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神の摂理 91

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91 けれども、主の〔存在の〕承認によって、またすべての善と真理はその方からであることの承認によって、人間が改心し、再生するようにされることは、わずかな者にしか理解力で見ることができません。なぜなら、「主が全能であられ、すべての者の救いを望まれ、またここから、単に慈悲に向けて〔心を〕動かさせられることができ、望まれるとき、その承認が何を行なうのか?」と考えることができるからです。
しかし、このように考えることは、主からではありません。したがって、理解力の内的な視覚から、すなわち、何らかの照らしからでもありません――それゆえ、何を承認が生み出すか、このことを簡単に述べます。
[2]霊界の中で、そこでは空間は単なる外観であり、知恵は現存を引き起こし、愛は結合を引き起こし、その逆もいえます。
主の認識は知恵から与えられ、愛からも与えられます。
知恵からの主の認識は、本質的に眺められたとき、それは単なる知識であって、教えから与えられます。愛からの主の認識は、それにしたがった生活から与えられます。この生活は結合を与えますが、その教えは現存を与えます――それが、主についての教えを拒否する者が、その方から自分自身を遠ざける理由です。彼らは、生活も拒否するので、その方から自分自身を分離します――しかし、教えを拒否しないけれども、生活を拒否する者は、主の前にいますが、しかし、それでも分離されます――彼らは互いに会話します、しかし、愛し合うことのない友のようであり、彼らの一人はもう一人の者とあたかも友のように話します、しかし、あたかも敵のように憎む二人のようです。
[3]このようであることは、普通の考えからもよく知られています。さらにまた、善く教え、善く生きる者は、救われるけれども、善く教え、悪く生きる者は救われません、さらに、神を認めない者は救われることができません。
これらから、神について信仰から考えて、仁愛から何も行なわない、と言われているような宗教が、どのような宗教であるか明らかです。
それゆえ、主は言われています、

あなたがたは、わたしを主、主と呼びます、そしてわたしが言うことをあなたがたは行ないません、〔これは〕何か?わたしのところに来て、わたしの話しを聞き、それを行なうすべての者は……家を建てる人間に似ています……岩の上に基礎を置きます。しかし、聞いて行なわない者は、基礎のない土の上に家を建てる人間に似ています(ルカ6:46-49)。