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神の摂理 73

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73(1)人間に理性と自由、すなわち、推理力と自主性がある、また二つのそれらの能力が主から人間のもとにある
人間には、推理力である理解する能力が、そして理解したことを考え、欲し、話す、行なう能力があり、それは自主性です。また二つのそれらの能力が主から人間のもとにあることは、著作『神の愛と知恵』(264-270番)、また前の43、44番に、扱われています。
しかし、それらの二つのその能力について考えるとき、多くの疑いが生じうるので、私はこの光の中で自由について、人間のもとで理性にしたがって働く何らかのものだけを述べることにします。
[2]しかし、最初に、すべての自由は愛のものであり、これほどに愛と自由は一つであること、愛は人間のいのちであるので、自由もまたそのいのちのすべてのものであることを知らなければなりません。というのは、人間にある快さは、彼の愛からであり、別の場所からの何らかの快さから存在せず、また愛の快さからの行動することは自由から行動することであるからです。なぜなら、快さは川のように人間を導き、その水流にしたがってその快さを自分自身からもたらすからです。
さて、愛には、あるものは一致し、あるものは一致しない多くのものがあるので、自由も同様に多くのものがあるといえます――しかし、全般的に自然的・理性的・霊的な三つの自由が存在します。
[3]自然的な自由は、人間のそれぞれに生まれながらにあります。この自然的な自由から人間は自分自身と世以外に何も愛しません。彼の最初のいのちは他のものではありません。
すべての悪は二つのそれらの悪から存在するようになるので、ここから悪もまた愛のものになり、悪を考えることと意志することは、彼の自然的な自由であり、それらの悪を自分自身のもとで推論によって確信したとき、それらをその理性にしたがって自由から行動する、といえます――このように行なうことは、自主性と呼ばれる能力からです。その悪を確信することは推理力と呼ばれる能力からです。
[4]例えば――
愛から、姦淫し、だまし、冒涜し、復讐することを欲することがあり、人間はその愛の中に生まれています。これらの悪を自分自身のもとに確信し、そのことによってそれらを許されるとする時、それらの愛の快さからそれらを自由にあたかも理性にしたがうかのように考え、意志し、市民の法律で抑制されないかぎり、話し、行ないます。
人間にそのように行動することが許されているのは、自由が、すなわち、彼に自主性があるからであり、これは主の神的な摂理からです。
人間は、遺伝から、それで本性から、この自由の中にいます。この自由の中にいる者は、そのことを自分自身のもとで自分と世の愛の快さから推論によって確信します。
[5]理性的な自由は、名誉または利益のための名声への愛からです。
その愛の快さは外的な形の中で道徳的な人間のように見られることです。またこの名声を愛するので、だまさず、姦淫せず、復讐せず、冒涜しません。このことを自分の理性で行なうので、自分の理性にしたがって自由からも、誠実、公正、貞潔、好意の行動をします。それどころか、理性からそれらのために、うまく話すことができます。
しかし、もし彼の理性的な自由が単に自然的で同時に霊的でないなら、その自由は単に外的なものであって、内的な自由ではありません。なぜなら、内的にそれらの善を愛さないにもかかわらず、すでに述べられたように、単に名声のために外的に愛するからです。それゆえ、行なう善は、本質的に善ではありません。
さらにまた、公共の善のために行なわなければならないと言われることができます。しかし、このことを公共の善の愛からは言わないで、名誉のまたは利益の自分の愛から言います。それゆえ、彼の自由は公共の善の愛から何も、理性も、得ていません、それらが愛に同意するからです――それゆえ、この理性的な愛は内的に自然的な自由です。
この自由もまた主の神的な摂理からそれぞれの者に残されています。
[6]霊的な自由は、永遠のいのちの愛からです。
この愛またその快さの中には、悪を罪であると考え、それゆえ、それを欲せず、同時に主に目を向ける者以外の他の者はやって来ません――人間がこうするとすぐに、彼はその自由の中にいます。なぜなら、だれもさらに内的なまたは上位の彼の愛からであるさらに内的なまたは上位の自由からでないなら、罪であるからと、悪を欲することができず、それゆえ、それを行なうことができないからです。
この自由は最初は自由のように見えません、しかしそれでも、自由です――しかし、その後、見え、その時、自由そのものから善と真理を考え、意志し、話し、行なって、それ自体の理性にしたがって行動します。
この自由は、自然的な自由が減少し、隷属するほど増大し、そしてそれ自体を理性的な自由と結合し、これを清めます。
[7]だれでも永遠のいのち(生活)があることを、いのちの快さと幸福が、永遠のいのちの快さと幸福へと時から時の中で通り抜ける陰のようなものでしかないと考えることを欲するだけで、この自由の中にやって来ることができます。このことを人間は、彼に推理力と自主性があり、可能であるようにと、二つのそれらの能力のもとであられる主が、絶えず与えられるので、欲するなら、考えることができます。