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神の摂理 79

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79 人間が自由から自分の思考にしたがって行なうこともまた残る、と言われます。なぜなら、何であれ人間が自分自身に自分のものとしたものは決して根絶されることができないから、というのは、彼の愛のものと同時に理性のもの、すなわち、彼の意志のものと同時に理解力のもの、またここからいのち(生活)のものとされるからです。
このことは確かに遠ざけられることができます、しかしそれでも、追い出されません。遠ざけられるとき、中心から周辺へのように移され、そこにとどまります――このことが残ることによって意味されます。
[2]例えば――人間が子供時代や青年時代に、ある悪を彼の愛の快さからそれを行なって自分自身に自分のものとしたなら、例えば、だまし、冒涜し、復讐し、淫行したなら、その時、自由から思考にしたがってそれらを行なったので、それらをまた自分自身に自分のものにしたのです。しかし、その後、悔い改めを行ない、それらを避け、それらを退けなければならない罪として眺め、このように自由から理性にしたがってそれらをやめるなら、それらの悪に正反対である善が彼に自分のものとされます。
これらの善はその時、中心を構成し、悪は、それらの反感と離反にしたがって、さらに遠くまたさらに遠くと周辺へ遠ざけられます。
しかしそれでも、それらは吐き出すことができると言われるように追い出されることはできません、それらを遠ざけることによって吐き出されたように見られることもできません。〔このことは〕人間が主により悪から押しとどめられること、善の中に保たれることにより生じます。
すべての遺伝悪が、同様に人間のすべての実際の悪がこのようになります。
[3]私の見た経験によって、このこともまた明らかにされました。天界の中に、主により善の中に保たれているので、自分たちに悪は存在しないと思った者たちがいました。しかし、彼らのプロプリウムであって、その中にいた善を彼らが信じないように、天界から降ろされ、自分自身から悪の中に、しかし主から善の中にいたことを認めるように、自分の悪の中にまで送られ、その認識の後、天界の中に戻されました。
[4]そこで、それらの善は人間に自分のものとされず、人間のもとで相変わらず主のものでしかありません。善が人間に彼のものと見えるように、すなわち、隣人を愛することまたは仁愛を持つことが自分自身からのように人間に見えるように、信じることまたは信仰を持つことが自分からのように、善を行ない、真理を理解すること、このように自分自身からのように賢明であることを、主が与えれば与えるほど、人間はますますこのことを認める、と知りなさい――外観がどんなものであり、どれほど強烈であるか、明らかにされたそれらから見られることができ、人間がその外観の中にいるよう主は望まれます。主はこのことを彼の救いのために望まれます、なぜなら、だれもその外観なしに救われることができないからです。
これらについてもまた、それらは前に示されています(42-45番)。