神的な摂理から、霊的な意味はこの時代まで世の前に隠れていたこと、そしてその間、天界の中の天使のもとに保存されていて、天使はここから自分の知恵を汲み取っていたことを明らかにすることができます。
この意味は、モーセの前に生きた古代人のもとで知られ、そしてまた発達しました。しかし、彼らの子孫は、対応だけから成り立っていた彼らのみことばを、ここから宗教がありましたが、その対応をいろいろな偶像崇拝へ、そしてエジプト人は魔法へ変え、それは神的な摂理から隠されました。最初にイスラエル民族のもとで、その後、キリスト教徒のもとで、前に述べた理由のために隠されましたが、今や、初めて主の新しい教会のために、開かれたのです。

神の摂理

264◀︎目次▶︎274

265 (3)悪を罪のように避けることがキリスト教そのものであることをここまで知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
このことがキリスト教そのものであることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』の中に最初から終わりまで示されています――仁愛から分離した信仰だけが妨げとなっているのに、むしろ受け入れられているので、さらにまたそれらについても扱われています。
悪を罪として避けることがキリスト教そのものであることを知らなかった、と言われています。ほとんどすべての者が知らないからですが、それでもなお、それぞれの者が知っています(前の258番に見られます)。
それでも、ほとんどすべての者が知らないのは、〔仁愛から〕分離した信仰がそれを抹殺したからです。というのは、「信仰だけが救い、何らかの善の働きまたは仁愛の善は救わない。もはや律法のくびきの下になく、自由の中のいる」と言うからです。
このようなことを何回か聞いた者は、もはや生活の何らかの悪について考えず、生活の何らかの善についても考えないからです。さらにまた、だれでも人間は、自分の性質からこのことを心に抱く傾向があり、いったん抱かれるなら、もはや自分の生活(いのち)の状態について考えないからです――これらが、知られないことの理由です。
[2]この知られないことが霊界で私に明らかにされました。
私は世からやって来る千人より多くの者に、「悪を罪として避けることが宗教そのものであることを知っていますか」と質問しました。彼らは、「知らない、また、このことは今まで聞いたことのない新しいものである、しかし、善は自分自身から行なうことはできない、律法のくびきの下にない、と聞いている」と言いました。
そのとき私は、「人間は自分自身を調べ、自分の罪を見、悔い改めを行ない、その後、新しい生活を始めなければならないこと、またそうでなければ、罪は赦されず、罪が赦されないなら、救われないこと、このことは聖餐に出席するたびごとに大きな声で朗誦されることを知らないのですか?」と言いました。彼らは、「それらには留意せず、聖餐を通して自分たちに罪の赦しがあり、信仰は知らないうちに他のものに働いていることしか心に留めなかった」と答えました。
[3]同じく私は、「なぜ、あなたがたはあなたがたの幼児に十戒を教えているのですか?どんな悪が避けるべき罪であるか知るためではないのですか?行なわないで、単に、それらを知り、信じるためなのですか?それゆえ、なぜ、それは新しいことである、と言うのですか?」と言いました。
このことにある者は、「知っている、それでも知らない。姦淫を犯すとき第6の戒めについて、ひそかに盗むかまたはだますとき第7の戒めについて、他のことを決して考えなかった。まして、このようなものが神的な律法に、したがって神に反しているとは考えなかった」としか答えることができませんでした。
[4]私が、教会の教えやみことばから、悪を罪として避け、退けることがキリスト教そのものであり、それぞれの者に、避け、退けるかぎり信仰があることを確認する多くのものを話しに出したとき、彼らは黙ってしまいました――しかし、すべての者が生活に関して調べられ、行為にしたがって裁かれ、それぞれの者に生活にしたがった信仰があるので、だれも生活から分離した信仰にしたがって裁かれないことを見るとき、真理であることが確認されました。
[5]キリスト教世界の大部分で、そのことを知らなかったことは、それぞれの者は理性にしたがって自由から行動するがままにされるという神的な摂理の法則からです(それらについては、前の71-99番、また100-128番)――なおまた、天界から直接にではなく、みことばによって、教えとそれからの説教によって間接的に教えられるという法則からです(それらについては154-174番)――そしてまた、許しの法則のすべてからであり、それらもまた神的な摂理の法則です。
これらについて多くのことは前に見られます(258番)。
〔初版に266-273番はありません〕

神の摂理

265◀︎目次▶︎275

274 (4)人間が死後に生きることをここまで知らなかったこと、このことが前に言われなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
このことを知らなかったことの理由は、悪を罪として避けない者の内部に、「人間は死後に生きない」という信仰が隠れていて、「それゆえ、人間は死後に生きる、あるいは最後の審判の日に復活する」と教えられても何ら問題としないからです――もしかして復活の信念が生じるとするなら、自分自身に、「私に、他の者よりも悪いことは起こらない。地獄に行くにしても、多くの者と同行するし、天界に行くにしても、そのとおりだ」言います。
しかしそれでも、何らかの宗教があるすべての者に、「人間は死後に生きる」という認識が植え付けられています――人間でない霊魂が生きることは、自己の知性から思慮分別を失った者のもとにだけあり、他の者のもとにはありません。
何らかの宗教があるそれぞれの者に、「人間は死後に生きる」という認識が植え付けられていることは、次のことから明らかです――

(1)死ぬとき、だれがこれと異なって考えるのか?
(2)死者を嘆き、賛辞を述べる者のだれが、その死者を天界に上げ、天使たちと話し、楽しさを享受する天使たちの間に置かないか?さらに加えて、ある者を神格化する。
(3)一般の人々のだれが、死ぬとき、もし善く生きたなら、自分自身が天界の楽園にやって来る、白い衣服を着て、永遠のいのちを享受することになる、と信じないのか?
(4)高位聖職者のだれが、死のうとしている者にこのようなことかまたは同様なことを言わないか?そのことを言うとき、同時に最後の審判について考えていないとすれば、その者自身も信じている。
(5)だれが自分の幼児が天界にいること、そして愛した自分の配偶者が死後に自分自身にやって来ることを信じないか?
〔彼らが〕幽霊である、まして宇宙の中を飛ぶ霊魂または心である、とだれが考えるのか?
(6)時間から永遠のいのちの中に移った彼らの運命と状態についてあることが言われるとき、だれが反駁するのか?
私は、このような状態と運命が彼らにまた彼らにある、と多くの者に言いました。また今でも私は、ある者が、「彼らの運命は今でも何も定まっていない、しかし将来の審判の時に定まる」と言うのを聞いていません。
(7)天使の絵や刻んだものを見るとき、だれが彼らをそのようなものであると認めないか?その時、学識のある者たちのように、身体のない、空気または雲の霊である、とだれが考えるのか?
(8)ローマカトリック教徒は、自分たちの聖徒が天界の中で人間である、そして他の者はほかの場所にいる、と信じている。イスラム教徒は自分たちの死んだ者たちを、アフリカ人たちは他の者よりも、同様に多くの国民は〔信じている〕。みことばからそのことを知っている改革派教会のキリスト教徒が信じないのは、何なのか?
(9)ある者が不死の名声を求めることもまた、それぞれの者に植え付けられているからである。というのは、その認識はある者のもとで、戦いの中の英雄や勇者とするようなものに変えられるから。
(10)すべての者にその認識が植え付けられているか、霊界で調べられた。そして、すべての者に、思考の内なるものである彼らの霊的な観念の中に植え付けられていて、思考の外なるものである彼らの自然的な観念の中でないことが知られた。

これらから、人間が死後に生きることは今、初めて明らかにされたことであると考えることから、神的な摂理に反する疑いを推断してはならないことを、明らかにすることができます。
信じるものを見ること、触れることを欲するものは人間の感覚的なものだけです。その感覚的なものを超えて考えない者は、自分のいのちの状態について夜の暗やみの中にいます。

神の摂理

274◀︎目次▶︎276

(9)悪は救う目的のために許されている

275 もし人間が愛の中に、その愛の中に創造され、生まれていたなら、何らかの悪の中にいなかったでしょう、それどころか、何が悪か知らなかったでしょう。なぜなら、悪の中にいなかった者は、ここから悪の中にいない者は、何が悪か知ることができないからです。もし、これやそれやが悪である、と言われても、ありえることを信じません。
この状態が無垢の状態であり、その中にアダムと彼の妻エバがいました。彼らが恥じなかった裸はその状態を意味しました。
善悪の知識の木から食べることによって、堕落後の悪の認識が意味されます。
自分自身に欲するように隣人に善くあるようにと欲し、さらに、幼児に対する両親にある愛とほとんど異ならない愛の楽しさの中にいることを欲するような愛の中に人間は創造されました、それは隣人愛です。
この愛は真に人間らしいものです。なぜなら、その中に霊的なものがあり、それによって獣にある自然的な愛から区別されるからです。
人間がその愛の中に生まれていたなら、現在のすべての人間のように無知の暗黒の中に生まれず、すぐにも、知識とそこからの知性である光の中にやって来たでしょう――確かに最初は四足獣のように這います、しかし、足の上に自分自身を立たせる生来のコナトゥスが伴っています。なぜなら、〔人間は〕四足獣に〔似ているに〕もかかわらず、それでも、顔を下方へ、地へ向けて下げないで、前方へ、上の方へ、天へ向けることまたできるように、立つからです。

神の摂理

275◀︎目次▶︎277

276 しかし、隣人愛が自己愛へ逸れ、この愛が大きくなった時、人間の愛は動物の愛へ逸れました。人間は、身体で感じるものを考えることができ、あるものを他のものから理性的に区別し、教えられ、そして市民的で道徳的な人間に、最後に霊的な人間になることができるという相違とともに、人間から獣になりました。
なぜなら、言われたように、人間に霊的なものがあり、それによって獣から区別されるからです。というのは、それによって、何が市民的な悪と善か、なおまた何が道徳的な悪と善か、そしてまた、もし欲するなら、何が霊的な悪と善か知ることができるからです。
隣人愛が自己愛に逸れた時、人間はもはや知識と知性の光の中でなく、無知の暗黒の中に生まれましたが、それは、身体の感覚による認識力と呼ばれるいのちの最外部の面の中に生まれ、それにより、常に霊的なものが附随して、自然的な心の内的なものの中に教えを通して導き入れられることができるからです。
身体の感覚による認識力と呼ばれるいのちの最外部の中に、それゆえ、無知の暗黒の中に生まれる理由は続くものの中に見られます。
[2]隣人愛と自己愛が正反対の愛であることは、それぞれの者が知ることができます。というのは、隣人愛は自分自身からすべての者がよいようにと欲しますが、自己愛はすべての者から自分自身だけがよいようにと欲するからです。隣人はすべての者に仕えることを欲し、自己愛はすべての者が自分に仕えるようにと欲します。隣人愛はすべての者を自分の兄弟や友として眺めます、けれども、自己愛はすべての者を自分の召使いとして眺め、召使いとして行動しないなら、自分の敵として眺めます。1言でいえば、自分自身だけを眺め、他の者をほとんど人間として眺めないで、その者を心では自分の馬や犬よりも低く評価します。彼らをこのように低く見るので、彼らに悪いことすることもまた何とも思いません。憎しみと復讐、姦淫と淫行、盗みと欺瞞、うそと中傷、凶暴と残酷、またその他同様なものはここからです。
これらが悪であり、人間は生来からそれらの中にいます。
それらが救う目的のために許されていることは、次の順序で示されるべきです――

(1)すべての人間は悪の中にいる、改心されるためには悪から導き出されなくてはならない。
(2)悪は、見られないなら、遠ざけられることができない。
(3)悪は、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ許される。
(4)このように、悪の許しは目的のために、救いのためにある。

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276◀︎目次▶︎277b

277a (1)すべての人間は悪の中にいる、改心されるためには悪から導き出されなくてはならない
それぞれの人間に遺伝の悪があること、人間はその悪から多くの悪の欲望の中にいることは、教会の中でよく知られています。ここから、人間は自分自身から善を行なうことができません。というのは、悪は善を行なわない、〔行なうにしても〕悪が内在するような善であるからです。内在する悪は、自分自身のために善を行なうもの、こうして見られるためだけのものです。
その悪が両親からの遺伝のものであることはよく知られています。
アダムと彼の妻からであることが言われますが、しかし、このことは誤りです。というのは、それぞれの者が自分の両親からその悪の中に生まれており、これはその両親から、これもまたその両親からのものであるから。こうして継続的に、ある者から他の者へ引き継がれ、このように増やされ、堆積するかのように増大し、子孫にもたらされます。
ここから、人間のもとに汚れのないものは何もなく、しかし、すべての点で悪です。
自分自身を他の者にまさって愛することが悪であるとだれが感じますか?
ここから、だれが悪であることを知りますか?そのとき、それでも悪の源です。
[2]遺伝は両親、祖父、先祖からであることは、世で知られている多くのことから明らかです、例えば、顔だけから、家族、一族、それどころか国民が区別されます。そして、顔はアニムス(気質)の象徴であり、アニムスは愛のものである情愛にしたがっています。
時々、先祖の顔が孫やひ孫の中に戻ります。
私は顔だけからユダヤ人であるかないか、他の者もその1族の者であるかないかを知ります――私でなくても、疑いなく同様に知るでしょう。
愛のものである情愛が、両親からこのように運ばれ、移されるなら、情愛のものである悪にもまた、このことがいえます。
しかし、その似ていることがどこからか、今、述べます。
[3]それぞれの者の霊魂は父からであり、母からは単に身体を着せられます。
霊魂が父からであることは、今、前に話しに出されたそれらからだけでなく、他のしるしとなる多くのことからいえます。さらにまた、黒い者すなわちムーア人から、白い者すなわちヨーロッパ人の女を通して、その幼児は黒い者が生まれること、またその逆のことからもいえます。特に、精子に霊魂が内在すること〔からいえます〕、なぜなら、その精子から受精し、そして母から身体を着せられるからです。
精子は、その中に父がある愛の最初の形です。最も近い派生物とともに、彼の支配愛の形であり、それらはその愛の最内部の情愛です。
[4]これらの情愛は、それぞれの者のもとで道徳的な生活のものである体面で、そして一部は道徳的ないのちであり、一部は霊的ないのちのものである善で周囲を包まれています。これらのものが、悪い者のもとでもまた、いのちの外なるものをつくります。
この外なるいのちの中にすべての幼児は生まれており、愛らしいのは、ここからです。しかし、少年になるかまたは成長するに応じて、その外なるものから内的なものへ、最後に自分の父の支配愛へやって来ます。それがもし悪であり、また教育する者による手段を通して和らげられ、曲げられなかったなら、彼の愛は彼の父のもののようになります。
しかしそれでも、悪は根絶されないで、遠ざけられるだけですが、そのことについて続きの中で述べます。
これらから、すべての人間は悪の中にいることを明らかにすることができます。

神の摂理

277a◀︎目次▶︎278a

277b 人間が改心されるために悪から導き出されなくてはならないことは、説明なしに明らかです――なぜなら、世の中で悪の中にいる者は、世から出た後も悪の中にいるからです。それゆえ、悪が世の中で遠ざけられないなら、その後に遠ざけられません。
木は倒れた場所に、そこに横たわります。
そのように、人間のそれぞれの者のいのちは死んだときどのようであったかによって、そのように残ります――さらにまた、それぞれの者が自分の行為にしたがって裁かれます。〔裁かれるときに〕その行為が列挙されるのではありません、その行為に戻るので、同様に行なうのです――なぜなら、死は、人間がその時には改心されることができない、という相違とともに、いのちの連続であるからです。
すべての改心は、完全に、すなわち、最初のものの中と同時に最後のものの中で生じます。最後のものは世の中で最初のものにふさわしく改められ、その後、改められることはできません。人間のいのちの最後のものは活動をやめ、死後に生ずる彼の内なるものと調和して行動します。すなわち、一つとして働きます。

神の摂理

277b◀︎目次▶︎278b

278a (2)悪は、見られないなら、遠ざけられることができない
悪が見られる目的のために、人間がその悪を行なわなくてはならないことを意味するのではなく、もし法律や悪評を恐れないなら何を行なうか、自分の行為だけでなく、自分の考えていることもまた調べなければならないことが意味されます。特に、自分の霊の中で、どの悪を許され、罪と見なさないとしているかです。なぜなら、それでもこれらを行なうからです。
何が善で何が悪か、知り、理解し、認める目的のために、なおまた自分の意志がどんなものか、すなわち、何を愛し、何を望むかを知り、人間が自分自身を調べるために、彼に理解力が与えられ、それは意志から分離されています。
人間がこのことを見るように、彼の理解力に、高い思考と低い思考、すなわち、内的な思考と外的な思考が与えられ、高い思考と低い思考の中で意志が何を働くか、低い思考または高い思考の中で見るようにされています。このことを人間は鏡の中の顔のように見、これを見るとき、何が罪であるかを知り、それを欲しないこと、それを避けること、その後、それに反して行なうことを、主に助けを切願するなら、もし自由にでないなら、それでも闘争を通してそれを強いるようにして、ついにはそれを追い払い、忌み嫌うことができます。その時、初めて、悪が悪であること、そして善が善であることを、以前にではなく知覚し、また感じもします。
そこで、このことが自分自身を調べ、自分の悪を見、それらを認め、それらを告白し、その後、それらから離れることです。
しかし、これがキリスト教そのものであり、彼らにだけ仁愛と信仰があり、彼らだけが主から教えられ、その方から善を行ない、そのことを知っている者がわずかであるので、そのことを行なわず、それでも自分自身のもとに宗教があると考える者について、いくらか述べます。
彼らは次の者です――

(1)自分自身にすべての罪があることを告白しても、何らかのものが自分自身のもとにあるか調べ ない者。
(2)宗教から調べることを放棄する者。
(3)世俗的なことのために罪について何も考えず、ここからそれらを知らない者。
(4)それらの罪に好意をもち、それゆえ、それらを知ることができない者。
(5)それらすべての者のもとに罪は見られない、それゆえ、遠ざけられることができない。
(6)最後に、それらの罪の調査、出現、承認、告白、そして抵抗なしに、なぜ悪が遠ざけられることができないか、今まで知られていないことの理由が明らかにされる。

神の摂理

278a◀︎目次▶︎279

278b しかし、これらは、人間の側からのキリスト教の主要なものであるので、その細目は個々に調べられなければなりません。
第一――自分自身にすべての罪があることを告白しても、何らかのものが自分自身のもとにあるか調べない者について
彼らは、「私は罪人である。私は罪の中に生まれている。私の中に正しいところは頭からかかとまで何もない。私は悪でしかない。善き神よ、私に好意をもってください、私を許し、清め、救い、私が清廉の中を、正しい道の中を歩くようにしてください」、また多くの同様のことを言います。それでも自分自身を調べず、ここから何らかの悪を知りません。知らないことを避けること、ましてそれに対して戦うことはだれもできません。
そしてまた彼は、告白の後、自分自身が洗われ、清潔であると信じます、そのとき、それでも頭から足の裏まで不潔で汚れています。というのは、罪の告白はすべて、すべての者を眠らせ、ついに盲目にし、個々のもののない全般的なもののようであり、それは何ものでないからです。
[2]第二――宗教から調べることを放棄する者について
彼らは特に信仰から仁愛を分離する者です。というのは、自分自身に、「なぜ、私は悪あるいは善であるか、調べるのか?悪が私を断罪しないとき、なぜ?善が私を救わないとき、なぜ?信頼と信任とともに、考えていることと言辞の信仰だけが、義とし、すべての罪から清める。私がいったん義とされたとき、神の前に私は正しい。私は確かに悪の中にいる、しかし、行なうときすぐさま、神はそれをぬぐい取られ、このようにもはや見られない」、他にも同様のことを言うからです。
しかし、目を開けるなら、このようなものは、それらに善が何もないので、物事に何も内在しない狂った言葉であることを、だれが見ませんか?
そのとき同時に地獄についてと永遠の断罪について、さらにまた信頼と信任とともに、だれがそのように考え、話すことができますか?
このような者が、真理あるいは善である何らかのものを、さらに知ることを欲しますか?
真理について、「信仰が真理を確信するものでないなら、何が真理か?」と言い、善については、「その信仰から私の中にあるものでないなら、何が善か?しかし、〔その善が〕私の中にあるために、私はそれを私からのようにはしない、それは功績のものである。功績の善は善ではないからである」と言います。
このようにすべてのものを、何が悪か知らないまでも放棄します。その時、何を自分自身のもとで調べ、見るのですか?
その時、彼の状態は閉じ込められた悪の欲望の火が彼の心の内なるものを焼きつくし、門まで破壊することになりませんか?
この門だけが火事が見られないように守っています。しかし、死後に〔その門が〕開かれ、その時、すべての者の前で見られます。
[3]第三――世俗的なことのために罪について考えず、ここからそれらを知らない者について
世をすべてにまさって愛する者、自分たちを宗教の虚偽から導き出す何らかの真理を許容しない者がいます。自分自身に、「これは私にとって何か?私の考えることではない」と言って、その真理を聞くとき、このようにそれをただちに退け、もし聞くなら、それを窒息させます。
説教を聞くときも、ほとんど同様に同じことを行ないます。何らかの主題でなく、それらから何らかの言葉以上の多くのものは心に留めません。
このように真理に行なうので、それゆえ、何が善か知りません、というのは〔真理は善と〕一つとして働き、真理からでなく、善と言われるようにしなくては、善から悪は知られないから。この〔知られなくなる〕ことは虚偽からの論証によってなされます。
これらの者が、いばらの間に落ちた種によって意味される者であり、彼らについて主は次のように〔言われています〕――

別の……種は、いばらの中に落ちた。いばらが成長し、それをふさいだ……。これらの者が、みことばを聞いても、この世の関心事と富のごまかしが、みことばをふさぎ、実を結ばないようにする者です(マタイ13:7, 22, マルコ4:7, 19, ルカ7, 14)。

[4]第四――罪に好意をもつ、それゆえ、それらを知ることができない者について
これらの者は神を認め、その方を習慣的な儀式にしたがって礼拝し、また自分自身のもとで、罪である何らかの悪を、罪ではないと確信する者です。というのは、それを欺きと外観で偽装し、このように彼の極悪を隠すから。〔このことを〕行なうとき、それに好意をもち、そしてそれを自分自身の友や親しい者とします。
神を認める者がこのことを行なう、と言われるのは、他の者たちは何らかの悪を罪として見なさないからです、というのは、神に反しているすべてのものが罪であるからです。
しかし、例で説明します。
利益への欲望は悪を罪でないとし、その欲望をもつ者は何らかの種類の詐欺を、考え出した論証から、許されるものにします――同様に、復讐を敵に対して、自分自身のもとで確信して、行ないます。その者は、戦いの中で敵でない者の略奪を行ないます。
[5]第五――彼らのもとに罪は見られない、それゆえ、遠ざけられることができない
見られないすべての悪は、それ自体で燃えています。灰の下の木材の中の火のようです。開かれない傷の中の膿のようです。なぜなら、すべてのふさがれた悪は増大し、全体が滅ぼされないうちは、終わらないからです。それゆえ、何らかの悪がふさがれないように、それぞれの者に、神を選ぶかまたは神に反して、教会の聖なるものもまた、それに賛成するかまたはそれらに反して考えることが許されており、世の中でこのために打って罰せられません。
このことについて、主は「イザヤ書」で次のように〔言われています〕――

足の裏から頭まで……健全なところはない、傷と傷あと、新しい打撃、絞り出されず、包帯されず、油で和らげられていない……。あなたがたを洗え、清めよ、わたしの目の前から、あなたがたの悪意の働きを遠ざけよ。悪を行なうことをやめよ。善を行なうことを学べ。……その時、たとい、あなたがたの罪が緋色のようであったにしても、雪のように白くなる。たとい、赤色が紫のようであったにしても、羊毛のようになる。もし、あなたがたが拒み、そむくなら、あなたがたは剣で食べられる(イザヤ1:6, 16, 17, 18, 20)。

剣で食べられること」は悪の虚偽で滅びることを意味します。
[6]第六――それらの調査、出現、承認、告白、そして抵抗なしに、なぜ悪が遠ざけられることができないか、今まで閉ざされていた理由
前に、全天界は善の情愛に、全地獄は善に対立する悪の情愛の欲望にしたがった社会に配列されていることが話に出されました。
それぞれの人間は自分の霊に関して何らかの社会の中に、善の情愛の中にいるなら天界の社会の中に、しかし、悪の欲望の中にいるなら地獄の社会の中にいます。
このことを人間は世の中で生きるとき知りません、しかし、それでも自分の霊に関して何らかのものの中にいます。そのことなしに生きることができません、そのことによって主により支配されています。
もし、地獄の社会の中にいるなら、主によりその方の神的な摂理の法則にしたがってでないならそこから連れ出されることができません。それらの法則には、人間がそこにいることを見るためのもの、出ることを欲するためのもの、そして自分自身からそのことを努力するためのものがあります。
人間が世の中にいるとき、このことをあなたはできます、けれども死後はできません。というのは、その時、世の中でその社会の中に自分自身を入れ、永遠に留まるからです。
これが、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見、認め、そして悔い改めを行ない、その後、いのちの終わりまで〔そのことを〕続けなければならない理由です。
そのようであることは、多くの経験によって私は十分な信念にまで確信することができました。しかし、ここは〔その〕経験の実例を提示するところではありません。

神の摂理

278◀︎目次▶︎280

279 3)悪は、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ許される
〔第一〕悪は赦された時、人間から分離された、それどころか追い出された、と信じることは――〔第二〕人間のいのちの状態は、瞬間に正反対のものに変えられ、このように悪から善になること、したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができ、このことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りです。
〔第三〕しかし、そのように信じ、信念を抱く者は、何が悪で何が善か、人間のいのちの状態について、何も知りません。〔第四〕また、それは意志に属する情愛が心の有機体の純粋で実体の変化と相違の状態にほかならないこと、理解力に属する思考がそれらの形の変化と相違にほかならないこと、記憶がこれらの変化のとどまっている状態であることをまったく知りません。
これらやそれらの知識から、何らかの悪は連続的にでないなら遠ざけられることができないこと、悪の赦しはその移動(遠ざけること)ではないことを明らかに見ることができます。
しかし、要約して言われたこれらのものは論証されないなら、認められることができても、理解されません。理解されないことは、手で回転させる輪のようなものです――それゆえ、前述のことをその提示された順序で、一つずつ論証しなければなりません。
[2]第一――悪は赦された時、人間から分離された、それどころか追い出された、と信じることは現代の誤りである
すべての悪は、人間はその中に生まれ、人間自身が実際に浸っており、人間から分離されませんが、しかし、見られないようにまでも遠ざけられていることが、私に天界から知ることが与えられました。
以前、私は、悪は赦される時、追い払われ、汚れのように顔から水によって洗い落とされ、ぬぐい取られる、という信念の中にいました。世の中の大部分の者もその信念の中にいます――しかし、〔このことは〕悪または罪と似ていません、そのすべてのものは残ります。悔い改めの後で赦されるとき、中心から脇へ押し進められます。その時、中心にあるものは、視覚の下のすぐ近くにあるので、いわば日の光の中に見られ、脇にあるものは、陰の中に、時々、夜の暗やみの中にあるように見られます–悪は分離されないで、しかし、単に遠ざけられる、すなわち、脇へ追放されるので、人間は中心から周囲に移されることができ、その悪が追い払われたと信じるとき、戻ることもできます――というのは、人間は、ある情愛から他の情愛の中に、また時々、正反対のものの中に、このようにある中心から他の中心にやって来ることができるようなものであるからです。人間の情愛は、その中にある間、中心を構成します。というのは、その時、その快さの中に、またその光の中にあるからです。
[3]よく生きたので、死後、主により天界に上げられましたが、しかし、それでも、自分自身に、罪からきれいにされ、清められている、またそれゆえ、何らかの罪の中にない、という信念を抱いた人間がいます。
この者たちは最初、彼らの信仰にしたがって白い衣服を着せられます、というのは、白い衣服は悪から清められた状態を意味するから。しかし、その後、世の中でのように、すべての悪から洗って清められており、またここから、もはや他の者のような罪人ではないと思い、誇り始めます。ある心の高まりから、また自分自身よりも他の者へのある種の軽蔑から、ほとんど分離されることができません。それゆえ、その時、想像上の自分の信念から遠ざけられるようにと、天界から追い払われ、自分の悪の中へ送り返され、同時に彼らに、以前には知らなかった遺伝悪の中にもいることが示されます――このように彼らの悪が自分たちから分離されていないで、しかし、ただ遠く離れていること、このように自分自身からは不潔であること、それどころか悪でしかなく、主により悪から押しとどめられ、そして善の中に保たれていること、このことは彼らに自分自身からのように見えることを認めるようにさせられた後、再び、主により天界の中へ上げられました。
[4]第二――人間のいのちの状態は瞬間に変えられることができること、このように悪から善になること、したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができ、このことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りである
仁愛を信仰から分離し、信仰のみの中に救いを置く者は、この誤りの中にいます。なぜなら、その信仰から思考と言葉の発言だけが、もし信頼と信任とともに行なわれるなら、義とし、救う、と思い、多くの者もまた、人間のいのちの最期の瞬間に、もし以前にでないなら、それに近い時に起こると見なすからです。
これらの者は、人間のいのちの状態が瞬間に変えられるとしか、人間は直接の慈悲から救われるとしか信じることができません。
しかし、主の慈悲は直接のものではないこと、人間は悪から瞬間に善になることができないこと、また地獄から連れ出され天界の中に移されることは、幼児期から人間のいのちの最期まで、絶え間ない神的な摂理の働きによってでないならできないことは、本書の最後の章に見られます〔332番〕――ここでは、神的な摂理のすべての法則は、改心を、したがって人間の救いを、そのように、地獄に生まれている彼の状態を、正反対のものである天界のものに逆転させることを目的としてもち、人間が悪とその快さから退き、そして善とその快さの中に入るに応じて累進的にでないなら行なわれることができないことだけを述べておきます。
[5]第三――そのように信じる者は、何が悪で何が善か、何も知らない
というのは、悪は神的な秩序に反して行ない、考える欲望の快さであること、善は神的な秩序にしたがって行ない、考える情愛の快さであること、それぞれの悪に入り、構成する無数の欲望があること、同様にそれぞれの善に入り、構成する無数の情愛があること、人間の内的なものの中にこれら無数のものは、同時にすべてのものが変えられないなら一つも変えられることができないような秩序と結びつきの中にあることを知らないからです。
このことを知らない者は、ただ一つの悪が彼らの前に、容易に遠ざけられるように見られ、ただ一つのものに見られる善が、それに代わって持ち込むことができる、と信じるかまたはその見解を抱きます。
これらの者は、何が悪かまた何が善か知らず、瞬間の救いや直接の慈悲が存在する、という見解を抱くことしかできないからです。しかし、ありえないことは、本書の最後の章に見られます〔338番〕。
[6]第四――瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者は、意志のものである情愛が心の有機体の純粋な実体の変化の状態にほかならず、理解力のものである思考がそれらの形の変化と相違にほかならず、記憶がこれらの変化の残存している状態であることを知らない
情愛と思考は実体とその形の中でないなら存在しないこと、主体である脳の中に存在するので、それは純粋な有機体の形と呼ばれる実体と形に満ちている、と言われる時、だれがそのことを認めませんか。
理性的に考える者ならだれも、情愛と思考は実体の主体の中になく、空気やエーテルの中の映像に見られるような熱と光により変えられた発散物であるといったある種の幻想を笑うことしかできません。そのとき、それでもなお、視覚がそれ自体のものである目から、聴覚がそれ自体のものである耳から、味覚がそれ自体のものである舌から分離して存在するがことできないように、それ以上に思考は実体的な形から分離して存在することができません。
脳を眺めなさい、するとあなたは、無数の実体を、同様に繊維を、そこに有機的にまとめられていないものは何もないことを見ます。その目に見えるもの以外に、他の証拠の何が必要とされますか?
[7]しかし、「そこの何が情愛か、何が思考か?」と質問されます。
このことは身体の中のすべてと個々のものから証明されることができます。そこに多くの内臓があり、その個々のものは自分の固定した位置にあって、その機能を状態と形の変化と相違によって働かせています。胃はそれ自体の働きの中に、腸はそれ自体の働きの中に、腎臓、肝臓、膵臓、脾臓はそれ自体の働きの中に、心臓と肺はそれ自体の働きの中にあることは、よく知られています。すべてのこれらの働きは内部だけで働いており、そして、状態と形の変化と相違によって内部で働いています。
ここから、心の有機体の純粋な実体の働きが、身体の有機体の実体の働きが自然的である相違とともに、心のものは霊的である以外の他のものではないこと、これら〔心と身体のもの〕は対応によって一つとなっていることを明らかにすることができます。
[8]情愛と思考である心の有機体の実体の状態と形の変化と相違がどんなものであるか、目に示すことはできません。しかし、それでも話すことと歌の中で、肺の状態の変化と相違から、鏡の中のように見られることができます。そこにもまた対応があります。なぜなら、話すことや歌の音は、音節に区切ることは、それらは話すことの声と歌の調子ですが、肺によって行なわれ、そして音は情愛に、話すことは思考に対応するからです。
さらにまた、それらから生み出され、このことは肺の中で、肺から気管または喉笛を通して咽頭や声門の中で、その後、舌で、最後に口の唇で、有機体の実体の状態と形の変化と相違によって行なわれます。
音の状態と形の変化と相違は、最初のものは肺から、第二のものは気管と咽頭の中で、第三のものは声門の中で、その口をいろいろと開けることによって、第4のものは舌で、口蓋や歯へそのいろいろな適用によって、第五のものは口の唇で、いろいろな形によって行なわれます。
これらから、有機体の形の状態の変化と相違にほかならないものが、連続的に続けて、話すことと歌である音とそれらの音節に区切ることを生み出していることを明らかにできます。
そこで、音と話すことは心の情愛と思考から以外の他のところから生み出されないので、なぜなら、これらからそれらは存在するようになり、それらなしに決して生み出されないから、意志の情愛は心の有機体の純粋な実体の状態の変化と相違であること、理解力の思考はそれらの実体の形の変化と相違であることが、肺のものと同様に明らかです。
[9]情愛と思考は心の形の状態の変化にほかならないので、記憶はその残存している状態でしかないことがいえます。なぜなら、有機体の実体の中のすべての変化と相違は、いったん吸収したものは残るようなものであるからです。このように、肺で吸収され、気管または喉笛の中でいろいろな音を生み出し、そして声門の中でそれらを変化させ、舌でそれらを音節に区切り、唇でそれらを少し変えます。それらの器官はいったん教え込まれる時、それらの中で、再現されることができます。
それらの変化と相違が、心の有機体の中で、身体の器官の中よりも無限に完全であることは、著作『神の愛と知恵』の中で言われていることから明らかであり(199-204番)、そこに、すべての完全性は段階とともに、それらの段階にしたがって増大し、上昇することが示されています。これらについて多くことが後で見られます(319番)。

神の摂理

279◀︎目次▶︎281

280 罪は赦されるとき、遠ざけられる、とすることもまた現代の誤りです。
聖餐によって自分自身に罪が赦されていると信じる者は、その誤りの中にいます、それでもその罪を自分自身から悔い改めによって遠ざけていません。さらに、信仰のみによって、他にまた教皇の特免状によって救われることを信じる者もまたその誤りの中にいます――すべてのそれらの者は、直接の慈悲を、瞬間の救いを信じています。
しかし、このことがひっくり返されるとき〝真理〟が生じます、すなわち、罪が遠ざけられるとき、さらにまた許されることです。というのは、悔い改めは赦しに先行し、悔い改めなしに決して赦しはないからです――それゆえ、主は弟子たちに次のように命じられました、

らは、罪の赦しへ向けて悔い改めを宣べ伝えた(ルカ24:47)。
ヨハネは……罪の赦し へ向けて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた(ルカ3:3)。

主はすべての者にその罪を赦され、責められず、帰されません。しかし、それでも、ご自分の神的な摂理にしたがってでないなら、その罪を取り去ることがおできなりません。なぜなら、ペトロが兄弟の罪の中に対して、「その度ごとに〔許さなければなりませんか〕、七度ですか」と質問したときに〔そのとき主は〕言われているから、

わたしはあなたに七度までとは言いません。しかし、七度だけでなく、七度〔を〕七十回〔許します〕(マタイ18:21, 22)。

慈悲そのものであられる主が〔そのとき〕何を〔なされ〕ないか?

神の摂理

280◀︎目次▶︎282

281 (4)このように、悪の許しは、救いという目的のためにある
人間は、考え、意志する完全な自由の中にいます、しかし、何でも考え、意志することを話し、行なう完全な自由の中にいないことは、よく知られています。
というのは、無神論者のように考え、神を否定し、みことばと教会の聖なるものを冒涜すること、それどころか、それらを話すことと行なうことを欲することができ、それらをなくすまでに滅ぼすことができるから。しかし、このことを市民の法、道徳の法、教会の法が抑制します。それゆえ、内部にそれらの不信心なものや邪悪なことを考え、意志しよう、そしてまた意図しようと抱きますが、しかしそれでも、行なおうとしません。
無神論者ではない人間もまた、悪である多くのものを考える完全な自由の中にいます、例えば、欺き・みだらなこと・復讐・他の気違いじみたことであり、さらにまた時々は行ないます。
完全な自由が人間になかったなら、救われることができないだけでなく、全面的に滅んだであろうことを、だれが信じることができるでしょうか?
[2]そこで、理由を聞きなさい――
すべての人間は多くの種類の悪の中に生まれています。それらの悪は彼の意志に内在します。意志に内在するものは、愛されます。なぜなら、人間が内的なものから意志するものは、これを愛し、愛するものを意志し、意志の愛は理解力の中に流入し、ここから思考の中に、そしてまた意図の中にやって来るものを、そこに、その快さのように感じられるものをひき起こすからです。
それゆえ、人間に遺伝から植え付けられている自分の意志の愛にしたがって考えることが許されないなら、その愛は閉じ込められて残り、決して人間の視野の中にやって来ません。待ち伏せする敵、潰瘍の中の膿、血液の中の毒、胸の中の腐敗のように、悪の愛は見られません。それらは閉じ込められて保たれるなら、死をひき起こします。
しかし、人間に自分のいのちの愛の悪を、その意図までも考えることが許されるとき、それらの悪は、病気が自然的な手段によって治療されるように、霊的な手段によって癒されます。
[3]もし彼に自分のいのちの愛の快さにしたがって考えることが許されないなら、人間がどんなものになるか、今、述べます。
自主性と推理力と呼ばれる二つの能力は滅ぼされ、もはや人間ではありません。それらの二つの能力の中に人間性そのものがあります。悪の快さは扉を閉ざすようにまでも、彼の心の内的なものを占め、その時、それらの悪に似たものしか話し、行なうことができません。したがって、自分自身だけでなく、世の前でもまた狂い、ついには陰部を隠すことすら知りません。
しかし、このようなことが起こらないように、彼に自分の遺伝悪を考え、意志することが確かに許されています、しかしそれらを話し、行なうことは許されません。そしてその間に、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものを学び、それらもまた彼の思考に入り、それらの狂気を遠ざけ、それらを通して主により癒されます。しかし、それでも、神もまた認め、それらの悪に抵抗することができるようにその方の助けを嘆願しないなら、扉を守ること以上に知ることはありません――その時、抵抗すればするほど、それだけそれらの悪を、意図の中に、最後には思考の中にも入れません。
[4]そこで、人間には、彼のいのちの愛が自分の隠れ場から彼の理解力の光の中に現われる目的のために、自由の中で好むように考えます。そうでなければ自分の悪について何らかのものを、したがってその悪を追い払うことを知らないので、その悪は、彼のもとで回復の余地が残らないようにまで、その者に子どもが生まれているなら、その子どものもとでほとんどその余地がないほどに増えることがいえます。なぜなら、両親の悪は子孫の中に伝えられるからです。
しかし、このことが起こらないように、主は備えられています。

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281◀︎目次▶︎283

282 主は、すべての人間のもとの理解力を癒すこと、したがって悪いことでなく善いことを考えるようにし、このことをいろいろな恐れ・奇跡・死者との会話によって、また幻と夢によっておできになりました。しかし、単に理解力を癒すことは、外面上だけで人間を癒すことです。というのは、理解力は彼の思考とともに人間の外なるいのちであり、そして意志は彼の情愛とともに彼の内なるいのちであるから。それゆえ、理解力だけの癒しは一時しのぎの治療であって、閉じ込められ、ふさがれた内的な有害なものが出てきて、最初は近くのもの、その後に遠くのもの、すべてのものが壊死するまで滅ぼします。
癒されなくてはならないものは意志そのものであり、その中へ理解力の流入によってではなく、それは存在しないからであり、理解力からの教えと刺激によってです。
もし、理解力だけが癒されるなら、人間は防腐処理のされた、すなわち、よい香りの芳香物や、バラでまわりをおおわれた死体のようなものとなるでしょう、そのうち、その死体からは鼻を近づけることができないような腐臭が出てきます。意志の中の悪の愛がふさがれたなら、理解力の中の天界の真理はこのようなものになるでしょう。

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282◀︎目次▶︎284

283 悪を考え、それを意図するまでも人間に許されるのは、〔前に〕言われたように、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものによって遠ざけられるためです。このことは、公正と平等に反し、体面や似つかわしさに反し、善と真理に反し、このように生活の静穏・快さ・幸運に反していると考えているとき、生じます。
それらの三つのものによって、確かに最初は恐れによって、その後、愛によって、主は人間の意志の愛を癒されます。
しかしそれでも、悪は人間から分離されず、追い出されません、しかし、単に遠ざけられ、脇へ追い払われるだけです。善が中央にある時、悪は見られません。というのは、何でも中央にあるものは、これは真っすぐ前方に凝視のもとにあり、そして見られ、知覚されるからです。
しかし、たとえ善が中央にあっても、それでも人間は、脇にある悪が下方または外へ向かっているのでないなら、それゆえに善の中にいないことを知らなければなりません。もし、悪が上方または中へ向かって眺めているなら、遠く離れていません、なぜなら、やはり中央へ戻ろうと努力するからです。
人間が自分の悪を罪として避ける時、その悪を退ける時はなおさら、その悪は下方または外へ向かい、眺めます。なぜなら、その時、その悪を断罪し、地獄へと呪い、そしてそこを眺めるようにさせるからです。

神の摂理

283◀︎目次▶︎285

284 人間の理解力は、善も悪も、また真理も虚偽も受け入れるものです。けれども、人間の意志そのものは受け入れません。意志は悪の中かまたは善の中になくてはなりません。両方にあることはできません。なぜなら、意志は人間そのものであり、そこに彼のいのちの愛があるからです。
けれども、善と悪は理解力の中で、内なるものと外なるもののように分離しています。ここから人間は内部で悪の中に、外部で善の中にいることができます――しかしそれでも、人間が改心するとき、善と悪は集められ、その時、衝突と争いが存在するようになり、それは深刻であるなら、試練と呼ばれ、そして深刻でないなら、ワインまたはビールが発酵するようなものになります。
その時、善が勝つなら、悪は自分の虚偽とともに脇へ遠ざけられ、比べれば、おりのように容器の底に沈みます。そして、善は発酵後の優良銘柄のワイン、透き通るビールのようになります。
しかし、悪が勝つなら、その時、善は自分の真理とともに脇へ遠ざけられ、濁って、きたない、発酵しきっていないワイン、発酵しきっていないビールのようになります。
酵母(パン種)に譬えたのは、みことばの中の「パン種」は悪の虚偽を意味するからです(例えば、ホセア7:4、ルカ12:1、また他の箇所に)。

神の摂理

284◀︎目次▶︎286

(10)神的な摂理は、等しく善い者と悪い者のもとにある

285 それぞれの人間のもとに、善い者にも悪い者にも二つの能力があり、一つは理解力を、もう一つは意志をつくっています。
理解力をつくっている能力は、理解し、考えることができるものです。ここからこの能力は推理力と呼ばれます――意志をつくっている能力は、理性または推理力に反していないかぎり、考えること、ここから自由に話すことと行なうことができる能力です。というのは、自由に行動することは、欲するたびごとに、欲するように行動することであるからです。
これらの二つの能力は、人間が考え、行なうすべてと個々のものの中に最初から最後まで連続して永続し、またそれらの能力は、人間に自分自身から内在せず、人間のもとに主からあるので、それらの能力の中にもまた主が現在されるとき、理解力と思考の中に、なおまた意志と情愛の中に、ここから話すことと行動の個々のもの、それどころか人間の最も個々のものの中にあることがいえます。
何らかの最も個々のものからそれらの能力を取り除いてみなさい、するとあなたは人間としてそれを考えることも話すこともできなくなります。
[2]人間はそれらの二つの能力によって人間であり、市民的なものと道徳的なものだけでなく、霊的なものもまた考え、話すことができ、善を知覚し、真理を理解し、そして改心し、再生することができます、一言でいえば、主と結合され、そのことによって永遠に生きることができます、このことは前に多くのものによって、なおまた、それら二つの能力は、善い人間だけでなく、悪い人間にもまたあることが示されています。
そこで、それらの能力は主から人間のもとにあるので、人間に自分のものとされません(というのは、神性は人間に自分のものとされることができず、しかし、神性に結び付けられることができ、そのことによって彼のものとして見られることができるからです)、その神性は人間のもとに彼の最も個々のものの中にあるので、主は悪い人間と同じく善い人間のもとの最も個々のものを支配しておられることがいえます。そして主の支配は神的な摂理と呼ばれるものです。

神の摂理

285◀︎目次▶︎287

286 さて、人間が自由から理性にしたがって、すなわち、自主性と推理力のこれらの二つの能力から行動できることが神的な摂理の法則であるので――そしてまた自分自身から行動するように人間に見え、ここから自分のものそのもののように見えることが神的な摂理の法則であり――なおまた、それらから導き出されるために悪が許されなくてはならないことも法則であるので――人間はそれらの能力を誤用することができ、自由から理性にしたがって好むどんなものでも証明することができることがいえます。というのは、理性の欲するどんなものでも、本質的に理性のものであっても、あるいは理性のものでなくても、行なうことができるからです。
それゆえ、ある者は、「真理とは何か?私は自分の欲するどんなものでも真理とすることができないか?世もまたそのように行なっていないか?」と言います。
また、このことをできる者は、そのことを誤った推論によって行ないます。
虚偽の最たるものを取り上げ、才気ある者に、「証明せよ」と言ってみなさい、証明するでしょう。
たとえば、「人間は獣である」ことを証明するよう、彼に言いなさい。あるいは、「霊魂はクモの巣の中のクモのようであり、糸によってクモの巣である身体を支配している」と言いなさい。あるいは、「宗教は単なる束縛であって何でもない」と言いなさい、すると、これらのどんなものでも真理に見えるようにまでも証明するでしょう。
〔彼にとって〕さらに容易なものが何かあるでしょうか? 〔なぜ、彼がそう思うのかと言えば〕盲目の信仰から、真理として取り上げられたものの何が外観か、何が虚偽か知らないからです。
[2]このことから、神的な摂理が理解力と意志の最も個々のものの中にある、すなわち、同じことですが、悪い者も善い者もそれぞれの人間のもとの思考と情愛の最も個々のものの中にある、という真理を人間は見ることができません。
特に、悪もまた主からであった〔と思う〕ことによって混乱します。しかし、それでも、少しの悪ですら主からではなく、自分自身から考え、意志し、話し、行なうことから、その外観を自分自身のもとで確信した人間からであることが、今や、続きの中で見られます。それらがはっきりと見られるために、次の順序で示します。

(1)神的な摂理は全般的な最も個々のものの中に、善い者のもとにだけでなく、悪い者のもとにもある。それでも、彼らの悪の中にはない。
(2)悪い者は絶えず自分自身を悪の中へ導き入れる、しかし、主は絶えず彼らを悪から導き出される。
(3)悪い者は、プロプリウムの知性がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と信じているかぎり、主により悪から導き出され、善の中へ導かれることがまったくできない。
(4)主は地獄を正反対のものによって支配され、世にいる悪い者を内的なものに関して地獄で支配される、しかし、外的なものに関しては支配されない。

神の摂理

286◀︎目次▶︎288

287 (1)神的な摂理は全般的な最も個々のものの中に、善い者のもとにだけでなく、悪い者のもとにもある。それでも、彼らの悪の中にはない
神的な摂理は人間の思考と情愛の最も個々のものの中にあり、そのことによって、人間は自分自身から考え、意志するものは何もなく、しかし、考え、意志し、ここから話し、行なうすべてのものは流入からであることが意味され、このことが前に示されました。善であるなら、天界からの流入から、悪であるなら、地獄からの流入からです。あるいは同じことですが、善は主からの流入からであり、悪は人間のプロプリウムからの流入からです。
しかし、私は、これらのことが、天界または主から流入するものと地獄または人間のプロプリウムから流入するものの間の区別がされないので、ほとんど理解されることができないことを知っています。
それでも、神的な摂理は人間の思考と情愛の最も個々のものの中にあり、人間は自分自身から考え、意志することは何もできないとまでも言われており――しかし、地獄からも、なおまた自分のプロプリウムからもできると言われるので、そのことは矛盾のように見えますが、しかし、それでも矛盾ではありません――矛盾ではないことは、あらかじめその事柄を説明する何らかのものが言われた後に、続きの中で見られます。

神の摂理

287◀︎目次▶︎289

288 天界のすべての天使は、「だれも自分自身から考えることができないで、主から考える」と認めています。しかし、地獄のすべての霊は、「だれも自分自身以外の他の者から考えることができない」と言います。
しかし、彼らに数度、彼らのある者が「自分自身からは考えない、できない、考えは流入する」ことを示されました。けれども、それはむだで、彼らは受け入れることを欲しませんでした。
しかし、最初に、思考と情愛のすべてのものが地獄の霊の者にもまた天界から流入すること、しかし、流入する善はそこの悪に、真理は虚偽に、このようにすべてのものは正反対のものに変えられることを経験から教えられることになりました。
このことは次のように示されました――天界から、みことばの何らかの真理が降ろされ、これは地獄の上部にいた者により受け入れられ、彼らからさらに低いものの中に、最も低いものの中にいた者にまで降ろされました。そしてそれは途中で継続的に、虚偽に、最後にまったくの虚偽に、真理と正反対のものに変えられ、彼らは、彼らのもとで虚偽に変えられた真理を自分自身からのように思い、そうとしか知りませんでしたが、そのときそれでも天界から最低の地獄へ流れ下った真理であり、途中で、このように虚偽化され、歪曲されたものとなったのです。
このような行為を、3度あるいは4度、私は聞きました。
善にも同様に生じます。天界から流れ下る善は、継続的に、悪に、善に対立するものに変えられます。
ここから、主から発出し、彼らに受け入れられる真理と善は、虚偽の中と悪の中にいる者の中で変えられ、最初の形が見られないようにまでも他の形に移ることが明らかです。
すべての悪人のもとに同様に生じます、なぜなら、彼は自分自身の霊に関して地獄の中にいるからです。

神の摂理

288◀︎目次▶︎290

289 地獄の中のある者は、自分自身(のもの)からでもなく、しかし自分自身のまわりの他の者から、この他の者たちも自分自身(のもの)からでなく、しかしまた他の者から考えること、思考と情愛は社会から社会へ順序にしたがって進むこと、加えて、だれも自分自身(のもの)からとしか知らないことがしばしば示されました。
自分自身(のもの)から考え、意志することを自分自身に信じた者たちが、近くの者との伝達をさえぎられてある社会の中に送られました。そこもまた彼らの思考が広がる社会であって、その社会に留められました――その時、彼らに、その社会の霊たちが考えるのと異なって考えるように、そして彼らに反して考えることを自分自身に強いるよう言われました。しかし、彼らは、このことが不可能であったことを認めました。
[2]このことが多くの者に、ライプニッツにもなされ、彼もまただれも自分自身から、他の者も自分自身(のもの)から考えないで、しかし他の者から考えること、すべての者は天界からの流入から考えること、天界は主(のもの)からの流入から考えることを納得させられました。
ある者は、この事柄について熟考して、「このことは驚くべきことであり、まったく外観に反しているので、ほとんどだれもそのことを信じるように強いることはできないが、しかし、それでも十分に示されているので否定することはできない」と言いました。
しかし、それでもなお、驚嘆の中にいたとき、〔次のことを〕言いました、〔第一〕悪を考えることは、このように過失とならない。なおまた、〔第二〕このように、悪は主からであるように見られる。そしてまた、〔第三〕すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できないこと。
しかし、これらの三つのことは続きの中で説明されます〔294番〕。

神の摂理

289◀︎目次▶︎291

290 提示した経験に、次のこともまた付加しなければなりません。
霊と天使たちと話すことが主から私に与えられた時、次のアルカナが直ちに明かされました。というのは、私は他の者のように、私から考え、私から意志する、と信じていますが、そのときそれでも、「あなたからは何もなく、善なら主からであり、悪なら地獄からである」と天界から言われたからです。
このようであったことは、導き入れられたいろいろな思考と情愛によって、私に生き生きと示され、引き続いて、それを知覚し、感じることが与えられました。それゆえ、その後、意志の中に何らかの悪が、または思考の中に何らかの虚偽がやって来ると直ぐに、私はそれがどこからか調べました。私に明かされたことですが、彼らと話し、彼らを叱責し、引き下がるように追い立て、またこのように彼らが自分の悪と虚偽を引っ込め、自分自身のもとにおしとどめられ、このように私の思考に何かをもはや注ぎ込まないことも与えられました。
このことは千回も引き起こされ、この状態の中に、私は今まで、多くの年月の間とどまってきました、今なおその中にとどまっています――それでも、私は、他の者のように何らの相違もなく、私には、私自身から考え、意志しているように見えます。というのは、それぞれの者にそのように見られるのは、前の節の中に示されているように、主の摂理であるからです。
新参者の霊たちは、私が考え、私が欲するものは何もなく、それゆえ、私がある種の空虚なもののようであるとしか見えないので、私のこの状態に驚きます。けれども、私は彼らにアルカナを明らかにし、さらにまた、私は内的にも考え、私の外的な思考の中に何が流入するか、天界からなのかあるいは地獄からなのか知覚し、後者を追い払い、前者を受け入れています、それでも私は彼らのように、私から考え、意志すると見られることを明らかにしました。

神の摂理

290◀︎目次▶︎292

291 すべての善は天界からであり、すべての悪は地獄からであることは、世の中で知られていなくもありません。教会の中のそれぞれの者にはよく知られています。
そこに、祭司職に就任された者で、すべての善は神からであり、人間は何らかのものを天から与えられないで自分自身から得ることができないこと、なおまた、悪魔が悪を思考の中に注ぎ込み、惑わし、そしてそれを行なうようにとかき立てることを教えないような者がだれかいますか?
それゆえ、自分が聖なる熱意から説教していると信じる聖職者は、聖霊が自分を導き、自分の思考を、その話を導くように祈り、ある者は、「聖霊が自分に働きかけたことを感じた」と言い、説教を称賛されるとき、「自分自身からではなく、神から話した」と敬虔に答えます。
それゆえ、ある者が善く話し、善く行なうのを見るときもまた、彼について、「神により導かれている」、また逆に、ある者が悪く話し、悪く行なうのを見るとき、彼について「悪魔により導かれている」と言います。
教会の中でこのように説教されていることは、よく知られています。しかし、そのようであることを、だれが信じていますか?

神の摂理

291◀︎目次▶︎293

292 人間が考え、意志し、ここから話し、行なうすべてのものは唯一のいのちの泉から流入すること、それでも、主である唯一のいのちの泉は、人間が悪と虚偽を考えることの原因ではないことは、自然界の中の次のものによって説明されることができます。
その太陽から熱と光が発出し、またそれら二つのものは目に見られるすべての主体と対象に流入します。善い主体と美しい対象の中だけでなく、悪い主体と醜い対象の中にもまた流入し、それらの中にいろいろなものを生みます――というのは、善い実を生む木の中にだけでなく、悪い実を生む木の中にもまた、それどころか、それらに生長を与える実そのものの中にも、同様に、善い種の中に、そしてまた毒麦の中に――なおまた、善い役立ち、すなわち、健康によい灌木の中にも、そしてまた悪い役立ち、すなわち、有毒な灌木の中にも流入します。それでも、同じ熱、同じ光であって、それらの中に何らかの悪の原因はなく、その原因は受け入れる主体と対象の中にあります。
[2]卵を孵化する熱も同様であり、〔中に〕ハト・美しい鳥・白鳥がいる卵を孵化するように、〔中に〕フクロウ・ミミズク・コブラが隠れている卵を孵化します。
めんどりの下に両方の種類の卵を置きなさい、すると本質的に無害であるその熱により、それらは孵化されます。そこで、熱は、それら悪いものや有害なものと何を共通に持ちますか?
ブドウ酒・芳香物・活力あるもの・生きたものに流入する熱は、同様に沼地・糞・腐ったもの・死体の中にその働きを行ないます。原因が熱の中になく、受け取る主体の中にあることを、だれが見ませんか?
さらにまた、同じ光が一つの対象の中で快い色を、他の対象の中で嫌な色を引き起こします。それどころか、白光りするものの中では、それ自体を照らし、輝き、黒へと傾くものの中では、それ自体を暗くします。
[3]霊界の中で同様であり、そこにもまた主であるその太陽からの熱と光があり、それらの熱と光がその太陽からその主体と対象へ流入します。そこの主体と対象は天使と霊であり、特に、彼らの意志と知力です。そこの熱は発出する神的な愛であり、そこの光は発出する神的な知恵です。それらはある者と他の者とに異なって受け入れられることの原因ではありません。なぜなら、主は言われているからです、

〔天の父は〕太陽を悪い者と善い者の上に昇らせ、雨を正しい者と不正な者の上に送られる(マタイ5・45)。

太陽」によって最高の霊的な意味の中で神的な愛が、「」によって神的な知恵が意味されます。

神の摂理

292◀︎目次▶︎294

293 私は、これらに人間のもとの意志と知性について天使の見解を付け加えます。その見解は、「どの人間のもとにも意志のプロプリウムと思慮分別のプロプリウムの小さな粒が存在しないことであり、それぞれの者のもとに小さな粒が存在したなら、天界も地獄も存続しないで、全人類は滅びたであろう」です。彼らはその理由を、「無数のそれほど多くの人間が、世の創造から生まれ、天界と地獄を構成し、それらのある者が他の者の下に、そのような秩序の中で、両方の場所に、天界が一人の美しい人間を、地獄が一人の怪物のような人間をつくるようにされているからである」と言っています。
それぞれの者に意志のプロプリウムと知性のプロプリウムの小さな粒があったなら、彼は個体として存在することができません、ばらばらにされ、それとともにその神的な形は滅びます。その形は、すべての中のすべてである主とともにいなければ構成され、存続することができず、人間はその全体の中では何ものでもありません。
彼らはさらにその理由を、「自分自身から考えることと意志することは神性そのもの、そして神から考えることと意志することは人間性そのものであり、そして神性そのものはどの人間にも自分のものにされることができない、というのは、このように人間は神となるから」と言っています。
このことを〔心に〕保ちなさい、すると天使たちにより、あなたが欲するなら、死後、霊界の中にあなたがやって来る時、あなたは確信させられるでしょう。

神の摂理

293◀︎目次▶︎295

294 前に、だれも自分自身から考えず、他の者から、また他のすべての者も自分自身からでなく、主による天界からの流入から考えることをある者が納得させられ、驚嘆の中にいたとき、〔第一〕悪を行なうことは、このように過失とならないこと、なおまた〔第二〕このように悪は主からであるように見られること、そしてまた〔第三〕すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できないこと、が言われました(289番)。
そこで、これらの三つは、結果から結果だけを考え、原因から結果を考えない者のもとの思考の中に流入することができないので、それらが取り上げられ、原因から示されることが必要です。
[2]第一――悪を行なうことは、このように過失とならない
というのは、もし人間が考えるすべてのものが、他の者から流入するなら、それらの流入するものから存在するように見えるからです。しかし、それでも、過失そのものは受け入れる者のもとにあります、なぜなら、自分のものとして受け入れ、他のことは知らないし、他のことを知ろうともしないからです――というのは、だれもが自分自身であること、自分自身から導かれること、特に自分自身から考え、欲することを欲するからです。というのは、このことが自由そのものであり、プロプリウム(自己固有のもの)のように見え、そのプロプリウムの中にすべての人間がいるから。それゆえ、考え、意志するものが他の者から流入するものであることを知るなら、自分自身が縛られ、囚われ、もはや自分自身の支配のもとにない者であるように思え、このように自分のいのちの快さは失われ、ついには人間性そのものが失われるからです。
[3]このようであることを、私はしばしば見て、確信しました。
ある者に、他の者から導かれていることを知覚し、感じることが与えられました。その時、怒りで激怒し、心で抑えることができないようにもなりました。
「欲するように考え、考えるように意志することが許されないよりも、むしろ地獄の中で縛られて保たれることを欲する」と言いました。
「このことが許されないことは、身体に関して縛られるよりもきびしく、耐えがたいものであり、自分のいのちに関して縛られることである」と呼びました。考え、意志するように話し、行なうことが許されないことを縛られることとは呼びません。話し、行なうことから成り立っている市民的で道徳的な生活の快さが、そのことが抑制し、同時にいわば和らげるからです。
[4]そこで、人間は、〔自分の〕思考へ他の者から導かれていることを知ることを欲せず、しかし、自分自身から考えることを欲し、このこともまた信じるので、自分自身が過失の中にいないし、考えているものを自分自身で考えることを愛するかぎり、過失を退けることもできない、ということになります。そのことを愛さないなら、自分自身をそれらとの結びつきから解きます。
悪であることを知るとき、このことが生じ、そしてそれゆえ、それを避けること、それらから離れることを欲します。
さらにまたその時、彼は主により悪の中にある社会から連れ出され、その悪の中にない社会の中へ移されます。
けれども、悪を知り、それを避けないなら、その時、彼に過失が着せられ、その悪の罪が生じます。
それゆえ、人間が自分自身から行なうと信じるものはどんなものでも、人間から生じ、主からではないことが言えます。
[5]第二――このように、 悪は主からであるように見られる
このことは、前に示されていること「主から流入する善が地獄の中の悪に、そして真理が地獄の中の虚偽に変えられる」(288番)ことからの結論のように考えることができます。
しかし、悪と虚偽は善と真理から、このように主からでないこと、しかし、悪と虚偽の中にあって、それをゆがめ、ひっくり返し、受け入れる主体と対象からであることを、だれが見ることができませんか?さらにまたそのことは前に十分に示されています(292番)。
けれども、人間のもとの悪と虚偽がどこからかは、これまでのものの中で十分に示されています。
さらにまた霊界の中で、主は悪い者のもとの悪を遠ざけ、それらに代わって善をもたらし、このように全地獄を天界に移し、すべての者を救うことができる信じた者に、そのことを経験させることが行なわれました。しかし、そのことが不可能であることは、この著作の終わりに、瞬間の救いについて、直接の慈悲について扱われているところに見られます。
[6]第三――すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できない
主の神的な愛は無限であり、そしてその方の神的な知恵は無限であり、そして愛の無限なものと知恵の無限なものが主から発出し、それらは天界の中のすべての者のもとに、ここから地獄の中のすべての者のもとに、また両方から世の中のすべての者のもとに流入します。それゆえ、ある者に考え、意志することが欠けることはありえません、なぜなら、無限なものはすべてのものにとって無限であるからです。
主から発出するそれらの無限なものは、普遍的に流入するだけでなく、最も個々のものにもまた流入します。なぜなら、神性は最も個々のものから普遍的であり、最も個々のものの神性は、それらは「普遍的なもの」と呼ばれ、主の最も個々のものもまた無限であるからです。
これらから、主だけがそれぞれの者に彼の性質にしたがって、考え、意志することを、ご自分の摂理の法則にしたがって行なわれることを明らかにすることができます。
主の中にあり、主から発出するすべてのものが無限であることは、前に(46-69番)、そしてまた著作『神の愛と知恵』(17-22番)の中に示されています。

神の摂理

294◀︎目次▶︎296

295 (2)悪い者は絶えず自分自身を悪の中へ導き入れる、しかし、主は絶えず彼らを悪から導き出される
善い者のもとで神的な摂理がどんなものかは、悪い者のもとでどんなものであるかよりも容易に理解されます――今、悪い者のもとでの摂理について扱われているので、次の順で述べます――

(1)それぞれの悪の中に無数のものがある。
(2)悪い者は、自分の悪の中へ、絶えず自分から自分自身をさらに深く導き入れる。
(3)悪い者のもとの神的な摂理は、〔悪から〕絶え間なく連れ去られることを目的とする絶え間のない悪の許しである。
(4)悪から連れ去ることは、千もの最も神秘的な方法で、主により行なわれる。

神の摂理

295◀︎目次▶︎297

296 そこで、悪い者にとって神的な摂理が明確に知覚され、このように理解されるために、前述のことがその中に提示されている順で説明されなければなりません。
第一――それぞれの悪の中に無数のものがある
それぞれの悪は人間の前に一つの単純なもののように見えます。このように憎しみと復讐は見え、盗みとごまかしも、姦淫と淫行、誇りと心の高まり、加えて他のものもこのように見え、それぞれの悪の中に無数のものが、人間の身体の中の繊維と器官よりも多くのものがあることを知りません――というのは、悪い人間は最小の形としての地獄であり、地獄は一万万の一万〔の悪霊〕から成り立っていて、またそこのそれぞれが人間のような、それでも怪物のような形の中にあり、そしてその中のすべての繊維、すべての器官は逆になっていて、霊そのものが悪であり、自分自身に一つのように見えるからです。しかし、その中にはこんなにも多く無数のものがあり、こんなにも多くの悪の欲望があります。というのは、それぞれの人間は頭から足の裏まで自分の悪かまたは自分の善であるからです。
そこで、悪い者がこのようであるとき、一つの悪がいろいろな無数のものから構成され、それらは区別された悪であり、悪の欲望と呼ばれているものであることが明らかです。
これらから、その〔間違った〕秩序の中にあるそれらすべてのものは、人間が改心されることができるために、主により回復され、向きを変えられなければならず、このことは、主の神的な摂理によって、人間の最初の年齢からその最後のときまで継続的にしか行なわれることができないことがいえます。
[2]すべての悪の欲望は、地獄の中で表象されるとき、有害な動物のように、例えば、竜、あるいは有毒なヘビ・マムシ・ミミズク・モリフクロウ、またその他のようなものに見えます。悪い人間のもとの悪の欲望も、天使たちから眺められるとき、同様に見えます。
すべてのこれらの欲望の形は一つずつ変えられなければなりません。霊に関して人間怪物のように、または悪魔のように見える人間そのものが、美しい天使に見られように、変えられなければなりません。それぞれの悪の欲望は、表象されて見られるとき、子羊のように、または羊、またはハトとキジバトに見えるように、天界の中の天使たちの善の情愛に変えられなければなりません。そして竜を子羊に、有毒なヘビを羊に、そしてミミズクをハトに変えることは、悪をその種から根こそぎにし、その種に代わって善を植え付けて、継続的にしか行なわれることができません。
しかし、このことは比較すれば、木の接ぎ木に行なわれるようにしか行なわれることができません。その根は何らかの幹とともに残ります、しかしそれでも、植え付けられた枝は、古い根を通して抽出した樹液を、善い実を結ばせる樹液に変えます。
接ぎ木しなければならないその枝は主から以外の他のところから取られることができず、それはいのちの木です。さらにまたこのことは「ヨハネ福音書」15・1-7の主のことばにしたがっています。
[3]第二――悪い者は、自分の悪の中へ、絶えず自分から自分自身をさらに深く導き入れる
すべての悪は人間からであるので、自分自身からと言われます、というのは、前に言われたように人間は主からのものである善を悪に変えるからです。
悪い者が自分自身をさらに深く導き入れる理由そのものは、悪を欲し、行なうほど自分自身を地獄の社会の中に、内部へまた内部へ、そしてまた深くまた深く導き入れることです。ここから、悪の快さもまた増大し、このことがついに心地よく感じるまでも彼の思考を占めます。
また、自分自身を地獄の社会の中へ、内部へまた深く導いた者は、なわで巻きつけられたようになります。しかし、世の中に生きる間は、なわを感じません。柔らかい羊毛から、またはきめ細かい絹糸からできているようであり、手触りがよいのでそれらを愛します。けれども、死後、そのなわは柔らかいものから固いものに、手触りのよいものからチクチクと刺激するものになります。
[4]悪の快さの増大が始まることは、泥棒・強盗・略奪・復讐・支配・利益を得ること、また他のことからよく知られています。
だれがそれらの成功にしたがって、抑制のない実行にしたがって、快さの高まりを感じませんか?
泥棒は泥棒することから、やめることができないような快さを感じることがよく知られています。驚くべきことに、贈り物として与えられた十枚の硬貨よりもさらに盗んだ1枚の硬貨を愛します。
さらにまた、姦淫する者も、その悪の性的能力が濫用にしたがって衰えるように備えられなかったなら、同様になったでしょう。しかし、それでも多くの者のもとに、それらを考え、話す快さが残っており、なくなっていても、それでも触りたい欲望が残っています。
[5]しかし、意志と同時に思考から悪を犯すほど、自分自身を地獄の社会の中へ、内部へそして内部へ、なおまた深くまた深くと導くことは知られていません――単に思考の中にいて意志の中にいないなら、まだ悪とともに地獄の社会の中にいません、しかし、意志の中にもいる時、〔その地獄の社会に〕入ります。その時、さらにまた、その悪が十戒の戒めに反していると考え、これの戒めを神的なものとするなら、その時、その悪を故意に犯し、そのことを通して自分自身を〔地獄へ〕深く降ろし、実際の悔い改めによってでないなら、そこから連れ出されることができません。
[6]すべての人間は自分の霊に関して霊界の中のある社会の中に、悪い人間は地獄の社会の中に、善い人間は天界の社会の中にいること、さらにまた深い瞑想の中にいる時、時々そこで見られることを知らなければなりません。
なおまた、話とともに音声は、自然界では空気の中でまわりに広がるように、思考とともに情愛は、霊界では、その社会の中でまわりに広がります。さらにまた対応が存在します、なぜなら、情愛は音声に、思考は話に対応するからです。
[7]第三――悪い者のもとの神的な摂理は、〔悪から〕絶え間なく連れ去られることを目的とする絶え間のない悪の許しである
悪人のもとの神的な摂理が絶え間のない許しであるのは、彼らのいのち(生活)から悪以外に何らかのものが出てくることができないからです。というのは、善あるいは悪の中にいる人間は、なまぬるいものでないなら、両方の中に同時にいることは、時々であってもできず、またいのち(生活)の悪は、主により引き起こされるのではなくて、人間により意志の中に、それを通して思考の中に引き起こされ、このことが許しと呼ばれるからです。
[8]さて、悪人が意志し、考えるすべてのものは許しのものであるので、悪い者にも善い者にもそれぞれの人間のもとの最も個々のものの中に神的な摂理がある、と言われる時、何がそこにあるのか、質問されます。
しかし、それは、目的のために絶え間なく許すこと、目的のものであるようなものを許し、他のものを許さないこと、また許しから出てくる悪を、絶え間なく調べ、分離し、清め、適合しないものを追い払い、知られていない方法で除くことの中にあります。
このことは特に、人間の内なる意志の中で、その意志から内的な思考の中で行なわれます。さらにまた、神的な摂理は、意志により受け入れられたすべてのものは人間に自分のものとされるので、追い払い、除いたものが再び意志により受け入れらないように絶えず用心することの中にあります。しかし、意志でなく、思考で受け入れられるものは、分離され、追放されます。
これが悪い者のもとの絶え間ない主の摂理であり、それは、言われたように、絶え間なく連れ去られるようにとの目的のための絶え間ない許しです。
[9]これらについて、人間は知覚しないので、ほとんど何も知りません。知覚しないことのおもな理由は、悪が彼のいのち(生活)の欲望のものであり、その悪は悪として感じられず、快さとして感じられ、そのことに留意しない者がいるからです。
自分の愛の快さにだれが留意するのですか?
これらの快さの中に彼の思考は、川の流れの中を運ばれる小舟のように浮かんでいます。そして、息いっぱいに吸い寄せられる香る空気のように知覚されます――自分の外的な思考の中で、それらからの何らかのものだけを感じることができます、しかし、それでも、悪であることが十分にわかっていないなら、その外的な思考でも留意していません。
しかし、これらについて多くのものをこれから続きの中で述べます。
[10]第4――悪から連れ去ることは、千もの最も神秘的な方法で、主により行なわれる
それらからあるものだけが私に示されましたが、しかし、最も概括的なものでしかありませんでした。それらは欲望の快さであって、それらについて人間は、それらが群れをなし、束になって人間の霊である内なる思考の中に、またここから彼の外なる思考の中へ送り出され、それらの中に何らかの心地よい、愉快な、欲望が感覚のもとに見られ、そこに彼の自然的で感覚的な快さと混ぜられることを何も知りません。
そこには、分離また浄化の手段があり、そしてまた連れ去り、除く方法があります。
手段は役立ちである何らかの目的のための、特に熟考・思考・反省の快さであり、役立ちである目的は、ある者の仕事や職務の個別のものや個々のものと同じだけ多くのものがあります。なおまたさらに、人間が市民的で道徳的な、そしてまた霊的な人間であるように見られる目的のために、妨害するものを除いて、その反省の快さだけ多くのものがあります。
それらの快さは、外なる人の中の彼の愛に属するものであるので、内なる人の中の悪の欲望の快さの分離・浄化・連れ去ること・除くことの手段です。
[11]目的、すなわち、自分の職務の役立ちとして、利益または友情を眺めている不正な裁判官を例とします。彼は内部で絶えずそれらの中にいます、しかし、外部で法律の専門家、公正な者のように行動するようにしています。彼は絶えず、法律を曲げ、変え、適合させ、集めようとする熟考・思考・反省そして意図の快さの中にいますが、それでも法律に合致し、そして公正の類似物と見られるようにしています。彼の内的な快さが、欺き・ごまかし・欺瞞・盗み・隠すこと、そして他の多くのものから成っていること、また、その快さはこのように多くの快さから構成されていて、外なる思考のすべてと個々のもの中で支配し、公正と誠実の外見の快さの中にあることを知りません。
内なる快さが、胃の中で混ぜられる食物のように、これらの外なる快さの中に降ろされます。そこで分離され、清められ、連れ去れられます。しかしそれでも、重いものである悪の欲望の快さしか、そのようにされません――
[12] というのは、悪人のもとには、重い悪が重さの軽いものへと分離、浄化され、連れ去られることしか存在しないからです。しかし、善人のもとには、重いものだけでなく、しかしまた重さの軽い悪の分離・浄化・連れ去られることが存在します。このことは善と真理の情愛の快さ、そして公正と誠実の情愛の快さによって行なわれ、悪を罪として眺め、そしてそれゆえ、それらを避け、退けるかぎり、さらにまた、もしそれらに対して闘うなら、それらの中にやって来ます。
これらが、主がそれらによって救われるすべての者を清められる手段です。さらにまたその同じ者を、名声と名誉であり、また時々は、利益である外なる手段によっても清められます。しかし、それでも、これらの手段には主より善と真理の情愛の快さが、それらによって隣人愛の快さとなるように導かれ、適合されるよう、挿入されています。
[13]もし、だれかが悪の欲望の快さを、一緒に何らかの形の中に見るなら、または何らかの感覚でそれらを明瞭に知覚するなら、それらを定めることができないような数のものの中に見、知覚します。というのは、地獄全体は、すべての悪の欲望の形以外の何ものでもなく、そこに他のものと完全に似ているかまたは同じ悪の欲望は何もなく、一つのものが他のものと完全に似ているかまたは同じものは永遠に存在することもできないからです。これらの無数のものについて、人間は何らかのものをほとんど知らず、まして、どのように結ばれているか知りません。
それでも、主により神的なその方の摂理によって、連れ去られるようにとの目的のために悪が生ずることが絶えず許されており、それはすべての順序と連鎖の中で行なわれます。
善人が天界の最小の形をしているように、悪人は地獄の最小の形をしています。
[14] 悪から連れ去ることが千もの方法で行なわれることもまた、主により最も隠されており、身体の中の霊魂の隠された働きから以外には見られることがなく、このように証明されることもできません。
それらについて人間が知っていることは、次のものです。食べようとする食物を、眺め、においでわかり、食欲を感じ、味わい、歯ですりつぶし、舌によって食道の中へ、このように胃の中へ転がし落とします。
しかし、霊魂の隠された働きは、感じないので、それらについて人間は何も知りませんが、次のものです――胃は受け入れた食物をねじあげ、溶媒によって開き、分離します、すなわち、消化します。そして適合するものを、そこに開いている小さな開口部で吸収し、そして静脈に与えます。あるものを血液の中へ、あるものをリンパ管の中へ、あるものを腸間膜の乳管の中へ送り込み、あるものを腸の中へ降ろします。その後、腸間膜の中の乳糜槽から引き抜かれた乳糜は胸管を通って大静脈へ、このように心臓の中へ、心臓から肺の中へ、これから心臓の左心室を通って大動脈の中へ、これから枝管を通って全身の内臓の中へ、そしてまた腎臓の中へ引き入れられます。それらのそれぞれのものの中で、血液の分離・浄化・異物の除去が行なわれます――どのように心臓が肺の中で浄化された自分の血液を脳の中へ服従させるか、そのことは頸動脈と呼ばれる動脈を通して行なわれ、どのように脳は活性化された血液を、すぐ上に乳糜槽が引き入れられている大静脈の中に、このように再び心臓の中へ戻すか、言うまでもないでしょう。
[15]身体の中に霊魂の隠された働きには、これらの他に無数のものがあります。
人間はこれらについて何も感じません、解剖学の知識に熟達していない者は、何も知りません。
それでもなお、同様のことが人間の心の内的なものの中で行なわれています。なぜなら、内的なものからでないなら、何も身体の中で行なわれることができないからです。というのは、人間の心は彼の霊であり、そして彼の霊は、身体の中で行なわれることは自然的に行なわれ、心の中で行なわれることは霊的に行なわれることが相違するだけで、すべての点で似ている同じ人間であるからです。
これらから、神的な摂理は、それぞれの人間のもとで、千もの方法で、さらにまた最も隠されて働くこと、救われる目的の中にあるので、絶えず彼を浄化する目的の中にあること、外なる人の中で悪を遠ざけるようすること以外に、人間にはさらに課せられないこと、もし切願するなら、主が残りのことを備えてくださることが明らかです。

神の摂理

296◀︎目次▶︎298

297 (3)悪い者は、プロプリウムの知性がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と信じているかぎり、主により悪から導き出され、善の中へ導かれることがまったくできない
人間は、これまたはそれが公共の善に反している、役立ちに反している、また国の法律また国と国の間の法律に反していると考えるかぎり、自分自身を悪から導き出すことができるように見えます。
このことを、善い者も悪い者も、出生または実践から、内部に自分自身の中で分析的にまた理性的に明瞭に考えることができるような者であるかぎり、できます――しかし、やはりそれでもなお、自分自身を悪から導き出すことはできません。
その理由は、前のあちこちに示されているように、物事を抽象的にもまた理解する能力、知覚する能力が悪い者にも善い者にもそれぞれの者に、主から与えられているからです。しかし、それでも人間はそれら〔の能力〕からでは自分自身を悪から連れ出すことはできません――というのは、悪は意志に属しており、理解力は照らし、教える光とともにあるときだけを除いて、意志の中に流入しないからです。意志の熱が、すなわち、人間のいのちの愛が悪の欲望から熱いなら、その時、善の情愛に関して冷たくなります。それゆえ、〔意志の中に〕受け入れないで、退けるか、消すか、あるいは考案したある虚偽によって悪に変えます。
このことは夏の光のように明るさの等しい冬の光が、冷たい木に注ぐときと同様なものなります。しかし、これらは次の順序の中でさらによく見られることができます――

(1)プロプリウムの知性は、意志が悪の中にあるとき虚偽しか見ない、また何らかのものを見ることを欲しないし、できない。
(2)プロプリウムの知性が真理を見るなら、その時、背を向けるかあるいはそれを虚偽化する。
(3)神的な摂理は絶えず人間が真理を見るようにし、それを知覚し、受け入れる情愛もまた与える。
(4)人間はそのことによって自分自身からでなく、主により、悪から導き出される。

神の摂理

297◀︎目次▶︎299

298 しかし、これらが理性的な人間の前に(見られる)ためには、次の順序で説明されなければなりません。悪い者であろうと善い者であろうと、そのように冬の光の中にいるにしろあるいは夏の光の中にいるにしろ、両方の中に色は同様に見えるからです。

第一――プロプリウムの知性は、意志が悪の中にあるとき虚偽しか見ない、また何らかのものを見ることを欲しないし、できない
このことは、しばしば霊界の中で示されました。
それぞれの人間は、死後、霊となる時、物質的な身体を出て、霊的な身体を着て、交替に内なるものと外なるものの自分の二つのいのちの状態の中に入れられます。
外なる状態の中にいる時、完全に世の中の理性的で賢い人間のように理性的に、賢く話し、行動します、そしてまた、他の者に道徳的で市民的な生活のものである多くのことを教えることができます。説教者であったなら、霊的な生活もまた教えることができます。
しかし、この外なるいのち(生活)から自分の内なるものの中に送られ、そして外なるものが眠らされ、内なるものが目覚めさせられる時、悪い者であるなら、場面は変わります。彼は理性的なものから感覚的なものに、賢明なものから狂ったものになります。というのは、その時、自分の意志の悪とその快さから、このようにプロプリウムの知性から考え、悪意が知恵であり、だますことが思慮分別であると信じて、虚偽しか見ず、悪しか行なわないからです。また、プロプリウムの知性から自分自身を神と信じ、心全体で、恐るべきたくらみを吸収します。
[2]私はしばしばこのような狂気を、そしてまた一時間の内に二回または三回、その交替の状態の中に送られるのを見ました。その時、彼らに自分の狂気を見、そしてまたそれらを認めることが与えられました。しかしそれでも、理性的で道徳的な状態の中にとどまることを欲せず、しかし、自分自身そのものを自発的に感覚的で狂った内的な状態の中へ向けました。というのは、このことを他のことにまさって愛し、その中に彼らのいのち(生活)の愛の快さがあったからです。
悪人は自分の容貌の内にこのようなものがあること、また自分の内部にやって来るとき、このような変形を経験することを、だれが信じることができますか?
この経験だけからでも、自分の意志の愛から考え、行動する時、プロプリウムの知性がどんなものであるか明らかにすることができます。
善い者の場合は異なります。これらの者は外なる状態から内なる状態の中に送られる時、さらに知恵があり、道義をわきまえるようになります。
[3]第二――プロプリウムの知性が真理を見るなら、その時、背を向けるかあるいはそれを虚偽化する
人間にプロプリウムの意志とプロプリウムの知性があります。プロプリウムの意志は悪であり、プロプリウムの知性はそこからの虚偽です。後者が「男の意志」によって、前者が「肉の意志」によって意味されます(ヨハネ1:13)。
プロプリウムの意志はその本質では自己愛であり、プロプリウムの知性はその愛からの高慢です。これら二つのものは二人の配偶者のようであり、彼らの結婚は悪と虚偽の結婚と呼ばれます。
それぞれの悪い霊は地獄に送られる前にこの結婚の中に入れられます。また地獄にいる時、何が善か知りません、なぜなら、自分の悪を善と呼び、それを快さとして感じるからです。そしてまたその時、自分自身を真理から背け、それを見ようとも欲しません、自分の悪と一致している虚偽を美しいものを見るように目で見、調和するものを聞くように耳で聞くからです。
[4]第三――神的な摂理は絶えず人間が真理を見るようにし、それを知覚する情愛もまた与える
このことが生じるのは、神的な摂理が内的なものから働き、それを通して外的なものに、すなわち、霊的なものから自然的な人間の中にあるものに流入し、天界の光によって理解力が照らされ、天界の熱によって意志を生き生きとされるからです。
天界の光はその本質では神的な知恵であり、天界の熱はその本質では神的な愛です。神的な知恵からは真理以外に何も流入することができず、神的な愛からは善以外に何も流入することができず、このことから主は理解力の中に真理を見、それを知覚し、受け入れる情愛もまた与えられます――このように人間は、外なる容貌に関してだけでなく、内なる容貌に関しても人間になります。
理性的で道徳的な人間として見られることを、だれが欲しませんか?
他の者から誠実な人間であると信じられるように見られようとすることを、だれが知りませんか?
そこでもし、外なる形の中だけで理性的で霊的であり、同時に内なる形の中でないなら、彼は人間ですか?舞台上の俳優または人間の顔そっくりのサル以外の何者ですか?
ここから、他の者から内的に〔そのような者であると〕見られたい者だけが人間であることを知ることができるのでありませんか。一方〔内なるもの〕を認める者は、もう一方〔外なるもの〕を認めます。
プロプリウムの知性は外的に人間の形を着せることができるだけです、しかし、神的な摂理は内的に着せ、内なるものによって外なるものにその形を着せます。それが着せられた時、〔外なる〕人は〔内なる人と同じ〕人のように見られません、しかし、〔よく見れば、内なる〕人です。
[5]第四――人間はそのことによって自分自身からでなく、主により、悪から導き出される
神的な摂理が真理を見ることを、同時にその情愛を与えるとき、人間は悪から導き出されることができます、真理が示し、定めるからです。意志がそのことを行なうとき、意志自体を善と結合させ、そして本質的に真理を善に変えます。というのは、〔真理が〕彼の愛に属するものになり、愛に属するものは善であるからです。
すべての改心は真理によって行なわれ、それなしに生じません、なぜなら、真理なしに意志は絶えず自分の悪の中にあるから、もし理解力に諮るなら、教えられないで、虚偽によって悪を確信するからです。
[6]理解力については、善人のもとでも悪人のもとでも、自分のものそしてまたプロプリウムに見えます。善い者はプロプリウム(固有のもの)のように知性から、悪い者と等しく行動するようにもされます――しかし、神的な摂理を信じる者は悪から連れ去られ、信じない者は連れ去られません――悪が罪であることを認め、信じる者は、それから連れ去られることを欲します。認めないし、信じない者は、欲しもしません。
これら二人の知性の違いは、本質的に存在することが信じられるものと、本質的には存在しないで、それでも本質的であるかのように信じられるものの間の違いのようです。また、内なるものに似ているものがまったくない外なるものと、内なるものに非常によく似たものがある外なるものの間のようです。そのように、王・君主・大公の人物を演じる喜劇俳優や道化と、王・君主・大公そのものの間の話しと身振りのようです。後者は内的と同時に外的にそのような者ですが、前者は単に外的にそのような者であり、〔衣装などが〕脱がされるとき、喜劇役者・俳優・役者と呼ばれます。

神の摂理

298◀︎目次▶︎300

299 (4)主は地獄を正反対のものによって支配され、世にいる悪い者を内的なものに関して地獄で支配される、しかし、外的なものに関しては支配されない
天界がどんなものであるか、地獄がどんなものであるか知らない者は、人間の心がどんなものであるかまったく知ることができません。人間の心は霊であり、それは死後に生きます。
その理由は、人間の心または霊が、天界または地獄の形をしていることです。一方が最大の形であり、もう一方が最小の形であること、あるいは一方が像であり、もう一方がその型であることだけ以外に、何も違いません――それゆえ、人間は、心または霊に関して、天界あるいは地獄の最小の形をしています。主により導かれる者は天界であり、自分のプロプリウムから導かれる者は地獄です。
さて、天界と地獄がどんなものであるか私に知ることが与えられ、そして人間が自分の心または霊に関してどんなものであるか知ることは重要であるので、私はその両方のものを簡単に述べます。

神の摂理

299◀︎目次▶︎301

300 天界の中にいるすべての者は、善の情愛とそこからの真理の思考以外の何ものでもありません。地獄の中にいるすべての者は、悪の欲望とそこからの虚偽の妄想以外の何ものでもありません。それら両方の場所に、地獄の中の悪の欲望と虚偽の妄想が、天界の中の善の情愛と真理の思考に完全に対立するように秩序づけられています。それゆえ、地獄は天界の下にあり、それに正反対に対立しています。そのように正反対に、二人の人間のように自分自身と反対側に位置して、または対蹠地の住民のように、このように反転し、足の裏を合わせ〔互いに〕踏みつけて立っています。
さらにまた時々、地獄はこのような位置の中に、すなわち、天界と比べてひっくり返しに見られます――その理由は、地獄の中にいる者は悪の欲望を頭にし、善の情愛を足にします、しかし、天界の中にいる者は善の情愛を頭にし、悪の欲望を足の裏にするからです。ここから、相互に対立しています。
天界の中に善の情愛とここからの真理の思考があり、地獄の中に悪の欲望と虚偽の妄想がある、と言われますが、〔そのことは〕霊と天使たちがこのような者であることが意味されます。なぜなら、それぞれの者が自分の情愛または自分の欲望であるからです。天界の天使は自分の情愛であり、地獄の霊は自分の欲望です。

神の摂理

300◀︎目次▶︎302

301 天界の天使が善の情愛とここから真理の思考であるのは、主からの神的な愛と神的な知恵を受け入れるものであるからです。そして、すべての善の情愛は神的な愛からであり、すべての真理の思考は神的な知恵からです。
けれども、地獄の霊が悪の欲望とここから虚偽の妄想であるのは、自己愛の中にまたプロプリウムの知性の中にいるからであり、すべての悪の欲望は自己愛からであり、そして虚偽の空想はプロプリウムの知性からです。

神の摂理

301◀︎目次▶︎303

302 天界の中で情愛を、地獄の中で欲望を秩序づけることは驚くべきものであり、主だけに知られています。両方の場所で属と種に分かれており、一つとして働くように結合しています。属と種に分かれているので、大小の社会に分かれています。一つとして働くように分かれているので、人間のもとにあるすべてのもののように結合しています。
ここから、天界は、美しい人間のような形をしています、その霊魂は神的な愛と神的な知恵であり、そのように主です。しかし、地獄は、怪物のような人間の形をしていて、その霊魂は自己愛とプロプリウムの知性であり、そのように悪魔です――というのは、そこにその者だけが首領である何らかの悪魔はいません、自己愛がそのように呼ばれるからです。

神の摂理

302◀︎目次▶︎304

303 しかし、天界がどんなものであり、地獄がどんなものであるか、いっそうよく知られるために、善の情愛の代わりに善の快さを考え、悪の欲望の代わりに悪の快さを考えるとよいでしょう。なぜなら、快さなしに情愛と欲望は存在しないし、これらはそれぞれのいのちをつくるからです。
前に善の情愛と悪の欲望について言われたように、これらが、このように分けられ、結合しているものです。
その情愛の快さが天界のそれぞれの天使を満たし、取り囲み、そしてまた共通の快さが天界のそれぞれの社会を、同時に、すべての快さ、すなわち、最も普遍的な快さが全天界を満たし、取り囲んでいます。
同様に、その欲望の快さが地獄のそれぞれの霊を満たし、取り囲み、共通の快さが地獄のそれぞれの社会を、すべての快さ、すなわち最も普遍的な快さが全地獄を満たし、取り囲んでいます。
前に言われたように、天界の情愛と地獄の欲望は、それ自体に正反対に対立しているので、天界の快さが地獄の中では耐えられないような不快であり、また逆に、地獄の快さは、天界の中では耐えられないような不快であることが明らかです。
ここから、嫌悪・反感・分離があります。

神の摂理

303◀︎目次▶︎305

304 それらの快さは、個々のものの中でそれぞれの者のいのちを、共通のものの中ですべての者のいのちをつくるので、それらの中にいる者には感じられません、しかし、近づく時、特に、においが変えられるとき、対立するものが感じられます。というのは、どんな快さも、においに対応し、そして霊界の中でそのにおいに変わることができるからです。その時、天界の中では共通の快さが、庭園の花と実からそこの香ばしさにしたがって、変化とともに匂うように感じられます。地獄の中では共通の快さが、いろいろな汚物が投げ込まれて、腐ったものからの嫌な臭いにしたがってその変化とともに、よどんだ水のように感じられます。
天界の中で善の情愛の快さがどのように、地獄の中で悪の欲望の快さがどのように感じられるか、知ることもまた与えられました、しかし、ここにそれらを説明するなら、長たらしいものになるでしょう。

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304◀︎目次▶︎306

305 私は、自分たちのいのち(生活)の運命が自分たちの愛の情愛にしたがっていたことを知らなかった、という世から〔霊たちの世界に〕到着した多くの者の不平を聞きました。「世の中で、それらについて、ましてそれらの快さについて考えなかった、自分たちに快かったのでそれを愛したからである。また、それぞれの運命は知性からの思考に、特に敬虔また信仰からの思考にしたがっていると単に信じたからである」と言っていました。
しかし、彼らに答えられました。「いのち(生活)の悪は天界で不愉快なもの、神に不快であり、そして地獄で楽しく、悪魔に快いものであること、また逆に、いのち(生活)の善は天界で楽しく、神に快いものであり、地獄で不愉快なもの、悪魔に不快なものであり、ここからもまた、悪は本質的に悪臭を放ち、善は本質的に香ることを、もし欲したなら知ることができたのであり、そのことを欲するなら知ることができたとき――なぜ、悪を地獄のものと悪魔のもののように避けなかったのですか?ただ快かったからという一つの理由からそれらに賛同したのですか?」
「また、今や、悪の快さはこのように忌まわしく悪臭を放つことを知ったので、さらにまた、このように〔悪臭に〕満ちている者は天界にやって来れないことを知ることができます」。
この答えの後、彼らは同じような快さの中にいた者のところへ行きました。そこでなければ呼吸することができなかったからです。

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305◀︎目次▶︎307

306 天界と地獄について、今や与えられた観念から、人間の心がどんなものであるか明らかにすることができます。なぜなら、言われたように、人間の心または霊は、天界あるいは地獄の最小の形をしているからです。すなわち、彼の内的なものは、大小の社会の中のように属と種に分かれて、そして一つとして働くように結合している情愛とここからの思考そのものです。主はそれらを天界または地獄を支配するのと同じように支配されています。
人間が天界あるいは地獄の最小の形をしていることは、1758年ロンドンで出版した著作『天界と地獄』の中に見られます(51-87番)。

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306◀︎目次▶︎308

307 さて、目的の事柄は、「主は地獄を正反対のものによって支配され、世の中にいる悪い者を内的なものに関して地獄の中で支配され、外的なものに関して支配されないこと」でした。
第一のものについては、「主は地獄を正反対のものによって支配されること」です。
前に、天界の天使たちは愛と知恵の中に、すなわち、善とここからの真理の思考の中に、自分自身からはいないで、主からいること、また天界から善と真理が地獄の中に流入し、そこで善は悪に、真理は虚偽に変わること、その理由は彼らの心の内的なものは対立するものに変わるからであることが示されています(288, 289番)。
そこで、地獄のすべてのものは天界のすべてのものに対立するものであるので、主は地獄を正反対のものによって支配されることがいえます。
[2]第二の「主は、世の中にいる悪い者を地獄の中で支配されること」は、人間は自分の霊に関して霊界の中に、そこの何らかの社会の中に、悪い者であるなら地獄の社会の中に、善い者であるなら天界の社会の中にいるからです。というのは、本質的に霊的なものである人間の心は、霊的なものの間にしか存在することができず、さらにまた死後、それらの間にやって来るからです――このようであることもまた前に言われ、示されています。
しかし、人間はそこの社会に割り当てられている霊のようではありません。というのは、人間は絶えず改心の状態の中にいるから。それゆえ、自分のいのち(生活)とその変化にしたがって、悪い者であるなら、地獄のある社会から他の社会へ、主により移されます。しかし、改心することが許されるなら、地獄から連れ出され、天界の中に引き上げられ、そしてまた、そこのある社会から他の社会へ移され、このことが死までも〔ずっと続きますが〕、その後は、もはや社会から社会の中へ運ばれることはありません、その時、改心の何らかの状態の中にいないからであり、いのち(生活)にしたがって、その中にとどまります。
それゆえ、人間は死ぬ時、自分の場所が割り当てられています。
[3]第三――「主は悪い者を世の中で内的なものに関して支配され、外的なものに関してはそのようではないこと」
今、言われたように、主は人間の心の内的なものを支配されますが、しかし、外的なものを天界と地獄の中間にある霊たちの世界の中で支配されます。
その理由は、大部分の人間が、外なるものと内なるものの中で別ものであるからです。というのは、外なるものの中で光の天使を装い、それでも内なるものの中で暗やみの霊であることができるから。それゆえ、彼の外なるものと内なるものは異なって支配されます。世の中にいるかぎり、外なるものは霊たちの世界の中で支配されます、けれども、内なるものは天界の中あるいは地獄の中で支配されます。それゆえ、死ぬとき、最初に霊たちの世界に、そこで自分の外なるものの中にやって来て、その外なるものはそこで捨てられます。それを捨てて、割り当てられている自分の場所に運ばれます。
霊たちの世界とは何か、またそれがどんなものか、1758年、ロンドンで出版された著作『天界と地獄』の中に見られます(421-535番)。

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307◀︎目次▶︎309

(11)神的な摂理は、だれにも悪を、善も、自分のものとさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別が両方のものを自分のものとする

308 ほとんどだれにも、「人間は自分自身から考え、意志している。ここから自分自身から話し、行動している」と信じられています。
自分自身からである時、だれが他のことを信じることができますか?外観が自分自身から実際に考え、意志し、話し、行動するのと何も違わないほどにも強いとき、それでもそのことはありえません。
『神の愛と知恵』の中に、唯一のいのちが存在し、人間はいのちを受容するものであること、なおまた、人間の意志が愛の容器であり、そして人間の理解力が知恵の容器であること、それら二つが唯一のそのいのちであることが示されています。
さらにまた、創造から、神的な摂理から、絶えずそのいのちが人間の中に、彼のものであるように、このような似ているものの中に、それゆえ、プロプリウムのように見られるように存在すること、しかし、このことは人間が〔その〕容器であることができる目的のための外観であることが示されています。
人間はだれも自分自身から考えないで、他の者から、また、他の者も自分自身からでなく、しかしすべての者は主から、このように悪い者も善い者も考えることもまた、前に示されています(288-294番)――なおまた、このことはキリスト教世界の中に、特に、「すべての善と真理は、すべての知恵もまた、このように信仰と仁愛は主からであり、そしてまた、すべての悪と虚偽は悪魔から、すなわち、地獄からである」と言うだけでなく、信じる者のもとでもまたよく知られています。
[2]これらすべてのことから、人間が考え、意志するすべてのものは流入するという結論に従うことしかできません。すべての話は、結果がその原因からのように、思考から、同様に、すべての行動が意志から流れるので、さらにまた、たとえ派生的または間接的にであっても、人間が話し、行動するすべてのものは流入します。
人間が見、聞き、嗅ぎ、味わい、感じるすべてのものが流入することは否定されることができません。人間が考え、意志するもので流入しないものがありますか?
外なるまたは身体の感覚器官の中に自然界の中にあるようなものが流入し、内なるまたは心の感覚の有機的な実体の中に霊界の中にあるようなものが流入すること以外に何か違いが存在することができますか?それゆえ、外なるまたは身体の感覚器官が自然的な対象の容器であるように、内なるまたは心の感覚の有機的な実体は霊的な対象の容器です。
このような状態が人間にあるとき、何がその時、彼のプロプリウムですか?このプロプリウムは受け入れに関して彼がどんなものであるかによるのであって、彼のプロプリウムはこれやあれやの容器ではありません、いのちのあるプロプリウムでもありません。というのは、プロプリウムによって、だれかからのものでなく、自分自身から生きるもの、ここから自分自身から考え、意志するものしか意味されないからです――しかし、このプロプリウムは人間のもとにありません、それどころかだれのもとにも存在することができません、このことは前述のことから結果として生じます。

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308◀︎目次▶︎310

309 しかし、私は、霊界である者から聞いたものが何かを語りましょう。すべてのものはプロプリウムの思慮分別であり、そして神的な摂理は何ものでもないと信じていた者からでした。
私は、「あれこれのような主体、あるいはあれこれのような器官、またはあれこれのような形であるものを、あなたが人間のプロプリウムと呼びたくないなら、何らかのプロプリウムは人間にありません。これは単に性質であるのでプロプリウムで意味されるものではありません。全般的な意味でのプロプリウムのようなものは、人間のだれにもありません」と言いました。
すべてのものをプロプリウムの思慮分別に帰した者、さらにまたは自分の想像の中で「自力で行なった」と呼ばれることができる〔と思っている〕者は、鼻から炎が見えるように激しく怒って、「あなたは背理や狂ったことを話している。それでは人間は無また狂気とならないか?あるいは観念や幻想とならないか?あるいは彫像または彫刻とならないか?」と言いました。
[2]しかし、私は、「人間は自分自身から、いのちであること、そしてまた知恵と思慮分別は、したがって仁愛である善と信仰である真理も、神から流入しないで、人間の中にある、と信じることが背理と狂気です」としか答えることができませんでした。
これらを自分自身に帰することは、すべての賢人により「気が狂っている」と呼ばれ、ここからもまた背理です。そして加えて、彼らは他の者の家に住み、その所有物をまかされた者のようであり、それらの中にいるとき、自分の主人のすべてのものを自分のものであると信じ、自分のものであると自分自身に説きつける管理人や執事のようです。また、「商売するように」と管理者である主人がタレントとミナを与えた召使いたちのようです。彼らは勘定書きを戻さず、しかし、自分のものとして保有し、このように泥棒を働いたのでした。
[3]これらの者に私は、「狂っています。それどころか無と空虚であり、なおまた、いのちのエッセそのものである善を、したがって真理も、主から自分自身のもとに持たない観念論者です」と言うことができました。それゆえ、このような者もまた「死んだ者」、そしてまた「無と空虚」(イザヤ40:17, 23)、また他の箇所に「像を作る者」、なおまた「彫像」や「彫刻」と呼ばれています。
しかし、これら多くのものについて、続くものの中で、次の順序で調べます――

(1)何がプロプリウムの思慮分別か、何がプロプリウムでない思慮分別か。
(2)人間はプロプリウムの思慮分別から、すべての善と真理は、同様にすべての悪と虚偽は、自分自身から、また自分自身の中にあることを自分自身に説きつけ、自分自身のもとで確信する。
(3)説きつけられ、確信したすべてのものはプロプリウムのように人間のもとに残る。
(4)人間が、すべての善と真理は主からであり、すべての悪と虚偽は地獄からであることを〝真理〟であると信じていたなら、自分自身に善を帰さず、その善を功績ともせず、自分自身に悪も帰さず、自分自身がそのことを行なうこともなかった。

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309◀︎目次▶︎311

310 (1)何がプロプリウムの思慮分別か、何がプロプリウムでない思慮分別か
外観を自分自身のもとに確信し、またそれらを〝真理〟とする者はプロプリウムの思慮分別の中にいます。特に、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は、何らからの普遍的なものでないなら何ものでもないとする外観です、それでもなお、前に示されているように、それらからの個々のものがなくては存在できません。
彼らは欺きの中にもまたいます、なぜなら、〝真理〟として確信されたすべての外観は欺きとなるからです。欺きからのものを自分自身に確信すればするほど、それだけ自然主義者となります。それだけ何らかの身体の感覚で同時に知覚することができるもの以外に何も信じません、特に視覚で〔知覚するものです〕、これはとりわけ思考と一つとして働くからです。これらの者はついに感覚的なものになります。
また、神に反して自然を自分自身に確信するなら、自分の心の内的なものを閉ざし、そしてヴェールのようなものを間に置き、そしてその後、ヴェールの下で考え、その上にあるものを何も考えません。
これらの感覚的な者は古代人により「知識の木のヘビ」と言われてきました。
彼らについて霊界の中で、〔感覚的なものを〕自分自身に確信するほど、「自分の心の内的なものを閉ざし、ついに鼻までも閉ざす」と言われています、というのは、鼻は真理の知覚を意味し、またその〔鼻をふさぐ〕ことは、何も知覚しないことを意味するからです。
彼らがどんなものであるか、今、述べます。
[2]彼らは他の者にまさってずるく、狡猾であり、才気のある理屈屋です。そして「ずるさと欺くこと」を「知性と知恵」と呼び、それ以外のことを知りません。
このようでない者を、特に神の礼拝者や神的な摂理の信者を単純な者や愚かな者のように眺めます。
彼らの心の内的な原理に関しては、それらについてその者自身もほとんど知りませんが、彼らは自分自身を眺めたとき、殺人・姦淫・盗み・偽りの証言を無意味なものとするマキアヴェリの追随者と呼ばれる者のようです、それらに反して推論するなら、そのような者として見られないための思慮分別だけからです。
[3]世の人間のいのちについては、獣のいのちと似ているとしか考えません。死後の人間のいのちについては、生命のある蒸発気のようであること、それは死体または墓から発生し、戻り、このように死ぬと考えています。
ここから、永遠のいのちを信じるようにされている者に、「霊と天使たちは空気であり、人間の霊魂も同様である。このように見も、聞きも、話しもしないこと、それゆえ盲目で、つんぼで、おしである。ただ自分のわずかな空気の中で考えているだけである」という狂気があります。
彼らは、「どのようにして、霊魂は何らかのものであることができるのか?外なる感覚は身体と一緒に死ぬのではないか?霊魂が身体に再結合されるより前に、それらの感覚を受けることはできない」と言います。また霊的にでなく、感覚的にしか理解することができなかったので、霊魂の死後の状態を、〔そのようなものであると〕確定させました。そうでなければ、永遠のいのちについての信仰は滅びていたでしょう。
特に、彼らは自己愛を、いのちの火と呼び、役立ちの分野の中でいろいろなものへの刺激と呼んで、自分自身のもとで確信します。
彼らはこのような者であるので、自分自身が偶像でもあり、彼らの思考は、欺きのものまた欺きからのものであるので、虚偽の像です。欲望の快さに好感を持つので、彼らはサタンと悪魔です。悪の欲望を自分自身のもとで確信した者は「サタン」と呼ばれ、その欲望に生きる者は「悪魔」と呼ばれます。
[4]最も狡猾な感覚的な人間がどんなものであるかもまた知ることが与えられました。
彼らの地獄は深くて、後ろにあり、彼らは目に見えないことを欲しています。それゆえ、そこで幽霊のように飛び回って見え、それは彼らの幻想であり、悪鬼と呼ばれます。
かつて、その地獄からある者が送り出されました。〔彼らが〕どんなものか私が知るためです。
彼らは直ちに私の後頭部の下の首に寄り添い、ここから私の情愛の中に入りました。思考の中に入ろうとしないで、それを巧みに避けました。私の情愛を、気づかれずに、悪の欲望である正反対のものに曲げようとするつもりで、あるものから他のものへと変えました。私の思考には何も影響を及ぼさず、私が知らないうちに、主が向きを変えさせなかったなら、それらを曲げ、逆さにしてしまったでしょう。
[5]世で何らかの神的な摂理が存在することを信じない者、また他の者のもとに、彼らを導き、彼らを支配するような、彼らの欲望や願望以外に何らかのものを見つけ出さない者は、このような者になります。
そのことは他の者が知らないように、ひそかに、狡猾に行なわれ、死後、自分自身がそれに似た者になるので、それゆえ、霊界にやって来た時、直ちに、その地獄の中に投げ込まれます。
天界の光の中で見られるとき、彼らには鼻がありません。驚くべきことに、たとえこのように狡猾であるにしても、それでも他の者よりも感覚的です。
古代人は感覚的な人間を「ヘビ」と呼び、またこのような人間は、他の者にまさってずるくて狡猾で、才気走った理屈屋であるので、それゆえ、

すべての野の獣にまさってヘビは狡猾であった(創世記3:1)。

と言われています。主は言われています、

あなたがたはヘビのように賢明であり、ハトのように素直でありなさい(マタイ10:16)。

そしてまた、古いヘビ、悪魔やサタンと呼ばれる竜は、

七の頭と十の角を、また頭の上に七つの王冠を持っている(黙示録12:3, 9)

と述べられています。「 七つの頭」によって狡猾が意味され、「 十の角」によって欺きによる説得力が意味され、「 七つの王冠」によってみことばと教会の聖なるものの冒涜が意味されます。

神の摂理

310◀︎目次▶︎312

311 プロプリウムの思慮分別とその中にいる者の記述から、プロプリウムでない思慮分別とその中にいる者がどんなものであるか見ることができます。すなわち、プロプリウムの思慮分別でない思慮分別は、「どのようにして、だれが自分自身から賢明であることができるのか、どのようにして、だれが自分自身から善を行なうことができるのか?」と言って、知性と知恵は人間からでないことを、自分自身のもとに確信していない者の思慮分別です。
このことが言われるとき、自分自身の中でそのようであることを見ています、というのは、内的に考えるから。そしてまた、他の者たちが、特に学識のある者たちが、同様に考えると信じています、外的にだけ考えることができる者がいることを知らないからです。
[2]彼らは外観の何らかの確信による欺きの中にいません。それゆえ、殺人・姦淫・盗み・偽りの証言が罪であることを知り、知覚し、それゆえ、それらを避けます。なおまた、悪意が知恵ではなく、狡猾が知性ではないことも知ります。欺きからの才気走った推論を聞くとき、いぶかり、自分自身の中で微笑みます。
その理由は、彼らのもとに内的なものと外的なものの間の垂れ幕が、すなわち、感覚的な者のもとにあるような心の霊的なものと自然的なものの間の垂れ幕がないからです。それゆえ、天界から流入を受け、その流入から内的にこのようなものを見ます。
[3]彼らは他の者よりも単純にまた誠実に話し、そして生活の中に知恵を置き、話の中に置きません。
プロプリウムの思慮分別の中にいる者と比較すれば、子羊や羊とオオカミやキツネのようです。家の中に住み、窓を通して空を見る者のようですが、プロプリウムの思慮分別の中にいる者は家の地下室の中に住み、その窓を通して地の下にあるものしか見ない者のようです。山に立ち、プロプリウムの思慮分別の中にいる者が谷や森の中をさ迷っているように見る者のようです。
[4]これらから、プロプリウムでない思慮分別が主からの思慮分別であること、外なるものの中で似た外観の中にあるプロプリウムの思慮分別とは、内なるものの中ではまったく似ていないことを明らかにすることができます。内なるものの中では、プロプリウムでない思慮分別は霊界の中で人間のように見えます、しかし、プロプリウムの思慮分別の中にいる者は、推理力と自主性から、すなわち、理解し、意志し、ここから話し、行動する能力だけから、それでも生きているように見える肖像のようです。それらの能力によって、偽り装うこと、さらにまた人間であることができます。
このようなものは肖像です、悪と虚偽は生きていません、善と真理だけが生きているものであるからです。このことを自分の推理力から知るので自分の肖像の中に人間の生命力をもちます、なぜなら、知らないなら、それを偽り装わないからです。
[5]内なるものがどんなものかによって人間はそのようなものであること、したがって、外的にどんなものであるか見られたい者が内的にその人間であること、内的でなく単に外的に人間である者は肖像であることを、だれが知ることができませんか?
神のために、宗教、公正と誠実のために、あなたが話すように、そのように考えてみなさい、するとあなたは人間になります。その時、神的な摂理があなたの思慮分別となり、あなたは他の者のもとのプロプリウムの思慮分別が狂気であることを見ます。

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311◀︎目次▶︎313

312 (2)人間はプロプリウムの思慮分別から、すべての善と真理は、同様にすべての悪と虚偽は、自分自身から、また自分自身の中にあることを自分自身に説きつけ、自分自身のもとで確信する
自然的な善と真理それと霊的な善と真理の間の類推によって論証を行ないます。
質問されます、「目で見る真理と善は何か?美しいものと呼ばれるものに真理が、快いものと呼ばれるものに善があるのではないか?というのは、快さは美しいものを見ることから感じられるから。聞くことでの善と真理は何か?そこに調和したものと呼ばれるものに真理が、そこに楽しさと呼ばれるものに善があるのではないか?というのは、楽しさは調和したものを聞くことから感じられるから」。
他の感覚でも同様です。
ここから、何が自然的な真理と善か明らかです。
そこで、何が霊的な真理と善か熟考してみなさい。
霊的な真理は、霊的な事柄や対象からの美しいものや調和するものでないなら何ですか?霊的な善は、それらの美しいものまたは調和するものを知覚した快さと楽しさでないなら何ですか?
[2]さて、あるものと他のものについて比べて何か言われることができないか、見られるでしょう。すなわち、自然的なもの比べて霊的なものについてです。
自然的なものについて、美しいものと快いものが対象から目の中に、調和するものと楽しいものが楽器から耳の中に流入することが言われます。
心の有機的な実体の中に何か〔相違が〕ありますか?
霊的なものについては、それらが内在すると言われ、自然的なものについては、それらが流入すると言われます。しかし、「なぜ流入するのか」と言われ、質問されるなら、「隔たりが見られるから」と答えることしかできません。また、「なぜ内在すると言われるのか」と質問されるなら、「隔たりが見られないから」と答えることしかできません――したがって、人間が見、聞くものと比べて、考え、知覚するものについて何らかのものが信じられ、それらをつくるものは、隔たりの外観です。
しかし、自然的なものが隔たり(距離)の中にあるようには霊的なものが隔たり(距離)の中にないことが知られる時、このことは倒壊します。
太陽と月について、またはローマとコンスタンティノープルについて考えなさい――それらは思考が視覚または聴覚を通して事実の経験に結合されていないかぎり、距離感のない思考の中に存在するのではありませんか?
なぜ、あなたは自分自身に、思考の中に距離(隔たり)は見られないので、善と真理は、そのようにまた、悪と虚偽はそこにあって流入しない、と説きつけようとするのですか?
[3]私はこれらに霊界の中で普通の経験を言い足します。
ある霊は自分の思考と情愛を他の霊の中に注ぎ込むことができ、それが自分の思考と情愛のプロプリウム(固有のもの)であるとしか知りません。このことは、そこでは他の者から考えること、他の者の中で考えることと呼ばれます。
このことを、私は千回も見、そしてまた、百回も行ないました。それでもなお、隔たりの外観ははっきりしていました。
しかし、それらの思考と情愛をもたらした他の者がいたことが知られると直ぐに、彼らは憤慨し、身を背けました。それでも隔たりは外なる視覚、すなわち、目の中のように示されないなら、内なる視覚、すなわち、思考の中に見られないことを認め、ここから流入すると信じられています。
[4]これに私は自分の日々の経験を付け加えます。
悪霊がしばしば私の思考の中に悪と虚偽を持ち込み、それらは私のもとで、私の中に、私から存在したように、すなわち、私自身がそれらを考えたように見られました。しかし、私は悪と虚偽であったことを知ったので、私はだれがそれらを持ち込んだか調べ、そしてそれがあばかれ、追い払われました。彼らは私から非常に隔たった中にいました。
これらから、すべての悪はその虚偽とともに地獄から流入し、そしてすべての善はその真理とともに主から流入すること、両方とも人間の中にあるように見えることを明らかにすることができます。

神の摂理

312◀︎目次▶︎314

313 プロプリウムの思慮分別の中にいる者がどんなものであるか、プロプリウムでない思慮分別の中にいる者、ここから神的な摂理の中にいる者がどんなものであるかが、みことばの中で、エデンの庭園の中のアダムとその妻エバによって、そこに一つは「いのちの木」、もう一つは「善悪の知識の木」の二つの木があって、この木から彼らが食べることによって描かれています。
アダムとその妻エバによって内なるまたは霊的な意味で、この地上の主の最古代教会が意味され、描かれており、続く教会よりも高貴で、天的であったことが前に見られます(241番)。
[2]その他のものによって意味されるものは次のものです。「エデンの園」によってその教会の人間の知恵、「いのちの木」によって神的な摂理に関する主、「知識の木」によってプロプリウムの思慮分別に関する人間が意味されます。「蛇」によって人間の感覚的なものとプロプリウムが意味され、それは本質的に自己愛とプロプリウムの知性の高慢であり、そのように悪魔とサタンです。「知識の木から食べること」によって、善と真理を自分のものとすること、これらが主からでなく、ここから主のものでなく、しかし、人間から、ここから人間のものであることが意味されます。
善と真理は人間のもとの神性そのものであるので、というのは、善によって愛のすべてのもの、真理によって知恵のすべてのものが意味されるから、それゆえ、人間がそれらを自分のものとして要求するなら、〔自分が〕神のようであるとしか信じることができません。それゆえ、蛇は言いました、

あなたがそれを食べるその日に、あなたの目は開かれ、あなたは善と悪を知る神のようになります(創世記3:5)。

このように、自己愛とここからプロプリウムの知性の高慢の中にいる者は地獄の中で振る舞います。
[3]「蛇の断罪」によって愛のプロプリウムと知性のプロプリウムの断罪が意味され、「エバの断罪」によって意志のプロプリウムの断罪、「アダムの断罪」によって理解力のプロプリウムの断罪、「いばらとあざみ」によって、その地で彼に芽生えてくる虚偽と悪そのものが意味されます。「園から追い出すこと」によって、知恵の剥奪が意味されます。「いのちの木への道を守ること」によって、みことばと教会の聖なるものが害されないようにとの主の保護、編み合わせた「いちじくの葉」によって、裸であること、彼らの愛と高慢が隠され道徳的な真理が意味されます。その後に着せられた「皮の衣」によって、真理の外観の中にだけいることが意味されます。
これがそれらの霊的な意味です。
しかし、文字どおりの意味の中にとどまることを欲する者は、ただそれらは天界の中でそのように理解されることだけを知っておけばよいでしょう。

神の摂理

313◀︎目次▶︎316

314 プロプリウムの知性から愚鈍となった者がどんなものであるか、内的な判断の事柄における彼らの妄想から明らかにすることができます。流入・思考・いのちについて例とします。
「流入」について、彼らは、「目の視覚が心の内なる視覚である理解力の中に流入する、耳の聴覚が内なる聴覚の中に、それもまた理解力ですが、その中に流入する」と逆に考えています。意志からの理解力が目の中と耳の中に流入すること、またそれらを感覚のものだけとしないで、自然界の中で自分の道具のようにそれらを用いることを認めません。
しかし、このことは外観にしたがっていないので、「自然的なものは霊的なものの中に流入しない、しかし、霊的なものが自然的なものの中に流入する」とだけ言われるなら、このことを認めません。そしてその時、それでも、「さらに純粋な自然的なものでないなら、霊的なものとは何か?」なおまた、「もし目が何らかの美しいものを見、耳が何らかの調和するものを聞くなら、理解力と意志である心は、喜ぶように見えるではないか?」と考えています。目はそれ自体からは見ず、舌もそれ自体からは味わわず、鼻もそれ自体からは嗅がず、皮膚もそれ自体から感じないことを知りません。それらを感覚で知覚するものは人間の心または霊であり、それがどんなものかにしたがってその感覚から働きかけられています。しかしそれでも、人間の心または霊はそれらをそれ自体からは感じないで、主から感じており、これと異なって考えることは外観からであり、もし〔そのことが〕確信されるなら、〔それは感覚の〕欺きからです。
[2]「思考」について、彼らは、「空気の中の何らかの変化物であり、対象にしたがって変化し、耕されるにしたがって増大されるものである、したがって思考の観念は空気中に見られる流星のような想像の産物であり、記憶は刻みつけられる板である」と言います。視覚と聴覚が有機的な実体の中にあるように、それと等しく、思考が純粋な有機的な実体の中にあることを知りません。
脳だけでも眺めてみなさい、するとそれがこのような実体(物質)で満ちているのが見られます――それらを傷つけてみなさい、するとあなたは気が狂います、そしてそれらを破壊してみなさい、するとあなたは死にます。
けれども、何が思考か、また何が記憶かは、前に見られます(279番末尾)。
[3]「いのち」については、何らかの自然の活動であり、生きている身体がそれ自体を有機的に動かすように、それ自体をいろいろな方法で感じさせることを行なうこと以外に、何も知りません。
「そのように自然は生きています」と言われるなら、このことを否定し、「自然が生きることを与える」とします。
「身体が死ぬとき、その時、いのちは消散させられませんか?」と言われるなら、「いのちは霊魂と呼ばれる空気の小部分の中に残る」と答えます。
「そのとき、神とは何ですか?それはいのちそのものではありませんか?」と言われるなら、これに関しては黙り、考えていることを言い表わそうとしません。
「あなたがたは神的な愛と神的な知恵がいのちそのものであって欲しいのですね?」と言われるなら、「愛とは何か、知恵とは何か?」と答えます。
なぜなら、自分の欺きの中でこれらが何か、神が何かも見ないからです。
これらのことは、すべてのものを外観からまたここからの欺きから推論したという理由で、人間がプロプリウムの思慮からどのように愚鈍とされるか見られるために、提示されました。
〔初版に315番はありません〕

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314◀︎目次▶︎317

316 すべての善と真理は人間から、人間の中にあることをプロプリウムの思慮分別が説きつけ、確信するのは、プロプリウムの思慮分別が人間の意志のプロプリウムである自己愛から流入する人間の知的なプロプリウムであるからであり、プロプリウムは、すべてのものを自分自身のものにすることしかできません。というのは、それから高揚されることができないからです。
主の神的な摂理により導かれるすべての者は、プロプリウムから高揚され、その時、すべての善と真理は主からであることを見ます、それどころか、主から人間の中にあるものは永続的に主にあること、決して人間にないことも見ます。
〔これと〕異なって信じる者は、自分の主人の財産を自分自身のもとに蓄えて保持する者のようであり、それらを自分自身に要求するかまたは自分のものとして専有します。その者は執事でなく、泥棒です。人間のプロプリウムは悪でしかないので、それゆえ、彼はまたその財産を自分の悪の中に浸し、そのことから、糞または酸い液体に投げ込まれた真珠のように、その財産は消費されます。

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316◀︎目次▶︎318

317 (3)説きつけられ、確信したすべてのものはプロプリウムのように人間のもとに残る
何らかの真理は証明からでなければ、人間に見られることはできない、と多くの者に信じられています、しかし、このことは虚偽です。
それらの中に、王国と共和国の市民的なことと経済的なことの中には、多くの規定や規範が知られないなら、役立つものや善は見られることができません。そして裁判の事柄のものは、法律が知られないなら。自然の事柄は、例えば、物理学・化学・解剖学・機械学は、人間が知識を教え込まれていないなら、見られることはできません。
しかし、純粋に理性的なもの・道徳的なもの・霊的なもののその真理は、人間が正しい教育から多少とも理性的に、道徳的に、霊的になっているかぎり、それらの光そのものから見られます。
その理由は、それぞれの人間は、考える者である自分の霊に関して霊界の中に、そしてそこの他の者の間に、それゆえ、霊的な光の中にいて、その光により彼の内的な理解力が照らされ、いわば指図されるからです。
なぜなら、霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的な真理であるからです。
ここから、人間が分析的に考え、裁判の中で正しいものまた真っ直ぐなものについて結論し、そして道徳的な生活の中で尊敬すべきものを、霊的なものの中で善を見ることができます。そしてまた虚偽の確信からでないなら、暗やみの中に落ち込まない多くの真理を見ることができます。
人間がそれらを見るのは、比較すれば、それぞれの者に生来のものであって、それ以外の他の知識なしに、他の者の顔つきから彼のアニムスを見、彼の話し声から彼の情愛に気づくのと、ほとんど異なりません。
どんな動物でも、流入から自然的なものである自分に必要なものを知っているのに、なぜ、人間は流入からある程度、霊的で道徳的なものである自分のいのちの内的なものを見ないのですか?
鳥は、巣をつくり、卵を産み、ひなをかえすことを知っており、自分の食べ物を熟知しています。加えてほかにも、本能と呼ばれるものに驚くべきものがあります。

神の摂理

317◀︎目次▶︎319

318 しかし、どのように人間の状態が確信とここからの信念から変えられるか、ここに次の順序で述べます。

(1)確信されることができないものは何もなく、真理よりも虚偽が確信される。
(2)虚偽の確信からは真理は見られず、真理の確信から虚偽が見られる。
(3)何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうる。
(4)意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在すること、しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたある。
(5)意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにすること。けれども、理解力だけからの確信なら、このことは行なわれない。
(6)意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る。けれども、理解力だけから確信されるものは残らない。

[2]最初のものに関して、確信されることができないものは何もなく、虚偽が真理よりも確信される
無神論者により、神は全世界の創造主ではなく、自然が全世界の創造者であることが確信されるとき、確信されることができないものが何かありますか。宗教は単なる束縛であり、単純な者や大衆のためのものです。人間は獣のようなものであり、同じように死にます――姦淫と同様に、ひそかな盗み・ごまかし・欺きの策謀が許される、と確信されるとき、欺くことは知性、悪意は知恵でありませんか?
だれが自分の異端を確信しませんか?
キリスト教世界の中で支配している二つの異端のための本がその確信で満ちていませんか?
十もの異端を、さらにまた難解な異端をつくり、才気ある者に証明するように言いなさい、するとすべてのものを証明するでしょう。
その後、それらをあなたが確信したものだけから見るなら、あなたは虚偽を真理として見ませんか?
すべての虚偽は自然的な人間の中で外観とその欺きから輝いて見え、真理は霊的な人間の中でないなら輝かないので、虚偽は真理よりも確信されることができることが明らかです。
[3]すべての虚偽とすべての悪は、虚偽が真理のように、そして悪が善のように見られるようにまで、確信されることができることが知られるように、例として――光が暗やみであり、暗やみが光であることを証明してみます、
「何が本質的に光か?目の中にその状態にしたがって見られるものでないなら存在するのか?閉ざされた目に光とは何か?このような目がコウモリやフクロウにないのか?光を暗やみとして、暗やみを光として見ていないか?私は、同様に見ている者について聞いたことがある。地獄の者もまた、たとえ暗やみの中にいても、それでも互いに見ていることである。人間には真夜中の夢の中に光がないのか。このように暗やみは光であり、光は暗やみではないのか?」と言われることができませんか?
しかし、「これは何ですか?真理が真理であるように、光は光です。虚偽が虚偽であるように、暗やみは暗やみです」と答えることができます。
[4]さらに例を上げます――
カラスは白いことの証明です。
次のように言うことができませんか、「その黒さは単に陰である、それは実在しないのではないか?その羽は内部で白である、からだも同様である。それら〔内部〕からのものが実体である―–その黒さは陰であるので、それゆえ、カラスは老年になるとき白くなる。このようなカラスが見られる。白でないなら何が本質的に黒か?黒いガラスをすりつぶせ、するとあなたは、ちり(細かく分かれた物質)が白いことを見るであろう。それゆえ、あなたがカラスを黒いと呼ぶとき、あなたは陰から話し、実在するものから話していない」。
しかし、「これは何ですか?それなら、すべての鳥は白い、と言えるでしょう」と答えることができます。
これらは、たとえ健全な理性に反していても、真理とまったく正反対の虚偽、そして善とまったく正反対の悪が証明できることが見られるために示しました。
[5]第二――虚偽の確信からは真理は見られず、真理の確信から虚偽が見られる
すべての虚偽は暗やみの中に、すべての真理は光の中にあり、そして暗やみの中で何も見えません、それどころか手探りでないなら何も知られません、光の中では異なります。
それゆえ、みことばの中でもまた虚偽は暗やみと呼ばれており、ここから、虚偽の中にいる者は、「暗やみの中を、死の陰の中を歩く」と言われます。逆に、みことばで真理は光と呼ばれており、ここから真理の中にいる者は、「光の中を歩く」と言われ、光の子と呼ばれます。
[6]虚偽の確信で真理が見られず、真理の確信からは虚偽が見られることは、多くのことから明らかです――例えば、みことばが霊的な何らかの真理を教えないなら、だれがそれを見ますか?
光によって、その光の中にみことばがあり、照らされることを欲する者でないなら、追い散らされることのできなかった暗黒そのものだったのではありませんか?
教会の純粋な真理を許容しないなら、異端者のだれが自分の虚偽を見ることができますか、それ以前に彼はその虚偽を見ません。
私は、仁愛から分離した信仰を確信した者と話し、そして私は、「みことばの中に、愛と仁愛、働きと行為、戒めの遵守について、多くのものがある」のを見たかどうか、また「行なう者は祝福され、賢明であり、そして行なわない者は愚かである」ことについて質問しました。彼らは、「それらを読んでいる時、信仰であるとしか、また目を閉ざして通り過ぎたようにしか見なかった」と言いました。
[7]虚偽で確信した者は、壁の中に線条を見る者のようです、夕方の陰の中のとき、その線条を想像力の中で乗馬者または人間のように見ますが、その幻想の像は流入する日の光により消散させられます。
貞潔の霊的な清潔さの中にいる者でないなら、だれが姦淫の霊的な不潔さを感じることができますか?
隣人愛からの善の中にいる者でないなら、だれが復讐の残酷さを感じることができますか?
姦淫者、復讐を切望する者のだれが、彼らの快さを地獄のものと呼び、そして逆に結婚愛と隣人愛の快さを天界のものと呼ぶ者を、愚弄しません?等々。
[8]第三――何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうる
最も巧みに証明する者が存在します。その者は何らかの真理を知らず、それでも真理と虚偽とを証明することができます。彼らのある者は、「真理とは何か?存在するのか?私が真理とするものが真理ではないのか?」と言います。
これらの者は世の中で知性ある者と信じられていますが、それでもなお、壁の石膏細工人でしかありません。
真理が真理であることを知覚し、このことを知覚したいろいろなものによって絶えず確信する者だけが知性のある者です。
この二者は、確信の光と真理の知覚の光の間を見分けられることができないので、ほとんど見分けられることができません、確信の光の中にいる者が真理の知覚の光の中にもまたいるとしか見られません、そのときそれでも愚かな光とほんものの光の間のような違いがあります。霊界の中の愚かな光は、流入するほんものの光を暗やみに変えるようなものです。
このような愚かな光が地獄の中の多くの者のもとにあり、その者はほんものの光の中に送り出される時、まったく何も見ません――これらから、何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうることが明らかです。
[9]第四――意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在する、しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたある
明らかにするために例を示します。
仁愛から分離した信仰を確認し、それでも仁愛の生活を送る者は、一般的に、その者は教えの虚偽を確信しますが、それでもなおそれにしたがって生きません。その者は理解力からの確信の中にいて、同時に意志からの確信の中にはいません――しかし、教えの虚偽を確信する者は、それにしたがって生き、彼らは意志からの確信の中に、同時に理解力からの確信の中にいます。
その理由は、理解力は意志の中に流入しないで、意志が理解力の中へ流入するからです。
これらからもまた悪からの虚偽が何であり、悪からでない虚偽が何であるか明らかです――悪からでない虚偽は善と結合されることができます、けれども悪からの虚偽は結合されることができません。その理由は、悪からでない虚偽は理解力の中の虚偽であって、意志の中になく、悪からの虚偽は意志の中の悪から理解力の中の虚偽であるからです。
[10]第五――意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにする。けれども、理解力だけからの確信なら、このことは行なわれない
自分自身のもとに世の外観からプロプリウムの思慮分別を確信しますが、それでも神的な摂理を否定しない多くの者がいます。これらの者には理解力だけからの確信があります。しかし、同時に神的な摂理を否定する者には意志からの確信もまたあります。これらは特に、自然の崇拝者と同時に自分自身の崇拝者である者のもとでその信念と一緒になっています。
[11]第六――意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る。けれども、理解力だけから確信されるものは残らない
というのは、理解力だけからのものは、人間の中になく、彼の外にあり、意志により受け入れられるものでないなら、思考の中にだけあり、決して人間に入らず、彼のものになることもないからです。というのは、意志により受け入れられるものは彼のいのちの愛のものになるからです。これが永久に残ることは、この次の箇所で述べます。

神の摂理

318◀︎目次▶︎320

319 意志で、同時に理解力で確信されたすべてのものが永遠に残ることは、それぞれの者が自分の愛であり、愛は彼の意志のものであるからです。なおまた、それぞれの人間が自分の善または自分の悪であるからです。なぜなら、愛のものであるものは善と言われるからであり、悪も同様です。
人間は自分の愛であるので、自分の愛の形でもあり、そして自分のいのちの愛の器官と呼ばれることができます。
人間の愛の情愛とそこからの思考は彼の心の器官(有機体)の純粋な実体的な変化と相違(多様性)の状態と形であることが前に言われました(279番)。ここで、それらの変化と相違(多様性)が何で、どんなものであるかを述べます。
それらの観念は心臓と肺の拡張と圧縮、すなわち、膨張と収縮の交替により比較されることができ、それらは心臓の中で心収縮と心拡張、肺の中で呼吸と呼ばれます。それらは伸長と抑制、あるいは両方向に肺の小葉を広げることと圧縮することです――これらは心臓と肺の変化と相違(多様性)です。
類似のものが身体の残りの小さい内部器官の中に、そしてまたそれらの部分の中にまったく同様に存在し、それらによって血液と生命のある体液が受け入れられ、送り出されています。
[2]前に示されたように、さらにまた類似のものが人間の情愛と思考の主体である心の有機的な形の中に存在します。そこには相違があって、これらの拡張と圧縮は、すなわち、相互の運動は、相対的に自然的な言語の言葉ではなく、霊的な言語の言葉でしか表現されることができないような、すぐれた完全性の中にあります。それは、永続しまた屈曲するらせんが、いのちを受け取る不思議な形となりながら、渦巻に似た内側へのらせんと外側へのらせんである、としか表現することができません。
[3]けれども、これらの純粋に有機的な(器官の)実体と形が、悪い者のもとでどんなものであるか、善い者のもとでどんなものか、ここで述べます。
善い者のもとでそれらの実体は前方へ向かう渦巻、けれども、悪い者のもとでは後方に向かう渦巻となっています。前方へ向かうものは、主へ向きを変えられ、その方から流入を受けます。しかし、後方へ向かうものは、地獄へ向きを変えられ、そここから流入を受けます。
知らなければならないことは、後方へ向きを変えられれば変えられるほど、それだけ背が開かれ、顔が閉ざされ、しかし逆に、前方へ向きを変えられれば変えられるほど、それだけ顔が開かれ、背が閉ざされることです。
[4]これらから、悪人がどんな形または器官であるか、善人がどんな形または器官であるか、正反対の回転の中にいることを明らかにすることができます。いったん導かれた回転は逆転させることができないので、死ぬときどんなであるかによって、永遠にそのように残ることが明らかです。
その回転をつくるもの、すなわち、それを向け、また逆にするものは、人間の意志の愛です、なぜなら、前に言われたように、それぞれの人間は自分の愛であるからです。
ここから、死後、それぞれの者が自分の愛の道を行き、善の愛の中にいる者は天界へ、悪の愛の中にいる者は地獄へ行きます。彼の支配愛がある社会の中に〔たどり着くの〕でないなら、休止もしません――また、鼻で嗅ぐように、それぞれの者が道を知っているのは、驚くべきことです。

神の摂理

319◀︎目次▶︎321

320 (4)人間が、すべての善と真理は主からであり、すべての悪と虚偽は地獄からであることを〝真理〟であると信じていたなら、自分自身に善を帰さず、その善を功績ともせず、自分自身に悪も帰さず、自分自身がそのことを行なうこともなかった
しかし、このことは知恵と思慮が人間からであるという外観を自分自身のもとに確信した者の信念に反し、彼らの心の組織の状態にしたがって流入しないので(そのことについては直前の319番)――それゆえ、明確になるように、次の順序の中で論証しなければなりません――

(1) 知恵と思慮分別が人間から存在し、ここから彼らの中に自分のものであるとの外観を自分自身のもとに確信する者は、そうでなければ〔人間は〕人間ではなく、獣あるいは彫像としか見ることができないが、そのとき、それでも正反対である。
(2) すべての善と真理は主から、すべての悪と虚偽は地獄からであることを真理であると信じ、考えることは不可能のように見えるが、それでもなお、そのことは真の人間性であり、ここから天使のものである。
(3) そのように信じ、考えることは、主の神性を認めない者に、悪が罪であることを認めない者に不可能である、しかし、それら二つを認める者に可能である。
(4) これら二つものの承認の中にいる者は、自分自身のもとの悪だけを考慮し、それらを罪として避け、退けるかぎり、その悪を自分自身からもとの地獄へ押し戻す。
(5) このように神的な摂理は、ある者に悪を、善もまた、自分のものにさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別がその両方のものを自分のものにする。

神の摂理

320◀︎目次▶︎322

321 しかし、これらのことは示された順序で説明されます。
第一――知恵と思慮分別が人間から存在し、ここから彼らの中に自分のものであるとの外観を自分自身のもとに確信する者は、そうでなければ〔人間は〕人間ではなく、獣あるいは彫像としか見ることができないが、そのとき、それでも正反対である
神的な摂理の法則から、人間は自分自身からのように考え、自分自身からのように慎重に行動するように、しかし、それでも主からであることを認めるようになっています。
ここから、自分自身からのように考え、慎重に行動し、同時に主からであることを認める者は人間であること、けれども、考え、行動するすべてものは、自分自身からであると自分自身のもとに確信する者は人間ではないことになります。なおまた、知恵と思慮分別は神からであることを知っていても、それでも流入を待つ者も人間ではありません。
というのは、後者は彫像のように、前者は獣のようになるからです。
流入を待つ者が彫像のようであることは明らかです。というのは、当然ながら、彼は動かないで立つかあるいは座り、手をゆるめ、まばたきもしないで目を閉ざすかあるいは目を開き、考えも、呼吸もしないからです。
その時、彼にいのちが何かありますか?
[2]「考え、行なう、すべてのものは自分自身からである」と信じる者が、獣と異ならないこともまた明らかです。なぜなら、獣と人間に共通である自然的な心だけから考え、真に人間的な心である霊的で理性的な心から考えないからです。というのは、この心は、神だけがそれ自体から考え、人間は神から考えることを認めるからです――それゆえ、このような者もまた、人間が話し、獣が音を出すこと以外に人間と獣の間の何らかの違いを知りません。両方のものが同様に死ぬと信じています。
[3]流入を待つ者について、さらにいくらかのことを述べておきます。
心から流入を望むわずかな者でないなら、何らかのものを受けません。この者は時々、思考の中の知覚力の道を通って、あるいはその中で無言の話し方、まれに明瞭な話し方を通して、何らかの応答を受けます。その時、このことは欲し、できるように、考え、行なうことであって、そのことを、賢明な者は賢明に行ない、愚か者は愚かに行なうことです。何を信じ、何を行なわなければならないか、決して教えられません。このことは、人間の理性や自由が滅びないようにとの理由からです。そのことは、すべての外観が自分自身からのようであるとき、それぞれの者が理性にしたがって自由から行動することです。
何を信じ、何を行なわなくてはならないか、主からも、天界のある天使からも教えられない者は、狂信的な者の霊からの流入、クエーカー教徒あるいはモラヴィア教徒の霊からの流入によって教えられる者であり、迷わされます。
主からのすべての流入は、理解力の照らしによって、真理への情愛によって、また後者によって前者の中へ生ずるものです。
[4]第二――すべての善と真理は主から、すべての悪と虚偽は地獄からであることを真理であると信じ、考えることは不可能のように見えるが、それでもなお、そのことは真の人間性であり、ここから天使のものである
「すべての善と真理は主からである」と信じ、考えることは、これを越えて何らかのものが言われないかぎり、可能に見えます。その理由は、「それらに反して考えることは許されない」という神学の信仰にしたがっているからです。
しかし、「すべての悪と虚偽は地獄からである」と信じ、考えることは、「人間は何も考えることができない」とこのようにもまた信じられているので、不可能に見えます。
しかし、それでも、人間は、たとえ地獄から考えるにしても、自分自身からのように考えます。主はそれぞれの者に、思考を、どんな源からであっても、彼の中に自分のもののように見えるように与えられているからです。そうでなければ、前の多くのものに示されているように、人間は人間として生きず、地獄からも連れ出されず、天界に導かれることもありません、すなわち、改心することができません。
[5]それゆえ、主もまた人間に、悪の中にいるなら地獄の中にいること、悪から考えるなら地獄から考えていることを知り、ここから考えることを与えられています。そしてまた、地獄からどのように出て、その地獄から考えないことができ、しかし、天界にやって来て、その場所で主から考えることができる手段を与えられています。そしてまた、人間に選択の自由を与えられています。
それらから、人間は悪と虚偽を自分自身から考え、そしてまた、あれこれが悪と虚偽である、と考えることができることが見られます。それゆえ、自分自身から考えることができることは単なる外観であり、その外観なしに人間は人間ではなくなってしまいます。
真理から考えることは、人間性そのものとここからの天使性です。人間は自分自身から考えないで、しかし、彼には主から、すべての外観の中で、自分自身からのよう考えることが与えられており、このことは真理です。
[6]第三――そのように信じ、考えることは、主の神性を認めない者に、悪が罪であることを認めない者に不可能である、しかし、それら二つを認める者に可能である
主だけが人間に考え、意志することを与えられるので、主の神性を認めない者に、そのことは不可能です。主の神性を認めない者は、その方から切り離されていて、自分自身から考える、と信じています。
悪が罪であることを認めない者にもまた不可能です。その者たちは地獄から考え、そこのだれもが、自分自身から考えている、と思っているからです。
けれども、それら二つのものを認める者に可能であり、前に豊富に提示されており(288-294番)、それらから明らかにすることができます。
[7]第四――これら二つの承認の中にいる者は、自分自身のもとの悪だけを考慮し、それらを罪として避け、退けるかぎり、その悪を自分自身からもとの地獄へ押し戻す
悪は地獄から、善は天界からであることを、だれが知りませんか、あるいは知ることができませんか?
ここから、人間が悪を避け、退ければ退けるほど、それだけ地獄を避け、退けることを、だれが知ることができませんか?
ここから、だれかが悪を避け、退ければ退けるほど、それだけ善を欲し、愛することを、だれが知ることができませんか?それゆえ、それだけ主により地獄から連れ出され、天界へ導かれませんか?
これらのことを理性的なすべての人間は、地獄と天界があることを知りさえすれば、悪と善はそれらを起源とすることを見ることができます。
さて、人間が自分自身のもとの悪を熟考し(自分自身を調べることと同じです)、それらを避けるなら、その時、自分自身を地獄から解放し、地獄を背後に退けます。そして自分自身を天界の中に引き入れ、そこで主を顔から眺めます。
人間がこのことを行なう、と言われ、それを自分自身からのように行ないますが、しかし、その時、主から行なっています。
人間がこの真理を、善い心からと敬虔な信仰から認める時、その後に自分自身から考え、行なうことすべてのものの中の内部にその真理が隠れています。あたかも種の中の内部に、新しい種にまで生長する生殖力が備わっているかのようなものです。また、あたかもいったん自分の健康に良いと認めたその食物に感じる食欲の快さのようなものです。一言でいえば、考え、行なうすべてのことの中の心臓と霊魂のようです。
[8]第五――このように神的な摂理は、ある者に悪を、善もまた、自分のものにさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別がその両方のものを自分のものにする
このことはここで言われたすべてのことから結果として生じます。
神的な摂理の目的は善です。そこで善をすべての働きの中で意図します。
それゆえ、ある者に善を自分のものにさせません、なぜなら、このようにしてその善は功績的なものになるからです。ある者に悪も自分のものにさせません、なぜなら、このようにして彼を悪いものにするからです。
それでも両方のものを人間はプロプリウムから行ないます、これは悪以外の何ものでもないからです。彼の意志のプロプリウムは自己愛であり、そして彼の理解力のプロプリウムは知性のプロプリウムの高慢です。このことから、プロプリウムの思慮分別があります。

神の摂理

321◀︎目次▶︎323

(12)すべての人間は改心することができ、予定は存在しない

322 健全な理性から、すべての者が天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されてないと指図されます。というのは、すべての者は〔そのような〕人間に生まれており、ここから神の像が彼らの中にあるからです。
神の像が彼らの中にあるとは、真理を理解することができ、善を行なうことができることです。
真理を理解することができるのは神的な知恵からであり、そして善を行なうことができるのは神的な愛からです。その力が神の像であり、それは健全な人間のもとに残り、根こそぎにされません。
ここから、市民的で道徳的な人間になることができ、市民的で道徳的な者は霊的な者になることができます、なぜなら、市民的で道徳的なものは霊的なものの容器であるからです。
自分の国の法律を知って、そこの市民であり、それらにしたがって生きる者は市民的な人間と言われます。それらの法律を自分の習慣に、自分の美点にし、理性からそれらを生きる者は道徳的な人間と言われます。
[2]さて、どのように市民的で道徳的な生活が霊的な生活の容器であるかを述べます――
市民的や道徳的な法律としてだけでなく、神的な律法としてもまた、それらの法に生きなさい、すると、あなたは霊的な人間になります。
法律によって、殺人してはならない、他の者の妻に淫行してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてならない、他の者のものを侵害してはならない、と定められていないような野蛮な国民はほとんど存在しません。
人間はこれらの市民的で道徳的な法律を、善い市民であるために、あるいは見られるために遵守します。しかし、それらの法律を同時に神的なものにしないなら、単に市民的で道徳的な自然的な人間です。しかし、それを神的なものにもするなら、市民的で道徳的な霊的な人間です。相違は、後者が世俗の王国の善良な市民であるだけでなく、天界の王国の善良な市民でもありますが、前者が世俗の王国の善良な市民であるけれども天界の王国の市民ではないことです。
彼らの行なう善が、彼らを分けます。市民的で道徳的な自然的な者が行なう善は本質的な善ではありません、というのは、人間と世がそれらの中にあるから。それらを市民的で道徳的な霊的な者が行なう善は本質的に善です、主と天界がそれらの中にいるからです。
[3]これらから、それそれの人間は、市民的で道徳的な自然的な者になることができるように生まれているので、さらにまた市民的で道徳的な霊的な者になることができるように生まれていること、〔そうなるためには〕神を認め、神に反しているので悪を行なわない、しかし神とともにいる〔ことになる〕ので善を行なうように〔すること〕だけであり、このことによって霊が彼の市民的なものと道徳的なもの〔の行為〕の中にやって来て、〔彼らは〕生き、しかし、それら〔の行為〕なしに何らかの霊はそれらの中になく、ここから〔彼らは〕生きないことを明らかにすることができます。
それゆえ、自然的な人間はどれほど市民的にまた道徳的に行動しても死んでいると言われ、霊的な人間は生きていると言われます。
[4]それぞれの国民に何らかの宗教があることは神的な摂理からであり、神の存在を認めることはすべての宗教の主要なものです、なぜなら、そうでなければ宗教と呼ばれないからです。自分の宗教に生きる、すなわち、自分の神に反するからと悪を行なわないすべての国民は、何らかの霊的なものを自分の自然的なものの中に受けます。
ある異教徒が、「あれこれの悪を行なうことを自分の神に反するので欲しない」と言うのを聞くとき、だれが自分自身に、「この者は救われるのではないか、これと異なるとは見えない」と言いませんか?このことは彼に健全な理性から指図されます。また逆に、キリスト教徒が、「あれこれの悪を私は何とも思わない、神に反していると言われるが、それは何のことか?」と言うのを聞くとき、だれが自分自身に、「この者は救われることができるのか?できないように見える」と言いませんか?
このこともまた健全な理性から指図されます。
[5]もし、「私はキリスト教徒に生まれた、洗礼を受けた、主を知った、みことばを読んだ、聖餐に出席した」と言っても、それらのことは、殺人または殺人したい復讐・姦淫・ひそかな盗み・偽りの証言またはうそ・いろいろな暴力を罪としないとき、何なのですか?このような者は、神についてまたは何らかの永遠のいのちについて考えていますか?存在する、と考えていますか?
健全な理性から、このような者は救われることができない、と指図されませんか?
異教徒がキリスト教徒よりも、自分の生活の中で宗教から神について考えているので、これらのことはキリスト教徒について言われました。
しかし、これらについて多くのことを続きの中で、次の順序の中で述べます。

(1)創造の目的は人類からの天界である。
(2)それゆえ、それぞれの人間は救われることができ、神を認め、善く生きる者が救われることは神的な摂理からである。
(3)救われないなら、責任は人間自身にある。
(4)このようにすべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない。

神の摂理

322◀︎目次▶︎324

323 (1)創造の目的は人類からの天界である
天界が人間に生まれた以外の他の者から構成されないことは、著作『天界と地獄』(ロンドン、1758年出版)の中に、そしてまた前に示されています。天界が他の者から構成されないので、創造の目的は人類からの天界であるといえます。
それが創造の目的であったことは、実に、前に示されました(27から45番)。しかし、同じことが次の説明からさらにはっきりと見られます。

(1)すべての人間は永遠に生きるように創造されている。
(2)すべての人間は幸福の状態の中で永遠に生きるように創造されている。
(3)このように、すべての人間は天界にやって来るように創造されている。
(4)神的な愛はそのことを意志する以外にできない、神的な知恵はそのことを備える以外にできない。

神の摂理

323◀︎目次▶︎325

324 これらからもまた、神的な摂理は天界へ予定されるものでしかないこと、また他のものに変えられることもできないことを見ることができるので、ここに、創造の目的が人類からの天界であることが提示された順序で示されなければなりません。
第一――すべての人間は永遠に生きるように創造されている
著作『神の愛と知恵』第三部と第五部の中に、人間のもとに「自然的」、「霊的」、「天的」と呼ばれるいのちの三つの段階があり、これらの段階は実際にそれぞれの者のもとにあること、獣のもとには、いのちの一つの段階しか存在しないで、それは自然的と呼ばれる人間の最も低い段階に似ていることが示されています。
そのことから、人間は主へ向かう自分のいのちの高揚によって、獣よりも、神的な知恵のようなものを理解し、神的な愛のようなものを意志し、このように神性を受け入れることができるような状態の中にいて、神性を受けることができる者は、このようにそれを本質的に見、知覚し、主と結合していること、その結合によって永遠に生きることしかできません。
[2]主は、全世界の創造のすべてのものを、ご自分の像と似姿にもまた創造されなかったなら、それらにご自分の神性の何を伝達することがおできになりますか?
そうでなければ、何らかのものが存在し、存在しないようにすること、すなわち、何らかのものを存在させ、存在させないようにすることは、遠くから単なる移り変わりを、何らかの舞台の上の絶え間なく変化するものを見つめるようなこと以外の何らかのものとなりますか?
神性をさらに近く受け入れ、そしてそれを見、感じる主体に仕えるような目的のためでなかったなら、それらの中の神性とは何ですか?
神性は無尽蔵の栄光に属すものであるのに、それをご自分のもとにだけしまっておかれるのですか、このことがおできになりますか?
というのは、愛は自分のものを他のものに伝達することを、それどころか、ご自分からできるかぎり与えることを欲するからです。
無限である神的な愛とは何ですか?
与え、再び取り去ることのできるものですか?
これは滅びるものを与えることになりませんか?滅びるとき無となり、内部に本質的に何らかのものがないなら、その中に「存在するもの」はありません。
しかし、「存在するもの」、すなわち、存在をやめないもの、永遠のものを与えられます。
[3]すべての人間が永遠に生きるために、彼のもとの死ぬべきものであるものは取り除かれます。
彼の死ぬべきものは物質的な身体であり、それは彼の死によって取り除かれます。
このように彼の不死のものが現わされ、それは彼の心であり、その時、人間の形の中で霊になります。彼の心はその霊です。
人間の心が死ぬことができないことは、古代の哲人または賢人が見ました。というのは「アニムス(気質)または心は賢くなることができるとき、どのようにして死ぬことができるのか?」と言ったから。そのことについて彼らの内的な観念は、今日ではわずかな者しか知りません。しかし、彼らの全般的な知覚の中に、「神は知恵そのものであられ、その小部分が人間である、神は不死また永遠である」というそれらの内的な観念が天界から注がれたのでした。
[4]私に天使たちと話すことが与えられたので、何らかのことをその経験からもまた述べます。
私は、多くの世紀の前に生きた者、洪水前の者また洪水後のある者、主の時代に生きた者、またその方の使徒からの一人、その後の時代の多くの者ともまた話しました。すべての者は中年の人間のように見られ、「死が何なのか知らない、断罪〔地獄へ落とされること〕だけがある」と言いました。
さらにまた、善く生きたすべての者は、天界の中にやって来る時、世で若々しく生きた自分の年齢の中で生き、その年齢に永遠にとどまります。世でよぼよぼの老人であった者もそうです、そして女性は、たとえ老いて、年取っても、自分の花の年齢に、美しさに戻ります。
[5]死後、人間が永遠に生きることは、みことばから明らかであり、そこに天界の中のいのち(生活)は「永遠のいのち(生活)」と呼ばれています。
(例えば、マタイ19:29, 25:46, マルコ10:17, ルカ10:25, 18:30, ヨハネ3:15, 16, 36, 5:24, 25, 39, 6:27, 40, 68, 12:50)
なおまた単に「いのち」とも呼ばれています(マタイ18:8, 9,  ヨハネ5:40, 20:31)。
主もまた弟子たちに、「 わたしが生きるので、あなたがたもまた生きます」(ヨハネ14:19)、よみがえりについては、「 神は生きている者の神であり、死んでいる者の神ではありません」(ルカ20:36, 38)、なおまたもはや死ぬことができないと言われました。
[6]第二――すべての人間は幸福の状態の中で永遠に生きるように創造されている
これが結果です。なぜなら、人間が永遠に生きるように欲する者は幸福の状態の中で生きるようにもまた欲するからです。
それなしに永遠のいのち(生活)とは何ですか?
すべての者の愛は他の者の善を欲し、両親の愛はこの善を欲します。婚約者の男と夫の愛は婚約者の女と妻の善を欲します。友情の愛は友情の善を欲します。
神的な愛は何を欲しませんか?
善は快さ以外の他の何を欲しませんか?神的な善は永遠の幸福以外の何ですか?
すべての善はその快さと幸福から善と言われます――与えられ、所有されるものは確かに善と呼ばれます。しかし、さらにまた快さがないなら、不毛の善であり、本質的に善ではありません。
これらから、永遠のいのち(生活)は永遠の幸福でもまたあることが明らかです。
人間のこの状態が創造の目的です。しかし、天界の中の者だけがその状態の中にやって来ることは、主の責任ではなく、人間の責任です。人間に責任があることは、続きの中で見られます。
[7]第三――このように、すべての人間は天界にやって来るように創造されている
これが創造の目的です――しかし、すべての者が天界の中にやって来るのではありません、天界の幸福に正反対の地獄の快さを吸収しているからです。天界の幸福の中にいない者は天界に入ることができません、それに耐えられないからです。
霊界にやって来るだれにも天界に上ることは否定されません。しかし、地獄の快さにいる者は、そこにやって来る時、心蔵が動悸し、呼吸が弱り、いのちが失われ始め、痛みを感じ、苦しめられ、火に近づけられたヘビのように転がります。このようになるのは、正反対のものが正反対のものの中で働くからです。
[8]しかし、それでも人間に生まれ、またそのことによって考え、意志する能力の中に、ここから話し、行動する能力の中にいるので、死ぬことはできません――しかし、同じようないのち(生活)の快さの中にいる者以外の他の者と生きることはできないので、彼らのもとへ送り返されます。したがって、悪の快さの中にいる者は、自分の仲間のもとに、善の快さの中にいる者も、自分の仲間のもとにいます。
それどころか、善の快さの中にいる者を悩まさないかぎり、それぞれの者に自分の悪の快さの中にいることが与えられています。しかし、悪は善を悩ますことしかできないので、というのは、善に対する憎しみが悪に内在するからであり、それゆえ、危害を加えないように遠ざけられ、地獄の中の自分の場所の中に投げ込まれ、そこで彼らの快さは不快に変わります。
[9]しかし、このことは、むしろ人間が創造からまたここから天界の中にやって来ることができるように生まれていることを取り去るものではありません。というのは、幼児で死んで天界の中にやって来るすべての者は、世の中の人間のように、そこで教育され、教えられ、そして善と真理の情愛によって知恵に浸され、天使になるからです。
世の中で教育され、教えられる人間も同様です。なぜなら、幼児にあるのと似たものが彼に内在するからです。
霊界の中の幼児については著作『天界と地獄』(ロンドン、1758年出版、329-345番)に見られます。
[10]しかし、世の中の多くの者は、自然的と呼ばれる自分のいのち(生活)の最初の段階を愛するので、またそこから去り、霊的になることを欲しないので、同様にはなりません。自然的ないのち(生活)の段階は、本質的に自分自身と世しか愛しません、というのは、それらは世に現われる身体の感覚に密着するから。しかし、霊的ないのち(生活)の段階は本質的に、主と天界を、そしてまた自分自身と世を愛します、しかし、主と天界を上のもの、主要なもの、支配するものとして、そして自分自身と世を道具や召使いとして愛します。
[11]第四――神的な愛はそのことを意志する以外にできない、神的な知恵はそのことを備える以外にできない
神的な本質が神的な愛と神的な知恵であることは、『神の愛と知恵』についての著作の中に十分に示されています。そこにはさらにまた、主が人間のすべての胎児の中に、一つは神的な愛の容器、もう一つは神的な知恵の二つの容器を、人間の将来の意志のために神的な愛の容器を、また彼の将来の理解力のために神的な知恵の容器を作られること、このようにすべての人間に善を意志する能力を、真理を理解する能力を植え付けられたことが論証されています(357-370番)。
[12]そこで、これら二つの能力が人間に出生から主により植え付けられ、ここから主が人間のもとのそれらの中にいるので、その方の神的な愛は人間が天界の中にやって来るように、そこに永遠の幸福の状態を享受するようにしか欲することができないこと、そしてまた、神的な知恵はそれを備えることしかできないことが明らかです。
しかし、人間が天界の幸福を自分自身の中に自分のものであるように感じ、このことは人間がすべてのものを自分自身から考え、欲し、話し、行動する外観の中に保たれないなら生ずることができず、このことはその方の神的な愛からであるので、それゆえ、主は人間をご自分の神的な摂理の法則にしたがって導くことしかおできになりません。

神の摂理

324◀︎目次▶︎326

325 (2)それゆえ、それぞれの人間は救われることができ、神を認め、善く生きる者が救われることは神的な摂理からである
それぞれの人間が救われることができることは、前のところで示されたことから明らかです。ある者は、主はキリスト教世界の中にだけ知られ、そこにだけみことばがあるので、主の教会はキリスト教世界の中だけにあると考えます――しかしそれでも、その者は、主の教会は普遍的であることを信ずる多くの者がいます、すなわち、主を知らない者、みことばを持たない者のもとにもまた、全地を通して広がり、散らばったことであり、「このことは彼らの責任ではない、彼らに不可抗的な無知がある、ある者が地獄に生まれていること、そのときそれでも等しく人間であるのは神の愛と慈悲に反している」と言っています。
[2]そこで、キリスト教徒に、すべての者でなくそれでも多くの者に、普遍的な教会が存在するという信仰があるので、それは「普遍的なもの」ともまた呼ばれ、すべての宗教に入り、その普遍的なものをつくっています、最も普遍的な教会が存在するということになります。
それらの最も普遍的なものとは神の承認と生活(いのち)の善であることが、次の順序で見られます。

(1)神の承認は人間と神の結合を、神と人間の結合をつくること、神の否定は分離をつくる。
(2)それぞれの者は、自分の生活(いのち)の善にしたがって、神を認め、その方に結合される。
(3)生活(いのち)の善、すなわち、善く生きることは、宗教に反し、このように神に反することであるからと悪を避けることである。
(4)これらはすべての宗教の普遍的なものであって、それらによってそれぞれの人間は救われることができる。

神の摂理

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326 しかし、これらは個々に調べられ、示されなければなりません。
第一――神の承認は人間と神の結合を、神と人間の結合をつくる、神の否定は分離をつくる
ある者は、神を認めない者も認める者も、道徳的な生活を送るかぎり等しく救われることができると考え、「承認は何を生み出すのか?単なる思考ではないのか?神が存在することを私が確かに知るとき、私は容易に認めないか?私はその方について聞いた、しかし、私はその方を見てない――私が見るようにせよ、そうすれば私は信じる」と言います。
神を否定する者に自由に神の承認について推論することが許される時、このような談話が多くの者になされます。
しかし、神の承認は結合し、神の否定は切り離すことが、霊界の中で私に知られたある種のものによって明らかにされました。
そこでは、だれかが他の者について考えるとき、話したいとき、すぐさま彼が現在する(居合わせる)のが見られます。そこではこのことは普通であり、決して間違いのないことです。
その理由は、霊界には自然界のように、距離がなく、単に距離の外観があるからです。
[2]もう一つあります、他の者〔について〕の何らかの知識からの思考が現在(居合わすこと)を引き起こすように、他の者〔について〕の何らかの情愛からの愛が結合を引き起こすことです。一緒に行き、親しく会話し、一つの家の中に、あるいは一つの社会の中に住み、そしてしばしば集まり、互いに割り当てられた仕事を果たすのは、その結合からです。
他の者を愛さない者は、さらに他の者を憎む者は、見ないし、会わないし、愛さず、憎む程度にしたがって遠く離れているといった正反対のことも生じます。それどころか、居合わせても、その時、憎しみが思い出されるなら、見えなくなります。
[3]これらのわずかなものから、霊界での現在(居合わせること)がどこからか、結合がどこからか、明らかにすることができます。すなわち、現在(居合わせること)は他の者を見る願望とともに彼の想起からであり、結合は愛のものである情愛からであることです。
人間の心の中にあるすべてのものも同様です。それらの中に無数のものがあり、そこの個々のものは情愛にしたがって、またはある事柄が他のものを愛するように、仲間となり、結合しています。
[4]この結合は霊的な結合であり、それは全般的なもの、個々のものの中でそれ自体と同様です。
全般的なもの、個々のものの中で、この霊的な結合の起源は、霊界と主の結合、自然界と主の結合からです。
それらから、だれかが主を知れば知るほど、その知識からその方について考えれば考えるほど、それだけ主が現在され、だれかがその方を愛の情愛から認めれば認めるほど、それだけ主は彼に結合されることが明らかです――しかし、逆に、ある者が主を知らなければ知らないほど、それだけ主はそこにいません。ある者がその方を否定すれば否定するほど、それだけ切り離されています。
[5]その結合は、主が人間をご自分へ顔を向けさせ、その時、彼を導くようにします。分離は、地獄がそれ自体へ彼の顔を向けさせ、彼を導くようにします。
それゆえ、天界のすべての天使は、自分の顔を太陽としての主へ向け、地獄のすべての霊は自分の顔を主から背かせます。
これらから、神の承認が何を、神の否定が何を生み出すか明らかです。
世で神を否定する者は、その方を死後にも否定します。前の記述(319番)にしたがって有機的にまとめられ、世で着せられた器官は永遠に残ります。
[6]第二――それぞれの者は、自分の生活(いのち)の善にしたがって、神を認め、その方に結合される
宗教から何らかのものを知るすべての者は神を知ることができます。知識または記憶からも、神について話すことができ、ある者は理解力からもまた神について考えることができます。しかし、このことは、善く生きないなら、神が現在すること以外に何も生じません。というのは、それにもかかわらずその方から自分自身を背けることができ、悪く生きるなら自分自身を地獄へ向けるからです。
しかし、心で神を認めることは、善く生きる者しかできません。これらの者を主は彼らの生活(いのち)の善にしたがって地獄から背けさせ、ご自分へ向けられます。
その理由は、これらの者だけが主を愛するからです。というのは、神からの神性であるその方の律法の戒めを行なって、それらの神性を愛するからです。これらはその方の発出する神性であるので神です。このことが神を愛することです。それゆえ、主は言われています、

わたしの戒めを行なう者は、わたしを愛する者です。けれども、わたしの戒めを行なわない者は、わたしを愛しません(ヨハネ14:21-24)。

[7]その理由は、一つは神のため、もう一つは人間のための十戒の二つの板があることです。
人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを受け入れるように、神は絶えず働かれています、しかし、人間が自分の板の中にあるそれらの戒めを行なわないなら、神の板の中にあるそれらの戒めを心で承認して受け入れません。受け入れないなら、結合されません。
それゆえ、二つのそれらの板は一つであるように結合され、契約の板と呼ばれました。契約は結合を意味します。
自分の生活(いのち)の善にしたがって、それぞれの者が神を認め、その方と結合される理由は、生活(いのち)の善は主の中にあり、ここから主からものである善に似ているからです。それゆえ、人間が生活(いのち)の善の中にいるとき、結合が生じます。
生活(いのち)の悪と正反対であり、このことは主を退けます。
[8]第三――生活(いのち)の善、すなわち、善く生きることは、宗教に反し、このように神に反することであるからと悪を避けることである
このことが生活(いのち)の善、すなわち、善く生きることであることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』の中に、最初から最後まで十分に示されています。
それらに私は次のことだけを付け加えます。あなたが、すべての機会に善を行なうにしても、例えば、あなたが教会堂を建て、それを飾り、奉納物で満し、〔参拝者のための〕収容所や宿泊所に費用を捧げ、日々に施し与え、やもめと孤児を助け、聖なる礼拝に心を集中して出席し、それどころか、あなたが心からのように考え、話し、伝道するにしても、それでもあなたが悪を神の前に罪として避けないなら、それらすべての善は善ではありません。偽善あるいは功績を求めるものです、なぜなら、それらの内部にやはり悪があるからです――というのは、それぞれの者のいのちがそれらを行なうすべてと個々のものの中にあるから。しかし、それらの善はそれらの悪の除去によってしか善となりません。
これらから、宗教に反し、このように神に反しているからと悪を避けることは、善く生きることであることが明らかです。
[9]第四――これらはすべての宗教の普遍的なものであって、それらによってそれぞれの人間は救われることができる
神を認めること、神に反するからと悪を避けること、それらの二つものが宗教を宗教とします。もし一つが欠けているなら、宗教と呼ばれることはできません。なぜなら、神を認めることと悪を行なうことは、なおまた善を行なうことと神を認めないことは矛盾であるからです。というのは、一方は他方なしに存在しないから。
主により、ほとんどどこでも何らかの宗教があるように、それぞれの宗教にそれらの二つがあることが備えられています。そしてまた主により、神を認め、神に反するからと悪を行なわないそれぞれの者が天界の中に場所を持つよう備えられています。
というのは、天界は全体として、一人の人間を映し出し、そのいのちまたは霊魂は主であるからです――その天界としての人間の中に、天界と自然界の間の相違の性質とともに、自然的な人間の中にあるすべてのものがあります。
[10]人間の中に、内臓と呼ばれる血管と神経線維から構成された形だけがあるのではなく、皮膚・膜・腱・軟骨・骨・爪・歯もまたあることはよく知られています。
構成された形そのものであるものよりも、後者はいのちの低い段階の中にあり、それらは靭帯(きずな)・被覆・支えとして仕えます。
その天界としての人間は、天界であって、その中にそれらのすべてのものがあるように、一つの宗教の人間から構成されることはできず、多くの宗教の人間から構成されます。ここから、教会のその二つの普遍的なものを自分のいのち(生活)としたすべての者は、その天界としての人間、すなわち、天界の中に場所を持ち、自分の段階の中で幸福を享受します――しかし、これらについて多くのものが前に見られます(254番)。
[11]それら二つがすべての宗教の中の主要なものであることは、それら二つが十戒の教えるものであること、その十戒はみことばの最初のものであったこと、シナイ山からエホバにより生きた声で布告され、二つの石板に神の指で刻まれ、その後、箱の中に置かれ、エホバと呼ばれ、幕屋の中の至聖所を、エルサレムの神殿の中の至聖所を構成したこと、すべての聖なるものは、そこにあるそれらのものだけからであったことから明らかです。箱の中の十戒について、みことばから他にも多くのことが『新しいエルサレムのための生活の教え』の中に示されています(53-61番)。それらに私は次のことを付け加えます。
十戒の刻まれていた二つの板が中にあった箱がペリシテ人により捕えられ、そしてアシュドデのダゴンの神殿の中に置かれたこと、ダゴンがその箱の前で地に倒れ、その後、頭は手の掌とともに身体から分割され、神殿の敷居の上に横たわったこと。アシュドデとエクロンの住民が箱のために数千人も痔に打たれ、彼らの地はネズミにより荒廃したこと――なおまた、ペリシテ人が、自分の民の首長たちの会議から金の五つの痔〔の像〕と五つのネズミ〔の像〕、そして新しい荷車を作り、その上に箱を、その近くに金の痔〔の像〕とネズミ〔の像〕を置いたこと、二つの雌牛によって、それらは途中で鳴きましたが、箱をイスラエルの子らに送り返したこと、彼らにより雌牛と荷車はいけにえとしてささげられたことは、みことばからよく知られています(サムエル記Ⅰ第5、6章)。
[12]さて、それらのすべてのものが何を意味するか述べます。
「ペリシテ人」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者を意味します。「ダゴン」は、その宗教的信念を表象します。打たれた「痔」は、霊的な愛から分離し、汚れている自然的な愛を意味します。そして「ネズミ」は、真理の虚偽化による教会の荒廃を意味します。箱を上に〔置いて〕送り返した「新しい荷車」は、新しいけれども自然的な教えを意味します、なぜなら、みことばの中の「戦車」は霊的な真理からの教えを意味するからです。「雌牛」は、自然的な善の情愛を意味します。「金の痔」は、清められ、善とされた自然的な愛を意味します。「金のネズミ」は、善によって教会の荒廃が終わったことを意味します、というのは「金」はみことばの中で善を意味するから。「途中で雌牛の鳴くこと」は、自然的な人間の悪の欲望が善の情愛に方向転換することの困難を意味します。「荷車とともに雌牛が全焼のいけにえとしてささげられた」ことは、こうして主が和解されたことを意味します。
[13]これらが歴史に基づくそれらのものによって霊的に意味されるものです。それらを一つの意味に結合させ、適用させてみなさい。
ペリシテ人によって仁愛から分離した信仰の中にいる者が表象されることは、『新しいエルサレムの教え 信仰について』の中に見られます(49-54番)。
箱がそこに含まれた十戒から教会の最も聖なるものであったことは、『新しいエルサレムのための生活の教え』に見られます(53-61番)。

神の摂理

326◀︎目次▶︎328

327 (3)救われないなら、責任は人間自身にある
正反対のものであるので、善からは悪が、また悪からも善が流れ出ることができない、という真理は、ただ聞かれるだけで、すべての理性的な人間により認められます。したがって、善からは善以外のもの、悪からは悪以外のものは流れ出ません。
この真理が認められるとき、善が悪に変えられることができるのは、善の受け入れによらず、悪の受け入れによることもまた認められます。というのは、すべての形は流れ入るものを自分の性質へ変えるからです(前の292番に見られます)。
さて、主はご自分の本質そのものの中で善、すなわち、善そのものであられるので、主から悪が流れ出ること、その方により生み出されることができないこと、しかし、悪の形である受け入れる主体により悪へ変えられることができることが明らかです。
人間のプロプリウムに関して、このような主体が人間です。
これ〔人間のプロプリウム〕は絶えず主から悪を受け入れ、絶えずそれを悪の形である自分の形の性質に変えます。
ここから、もし救われないなら人間に責任がある、といえます。
確かに悪は地獄からですが、しかし、その悪をこの地獄から自分のものとして受け入れるので、そのことによってそれを自分自身に専有するので、それゆえ、悪は人間からであると言っても、あるいは悪は地獄からであると言っても同じことです。
しかし、ついに宗教が滅びるような悪を自分のものにすることがどこからであるか、次の系列の中で述べます――

(1)すべての宗教は時間の経過とともに衰え、完了する。
(2)すべての宗教は、人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、完了する。
(3)これは世代の中で遺伝悪が絶え間なく増大することから起こる。
(4)それでも、主により、それぞれの者が救わることができるように備えられている。
(5)さらにまた、新しい教会が、前の荒廃したものに代わって続くように備えられている。

神の摂理

327◀︎目次▶︎329

328 しかし、これらは系列の中で論証されなくてはなりません。
第一――すべての宗教は時間の経過とともに衰え、完了する
この地上に、一つの後にもう一つのものと、多くの教会がありました。なぜなら、人類が存在するところには、そこに教会が存在するからです。というのは、前に論証されたように、創造の目的である天界は人類から存在し、すぐ前に示されたように(326番)、神を認めること、善く生きることである教会の二つの普遍的なものの中にいないなら、その者は天界の中にやって来ることができないからです。
ここから、最も古い時代から今日の時まで、この地上に教会があったことがいえます。
それらの教会は、みことばの中に記述されています、しかし、イスラエルとユダヤの教会だけしか歴史に書かれていません。それでもその前に多くの教会があり、それらはそこに国民と人物の名前によってだけ、またそれらについての何らかのものによって記述されています。
[2]最初のものであった最古代教会は、アダムと彼の妻エバによって記述されています。
古代教会と呼ばれる続く教会は、ノアと彼の3人の息子によって、そして彼らの子孫によって記述されています。これらは広くアジアの多くの王国を通して拡大しました――それらはカナンの地・ヨルダン川のこちら側と越えた側・シリア・アッシリアとカルデア・メソポタミア・エジプト・アラビア・ツロとシドンです――これらの者のもとに古代のみことばがありました、それについては『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中にあります(101-103番)。
その教会がこれらの王国の中にあったことは、それらについて、みことばの預言の中に記録されているいろいろなものから明らかです。
しかし、その教会はエベルによって著しく変えられ、彼からヘブル教会が起こり――この教会で、いけにえによる礼拝が初めて制定されました。
へブル教会からイスラエルとユダヤの教会が生まれました、しかし、そこに書かれたみことばのためにおごそかに設立されました。
[3]これら四つの教会は、ネブカデネザルに夢の中で見られ、頭は純金から、胸と腕は銀から、腹とももは銅から、そしてすねと足は鉄と粘土からできていた像によって意味されます(ダニエル2:32, 33)。
古代の作家によって記述された金・銀・銅・鉄の時代によっても同じことが意味されます。
キリスト教会がユダヤ教会の後に続いたことは、よく知られています。
それらのすべての教会は時間の経過とともに完了と呼ばれるその終わりに至るまでも衰えたことが、みことばからもまた見られることができます。
[4]最古代教会の完了は、プロプリウムの知性の高慢が意味される知識の木から食べることによってひき起こされ、洪水によって記述されています。
古代教会の完了は、みことばの中の歴史にも預言にも書かれている国民についてのいろいろな荒廃によって、特に、イスラエル民族によりカナンの地から追い出された国民によって記述されています。イスラエルとユダヤ教会の完了は、エルサレムの神殿の破壊によって、またイスラエル民族を絶え間のない捕囚に、そしてユダヤ民族をバビロニアの中に連れ去ることによって――最後に、二度目の神殿の破壊と同時にエルサレムの破壊、そしてその国民の離散によって意味されます――この完了は、預言書の多くの箇所に予言されています(ダニエル書9:24-27にもまた)。
けれども、キリスト教会の最後まで継続する荒廃は、主により、「マタイ福音書」(第24章)、「マルコ福音書」(第13章)、「ルカ福音書」(第21章)に記述されており、その完了そのものは「黙示録」にあります。
これらから、教会は、このように宗教もまた、時間の経過とともに衰え、終わりにされることを明らかにすることができます。
[5]第二――すべての宗教は、人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、完了する
人間が神の映像に、神の似姿にしたがって創造されたことはよく知られています(創世記1:26)――しかし、神の映像とは何か、似姿とは何か、述べます。
神だけが愛と知恵です。人間は、その意志が神的な愛の容器であるように、そしてその理解力が神的な知恵の容器であるように、両方のものの容器として創造されています。
それら二つのものが、創造から人間のもとにあること、またそれらが人間をつくること、それらもまた子宮の中でそれぞれの者のもとでつくられることは前に示されました。
そこで、人間が神的な知恵を受け入れるものであることが神の映像です。神的な愛を受け入れるものであることが神の似姿です。それゆえ、理解力と呼ばれる容器は神の映像であり、意志と呼ばれる容器は神の似姿です。
ここから、人間は容器であるように創造され、形作られたので、その意志が神から愛を受け、そしてその理解力が神からの知恵を受けるように創造され、形作られていることがいえます。なおまた、それらを人間は、宗教から神を知り、戒めを知るに応じて、大なり小なりの段階で、神を認め、その方の戒めにしたがって生きる時、受けます。それゆえ、真理を知るに応じてです、なぜなら、真理によって、何が神か、またどのように認めなければならないか、なおまた何が戒めか、どのようにそれらにしたがって生きなくてはならないか教わるからです。
[6]神の映像と神の似姿は人間のもとで失われました、しかし、失われたようであっても存在しています。というのは、自主性と推理力と呼ばれる彼の二つの能力の中に植え付けられて残るからであり、それらについて前に大いに扱われています――人間が意志である神的な愛の容器を自己愛の容器にしたとき、そして理解力である神的な知恵の容器をプロプリウムの知性の容器にしたとき、失われたかのようにされました。
そのことによって神の映像と似姿はひっくり返されました、というのは、その容器を神から向きを変え、自分自身に向けたから――ここから、それは上に閉ざされ、下に開かれます、または、顔から閉ざされ、背後から開かれます。そのときそれでも、創造から、顔から開かれ、背後から閉ざされていました――それがこのように逆にして開かれ、閉ざされている時、愛または意志の容器は地獄から、すなわち自分自身のプロプリウムから流入を受けます、知恵または理解力の容器も同様です。
ここから教会の中に神への礼拝に代わって人間への礼拝が、そして真理の教えからの礼拝に代わって虚偽の教えからの礼拝が起こりました、後者はプロプリウムの知性から、前者は自己愛からです。
これらから、宗教は時間の経過とともに人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、完了することが明らかです。
[7]第三――これは世代の中で遺伝悪が絶え間なく増大することから起こる
遺伝悪は、知識の木から食べることによって、アダムと彼の妻エバからでなく、しかし、両親から子孫の中に継続的に導かれ、移植されること、このように世代の中で絶え間ない増加からひどくなることが、前に言われ、示されています。
ここから悪が悪い者のもとでひどくなる時、悪は多くの者に広がります。なぜなら、すべての悪の中に惑わす欲望があり、ある者の中では善に対する怒りから燃えるような欲望があり、ここから悪が感染するからです。
これが教会の中の長、監督者、指導者に入り込むとき、宗教はゆがめられ、そして真理である癒しの手段は、曲解によって腐敗します。
そこで、これらから教会の中に継続的な善の荒廃と真理の廃墟が教会が完了するまであります。
[8]第四――それでも、主により、それぞれの者が救わることができるように備えられている
主により、どこにも宗教があり、それぞれの宗教に救いに本質的な二つのものがあるように備えられています。それらは、神を認めることと神に反するからと悪を行なわないことです。
残りのものは、信仰のものと呼ばれる理解力とそこからの思考のものであり、それらはそれぞれの者に彼の生活にしたがって備えられています。なぜなら、それらは生活の補助的なものであるからです。それらのものが先行するにしても、それでもそれ以前に生活に受け入れることはありません。
さらにまた、善く生き、神を認めたすべての者は、死後、天使により教えられ、その時、世で宗教の本質的なそれらの二つのものの中にいた者は、みことばの中にあるような教会の真理を受け入れ、主を天界と教会の神として認めるよう備えられます――これらの者は、主の神性から人間性を分離したその方についての観念を世から自分自身にもったキリスト教徒よりも容易に受け入れます。
幼児で死んだすべての者もまた、主により、どこに生まれても救われるよう備えられています。
[9]それぞれの人間にもまた、死後、実行できるなら、生活を改善する機会が与えられています。主により天使を通して教えられ、導かれます。その時、死後も生きること、天界と地獄があることを知るので、最初は真理を受け入れます。しかし、神を認めず、世で悪を罪として避けなかった者は、その後しばらくして、真理に嫌気し、そして去ります。それを心でなく口で認めた者は、愚かな乙女のようです。彼女らは明かりを持っていましたが、油がなく、油を他の者から求め、出かけ、買いました。しかしそれでも、結婚式に入れられませんでした。
「明かり」は信仰の真理を意味し、「油」は仁愛の善を意味します。
これらから、それぞれの者が救われることができるように神的な摂理があること、もし救われないなら人間自身に責任があることを明らかにすることができます。
[10]第五――さらにまた、新しい教会が、前の荒廃したものに代わって続くように備えられている
このことは最古代の時代から行なわれています、すなわち、前の荒廃した教会に続いて新しい教会が起こることです。最古代教会の後に続いて古代教会が、古代教会の後にイスラエルまたはユダヤの教会が、この後にキリスト教会が起こりました。さらにまた、この後に新しい教会が続いて起こることが「黙示録」の中に予言されており、それはそこの天から下って来る「新しいエルサレム」によって意味されています。
新しい教会が前の荒廃したもの代わって続く教会が主により備えられていることの理由は、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(104-113番)。

神の摂理

328◀︎目次▶︎330

329 (4)このようにすべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない
主はだれも地獄へ投げ込まれません、しかし、霊が自分自身を投げ込むことは、著作『天界と地獄』の中に示されています(ロンドン、1758年出版、545-550番)。
死後、すべての悪い者と不信心な者はこのようになります。世で悪い者と不信心な者も同様になります。そのとき世では改心し、救いの手段を抱き、吸収することができるけれども、世から出た後にはできない、という相違があります。
救いの手段は、十戒の神的な律法に反しているので悪を避けなくてはならないこと、神が存在することを認めるようにすること、これらの二つのものに関係します。
このことをそれぞれの者が、悪を愛さないかぎりできます。というのは、主は絶えず、意志の中に力とともに、悪を避けることができるように、理解力の中に力とともに、神が存在することを考えることができるように流入されるからです。しかしそれでも、一方のものは、同時にもう一方のものができないなら、できません――それら二つのものは十戒の二つの板のように結合していて、それらは一つは主のため、もう一つは人間のためのものです――主はご自分の板からそれぞれの者を照らし、力を与えられます。しかし、人間が自分の板の中にあるものを行なえば行なうほど、それだけ力と照らしを受けます。前には、それら二つのものは一つがもう一つの上に置かれ、封印で閉じ込められて見えます、しかし、自分の板の中にあるものを行なうかぎり、解かれ、開かれます。
[2]今日、幼児または少年の手の中でしか開かれないで、しまい込まれた小冊子または小著のようでないなら、十戒とは何ですか?
確かな年齢となったある者に、「十戒に反するのでこのことを行なわないように」と言ってみなさい、だれが留意しますか?
しかし、あなたが、「神的な律法に反するので、このことを行なわないように」と言うなら、このことに留意するかもしれません、それでもそのとき十戒の戒めは神的な律法そのものです。
霊界の中で多くの者に実体験が行なわれ、その者は、十戒または教理問答書が言われたとき、軽蔑して投げ返しました。
その理由は、十戒が人間の板であるもう一つの板の中で、悪を避けなくてはならないことを教えているからであり、その悪を避けない者は(不信心から、あるいは何の働きもしない信仰だけの宗教から)、ある種の軽蔑とともに十戒と教理問答書のことが言われるとき、彼らにもはや何の用もない幼児用の何らかの本のことが言われたように聞いたからです。
[3]これらは、もし救われることを欲するなら、人間のだれにでも救われることができる手段の知識は、力もまた欠けていないことが知られるために言われました――そのことから、すべての者は天界へ予定され、だれも地獄へ予定されていないことがいえます。
しかし、ある者のもとで、地獄へと断罪し、救いがないとする「予定」についての信念が強くなったので、またこの信念は有害であり、論証によってその中の狂気と残酷さが見られないならそれは追い払われることもできないので、それゆえ、それについて次の系列の中で扱われなければなりません。

(1)天界以外への予定は神的な愛とその無限性に反する。
(2)天界以外への予定は神的な知恵とその無限性に反する。
(3)教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である。
(4)人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である。

神の摂理

329◀︎目次▶︎331

330 しかし、一般的に理解された予定説の信念がどれほど有害か見られるように、それらの四つの主題が再び取り上げられ、確信されなければなりません。
第一――天界以外への予定は神的な愛とその無限性に反する
エホバ、すなわち、主は神的な愛であること、それは無限であり、すべてのいのちのエッセであること、なおまた、人間は神の似姿にしたがって神の映像に創造されていることは、著作『神の愛と知恵』の中に示されています――また示されてもいるように、すべての人間は子宮の中で主によりその似姿にしたがってその映像に形作られるので、主はすべての人間の天界の父であること、人間はその方の霊的な息子であることがいえます。さらにまた、エホバ、すなわち、主はこのようにみことばの中で呼ばれており、そこに人間もこのように呼ばれていおり、それゆえ、主は言われました、

あなたがたは地上のあなたがたの父を、あなたがたの父と呼ばないようにしなさい。なぜなら、あなたがたの父はひとりであり、天におられるからです(マタイ23:9)。

このことによって、いのちであるのは父ひとりであること、地上の父はいのちの衣服に関してだけ父であることが意味されます、その衣服とは身体です。それゆえ、天界の中で、父と呼ばれる者は主以外におられません。
そのいのちを逆にしない人間は、息子またはその方から生まれたと言われることは、みことばの多くの箇所からもまた明らかです。
[2]ここから、悪い者にも善い者にも、神的な愛がすべての人間の中にあることを明らかにすることができます。それゆえ、神的な愛である主は、地上の父が自分の子に行なうようにしか、彼らに行なうことができません。そして神的な愛は無限であるので、さらに無限に行ないます。なおまた、主からいのちがそれぞれの者にあるので、主はだれからも去ることができません。
主が悪い者から去るように見えます、しかし、悪い者が去ります、しかしそれでも、主は愛から彼らを導きます。
それゆえ、主は言われました、

求めなさい、するとあなたがたに与えられます。探しなさい、すると見つけます。叩きなさい、するとあなたがたに開けられます。……だれがあなたがたの人間ですか?その者は、彼の息子がパンを求めるなら、彼に石を与えます。……そこで、悪い者であるあなたがたが、あなたがたの息子によい贈り物を与えることを知っているなら、天の中のあなたがたの父は、その方を求める者に、さらにどれほどよいものを与えられるでしょうか(マタイ7:7-11)。

また他の箇所に、

ご自分の太陽を悪い者と善い者の上に昇るようにされ、そして雨を正しい者と不正な者の上に送られる(マタイ5:45)。

さらにまた教会の中に、主はすべての者の救いを欲し、だれの死も欲されないことがよく知られています。
これらから、天界以外への予定は神的な愛に反することを見ることができます。
[3]第二――天界以外への予定は神的な知恵とその無限性に反する
神的な愛は、その神的な知恵によって、それによってそれぞれの人が救われることができる手段を備えます。それゆえ、天界へ以外の予定があると言うことは、救いの手段を備えることができないと言うことです。そのとき、前に示されているように、それでもすべての者に手段があり、これらは神的な摂理からであり、それは無限です。
けれども、救われない者がいる理由は、神的な愛は人間が天界の幸福と幸運の状態を自分自身の中に感じるよう欲するからです、なぜなら、そうでなければ彼に天界とならないから、このことは、人間に、自分自身から考え、欲するように見られないなら、生ずることができません、というのは、それらの外観なしに何も彼に自分のものにされず、人間でもなくなるから。このことのために神的な摂理があり、それは神的な愛からの神的な知恵です。
[4]しかし、このことは、すべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない、という真理を取り去りません。しかし、救いの手段が欠けるなら、取り去ります――けれども、救いの手段がそれぞれの者に備えられていること、また天界が、どんな宗教からの者でもすべて善く生きた者が、そこに場所を持つようなものであることが前に示されています。
人間は、すべての種類の実を生み出す地のようであり、その能力から地は地です。悪の実もまた生み出すことは、むしろ善もまた生み出すとき、地からその能力は取り去られません、しかし、悪しか生み出すことができないなら、取り去られます。
人間もまた、光線の光をそれ自体の中で多彩に変化させる対象物のようです。嫌な色だけを示すなら、その原因は光にはありません。光線の光は、快い色に変えられこともできます。
[5]第三――教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である
教会外に生まれている者は、その内に生まれている者と等しく人間であり、同様に天界の起源から等しく生き、不死の霊魂です。
彼らにもまた宗教があり、その宗教から神が存在すること、善く生きるべきであることを認め、神を認め、善く生きる者は、前に示されたように、自分の段階の中で霊的になり、救われます。
洗礼を受けていない、と言われますが、しかし、洗礼は、霊的に洗われている者、すなわち、再生している者しか救いません、というのは、洗礼はそのしるしと記念であるからです。
[6]彼らに主が知られておらず、主なしに何も救いはないこと。しかし、主がよく知られているので救われるのではなく、救われるのは、その方の戒めにしたがって生きるからです。そして、神を認めるそれぞれの者によく知られています、なぜなら、主ご自身が教えられるように、主は天地の神であられるから(マタイ28:18また他の箇所に)。さらに、教会の外にいる者は、人間としての神についての観念をキリスト教徒以上にもっています。人間としての神についての観念がある者は、善く生き、主により受け入れられます。さらにまた、キリスト教徒とは違って、一つの位格と本質の神を認めます。そしてまた、神について自分の生活の中で考えます。というのは、悪を神に対する罪とする者は、神について自分の生活の中で考えているからです。
宗教の戒めがキリスト教徒にみことばからありますが、しかし、そこから何らかの生活の戒めを学ぶ者はわずかです。
[7]ローマカトリック教徒は、みことばを読みません。仁愛から分離した信仰の中にいる改革派教会の者は、生活に関係するものでなくただ信仰に関係するみことばだけに留意します。それでも、みことば全体は、生活の教えでしかありません。
キリスト教国はヨーロッパだけにあり、イスラム教国と異教国はアジア・インド・アフリカ・アメリカにあります。世界のこれらの部分の中の人類は、キリスト教世界の部分の中にいる人類に十倍多く上回り、この中で、宗教を生活の中に置く者はわずかです。
そこで、後者だけが救われ、前者が断罪され、人間に天界は生まれからあり、生活からではないと信じることよりも、気が狂っているものに何がありますか?
それゆえ、主は言われています、

わたしはあなたがたに言います。多くの者が東と西からやって来て、天界の王国の中でアブラハム、イサク、ヤコブとともに食卓に着きます。けれども、王国の息子たちは投げ出されます(マタイ8:11, 12)。

[8]第四――人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である
というのは、愛そのものと慈悲そのものである主が、このように莫大な多くの人間が地獄に生まれるように、すなわち、このように多くの無数の者が断罪され、滅ぼされるために生まれている、すなわち、悪魔とサタンに生まれていることを許されている、ご自分の神的な知恵から、善く生きて、神を認める者が永遠の火と責め苦の中に投げ込まれないように備えられていない、と信じることは残酷であるからです。
それでも、主はすべての者の創造者と救い主であり、その方だけがすべての者を導き、そしてだれの死をも望まれません。それゆえ、その方の指導の下に、また注視の下にあって、それほどに多くの国民と人民が予定から悪魔にえじきとなって渡される、と信じ、考えることは残酷です。

神の摂理

330◀︎目次▶︎332

(13)主は神的な摂理の法則に反して行なうことができない、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して、自分の神的な知恵に反して、このようにご自分に反して行なうことになるからである

331『神の愛と知恵』の中に、主は神的な愛と神的な知恵であること、これら二つのものはエッセそのものといのちそのものであり、それらからすべてのものが「存在する」また「生きる」ことが示されています。なおまたさらに、その方から似たものが発出すること、そのようにまた発出する神性はその方であることが示されています。
それら発出するものの間に、神的な摂理の最初のものがあります。というのは、これらは絶えず目的の中にあり、そのために全世界が創造されているから――手段による目的への働きと前進が神的な摂理と呼ばれるものです。
[2]そこで、発出する神性はその方であり、そして神的な摂理は発出する最初のものであるので、ご自分の神的な摂理の法則に反して行なうことはご自分に反して行なうことであるといえます。
さらにまた、神が秩序である、と言われるように、主は摂理である、と言われることができます。なぜなら、神的な摂理は人間の救いに関して神的な秩序の最初のものであるからです。法則なしに秩序が存在しないように、というのは、法則はその秩序をつくるから、それぞれの法則は秩序から秩序であるようにもまた導き、ここから、神が秩序であるように、〔主は〕ご自分の秩序の法則であることがいえます――同様に、神的な摂理について、主がご自分の摂理であるように、ご自分の法則もまた摂理である、と言われるべきです。
ここから、主はご自分の神的な摂理の法則に反して行なうことができないことが明らかです、それらに反して行なうことは、ご自分に反して行なうことになるからです。
[3]さらに、働きは主体の中でないなら、手段によってその中でないなら、存在せず、主体の中でないなら、また手段によってその中でないなら、何らかの働きは存在しません。神的な摂理の主体は人間であり、手段は神的な真理です、その手段によって彼に知恵があり、神的な善によって彼に愛があり、神的な摂理はその手段によって自分の目的である人間の救いを生み出します。なぜなら、目的を欲する者は手段もまた欲し、それゆえ、欲するものは目的を生み出すとき、それを手段によって生み出すからです。
しかし、これらは次の順序の中で熟考される時、さらに明白なものになります。

(1)人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、そしてその生涯の終わりまでも、またその後、永遠に続く。
(2)神的な摂理の働きは、純粋な慈悲からの手段によって絶えず生ずる。
(3)直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえない。
(4)直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇である。

神の摂理

331◀︎目次▶︎333

332 (1)人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、そしてその生涯の終わりまでも、またその後、永遠に続く
人類からの天界が全世界の創造の目的そのものであること、その目的はその働きと前進の中に人間の救いへの神的な摂理があることであり、そのことが、前に示されています。人間の外にあるすべてのものは、創造の2次の目的の役立ちのために仕えるものです――要するに、動物・植物・鉱物の3界にあるすべてのものに関係するものです。
そこに創造の最初に確定された神的な秩序の法則にしたがって、絶えず進むとき、人類の救いである最初の目的が、神的な摂理の法則であるご自分の秩序の法則にしたがって、絶えず進みませんか?
[2]果樹だけを眺めてみなさい。それは最初に小さい種から、柔らかい芽として生まれ、またその後、引き続いて幹に生長し、枝を広げ、これらは葉でおおわれ、その後、花を出し、実を準備し、その中に新しい種を置き、その種によって自分の永続に備えませんか?
同様のものがすべての灌木に、すべての野の草本に生じます。
これらすべてと個々のものの中に、絶えず、驚異的に、自分の秩序の法則にしたがって目的から目的へと進みませんか?
人類からの天界である最初の目的と何か同様なものがありませんか?
神的な摂理の法則にしたがって進む何らかのものが必ずやその前進の中に存在するのではありませんか?
[3]人間の生涯に木の生長との対応があるので、並行または比較があります――比較によって、人間の幼児期は、地の種から芽を出す柔らかい木の芽のようです。人間の少年期と青年期は幹と小枝の中で生長するその芽のようです――すべての人間が最初に教えられる自然的な真理は、それらの枝におおわれる葉のようです(みことばの中で「葉」は他のものを意味しません)。善と真理の結婚、すなわち、霊的な結婚の中での人間の最初の段階は、春の時に生ずる木の花のようです。霊的な真理はその花の花弁です。霊的な結婚の初期の段階のものは、実の始まりのようです。仁愛の善である霊的な善は、実に似ており、みことばの中の「実」によってもまた意味されています。愛からの知恵の産出は、種のようであり、その産出によって人間は庭園と楽園のようになります。
みことばの中でもまた人間は木によって、そして愛からの彼の知恵は庭園によって述べられています。「エデンの園」によって、他のものは意味されません。
[4]人間は確かに種から悪い木ですが、しかしそれでも、いのちの木から取られた枝からの接ぎ木または接ぎ穂が与えられ、それによって古い根から汲み出された汁は善い実を結ぶ汁に変えられます。
この比較は、このように神的な摂理が不変に前進し、木の生長と再生産があるとき、人間の改心と再生がすべてのものの中で不変に進むことが知られるためにされました。主の次のことばにしたがって、人間は木よりもさらにまさっています、

五つのスズメが二アサリオンで売られていませんか?それでもなお、それらから一つが神の前に忘れられていません。けれども、あなたがたの頭の髪もまたすべて数えられています、それゆえ、恐れてはなりません、あなたがたは多くのスズメにまさります。……さらにだれがあなたがたの心配から、自分の背丈に1キュービットをあてがうことができますか。それゆえ、あなたがたが最小のことすらできないなら、なぜ、他のことについて、あなたがたは心配するのですか?ユリに注目しなさい、どのように生長しますか。……今日ある野の中の草が、明日は、かまどの中に投げ込まれるにしても、神はこのように服を着せるなら、あなたがたにどれほど〔のものを〕着せませんか、ああ、信仰の足りない者よ(ルカ12:6, 7, 25-28)。

神の摂理

332◀︎目次▶︎334

333 人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、彼の生涯の終わりまでも続く、と言われています。
主が、人間がどんなであるか見、そしてどのようでありたいか、このように将来どのようであるか先見されること、人間であり、またここから不死であるために、以前に多く示されているように、彼の意志の自由は取り去られることができないことを知らなければならず、このことが理解されるためです。それゆえ、主は、死後の彼の状態を先見し、それを彼の出生からその生涯の終わりまでも備えられます。
悪い者のもとでは、悪から許されるように、絶えず導き出されるように備えられます。けれども、善い者のもとでは、善へ導くように備えられます。
このように神的な摂理が、人間を救う働きの中に絶えずあります。しかし、救われることを欲する以上にさらに救われることはできません、そして、救われることを欲する者は、神を認め、その方により導かれます。また、神を認めない者、自分自身を導く者は〔救われることを〕欲しません。というのは、後者は永遠のいのちについて、救いについて考えません、けれども、前者は考えるからです。
このことを主は見、彼らを導かれます、ご自分の神的な摂理の法則にしたがって導きますがそれでも、それらの法則に反して行なうことはできません、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して、ご自分の神的な知恵に反して行なうことになるからであり、そのことはご自分に反することです。
[2]さて、主は死後のすべての者の状態を先見し、そしてまた彼らの場所を先見されるので、救われることを欲しない者には彼らの場所を地獄の中に、そして救われることを欲する者には天界の中に、言われたように、悪い者には自分の場所を許し、導き出して、そして善い者には自分の場所を導いて備えられていることがいえます。このことが、それぞれの者に絶えず出生からその生涯の終わりまでなかったなら、天界も地獄も、存続しませんでした――なぜなら、その先見と同時に摂理がないなら、天界も地獄も、ある種の混乱なしに存在しなかったであろうからです。
主による先見から、それぞれの者に自分の場所が備えられることは前に見られます(202, 203番)。
[3]このことは次のたとえによって説明されることができます――射る者または銃を撃つ者が的をねらい、的からその後ろに線が真っ直ぐに1マイルの距離引かれており、もし、ねらいの動作で、爪の幅だけはずれるなら、目標に向けて、矢または弾は的の後ろに導かれた線から1マイル〔のところ〕で、計り知れないほど逸れます。
主がすべての者に、瞬間に、それどころか最小の瞬間に、それぞれの者に死後の場所を先見し、備える中で、永遠を眺めないなら、このようになったでしょう。しかし、このことは主により生じます、すべての将来はその方に現在し、現在するすべてのものはその方にとって永遠であるからです。
生ずるすべてのものの中で、神的な摂理が無限と永遠を眺めていることは、前に見られます(46-69番214番とその続き)。

神の摂理

333◀︎目次▶︎335

334 すべての天使は知恵を永遠に完成させられるので、神的な摂理の働きが永遠に続くこともまた言われました。しかし、それぞれの者が、世から立ち去ったときにいた善と真理の情愛の段階にしたがっています。
この段階で永遠に完成させられます。その段階を越えるものは、天使の外にあり、彼の内にありません。彼の外にあるものは、彼の内で完成させられることができません。
このことが、「量りをよくし、押しつけ、揺さぶり、あふれるもの」が、他の者を許し、他の者に与える者、すなわち、仁愛の善の中にいる者のふところの中に与えられることによって意味されます(ルカ6:37, 38)。

神の摂理

334◀︎目次▶︎336

335 (2)神的な摂理の働きは、純粋な慈悲からの手段によって絶えず生ずる
神的な摂理の手段と方法があります。
手段から人間は人間になり、そして理解力に関して、意志に関して完全にされます。方法によってそれらの手段が行なわれます。
手段から人間は人間となり、そして理解力に関して完全にされますが、その手段は通常の言葉で真理を呼ばれ、それらは思考の中で観念となり、記憶の中で〔記憶の〕事柄と言われ、本質的には認識であり、それらから知識があります。
本質的に見られたそれらのすべての手段は霊的なものです。しかし、その衣服または服装から自然的なものの中にあるので、自然的なものに見え、あるものは物質的なもののようです。
それらの手段は数で無限であり、そして多様性で無限です。多かれ少なかれ単純なものと組み合わされたものであり、多かれ少なかれ不完全なものと完全なものです。
自然的な市民の生活をつくり、完全にするための手段、なおまた、理性的な道徳の生活をつくり、完全にするための手段、そのようにまた、天界的な霊的の生活をつくり、完全にするための手段があります。
[2]これらの手段は、一つからもう一つ後の種類へと、幼児期から人間の最後の年齢にまでも、またその後、永遠に続きます――また成長して続くように、そのように前のものは後ろのものの手段となります、というのは、それらは手段の原因のように形成されたすべてのものの中に入るから。なぜなら、これらのすべての結果または結論は有効なものであり、ここから原因となるからです。そのように後のものは引き続いて手段になります――このことは永遠に生じるので、閉じる最終のものまたは最後のものは存在しません。
なぜなら、永遠に終わりがないように、永遠に増大する知恵に終わりがないからです。
賢明な者のもとで知恵の終わりがあったなら、絶え間ない増加と結実を構成する彼の知恵の快さは失われます。したがって、そのいのちの快さは、それに代わって称賛の快さとなり、その快さだけしかないなら、その中に天界のいのちはありません。その時、その賢明な人間はもはや若者のようではなく、老人のようであり、最後にはよぼよぼになります。
[3]たとえ天界の中で賢明な者の知恵は永遠に増大しても、やはりそれでもなお、神的な知恵へと触れることができるような天使の知恵の接近は与えられません。
比較すれば、双曲線のまわりの直線について言われるような絶えず近づくけれども決して触れないもの、円を4角にすることについて言われるようなものです。
これらから、神的な摂理が、人間が人間であるように、そして理解力に関して完全にされるよう働く手段によって何が意味されるか明らかにすることができます。これらの手段が通常の言葉で真理と言われます。
さらにまた同数の手段があり、それらによって人間が意志に関して形作られ、完全にされます、しかし、これらは通常の言葉で善と言われます。後者から人間に愛があります、けれども前者から人間に知恵があります。
それらの結合が人間をつくります。なぜなら、それらがどのようなものであるかによって、人間はそのようなものであるからです。
この結合が善と真理の結婚と呼ばれるものです。

神の摂理

335◀︎目次▶︎337

336 けれども、神的な摂理が手段の中で働き、手段によって人間を形作り、彼を完全にするための方法は、数と多様性でもまた無限であり、人間の救いのために、神的な愛からの神的な働きと同じ数だけ多くあります。前に述べられている神的な摂理の法則にしたがってその働きのように多くあります。
それらの方法が最も隠されたもの(アルカナ)であることは、前に身体の中の霊魂の働きによって説明されています、それらについて人間が知っていることはわずかであり、ほとんど何も知らないようなものです。例えば、目・耳・鼻・舌・皮膚はどのように感じるのか、そして、どのように胃が消化し、腸間膜が乳糜をつくり、肝臓が血をつくり、膵臓と脾臓が清め、腎臓がよごれた血液から不潔なものを分離し、心臓がそれらを集め、また分配し、肺がそれらを浄化するのか、またどのように脳が血を純化し、新たに活気づけるのかです。ほかに無数の他のものがあり、それらのすべてのものはアルカナ(秘密)であり、それらの中に知識はほとんど入り込むことができません。
これらから、神的な摂理の働きのアルカナの中には、なおさら入り込むことができないことが明らかです。その法則が知られることで十分です。

神の摂理

336◀︎目次▶︎338

337 神的な摂理が純粋な慈悲からすべてのものに働くのは、神的な本質そのものが純粋な愛であるからであり、これは神的な知恵によって働き、この働きは神的な摂理と呼ばれるものです。
この純粋な愛が純粋な慈悲であることは――

(1)全地球の中にいて、自分自身からは何もできないようなすべての者のもとで働くからである。
(2)悪い者と不正な者のもとでも、善い者と正しい者のもとでと等しく働く。
(3)彼らを地獄の中で導き、ここから彼らを救い出す。
(4)そこのところ絶えず彼らともに苦闘し、彼らのために、悪魔に対して、すなわち、地獄の悪に対して戦う。
(5)このために世に来られ、十字架の受難であった最後の試練までも受けられた。
(6)不潔な者を清潔な者に戻すように、また狂った者を健全な者に戻すように、絶えず働きかけた。
このように純粋な慈悲から絶えず働いています。

神の摂理

337◀︎目次▶︎339

338 (3)直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえない
先行するものの中で、人間の救いのための神的摂理の働きは、彼の出生から始まり、彼の生涯の終わりまで、またその後、永遠に続くこと、なおまた、その働きは純粋な慈悲から手段によって絶えず生ずることが示されています。
これらから、瞬間の救いは、直接の慈悲も存在しないことがいえます。
しかし、教会または宗教の事柄について何らかのものを理解力から考えない多くの者は、直接の慈悲から救われ、ここから救いが瞬間のものであると信じ、それでもこのことは真理に反し、加えて有害な信仰であるので、次の順序の中で考慮されることが重要です。

(1)直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握された。
(2)この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態の無知からである。
(3)キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかし、それでも、教会の外なる人はそれらを確かなものにしている。
[2]第一――直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握された
自然的な人間は自分の状態から、天界の楽しさは世の楽しさのようであり、そして同じように流入し、受けいれられるとしか知りません。例として、貧しい者が富んだ者になったようなもの、このように貧困の惨めな状態から裕福な幸福の状態の中にやって来るようなもの、あるいは、卑しい者が称賛される者になり、このように軽蔑から名声の中にやって来るようなもの、または、嘆きの家から婚礼の楽しみの家にやって来るようなものです。
これらの状態は一日の内に変えられることができ、死後の人間の状態について他に概念がないので、直接の慈悲から瞬間の救いが信じられることがどこからであるか明らかです。
[3]世でもまた多くの者が、市民の一つの交わりの中に、一つの社会の中にいて一緒に喜び、それでもなお、すべての者は心で異なることができます。このことは〔人間の〕自然的な状態の中で生じます。
その理由は、ある人間がその外なるものを他の者の外なるものと、どれほど内なるものが似ていなくても、合わせられることです。
さらにまたこの自然的な状態から、救いは単に天界の中の天使のところに入るのを許され、入るのを許されるのは直接の慈悲からであることが結論されます――それゆえまた、悪い者も善い者と等しく天界を、世の中と同様の仲間づきあいが、それらが楽しさに満ちているという相違とともに与えられることができる、と信じられています。
[4]第二――しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態の無知からである
霊的な状態について、それは人間の死後の状態であり、前に多くの箇所の中で扱われています。それぞれの者が自分の愛であること、だれも、似た愛の中にいる者とでないなら、他の者と生きることができないこと、他の者のところにやって来るなら自分のいのちを呼吸することができないことが示されています。
ここから、それぞれの者が、死後、似た愛の中にいる者の自分の社会の中にやって来て、彼らを親類のように、友のように認めます。驚くべきことですが、彼らに会い、見るとき、彼らを幼児期から知っていたようです。このことは霊的な親族関係と友情から生じます。
それどころかさらに、ある者は社会の中で自分のもの以外の他の家の中に住むことができず、それぞれの者に社会の中の自分の家があり、社会に入ると直ぐに、自分自身に準備されたその家を見つけます。
交わりの中で、自分の家の外で他の者といることができます、しかし、それでも、自分のところ以外の他のところに留まることはできません。
もっとさらに、ある者は他の者の部屋の中で、自分の場所でしか座ることができません。もし、他の場所に座るなら、自分の心がないように、口がきけないようになります。不思議なことに、部屋に入る時、だれもが自分の場所を知っています。神殿(教会、礼拝所)の中でも、そしてまた集会に集まる時も、同様です。
[5]これらから、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者は、彼の愛が支配しているところ以外の他のところにいることができないようなものであることが明らかです。
というのは、そこに彼のいのち(生活)の楽しさがあり、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)の楽しさの中にいることを欲し、それが彼のいのち(生活)を、それどころか呼吸そのものを、そのようにまた心臓の鼓動をつくるので、人間の霊は他のところにいることができません。
自然界では異なります――この外的なものの中に、人間は幼児期から、彼の内部にあるもの以外の他の快さを、顔つき・話し方・身振りで偽り装うことを教えられています。それゆえ、自然界での人間の状態から、彼の死後の状態について結論されることはできません。なぜなら、それぞれの者の死後の状態は霊的であり、自然界での生活によって自分自身に得た自分の愛の快さ以外の他のところにいることができないからです。
[6]これらから、だれも天界の快さ、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるものの中に、地獄の快さの中にいる者が入れられることができないこと、すなわち、同じことですが、悪の快さの中にいる者が善の快さの中に入れられることができないことを、はっきりと明らかにすることができます――だれにも天界の中に上ること、彼に道が示され、機会が与えられ、入れられることが否定されないことをさらに明瞭に結論できます。しかし、天界の中にやって来て、呼吸してその快さを引き寄せる時、胸に痛みを感じ、心臓を苦しめられ始めます。そして気絶しそうに感じ、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじり、そのとき顔を天界から背け、地獄へ向け、真っ逆さまに逃げ去り、自分の愛の社会の中へ〔戻る〕以外に休みもしません。
ここから、天界の中にやって来ることは直接の慈悲からではないことを明らかにすることができます。それゆえ、世の中の多くの者が憶測するように、単に入るのを許されることではありません。なおまた、瞬間の救いもありません、なぜなら、これは直接の慈悲を前提とするからです。
[7]直接の慈悲からの瞬間の救いを信じた者がいました。彼らは霊となった時、自分の地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から、天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲しました、このように熱望したので、さらにまた、天使により行なわれるように許され、彼らの地獄の快さを取り除きました――しかし、その時、その快さは彼らのいのちの愛の快さであり、それゆえ彼らのいのちあったので、すべての感覚とすべての動きがなく、死んだように横たわりました。自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能でした。彼らの心の、また身体のすべてのものは、後ろ向きに変えられており、反対のものに曲げ返すことができなかったからです――それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられました。
その後、彼らは、その状態の中である種の恐ろしいものと身震いするものを内的に感じたと言い、それを公けにすることを欲しませんでした。
それゆえ、天界では、何らかの地獄霊を天界の天使に変えるよりも、ミミズクをキジバトに、ヘビを子羊に変えることのほうが容易である、と言われています。
[8]第三――キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかしそれでも、教会の外なる人はそれらを確かなものにしている
教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えています。
どの教会の教えが、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見て、認めなければならないこと、それらを告発し、悔い改めを行ない、その後、新しい生活を生きなければならないことを教えないでしょうか?
だれが、この警告と戒めなしに、聖餐に与ることを許されますか?
調べなさい、するとあなたは確信するでしょう。
どの教会の教えが十戒の戒めに基づきませんか?
そして、十戒の戒めは生活の戒めです。
善く生きる者が救われ、悪く生きる者が断罪されることを聞くとき、教会の何らかのものを持っている教会の人間なら、だれがそのことを認めませんか?
それゆえ、アタナシウス信条の信仰の中に、それもまた全キリスト教世界の中に受け入れられた教えであり、次のことが言われています――

主は生きている者と死んでいる者を裁くために来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに、悪を行なった者は永遠の火の中に入る。

[9]それらから、教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えているがこと明らかです。生活を教えているので、救いは生活にしたがっていることを教えています。そして、人間の生活(いのち)は瞬間に吹き込まれません、しかし、継続的に形成され、人間が悪を罪として避けるほど改心します。それゆえ、何が罪か気づくほど、そしてそれを知り、認め、それを欲しないほど、それゆえ、それから離れます。
神の知識に関係する手段に気づくほど、これやそれによって人間の生活は形作られ、改心させられ、それはある瞬間に注ぎ込まれることができません。というのは、本質的に地獄のものである遺伝悪が遠ざけられ、それに代わって本質的に天界のものとなる善が植え付けられなくてはならないからです。
人間は自分の遺伝悪から、理解力に関してミミズクに、意志に関してヘビにたとえることができます。改心した後の人間は、理解力に関してキジバトに、意志に関して小羊にたとえることができます――それゆえ、瞬間の改心とここからの救いは、比較によって、ミミズクをキジバトに、そしてヘビを小羊に瞬間的に変化させるようなものになったでしょう。
ミミズクやヘビの性質が取り除かれ、キジバトや子羊の性質が植え付けられないなら、このことが存在しないことを、人間の生活について何らかのことを知っている者ならだれが見ませんか?
[10]さらにまた、知性のあるすべての者はさらに知的に、賢明であるすべての者はさらに賢明になることができること、また知性と知恵は人間のもとで成長することができ、ある者のもとで、幼児期からその生涯の終わりまで成長し、人間はこのように絶えず完全にされることがよく知られています。
霊的な知性と知恵は、どのようにもっと〔完全にされませんか〕?
これは自然的な知性と知恵の上の二つの段階によって上昇し、上昇するとき言語に絶する天使のものになります。
これが天使のもとで永遠に成長することは、前に言われています。
永遠に完全にされるものが瞬く間に完全になることは不可能であることを、もし欲するなら、だれが理解することができませんか?

神の摂理

338◀︎目次▶︎340

339 そこでこれらから、救いについて生活から考えるすべての者は、直接の慈悲からの何らかの瞬間の救いを考えず、救いの手段について、その中でまたそれによって、主はご自分の神的な摂理にしたがって働かれますが、それによって人間は主により純粋な慈悲によって導かれることが明らかです。
しかし、救いについて生活から考えない者は、救いの中に瞬間的なものを、慈悲の中に直接的なものを置きます。例えば、信仰を仁愛から分離する者は(仁愛は生活ですが)、信仰を瞬間的なものにしてしまい、死の前にでないなら最期の時に近いものにします。
彼らは、悔い改めなしの罪の許しは罪からの赦免であり、このように救いであることを信じもして、聖餐に出席します。なおまた、その者は修道士の免償状に、死んだ者のための彼らの祈りに、そして人間の霊魂の上に、彼ら自身が要求した権限からの特免状に信頼します。

神の摂理

339◀︎目次

340 (4)直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇である
飛びかける火蛇によって地獄の火から輝く悪が意味され、同様のものが「イザヤ書」の「飛びかける火蛇」によって意味されます――

あなたは喜ぶな、全ペリシテよ、あなたを打っている杖が折られたことを。なぜなら、蛇の根からバジリスクが出て、その果実は飛びかける火蛇であるから(14:29)。

このような悪が、直接の慈悲からの瞬間の救いが信じられる時、教会の中を飛びます。なぜなら、次のことはそれによるからです、

(1)宗教が破壊される。
(2)油断が引き起こされる。
(3)断罪が主に帰せられる。
[2]第一について――それによって宗教が破壊される
宗教の二つの本質的と同時に普遍的なものに、神の承認と悔い改めがあります。
これら二つのものは、どんな生き方をしても慈悲だけから救われる、と信じる者にはむだなものです、なぜなら、多くのもののうち、「私に哀れみを示せ、神よ」と言うこと以外に何が必要ですか?
宗教のものである残りのすべてのものについて、暗黒の中にいます、それどころか暗黒を愛します。
教会の最初の本質的なものである神の承認について、「何が神か?だれが神を見るのか?」としか考えません。
もし、存在することと唯一であることが言われるなら、「唯一である」と言います。もし、三つであることが言われるなら、「そうであるが、しかし三つは一つと呼ばれなければならない」とも言います――これが彼らのもとの神の承認です。
[3]教会のもう一つの本質的なものである悔い改めについて、何も考えず、したがって、何らかの罪についても、またついには何らかの罪があることも知りません。
またその時、律法は断罪しないこと、「キリスト教徒はそのくびきの下にいないので、もし、あなたが、〝御子のゆえに、私に哀れみを示せ、神よ〟と言いさえすれば、あなたは救われる」ということを快楽とともに聞き、吸収します。これが彼らのもとの生活の悔い改めです。
しかし、悔い改めを取り除きなさい、または同じことですが、宗教から生活を分離しなさい、「私に哀れみを示せ」の声以外に何が残りますか?
ここから、それらの言葉によって救いが瞬間のもの、もし死の前でないなら、それでもそれに近い時のものである、としか言うことができませんでした。
その時、彼らにとって、みことばとは、洞穴の中の3脚の釜から出てくる、あいまいな、なぞの言葉でないなら、または偶像の託宣からの理解されない答えのようなものでないなら、何ですか?
一言でいえば、もし、あなたが悔い改めを取り除くなら、すなわち、宗教から生活を分離するなら、その時、人間は地獄の火から輝く悪、すなわち、飛びかける火蛇以外の何ですか?なぜなら、悔い改めなしに人間は悪の中に、また悪は地獄であるので、地獄の中にいるからです。
[4]第二――純粋な慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の油断が引き起こされる
生活の油断は、「死後の生活はない」という不信心な信仰から、あるいは救いから切り離された生活の信仰から起こります。
後者は、たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも、「私が善く生きるにしろ、あるいは悪く生きるにしろ、救いは純粋な慈悲であり、神の慈悲は普遍的であるので救われることができ、ある者の死を欲されない」と考えます。
ことによると受け入れた信仰の言葉によって「慈悲を祈らなければならない」という考えが起こるかもしれませんが、このことは、「もし死の前でないなら、それでも死の後に行なうことができる」と考えることができます。
その油断の中にいるすべての人間は、姦淫・欺瞞・不正・暴行・冒涜・復讐を何でもないとします。しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものに向けて弛緩させ、何が霊的な悪とその欲望かも知りません――もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くとき、たとえるなら、黒檀にぶつかって、はね返るようなもの、あるいは穴に落ち込んで、のみこまれるようなものです
[5]第三――その信仰によって断罪が主に帰せられる
それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時、「救われないなら人間でなく、主に責任がある」とだれが結論することができませんか?
もし、「救いの手段が信仰である」と言われるなら、その信仰が与えられることのできない人間はだれですか、というのは、それは単なる思考であり、さらにまた信頼とともに、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができるからです――またその者は、「私はそれを私自身から持つことができない」と言うこともできます。そこでもし与えられず、人間が断罪されるなら、できるのに欲しない方である主に責任があること以外に、何らかの非難を考えることができますか?
それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことではありませんか?
そして加えて、自分の信念から憤って、「なぜこのように多くの断罪された者を地獄の中に見ることができるのか?そのときそれでも純粋な慈悲から瞬間にすべての者を救うことができるのに」と言うことができます。多くの同様のことも、それは神性に対する恐るべき非難としか呼ばれることができません。
そこでこれらから、純粋な慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であることを明らかにすることができます。
* * * * *
[6]紙の余分を満たすために、次のものが付加されることを、あなたがたは容赦するでしょう。

ある霊たちが許しにより地獄から上り、私に言いました、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。
私は答えました、「何を書きましょうか?」
彼らは言いました、「書け、善い者であれ悪い者であれ、それぞれの霊は自分の快さの中に、善い者は自分の善の快さの中に、悪い者は自分の悪の快さの中にいること」。
私は質問しました、「何があなたがたの快さですか?」
彼らは、「姦淫し、盗み、だまし、偽る快さである」と言いました。
私は再び質問しました、「その快さはどのようなものですか?」
彼らは「他の者からは、糞からの悪臭のように、死体からの腐臭のように、よどんだ尿からの臭いのように感じられる」と言いました。
私は言いました、「それらがあなたがたに快いのですね?」
彼らは、「極めて快いものである」と言いました。
私は言いました、「その時、あなたがたはそのようなものの中で時を過ごす不潔な獣です」。
彼らは答えました、「もし私たちがそうであるなら、そうである。しかし、このようなものが私たちの鼻の快感のもとである」。
[7]私は質問しました、「あなたがたからの何かをもっと書きましょうか?」
彼らは言いました、「このことを書け。善い霊や天使を悩まさないかぎり、それぞれの者に、最も不潔なものと呼ぶようなものでも、自分の快さの中にいることが許されていること。しかし、私たちは彼らを悩ますことしかできないので、追い払われ、地獄の中に投げ込まれ、そこの場所で恐ろしいことを受ける」。
私は言いました、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」
彼らは、「〔それと〕異なってできなかった」と答えました。彼らがある天使を見、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、激怒が入り込むようです。
そのとき、私は言いました、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。
それを聞くと、激怒が現われ出て、憎悪の火のように見え、彼らは、危害を加えないように地獄の中に引っ込められました。
霊界の中での、快い香り、そして臭いのような感覚については、前に見られます(303-305, 324番)。
〔終わり〕