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神の摂理 75

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75 人間は異なっていて、彼には自然的な愛の情愛だけでなく、霊的な愛の情愛と天的な愛の情愛もあります。
というのは、著作『神の愛と知恵』第三部の中に示されているように、人間の心は三段階であるから――それゆえ、人間は自然的な知識から霊的な知性の中に、ここから天的な知恵の中に高揚されることができ、そしてこれらの二つのもの、知性と知恵から、主へ目を向け、このようにその方と結合され、そのことによって永遠に生きることができます――しかし、情愛に関するこの高揚は、彼に推理力から理解力の高揚する能力がないなら、そして自主性からそれを意志する能力がないなら、与えられません。
[2]人間はこれらの二つの能力によって自分自身の内部にそれらについて考えることができ、それらを自分自身の外側に自分の感覚で知覚し、そしてまた、下方で考えるものについて上方で考えることができます。というのは、だれもが、「私はこのことを考えた、私はこのことを考える」、さらに「私はこのことを欲した、私はこのことを欲する」、さらにまた「私はこのようであることを理解する」、「私はこのようであるので愛する」などと言うことができるからです。ここから、人間が上の思考からもまた考え、これを自分の下のもののように見ることが明らかです――このことは推理力と自主性から人間にあり、推理力から上方から考えることが、また自主性と情愛から、そのように考えることを欲することができます――なぜなら、彼にこのように考える自主性がないなら、彼に意志はなく、ここから思考もないからです。
[3]その理由で、世とその性質に属するもの以外に何らかのものを、また何が道徳的で霊的な善と真理であるか理解することを欲しない者は、知識から知性へ、まして知恵の中に高揚されることができません、なぜなら、それらの能力を閉じ込めるからです。それゆえ、植え付けられた推理力と自主性から理解することができる以上の人間に自分自身を、欲しても、そしてまた欲することができても、しません。
これら二つの能力から人間に考えることと思考から話すことができます――残りの〔能力〕中で、〔人間は〕人間ではなく、獣であり、ある者は彼らの能力の悪用から獣よりもさらに悪いものとなっています。