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神の摂理 92

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92(6)人間との主の結合と、主との人間の相互の結合は、それらの二つの能力によって行なわれる
主との結合と再生は一つです、なぜなら、だれかがどれだけ主と結合するかによって、それだけ再生するからです。
それゆえ、再生について前に言われていることは、結合についても言われることができ、ここに結合について言われることは、再生について言われることができます。
人間との主の結合があること、また主との人間の相互のものがあることは、主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられています、

わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。……わたしの中にとどまり、またわたしがその中にとどまる者は、その者は多くの実を結びます(15:4, 5)。
その日に、あなたがたは……あなたがたがわたしの中に、またわたしがあなたがたにいる……ことを知ります(14:20)。

[2]だれでも理性だけから、相互のものがないなら、相互に結合したものがないなら、何からのアニムス(外的な心)の結合がないことを見ることができます。
だれかが他の者を愛し、逆に愛されないなら、その時、一人の者が近づき、もう一人の者が去るようなものです。しかし、逆に愛されるなら、その時、一人が近づき、もう一人もまた近づくようなものであり、結合が生じます。
愛は愛されることもまた欲します。このことは愛に植え付けられています。愛し返されれば愛し返されるほど、それだけ本来のものとなり、その快さの中にあります。
これらから、主が人間を愛するだけで、逆に人間により愛されないなら、主は近づくけれども、人間が去ってしまうことが明らかです。このように、主は絶えず人間に会い、彼に入ることを望まれますが、人間自身が後ろに向きを変え、立ち去るのです。
地獄にいる者は、このような者です。しかし、天界にいる者には相互の結合があります。
[3]主は人間との結合を、その救いのために望まれるので、さらにまた人間のもとに相互のものがあるように備えられました。
人間のもとに相互のものがありますが、それは、自由から欲し行なう善が、理性にしたがってその意志することから考え、話す真理が、それらからのように見えることであり、また、それは彼の意志の中の善が、彼の理解力の中の真理が彼のもののように見えることです。それどころか、それらが人間に自分自身からのように、自分のものであり、まったく自分のものであったように見えることです。〔そこに〕何の相違も〔見られ〕ません。だれが〔そのことを〕他のすべての感覚で知覚するかどうか、気づきなさい。
自分自身のものからのようなその外観については前に見られ(74-77番)、彼のもののように自分のものとすることについて見られます(78-81番)――相違は、人間が自分自身から善を行なわず、真理を考えず、〔それらを〕主から行ない、考え、またここから、行なう善、考える真理は、自分のものでない、と認めるべきであることだけです。
何らかの意志の愛から、真理であるからと、このように考えることが結合を生みます。なぜなら、このように人間は主を見、主は人間を見るからです。