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神の摂理 74

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74(2) どんなものでも人間が自由から行なうものは、理性のものであろうとあるいは理性のものでなかろうと、彼の理性にしたがっているかぎり、それは彼のもののように見える
人間に固有のものである推理力と、自主性が何かは、獣と人間の比較による以外に、はっきりと知られることができません。獣には何らかの推理力または理解する能力も、何らかの自主性または自由に意志する能力もないからです。ここから、獣に理解力と意志はありませんが、しかし、理解力の代わりに知識が、意志の代わりに情愛があり、両方とも自然的なものです。
獣にそれらの二つの能力がないので、それゆえ、思考もありません、しかし、思考の代わりに内なる視覚があり、それは対応によって獣の外なる視覚と一つとなっています。
[2]それぞれの情愛は配偶者のように相手を持っています、自然的な愛の情愛は知識を、霊的な愛の情愛は知性を、天的な愛の情愛は知恵を持っています――なぜなら、情愛は、その仲間がいないなら、配偶者でも何でもないような情愛であるからです。エキシステレ(実在)のないエッセ(存在)のようであり、形のない実体のようであり、それらについて何らかのものが属性づけられることができないからです。
ここから、前の多くのもので示されているように、すべての被造物に何らかものが内在し、善と真理の結婚に関係づけられることができます。
獣の中に情愛と知識の結婚があり、そこの情愛は自然的な善に属し、知識は自然的な真理に属します。
[3]さて、獣のもとの情愛と知識は完全に一つとして働くので、その情愛はその知識の上に高揚されることが、知識も情愛の上に高揚されることができません、もし高揚されるなら、両方とも一緒に高揚されます。獣に何らかの霊的な心はないので、その心の中に、またはその光と熱の中に高揚されることはできません。それゆえ、獣に理解する能力または推理力はなく、自由に意志する能力または自主性もなく、自然的な情愛だけがその知識とともにあります。
獣にある自然的な情愛は、自分自身に食物を与え、住む、子孫を産み、危害を避け、退ける情愛であり、それらが必要とするすべての知識です。
獣のいのちの状態はこのようなものであるので、「このことを私は欲する、また欲さない」、「このことを私は知っている、また知らない」とも、まして「このことを私は理解する、このことを愛する」と考えることもできません、しかし、自分の情愛から推理力と自主性のない知識によって駆り立てられます。
このように駆り立てられることは、自然界からではなく、霊界からです。なぜなら、霊界から分離した自然界の中の何らかのものは存在しないからです。結果を引き起こす原因はすべて霊界からです。
この事柄について何らかのものが以下にもまた見られます(96番)。