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神の摂理 76

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76 人間は自分のものであることの外観なしに、だれでもおおわれていない推理力から、何らかのものを知ろうとする情愛の中に、何らかのものを理解しようとする情愛の中にいることができないことを見るか、または理解することができます。なぜなら、すべての快さと快楽は、したがって意志のすべてのものは、愛のものである情愛からであるからです。
彼に何らかの情愛の快楽がないなら、だれが、何かを知ろうとすること、理解しようとすることができますか?彼のもののように見えることに働きかけられないなら、だれがその情愛の快楽を持つことができますか?
彼のものが何もなく、すべてのものが他の者のものであるなら、すなわち、だれかが自分の情愛から他の者の心の中に何かを注ぎ込むなら、その他の者に自分自身からかのような、知ろう、理解しようとする情愛が何もないなら、受け入れますか、それどころか、受け入れることができますか?
獣や丸太ん棒と呼ばれるもののようになりませんか?
ここからはっきりと、たとえ人間の知覚するすべてのものが流入し、ここから考え、知り、知覚にしたがって欲し、行なっても、それでもそれが人間のもののように見えるような主の神的な摂理があることを明らかにすることができます。なぜなら、言われているように、そうでなければ人間は何も受けず、したがって、何らかの知性と知恵を授けられることができないからです。
すべての善と真理は、人間のものでなく、主のものであり、それでも自分のもののように人間に見えることがよく知られています。すべての善と真理はこのように見えるので、さらにまた教会と天界の、したがって愛と知恵のすべてのもの、さらに仁愛と信仰のすべてのものはこのように見え、それでもそれらの何も人間にはありません。
彼にそれらを受けることが自分自身からのように見えないなら、それらを主から受けることはだれにもできません。
これらから、この事柄の真理を明らかにすることができます。何でも人間が自由から行なうものは、あるいは理性的なものあるいは理性的でないものも、単に彼の理性にしたがっているなら、それは彼のもののように見えることです。