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神の摂理 77

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77 あれやこれやが公共に役立つ善であること、またあれやこれやが公共に有害な悪であることを、推理力と呼ばれる自分の能力から、だれも理解することができませんか?例えば、公正・誠実・結婚の貞潔は公共に役立つものであること、また不正・不誠実・他の者の妻との淫行は公共に有害なものであり、したがって、これらの悪は本質的に害であり、それらの善は本質的に利益であることです。
そこで、ただ欲するだけで、それらを自分の理性で行なうことをだれができませんか?
彼には推理力があり、自主性があります。このために、それらの悪を自分自身のもとで避ければ避けるほど、それだけ彼の推理力と自主性が現われ、見られ、抑制され、知覚することと可能性が与えれます。このことを行なえば行なうほど、友が友のように、それだけそれらの善を眺めます。
[2]これらからその後、推理力と呼ばれる自分の能力から、悪として罪を、善として仁愛の働きを知覚するだけで、霊界の中で善が公共に役立つもの、悪が有害なものである、と結論することができます。
このこともまた人間は単に欲するだけで、自分の理性で行なうことができます、彼に推理力と自主性があるからです。それらの悪を罪として避ければ避けるほど、このことを行なえば行なうほど、それだけ彼の推理力と自主性が現わされ、見られ、抑制され、知覚することと可能性を与えられ、それだけ仁愛の善を、両方の側の愛から隣人を隣人として眺めます。
[3]さて、主は、受容と結合のために、どんなものでも人間は彼に自分のもののように理性にしたがって自由に行ない、このことは理性そのものにしたがっているように見られることを望まれるので、人間は理性から、自分の永遠の幸福であるので意志し、主の神的な力を懇願して、それを行なうことができる、といえます。