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神の摂理 78

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78 (3)どんなものでも人間が自由から自分の思考にしたがって行なうものは、彼に、彼のものであるかのように自分のものとされ、存続する
その理由は、人間のプロプリウムは彼の自由と一つとなっているからです。人間のプロプリウムは彼のいのちのものであり、人間がいのちから行なうことを人間は自由から行ないます。さらに、人間のプロプリウムは彼の愛のものです、なぜなら、愛はそれぞれ者のいのちであり、人間は自分のいのちの愛から行なうことを自由から行なうからです。
人間は思考にしたがって自由から行なうことの理由は、ある者のいのちのものまたは愛のものは、これは考えられ、思考で確信され、確信されるとき、思考にしたがって自由からそれを行なうからです。
[2]なぜなら、何でも人間が行なうものを、意志から理解力によって行ない、そして自由は意志のものであり、思考は理解力のものであるからです。
さらにまた、人間は自由から理性に反して、なおまた自由からでなく、理性にしたがって行動することができます。しかし、これらのことは人間に自分のものとされません。単に彼の口と身体のものであり、彼の霊または心のものではありません。しかし、彼の霊と心のものであるものが、さらにまた口と身体のものになる時、それらは人間に自分のものとされます。
このようであることは、多くのものによって明らかにされることができますが、そのことはこの場ではありません。
[3]人間に自分のものとされることによって、彼のいのちに入り、彼のいのちのものになること、したがって彼のプロプリウム(固有のもの)になることが意味されます。
けれども、人間の何らかのプロプリウムであるのではなく、そのように彼に見えることについては続くものの中で見られます。
ここでは、人間が自由から理性にしたがって行動するすべての善は、考え、意志し、話すこと、行なうことの中に、自分のもののように見えるので、彼に自分のもののように専有されることだけを述べておきます。それにもかかわらず、善は人間のものではなく、人間のもとの主のものです(前の76番に見られます)。
けれども、どのように悪が人間に自分のものとされるかは、その章の中に見られます。